2013年12月14日

貴音「Herpete」

大木の隙間を縫って、蛇は夜を走った。

濡れた枯葉の上を滑るように疾走する。

ここ数日降り続いた雨は間の悪いことに降り止んでいた。


月明かりと小枝の弾ける音と逃げ出した小動物によって、彼女の白い巨躯は確実に捕捉されていた。

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蛇は追われていた。

「何故! 何故私が!」

どんな大きな獲物だろうと一飲みにしてきた大顎が無様な悲鳴をあげた。

長い長い尾は傷にまみれ、血の痕を大地に色濃く残していく。

傷口から力が抜けつつあるのを蛇は恐怖と共に感じた。

次にあいつに―――あの黒尽くめの僧侶に見つかったならば―――。
大きく身震いしながら蛇は川に飛び込んだ。

泳ぎは達者だ。

底を通れば後をつけてくるのは難しくなるだろう。

川上に行き巣穴で力が戻るまでじっとせねばなるまいて。

……屈辱だ。

と、蛇が大きくうねりだすに合わせて錫杖が凛と鳴った。

音にあわせ川面が揺らぎ―――爆発した。

「ぐぁああああああああぁああああ!!」

膨らんだ水が濁流となって大蛇を押し潰す。

無数の泡が生まれ視界が白く染まる。

蛇は岩にぶつかりながら流木のように浮きつ沈みつ流されていった。
托鉢笠をかぶった僧が一人。

跳ね上がった水は大粒となって彼にも降り注いだが、委細構わずといった風情で佇立していた。

黒衣の裾から伸びた手が笠を持ち上げ、細く鋭い目は夜闇に流れる河川を追った。

流れは一町ほどで途絶えている。

怜悧そうな額にわずかにしわが走った。

耳を澄ませば轟々と滝の音が聞こえた。
―――――――――

私は只々呆然としていました。

大勢の人間が窮屈そうな出で立ちで、足早に歩き回っています。

見たこともないほどの車が列を成し毒を吐き出します。

そびえ立つ石造りの建物は、密集していて息が詰まりそうでした。

軽く眩暈を覚えて、私も足早になって場所を変えました。

もしかしたら彼らもまた同じように息の詰まる思いをしているのかもしれません。
水の音に引かれて貧弱ながらも木々の生えた土地を見つけました。

中央にある水溜りを縁取った石に座りますとため息が漏れてしまいました。

「はぁ……、これからどうすればよいのでしょうか……」

後ろ手についたまま肩越しに水面を覗き込めば、妙齢の女性が映っていました。

艶のある美しい銀髪は腰まで伸びて緩やかに曲線を描き、張り詰めた肉体は十二分に称嘆足りうるでしょう。


しかし形の良い眉はなんとも情けなく寄っています。

「なにぶん最後に人里に降りてから随分と時が流れましたゆえ……」

そのころはまだ木と石で出来た素朴な家が多く、車も一日に一度見るか、という程度だったのですが。
私は手ごろな石を拾って握り締めました。

半分ほど力を込めると石に亀裂が入りました。


……空腹のせいなのです。

それに特殊な法具で痛めつけられたせいか、変身をするだけでだいぶ力を使ってしまいました。


人間は恐ろしい生き物です。

遊び半分で他者を傷つけ平気で殺します。

天を汚し大地を削り河を埋めます。

私はこの恐ろしい化け物の中で上手く隠れて力を戻さねばなりません。

故郷の山河を想いため息をつきました。
「どうしたのかね?何かお困りのようだが」

「……私でしょうか?」

初老の紳士が話しかけてきました。


「うむ、良かったら話してみないかね? 
 若いうちはすべてを己の力で成し遂げられると過信しがちなものだ。
 だが相談すると解決には至らなくとも気分が晴れるものだよ」

「ありがたいお申し出ですが……」

『人』には相談できないのです。


心中で呟くのと腹の虫が鳴くのはほぼ同時でした。

羞恥心はありませんでしたがとっさに顔を伏せました。

若い女はこうするものだと知っているからです。
「ふむ……。お嬢さんよろしければお食事でもどうかね?
 こんな年寄りが相手は退屈させてしまうかもしれないがね」

はしたなくも下を向いたまま舌なめずりをしてしまいました。



私は先ほどから強い匂いを放つ店を選びました。

驚いたような顔をされていましたが、特に不満はないようで連れ立って暖簾をくぐります。

「へいらっしゃい!」

頭に布巾をまいた若衆が威勢よく挨拶をします。

案内された席に着くと「ご注文は!?」とこれまた大きな声で問われました。


めにうなるものを見て私は「あぁこれは蕎麦の親戚かなにかなのだ」と思いました。

「何でも好きなものを頼みなさい」と紳士は好々爺とした表情ですすめてきます。
「では……」

私はめにうの端を指差し

「はい豚骨ラーメンですね!」

そのまま指を反対側の端まで滑らせました。

「ここからここまでを3杯ずつお願いします」


お二人とも絶句されてしまいました。

これでも抑えたほうなのですが……。
「私は高木と言う。しがないアイドル事務所で社長をしている」

私の食べっぷりに初めは驚き、やがて眼を細めながら見守っていた高木様は自己紹介をしました。


恩人に先に名乗らせた不徳を恥じ、私は立ち上がって頭を下げて名乗ります。

「四条貴音と申します。この恩義は父祖の名にかけて必ずお返ししたいと」

「ふふふ、まだ若いのにしっかりしておるね。よほど親御さんの薫陶が行き届いているようだ」

「恐縮でございます」

幾分砕けた調子で高木様は身の上話を始められました。


曰く、高木様は婦女子をアイドルなる舞妓のようなものを扱っているそうです。

「それでだね、君を見た瞬間ティン! と来たわけだよ」

「はぁ……」

熱っぽく話される高木様は随分と若々しく見えました。
「もし、もしよかったらウチに来てみないかね」

高木様には一飯の恩義があります。

力を回復するためにねぐらも要りましょう。

渡りに船です。断る理由はありませんでした。


「不束ゆえ行き届かぬところもありますが宜しくお願いいたします」

深々と頭を下げました。

四条貴音がアイドル候補生になった瞬間でした。
765プロの事務所を見て私は―――高木様風に言うならば―――ティン! ときました。

事務所の地下を走る水脈は複雑に絡み合い、龍穴となって気に満ちておりました。

ここを拠点とすれば失った力が戻るのもそう長くはかからないでしょう。

私は脂ぎった唇をペロリと舐めながら思いました。
ともあれまずはアイドルです。

私に舞妓としての素養があるとはとても思えませんが、高木様のご期待に添えられるよう精進せねばなりますまい。

ガラスの入った扉を開くと、少々薹(とう)の立った女性が出迎えてくれました。

「お帰りなさい社長。あれ?そちらのお嬢さんは?」


お嬢さんと呼ばれて心中で苦笑しました。

私から見れば彼女は赤子も同然なのですが、人の世は先達を重んじるといいます。


曖昧ながらも知る限りの作法で挨拶をしました。

「四条貴音と申します。高木様には並々ならぬ恩義を受けまして、
 我ながら無恥なものだと思いますが、その縁故でこちらにお世話になることとなりました。
 不束者ですがなにとぞお許しくださいますよう申し上げます」

「あ、あはは……」


はて、もしや不作法が……?

私は頭を下げたまま、隠したはずの尾がふるりと揺れたのを感じました。
「どうかお許しを……」

「え? あ? へ? は、ははー!」

女性はなぜか土下座をもって返答されました。

郷里であればこれは服従と同義なのですが、ここは人の世。

これが正しい姿やも知れません。


私も土下座をしようと膝を―――

「音無くん、それはさすがに間違えすぎではないかね?」

高木様から訂正が入りました。
小鳥嬢は失礼ながら粗忽なお人のようです。

しかしながらとても温かい人柄で、私はこの765プロを非常に気に入ってしまいました。


「あはは……。は、恥ずかしいところ見せちゃったわね。よろしくね貴音ちゃん」

「はい、よろしくお願いいたします」

言葉遣いが少々古めかしいとのことでしたので極力崩していくとしましょう。


「それで私は何をすればよろしいので?」

身売りされるわけではないとのことですが。

「あ、そうねぇ……。じゃあまずはこの履歴書を書いてもらえるかしら?」

差し出されたのは直線で細かく区切られた紙でした。

小鳥嬢の指導を受けながら風変わりな鉛筆―――ぼぉるぺんと言うそうです―――を使い欄を埋めました。


「学歴……?」

手が鼠のようにぱったりと止まりました。
「貴音ちゃんは学校どうしてるの?」

「お恥ずかしながら私には学が欠けておりまして……」


人に化けるためには人の事を知らなければなりません。

容姿、言葉、文字、文化、風俗、建築、歴史……。

父上から手ほどきを受けて参りましたが、学府へはさすがに通えませんでした。


「もしや学歴がないとアイドルにはなれないのでしょうか……?」

一抹の不安を覚えました。

アイドルにはなんの執着もございませんが、それでは高木様に恩返しが出来ません……。
「え? あら、そんなことないわよ、ふふ。この世界は実力社会だからたいした問題じゃないわ。
 それに貴音ちゃんならすぐに人気者になれるわよ。」

「そう……でしょうか?」

「ええ。貴音ちゃんは、私の見たところとても素敵なものを持っているし」

「? それは?」


私にできる事といえば化ける事といくつかの妖術程度です。

自分に素養があるとは到底信じきれず、小鳥嬢を見やると母上のことを思い出しました。

とても優しい目をしていたからです。
「とってもいい子だから。
 まだ会ってほんの短い時間だけど、貴音ちゃんを応援したいなって、そう思わせる何かがあなたにはあるの」

驚きながら首を振ると銀色の髪がうなじをくすぐりました。

「買い被りです。私はそのような……」

「もう、素直じゃないなぁ。うふふ、お姉さんの言う事を信用しなさい」


何故これほどまでに私を評価していただけるのかわかりませんでした。

わかりませんでしたが、不思議とそれは温かく、山の洞で独り寝そべっているように落ち着く事ができました。



学歴の欄は小鳥嬢に言われた通り、『家庭の事情により無し』と書き込んで手渡すと

「765プロへようこそ!」

歌うように歓迎されました。
「当分はレッスンだけになると思うけど頑張ってね。今日はいないけど他の子もみんないい子だし、
 その子達を担当してくれてるプロデューサーさんともきっと仲良くなれるわ。もしなにか困ったり
 わからない事があったら相談してね」

「ありがとうございます」

感謝の念を禁じえず再度頭を下げました。


と、高木様が面妖な面持ちで近づいてきました。

「音無くん、ちょっといいかね? 少し伝えたい事がある」

声音は硬く緊迫した様子が窺えました。

「あ、はい、どうされたんですか?」


高木様は私を気にしながら

「社長室に来てくれるかね。四条君、すまないが待っててくれるかな?」

「はい、構いませんが……」

高木様はそれ以上何も言わないまま簡単に仕切られた角部屋に戻られました。

「どうしたのかしら、社長があんなに真面目な顔してるなんて」

小鳥嬢も不審な気配を感じたのか、椅子から立ち上がると首をかしげながら向かわれました。
扉が閉まるのを見て私は床に耳をつけました。

『脅迫ですか!?』

少々くぐもっていますがハッキリと聞き分けられます。

『声が大きいよ音無くん』

『す、すいません。でも……本当なんですか?』

『うむ……。信じられない事だがこんな弱小プロダクションを強請ろうという酔狂なものがいるようだ』

『脅迫材料はなんなんですか? うちはそんな脅されるようなことはしてないです』

『当然だよ。だが何事も穿って見れば材料などいくらでも出てくるものだ。
 ……これなんだが、どう見えるかね?』

『これは……、こんなのでっち上げですよ! ありえません!』

『世間がどう見るかが問題なのだ。猶予期間はごく短い。早めに決断せねばなるまい』

『………………』
「ふむ……」

どうやらこれは私向けの仕事のようです。

膝を払いながら立ち上がり、するすると音も無く事務所を出ました。



古来より外道のやり口はあまり変わらないようです。

私がビルの外に出ると強い意志を持った視線を感じました。


集中。


立ち止まり目をつぶると向かいの建物、その屋上だとわかりました。

お二人のやり取りを観察しながら嘲笑っていたのでしょう。

心が冷たく燃えました。


通りに沿って見えなくなるまで進みます。

廃棄ガスのせいで鼻は利きませんが、一度定めたエサは意識から逃しません。

白い縞模様の道路の上を通り反対側に渡ると、獲物の巣食うビルへ静かに歩み寄りました。
胡乱な目で私を見やる受付は凝視で硬直させました。

階段を一つ一つ登ると、獲物の呼吸が聞こえ始めます。


「……いい子ですね」

逃げずにいてくれて。


私は二股の舌をチロチロと動かしながら呟きました。
「お待ちなさい」

無言で横をすり抜けようとした男に声をかけました。

腕を掴んで逃げないように。


「すべてを話していただけますか?」

「……なんのことです?」

平べったい帽子を目深に直しながら男は言いました。


「765プロを脅迫している件です」

「なにを言っているのかわからないんですけど」

感心するほどにふてぶてしい演技でした。
ですが何かをかばう様な仕草に気がついた私は、左腕を躍らせて懐中から茶封筒を抜き取りました。


「ちっ!」

強引に腕を抜き取ると、粗暴な動作で男は襲い掛かってきました。


「ふふっ」

ひどく緩慢な動作に抑えきれず失笑が漏れてしまいました。


腕を伸ばしました。
男の拳は頭を少しずらしただけで回避します。


頭を掴みました。
男の目が驚愕に見開きます。


そのまま壁に押さえつけますと、苦悶の声が冷たい踊り場に心地よく響きました。
「ぐぁぁぁぁぁ……」

キリキリと力を込めると愉悦に笑みが歪みます。

赤一色で染まった蛇の笑いでした。


大きく開いた口は獲物を丸ごと飲み込むためにあります。

強い本能が私を支配しました。

こめかみからこぼれる血の匂いにあやかろうと、文字通りに首を伸ばして嗅ぎ取ると

「うぐ……」

不快な刺激に鼻が痛みました。


迂闊でした。

排気ガスに麻痺した鼻は、この嫌な臭いを直前まで察する事が出来なかったようです。

「あ、ぁ、ぁ……」

呼吸が途切れがちです。

諦めて力を緩めると、壁にもたれたままズルズルと座り込んでしまいました。
顎先を指で持ち上げ目を合わせると焦点が合っていません。

「仕方ありませんね……」

門脈を通じて気穴を開き、暗示をしかけます。

瞳の中に黒目が点ほどしかない私が映りました。


「私の質問に正直に答えるのですよ?」

「ハ イ」

「この件はあなた以外の人間が関与しているのですか?」

「イ イ エ」

「そうですか……。それならば今後765プロに手を出してはなりません」

「ハ イ」

「目が覚めたなら『手を引く』と高木様にお伝えなさい」

「ハ イ」

「もし、また悪しき事を考えているようでしたら」

バックリと顎を開き見せ付けるようにして告げました。


「丸呑みにして差し上げますので」

「ハ    イ」

強力な暗示には恐怖が必要なのです。
実はこの術はあまり得意ではなく、不確かな物なのですが、今回は成功したようです。

男は催眠下にありながら怯えて震えました。


「では全ては夢の中。お忘れなさい」

決まり文句で呪言を終まうと男は気絶しました。


茶封筒の中身は見る気にもなりません。

固く絞って握り締めると、米粒ほどの大きさになりました。
受付嬢の支配を解いて、寝惚けた眼に問いかけます

「申し訳ありません。765プロというのはこちらでしょうか?」

「あ、あれ?」

夢か現かといった様子で、慌てながらも案内をしていただけました。



事務所はすでに古巣といった様相でひどく安心します。

ソファーの一番具合のよろしいところへ尻を落とし抜け殻のような我が身をいたわりました。

小鳥嬢に入れていただいた緑茶はふんわりと良い香りです。

やはりここは良き場所のようでした。

得心しながら一人頷いていると

「音無くん、またすまんが……」

高木様が先ほどとは違い、怪訝な表情で小鳥嬢を呼ばれました。


「はい」

今度は聞かずとも内容はわかります。

案の定数分で小鳥嬢は、高木様と同じ怪訝な顔つきで戻られました。
「変なこともあるのねぇ……」

聞こえないふりで流しました。

それよりも重要な話があるからです。

「小鳥嬢、聞きたいことがあるのですが」

「なにかしら? 他の子の話?」

「いえ、……あぁでも、そうですね。関係があります」


進退に関わる話なのです。

私の真剣な口ぶりに小鳥嬢も身を正しました。

「うん。なに?」

「こちらの事務所に煙草を呑む方はおられますでしょうか?」







第一話 了
ひとまずここまでとなります。
恥ずかしながら敬語が怪しくて非常に困りました。

おかしなところがありましたら指摘していただけると助かります。
ありがとうございます

一応、週一回以上を目安に一話ずつ投下していく予定です

あと気がついた方もいるかもしれませんが、とある作品をオマージュしています
次回投下時にオマージュした作品を発表しますので、よろしければ予想して遊んでみてください

現在の進捗率は20%弱です
暗く乾いた石室はひんやりとしていました。

蝉の鳴き声に薄く目を開きます。

幾重にも重なった歌が、周囲の温度を上げているように感じました。

彼らにはなんの罪もありませんが、少しだけ、うんざりとしました。



765ビルの地下には廃棄された貯水室があり、私はそこで寝そべっておりました。

「今日も暑くなりそうですね……」

呟きは石に染みこんで輪唱に溶けました。
765プロに所属する面々はどの方も情が深く、手厚く歓迎してくれました。

それとは間逆に日一日と厳しくなる酷暑は、山と違いひどく辛くまるで拒絶しているようです。


長く伸びた尾を巻きつけると薄暗い部屋で白い鱗がわずかな光を反射しました。

この半月ほどで、傷のほうはだいぶ回復してきました。

力のほうはまだ一割も戻っておりませんが、当座はこれで十分でしょう。

それよりもあの黒僧に見つからないように注意せねばなりません。

私は自戒を込めて身を縮めると、化身しました。

鱗は衣服に、身は人の姿に、余った尾は髪に変わりました。

周囲に人のいない事を確かめると、赤錆でボロボロになった梯子に手をかけました。
管理用のまんほぉるから外に出ると眩暈がしました。

「うう……」

あまりにもひどい。

むせ返るような湿気は陽炎となって揺らいでいます。

遮る物のない太陽は全身を沸騰させようと躍起になっているようです。

強い排気ガスの臭いが嗅覚を押さえ込み、あちこちから聞こえる車の罵声が聴覚を麻痺させました。


あぁ、やはりここは私のいるべき場所ではないのです。

産まれた土を恋しく想い嘆いてしまいました。
ずるずると身を引きずりながらエレベーターを使おうと手を伸ばすと、
「あ、待って待って!」と感心するほど元気な声で少女が駆け込んできました。

「おはようございます。春香殿」

「おはよう貴音さん! いやー、今日も暑くて参っちゃうね」


とても参ってるようには見えませんでした。

その事を率直に伝えると、健康的な汗をハンカチで拭きながら
「貴音さんって暑いの苦手なんですか?」と質問されました。


「えぇ、私は暑いのも寒いのも苦手でして」

どちらも過ぎれば身動きが取れなくなります。

「あははは、それは皆そうですよ〜」

「ふふ、ですね」

汗一つかかずに……、いえ、汗一つかけずに私は笑いました。
事務所の中は氷室のように涼しく、春香殿と二人で同時に息をつきました。

えあこん、と言うそうです。

瞠目すべきは人間の科学で、彼らは夏の暑さをも捻じ伏せてしまいました。

しかし強い力は弊害も大きいらしく、手放しで賞賛するわけには参りません。

えあこんの恩恵を受けながら、荒れ果てた山々を思い複雑な気持ちで白板の前に立ちました。


私にはまだアイドルとして足りぬものが山積しており、修練の日々が続いております。

「本日の予定は……」

動かぬものに対しては極端に視力が落ちるために、顔を近づけて予定を確認いたしますと

【貴音→休み】

おや?
「おはよう貴音ちゃん。……近眼なの?」

「おや、おはようございます。小鳥嬢。えぇ、あまり良いとは言えません」

不自然でない程度に驚いてから挨拶をしました。

これも処世術です。


「本日は欠課……、いえ”おふ”でよろしいのですか?」

安閑としていられる身分ではないのですが。

なにしろ歌と踊りを手解きしていただき、月謝を支払うどころか食事を振舞っていただく事もあるほどです。

この猛暑と外の空気は劣悪でしたが、それ以外は萎縮してしまうほど恵まれておりました。


「えぇ、なんでもレッスンルームの空調がダメになっちゃったとかで。
 ほら最近よくニュースになってるでしょ? 熱中症にでもなったら大変だから」

「なるほど……」

確かに、安穏と寛いでいいような身ではありません。

ありませんが、熱気のこもる部屋で体を激しく動かすのは、想像するだけで息苦しくなりました。

ここは英気を養うためにもお言葉に甘える事にしましょう。
しかしそうとなると、何をすればいいのかわからず困惑してしまいました。

山ではこういうとき川で涼んだり木に巻きついたりしておりましたが、人の姿では時間を持て余してしまいます。

それに―――堕落したようで気恥ずかしいのですが―――
暑気で満ちあふれた表に出るのはまったくもって気が進みませんでした。

「では日が落ちるまで涼んでいてもよろしいでしょうか?」

小鳥嬢に伺うと、「いいわよー」と二つ返事で了承していただけました。
ソファーに座り眼を閉じていますと、鈴の音のような声が聞こえました。

「おはようございます四条さん。お茶が入りましたよ」

白いワンピースに栗色の髪が涼しげな少女―――萩原雪歩殿がお盆を持って微笑みながら歩み寄ってきました。


「おはようございます。ありがとう、いただきます」

氷の浮いた液体は透き通るような緑色で、見ているだけでも楽しめました。

ひんやりとして優しい香りはなんとも趣があります。


「けっこうなお手前で」

「そ、そうですかぁ?」

「ええ。茶屋で出るものと比べてもなんの遜色もありません」

欲を言えば常温のほうがありがたいのですが、そこまでは申しません。
「私、これくらいしか取り柄がありませんから……」

「雪歩殿……?」

謙遜しすぎるのは彼女の悪癖ですが、うつむきがちな表情は卑下の色が濃く出ていました。

なにやら失態でも犯したのでしょうか?


「どうかされたのですか?」

「な、なんでもないですぅ!」

パタパタと軽い足音を立てて給湯室に戻ってしまわれました。

見送りながら冷茶を、ずずずず……と啜りました。

美味しゅうございます。
ぼんやりと蝉の声に耳を傾けて座っておりますと、一人、また一人と減っていきました。

私と同様にれっすんをするはずだった者は連絡を受けているのか初めから来ておりません。

萩原雪歩殿を除いては。


「ふぅ…………」

背を丸めて溜め息をつく姿は普段よりもずっと小さく見えました。

手の内に収めたグラスをじっと見つめてなんとも所在なさげです。


「あ、お代わりですか?」

私の視線に気がつくと腰を浮かせながら聞いてきました。

「いえ、大丈夫ですよ」

「そうですか……」

残念そうな顔でストンと腰を落とします。

儚げな顔立ちには気落ちした様子がありありと出ていました。
「……なにかあったのですか?」

「…………」

この沈黙は肯定と同義でしょう。

しかしそれ以上のことは読み取れません。


「無理にとは言いませんが……」

「私……、やっぱりこのお仕事向いてないのかなって……」

「…………」

「昨日もまたやっちゃって……、沢山の人に迷惑をかけて……」

「辞めたい、という事ですか?」


身売りされたわけでもありませんし、向いていないというのなら新しい道を探すのもいいでしょう。
「そ、そういう訳じゃないですぅ……」

「ならば精進されなさい。失態を憂いているだけではなにも変わりませんよ」

「うぅ……」


茶菓子は煎餅です。

パリパリとした歯ごたえは手が止まらなくなります。

5枚6枚と食べていると喉が渇いてきました。


「申し訳ありませんがやはりお代わりを……」

グラスを片手に顔を上げるとそこには誰もいません。

小さくなった氷がカラカラと音を立てて、まるで笑っているようでした。
真夏の日はしつこく粘り部屋を橙色に塗り替えてきます。

夕方になっても鳴き続けている蝉は朝と同じ蝉なのでしょうか。

仕切りの影に隠れながらそんなことを思いました。


「はい、765プロです。いつもお世話になっています、いえとんでもない」

小鳥嬢は電話をしながら頭を下げたり、口元に手を当てながら笑っています。

癖なのだそうで、おかげでしばらくの間、当今の電話は姿が見えるものだと勘違いしていました。


「え? いえ随分前に帰りましたが……。ええ、はい」

見る間に顔つきが険しくなってしまいました。

「少々お待ちください」

送話口を押さえながら小鳥嬢が口早に尋ねてまいりました。

「貴音ちゃん、雪歩ちゃんがどうしたか知らない? 家に帰ってないらしいんだけど……」

無言で首を振りますと、小鳥嬢は焦燥も露に通話を続けました。
受話器を置きますと、すぐにまたどこかへ掛けなおしています。

「あ、プロデューサーさんですか? 私です、音無です。雪歩ちゃんがまだ家に帰っていないそうで……」

なにがあったという訳でもなし、何故ここまで心配しているのでしょうか。

私はそれがとても不思議に思えました。


「ふぅ……」

溜息をついた小鳥嬢に問いかけます。

「彼女も自立してしかるべき年齢だとは思いますが、なぜそこまで案じておられるのですか?」

とてもおかしなことを聞いたと言わんばかりにきょとんとされてしまいました。

「そうねぇ……。貴音ちゃんはそういうところしっかりしているけど、そうでもない人もいるってことかな」

「ふむ……」
「雪歩ちゃんはね、なんて言うか支えてあげたくなるところがあるの。
 強い自分になりたくて、弱い自分を変えたいって頑張ってるから応援したくなっちゃうのよね」


意外です。

弱音ばかり吐いている彼女にそのような一面があるとは。

にわかには信じられませんでしたが、小鳥嬢の慧眼ならば間違いはないのでしょう。


「でも……、どうしましょう。プロデューサーさんもすぐには来られないって言うし……」

形の良い爪を噛みながら小鳥嬢がうめきました。

「ならば私が探してまいりましょう」

強い西日に目を細めながら、私は立ち上がって言いました。


取り立てて理由はありません。

強いて言うならば、765プロへの恩義です。
とは言ったものの、この広い街で人一人を見つけるのは言うほど容易くはありません。

父上ならば眼を使ったでしょうし、母上ならば眷属を使役して探したでしょうが、
まだまだ修行中である私には地道に探すしかありません。

なるべく日陰を通りながら気配を探りますが、これと言って何も感じませんでした。


彼女の好みそうな茶屋や公園に足を踏み入れますが、害の無さそうな学徒がたむろしているだけでした。

考えてみれば私は彼女の事をほとんど何も知りません。

知っている事といえば、お茶を入れるのが上手で、気が弱く、男性が苦手という事だけです。



どうしたものかと、立ちすくんでぼんやりとしておりますと、昼間の会話をふと思い出しました。


『私……、やっぱりこのお仕事向いてないのかなって……』

『昨日もまたやっちゃって……、沢山の人に迷惑をかけて……』

『ならば精進されなさい。失態を憂いているだけではなにも変わりませんよ』

『うぅ……』



公園を足早に抜けるとはっきりと目的を定めて歩き出しました。

私は彼女がただ弱音を吐いているだけと思い込んでいましたが、もし彼女が小鳥嬢の言う通りの人物ならば……。
れっすんるぅむには人の気配がありませんでした。

それなのに扉は施錠されておりません。

私は一抹の不安を感じながら扉を開きました。


「……!」

糸が切れた人形のように四肢を投げ出して倒れていました。

一歩踏み入りますと熱せられた空気は、外と比較にならないほどの温度で悪意すら感じました。


「萩原雪歩!」

名を呼んでもピクリとも反応しません。

口元を腕で覆って近寄ろうとすると、即座に体温が上昇し始めたのを感じました。

長くいては私も無事ではすまないでしょう。

髪を広げて影を作り日差しを防ぎます。
抱きかかえると一目で危険な状態だとわかりました。

顔面が蒼白に、息は細く途切れがちでした、

額に手を当てると信じられないほど熱く、指先が細かく痙攣しておりました。



一刻の猶予もありません。

私は彼女の顎に手をかけて開かせると、桜色の唇に吸い付きました。

小さな舌に二股の私のそれを絡ませて呼吸を整え精気を送り込みます。

全身からかき集めた力を注意しながらゆっくりと注ぎ込みました。

一時に流し込んでしまうと、耐え切れずに彼女の器が壊れてしまうからです。



柔らかく湿った舌を力づけるように支えておりますと、長いまつ毛が頬をくすぐりました。

静かに離れますと細く糸が伸びました。

素早く舌で巻き取ると、ゆっくりと瞼が開き始めたのが見えました。
「うぅん……」

「起きなさい、萩原雪歩殿。こんなところで寝ていたら体を悪くしますよ?」

「あ、あれ? あれ?」

身を起こした彼女は多少混乱しているようですが、気分が悪かったりはしないようです。


慌てながら立ち上がると

「はわわっ! し、四条さん!?」

「はい、四条貴音でございます」


うだるような熱気に眩暈を感じながら、間の抜けたやり取りを微笑ましく思いました。
すっかり日が落ちたというに、散在する街灯が夜を薄くしています。


「怒られちゃいましたぁ……」

携帯電話をたたみながら嘆息する雪歩殿はすっかりといつも通りです

ヒグラシの切なげな声を聞きながら二人並んで歩いておりました。

横を見れば、うつむき加減にとぼりとぼりと叱られた童女のようです。


段々と歩みは遅くなり、ついにはピタリと止まってしまいました。

「す、すいませんでしたぁ……」

「……なんのことでしょうか?」

震える声は彼女の小さな勇気を示しているようで、優しい気持ちになります。
「あの……、また迷惑をかけちゃって……」

ですが、勘違いは正さねばなりません。

「違いますよ。雪歩殿」

「え……?」

「どうやら謝らなければならないのは私のようです」


彼女にしっかりと向き合うと頭を下げました。

「私はあなたを軽んじていたようです。お許しください」

「え? え?」

「私はあなたが弱い人間だと思っていました。
 ……困難があればすぐに弱音を吐いて逃げ出す、そう言った類の人だと。
 しかしあなたは弱い自分を認めて、諦めずに己を高めようとしています」

「そ、そんな……」

ひどく狼狽しながら手を振ると本当に子供のようで、くすりと笑んでしまいました。
「謙遜も過ぎれば厭味となりますよ?」

「す、すいません……」

「いえ、そこもあなたらしいと言うべきでしょうか。
 ……私はその人の本質は、誰も見ていない時にこそ現れるものだと思っています。
 孤独で、一人のとき。その時間をどう過ごすか。
 誰も見ていずとも努力を怠らない、そんなあなただからこそ皆に愛されるのでしょう。
 小鳥嬢もおっしゃってましたよ?」
 
「あ、愛!?」

「好ましいという事ですよ」

「は、はい……」

「私も見習わなければなりませんね。
 あなたを見ていると自堕落に過ぎて恥ずかしくなってしまいました」
「…………」

「ですがこれだけは言わせていただきます。
 幼木が大樹になるには時間が必要なのです。
 ……焦らずともいずれ立派に茂るのですから、無理はしないよう自愛なさい」

「はい……」

「ふふ、余計なお世話でしたでしょうか?」

「いえ! そんなことはないです!」

「それは良かった。……次にれっすんに行かれる時は私にも声をかけてくださいましね? 雪歩」

「は、はひ! ……ほぇ? いま雪歩って……」

「いけませんでしたでしょうか……?」


気安過ぎたでしょうか。

心の距離感は獲物を狙うよりも繊細で読み辛いのです。
「いえ! いいえ! 嬉しいです!」

「それはよかった……」

ほっと息をついて手を出しました。


「今後ともよろしくお願いします」

差し出した手は柔らかく包まれ、上下にゆらゆらと揺れました。

「よ、よろしくお願いします……。た、た、貴音さん」

「はい」


風が涼しく夜気を運び、銀髪が虫の音にまみれました。

見上げれば半月が滲んでおります。

握った手はそのままに、明るい夜を連れ立って帰りました。





おしまい
今回はここまでです

呼称の指摘があったので、急遽エピソードを一個追加してみました



元ネタはアリスソフトの伝奇ビジュアルノベルで『アトラク=ナクア』です

特に音楽がカッチョイイので一度聞いてみてください

http://www.youtube.com/watch?v=_MnLgQLzBEU
呼称に関してはわざとやってます

蛇であるところの貴音の、人間に対する認識が徐々に変わっていく様を描写したつもりでした……

20:30│四条貴音 
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