2013年12月31日

モバP「なにげなくなやむしゃちょうのいちにち」

それは、いつからだっただろうか。

思い直すと…私が社会人になった頃からだろうか。
少しずつ、けれど、確実に…大切なものを失っていった。


人に必ずあるべきもの。今、私はそれを…取り戻そうとしている。

最初は特に、気にもしていなかった。
まだ、若い。まだ、そんな歳ではない。
そう自分に言い聞かせてきて、気付いた。

これはただ、現実から目を背けているだけなのだ、と。

いまさら後悔しても、遅いというのに。
若き日の写真と今の私を比べると、涙が出てくる。
あのとき、こうなる前に…もっと早く手を打つべきだった、と。

原因は、なんだったのだろうか。
生活環境の変化からの、ストレスだろうか。
ああ、違う、今はそんなことを考えても仕方が無い。

文字通り、頭を抱え思案していると、その悩みはますます大きくなる。

悩んでいても、仕方が無い。
これは私自身のことなのだから。
私自身…その表現は適切ではない。

…私の、髪のことなのだから。



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早朝の5時に目が覚める。

習慣づけているわけではない。
けれど、どうしても起きてしまうのだ。
夜間頻尿、不眠症…老齢特有の悩みだろうか。

おかげで私の朝は人よりも早かった。

しみのついた掛け布団を押しのけて身体を起こす。
そろそろ買い換えるべきだとは、わかっているのだが。
長く使って愛着が湧いてしまい、捨てられなくなっている。

見事に老齢特有の加齢臭が、そこには染み付いている。

父の激臭に顔をしかめ、加齢臭と罵った事を思い出す。
ああ、これでは、人のことなど言えないではないか。
タンクトップに纏った加齢臭と洗面所へ向かった。

そこで私は、日々、現実を見ることになっていた。



乱れた髪。

見るに耐えない。私の率直な意見だ。
完全に頭頂部の頭皮が露出している。

側頭部も、ほのかに人間らしい肌色を露呈している。
髪の隙間から現れる肌色は、明らかに人目を引く。

少なくなった前髪は、もう整髪料で上げざるを得ない。
それでなければ、見苦しいバーコードとなってしまう。

自らの姿に毎朝緊張を覚え、頭皮を傷つけぬように指で触れる。

さらり、さらり。手触りだけはなめらかだ。
そして、はらり。1本、2本。髪が抜け落ちてゆく。

力を入れすぎただろうか。どうにも感情的になってしまう。
許せない。こんなに容易に抜けてしまう頭皮に育てた覚えはない。

…朝の洗面所では、日々30分以上を浪費していた。



私は誰よりも髪に気を使っている。

彼らは繊細な存在だ。
酷く儚い存在だと言える。

もう半世紀以上、この私の頭皮と同居して気付いたことだ。

些細な刺激に彼らは身を燻らせ、私の元を離れていく。
ブラッシングで愛想を尽かされぬよう、努力する他なかった。
毎日のトリートメントを欠かしてはいないのに、その結果は虚しかった。

ああ、もう、耐えられない。

このまま悩みを抱えていては、ますます髪を失ってしまう。
1人で悩むことはない。そうだ。相談すればいいではないか。
けれど、勘付かれぬように。できるだけ、何気なく、何気なく。

私の戦いがはじまった。



整えられたスーツを取り出し、身支度を整える。

抜けた髪が、私のスーツの肩を占拠していた。
お気に入りのネクタイの上にすら、彼らはいた。

リビングで、妻がいないことに気付いた。
まだ、眠っているのだろう。
そして、思った。

たまには、私が朝食を作ることも悪くない。
料理ができないわけでもない。楽をさせてあげよう。
まだ、最愛の妻には…溢れんばかりの、髪があるのだから。

冷蔵庫を開き、予定通りのものを手にとった。



まずは妻の分からだった。

ラップをして保管しておけばいい。
手早く出汁巻き玉子とベーコンを焼き上げた。
妻ほどではないが、そこそこには出来上がっただろう。

隣にコールスローを添え、バランスを整えておく。

さて、私の分だが、どうしようか。
バターと醤油、数枚の余ったベーコンが鎮座している。
私もいい年齢だと自覚している。まさか。朝から胃に負担をかけるような。

そう思ったときには、白く輝く米粒の上に、バターが侵食した。

ああ、これだ。私の求めていたものは、これだ。
醤油を回しがけし、遠慮無く口に運ぶ。
リモコンで、テレビを点けた。

そして、目眩がした。

…そんなバカなことが、あるだろうか。
原因は私にあるというのか。
箸が止まった。

『昨今、偏った食生活が抜け毛の原因の1つとされていますが―――』



とても食べる気になどなれない。

毛根の死滅か、ひとときの楽しみを選ぶならば。
私に選択の余地はなかった。
不可能だ。

どうして私の心を抉るような内容なのか。

世間の老齢の方々が起きてくる頃ではないか。
ピンポイントに抜け毛の話をする必要がどこにあるのだ。
残った少ない毛髪と寿命を執拗に攻撃して、何が楽しいというのか。

陰鬱な気分になりながらも、もうすぐ出社時間になろうとしていた。
ヘアスタイルはこれで完成されている。触ってはいけない。

私は言い聞かせながら、メモを置いて、家を出た。



まだ少し早い時間だからか、人は多くない。

駅に着き、電車を待っている間、視線を泳がせる。
さまざまな広告が、私の視線の落ち着きどころだ。

歯科、歯科、保育園、アイドルのコンサート。
やはり公共の場での宣伝効果は大きいのだろう。

私たちも、巨大広告を掲載できるように頑張らねば。

アナウンスと共に、電車がやってきた。
私は、常に最前列を選んで乗っていた。

無論、やってきた電車の風の影響が少ないからだ。

丹精に入念にセットされたヘアスタイルを崩したくはない。
公共の場でバーコードと化す場面だけは避けねばならない。

…電車に乗って、逃げられない。そう思った。
進行方向に目をやり、車内広告に目をやり。
見つけてしまった。見なければよかった。

技術増毛体験の広告が、そこにあった。



ああ、どうしてだというのか。

こうして小さな希望を私の前に見せつけて。
私は、藁をも掴むという心情を理解した。

技術増毛体験。

技術増毛体験。

なるほど。そういう手もあった。
私の手に負えないのであれば、次は科学だ。
最先端の技術なのだ。きっと上手くいくに決まっている。

植毛だろうと、増毛だろうと、知ったことではない。

私は失ったものを取り戻す。
それは、もともとあるべきものなのだから。
私の頭頂部から後頭部にかけて、そして側頭部にかけても、だ。

もう10円玉とは呼ばせない。



事務所に到着すると、みなが私を迎えてくれた。

ああ、彼ら…彼女らは、私を10円玉とは思っていない。
そう。きっと、そうだ。多分。そのはずだ。

「おはようございます!社長」

プロデューサーの彼が元気に私に挨拶をする。
悩みを抱えている私は彼の頭頂部に目を移す。

さらりと綺麗に生え揃った髪。
縮れることなく、程よく弧を描く髪。
私は彼の髪がうらやましく仕方がなかった。

『ああ、社長。おはようございます』

ちひろくんも明るい声で挨拶をしてくれる。
彼女もまた、美しい髪を持っていた。

さて、どうやって手がかりを掴もうか。
社内共有のPCで技術増毛体験を調べるのはよろしくない。
勘がよくなくても、髪に悩んでいそうな人間は私くらいだと気付くだろう。

まずは、仕事をしなくては。



「社長、今度のアイドルのCM契約の話について…」

『ああ、いいよ。どれのことかな』

仕事に身が入りだした頃のことだった。
少し困った顔をしている彼を、放ってはおけない。

「ええと、これなんです…この、契約の」

彼の問いに悩むこと無く応答していく。
彼の仕事の飲み込みの速さは、素晴らしい。

満足そうな顔で、彼は私に礼を伝えた。

私もそれに釣られ、微笑していた。
ああ、そういえば、聞いていない。

『そういえば、それは何のCMの契約かな』

「え?ああ、これは」





「シャンプーのCMです」



シャンプー。

…シャンプーのCM、か。
なるほど。何らおかしくはない。
なのに、この胸のわだかまりはなんなのか。

『あ、ああ…そうか、では、頑張ってくれ』

「はい!失礼します!ありがとうございました!」

ぱたん、と社長室のドアが閉じられる。
シャンプー。リンス。コンディショナー。

確かに、彼女らは美しい髪を持っている。
彼女らにぴったりではないか。
当然の事とも言える。

けれど、このタイミングで髪の話題に触れられた。

意図していなくとも、毛根を刺激する材料になった。
かぶりを振ると、予定通りというように髪が抜け落ちた。

今日は、のり弁を買おう。



昼休みに入り、アイドル達も昼食をとっていた。

社内でわざわざのり弁を買って食べているのは、私くらいだろう。
妙な優越感と共に、頭に吹き抜ける虚無感に我に返った。

「あ。社長、お昼、一緒にどうでしょうか」

ちひろくんが、対面のソファに座って声をかけてくれた。
お茶も用意してくれていたようで、断る理由などありはしない。

『もちろんだ。ぜひ、一緒に食べよう』

「はい!」

彼女の笑顔には社内も明るくなる。アイドル並みの容姿もある。
事務員としても有能で、私は人に恵まれていると実感していた。

『ちひろくんは、いつも手作りのお弁当なのか』

「ええ、たまに買うこともありますが」

小さな、淡い緑色をした弁当箱を嬉しそうに開けている。
遠足に行く娘を彷彿とさせ、顔がほころぶ。

…そして、また、だった。

『今日のおかずは、何にしたのかな』

「ええと。今日は…」





「ひじきの煮物に、ほうれん草のおひたしに…あ、お米は玄米です」

ひじき。ほうれん草。玄米。

髪の発育に良いものばかりではないか。
今日は髪…神に嫌われているとでも言うのか。

彼女に悪意はない。それは分かっている。
嬉々として食事を楽しんでくれている彼女に失礼だ。
そしてふと、彼女は私の昼食、のり弁に目をやり、付け加えた。

「社長…お弁当もいいですが、バランスよく栄養とらないと、ダメですよ」

ダメ?
何がダメなのか。
身体によくない?それとも…?

ああ、いけない。邪推してしまう。
私の方が彼女より身長も座高も高い。
ここから私の頭頂部に気がつくことは。

しかし、側頭部に至ってはフォローしきれない。

迷わず彼女から目線を逸らさないことに決めた。
そして、気付いてしまった。アイドル達に気付かれる。
私と彼女が向かいあっていては、横を通るアイドルたちに…。

もう、手段は選んでいられない。
食事を終えたアイドルたちが歩き回っている。
変な目で見られようと構わない。私に余裕などありはしない。

食事中、頭を振り続けた。



ちひろくんは私の事を心配し続けた。

ついに狂ってしまったのか、と思われなかっただけマシだろう。
彼女の慈愛に満ちた崇高な精神に感謝せざるを得なかった。
私は休むように言われ、社長室で休息をとっていた。

ああ、何を意味の分からない事をしているのだろうか。

女性との食事中、頭を振り続ける老人など、想像も出来ない。
猛スピードで頭を振る老人を見て彼女は何を思ったのだろう。

目眩がした。どちらの意味でも。

私は仕事をほとんど終わらせていたので、特にやることはなかった。
ふと思いつくことがあったので、無理を承知でちひろくんを呼んだ。

「ええと、社長。もう、大丈夫ですか?」

それは頭の表面か、中身か、身体のどの心配をしてくれているのだろう。
けれど、とりあえず、私は大丈夫だ、という事を伝えて、続けた。

『少し…少しだけ、私は外に出てくるよ…すぐに戻るから』

「一緒に行かなくても?」

『うん、すまない…ありがとう。では、行ってくるよ』

申し訳なさに頭を下げようかと思ったが、下げられなかった。



私は、記憶を辿りながら歩き出した。

まだ先ほどの目眩が取れない。振りすぎた。
確か、あの角を曲がれば、すぐそこにあったはずだ。

見つけた。

技術増毛体験。私の夢を叶えてくれる存在。
私たちはアイドルの夢を叶え、彼らは私の夢を。

体験しなくてもいい。まずは私の毛根の現状について知らなければ。
ここから毛根の活性化が可能なのか否か、まずはそこからだ。
重い足取りながら、懸命に勇気を振り絞り、進んだ。

いくつかの問診表に生活習慣、こうなった年齢について記載した。
受付の方々は悩むことなどないのであろうほど生えていた。
この人達に私の悩みが分かるのだろうかと懸念した。

そして私の名前が呼ばれ、リノリウムの床の上を歩き出した。



このような人も医者と呼ぶべきだろう。

医者は私の問診表と、顔と、側頭部に目をやりながら言った。
髪について悩んでいる人の頭を見ないで欲しい、とも思った。

「ええと、では、こちらの画面をご覧ください」

そう言って医者の助手は私の頭にペン型のカメラを添えた。
ああ、そんなに力を入れないでほしい。抜けてしまうではないか。

「ああ…」

その感嘆で全てを察したような気がした。
重い口がゆっくりと開かれた。

「ダメです、死んでます」

たった十文字で私の心を抉るのはよしてほしい。
もっとオブラートに包むべきだろう。

「ええ…死んでます」

復唱しないでください、と声が出そうだった。
だが、しかし、死んでいるのか。私の毛根はダメなのか。
もう2度と、あの健康的な髪の毛に触ることはかなわないのか。

えりあしの縮れ毛をそっと撫で、私はそこを後にした。



死んでいる毛根が息を吹き返すことはない。

そんなことが出来ればこんな悩みは生まれない。
ああ、私はどうするべきだろうか。
植毛をする?

日に日に急激に増えていく髪をみて、みなはどう思うだろうか。
それを思えば、カツラだって同じ事だろう。
そんな勇気はなかった。

1日で生え変わりました、と真顔で言える度胸はなかった。
もうそこまで行けば生まれ変わったというべきではないか。

事務所に戻ると、みながテレビを見ていた。
正確に言うと、彼女らが出演したドラマやCMのチェックだった。

私もそれに加わろうと思い、彼らの隣に肩を並べた。



まずはクラリスくんのドラマのワンシーンだった。

『神のご加護を』

髪のご加護はなかった。続けて神崎蘭子くん。

『闇に飲まれよ!神は死んだ!』

いい演技力だ。確かに髪は死んでしまった。黒川千秋くんが続く。

『このトリートメントで髪の潤いを…』

確かに美しい髪だが、直球すぎる。古澤頼子くん。

『当時はこれが、無上の佳味として重宝されていました』

博識な彼女は言葉遣いも適切だ。適切すぎた。荒木比奈くんに変わった。

『えー…この香美市のやなせたかし記念館では…』

私も新しい髪よ、と誰かに投げてはもらえないだろうか。

もらえないだろう。



私の髪についてはさておいて、彼女らはとても成長している。

無論髪のことではない。彼女ら自身の事だ。
輝かしい成長を見守ることができて幸せだと思う。

ひと通り終わった後、テレビを通常の番組に戻していた。

そこには少し前放送されていたドラマが放映されていた。
…ああ、このシーン、私は酷く泣いた覚えがある。
素晴らしい友情に涙せずにはいられない。

確か、よくお世話になる765プロダクションのみなが主演だ。

『私たちにはあなたが必要なの!』

ああ、そうだ。このシーン。久しぶりにみてもハンカチが必要だ。

『私たちは1人でも欠けたら、私たちじゃないのだから』

うん、うん。アイドルたちも食い入るように見つめている。

『私のことが必要だと…言ってくれるの?』

ここの演技は、きっとアイドル達にも参考になるだろう。

『当たり前じゃない!だって、私たち…』

『仲間だもんげ!』





…そんな毛はない。



どこへ行っても髪と毛に追い回される。

いや、いっそ追い回してくれないだろうか。
そんな悩みは私には今のところ遠い夢だ。

みなも今日やることが終わったのか、帰る準備をはじめていた。

私も帰ることにしようか。
ああ、業務日誌を書いていない。

彼とちひろくんに施錠はしておくと伝え、業務日誌を開いた。

手書きの方が、何やら質感があっていい。
そういえば…技術増毛体験に行くとき、誰かとすれ違った。
そこで頭を抱える。髪には触れないようにそっとした手触りの上でだが。

見られていた?

『社長…今日、何気なく悩んでいらっしゃるよう、でしたが…』

「え?ああ…うん。少し。大した悩みじゃ、ないんだ…笑い話なんだ」

『そう、ですか?』

「うん、笑いの種にしてくれて構わない」

『………なら』

『何毛無く、悩んで…ふふっ』

「え?」

『え?』

『あ、失礼します。お疲れさまでした』

「あ、ああ…お疲れ様」

「………」

こうして、私の何毛無く…何気なく悩む社長の1日は終わった。

よし、明日、技術増毛体験をしに行くことにしよう。

もう、500円玉になってきたのだから。




                         おわり



以上です。ありがとうございました。
html化依頼を出させていただきます。

ちなみにトリップは#nohairでした。

00:30│アイマス 
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