2013年11月14日

雪歩「その手」

「雪歩ちゃんは、まだ帰らないの?」

帰り支度を済ませた小鳥さんが尋ねてきた。


「はい。プロデューサーとミーティングがあって」

「そう。いつも夜遅くまで大変ね。
戸締まり、お願いできる?」

「はい」

「じゃあ鍵。それじゃあお疲れさま」

私が返事をして鍵を受け取ると、ひらひらと手を振りながら小鳥さんが外へと出て行った。

ドアの閉まるところを見届けてから、視線を窓の外へと向ける。

思っていた以上に外は暗い。

もう、秋なのかなぁ。

夏の夜の明るさも、徐々に失われてるみたいだった。


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「そういえば最近、プロデューサーに会ってなかったなぁ」

平坦な声が、私しかいない事務所に吸い込まれていく。

時間までまだちょっとあるなぁ。
暇つぶしに携帯を開くとメールが一通。

>すまん。遅れそうだ

何分遅れそう、だとか書いてないときは、待たされるとき。

私は一つ溜息をつくと、プロデューサーの席に腰掛けて思い切りもたれた。

忙しそうだもんね、プロデューサー。

もっとも、その仕事も私のためのもの、ではなくなっちゃったんだけど。

プロデューサーは、三か月前に私の担当を外されていた。

特にまずいことをした、というわけではない。

むしろ、私はプロデューサーと二人三脚で、アイドルとしては悪くないスタートを切っていた。

ところが、その三か月前の社長の言葉によって私たちは引き裂かれることになった。

『一人のアイドルをトップに導く前に、
所属する複数人の研究生をある程度の水準まで押し上げたいと思うのだが、どうだろう。
事務所としても、所属アイドルの底上げを図りたいんだ。
なに、君の手ならさほど時間はかからないだろう。
彼女たちにアイドルとしての素地を叩き込んでくれないか。
その方が経営的にも安定するし、どうかね――』

大体こんな感じの言葉。

社長の言うことはもっともだった。

私はともかく、
万が一、ほかのデビュー済みの子たちが今の地位から転げ落ちたら、
事務所は破滅の一途をたどるかもしれない。

私はその提案に賛成した。

最初は難色を示していたプロデューサーだったけど、
私の後押しもあって、結局オーケーを出した。

「ゴメンな雪歩」

って言って、苦笑いを浮かべたプロデューサーの顔を思い出すと、今でも胸が締め付けられる。

それから私は、与えられたお仕事を基本的にひとりでこなすようになった。

仕事がなくなるような事態にならなかったのは、
社長あたりが事前に根回しでもしていたのだろう。

でも、これでよかったんじゃないかなぁ。

ふとそう思ってしまう時がある。

プロデューサーのおかげでここまで来れたけど、
私はとにかく手間がかかる子だった。

……しかも、ひんそーでちんちくりんだし。

それだけならまだしも、
男の人が苦手な私は、仕事先の人はおろか、
プロデューサーとまともに話すのでさえ、普通では考えられないような時間をかけた。

それでもプロデューサーは、
私のことを気にかけてくれて、なにかと世話を焼いてくれた。

それは、担当を外れている今でも変わらない。

プロデューサーは、毎月の第三水曜日に私とミーティングをしてくれた。

実際はミーティングと称して、
買ってきたお弁当を事務所で食べて、
一か月の活動報告書を私に提出させるだけ、なんだけど。

私はそれがものすごくうれしかった。

でも、同時にそれがプロデューサーの負担になってないか、ものすごく心配だった。

私に時間をとってるせいで、
"ダメダメなプロデューサー"
なんて烙印を周囲から押されてしまったら、たぶん私は二度と立ち直れないと思う。

「だからこれでよかったんだ」

自分に言い聞かせるように、天井を仰いでつぶやいた。

そのまま腕を上げて、お気に入りの腕時計を確認する。

もう事前に言われていた時間だ。

「遅いなぁ」

誰もいないところで待たされてると、つい言葉が漏れちゃう、よね?

それとなしに勢いをつけて、椅子ごとくるりと回転する。

何をして時間をつぶせばいいんだろう。

誰かに電話でもしようかなぁ。

でも、みんなご飯食べてる時間だから無理かも。

堂々巡りをしていると、次第に目が回ってきてそのままデスクに突っ伏してしまった。

……このパソコンの中に、
私の宣材写真が入ったファイルとかあるんだろうな。

だったら、少し恥ずかしいなぁ。

ぐるぐる回る頭の中で、私はようでもないことばかり考えていた。

ダメダメ。このままだと寝ちゃいそう。

せっかくだから、しっかりお化粧しないと。

私はぐるぐる回る世界の中で何とか立ち上がると、バッグの中からポーチを引っ張り出す。

そして、目を覚ますために歌をハミングしながら、鏡の前に移動した。

仕事以外では、あまりお化粧はしないんだけど今日はしっかりやろう。

肌に薄くファンデーションを乗せる。

眼の上にうっすらと影を落として、唇を塗った。

白い肌が余計白く鏡に映る。

仕事先の人たちには褒めてもらえたけど、あの人はどうなのかな?

もともと薄い顔なんだから、もっと濃くした方がいいのかなぁ。

でも失敗した時のリスクを考えると、これでやめた方が無難だよね。

よし、出来上がり。

ポーチをバッグの中に入れて、今度はソファの上でプロデューサーの到着を待った。

息を切らせたプロデューサーが事務所に入ってきたのは、
お化粧を終わらせてから三十分後だった。

「ごめん。待った……よな」

申し訳なさそうに手を合わせるプロデューサーに返事をする。

「大丈夫です。
プロデューサーが急いできてくれたこと、知ってますから」

プロデューサーが安心したように言う。

「そっか。ありがとな」

私は笑顔を作って、しっかりとうなずいた。


「一人で待ってて、退屈だったろ。
今日は取材と撮影一本ずつだっけ」

「はい」

「なんだか売れっ子みたいになってきたよな」

プロデューサーが意地悪っぽく微笑んで続けた。

「じゃあご褒美だ。そんなに遠くないから歩いて行こうか」

ご褒美? なんだろう?

「よし、行くか」

「お弁当じゃないんですかぁ?」

「うん、外食だ。ごちそうしてやる」

ひとまず私は外出用の白い広つばのハットを深くかぶった。

「戸締り、完了っと」

プロデューサーが、わざとらしく指さし確認をして歩き出した。

大したことしてないのに、ごちそうしてもらっていいのかなぁ。

私は不思議に思いながら、階段を下り始めたプロデューサーの後を、ちょこちょことついて行った。


それを見てないはずなのに、プロデューサーは背中を揺らしながら言う。

「なんか雪歩って子犬みたいだよな」

「ええっ? 犬ですかぁ!?」

それだけはない。

断じて、ないよぉ。

……うん、そのはず。

「うん。なんか足音が犬っぽかった」

振り返って笑みを見せるプロデューサー。

変なことを言う人だなぁ。

もっとも、ダメダメな私のプロデューサーになりたい、
なんて言うくらいだから、これくらいじゃないといけないのかも。

――それより前を見て歩かないと、危ないですよ?

私がそう言う前に、プロデューサーは着々と、確実に足を運んでいった。

狭い階段を下りて、プロデューサーの隣に並ぶ。

「まだ暑いけど、なんかすっかり秋だなぁ」

暗めの空を仰いでプロデューサーが言った。

「そうですね」

街行く男の人は夏のままだけど、
女の人の中には秋物を身に着けている人が多い。

よく晴れた夜。

私たちは別々のところを見ながら、同時に秋の訪れを感じていた。

それがなんだかうれしくて、
私は誰にも見えないようにして一人で笑った。

―――

「ここ、なんですか?」

ハットのつばを上げて、首が痛くなっちゃうくらいその高層ビルを見上げる。

「うん、一階のレストラン。
もしかして、最上階の方がよかったか?」

視線を落とすと、高級そうなレストランの看板がすぐそばにあった。

その料金表を見て、私は近頃なかったような、大きく長い悲鳴をあげてしまった。

「なんか、ごめんな」

明るいロビーの中で、申し訳なさそうな顔を浮かべながらプロデューサーが言った。

「わ、私こそ、ごめんなさい……」

私もそれと同じような顔を作る。

その表情を張り付かせたまま歩いていると、すぐレストランの前に着いてしまった。

プロデューサーが少し緊張したような面持ちで言う。

「じゃあ、入るぞ」

思わず呼び止めてしまった。
もちろん、フロアに響かないように小声で。

「まってください。高そうだけど、いいんですか?
それに私、今日は格好もひんそーだし……」

「気にするなって。服もそれで大丈夫」

……気にしないわけがないよぉ。

そう思って私がその場に留まろうとすると、
プロデューサーは私の腕を無理やりつかんだ。

そのままの状態で中へと引きずり込まれる。

ちょっと前だと、こんなのありえなかっただろうなぁ。

不思議と私は冷静だった。

プロデューサーが遠慮がちに店員さんに言う。

「予約のものです。遅れてすみません」

正装をした店員さんは、かすかにほほ笑んで言った。

「お待ちしておりました。どうぞ、こちらです」

案内されたテーブルは、いわゆる半個室みたいなところだった。

そこに到着して、店員さんがいったん下がったところでようやく手を放してもらえた。

「ごめんな。いつも通り弁当買ってきた方がよかったかな」

また申し訳なさそうにプロデューサーが言ったので、思わずうなだれてしまう。

プロデューサーには悪いけど、正直お弁当の方が気楽でよかったかもしれない。

それにメニューを見ても、何が書いてあるのかさっぱりわからなかったし。

メニューとにらめっこしていると、助け舟が出される。

「俺と同じのでいいか」

その船に乗らないわけにはいかないので、勢い良くうなずいた。

「わかった。……あと、ワイン飲んでいい?」

また黙ってうなずく。

普段あまりお酒を飲まない、という話を聞いていたので珍しいなぁと思った。

注文を終えた後、プロデューサーが思い出したように言った。

「そうそう、報告書作ってきてくれた?」

「あ、はい。どうぞ」

プロデューサーは、私に一か月分の活動報告書を作るように指定していた。

その方が手っ取り早いから、だそう。

そして、それを受け取った後に、決まってこう言うのだ。

「何か困ったことはあったか?」

私も、いつもの言葉にちょっとアレンジを加えて返事をする。

「いえ、大丈夫でしたぁ。
……でも、撮影中に犬に懐かれた時は、危なかったです」

プロデューサーはそうか、とだけ言って笑った。

笑い事じゃないのになぁ。

その旨をしっかり伝えても、プロデューサーの目じりは下がったままだった。


私が犬の恐ろしさを一通り語り終えると、プロデューサーが自嘲気味に言う。

「正直これ、ミーティングでもなんでもないよな」

「ただご飯食べてるだけですもんね」

「だって、せっかくなら仕事以外の話の方がしたいだろ?」

そう言った後に一瞬プロデューサーの顔が陰ったのを私は見逃さなかった。

ワインと前菜らしきサラダが届く。

さすがにドリンクにお茶はなかったから、私は水のまま。

それに何を飲んでも、味なんてしないかなあって思ったから。

私がサラダに手を伸ばそうとすると、プロデューサーは勢いよくグラスをあおった。

どうしたのかなぁ。

グラスを乱暴に置いてプロデューサーが言う。

「さっき仕事の話はしないっていったけどさ、ちょっとしてもいいかな」

お酒のせいか、顔が見る見るうちに赤くなっている。

私は腕を伸ばしたまま背筋も伸ばして、大きくうなずいた。

「ありがとう。
俺さ、三か月前から、他の子たちをプロデュースしてたじゃないか。
それで今日、ようやくその子たちの今後の活動のめどが立ったんだ」

私はできるだけ笑顔を作って言う。

「よかったぁ。おめでとうございますぅ」

これでみんなが悲しんだり、事務所が傾いたりするリスクもなくなるんだ。

安心して、私は一つ息をついた。

やっぱりプロデューサーは、私なんかと違ってできる人なんだなぁ。

だからさ、とつぶやいて、プロデューサーがまたグラスをあおる。

その中身は、もうほとんど空。

大丈夫かなぁ?

上気した顔のままで、プロデューサーが言う。

「雪歩、また君をプロデュースさせてくれないか。
前みたいに付きっきりになるのは少し難しいけど、君を中心にやっていきたいと考えてる。
もちろん、社長やみんなの許可は取ってきた。
俺は、最初に選んだ君と、また仕事がしたいんだ」


サラダを運んでいた手が震える。

とりあえず口に入れたけど、何の味も感じられなかった。

本当は今すぐにでも、頭を下げてお願いしたい。

でも、心の中でいつもの自分が顔を出す。

あのダメダメな私。

食器を元の位置に戻して、手を膝の上に置く。

そして、視線をサラダに落として言った。

「ありがとうございます。でも、ごめんなさい」

「……俺じゃダメか?」

「いいえ、ダメなのは私です。
私はプロデューサーに、なにもしてあげられませんから」

「そんなことない」

強めの口調に少し身体を震わせてしまう。

それでも私は、プロデューサーの顔を見れないままだった。

タイミング悪く、メインのよくわからない名前のお肉が運び込まれる。

お皿がテーブルに置かれる音が、
どこか気取ったざわめきの中に溶け込んでいった。

給仕の人の足音が遠のくのを聞いてから、こらきれずに言う。

「私、本当にダメダメなんです。
いつも報告書に書くことも嘘ばっかり。
本当はそんなにうまくいってません。
それに、今日だってインタビュアーが男の人だったから、失敗だらけ。
こんな私より、ほかの子をプロデュースした方が、きっといいと思います」

思いっきり目をつぶった後に、顔を上げる。

油断するとすぐに涙が零れ落ちてしまいそうだ。

「やっぱり、男はだめか」

「はい、あと犬も」

精いっぱいの笑顔を作ってこたえる。

「あ、プロデューサーは別ですよ?
それと、さっきの話、すごくありがたかったです。
でも、ごめんなさい。
あんなに良くしてもらったのに、
私は何も変われてないんです。だから、ごめんなさい」

結局、私はダメダメでひんそーでちんちくりんな女の子のままだった。

もうきっと、これでおしまいだ。

視線を落とすと、手つかずのメインディッシュが揺れていた。

冷めちゃったかな。

もったいないけど、仕方ないよね。

でも、あとでちゃんと食べよう。

今となってはどうでもいい決意をしてから、深く目をつぶって大きく息を吸う。

そして声を震わさないように、吸った空気を全部吐き出すようにして言った。

「でも私、なんだかんだで三か月やって来れました。
だから、プロデューサーがいなくても、なんとかなると思います」

たぶん、決定打。

でも、これでいいんだ。

プロデューサーはできる人だから、すぐ私なんか置いて行って、ほかの子を上手にトップに導くんだろうな。

そのプロデューサーは、腕を組んで黙ったままだった。

そしていったん視線を落とすと、とりなすように笑った。

「わかった。
ひとまずさ、食わないか。
せっかく高いのを頼んだんだ。
このままにしておくともったいないだろ?」

そう言って目の前の少し大きめな手がナイフを持つのを見て、
私も同じようにナイフを持って、お肉を切った。

お肉は柔らかかったけど、やっぱり味は感じられない。

私はただ手を動かして、一定のペースであごを動かし続けるだけの作業を続けた。


その作業を一通り終えると、私は何気なしに外の薄暗い通路を見た。

慌ただしく行き交う案内係や給仕係の人。

そして案内される、ちょっと偉そうなお客さんたち。

あの人たちが私たちを見たらなんて思うのかなぁ。

カップル? それとも兄妹?

どちらも違う。

もう、何でもないただのふたり。

「なあ雪歩」

プロデューサーの声が私を引き戻す。

「な、なんですか?」

思わず声が上ずってしまう。

「さっきの話なんだけどさ――」

思わず身構えてしまった。もう何も起こらないはずなのに。

「プロデュースがダメでも、現場やレッスンについて行くくらいはいいだろ?」

それくらいなら負担にはならないかな。

わずかに首を縦に振る。

「他の子の邪魔にならなければ……ですけど」

「よし。あとそれを見て報告書を書く。俺が。できるだけ、毎日」

ざわめきに溶けるような小さな叫びをあげ、反論する。

「ええっ? それは大変じゃないですかぁ!」

プロデューサーがわずかに残ったワインをすすった。

「仕方ないだろ。雪歩が報告書、ちゃんと書かないんだから」

反論のしようがない。

私は仕方なくうなずいた。

プロデューサーが笑って言う。

「うん。それでなんか悪いところがあれば直すし、ミスがあればフォローするよ」

思わず叫んだ。

「どうして? どうしてそこまでしてくれるんですか?」

――それもこんな私に。

プロデューサーは困ったような顔を一瞬見せたけど、
すぐに笑顔に戻していった。

「他の子たちをプロデュースしてて思ったんだけどさ、
俺が彼女たちに教えてることって、雪歩と仕事したときの内容そのまんまなんだ。
だから、俺がこの三か月やって来れたのも全部、君のおかげ。
でも、そこまでなんだ。
だからさ――」

「また、その先を教えてくれないか。
雪歩がいないとダメみたいなんだ、俺」

目の奥が急速に熱を帯びていく。

もう涙はこらえきれなかった。

どこからこんなに出てくるんだろう。

私はテーブルに肘をついて、服の裾でまぶたを思い切りおさえた。

「また君のプロデューサーになっても、いいかな」

前から聞こえる声に、私はしゃくり上げながら、何度も何度もうなずいた。

―――

「ありがとうございました」

店員さんの声を背に、プロデューサーの後を歩く。

「あの、もしあそこで私が穴を掘りだしていたら、どうするつもりだったんですか?」

プロデューサーが振り向いて言う。

「そうだなぁ……。頭からその穴に落ちてたかな。
あんなところの修理代なんて請求されたら払えるわけがない」

「そうですか。何もしなくてよかったぁ」

私たちは顔を見合わせてふたりで笑った。

どうしようもなくバカでダメダメなふたり。

でも、割と幸せなふたり。

「もう笑った」

そう言ってプロデューサーは前を向き直す。

このままこの人といたら、どうなるんだろう?

明るいロビーで照らされた背中を見ながら思う。

もしかすると、変われるのかも。

変われるのかなぁ。

……だったらいいなぁ。

でも、今日はこのままでもいいよね。

そしたら、明日もきっと幸せ。

「どうしたんだ。おいてくぞ」

気が付くとその背中は、もう扉の前にいた。

慌ててかけていくと、プロデューサーが納得したように笑う。

「うん、やっぱり子犬みたいだ」

違うもん。

そう反論する代わりに、ちょっとだけ舌を出してやった。

「それと、忘れ物」

プロデューサーはそう言うと、どこからか、あのハットを取り出して、私の頭に乗せた。

そして、私の頭のラインをなぞるようにそれをしっかりかぶせると、
その手を頭の上で弾ませて、私の耳元でささやいた。

「目の周り、腫れてるから隠しとけ」

慌ててハットのつばを前に引っ張る。

「プロデューサーのばか」

私がすねたように言うと、プロデューサーは満足げに笑って、扉の取っ手に手をかけた。

外では少し冷たい風が吹いていた。

でも柔らかい、秋の風。

短めに切り揃えられた黒髪を揺らしながら、プロデューサーが言った。

「なぁ、どこかで食べ直さないか? 全然食った気がしないんだ」

私は笑って答える。

「いいですよ。私もです。
でも、もったいないですね」

「ああ。料金や雰囲気はともかく、量まで気取ってるとは思わなかったよ。
しかもワインのせいで、味も覚えちゃいない」

いたずらっぽい笑みを浮かべて、私は言う。

「本当にワインのせい、だけですか?」

「おいおい、あまり意地悪言わないでくれ」

「えへへ。さっきのおかえし、ですよーだ」

私がそう言うと、プロデューサーがきまり悪そうに笑う。

人が行き交う通りの中、街灯の下で私たちは立ち止まったままだった。

その状態のまま、プロデューサーは何かを思いついたように言う。

「そうだ。リスタート記念になにかプレゼントしてやるよ。何がいい?」

どうしようかな。

うーんと低く唸ったあと、一呼吸おいて答える。

「私、塩ラーメンがいいです。今すぐ連れてってください」

「それだけでいいのか?」

プロデューサーは少し不服そうな顔していた。


私はそれを無視して、深くうなずく。

「はい。あと、約束、してください」

「約束?」

「はい」

「わかった」

プロデューサーは、それ以上何も聞かずにその手を差し出した。

本当は中身のない約束。でもたぶん嘘じゃない。

もしかすると、ただそうする理由がほしかっただけだったのかも。

握りこぶしから突き出た小指が、所在無げに上下していた。

大きな小指。

それより一回り小さな私の小指を、その小指に絡みつかせた。

すると大きな小指もそれに応じて軽く握り返してくる。

抜け出そうと思えば抜け出せるような優しい力。

でも、今度は離さないもんね。

私は目いっぱいの力を小指に込めると、その大きな小指を、強く強く握りしめた。
おわり



08:36│萩原雪歩 
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