2014年01月05日

モバP「翠色の絨毯で」

*


「なんですかそのスーツは……」
 到着予告時刻を電話で伝えておいたので、安心して事務所に入っての出会い頭の第一声。

「あはは、これには事情がありまして」
 まさか背の低い雑草群の上で寝ていたなんて、口が裂けても言えない。
「ちゃんとクリーニングに出してくださいね。それじゃ営業先の印象も最悪です」
 その言葉が、俺のプロデューサーへの第一歩を実感させた。


「さて……改めておかえりなさい、プロデューサーさん。昼ごはんは食べました?」
「はい、電車の中で」
「じゃあお茶にしますね。少し休憩してから、あっちの会議室で打ち合わせをしましょう」
 軽い足取りでちひろさんはお茶を汲みに行った。
 些細な心配りができるちひろさんは事務員として有能だろう。肝心の事務処理はそもそも現在の時点であるのかどうかわからないのだけれども。


 とりあえず俺はついたてで区切られただけの簡素な会議室の椅子に座り、スーツを脱いで待つことにした。






「じゃあ昨日伝えておいたプロフィールを見せて下さい」
 お茶をテーブルにおいて椅子に座れば、ちひろさんは即座に真剣な眼差しになった。

「これです。あと俺が感じた特徴なんかも別紙に記載してます」
 具体的な身体的データは不明なので、基本的な個人情報と特技や趣味を書かせた紙を提出する。

「身長164センチ、体重47キロ、誕生日は12月5日の18歳…なるほど。いい体格ですね」
 ちひろさんは読みあげて、ふんふんと頷く。

「ではプロデューサーさん。あなたなら彼女をどういう風にプロデュースしますか?」
「え、俺がですか?」
 抜き打ちテストを実施された生徒に思わずなりきってしまった。

 しかし、その反応を見たちひろさんは大きく嘆息する。

「当たり前じゃないですか。私も関与するとはいえ、翠ちゃんのアイドル人生はあなた次第なんですよ。そこら辺、ちゃんとわかってますか?」
「あ、はい、申し訳ない…」

 間違いなく、ちひろさんは仕事に対して妥協はしていない。彼女の視線の強さがそれを物語っていた。





「どうするか、ですか……。そうですね、俺なら彼女の第一印象を推して行きたいと思います」

 翠から感じた印象、それは優しきクールビューティというものだった。

「彼女は18歳…年齢で言えば大人ですが肩書きは高校生ですね。それにしてはかなり落ち着いていて、そしてはっきりとした真っ直ぐな姿勢が特徴です」

 あの時は制服を着ていたので高校生だとすぐに判別できたものの、家での彼女の私服姿は決して歳相応の華々しいものではなく、鈍い色を基調としたシックなスタイルだったこともあって、非情に大人びて見えた記憶がある。

「加えてあの端正な顔立ちや身長の高さを総合すれば、女性が憧れるような……例えればキャリアウーマンのような、格好いい女性の理想像になれると考えています」

 自分なりに考えて、言い漏れのないように丁寧に結論を述べる。

「でもそれでは普遍的すぎて埋没しませんか?」
 まるで面接でも行っているようだ。

「確かに、それだけなら他に似合ったキャラクターは他事務所にいくらでも居ます。翠には、それと合わせて高校生…まあもうすぐ卒業しますが、その若さとのギャップを生かして、男性へのアピールを行います」

「具体的には?」
 ちひろさんは俺への詰問を止めない。導かれるように、俺の回答は進む。


 しかし。


「ええと、俺がこう言うと変態的ですが…け、健康的なエロス、ですかね?」


 照れながら言ったことが、かえってちひろさんの噴出を誘ってしまったようだ。





「……こほん。それで、健康的なエロスって?」
 巻き戻しをしてちひろさんは姿勢を取り戻した。

「実を言いますと、初め、翠をじっと見た時……何だか扇情的に感じたんですよね」
「…まさか手を出してないですよね?」
「出してませんよ!」
 正直俺も何言ってるのかよくわからなくなってきたが続ける。

「別にその時着ていた制服姿が扇情的という事ではないんです。ただ、直接きわどい部分の露出をした訳でもなければ、誘うようなポーズやモーションをした訳でもない。にも関わらず、自然とそういう視線で見てしまいたくなるような――」
「ス、ストップです! 段々おかしな方向に行ってますよ!?」
 耐え切れなくなったのか、俺の発言を手を振って遮ってしまった。

「け、結論だけでお願いします…」

 男性的にはごく一般的な範疇だとは思うが、ちひろさんはそれなりの羞恥心を兼ね備えているらしい。

 …こう言うのは失礼か。





「ともかく、ダイレクトな露出をすることなくアピールができてしまう。それが女性へのイメージの凋落を防いで且つ男性への大きなアプローチになると思うんです」
 言いたかったことや思っていたことを全部聞いてもらえたような気がして、心なしか気持ちがすっとした。

「…力説ありがとうございます」
 ただ、ちひろさんの椅子の位置が遠ざかっているように見えるのは代償なのだろうか。

「一応、勿論彼女の意思次第ですが、水着グラビアの方向も選択肢からは外していません。ですが、個人的には安直なものは控えていきたいと考えています」

「目標は男性と女性、両方から支持されるアイドル、ということであってますか?」
「ですね」

 実際はそれ以前の問題で、彼女が話すときの態度や今までの生き方、両親の事も考慮すると、とてもじゃないが官能的なモーションは現状できそうにない。

 例えそうでなくとも、演技面ではまだまだ素人だろうから、狙ってするアダルトな役回りは今後改めて考えようと思う。





「…わかりました。事務所としても、その方針を軸にしたいと思います」
 その後も翠の簡易プロフィールを真ん中に色々と話し合った。

 欠点は、趣味が弓道としか書いておらず、主にバラエティ方面での話題の展開性に不安があるということだろうか。真っ直ぐだが、故に広くないのだ。

 これに関しては、アイドル活動を通して彼女自身も色んな事に挑戦して欲しいが……。


「では、あまりのんびりすると時期を逃しますし…そうですね、翠ちゃんも早く学校の終わる明後日辺りにトレーナーさんをそちらに向かわせたいと思います」
「そんなの急ぐものなんですか?」

 素朴な疑問に、ちひろさんはまたもや息を吐いた。

「当たり前じゃないですか。女性のアイドルともなれば、この時期の時間のロスは一番損失が大きいんですよ。できるなら、もっと若い年齢からレッスンしたほうがいいくらいです」
 嫌な言い方をすれば、鮮度の問題ということか。

「あまり言いたくはないですけどね。その本人を切り売りして稼ぐ仕事である以上、仕方のない事です」
 彼女も女性だからか、共感か、あるいは同情の念を覚えているようだった。





「ともかくプロデューサーさん、早速で悪いですが次の仕事ですよ。私が場所を教えますので、担当のトレーナーさんに話をしにいってください」
 俺がきょとんとしていると、ちひろさんは名刺と地図を取り出した。

「これからずっとお世話になるんですから、あなたが行かないで誰が行くんですか…」


 ……勉強不足と言えばいいのか、もしくは常識知らずと言えばいいのか。


 一言謝ってから受け取り手元のお茶を飲み干すと、俺は事務所を飛び出したのだった。





  *



「えーと、こんにちは、シンデレラガールズプロダクションのPと申しますが」
「お待ちしておりました、話は伺っております。左側のエレベーターから四階レッスン室Eにお入り下さい」


 …豪華だ。豪華だった。

 指定されたビルは外壁から新築感溢れるまさに新進気鋭といった風貌だった。
「新進気鋭で合ってたっけ?」
 などと間抜けな事を言っているのも緊張をほぐすためだ、そういう風にしておく。


 担当のトレーナーはどんな人だろうか。

 あんな小さな事務所と契約できるような人がこのビルに居るという事自体が驚きだが、それも事務員の力量なのだろうか。

 四階に上がり案内板を基に進むと、すぐにレッスン室Eの看板を見つけることができた。
 第一印象が大事だからな、しっかりと行こう。
「失礼します」
 ノックをすると、中から「はーい」という元気な声が聞こえたので、俺はゆっくりと扉を開ける。

「はい、こんにちは、初めまして! この度担当となりましたトレーナーの青木慶です。よろしくお願いします!」
 そこには一人、翠よりは少し小さいくらいの女性が笑顔で俺を迎えてくれた。

「あ、ああすいません。シンデレラガールズプロダクションのPと申します。この度は担当して頂きありがとうございます」
 勢いの良さに数秒呆気に取られていた意識を取り戻し、とりあえず名刺だけでも渡しておくことにした。

「ありがとうございます。私はまだトレーナーとしては経験が浅いですが精一杯がんばりますので、よろしくお願いしますね!」
 ううむ、見るからに元気な人だ。





 レッスン室の中は如何にも練習する場所と言った感じで、一般的な想像通りの鏡張りの壁とフローリングだけのシンプルな構造だった。

 どうやら自身もダンスの練習をしていたようで、スポーツドリンクとCDコンポが壁際に置かれていた。
「練習中にお邪魔して申し訳ありません」
「あ、いえいえ。来て下さるのは聞いてましたので、休憩していた所なんですよ」
 きっとトレーナーであるためにはそれなりに練習しなければいけないのだろう、汗ばんだ衣装が彼女の努力を証明していた。

「練習熱心なんですね。あなたが担当で良かったです」
 もしウチと契約できるレベルでなら、やる気の無い人とか空気作りの下手な人とかを頭の隅で想像していたのだが、彼女なら翠ともうまく付き合えそうだ。

「そんな……。私は姉達に比べても――ああ、私には上に姉が三人居まして、みんなここでトレーナーをやっているんですが、私はまだまだ未熟な方なんです」
「へえ、四人姉妹が同じ会社で全員トレーナーですか…中々珍しいですね」

 スポーツ一家というのは比較的珍しくはないが、全員裏方であるトレーナーを志望しているというのは稀なケースではなかろうか。
「よく言われます。姉達を見て私もトレーナーになりたいと思ったんですよ」
 無駄のない体を少し弾ませて彼女は笑った。

 やはり近しい存在というのは本人の行動に強い影響を与えるものらしい。俺も翠のリーダーとして下手な姿は見せられないな。





「…そろそろ本題に入りますね。明後日ですが、愛知に向かって頂いても大丈夫ですか?」
 雑談がてらのクールダウンも大体終わった所で、俺はスケジュール帳とペンを取り出して訊ねる。
「先日入ったばかりの候補生…でしたよね。大丈夫です。上の方にも出張という形で許可を頂きましたので」
 ちひろさんは事前に根回しをしているようだった。優秀だなあの人。
「それにしても18歳であの綺麗さは驚きですね。ちょっと妬けちゃいます」
 そう言って彼女ははにかんだ。

 この人が何歳かは分からないが、やや幼さが抜けていない所を見ると、翠よりも年下だろうか?
 まあ、出会いはなんともふざけたものだったが、改めて見た時の翠の美しさには俺もすぐ取り込まれてしまったものだから、彼女の意見には凄く同調できる。

「あんな人をスカウトできるなんて、プロデューサーさんも流石ですっ」
「ありがとうございます。これからも精進します」
 褒める言葉以上に、彼女の笑顔がこちらまで元気づけられている気がした。これも彼女のトレーナーとしての才能なのだろう、担当がこの人で良かったとしみじみと思う。


 その後もちひろさんに教えられた通りにレッスン場所のスケジュールの説明をひと通りこなし、相手の了承を得た所で、彼女とはひとまずお別れとなった。





  *



「はい、プロデューサーさん。これをどうぞ」
「…なんですか、この紙の山」

 事務所に戻るなり、ちひろさんはどこから取り出したのかコピー用紙の山を俺の机にあからさまに置く。

「基本的な指導が行えるように運動の基礎知識が載っている資料と、向こうの営業先の簡単な一覧表です。翠ちゃんがとりあえず実戦に出せるレベルになってから営業を始めたんじゃ遅すぎますからね」

 ひとり事務所に残っていた彼女はこれだけの資料を纏めていたのだ。
 俺だったら、独りになったらきっとサボっているな…。

「ありがとうございます、ちひろさん。それと明後日のスケジュールが取れましたので、確認してもらってもいいですか?」
 スケジュール帳を取り出して、伝え間違いがないか、念の為に確認してもらう。初めだからこそ、慎重に行かなければいけない。
 そんな俺の行動にも笑顔で頷き、予定について細かくチェックしてくれた。

「大丈夫ですね。ひとまずは問題ないでしょう」

 ちひろさんなら、こんな小さな事務所でなくてももっと大手に雇われるぐらい、造作もないことだと思うのだが……。少し不思議に思った俺だったが。

「それと営業は一人で行くことになりますから、今のうちに勉強して慣れておいてくださいね」


 …彼女の事を気にする前に、まず自分のことを気にする必要がありそうだ。






  *



「ワンッ、ツー、スリー、フォーですよ! さあやってみましょう!」

 はい、と大きな声がレッスンスタジオに響き渡り、手拍子の基、トレーナーの動きを真似て翠が舞った。
「スリーの足の動きが遅いです、もっと足を慣らして!」


 愛知にある小さなレンタルスタジオ。

 水曜日の今日は、水野翠のアイドル候補生としての初めてのレッスンだ。





 結論から言えば、翠は素人だった。

 だが基礎体力は十分あり、素人目にもスタミナも初めてにしてはあるように見える。
 ただ彼女はダンスが未体験のため、無駄な動作が体力を余計に消費させているようだ。

「よくできました、じゃあ少し休憩します!」
「あ、ありがとうございました…!」

 トレーナーの慶さんの号令によりレッスンが中断すると、翠は尻餅をつくように床に落ちてしまった。

「お、おい、大丈夫か!?」
 糸が切れたように座ってしまったため俺はドリンク片手に慌てて駆け寄るが、なんと彼女はクスリと笑っていたのだ。

「はは……。な、何だか新入生の頃を思い出しました…」
 んく、んく、と翠は俺の渡したドリンクを喉を鳴らして飲む。

 翠が新入生というと、弓道部での活動のことだろうか。
 確かに運動部だと入ってすぐは体力作りが主だと想像がつく。

「私の高校では、初心者も経験者も関係なく一年生はひたすらランニングと射法八節の反復練習だったんです」
「経験者も射法八節の練習なんだな」

 射法八節とは、弓を持って射るまでの決められた動きの事だ。
 競技の場合でも、この動きがあまりに変だと的に矢を当てても当たってない扱いになってしまうらしい。

「あれ、プロデューサーさんも知ってるんですか?」
「調べただけだよ。翠がやってるんだ、俺も少しは知っておかないとな」


 ほんの僅かではあるが彼女が嬉しそうな顔をしたのを、俺は見逃さなかった。






「それにしても、テレビに出ているアイドルの皆さんはこれを軽々とこなすんですよね…」
 予想以上でした、と翠は息を吐く。

 テレビ画面に映るアイドル達の姿が美しく、華麗で、そしてとても楽しそうに舞う。
 だがその一方で、そうするための訓練が幾度と無く繰り返されている。

 ただ踊るだけなら誰にでも出来るかもしれない。
 アイドルは、その上で楽しそうにしなければならないのが難しいところだ。

「誰だって最初はそうだぞ。いずれ翠もこなせるようになるから、最初はローペースでも怒られないよ」
 翠だって弓道は始めた頃からうまく出来たわけじゃないだろ、と付け加えた。

「はい、精進します。ドリンクありがとうございました!」
 短時間ではあるが息も少し落ち着いたように見える。再び荒れることになるのだが、休憩自体は悪いことではない。
「気を張り過ぎないようにな」

 前髪から垂れた汗が笑顔の頬を伝った。





 ドリンクを彼女から受け取ると、壁際で何かメモをとっていたトレーナーがこちらに近づいてきた。

「お疲れ様です。次ですが、翠ちゃんは休憩しつつ、さっきのステップを練習して下さい。それでプロデューサーさんですが、ちょっとこっちに来て下さい」
 威勢よく返事をすると翠は鏡の前に行き、先ほど教わった事を思い出すように練習し始めた。

 そして俺は彼女からは離れ、壁際、扉の近くまで青木さんに連れて来られる。
「ええと、何かありました?」
 翠同様汗に濡れる青木さんの手には先ほどとっていたメモが数枚握られていた。

「別にそんな警戒しなくても変な話じゃないですよ」
 あはは、と軽快に彼女は笑ってみせた。

「そんな離れるように連れて来られたら、翠に聞れたら不味い事を話すみたいじゃないですか…」
「練習中の耳に入れるのは気が削がれますから」
 ああそういうことですか、と一人で納得する。

 その本人の翠はというと俺達の事は見向きもせず練習に励んでいるようだった。





「今日パッと見た感じですが、翠ちゃんは十分に素質は感じられます」
 メモを軽く眺めながら、青木さんは報告を始める。

「まだまだ動きは硬くて不得手に見えますが、身体自体は柔らかく、運動にも慣れてるそうなのでこれから伸びるでしょう。何より、練習が苦にならないのはある種の才能でしょうね」

 後半の言葉。

 これが彼女がこれから生きていく上で大きなアドバンテージになる要素だ。
 無論世界には才能だけで努力してきた人間をゆうに追い越す人がたまにいるが、残念ながら彼女はそうじゃない。

 だからといって腐るか、と言えば翠は違う。

 できないから止めるのではなく、出来るように繰り返すことが出来る。

 俺が選んだから贔屓目になってしまうのもあるが、努力では超えられない才能の世界にさえも踏み込んでいけそうな、そんな期待を抱かせてくれる。

「それと合間に少しだけ現状の声量も確認してみましたが、別段悪い感じではなかったですよ。翠ちゃん、歌うのは好きみたいですし」
「え、そうなんですか?」
 おいおい、俺には聞かされてなかったぞ。

「もしかして、信頼されてないんじゃないんですかー?」
 青木さんは冗談めかして笑う。

 ううむ、初対面こそ変だったが、その後は快く思ってくれていると思っていたのだが…。






「そんなことないですよ」
「うお、翠!?」

 接し方もまだまだ勉強しないとな、と思っていた所に、背後から翠が音もなく現れた。

「勿論まだまだ不安はありますが、あの時のプロデューサーさんの言葉が軽いものだとは全く思っていませんから」

 吐息はまだ穏やかと言える状態で、肩も激しい動きは見せていない。
 先ほどの休憩の効果がよく表れているのか、翠はまっすぐに俺を見て擁護してくれた。

「あ、ああ。ありがとうな」
 返事をして、彼女は再び練習に戻っていった。


「もう体力がセーブ出来てるみたいですね…。ちょっと予想以上です」
 彼女の言葉を聞いて、青木さんもやや驚いているようだった。

 ふんだ、俺を辛かった罰ですよ。

 そう心の中で呟くと同時に、翠から直接そう言ってもらえたことが本当に嬉しく思った俺だった。


「…というか聞かれてたんですね、会話」


 恐るべし、翠の聴力。





   *



 クールダウンを終えた後、じゃあ着替えてきますね、と翠は更衣室へと入っていった。


 そろそろ家族が集まってご飯を食べようかという頃合いであるが、時期の関係で空はまだ明るい。

「お疲れ様です、青木さん」
「ありがとうございます。私も楽しく出来ましたよ」


 ――初めてのレッスンが始まっておよそ二時間後。

 初回のレッスンなので内容自体は濃いものではないが、きっと翠からすれば相当なものだっただろう。

「そうですか? 何だか端から見ると鬼軍曹のように見えましたけど」
「そ、そんな風にはしてませんよおっ!」

 はは、と冗談を言ってみせる。このぐらいの仲であれば、これからも良好な関係でいられるだろう。


「それで今後のスケジュールですが、どうしますか?」
 ポケットからメモ帳を取り出して俺に訊ねた。
 ちひろさんに相談したいところだが、何度も頼ってはいられない。

「えーと、そうですね。翠の疲労度次第ですが……。青木さんは予定とか入ってますか?」
「いえ、私は翠ちゃんの専属になってますから、基本的にそちらに合わせますよ」

 さらりと青木さんは言ってのけるが、俺はそれを受け止めることができなかった。





「せ、専属だって?」
 対する彼女は何を驚いているんだろう、といった表情だ。

「はい。千川さん…ちひろさんから付きっきりで担当できる人が欲しいとの事でしたので、空いていた私が担当することになったんです」

 実を言うと、翠ちゃんが初めての担当なんですよ、と彼女は苦笑した。

 なんと、経験が浅いどころか未経験だった。


 ……だが、今日の練習を見ていると真面目で熱心で、翠のことをよく考えてくれている。
 変に熟れた相手よりかは、むしろ彼女のような担当の方が馬が合うのかもしれない。


 そして未経験のトレーナーとはいえど専属で貸す契約がとれるちひろさんにはもはや感心する他なかった。

「それでは、青木さんには悪いですが明日も来て頂けますか? もしかしたら体のケア面が完全でないかもしれませんので、チェックも含めて」
「わかりましたっ!」

 連日お願いするのは心苦しいが、彼女は軽快にスケジュール帳にペンを走らせた。

「明日は翠の学校は少し遅めに終わりますので、17時から同じここでお願いします」
 はい、と元気な返事と共に了承してくれた。同様に、俺も予定をしっかりと記入する。

 忘れることは流石にないだろうが、二人が参加して自分だけ遅刻、というのはあまりにも情けない。






「お待たせしました。着替え終わりましたよ」
 鏡張りの壁の隣、小さな更衣室から翠が出てくる。
 ドライヤーはないのでまだ彼女の長い髪は乾いていない。それが前に見た風呂あがりの彼女の姿を彷彿とさせた。

「今日はお疲れ様でした。私も着替えますので、お二人は先にどうぞ。後はやっておきますので」
 まあその格好のままだと絶対に風邪を引くだろうな。


「わかりました。今日はありがとうございました。また明日お願いしますね」


 手伝おうと思ったが青木さんが固辞したので、俺達はお言葉に甘えて先に帰ることにしたのだった。





   *


 ピークは過ぎたといえど、店内には家族連れが楽しそうに会話をしていて、喧騒は収まりそうにはない。

 テーブルには大きなメニューが広げられ、俺達はそれを挟んで座りながら眺めていた。



 ――せっかくですから、食事に行きませんか?

 スタジオを出て空を見上げた翠は、そう提案した。
 俺としても断る理由はないし、信頼関係を築くいい機会だと考えたのでそれに付き合うことにした。

 両親には彼女の方から連絡を入れ、許可は頂いているので問題はない。

「私、ここのグラタンが好きなんです」
 どこにでもあるようなファミリーレストランのメニューを彼女は指差した。

「グラタンか…確かに美味しいよな」
 ハンバーガーを水で流しこむような奴が評価した所で言葉に信ぴょう性はない。

「昔からここのお店はあったんですが、その度に頼んでたんです。どうしてかはよくわからないんですけど……何故か好きで」
 記憶に残る味、と言うべきか。
 少なくともグラタン自体に特別な成分が入っているわけではない。ただ誰と食べたか、どんな時に食べたかが味に印象の強さを与えたのだろう。

「じゃあ俺もそのグラタンを食べてみるかな」
「同じ料理ですね」
 適当にサイドメニューを注文することを決めて、俺は呼び出しボタンを押す。


 願わくば、俺もその記憶の中に残入れんことをささやかに思いつつ。





「高校ではどうだ。アイドルになること、話したりしたのか?」
 フォークを使って表面のチーズを剥がして口に運ぶ。
 程よくのったクリームが口腔に入ると、二つは仲良く踊り始めた。


「はい。実は弓道場に行ったあの日、友人に見られてまして……」
 彼女はそう言って冷水の入ったコップを両手で持った。

「言うのは少し恥ずかしかったのですが、プロデューサーさんの事を訊かれて答えてしまいました」
 答える彼女の顔はほんのりと赤らんでいる様子だった。今回頼んだ料理がグラタンでよかったと思う。

「向こうもびっくりしただろ。いきなり友達がアイドルってどういうこと? ってな」
 おどけるようにして俺は大げさに首を動かす。

 よしんば俺が聞かされる立場だとしても、まず第一声はパードン・ミーだろうな。
「その通りです。休み時間に大声で驚かれたので、すぐクラスの皆さんの耳に入ってしまいました…」
 彼女の目線が少し下がった。首も少し傾けて、フォークを持つ手が揺れる。

「あっはっは、じゃあもう皆には知られちゃったんだな」
「すみません……」
 普段の凛とした態度とは裏腹に、今の彼女は大変歳相応のように思えた。

 …この差に思わずクるものが確実にある。





「いや、むしろどんどん…といっても煙たがられない程度に話して欲しいね」
「え? そういうのってあまり良くないことなのでは?」
 彼女は口に入っていたグラタンを飲み込んでから聞き返す。

「程度を弁えればな。今の内にファンの土台を固めておくのは、悪いことじゃない」

 周りに誰彼かまわず言いふらすようならば本人の安全面も含めて自重してもらわなければならないが、彼女の場合そんな行為には及ばないだろう。

 なら近しい友人から話題を広めておくのは得策だと考えるべきだ。

 ある二人のアイドルが居たとして、任意のファンがどちらも好みでかつどちらかしか選べない場合、『親近感』という要素が選択可能性に大きな影響を与える。

 知らないアイドルよりも、同級生のアイドルのほうが応援しやすいからな。

「そうなんですか……。既に広まってしまってますけど、頑張ってみますね。ふふ、何だかアイドルの活動をしているみたいです」






 彼女の考える営業感は、いわゆるファン目線での話だ。

 ファンに対して距離を縮める事で、ファン層の拡大を図る。
 そして裏方の俺達が、彼女が動くためのチャンスを作り出す。

 正直に言えば、責任が俺に結構な割合でのしかかっていることに胃が痛む。

 しかし、単身この業界に入り込むんだ彼女を助けてやれるのは今のところ俺達だけなのだから、せめて味方を増やすまではへこたれる訳にはいかない。


「営業の練習だと思ってやるといい。多分、これから何度もすることになるからな」

 これから先そうなることを願って、俺は冷水を飲み干した。


 その後は、翠自身の生活の話などアイドル関係の話以外で華を咲かせた。
 仕事の話だけが俺達の繋がりではないのだ。俺も翠をより深く知ることで、もしかしたら近い未来にするであろう俺の営業に役立つかもしれないからな。



 ……って、結局仕事に繋がってしまった。





  *



「第一歩は問題なし、ですね」
 ホテルの部屋。窓からは夜景が綺麗に見える。曇ってないので、遠くの明かりまでもが暗闇に点々ときらめいている。

「流石にここで問題は起きてほしくはないですよ」
 メールでも良かったのだが、なんとなく俺はちひろさんに電話をしていた。

 相手からすれば迷惑なのかもしれないが、今のところ順調であるという保証を無意識に欲してしまった結果である。
 そうは言いつつも、ちひろさんもよく話してくれるので有り難かった。

「あと明日もレッスンをお願いしておきました。疲労のケアの仕方なども教えてもらう予定です」
「わかりました。これからは一人でどんどん判断しなければいけないことも多くなりますから、頑張って下さいね」
 大学を出て働いている他の友人はどうしているだろうか。きっと全員、何かしら責任を背負って仕事をしているはずだ。俺だけが例外ではない。

「あ、それとそういったスケジュールに関しては、決まり次第メールで知らせてくださいね。ブッキング等があると問題になりますので」

 俺がこうしてスケジュールを取り、事務員が細かく管理する事になっている。場合によっては、向こうからのオファーも出てくるだろうから、俺が独断で動いてもいい訳じゃないのだろう。

「明日からは予定通り挨拶回りに行って下さいね。それでは体調を崩さないように気をつけておやすみなさい。お疲れ様でした」






 パタンと携帯を閉じ、スーツのままベッドに倒れ込む。

「明日から、明日からだな…」
 普通、こういう営業なら先輩社員と二人で回るのだろうが、俺の場合はそうにはならなかった。
 そうであったならどれだけよかったことか。

「…愚痴ってもしょうがないよな」
 また明日も使うんだから、と俺は立ち上がってスーツを脱ぎ、ハンガーに掛ける。

 いっちょまえにくたびれやがって。
 少し形の崩れたスーツをニ度はたくと、鞄から紙の束を取り出してベッドに座る。

「愛知の方の営業先は…これか。近い所でも結構あるなあ」
 名刺の数を確認する。
 ここに載せられている場所を全部訪ねてもまだ余裕はありそうだ。

 成功するか、失敗するかはわからない。

 だから、せめて成功するように願っておこう。


 そう思いながら、今日一日で付着した臭いを取るために風呂に入る俺だった。



区切りなり。

  *


「あれ。翠、今日は休みだぞ?」


 季節な夏真っ盛り。

 8月に入ってすぐのある日の朝、予定は何も入っていない完全な休養日に、翠は事務所にやってきた。
 ちひろさんも今日は休暇をとっており、俺だけが事務所で一人パソコンの画面を睨みつけていたのだった。

「そんなに忘れっぽくありませんよ」
 一言翠が反論すると、壁にかけられた時計を見る。

「実は前のオーディションで会った水本さんとお茶に誘われまして、その時間まで事務所で待つつもりだったんです」

 私服姿の彼女は小さな鞄をソファに置き、自身もゆっくりと腰を下ろした。



 ――水本ゆかり。

 彼女とあの会場で出会ってから、その後でプロフィールを見た。

 青森県出身の15歳。翠よりは三つ下だが、芸能界では一年先輩である。
 趣味はフルートと記載されているが、特技としても遜色ない実力の持ち主で、コンクールでは上位に位置できるほどのフルーティストらしい。

 その事もあってか音楽番組との相性が良く、デビューもそのジャンルから芽を出した。
 現在は演劇方面にも顔を出し始め、目下練習中だとか。

 プロフィールと本人と話した時の記憶を思い出す。どうやらあの時、水本さんも翠を気に入ってくれたらしい。
 先輩からこうして誘ってもらえるなんて、かなりの幸運と言っていい。






「へえ。連絡先交換してたんだな」
 俺は彼女のお茶を用意してから、いつもよりもややプライベート寄りに、それでも色彩としては控えめな翠の私服を眺める。

「あ、お茶ありがとうございます」
 出した冷茶を静かに飲み始める。これだけ暑いんだ、喉が乾いていてもおかしくはない。

「それで、どこに行くんだ?」
「水本さんのお気に入りの店、だそうです。ふふ、楽しみです」
 青森からわざわざ東京にまでやってきて一年以上。お気に入りを見つけて、仕事をしてきたんだろうな。

 そういえば、翠は事務所に入ってからそれらしい観光は殆どしていない。
 仕事帰りにどこか寄っていったことはあっても、観光のためにわざわざ出かけたことはないはずだ。

 いや、別に一人で行った可能性はあるし、そもそも俺と二人で行く必要性はどこにもない。プロデューサーとしてどの範囲まで干渉すべきか、考えても結論がつかなかった。





「そろそろ時間ですね。プロデューサーさん、行ってきます」
 少しだけ雑談をしつつ、俺は作業の方に集中して十数分後、翠はソファから立ち上がる。

 恐らくここに時間前に来たのは、体を落ち着かせるためでもあったのだろう。身だしなみを整えていた翠を見てそう思った。

「いってらっしゃい。俺は今日一日此処に居るから、何かあったら呼んでいいからな」
「わかりました。それでは!」

 鞄と一本にまとめた長い髪をふわりと揺らし、翠は颯爽と事務所を出て行った。


「…成長したなあ」
 ふと考えてみると、アイドルとしてこうして遊びに出かけることのできる人ができたのは彼女が初めてなのではないだろうか。

 遊ぶことは勿論いいことだが、その中で何か彼女から学べられたら尚良しだ。


 事務所の中からはわかりづらい外の暑さを伴った景色を眺めて、俺は体を伸ばした。





  *



「はい…はい。そうです。その通りでお願いします。はい、ありがとうござい…いえいえ、こちらこそありがとうございました。それでは失礼します」

 やや黄ばんだ年代物の受話器を元の位置に戻す。

 以前お仕事を頂いた会社から再度のオファーである。一回限りの契約が殆どではあるものの、中にはこうしてくり返し翠を使ってもらえるような所が増えてきているのは嬉しい限りだ。

 ただ、方針上愛知と東京の二箇所で活動するため、翠の負担を考えてスケジュールを調整する必要があるのが難点ではある。


 差し当たっての仕事の量は新人としてはかねがね順調である。
 このままいけば、事務所も潰れるとうことはないだろう。


 ――ガチャ。
 突然、安っぽい音を立てて事務所の扉が開く。







 あの時から姿を見ない社長は何をしているんだろう、と考えていた矢先の出来事だ。

「只今戻りました」
「失礼します。おはようございます、Pさん」
「おかえり…っと、水本さんもおはようございます」

 翠の隣には、今日約束して遊びに出かけていたはずの水本さんも居た。

 誰も訪れる予定は聞いていないので外部の営業の人ではないとは分かっていたが、まさか一緒にこっちへ来るとは思わなかった。

 二人とも手には紙袋を一つづつ下げていたので、買い物した帰りなのだろう、とりあえずソファーに座ってもらってから、エアコンの温度を下げ、お茶とお茶うけを出した。

「すみません、来られるとは思ってなかったのでこんなのしかありませんが」
「こちらこそ突然お邪魔して申し訳ありませんでした……それと、少しお願いがあるのですが」
「お願い? なんでしょうか」

 俺にできることであれば、断るわけにもいかない、そう思ってこちらが聞き返すと、水本さんは少し困ったような笑顔で言う。






「お願いというか、何といいますか……。初めてお会いした時から、ずっと私のことをさんづけで呼んでいらっしゃいますが、私のほうが年下ですし、指導して頂く立場ですので、翠ちゃんと同じ様に話して頂けませんか?」

 ええと、これはどうだろう。

 確かに俺のほうが年上ではあるが、プロデューサーとアイドルとしての立場の違い以上に、他所のアイドルにくだけた口調で話すのは問題がある気もする。

「翠ちゃんの話を聞いてると、とてもよく見てくれる方だと思いまして、是非私にもご指導頂けると幸いです」
 しかし、しかしだ。

 恐らくわざとではないのだろうが、自然に上目遣いになって頼む水本さんの姿に、不覚にもドキッとしてしまった俺がいる。

 そんな彼女の頼みを聞けないだろうか…いや、聞けないはずがない。

「わかった。なるべく普段の喋り方で行くように努力するよ、ゆかりちゃん」
「ちゃんも必要ありません。…どうぞ気軽に呼んで下さいね」

 存外意固地になって俺にお願いをする水本さん…いや、ゆかりは実に新鮮であった。

「…よろしく、ゆかり」
「こちらこそよろしくお願いします。こうして出会えた事に感謝します」


 改めて挨拶をする傍ら、翠の表情だけが中々読み取れないでいた。





  *


「演奏、楽しみにしていますね」
 やはり二人とも女性のご多分に漏れず、トークは途切れることなく進んでいった。

 趣味の話から始まり、お互い弓道とフルートという全く別世界の事を紹介しながら、その時起きた出来事や思い出を回想するように話していたかと思いきや、いつのまにかアイドルになったいきさつや考え方などを語り合っていた。

 その会話を環境音として聞きつつ、俺はひたすらパソコンの前に向かって調べ物やデータ整理をしていたのだった。



 そうした時間もかれこれニ時間程だろうか、やれこうも長く話せるもんだと感じながら計算ソフトを終了しようとファイルを保存している最中のことだ。
「翠ちゃんの学校は変わった行事があるんですね……っと、そういえば、もうすぐ学園祭の時期が来ますね」
 事務所に何故か常に準備されているお茶を啜りながら、会話を横から聞く。

「そうですね。私の所は8月末から準備が始まるんです」
「へえ、気合が入ってるんですね」
 何気ない会話にもどこか貴婦人のような上品さが漂っているのは何故だろうか。


 ふと俺は思う。
 翠は今年の学園祭には参加したいのだろうか。

 スケジュール帳を見るが、俺は学園祭の日程を知らないことに気付く。





「学園祭と聞いて、懐かしくなったよ」
「あ、プロデューサーさん。お仕事お疲れ様です」

 デスクトップ画面のまま放置して、お茶を片手に俺もソファに座ることにした。勿論予定を聞いておきたいからだ。

「ところで翠、学園祭の日は今のところ仕事の予定はないが、どうする? そのまま空けておくか?」
 予定の有無をこちらで決められるのは仕事が少ない今だけの数少ない特権である。良いことかどうかはさておきとしてもだ。

「…いえ、プロデューサーさんにおまかせします。仕事の数に物を言える立場ではありませんので…」
 しかし、彼女はあくまでも謙虚にそう述べた。

 いや、謙虚といえば聞こえがいいが、どうにも彼女は控え目に演じてしまうきらいがある。
 謙虚は美徳といえど、ここでやっていく以上なんらかの自己主張の強さは必要だと俺は思っている。

「そうか…。ゆかりの所属してる事務所ではどうなんだ? 割と要望は通る感じなのか?」
 顔の向きを変えて、今度はゆかりに訊ねてみる。
「去年…ええと、デビュー年はそんな余裕もなくて、ずっとレッスンと仕事でしたね。慣れない私を付きっきりで指導していただいた記憶があります」

 ということは、今年はフリーだという事になる。

 では、翠の場合は俺はどうするべきなのだろうか。





 本音を言えば、仕事に専念して欲しい。

 まだ全く足元が安定していると言えない状況である以上、一刻も早く安定軌道に乗せて事務所の発展に寄与してもらうことが管理する立場としての希望ではある。

 しかし、彼女の人生に干渉する権利を持ったプロデューサーとしての立場から考えると、人生で一度きりの高校生活を楽しんで貰いたいという気持ちがある。


 仕事も言うなれば一期一会だ。チャンスを逃せば次に出会える可能性は限りなく低い。
 しかしかといって彼女の思い出を潰す事への罪悪感が俺の中に残っているのだ。

「…あの、心配しなくてもいいですよ。私が今いる状況を考えると、仕事が一番大事なのは自覚していますから」
 それを見透かしたかのように、翠は俺に言う。

 その瞳には、特に感情は伺えない。
 だが、彼女がそういう人間であることは、共に時間を過ごしてきてよくわかっている。

「…そうか、わかった。ありがとう」
 単に俺が責任ある社会人になりきれてないのだろう。
 事務所の方針である『翠の学生生活を壊さない』という言葉を軸に、一応なるべくその日は仕事を取らないようにしよう、そう思った瞬間だった。


「あの…、ちょっといいですか?」
 今まで口を閉ざし俺達の会話を聞いていたゆかりが、ふと声を出した。





「どうかしましたか?」
 日常的によく見る話の切り出し方に則った声に、翠が聞き返す。


「他所の事務所なので、私が言ってもいいのかどうかわかりませんが、学校で活動をするのは如何でしょうか?」
 ゆかりは、佇まいもそのままに、大したことではないといった風に提案した。

「…それがあった」
 どうしてそれに気づかなかったのだろうか。
 仕事ということに囚われて考えが及ばなかったのか。


 どちらにせよ、それを言ってくれる人が居たというのは紛れもない幸運だった。




「その手があったな…失念していたよ。翠はどうだ、やりたいか?」
「…はい、やってみたいです!」
 まごうことなき彼女自身の元気な返事が事務所に響き渡る。

 地元での仕事を見て存在を知った生徒は居ても、それはあくまでプライベートの翠の上から乗っかかっているだけのイメージだ。
 それを根本から払拭し、『アイドル・水野翠』を生徒に知らしめるには、これほど適した機会もない。

 第一、これから訪れるであろう舞台での歌や踊りのための血肉にもなる。

「今からで間に合うかどうかはわからないけど、試してみるか」
 俺は二人にそう言って、すぐさまパソコンの前に戻ることにした。





  *



「あれ、プロデューサーさん?」
 懐かしき静かな校舎の廊下を歩いていると、制服姿の翠に声を掛けられた。

 あちらは大層驚いた顔をしていたが、むしろ驚いているのはこちらの方である。
 何故なら、今は8月で夏休み中だからだ。

 翠は着慣れているであろう制服の裾をはためかせて理由を問う。


「何しにって? こっちは例の件で話をしに来てたんだよ」
 まだ彼女は校舎に残る必要があるらしいが、下駄箱まで一緒に付いてきてくれるとのことなので、せっかくだから話をすることにした。






 ――あの後、俺はすぐに行動した。

 あの、というのはゆかりの言っていた学園祭での活動だ。

 本来であれば、しっかりと段階を踏んで契約に持ち込むべきなのは重々承知している。
 それをしなかったのは根本的な俺のミスであった。

 相手方の迷惑を憂慮しつつも拒絶覚悟で電話をかけると、何と話を聞いてくれることになった。

 電話相手というのは、無論翠の通う高校の校長である。

 スケジュール上は難しくても、実現させるためにあらゆる手段を用いて俺は話に望んだのだった。


「…それで、どうなったのですか?」
 期待半分不安半分といった目で俺を見る翠。

 その気持ちの相反は、活動の有無だけではなく、成功か失敗かの結果に対するものでもあるのかもしれない。


「できればここで言いたくは無かったけど――」


 俺の言葉に、翠は心底嬉しそうな顔をした。





「じゃあまたな。次は事務所で」
「はい。お疲れ様でした」

 翠が何故夏休み中にも関わらず学校に通っていたのかというと、夏期講習があるからだった。
 私立でこの地域では有数の進学校であるこの高校では、休みにも成績不良者、あるいは希望者に特別講習を開いているらしい。
 アイドルのせいでもしかしたら成績が落ちたのかも、という心配をするまでもなく、翠は成績優秀者のグループに入っていたので、ひとまず学業の不安は払拭される。

 彼女の笑顔がとても記憶に残る。何も希望を言わずとも、やはりアイドルなら歌ってみたいと心の中では思っていたということか。

 初めての歌の披露という中、どれだけの実力を見せてくれるか楽しみである。



 ……しかし、まだ全部じゃない。


 下駄箱で翠と別れると俺はすかさず電話を取り出し、予め登録しておいた番号に電話をかけた。

 ワンコール、ツーコール。

 スリーコールを鳴らす隙もなく、相手の声が聞こえた。


「どうも、Pです。例の件ですが、学校の許可は取れました」


 翠のために、俺は全力を尽くしてみせる。





  *



「先の事では、親切にして頂きありがとうございます」
 新築という程のものではないものの、手入れの行き届いた清潔感溢れる部屋を俺は訪れていた。

「いえいえ、困っていらっしゃるようでしたので。…それで、電話でお話していたことですが」
 もはや体に染み付いた動きで自己紹介と名刺の交換を済ませ、さっそく話を切り出す。

「とりあえず本人の意思を聞きたい所――おーい、ゆかり」
「はい、どうかしましたか…と。おはようございます、Pさん」
 相手の呼声に、丁寧な足取りでゆかりが現れ、軽く一礼した。

「あちらの方からお誘いがあるんだけど、どうだ?」
 流石にお誘いだけでは内容は計り知れない。
 当然の如く、ゆかりはきょとんとして俺の方を向く。

「オフっていうのは前に聞いていたから、君を誘いたくなったんだ――」

 俺は静かに、だが語気を強めて言う。


「翠と一緒に、学校で歌わないか?」



 初めての俺の企画に、ゆかりは大層驚いた顔をした。





  *



 都内で利用しているレッスン室に、三つのステップ音が激しく響き渡る。
 三人の吐息も中々に激しく、先頭で踊る人を真似て、サイドの二人も華麗に舞っていた。


 それを、彼と俺は真剣な眼差しで眺めていた。



 ――今思えば、在校生や卒業生のアイドルが出身校でライブを開くというのはよくある話だった。
 それを早い内に気づかなかったのは完全に俺の過失だが、それを悔いている暇はない。

 やると決めてからは行動は迅速だった。

 まずゆかりを担当しているプロデューサーに連絡を取り、今回の企画を提案する。
 この時点で賛同されなければ、ただのローカルソロライブになっていた事だろう。

 仮の了承を得た所で次に翠の学校に連絡を取り、学園祭ライブの許可をもらう。



 そして今、内緒で来てもらったゆかりと共に翠へ内容を伝え、ライブのためのレッスンを行っているという訳だ。






 …目的は二つ。

 一つは、翠に支えをつけるためだ。

 いくら同校の生徒で慣れ親しんだ舞台上とはいえ、翠にとってライブはまだ経験したことのない未知の世界だ。
 その状況下では、いくら翠が練習をして自信を付けていたとしても、無意識な緊張により思わぬミスが出て、大事な地元での評価を落とす可能性だって十分に考えられる。


 二つ目は、彼女の東京進出の足がかりのためだ。

 残念ながら、今の翠は知名度で言えば全然足りない。知っていれば凄い、というまだまだな状態である。

 しかしゆかりは違っていた。
 デビューしてからは二年目と芸歴自体は浅いが、実力派の人間で、その可憐なルックスも相まって色々な年齢層から人気を博す、事務所きっての大物新人アイドルだった。

 そのアイドルを一時的でも翠と組ませてライブをさせたらどうなるかといえば、考え無くとも解る通り、否応なく翠も多くの視線を浴びることだろう。

 ただ、組ませただけではメディアの食いつきも良くはならない。
 そこでゆかりの事務所の力を使ってメディアにたくさんの餌を撒いてもらったのだ。

 向こうの事務所はアイドルを何十人も抱える立派なプロダクションで、マスコミへの働きかけもそれなりの影響力を持っていたのだ。

 俺はそれを利用して、メディアを呼んだのだ。勿論全国系である。


 当初、相手方は難色を示していたが、ゆかりの愛知への活動のきっかけになるであろうこと、そして何よりゆかり自身がそれを希望したため、実現へと一歩進めることとなった。





 日程はこうである。

 彼女の高校の学園祭は二日あり、内訳は一日目は内輪向けで二日目は地域住民の入場を制限しない開放日となっている。

 主に一日目では、クラスや学年ごとの出し物を披露しあい、二日目は校内を全て開放して屋台やイベントなど、部活や有志の集まりでそれぞれの持ち味を生かして色々な物を催せることになっている。

 一番視線が多くなるのは当然二日目で、翠達のライブも二日目に執り行われる。

 しかし、サプライズでやっては目的を果たせないので、学園祭のパンフレットに特別ライブの事を記載してもらい、更に付近の地元住民への告知も行っておく。

 当然ローカル局での宣伝も忘れてはいない。
 急な話で断られるかと思いきや、以前仕事で良い印象を抱いてもらえたのか、特別に枠ももらってゲスト出演と当日の様子を放送してもらう事を約束してもらえたのだ。


 ついでに言うと、あの商店街も随分乗り気で、特別出展として学園祭にも出店に参加するらしい。





「…あなたの目から見て、翠はどう映りますか?」
 傍で腕を組んでじっと眺めるゆかりのプロデューサーに俺は問いかける。

 ゆかりの方は前評判に偽りなしといった感じで、振付師がするステップを忠実にこなしていた。
 対して翠も懸命についていっているように見える。


 寸刻考える素振りをして、一つ言う。



 …普通、と。







「普通、ですか」
 予想していなかったかと問われれば、俺は否定する。


 事実だ。翠は普通だった。

 確かに悪くはない。それまで必死に練習してきたおかげで基礎的な動きはサマになっているし、今だって手本通りに踊れている。


「思っていたよりは動けてはいる。だが、それだけだ」


 しかし、それはあくまで踊るだけの状態だ。

 実際ライブでとなれば、リズムを合わせて踊ることは当たり前で、更に歌も歌わなければならない。

 プレッシャーと疲労に押し潰されないで、歌い切ることができるだろうか。


 そういう意味で、彼は普通と答えたのだ。







「初めてだから、という理由でファンは見てくれない。見るのはそこで踊る今の彼女たちの姿なんだ」
 彼は静かに言った。

 例えばテレビのドキュメンタリー番組であれば、本人たちの苦悩や待ち受ける課題などが鮮明に描かれ、さながら物語の主人公のように視聴者は理解を進めていく。

 しかし、今の状況はそうではない。
 完成品だけを見せなければいけないのだ。


 必死に踊る二人。
 今日はダンスの確認と、当日の流れの説明を行う。

 それが次回次々回と回数を重ねる毎に、歌や舞台への入りなど徐々にやるべき内容が増えていく。

 今は出来ているように見えても、そこで初めて翠が出来ているかどうかが浮き彫りになるのである。



 出来なかったでは済まされない。


 成功しか、道はないのだ。





 二度目の休憩。

 体の慣らしも兼ねているので、インターバルは長めに取られていた。


 中断を宣告された瞬間に床に倒れこむことは流石無いものの、翠もゆかりも膝に手をついて懸命に呼吸をしている。

「ひとまずお疲れ様、二人とも」
 いつも通り、タオルとジュースを俺達二人がそれぞれ渡す。彼女たちは視線を合わそうとしてすぐにタオルでそれを隠した。

「…ふぅ。ど、どうでしたか、プロデューサーさん」
 恐らく二人が最も気になっている事柄をゆかりが訊ねた。この時のプロデューサーというのは俺ではなく、ゆかりの担当プロデューサーの事だ。

 まあ中々だ、というような、俺への答えと同様の回答をすると思いきや、彼はとんでもない事を言い出す。


「…全然駄目だ。今すぐにでも中止にしたほうがいいんじゃないか?」

 一瞬で、空気が凍りつく。




「そ、そんな…」
 俺が言ってないにも関わらず、むしろ、ショックはゆかりよりも翠の方が大きかった。
 彼女は、呆然とした表情で彼を見ていた。

 一方ゆかりは、息を吐き出したいのを堪えて唇をキュッと結んでいる。

「お前のダンス自体も勿論だが、決定的に動きにキレがない。ダンサブルな歌で、それは曲を侮辱しているとしか思えない」

 先ほどの練習で流れていた疾走感溢れる曲調が頭に擬似再生される。
 確かに、肘の回し方、足首のひねり方の違いで全体のイメージが大きく変わってくる。

 しかし、それは言い過ぎである。
 少なくとも練習一回目の人相手に言うべき言葉ではない。
 とりわけ翠に対しては直接言っているわけではないものの、言葉の節々に棘を感じた。


「ちょ、ちょっと…」
 担当アイドルでもない相手に何を、と俺が制止しようとすると、それすらも遮られた。
「いいか、相方の方はどこの出身かは知らないが、やっていることが見えていない。自分の足元がかろうじで見えている程度だ」

 彼は息がまだ整っていない二人に対して続ける。
「いいか、自分を見るな、相手を見ろ。空気をちゃんと見ろ。それに乗れなければ、ただ適当に即席で踊っているのと変わらんぞ」

 それだけ言って、彼は元の壁際に戻っていってしまった。




「…あー、えーと、まだ一回目だからな。気にしすぎないで、流れだけはしっかりと覚えて次回に繋ごう」

 疲労した二人から出る重苦しい空気を俺は換気することができず、それっぽい事を言って逃げ出してしまった。

 はい、と背後で二人が小さく呟いた声が、酷く痛々しく聞こえた。





 ……ちょっといいですか。


 練習を再開している部屋を後にして、俺は彼を呼び出した。
 防音性は高いが、廊下からも激しい曲が小さく漏れ出ている。


「…言い過ぎじゃないですか? おかしいですよ、まだ一回目なのに」
 この業界にいる時間は遥かに彼のほうが長い。先ほどの口ぶりも、何度も言ってきたかのような声色だった。

「おかしいって? 何がだ?」
 交渉の場で聞いた丁寧な口調は完全に消え、彼の本当の声が聞こえる。
「だって今日が初めての練習で、ダンスも完全に覚えているわけじゃないのに……、少なくとも、そういう言葉はもっと後で言うべきじゃ」

 彼は考えこむまでもなく、即答で、しかも俺の予想外の返事だった。

「確かに、そうかもしれないな」

 今の俺には、考えていることが全く理解できなかった。





「じゃあ、どうして」
 俺は詰め寄る。翠の落ち込んだ顔がすぐに浮かんできたからだ。


 しかし、彼は気にするような素振りもなく、壁に背中をつけた。
「…ゆかりの動きは見ていたか?」
 彼はゆっくりと話しだした言葉を俺は飲み込む。

 彼女の担当は俺ではないのだから、ずっと見ていた訳ではない。
 しかし、素人目にも動きが良いのは明らかで、決して悪いと言い切れる要素は少ない。


 それをありのまま伝えると、彼は鼻で笑った。
 何がおかしいんですかと問えば、腕を組んで、彼は答える。

「本当のゆかりを見ていないからそんなことが言える。…アイツの本当の実力はこんなもんじゃない。もっと激しくて、もっと綺麗で、もっと滑らかに動けるんだ」

 ――だが、今はそうじゃない。何故だか解るか?


 彼の言葉を、限りなく細かく噛み砕いてみる。





「俺が見つけてこれたのが奇跡なくらい、ゆかりは飲み込みも早いし、練習熱心だ」
 ゆかりは、本来はもっと上手く踊れる。

「一番凄いと思ったのは前のコンサートで踊ったジャズダンスだ。長期戦になると思っていたが、他のメンバーに比べてもかなり短い練習日数で完成させていた」
 ジャズダンスとは、バレエの要素を取り入れたダンスの一ジャンルである。
 複数人で踊り、動きの違うダンスをそれぞれ合わせてさながらミュージカルのように踊る面白いダンスだ。

 当然ゆかりはバレエをやってはいなかった。
 なのに他のメンバーより練習日数が少なくて済んだのは何故か。

 練習日数という言葉に引っかかって推測すると、なるほどよく意味がわかった。

「合わせてたんですね」
 俺がそう答えると、一度頷いて彼は言う。

「見えていない所での練習量が半端じゃなかった。決して怯まず、文句を言わず、あっという間に完成に近づけたのを見た時は、経歴を詐称しているんじゃないかとすら思ったぐらいだ」

 ゆかりは、俺が思いよりも遥かに凄い人材だった。


 しかし、と俺は思う。
 そんなにすぐに覚えられて、基礎も翠の上を更に行く彼女が、あの程度…俺が感じている分には中々良い程度のダンスに留まっているのか。



 ……まさか。

 その言葉に、彼は否定をしなかった。





  *


 廊下から戻れば、俺の想像だにしない光景がそこにはあった。


 ゆかりは、翠を指導していた。それも、普段では決して見ることのない厳しい目つきで。

 翠も完全に予想外の事だったのか、困惑しながらも必死で話を聞いていた。

 尋常でない雰囲気を察知した先生もそこに加わって、臨時の反省会のような様相を呈していたのだ。


「ゆかりは、優しい」
 彼は、俺にだけ聞こえるように小さく呟いた。
「そのダンスの時だって、もっと動けるのに、メンバー全体の完成度を考慮して、自らのレベルを落として本番に向かっていった」
 たとえレベルが高かろうと、全体とズレていれば話にならない。そういった意味では、彼女の判断は至極正しい。

「当然、やろうと思えばもっと今も上手く踊れる。だが、水野翠の感情を察して、わざとややぎこちないように見せていたんだ」
 優しいというのは、恐らくゆかりなりの気配りの結果だろう。

 人が皆、自己反省の基客観的な視点を持って実力向上のための最短ルートを辿れる訳ではない。
 圧倒的な差をつけられているのを見た相手が、闘争心を失い離脱していく可能性だって十分にある。

 だが、それは実力主義たるアイドル業界では当然の摂理だ。





 にも関わらず、ゆかりがそれをしなかったのは何故か。


 思うに――女心のわからない、希望的観測でしかないが――ゆかりは翠に対して親近感を抱いていたのかもしれない。

 使える時間を殆ど練習に費やして、指導してくれる人のために努力して、共演者のために気を遣って。
 自身の使えるあらゆる要素を用いてアイドルになるために全力を尽くしている。

 そうして過ごした一年とは限りなく違う、本来の水本ゆかりとして対応できる相手。

 それが水野翠という存在なのではないだろうか。


 この推察を基に二人の姿を眺めていると、ぼんやりと何かが見えてくる。

 彼の話を聞く限り練習の鬼であるゆかりと、必死に学び、ライバルに追いつこうとする翠。


 二人は、とても似ていた。





 はっきり言って、それが真実かどうかはわからないし、彼女の気持ちを正しく読み取ることは国語の問題でもない限り不可能である。

 しかし、彼の先ほどの言葉により豹変したゆかりの態度から察するに、ああいった側面を見せることを怖がったのかもしれない。

 つまり彼はあの言葉の裏で、こう言ったのだ。


 遠慮はいらない、本気でやれ、と。




 もしも予想があたっているのであれば、俺はとても嘆息する羽目になる。


 何故なら結局ゆかりは翠を信頼していなかったからだ。


 ほんの少し前に起きた、ただの偶然でしかない出会い。

 そんな短時間で大したきっかけでもない出会いでも、翠はゆかりを信頼していた。
 言われなくても、それだけは俺にも解る。

 彼女と話すときの笑顔は、俺への笑顔と正しく同じだからだ。






「でも、お前の担当アイドルには悪いことをしたかもしれないな」
 反省点を踏まえた上で再び曲と共に踊りだす二人の背中を見ていると、ぽつり、彼は呟いた。
 たった一日の間でも、彼女たちの動きのキレは格段に良くなっている。
 まだまだ翠はゆかりについて行っている状態ではあるが、いつか、そのうち必ずシンクロできるはずだ。

「…そうでもないですよ」
 俺は言う。

 彼の言う通り、隠された意味を推察することが出来ていなければ、俺もその言葉に同意し、この立場であろうとなかろうと彼を殴り倒していたかもしれない。


 だが、舐めないで欲しい。

「練習熱心なのは……あなたの担当アイドルだけじゃない」

 水野翠という人間の努力の才能を。




   *



 彼は、終了の時刻を待たずに一人で帰って行ってしまった。

 力を意図的に抑えて練習するゆかりを窘めるために、ここに来たのかもしれない。
 他のアイドルの様子を見に行くという言葉を残した彼の背中には、初めて見た時の威圧感はあまり感じられなかった。



 練習が終わる。彼女たちの反復練習は、時の流れを著しく加速させていたのだ。

 今後のダンスの指導内容を二人に伝達すると、振付師は一礼して練習を終了させると共に去っていった。


 俺は振付師に一礼して見送ると、二人分の水分とタオルを持って近づいた。






「…ごめんなさい、翠ちゃん」
 ゆかりは息絶え絶えのまま、視線をずらして翠に謝った。俺はそうしてできた二人の横顔を遠目で見つめていた。

 彼女の声はとてもじゃないが元気ではなかった。
 無論疲労だからではなく、純粋な謝意だ。

 騙していたからか。それとも先輩として厳しい言葉を浴びせてしまったからか。あるいは両方かもしれない。

 突然のゆかりの謝罪に一瞬だけ困惑したものの、彼女は汗で濡れた手でゆかりの手を取った。

「ゆかりさんは、とても上手なんですね。尊敬します」

 翠が怒るか、最悪捨てぜりふを吐いて去って行くとでも思っていたのだろうか、翠以上にゆかりは驚いた目で彼女を見た。

「あなたのプロデューサーさんが言っていた意味が、踊っているとよくわかりました。多分、私の実力に合わせてくれていたんですね」
「え、あ…」

 上、下、と視線が動く。
 それにも動じず、手をとったまま翠は語る。

「残念ながら、私はゆかりさんのような才能はないのかもしれません。それでも、プロデューサーさんが私を見つけてくれたから、そしてゆかりさんが私のために教えてくれるから、諦めることだけはしません」
 ……私は絶対に上手くなってみせます。

 だから、次も本気で教えて下さい。


 とびきりの笑顔…俺やゆかりに見せていたあの笑顔のまま、ゆかりの手を今度は両手で持って、まっすぐに彼女の瞳を貫いた。





「なんだか、翠ちゃんは他人じゃないような気がしてきました」
 ふふ、と小さく笑う。

「これだけキツく言ってしまっても、前を向いていけるその姿。好きです」
 類似という言葉が彼女たち二人の間を繋ぐ。

 似ているから、きっと分かり合える。
 同一人物ではないので相容れない部分も必ず出てくるが、きっとそれすらも癒合してしまうだろう。

「…ありがとうございます。ゆかりさんにそう言ってもらえて、私、嬉しいです」

 翠にとっては、ある種初めての友達だ。
 その人が、自身にとって最高のパートナーであることを彼女なりに感じ取ったのかもしれない。
「嫌いになったりはしません。ですから、もっと私に教えて頂けませんか?」

 彼女の晴れ晴れとした顔がそれを物語っていた。

「…はい、翠ちゃん」

 尊敬と親近感が混じった表情で互いを見て笑い合っている二人だった。





「お疲れ様、二人とも」
 片手で一つづつ持っていたタオルを二人に手渡した。

「わ。プロデューサーさん、お疲れ様です」
「お疲れ様です、Pさん」

 お互いの手を話し、力の抜けきった腕で髪をタオルで挟んで拭く二人。
 きらびやかなストレートヘアーも、汗で肌にへばりついているのが運動の激しさをよく表している。

 大体拭き終わるのを見計らって、俺なりに二人に言葉を送る。

「…ゆかり。本当に驚いたよ、俺。まさかこんなにきっちりと踊れるなんて全く思わなかった」
「ありがとうございます。…そして翠ちゃんを傷つけるような真似をしてしまい、申し訳ありませんでした」
「お、おい」
 制止する間もなく、頭からタオルを離してゆかりは深く頭を下げたのを見て、酷く狼狽した。
 自己を見失わず、自分のした行動を客観的に考えて話せる15歳がこの世に一体何人いるのか想像したからだ。

 俺がどうしようかとわたわたしていると、ゆかりの隣にいる翠ははっきりとした声で『大丈夫です』と言った。

「何も問題はありませんよ。ゆかりさんが教えてくれるなら、私ももっともっと上にいけそうですから」

 翠は、たった一回の練習を経て、自分の体に自信をあふれんばかりに込めていた。





「時間もたくさんある訳じゃありません。だからこそ、ゆかりさんの力が必要だと思ってます。どうか、今後ともよろしくお願いします」

 翠はゆかりに向かって礼をする。弓道から培ったノイズのない綺麗なお辞儀だ。

「こちらこそよろしくお願いします。絶対に成功させましょうね」

 目標は学園祭での限定ユニットライブ。


 事務所の垣根を超えた、翠の初ライブだ。




  *



 夏休みが空けると、翠のスケジュールは更に多忙になる。

 以前に比べ増え始めた仕事に加え、多大な時間を割くレッスン、そして二学期を迎える学校だ。

 ちなみに夏休みの間に弓道のインターハイが開催され、翠率いる弓道部は残念ながら優勝旗を持ち帰ることはできなかったものの、準決勝まではコマを進めることが出来たのだった。
 俺は両親と共に観戦に行き、終わった後は涙を見せることもなく、後悔なく、憂いなく、やりきった顔で部活の打ち上げに向かっていったのが印象に残っている。

 その光景もテレビ放送され、多くはないが観客席にファンが訪れたのは余談である。



 そして今。

 俺とゆかりのプロデューサーは、もうかれこれ何十回目となるレッスンを普段通り見ていた。





「流石にちょっと疲労が祟ってるな」
 彼は腕を組みながら二人を見てそう言った。休ませるか、と呟いたのだ。

 今までのレッスンだけでも厳しいのに、そこに勉学も加われば翠がバテるのも止むを得ない話だった。

 ゆかりも翠ほどではないが、前回よりも微かに動きが若干鈍い。


 これで無理をして怪我でもすれば最悪の事態になってしまう。
「そうですね、それがいいでしょう」

 彼の言葉に俺は賛同すると、トレーナーも了承し、ひとまず休憩を取ることになった。



「もう基本的な動作は完璧に覚えられただろう。あとのレッスン日程はお前に任せる」
 何故だか、彼は専ら彼女たちに対して俺を介することが多くなった。

 …全部決めろ、ということか。

 まあ、裏の根回しに関しては彼が大部分を受け取ってくれたので、仕事を回してくれたと思えば俺も渋る理由はないのだが。

 ゆかりがきっちりしているのは俺もよく知っている。きっと仕事のスケジュールも彼から教えてもらった通り記憶しているのだろう。

 それを踏まえて、俺を信用して任せてくれたということだ。





「おーい、ちょっといいか、二人とも」
 鏡の傍に置いている持参した荷物の所で座っていた二人の元へ俺は向かう。

「あ、Pさん…。心配させてしまってごめんなさい」
 開口一番、ゆかりは突然謝罪した。

 あまりにもいきなりすぎて困惑したが、すぐに我に返る。

「いや、日程の問題で少し焦りすぎた。ゆかりは悪くないよ。もちろん翠も」
 やはりというか、一年の差は凄まじく感じる。メンタルだけなら翠もそれなりに強くはあるが、体力面では歴然とした違いがある。

「それでだが、二人とも学校生活も始まったから、これからはこうやって集合してのレッスンは少し控えることにする」
「いいんですか? もう本番も近いのに…」

 翠は心配そうな声を上げるが、きっぱりと俺は言ってやる。

「大丈夫だ。俺が見た分には、動き自体はもう十二分に動けている。だからあとは各々の動きの精度を上げながら体調を万全に整える方が良い」

 疲労した状態で本番の日を迎えるほど馬鹿な人間はいない。

 どうせ練習した状態の十をそのまま本番で十発揮できるなんて事はありえないのだから、なるべく本番に十に近い状態で臨む方に持っていくのが賢明だろう。






「スケジュールは…そうだな。基本的に日曜日はここで二人共レッスンで、土曜日は不定期に。それ以外は、個人で疲労を考慮してそれぞれトレーナーにレッスンを見てもらってくれ。くれぐれも勝手に無家な自主練習はしないこと」

 わかりました、と各々が返事をする。
 二人とも、自主練習が行き過ぎる可能性が低くないのだ。そこだけは強く言っておく。

 念のため、総ページの半分がそろそろ埋まろうかという状態の黒いスケジュール帳を開く。
 そこには翠の現在の仕事の入り具合が記入されている。

 ゆかりの学校のこともあるから、平日に時間を決めて集まるのは難しい。
 だから日曜日は集まってタイミングの調整を、残りは個人で調整させることを選んだのである。

「不安になるかもしれないが、二人の上達具合は俺が保証する。今までのレッスンをちゃんとこなせてきたんだ、本番までこれぐらいのペースでも問題ないさ。…これでいいか?」
「はい!」

 俺の言葉に納得してくれたかどうかは不明だが、二人は元気に声を上げてくれる。


 その後二人に体の状態をトレーナーにチェックさせてから、先程より軽めのレッスンが再開した。





  *




「翠ちゃん、楽しそうですね」

 午前の営業を終え、事務所で買ったばかりのコンビニの弁当を食べていると、隣のちひろさんはそう言った。


 本番前のニ週間を調整期間と定めて、流れの確認と体調の管理をさせている今、翠やゆかりは並行して学園祭の準備に取り組んでいることだろう。

 よく顔を合わせる翠や、週末しか顔を合わすことのないゆかりとも、そういったプライベートの話をよく聞いている。

 ゆかりからはメールがたまに来る程度だが、翠は実際に仕事やレッスンで会うので、仕事帰りの移動中や休憩中などで楽しそうに話してくれていた。

「高校最後、ですからね。ああ、俺もあんな感じだったらなあ」
 割り箸に付いたご飯粒を食べる。

 俺の高校時代は、あそこまで楽しそうにはやっていなかった気がする。
 そういう意味では彼女の一挙一動がとても羨ましく感じた。






「…プロデューサーさん。翠ちゃんのこと、よく見てあげてくださいね」
 お互いの学生時代を話のネタにしていた後、ちひろさんは突然静かに言った。

「見ていますよ。担当一人だけですし」
 はは、と笑ったが、それは反響しなかった。

「そういう意味じゃないんですけどね……。まあいいです。ともかく、買い被りすぎることだけは気をつけて下さい」

 買い被るも何も、翠は仕事に対しても真面目で練習熱心で、何でもやり通せる素晴らしい人間なのは事実だろう。
 例え高みに居る人間が隣にいても決して折れない強さがある。

 俺の役目は、そんな彼女の心を後ろから支えてやることだ。

「大丈夫ですよ。しっかりとコミュニケーションは取っているつもりですから――あ、そろそろ次の約束の時間か」

 休憩は一時間きっちり取られている。しかし営業先の方との打ち合わせの約束が少し早めに設けられているので、俺はさっさと空箱をゴミ箱に捨てる。

「じゃあ行ってきます、よろしくお願いします!」

 まだ冷めやらぬ太陽光の下を駆け抜けるため元気よく挨拶をして、事務所を後にした。





   *




「今度学園祭で特別ライブを行います、よろしくお願いします」
 たとえいつもの制服に身を包んでいようとも、今の姿はアイドルだ。


 商店街。

 翠の起点となった縁深い場所で、翠と俺は学園祭の広報を行なっていた。
 学校に掛けあってチラシの作成を許可してもらい、日時と主な模擬店やイベントを記載したカタログ紙を商店街で配っているのだった。

 二つの駅の通り道となっているおかげで、チラシは飛ぶように人の手に渡っていく。

 流石アイドルという訳か、少しだけ間を空けて配る俺よりも遥かにチラシがなくなるスピードが早い。

「…まあ、不審なスーツ姿の男とアイドルじゃな」
 心の中で乾いた笑いをあげつつも、配布を継続した。







「…あ、もうないのでしょうか」
 ものの数十分も経てば、シャッターの傍に置いたダンボールの中にあったチラシが全て消失していた。

 元より、今回の配布では翠の友人にも広報担当として共に列をなして配布をしているため、なくなるのも時間の問題だったということか。


「翠ー、まだチラシ余ってるー?」
 とたとた、と離れた所から女子生徒が駆けて来る。
 ショートボブの似合う小さな女の子だ。
 仲の良い友人では、彼女のように比較的大人しめの子が多いようだった。

「いえ、もう完売です。たくさん来てくれそうですね」
 声に気付き振り向いた翠はそう答える。
 その顔もどこか嬉しそうだ。

 彼女の元気な声を聞いて、他に配布を担当していた友人らも全員集まる。
 翠を含め、合計五人だ。

 全部配りきった事を翠が改めて伝えると、各々が嬉々として喜びを伝えあう。


「流石アイドル様だね! 友人として鼻が高い!」
「あはは、あんたは何も関係ないのに!」

 そんな声が、翠を一層嬉しくさせた。






 談笑している間に、俺は事前に買っておいたペットボトルの入った袋を皆に見せる。

「みんなもありがとう。学校に戻る前に、俺からジュースのプレゼントだ。好きなのを選んでくれ」
「おー、流石マネージャー! 気が利くね!」
「マネージャーじゃないんだけどなあ…」
 一番元気の良い子が強烈な笑顔を俺に飛ばした。
 その子が袋を覗き込めば、他の友人らも順々に集まる。

 人数も多くはないので、あっというまに袋は空になり、皆が感謝の言葉を口々にして飲み始めた。
「目上の立場の人ですよ、もう…」
「いいんだよ、翠以外からすればただのおっさんだしな」
 全く、と呆れた様子の翠ではあったが、俺は別段気にすることでもなかった。
 年頃の女子高生からすれば、俺みたいな人間には大体こんな感じの対応だろう。

「プロデューサーさんはまだまだ若いですよ。おじさんだなんて言わないで下さい」
「はは、ありがとう」
 まだ三十路にすら言ってないのだが、ここで働いているとどうにも年齢があやふやになってしまう。

 皆は俺と別れ、翠も交えて談笑しながら学校への帰路につくことになった。

 当たり前だが俺は入校できるはずもなく…いや、そもそもするつもりもないが、予定通り商工会の方へ挨拶に向かうことにしたのだった。






  *



「どうですか、翠は」
 相変わらずエアコンの効いた心地良い商工会事務所で、俺は会長に訊ねる。
 少しだけ小太りだが、若いころはぶいぶい言わせていたんだとでもいいそうな会長は、和やかに笑ってみせた。

「いい方向に行ってくれてますな。聞いて回った分だと、売上が伸びた店舗も多いみたいで……いやあ、本当に頼んでよかったと思うとります」

 その表情からは一遍の曇りもなさそうだ。

「何よりです。もし以前と変わらないようであれば私も申し訳なく感じるところでしたので」
 実のところ、これは正直な気持ちである。

 せっかく信用し、共生を目指したのに片方だけ利益を得るようであれば今後使ってもらえなくなる。

 翠がアイドルを初めてまだ半年も経っていないが、東京でも小さな仕事だが少しづつ増えるようになっているのも、ここでの経験があってこそだ。
 そして、現在住まいにしているのは実家だから、近場で仕事ができるのもメリットである。





「…あ、翠のサイン、丁寧に飾って頂いているんですね」
 こちらから僅かに見える色紙は、色紙立てに置き、何やら説明書きの紙も用意してさながら展示しているようだ。

「そりゃ、我が商店街公式スポンサーになっているアイドルの色紙ですから、参拝させて頂いておりますよ」
 …それは如何なものか。

 ともかく、本当に大事に扱ってもらえているということが判って俺は安堵した。


 そこで、俺は最近取った仕事の内容を思い出す。
「そうでした。実はですね、今度週刊誌の特集ではありますが翠がグラビア撮影することになりまして」
 会長の鼻の穴が少し大きくなったのは見なかったことにしておこう。


「いわゆる過激なものはありませんが、一日の私というテーマで制服と私服両方の写真を撮るそうです。もしかするとこちらの商店街を背景に選ぶかもしれませんがよろしいでしょうか?」
「もちろん、もちろんいいですよ」

 どうして二回言ったのかは不明だが、その返事はさしずめ快諾と評して問題ないだろう。






 その後も少し雑談を交えてから、俺達はソファから立ち上がる。

「本日は場所を貸して頂きありがとうございました。今後とも良いお付き合いができますことを願っています」
 軽く礼をして、握手を交わす。

 彼及びこの商店街の人たちとは、既にビジネスライクな関係を超越して若干親戚的な関係性を築いていた。

 翠に対して店舗の従業員が気付くのはもちろん、俺にすらも声を掛けてくれる人がいるくらいだ。
 本来プロデューサーがなるべき立場ではないような事も考えはするが、根本的に人間として嬉しくないはずがない。


 お互い笑顔を見せて、俺は商工会を後にする。


 今日は翠が学校から帰ってトレーナーとレッスン。

 俺は明日の東京の打ち合わせのために、今から東京へ帰るのだった。





  *



「おはようございます、プロデューサーさん。早いですね」

 暦の上では秋といってもまだまだ残暑は色濃く残り、少し多めに動けば皮膚の上には汗がひたひたと零れ落ちる9月。


 既に二学期が始まって一ヶ月が経とうとした今、翠の通う高校は学園祭を迎えていた。
 残念ながら仕事としての学園祭は二日目であるため、俺は一日目に高校へ行かず、東京で色々冬にかけての営業を行なっていた。


 早朝。

 本来であれば本校の生徒側は普段より早めの程度に登校し、模擬店などの下準備を済ませる一方、俺達は誰よりも早く学校の正門の前に到着していた。


 まだ鳥が鳴く小さな声と川のせせらぎ以外に何も聞こえない静かな場所で、俺が腕時計を見ながら今日の流れを暗唱していると、翠が姿を表した。






「約束よりも早い…いや、お互い様だな」
 緊張してな、と俺が笑いながら言うと、翠も苦笑して同意した。

「じゃあ翠は先に体育館に行って体を慣らしておいてくれ。多分そろそろ機材が来るから、それから俺も行くよ」

 学校側及びゆかりのプロデューサーと協議した結果、演奏は生で行う事になった。

 実績が少ないバンドマンを使うことで、比較的安価で間に合わせられたのだ。
 とはいっても、向こうの事務所では一度雇ったことのある人達なので、そこに不安はない。

 一応曲の製作者である軽音楽部に演奏をお願いするプランもあったが、リスクを含め様々な理由で断念することとなった。

 新人がやるライブとしては舞台の客層や集客人数は相応だが、最初からバンドマンを使うのは当然ながら豪華である。






「――と、来たか」

 翠と別れて十数分後。

 視線の先、川沿いを走る車が数台こちらに向かってくる。

 この時間にここを目的もなく通る車など皆無だろう、俺は手を振ると車は接近を続け、校門横のフェンスに停車した。




  *


「では打ち合わせ通り、設置お願いします」
 軽い返事と共に、バンドマンたちは舞台の上で楽器を組み立て始めた。

 舞台に運ぶまでは俺も手伝ったが、如何せんそれ以上のことは何もわからないので丸投げしてある。
 その方が相手にとってもやりやすいだろう、俺は彼らに設置を任せ、体育館の扉から外を眺める翠に近づいてそっと肩を叩いた。


「調子はどうだ?」

 一瞬驚いたものの、振り返って叩いたのが俺だとわかると安堵した表情を見せる。

「可もなく不可もなく――いえ、万全と言うべきでしょうか」
「無理するなよ」
 巫山戯て笑ってやる。緊張してないだなんて事はありえないのだから。


「あと数時間経ったらお前とゆかりはあそこで歌うんだぞ。初めてのライブが学校だなんて、運が良かったのかもな」

 その点に関しては、提案してくれたゆかりに感謝する他無い。普通の人間であれば気付いて当然な事なのだから、見落としていた俺の恥は尽きそうにない。

「…こうして、皆の前で歌うことができるのもプロデューサーさんのおかげです。期待に応えるためにも、絶対に成功させてみせます」

 にこりと口角を釣り上げる可憐な表情を俺に向ける。

 普段落ち着いているせいか実年齢以上に思わせてしまいがちな翠だが、時折見せるこの笑顔はとても彼女を歳相応に見せた。






 ――無機質な着信音がポケットから流れる。

 液晶画面に映ったのはゆかりのプロデューサーから送られたメールだった。

 内容には、近くの駅からタクシーで来ている事、後もう少しで着くこと、着いてからの行動の確認が書かれてあった。
 全く以て準備やスケジュール管理に余念が無いな、と文面を見て感心する。

 ひとしきり読んで頭に叩きこむと携帯を閉じ、視線を再び翠に向ける。

「あと少ししたらゆかり達がこっちに到着するらしい。着いてゆかりが休憩をとったら、二人で動作を確認しつつリハをするからよろしく頼むぞ」
「はい!」

 元気よく答える翠に一安心しつつ、舞台上の準備の進捗状況を確認して、俺は体育館を後にしたのだった。






  *



 閉めきった体育館の中に、いくつかの音楽がしきりに流れている。

 他の生徒に聞こえないよう配慮したこの空間で、二人は目線を合わせながらステップを踏んでいた。


 専ら楽器には門外漢なのでよくは知らないが、まず各々の担当が音を調整してから、進行内容に沿って演奏を開始した。

 予めバンドマンと翠とゆかりの二人を対面させ、進行について打ち合わせは行っている。紙面にて渡しているので、予想以上にスムーズにリハは進んでいく。


「さっきの所、ちょっとワンテンポだけズレてるな」
 舞台の正面から間近で二人を見ると、僅かではあるがミスが見つかる。

 すると俺は演奏の区切りの所で中断させて逐一指摘し、間違えた箇所の少し前から再開させる。

 やはりレッスン室とこうしたいつもと違う風景の中で踊るのとでは感覚も違う。人同士の距離が離れているためか、反響した音に惑わされて翠のステップがややズレていた。

 練習で起きなかったミスが本番で起きないように、今の内に俺とゆかりのプロデューサーが全力で彼女たちをサポートしてやる。






 念入りに確認しつつ、本人たちの体力を考慮した上でそろそろ休憩をしようか、と腕時計を見ると、既に他の生徒が学校に来始める頃合になっていた。

 実際に体育館の扉を開けて外に出てみると、遠目からでも様々な生徒の姿が確認できる。


 ゆかりのプロデューサーに了承を得てから、もう俺ですら聞き慣れた曲をキリの良い所で止めさせて舞台にいる皆を集め、開始時刻までの注意事項を連絡する。

 学園祭二日目が始まるのは午前9時。そして二人のライブが開催されるのは10時半である。
 まだ9時にもなっていないが、翠にとってはクラスの方の準備があるので、決して余裕がある訳ではない。

 ライブが始まるまであと2時間程度。

 翠の背中を見送った後、暫くの間休憩を取ることにした。





「Pさん。お疲れ様です」
「お疲れ様。本番はまだだけどな」

 先ほど担当である彼と何か話し合いをしてから、ゆかりは俺の下に来た。
 それは挨拶としては至極正しいが、内容はもう少し後で言うべき言葉である。


「普通なら翠一人でやるべきライブなんだけど……。わざわざ来てくれてありがとう、ゆかり。本当に助かった」
 東京からこちらまで来るのには近畿地方や中国地方へよりはいくらかマシだが、それでも遠いことは遠い。
 一応彼女たちの事を考え遅めに指定はしたが、それでも少し無理をさせてしまったことには間違いない。

「いいえ。私が言い出したことですし、翠ちゃんとこうしてライブができるのは楽しみに感じてますから」
 翠に似た丁寧な言葉づかいでゆかりは小さく笑う。
 その表情に偽りや曇りはない。


 彼女の小さな体には、どれほどの経験があるのだろう。
 有能なプロデューサーの手中でどれほど練習に明け暮れ、試練に立ち向かってきたのだろう。

 翠よりも年下であるのに、たった一年の差を実感させられるぐらい、彼女の落ち着きっぷりは際立っていた。







「俺が言うのもおかしな話かもしれない…けど頼みたい。もし本番中に翠がトラブったら、助けてやって欲しい」

 親ではない俺が言って納得できる話ではないのは事実だが、たった数ヶ月一緒に仕事をしてきただけで親心が湧いてきたもの事実である。

「もちろんですよ。今日は翠ちゃんの学友のために設けたライブです。私も、精一杯役に務めたいと思います」
 見方を変えれば、ゆかりが持つ翠への感情を利用したも同然である。

 心苦しくないはずはないが、それでも俺はゆかりの善意に頼るしか術が残されていのだ。

 優しい雰囲気が印象に残る彼女の微笑み。

 その彼女の笑顔が曇ることが無いように。そう俺は心の中で強く祈った。






  *



 踊る、踊る。

 壇上で、二人の少女が軽快に踊る。


 つま先は四方八方に向き、体は縦横無尽に舞台を駆け巡る。

 髪は揺れ、韻が踏まれ、足取りがビートを刻む。


 その音を聞いている皆の心臓の鼓動が、早く早く、次へ次へと聞き急いでいた。




 それは舞台袖で彼女達の横顔を見る俺も同様だった。







 甲高い音を挙げるエレキギターと共に、観客の動きが良くなる。とりわけ生徒達にはこの激しいリズムがお気に入りのようだった。

 踊っているのは一人ではない。一人だと感じることの出来ないコンビネーション・ダンスがステージを横切るように披露されると、より雰囲気は盛り上がった。

 普段の落ち着きが剥がれ落ちたかのようなキレのある動きに彼女を知る友人たちはきっと驚いただろう。

 ここに見えるのは、アイドルとしての水野翠だということを、知らしめてやれ。



 体育館に鳴り響く音に潰されることなく笑顔を見せる翠を見て、俺はそう呟いた。





  *



 翠は舞台側の暗幕から観客席を覗くと、大層驚いた表情を見せた。


 友人、先生、後輩やまだ知らない下級生、私服の色々な年代の人々、そして数台のカメラがまだ真新しい木の床を占有していたのだ。
 少し早いが雑談の声が歓声の予感を感じさせた。

 全校生徒全員が入っても余裕のあるこの体育館が人で程よく埋まるのは予想外だったのだろう。
 それは本人にとって新人であるという自負のせいでもあったのかもしれない。


 しかし、世間は予想以上に翠を見てくれていた。

 担当しているが故の贔屓もあるが、それでも確実に『流れ』が彼女に来ていると俺は確信している。


 このライブをきっかけに、来年、再来年も更に活躍できるはずだ。翠なら。






「……翠」
 刻々とライブ開始の時間が近づく最中、パイプ椅子に座る翠の肩は僅かに震えていた。


 刹那、俺は安心したように感じた。

 そっと近づくと、小さな肩に手を置いて、言う。
「練習は嘘を吐かない。翠が本気で取り組んでいたなら体は勝手に動いてくれるさ。だから……一生で一度しかないこの初めて体験を胸に刻め」

 思い出としていつでも思い出せるように。

 見繕う試みはなく、ただ本心で翠に伝える。



 この時、俺はどういう風にいうのが正解か解らずに居た。

 何故ならば、こういった場合への対処として、三者三様の答えがあるからだ。
 例えば感情を普遍化するか、不安を払拭するために鼓舞するか、あるいは脅しを掛けてやるか、である。


「――はい」
 周りの雑音がシャットアウトされ、彼女の返事だけが俺の耳に入る。


 彼女は俯いていて、表情は見えない。

 だが、そこに細切れそうな声はなかった。






「皆さん本日のライブを見に来てくれてありがとうございます! 今日は特別ゲストとして、皆さんご存知の水本ゆかりさんが来てくれていますー!」
 その言葉に、観客は歓声を上げた。

 一曲目が終わって場が暖まった後、マイクスタンドからマイクを抜いて、翠は観客席に向かって自己紹介をする。

「ご紹介頂きました水本ゆかりです。今日はお招き頂きありがとうございます。精一杯頑張りますので、どうか最後までよろしくお願いしますね」
 ダンス後のトークなので若干声が上ずって喋り急ぎ過ぎる傾向がありがちだが、彼女たちは踏ん張っていつも通りの落ち着いた口調を続けていた。

 この場合はむしろ雰囲気に任せて勢いあるトークをしたほうがいいのかもしれないが、これも彼女達らしいか。


 是非はこのライブの反省会でやるとして、俺は二人の関係を紹介する彼女達を眺めた。





 数分もすると、進行役も兼ねている翠はバンドマン達に合図をする。

 すると、ずっと練習していたもう一つの曲、学校の仲間が作った曲の伴奏が流れ始めた。
 イントロを聞いて、一部の観客がざわつく。
「この曲は軽音楽部の方に頂いた曲です。……お礼は、私たちの声でお返しします!」

 彼女の声と共に、一気に曲が加速する。

 これも打ち合わせ通りで、翠が高らかに叫んだ後、ギター担当には少し調子を上げてもらう様にしてもらったのだ。

 鳴り響くサウンドに負けじと観客が声を上げる。身内である翠はともかく、普段テレビでみる水本ゆかりが自分の高校の身内が作った歌を歌ってくれるのは最高に違いない。

 ステージは既に暗く、体育館の二階部から照射されるスポットライトに映された二人だけがステージに視界に浮かび上がる。

 大きなステージではないので豪華なレーザー装置こそはないものの、予算内で出来る限りの装飾は行っている。


 たったそれだけの舞台でも、二人を含め、その場に居る皆が盛り上がってくれていた。






 曲は流れ、旋律が彼女達の口からリリックへと姿を変えて空間を揺らす。

 一つ一つの音、一つ一つの声がこのステージを支配する。


 残念な話だが、翠一人の声ではきっと曲に埋もれていただろう。
 ゆかりの繊細ながらも芯のある声が翠の声を補強してくれていたのだ。

 尤も、それは恣意のある話ではない。

 たまたま二人の声色が重なりあってそういう効果を表しただけなのだ。
 それだけ、彼女達の相性が良いのだろう。


 俺は強く照らされた翠をただ眺めていた。


 アイドルが輝く瞬間は、俺みたいな人間は離れた所でじっと見ているしかない。


 だから一観客として、この感動を、この反応を伝えたいと思う。


 真剣な面持ちで――それでいて本当に楽しそうな横顔を見ながら、俺はこの光景を目に焼き付けていた。





  *



 ざわざわとした喧騒が、広い運動場に立ち込めている。

 簡素な骨組みで作られた屋台が、あちらこちらに列を作っているのである。

 ある生徒はクラスで作ったTシャツを、ある生徒は持参したエプロンをそれぞれ自由に着用しては色とりどりの看板や声で客を誘っている。


 文化祭二日目。
 賑やかな人混みが学校中に形成されているのは、近所の住民や小中学校の子供も数多く訪れているからである。

 毎年この高校の文化祭は自由解放日があり尚且つ出店が多いこともあって人気があるとのことだが、今年に限って言えばチラシを大々的に配ったので一見の人も多数来てくれているようだった。

 学校関係者にとっては、色々な人に来てもらえて嬉しい反面運営が更に多忙になり、いつも以上に困っていることだろう。


 そんなちょっとしたお祭りの中、俺と翠――無事ライブを終えた俺達は、歩幅と共にゆっくりと移り変わる景色を楽しんでいた。





  *



 翠の友人と思しき女性の歓声。体育館の空気を揺らす拍手。


 ライブが終わった瞬間、俺が耳にした音は予想する限り最高の物だった。

 心の中で微かな悪寒は感じていた。
 失敗。嘆息。罵声。アイドルが現実に引きずり出されるような、そんな光景。


 しかし、今回に限っては杞憂に終ってくれた。


 暖かい視線と雰囲気が、彼女達を祝福してくれたのだった。


 立ちっぱなしで聞いていた俺は、へたりと重力のままパイプ椅子に座り込むと、多大なる安堵が肺を満たした。





 ステージの袖に帰ってくると、翠はまずゆかりとハイタッチをし、次に共に音を奏でたバンドマン達とも笑顔でハイタッチを交わした。

 緊張の糸が解けて安心した、という表情ではない。ただやりきった故の充実感が彼女を笑顔にさせていた。


 最後に翠は俺を視界に捉えると、小走りで近づいてくる。


 お疲れ様、よくやった。どんな言葉を掛けてやろうか、いやまずはハイタッチかな、と思案していた刹那だった。


「プロデューサーさん!」
 胸に熱い空気と鈍い衝撃が走ったと同時に、良い香りが鼻腔を刺激する。


 なんと、翠は俺の胸元に飛び込んできたのだ。




「み、翠!?」
「やりましたよ! 私、ちゃんと出来ました!」

 俺の言葉を無視して、手を俺の胸元に当てて支えるように上目遣いで嬉しそうに報告をする翠。

 それは、普段の姿とは全く違って酷く幼く見えてしまう。

 ――いや、それもライブの影響なのだろう。
 自身の形作った性格や体裁も全て有耶無耶にしてしまうほど、ライブ…それも初めてのライブは不安と恐怖と重圧が彼女にのしかかっていたのだ。

「ちゃんとプロデューサーさんの期待に応えられました! これなら…私はプロデューサーさんの担当アイドルだって言えます!」
 ぴょんぴょんと小さく跳ねながら、じゃれつくように胸元で笑う翠。


 はて、彼女は本当に翠なのだろうか、と俺は場違いにも考えてしまった。





「よくやった。大変だったけど、誰が見ても成功だろうな。おめでとう!」
 瞬間我に返ると、俺は思いつく言葉で翠を褒める。

 内心では色々なものに押し潰されそうになったのだ、多少ハイテンションで行動がいつもと違ってようと問題なかろう。

 ありがとうございます、と元気の良い声で返事をした翠の肩を持つと、俺は少しだけ距離を離す。



 天に掲げた俺の手に翠の手が重なると、パン、と舞台袖に乾いた音が鳴った。





  *



「――はい、クレープとジュースな」
 校舎の壁際に置かれたベンチに俺達は座り、喧騒を遠くから眺めることにした。

 昔商店街で食べたパフェからもわかるとおり、翠も女子高生らしくデザートに目がなかった。
 クレープ屋台を見つけた時の目の変わり様と言ったら、とても微笑ましく思う。

 ライブ後でまたこれだけ歩けば疲れるだろう、ということで、偶然視界の奥に見かけたベンチで休憩することにしたのだ。


「わあ、美味しそう……!」
 先にベンチに行かせていたので、実物の温かいクレープを手に持った翠は子供のようにクリームを爛々と見た。


 ジュースを脇に置いて、俺も座る。


 さっきまで耳を覆っていた騒々しさが遠くなると、まるでそれが強い過去の回想のように思えた。






「改めてお疲れ様。あんなに良いパフォーマンスだったのは、俺も驚きだったよ」

 ライブ終了後、次に使う部活のために片付けを行うと共に、この後また東京で仕事があるらしいゆかりとそのプロデューサーには最大限の礼をして別れる事となった。

 出来るならこの文化祭を少しでも楽しんでいって貰いたかったが、こういった移動の多いスケジュールも彼らに取っては比較的よくあることで、大変だなと思う一方羨ましくも思えた。

 クレープを両手で大事そうに持っている隣の翠は、少し前の出来事を思い出すように秋空を仰ぐ。

「ゆかりさんが隣にいてくれて、とても心強かったです。…プロデューサーさんも、見てくれているとわかってたから、頑張れたんだと思います」
「プロデューサー冥利に尽きるな」

 未だ熱気冷めやらぬといったところか、上気した頬をした翠は俺を見て小さく笑った。





「…私、今の時間が夢みたいに感じてます」
 クレープを食べ終えてから、ペットボトルのジュースを飲みつつ今日のライブの反省会を兼ねた、半分プライベートの時間。

 ライブの衣装は既に着替えていつもの制服姿に身を包んだ翠は、スカートの上にペットボトルを置いて俺を見る。

「夢じゃないぞ。翠の初めてのライブは成功したんだ」
 初めて担当したアイドルがこうして無事にステップを進める事ができて、俺もプロデューサーとして鼻が高い。

「……いえ。そうじゃないんです」
 この調子だ、と意気揚々と翠を褒めてやると――予想外なことに、彼女は首を横に降った。

「勿論、ライブだって見てくれた皆さんに喜んでもらえましたし、ゆかりさんとも一緒に歌えたのは楽しかったですけど……ええと、その」
 太ももに挟まれたスカートがすりすりと音をたてた。

 言い難いのか、歯切りが悪い様子の彼女であったが、未だに含意が掴み取れない俺としてはもどかしい気分である。





 翠は先程、『今』が夢みたいだ、と言っていた。
 ライブのことかと問えば、違うと答えた。

 そこから導き出される答えといえば……俺は思いつく。

 しかし、仕事上の関係なのだから、こんな一歩間違えればセクハラになりかねない事を言ってよいものかと悩んだが、今の比較的親しい状態であれば戯言で済むか、と結論付けた。

「ああ、なるほど……、俺とこうして学園祭を歩くのが夢だったのか」

 我ながら思春期の男子と相違ない妄想を口に出したと思う。



「……あ、そ、そうです」

 しかし、馬鹿げた発言は馬鹿げた展開を生んだ。





「……へ?」

 今更だが、俺は少し前の出来事が脳裏に浮かんだ。

 ライブが無事終わったら、何かご褒美をやろう、というような話だったと思う。

 その時、彼女は高いプレゼントでもなければ長期休暇でもない、俺と学園祭を歩くことを選択した。

 当時の自分はそれを変な事を言うな、という感想だけで結論づけてしまったが、今再びその推測が再燃する。

 まかり間違っても、よもや今時の女子高校生がこんな大卒無職にリーチがかかっていた俺に好意を抱くことはあるまい。翠のような賢明な人間であれば尚更だ。

 ならば、何故彼女はそう感じたのか。


 翠の口から出た続きの言葉は、俺の想像を遥かに超える――いや、遥かに下回る程の純朴なものだった。






「実は、その、今までこうして男性と一緒に出かけたり、いっぱいお話をしたりしたことが無くて……。それで、ちょっと憧れてたんです」

 心の中の口が、無力になる。

「友人たちがそんな…仲のいい男子の友達と遊びに行ったとか、彼氏とデートしたとかいう話を楽しそうにしてたので……私も」
 そう言って酷く顔を紅潮させると、翠は口をしぼませ俯く。

 ああ……そういう事か。
 酷く重く考えていた俺の脳みそが華麗に弾き飛ばされるイメージが容易く想像される。

「あ、い、いえ! 私はもうアイドルですから、そういった話題に顔を出してはいけないのは承知していますが、その、なんといいますか……」

 一瞬だけこちらを向いて誤解を解くように手を振るが、再び視線を外して翠はペットボトルを触って遊び始めていた。


 有り体に言えば、翠も人並みにこうした行動が取ってみたかった、という事だった。

 当然といえば当然である。人間として生まれてきたのであれば、情緒を持って悩みや興奮と付き合って異性と通じあってみたいと皆考えていると言っても過言ではない。

 問題は、彼女に今まで…アイドルになった日以前にそんな経験が無かった、ということである。






 無論、ないにこしたことはない。

 火種を抱えていれば、例えアイドルになる前の出来事であってもそれが取り沙汰され騒ぎになるタレントは後を絶たない。
 それだけ芸能人に対する異性問題というものは過敏なのだ。

 そういう意味では、翠がある種箱入り娘であることは個人的にも喜ばしいが……かといって、全く無い状態では今後問題行動を起こしかねないという懸念もあるのである。


 正直に言えば、よくそんな経験もないままここまで生きてこれたな、という驚きがあった。

 ……しかし、それを恥ずかしそうに言う彼女が、たまらなく可愛いのだ。


 どうしたものか、と一周だけ逡巡した後、俺はおもむろに立ち上がる。

「…じゃあ、今日はたくさん楽しもうか」

 意味がわかれば、行動に移さない訳にはいかない。







「今日の時間も多くはないからな。日が暮れる前に全部回ろう」

 結局、知らないが故の好奇心だったのだ。

 そうした経験を得る相手が俺みたいな相手であることが残念でならないだろうが、俺もアイドルとしての彼女を導くプロデューサーだ、どんな悩みであれ、己の手で解決できるのであれば喜んで差し出そうではないか。

 俺とて経験豊富の立場ではないが、いくつか場は踏んでいる。

 突然立ち上がって宣言した俺に困惑して未だ座って俺を見上げている翠の手を取り、少しだけ引いてやる。
「ひゃ――」
 すると、翠もするりとベンチ前に躍り出る。

「ほら。高校最後の学園祭だ、のんびりしてると出遅れるぞ!」

 何だか翠やこの高校の生徒達の若気にあてられたか、俺も心がアグレッシブになっているような気がする。

 いや、俺も年齢でいえばまだまだ若造なのだが――過ぎ去ってしまった昔の俺を回顧しながら、驚きから目が覚めてにこりと笑った彼女と共に学園祭を再び回り始めたのだった。





  *



「はー……、足が疲れてしまいましたね」

 グラウンドには模擬店の他、大きなスペースを用いたクイズ大会やゲームコーナー、参加型のアトラクションがあり、また校内にはクラスごとの催しであったり、文化部の作品を展示したり、あるいは喫茶店を営むクラスもあったりと、学校内の敷地を余すところなく使用していて、全部回るのに大変苦労した。

 しかし、本当にたくさんの人数が関わって出来上がるこの学園祭という行事はやはり素晴らしいものだった。

 そんな開かれた殆どの出店に足を運んで、翠の顔を見てライブを見た旨を伝えられて応援してくれる人とも数多く出会い、半ばファンとの交流会も兼ねつつ過ごしていれば、ただでさえ早く感じる時間は瞬時に加速していっていた。


 見られる所を全て回り終えて、日が落ち始めていると言った頃、翠はとある教室に入るとそのまま窓際の席に座った。
 黒板から近い、前から二番目の席だ。

 俺は彼女に誘われるがままに、隣の席に座ることにする。

 学園祭の終了時刻も近づき、客も帰って、今は殆どの出店も片付けを開始している時刻だ。


 ここは学園祭では使われなかった教室のようで、俺達以外の人間がいない中、普段の教室の風景をありのまま映し出していた。






「ここ、プロデューサーさんに見て欲しかったんです」
 この席がか、と訊くと、こくりと頷く。

「実はここ、私の席なんですよ。学園祭ではグラウンドを使ったので、私のクラスは教室は使わなかったんです」

 翠はガラス越しに外を見る。赤らんだ空が頬を彩っていた。

「私がアイドルとして通用するかどうか、…正直に言えば、今でもわからないでいます。ですが、プロデューサーさんと一緒にいると、わけもなく上手く行くような気がして。…おかしいでしょうか」

 彼女は首を回してこちらを振り向く。
 俺はこの時どんな顔をしていたか、自分でもわからなかった。

「誘った手前、どうやってでも成功させてみせるさ。……でも、君をアイドルにすると言ってしまった事。それは今更だけど、悪いと思ってる」
「え?」
 意図していなかった返事だったか、翠は困惑する表情を見せた。

「今日の話だよ。もし翠をアイドルにしていなければ、もしかしたら翠の好きな男と今日みたいなデートが出来たかもしれない。そうでなくても、高校生活最後の年の青春を仕事で潰させたのは俺が原因だからな」

 ふと考える。
 特別な人間にとって、ありふれた人間の思いというのはどうなのだろうか、と。

 世間一般的な考えとして、翠のような特別な立場の人間のことを皆羨ましく思う反面、彼女は通常送れるはずの学校生活を確実に犠牲にしている。

 今日俺に恥ずかしながら語ってくれた心中を、俺が居なければもっとまともに叶える事が出来たのではないかと思うのだ。





 ほんの少しの間、俺の言葉を咀嚼してから、突如彼女はとんでもないことを口に出す。

「…ちょっと怒ってもいいですか?」
「え、いきなりどうしたんだ!?」

 本当に脈略もない事を言われて俺は思わずたじろぐ。

 何事かと訊けば、彼女はゆっくりと話し始めた。

「今日は、本当に楽しかったです。いつもは仕事の上でしかお話出来ませんでしたが、今日はプライベート気分で話が出来て…プロデューサーさんの事を一杯知ることができて、嬉しかったんです」

 ライブ後の時間は、俺もプロデューサーであることを忘れて楽しめていた。
 担当アイドルといえど、こうしてプライベートな事を友達のように話せたのはかなり久しぶりだったからだ。

 仕事上の話からは少し離れて、昔の頃の思い出、楽しかったこと、好きなもの、嫌いなもの、恥ずかしかったこと、面白かったこと。
 お互いが知り得なかった沢山の出来事や感情を伝え合うことが出来た時間が何よりも楽しく感じていた。

「私を見せて、その上で判断してもらって。それでまた今日もたくさん話して、私のことをもっと知ってくれたと思ったのに…そんな事を言われるなんて、正直心外です」


 ――あ、と俺の声が不意に漏れた。






「私はアイドルになった事を後悔していません。そして、プロデューサーさんに見つけた貰った事を本当に感謝しているんです。なのに、今更謝れても…」


 ああ、そういう事だったのか。


 彼女のことをアイドル扱いしていなかったのは、他ならず俺だったのだ。

 翠はアイドルになることを決めて、普通の生活は出来ないということを重々承知していた。
 その上で、アイドル・水野翠でなければ俺と今こうして過ごすことが出来ないと思い、感謝してくれていたのだ。

 すなわち、それは俺に対して少なからず悪くは思っていないということ。
 もっと簡単にいえば、俺を仕事だけでなく、人間として信頼してくれていること、親近感を抱いてくれているということである。

 にも関わらず、どこか俺は翠と少し距離を置いてしまっていた。
 今日の事だって、あくまでご褒美という名分に従って動いていた所以が心の中で微かではあるが確かにあった。

 しかし彼女にとっては、そのご褒美というのはあくまで偶然降って湧いただけのただのきっかけにすぎない。
 消去法的希望ではなく翠自身の欲求により、今日の出来事を選択した。


 それがどういう意味を表すのか。


 そこに気づかないで、イフの話を持ちだして謝る俺はどれだけ無理解だったのだろう。





「…ごめん。俺が悪かったよ」
 彼女の思いを知って、改めて謝罪する。

「いえ……。プロデューサーさんにとっては仕事の一部ですから、それで当然なのかもしれません」
 ゆかりのプロデューサーの姿が突然思い浮かぶ。

 彼はゆかりに対してストイックに接し、今の地位にたどり着いた。
 物事は結果論なのだから、結局はそれがプロデューサーのあるべき姿なのかもしれない。

「…仕事の肩書きに俺が乗っ取られてたのかも知れない」

 だが、それでは少し寂しすぎる。

 心の中では、翠はきっと不安だらけだ。
 そこに俺という柱の傍に立つことで、見にまとわりつく数々の恐怖を解消してきたのだろう。

「今日は俺も本当に楽しかったよ。俺が高校生の頃よりも…いや、人生の中で一番楽しかったかもな」
 はは、と笑う。

 翠は何も悪くない。ただ俺が無神経だっただけの話だ。





 最後にここに来たのも、この風景を俺に見て欲しかったのも、つまりは翠の事を俺に知って欲しかった故の行動だった。

 ――もっと私を知って下さい。出ては居ないが、そんな彼女の声が聞こえた気がした。

「今日は俺と一緒に学園祭を回ってくれてありがとう。翠の事を知れて嬉しいよ」
「……はい」

 彼女の思いを聞いて改めて考えた上で言葉を選択し、発言する。

 夕日を背景にした彼女の顔は、どこか暗いようで、瞳がとても輝いていた。







「…今日はデートって、プロデューサーは言いましたよね」

 焦って違うと言いかけるが、ちょっと前の俺の発言を思い出して口を閉じる。
 確かにニュアンスとしては相違ない。

「俺の立場でそれだと不味いんだけどなあ。いやまあ、そうなるな」

 当然ではあるがアイドルが恋愛など論外である。そう言っておいて、俺と疑われるような行動をしていた事に今更ながら狼狽える。

「もっと近くに来てくれませんか?」
「近くに…って、こうか」
 翠はそう俺にお願いしたので、普段の距離である机一個分離れた所から、椅子を動かして殆ど隣接するぐらいにまで近づいた。
 教科書を忘れたので机をひっつけたよろしく、ひとつの机で二人が勉強するといった程だ。

「アイドルですから、デートだなんてきっともう出来ませんから……今日の、最後のお願いです。私に恋人っぽいこと、してくれませんか?」

 これほど露骨に背中に冷や汗が走ったことが、今までの人生の中であっただろうか。






 ミイラ取りがミイラ。そんな言葉が頭をよぎる。

 かつて俺が翠をスカウトした当初、ちひろさんに大まかなプロデュース方針としてそういった恣意的でない官能美をテーマに上げたことはある。
 しかし、まさに俺自身がそれを目の前にしてしまうとは夢にも思わなかった。


 男性的感覚から言ってしまえば、非常に『クる』ものがある。

 恐らく本人としては打算的に話している訳ではないとは思うが、それ故に不自然さはなく、臨場感がそこはかとなく俺の心臓を圧迫していた。

「…やはり、駄目でしょうか」
 首を傾げて、それが結果的に上目遣いになる。
 ライブ用にしっかりとメイクをしているためもあってか、彼女がとても色っぽく感じてしまう。
 かつて俺がちひろさんに言っていた翠の魅力に、とりつかれそうになるのを必死に抑えて俺は考える。


 立場的に、『恋人っぽいこと』を俺がすることは絶対にできない。
 それは俺を信じて任せてくれた両親に対する裏切りにもなるし、一人の人間として、今まで僅かではあるが培ってきた責務を放棄することなど到底許されることではない。

 そうでもなくとも社会倫理的にアウトではあるのだが。


 では、プロデューサーという立場としてレッドラインに触れない程度の『恋人っぽいこと』とは何かを考えた時だ。

「ん…」

 ――俺は、翠の頭に手を置いていた。






 頭に触れた時、翠の体が小さく跳ねる。
 恋人っぽいこと…それの予想からは大きく外れたからだろうか。

 しかし、一回、二回、分を刻むようにゆったりと手を往復させていると、翠は次第に目を閉じて俺の手に体重を預けてきたのだった。


 迷った挙句の事だった。

 駄目だと断ることも出来ただろうが、それをしてしまうのは良くない事のような気がして、咄嗟に俺は手を伸ばして艶やかな翠の髪を撫でたのだ。



「…まさか、高校生にもなって頭を撫でられるなんて思いもしませんでした」

 数えることを止め、ただ夕日の中流れる時間に沿って頭を撫でていると、不意に翠は感想を漏らす。

 確かに、恋人っぽいことといえば普通であればもっと別の事を思いつくだろうが、その思いついた事が尽く立場的にNGをもらいそうな予感がしたので、こうすることに至ったのだった。






「俺にも立場っていうのがあるからな。こんなことしか思いつかなかったよ」
「でも、なんだか心地よいです」

 そう言って、近づいていたお互いの肩が触れた。
 撫でるという行為も、ここまでくると恋人っぽくなる。


 しかし、翠は俺を相手にしてそこまで許せるものなのだろうか。
 一応己も若者とはいうが、女子高生の感覚はいつまで経ってもわかりそうにない。



 そしていつの間にか、時計の音が消える。


 ただガラス越しに聞こえる生徒たちの声が、今の時間を奏でていた。



区切り。
>>241
待ってくれて申し訳ないです。まだ続きます

   *



「…はい、ありがとうございます。明日そちらに向かわせて頂きますので、よろしくお願いします」
 相手の快い返事を聞いて、古臭い受話器を静かに置いた。


 事務所も秋口になってくると早々に冷房の役目を終えている。
 新品であればもっと使い道もあろうに、昭和の雰囲気ただようこのエアコンでは、暑いにも寒いにも微妙にしか対応してくれないのだから当然である。

 ちひろさんも同じ事を思っていたようで、その話が持ち上がれば毎回昼ごはんのオカズが一品増えた。

「今日で三件目ですか。一気に増えましたね」
 隣で事務作業をしているちひろさんがこちらの電話が終わることを見計らってお茶を入れてくれた。
 一言感謝を述べてからお茶を飲むと、机に置いていたスケジュール帳に明日の予定を書き込む。

 かつて雑多なメモ帳かと思われていた空白の多いこの手帳も、今や少なくとも五割は埋まっている。

 まだまだ全国区の仕事がメインになっているとは言えないものの、それでも当初との差を知っているので嬉しい限りである。





 ――まさかあのライブがそこまで起爆剤になるとは、俺ですら思っていなかった。

 やはり決定的な要因となったのはカメラだろう。
 今回行ったライブはカメラに撮影され、翌朝のニュース番組で特集として組んでもらっていたのだ。

 仕方のない事だが、ピックアップされるのは当然ゆかりだった。

 しかし、ライブ行うまでに至った経緯をライブ中のトーク部を編集して放送したために、翠の名前も同時に広めることが出来たのだ。

 加えてインターネット上のニュースにもなっており、全く関係を知らなかったゆかりのファン達の反応を見ると快く受け入れてくれているようだった。


 そうするまでの交渉は殆どがゆかりのプロデューサーが行っていた。
 実利に関わってくる事柄に関しては、俺が介入することをあまり好ましく思っていないらしい。
 てきぱきと話を進めていく中で、横から意見を言う立場になってしまっていたのが残念といえば残念か。

 俺もいずれはああいう交渉術を身につけていかなければなるまい。
 限定ユニットであっても、関係を持った以上はこれからも何らかの接触がないはずはない。
 その中で俺も必ず学んでいかなければならない。





「ですね。いずれはバラエティにも進出させたいところですが……」

 大体の場合、バラエティなどの番組にゲスト出演する際には何らかの告知を兼ねた宣伝が目的となる。
 俳優であれば映画、アーティストであれば音楽や芸術作品などである。

 上気の目的のため事務所が掛けあって、ようやく出演が実現する。

 それ以外で単純に出演が出来るのは認知度が高い大御所のタレントかバラエティに順応しやすい芸人が殆どである。

「武器を持っていない翠ちゃんには少し厳しいですか」
 ちひろさんも訊ねる素振りを見せるが、きっとわかっている。

 翠においては、確実に前者にあたる。
 何かのきっかけがあって小さくてもいいから話題になるか、もしくは――。

「CDを出せれば、あるいは」

 そう俺ははっきりと言った。





 とりわけアイドルという職業において、CD、すなわち持ち歌の有無というのは生死を分かつ程に重要である。

 何故ならば、それはアイドルがああいったテレビの中と繋がりを持つためのアイテムとなり得るからだ。

 広告代理店の戦略の場合を除けば、番組にいきなりぽっと出の知らないアイドルが出てきた所で視聴者は何も思ってはくれない。

 理由は一つ。ただインパクトが無い。

 視聴者が受け身でいる以上は何も進展は見込めない。
 彼ら自身が積極的に調べて、知りたい、見てみたいという欲求を生み出させることが何よりも必要なのだ。

 そういった点を踏まえれば、現時点での翠では太刀打ち出来そうにはない。

 そのために翠だけの歌が欲しい。
 同時に何らかの切り口を見つけることが出来れば、タイミングさえ間違わなければ充分に勝機はある。





「歌、ですか」
 ちひろさんはぽつりと声を漏らす。

「ベストなのはタイアップですね……例えば新商品のイメージソングとか。映画のテーマソングまで行くと出来過ぎなくらいですけど」
 巫山戯る俺をちひろさんはくすりと笑った。

 本当に何かの特別な縁が無い限り、映画のテーマソングには絶対に行き着かないだろう。

「プロデューサーさん、翠ちゃんに曲をプレゼントできるように頑張って下さいね」
 キーボードのエンターキーから指を話すと背を伸ばし、一息ついてちひろさんは言う。

 オファーを待つ事ができるのは大きいプロダクションか、アイドルに類まれた才能があるかどうかだ。
 残念ながら、この事務所や翠自身はその二つを持ちあわせてはいない。

 だから、それを実現させるためには俺からどんどん攻める他ない。

「もちろんですよ。目標はソロライブ! ……ですかね?」
「そこは決めてくださいよ、もう…」

 かざした俺の手がしおれるのを見て、ちひろさんは大きく息を吐いた。






「おはようございます――って、どうかしましたか?」
「ああ、翠か。おはよう」
 俺の背後からいつもの扉の音と一緒に凛とした声が聞こえた。振り向くまでもなくわかる。

「翠ちゃんおはよう。お茶は温かいのがいい?」
「あ、お願いします。いつもありがとうございます、ちひろさん」

 学園祭も終わるといよいよ涼しく、場合によっては寒くすら感じる季節となる。
 ちひろさんは見慣れたテーブルに翠の分のお茶を置いた。

 綺麗さというよりも落ち着いた服装の翠は鞄をソファの近くに置いてお茶を飲んだ。やはりこの季節は温かいお茶もおいしかろう。

「ええと、今日の予定は番組の収録でしたよね?」

 一つ間を挟んで、翠は俺に訊ねる。

 その通りで、今日は昼からグルメ番組に出ることになっている。
 一見あまり料理には縁がなさそうな翠も、料理に対する丁寧な感想と甘味を食べた時の美味しそうな顔がどうやら好評らしい。

 たまにちひろさんに東京のおいしいスイーツについて話しているのを横目で作業することがあるので、本格的にハマっているようだ。

 レッスンをきちんとする翠だから大丈夫だろうが、ボディラインの管理には気をつけてもらうように青木さんに言っておかねば。






「ああ、もうちょっと経ったら現場入りするからな……と。そうだ、翠」

 本日と、今日入ったばかりの仕事について打ち合わせ日時を彼女に連絡していると、つい先程ちひろさんと話した内容を思い出す。

「なんでしょう?」
 自分のスケジュール帳にメモをしていた翠が顔を上げて俺を見る。


 わかりきったことだけど。当たり前のことだけど。


「翠は…歌を歌いたいか?」

 何となく、訊かずにはいられなかった。


「……はい。歌いたいです」
 突然の問いに一瞬戸惑った翠は、質問の内容を理解すると即座に回答してみせた。


「そうか。…そうだよな」
 ただ、翠のはっきりとした意志が見たかった。
 見ることで、俄然やる気が出てくるのだ。


 彼女の表情に冗談はない。
 いつだって純粋で、本気だから。


 翠が歌を歌ったら、どうなるのだろうか。一人の人間として、一人のファンとして聞いてみたいのだ。


 いつか来るであろうその時を期待して、俺はスケジュール帳を片手で閉じたのだった。





  *



「今日来てくれたのは我が愛知出身のアイドル、水野翠さんです!」
「こんにちは。本日はよろしくお願いします」
 ぱちぱち、というパーソナリティの拍手が部屋に響くと共に、丁寧に翠が挨拶をする。


 ラジオ放送。

 翠にとって…いや、俺にとって初めての仕事だ。
 最近ではテレビでの露出も数えられるほどには増え始めて、俺も更に忙しくなってきた。

 休日もなんのその。
 休める時が休日だと言わんばかりのペースで外を動き回っていた。


 隔離された狭い部屋でテーブルに二人、パーソナリティの女性と翠がマイクに向かって談笑している。
 このラジオ番組は地元でも有数の放送局で、毎回ゲストを呼んでトークをしながら進めていく。

 翠も例に違わず、パーソナリティの先導の下、様々な話題に対して話を広げていた。





「――えー、続いてはラジオネーム・やっちゃんさん。『はじめまして。僕は最近退屈な事が多くて、よく何か起こらないかなーとついつい考えてしまいます。お二人は最近何か面白いことはありましたか? よければ教えて下さい』……はー、なるほど」

 このラジオ番組ではメールを募集しており、今日もいくつかのお便りについて話していた。
 その中の最後のお便りがこれだった。

「私はこういう仕事柄よく色んな人とお会いしましてですね、そうなると本当に見当もつかないような話も聞いたりして!」
「面白そうですね。どんな話なんですか?」

 俺は全く関係ないが、少し考えてみる。


 ……まあ、冗談でも最近退屈など言えるはずがないな。

 毎日歩きまわって腰を折って、事務所に帰ればチェックして連絡して。いつも大変である。

 でもそれが翠の成長に繋がる大切な事なのはよく分かっているから、苦にはならないか。

 今こうして壁越しに話す翠を見られるのもこれまでの結果だろうしな、と俺一人だけ頷く。






「――だから、やっちゃんさんも色々な人と話をしてみたらどうでしょうかー? 翠さんはどうです、何か面白いことはありましたか?」
「私は……そうですね」

 パーソナリティが誘導すると翠は少し考えて、語る。

「私も、アイドルになってからはとても沢山の方と沢山の事をしてきたので、退屈、という言葉はしばらく思いつきませんでしたね」

 彼女は首を傾げて微笑む。
 確かに、アイドルという立場では退屈とは遠ざかるを得まい。

「翠さんのデビューは今年…でしたよね。それでも最初の頃は大変だったんじゃないですか? 大体始めの頃って練習漬けだったりしますから」

 パーソナリティの言う事も経験則のような重みを感じる。今こうして軽快に喋れているのは、きっと辛い練習の結果なのだろう。

「元々私は弓道をやってまして、そのおかげか練習を退屈だとは思いませんでしたね。…何より、私がアイドルになるのを期待している方がいるから――」

 その人のために頑張りたい、そう思ってましたし、今ではもっと強く思ってます。


 刹那、彼女の横顔が、ちらりと俺を見た気がした。





「最近も…少し前、私の今通っている高校で学園祭がありまして、そこで歌わせて頂くことになったんですが、その事を聞いたのは学園祭の一ヶ月前ぐらいで…練習もとてもハードでした」

 翠はまだ半年も経ってない前の事を感慨深そうに語る。

「練習が苦にはならないと言っても、色々なことを指摘されて、何度も何度もやりなおしてばかりで…アイドルってこんなに大変だったんだって、少し挫けそうにもなりました」

「確か水本ゆかりさんと一緒にライブをしたんでしたね。プレッシャーもあったでしょう」

 ゆかりの厳しい意見にも必死に耳を傾けて、ゆかりのプロデューサーからの指摘にもふてくされることなく受け入れて、初めてのライブという緊張と時間の無さという焦りと常に戦って、築き上げた成功を、包欠かさず翠は話す。

「はい。…それでも、私はいろいろな人の期待に応えるために練習しているんだって信じて練習して、無事ライブも終えることができたんです」

 汗まみれになって動き尽くしたあの練習がどれほど大変だったか、所詮俺は見ているだけで全部を理解することなど不可能である。

 だが、彼女の話を今俯瞰して聞くことで、リアリスティックに少しづつわかってきたような感覚がした。





「退屈って元々は仏教の用語で、修行に疲れ果てて精進する気持ちが屈することを意味したのですが、結局退屈というのは、手元に何も残っていない事だと思うんです」
「何もすることがないから退屈って言葉に繋がりますからね」

 果たして翠は、アイドルになる前は退屈していたのだろうか。

 それはノーであると俺は思う。

 一言で表せば、翠という人間は努力だ。
 仮にアイドルになっていなかったとしても、彼女は普通に学校生活で勉学や部活に対して一生懸命に取り組んでいただろう。

 たまたまその矛先がアイドルになっただけで、挑戦し、成功するために努力するという行為は何一つとして変わっていない。

「やっちゃんさん。私のような若輩者が言っても仕方のない事だとは思いますが言わせて下さい。どんなきっかけでも、どんな物でもいいので、やっちゃんさんの好きなことに触れて見て下さい」

 それはきっかけにおいても言える。
 もしスカウトしたのが俺でなくとも、きっと翠はそのスカウトした人間のことを信頼して、アイドルになるために努力をしただろう。


 ――頭の何処かで、歪な音がした。





 すぐに消えたその感覚の事は瞬時に忘れて、会話を聞く。

「理由はなくても、きっとやっていれば何かを感じると思います。そうしていけば、きっと退屈だなんて思わなくなると思いますよ」

「なんだか説得力のある口調でしたが…翠さんも、アイドルになったのは些細なきっかけだったんですか?」

 本当に些細だった。物語としては三流にすら届かない、かすれて消えてしまうぐらいに品のない出会い方だったと我ながら思う。

「そう…ですね。今担当しているプロデューサーさんにスカウトされたのがきっかけですが、それも真正面から言われた訳じゃなくて」

「ほうほう。スカウトってよく聞きますけど、翠さんの場合はどうだったんですか?」

 今、確実に翠は俺のことを見て、くすりと笑った。

「ふふ…ええと、本人の名誉のために秘密にしておきますが、かいつまんで言うと、プロデューサーさんは最初寝てましたね」
 思い出してなのか、上品な笑みを漏らす翠。


「あはは、相当な出会い方だったみたいですねー。というわけでやっちゃんさん参考にしてみてください! 次は思い出に残る名曲のコーナーです――」



 ……おい、事務所に戻れないぞ俺。





  *



「…みどりぃ」
「あはは…ごめんなさい、プロデューサーさん」

 放送が終了すると、俺達は併設の喫茶店で休憩を取った。
 翠はクリームパフェ、こちらはコーヒーだ。


 まあ俺の名誉なんてあってないようなものだし、翠のトークネタとして活用してくれるなら喜んで差し出すが、それでも今回のは危うく行き過ぎるところだった。

「話をしていると、段々自分のことを振り返ってしまって。理由はどんなものでも、こうしてプロデューサーさんと知り合えたことが私にとって本当に幸せで、嬉しかったんです」
「そこまで言われると照れるな……」

 コミュニケーションの基本は信頼関係だが、翠にそれほど信頼してもらえると照れ臭くなってしまう。
 顔を触って頬がつり上がってないか確かめて、そして安堵する。

「だからでしょうか、プロデューサーさんのことを伝えたいと思ってしまって…ちゃんと抑えはしましたけど、本当に大丈夫でしょうか…?」

 別に他のタレントでもメイクさんの話など、身内の話はいくらでもしているから問題はない。
 むしろ問題は俺がちひろさんに何を言われるかわからないという点なのだ。


 それを言うと、翠はただただ苦笑していた。






「……あの、プロデューサーさんは私のことを信頼してくれてるんですよね?」
 ひとしきりこの話題を話し尽くしたあと、翠は少し考え込んでから訊ねてきた。
 その前に、『コミュニケーションは信頼から』という翠の言葉がシックなBGMにかき消されそうで微かに聞こえた。

「当たり前だ。翠を信頼しているし、あの時声をかけてくれたのが翠で本当に良かったと思ってるよ」

 あの時体に走った電流を俺はきっと忘れはしない。
 一目惚れとはまさにこの事を体現しているのだと断言できる。

 それ程までにひと目見た時の彼女の顔が美しかったと言えよう。


「私もプロデューサーさんの事、信頼しています。だから…お願いがあるんです。ええと、その――」


 彼女が突拍子もない事を言い出すのはもはや慣れ始めてすらいた。


 しかし、今回彼女が言い出した事は……なんとも可愛らしいお願いだった。





  *



「あ、おかえりなさい、プロデューサーさん、翠ちゃん」

 休憩を終えて事務所に戻ると、ちひろさんは事務所の掃除をしていた。
 よく見ると俺の机まで掃除をしてくれている。

「只今戻りました。いつもありがとうございます」
「いえいえ。私にはこれくらいしかできませんから。翠ちゃんもお疲れ様、すぐお茶を出しますね」

 そう言って給湯室に入っていくちひろさんを見つつ、俺達はソファに座った。

「翠、お疲れ様。今日も頑張ったな」
 定型ではあるが労う。口に出さなければ伝わらないのだから、味気なくても俺は言うことにしていた。

 実際仕事も多くなり初めての形式の仕事も増えて、少なからずプレッシャーもかかっていることだろう。
 この事務所の命運は彼女にかかっているのだから、俺にできることなら何でもしてやらねばなるまい。



「あの…出来ればでいいんですが、また…撫でてもらってもいいですか?」

 …再び翠はろくでもない提案をした。






「おいおい…それはあの時だけの話だろ。それに高校生なのにって翠も言ってたじゃないか」
 横に座る翠はまたしてもあの時を再現するかのように上目遣いでこちらを見てきた。
 身長差により自然にできるのが運命なのだろうか。

「確かにそうなんですが……撫でてもらうと何だかふわっとしてきて、とても気持ちいいんです。……変なこと言ってすみません」

 そう言って申し訳なさそうにする翠を見て、俺は一体どうしたらいいんだろう、と悩むしかなかった。

 ……まあ、本人がそれを願っているなら叶えるのも吝かではない。
 ここは事務所で人目はつかないし、彼女も難しい立場なのを承知で頑張ってくれているのだから、望みは聞いてやるべきか。

「お疲れ様」
「わっ」
 ぽん、と翠の頭に手を置くと、小さく声を上げた。
 しかしあの時とは違って緊張した様子はなく、非常にリラックスしているようだった。

「おかしなことを言うもんだな……これでいいのか?」
「…ありがとうございます、Pさん」


 納得しているのなら、支障をきたさない限りは問題なかろう。
 幸い今日の仕事は朝の内に殆ど終わらせておいたので、彼女が満足するまで手は貸してやろうか。



 ただ。


「……どうして頭を撫でているんでしょうかね、プロデューサーさん?」


 事務所にいるもう一人の存在に留意しておくべきだというのは、今更だろうか。






  *




 何着目かのこのスーツも毎日の酷使により若干の傷が出始めた頃。

 紅葉は既に終焉の合図を待ちわび、木枯らしを名乗る風がおいおいと街を荒らし始める秋のとある朝だった。


 変化というものは、前後で繋がっているように見えて実は独立した何かなんだと、俺はこの時強く思った。







「ゴードーフェス?」
「合同フェスですよ、プロデューサーさん」

 事務所。

 いつものインスタントコーヒーを飲みながら今日の予定を確認していると、突然ちひろさんが聞いたことのない言葉を口に出した。

 聞き返した口調がどうやら知らないみたいだと理解したちひろさんはちょいちょい、と手を小招いて俺を呼ぶ。

 もう片方の手はちひろさんのパソコンの画面を指さしていた。見ろ、ということらしい。

 椅子から立ち上がり、隣まで行くと液晶画面を横から覗きこむ。

 すると画面にはメーラーが起動しており、一件のメールが表示されていた。

「…翠にフェスのお誘い!?」

 内容には、合同フェスの推薦という文字が記されていた。





 合同フェスとは、アイドルが好きな者なら知らないものは居ない、毎年末に行われる多くのプロダクションが参加するライブコンサートである。

 フェスでは、その年のヒット曲を生み出したアイドルや人気になったアイドルが集結して歌いあう、一種のお祭りのようなイベントなのだ。

 当然ファン投票によるライブバトルも行われるが、大体は最高レベルのパフォーマンスショーだと思っててくれていい。

 そういった説明をちひろさんから聞きながら、俺は顎に手を当てる。

「…でもちょっと待って下さい。仮に出場条件がそうなら、翠にどうして招待が来るんですか? まだ曲すら出していないんですよ」

 説明によれば、その年有名になったアイドルがおおよその参加条件となっている。

 しかし、残念ながら翠ではそれに合致しているとは思えない。
 地元での人気はかなり上がってきているとは思うが、彼女のシングルすら出していない状況では、どうみてもつり合わないはずだ。

「ここを見て下さいよ、ここ」
 とんとん、と液晶を爪で突いた所を見る。

 そこにはこのメールを出した相手の名前が――。

「……って、ここはゆかりのいるプロダクションか!」


 招待状をくれたのは、他でもなくゆかりの所属する事務所からだったのだ。






 驚く俺に対し、ちひろさんは説明を続ける。

「もちろん基本的な条件はさっき言った通りですが、その他にも将来に期待なアイドルという意味の推薦枠というものがありまして。それを利用してあちらは翠ちゃんを推薦したんですよ!」

 信じられない、という表情を俺は今しているだろうか。
 いや、鏡を見なくてもそれは大体わかるような気がする。

「…でもどうして翠なんでしょうかね。そりゃ嬉しいですけど、相手方の事務所はかなり規模が大きいはず。なら他にも推薦する相手はいくらでもいると思うんですが」

 考えれば考える程に不理解が進む。

 確かにゆかりとは一度急なスケジュールだったが限定的にユニットを組んでライブ行い、無事成功を納めることができたが、それでもたった一度だけの事だ。
 つながりでいえば、相手方にとってこちらの事務所よりも縁深い事務所は数多くあるはずである。

 にも関わらずその中で翠を選んだ理由というのが今ひとつすんなりと飲み込めない。
 嬉しいが故の懐疑なのだろうか。

「まあまあ。ともかく、一年目でフェス参加ですよ! 確実に流れが来てますよ、プロデューサーさん!」
 ちひろさんは軽く手を叩いて喜んだ。

 初ライブすらいきなりの事なのに、今度も突然で、更に大規模と来た。
 しかも観客は温かい声援を送ってくれる比較的身内ではなく、年齢も出身も違う全く無関係の人達だ。
 クオリティやパフォーマンスも、なあなあでは到底許されるものではない。





 あまりに急だったので急いで頭の中に内容を落としこみつつ、やるべきことについて考える。

 すると、即座に思考が行き詰まってしまった。

「…あの、ちひろさん。フェスに参加するとして……曲はどうなるんですか? まさか学園祭の時の同じ曲を使うわけにもいかないでしょう」

 さしあたって最も重要な問題である。

 ヒット曲を生み出して有名になったアイドルならばその曲を披露すればまず間違いはないのだが、そもそもの話、翠は曲をリリースしていない。

 今からフェス用の新曲を作るのか、とまたもや色々な方に無理をさせるスケジュールを組まなければいけない事に頭を悩ませると、ちひろさんはその思考を遮った。

「…プロデューサーさん、ちょっとこれを聞いてみてくれませんか?」
 不意に彼女は引き出しを静かに開けると、一枚のCDケースを俺に手渡した。


 ラベルもメモもない、プライベートで使用する目的として保存していたとおぼしき、白いCDだった。






「これをですか? ……まあいいですけど」
 CDケースには多数の傷が付着しており、随分昔から何回も使いまわしているんだな、とどうでもいい感想を抱きながらケースを開け、パソコンにCDを挿入する。

「……」
 鈍い回転音と共にCDが読み込まれ、既定の音楽プレイヤーが起動する。
 ちひろさんの声も止まり、音楽がスピーカーから流れるのを、ただ無言で待っているようだった。
 その表情というのは実に真剣で、遊びや悪戯なんかでは到底無いことを明確に表していた。

 この使い古されたケースといい彼女の表情といい、なんとも疑問点の多く浮かぶ事案である。

 しかし、そんなことを考えていても何も始まらない。

 自動的に起動されたソフトの再生画面を一度みれば、もののワンクリックで、記録されていたデータが再生された。






 ――興味深い、というのが第一印象だった。

 学園祭で歌った曲はどちらかと言えばポップ・ロックを頭から踏襲した、かなりベーシックなものであったのに対し、今この事務所に流れている曲は少し静かな曲調の物だった。

 一本のエレキギターがメインで穏やかな旋律を紡ぎ出し、それを肉付けし彩るようにボーカルやベース、ピアノなどが重なり合っていた。

 全体的に激しい印象は無いが、サビとその前のBメロで微かに音が賑やかになっていく様は、不思議としんみりさせてくれる。
 特に気になったのがこの歌声だ。
 誰の声かは分からないが、か細い中に芯の強さを感じて、声が完全に曲に溶け込んでいるのを感じた。

「ジャンルなら、一応ロック・バラードに分類されます。演劇的な歌い方が必要で、単純に歌というよりも弾き語りのような雰囲気が重要になります」

 曲の一番が終わると、俺はひとまず一時停止のボタンを押した。

「プロデューサーさんならどう思いますか? …翠ちゃんにこの曲、似合うと思いますか?」

 真剣な眼差しで――そして、少し不安げな瞳が変わった印象を受ける。

 まるで秘蔵の隠し子を晒すかのような、大事そうな扱いだった。






 翠の歌を思い出す。

 ライブをして分かったが、翠にはまだ声量が少し足りない。
 実際あの時もゆかりの歌声に負けそうになった部分も少なからず見受けられていた。

 しかし、針の穴に糸を通すような繊細な声は人の耳に効果的に入りやすく、高目の音程まで濃く出せるので表現の幅は高そうだ。

 それとこの曲が組み合わさればどうなるか。

 はっきり言って、俺には想像が全くできなかった。


 そもそも、この音源はどこから入手したのだろうか。
 CDケースの傷といい、明らかに公式に譲渡されたような様相ではない。

 それについて訊ねても、「ちょっとした伝手で受け取った音源なんです」とはぐらかされて、欲しい答えは得られそうにはなかった。






「そのメール、こっちのパソコンに転送してもらってもいいですか?」
 立って覗きこんで見るのも辛いので、招待状のメールを自分のメールアカウントに転送してもらい、改めて確かめる。

 合同フェスの開催日は年末も近づくクリスマス後。
 新年に向けて休みの人が多く、リアルタイムで見てもらいやすいという考えだろう。

 テレビでも生放送していて他局の特番ともやや重なるが、過去の記事を見る限り、視聴率も良いようだった。

 すなわち、ここで他のアイドルに負けないぐらいアピールを行えば、来年からのアイドル活動もより優位に立てるという事に他ならない。


 そのためには、今からすぐにでも練習を始める必要がありそうだ。

 学園祭の時に比べ練習期間は一ヶ月程伸びたが、規模は数倍も違う。
 ライブ自体まだ二度目なのに、いきなり大舞台でのパフォーマンスとなれば相当精神的にキツいものがあるはずだから、それへの対策も十分に行わなければならない。

「…わかりました。この曲、翠に歌わせましょう」
 そういう意味でも、曲を選り好める立場ではないことは明確だ。

 無論、この曲が悪いという話ではない。
 ただ実際問題として、翠に適した曲であるかどうかは完全に未知数で、博打的な判断と言える。
 この曲を歌っている声のように歌えれば、翠の声質なら魅力を引き出せるだろうという考えだ。






「…そう、ですか」
 ほんの少しだけ、ちひろさんは息を吐いた。

「わかりました。では参加すると同時に、トレーナーにも音源と簡単な練習方針を送っておきます。次のこっちでのレッスンの時にそちらで詰め合わせを行なって下さいね」

 慣れた手つきでキーボードを叩く。
 恐らく関係各所へのメールを打っているのだろう。

「ん? 愛知で明後日レッスンですけど、その時にしなくていいんですか?」

 基本的に翠は愛知での生活を軸にしているので、平日のレッスンは愛知で、休日は東京で、という体型を取っている。
 次のレッスンというだけならば明後日でもいいのだが。

「確かにそうなんですが、今回のフェス対策に関して、別のトレーナーも臨時で見てくれることになってまして」
「ああ、なるほど……って、そんな前から言ってたんですか!?」

 合同フェスの話すら今日知ったというのに、なんとその臨時トレーナーとやらはにはもっと前から話をしているというのだ。

「いえ。元々今のトレーナーは基礎レベルの範囲でお願いしてましたので、ハイレベルなレッスンに関しては別の方についてもらうよう前からそういう約束をしていたんですよ」

 開いた口がふさがらないというか、感心で口が閉じられない。

 ちひろさんは俺の見えない所で用意周到に土台作りに励んでいたというのだ。
 全く以てその機敏さ、聡明さに尊敬の念を禁じ得ない。






「わかりました。そういうことならその日で。翠には先に伝えてもいいですよね?」
「大丈夫です。ただ、出来れば電話ではなく口頭で伝えてやって下さい。その方が嬉しいでしょうから」
 ちひろさんのいうことは尤もだ。
 面と向かって伝えられる方が、きっと翠も喜ぶに違いない。

 次に会うのはいつだ、と思い、机に置いている手帳を手に取る。
 明日の欄には、東京での写真撮影の仕事が記されていた。

「了解です。では明日伝えますね。それで、参加にあたって他に連絡しておく事項はありますか?」

 これから色々な所に顔を出すだろうし…と思ったが、特にありません、とちひろさんは答える。

「こちらでできる処理は私が請け負いますので、プロデューサーさんは翠ちゃんに専念してあげて下さい。翠ちゃんにとって、味方はあなただけなんですから」
「そんなことないですよ。ちひろさんだって、翠の立派な理解者です」

 東京での暮らしを親身になってサポートしているちひろさんが、翠に良く思われていないはずがないだろう。

 そう言うと、ちひろさんは困った表情を見せたのだった。





  *



「今日の私は如何でしたか?」
 若干の渋滞気味な幹線道路を走行中の事だった。

 愛知から仕事のためにやってきた翠を送迎のために使用していた、その車内である。

 ゆっくりと進む中、助手席にきちんと座っている翠はそう訊ねた。


 都内のスタジオで写真撮影というのが今日の仕事だった。
 トラベル誌の観光特集で翠を使ってくれるという事で、案内に使う写真を撮っていたということである。

「特に問題はなかったぞ。…何かおかしなことでもあったか?」
「いえ…、Pさんの目から見て、下手な所はあったのかな、と思いまして」

 いよいよもって律儀な人間である。
 たかだが18年生きただけの少女に、どうしてこれ程の勤勉さが備わっているのだろうか。

「大丈夫。向こうの人もすんなり行ったって喜んでたよ。流石翠だな」
「そうですか……よかったです」
 横目で彼女を見ると、膝に手を置いて、嬉しそうにしていた。


 ああそうだ、と俺は言おう言おうと思ってた例の件について不意に頭に浮かぶ。





「喜んでる所悪いが、翠に更に嬉しい事をお知らせすることがあったんだった」
 信号待ちで車は到底進みそうにない。

 もう少し早くスタジオを出られたらこんなことにはならなかったのかもしれない、と独りごちるが、詮ないことだ。

 ハンドブレーキを引いてハンドルから手を離すと、近くに置いていた鞄からクリアファイルを取り出して翠に渡した。

「なんでしょうか、これ」
「いいから読んでみろ。悪いことは書いてない」

 手渡されたファイルから紙を取り出して訝しみながら眺め始めると、ものの数秒で彼女は飛び跳ねた。

「――これって!」
 タイトルを見ただけで、翠は理解したようだ。

 この紙の中身は、あの例の招待状のメールを編集して印刷したものである。

 よもや彼女が俺の言葉を質の悪い冗談だととるはずはないが、事が事のために一応証拠を用意しておいたのだ。

 伝える言葉を考えたが特に思いつかなかったので、ただありのまま、俺は翠に報告をする。

「おめでとう、今年末のイベントに…翠が出演することになったぞ!」


 わあ、と翠が言葉にならない声を上げて喜ぶ色がありありと見えたが、話はこれだけじゃない。






「そして翠にもう一つの嬉しいお知らせだ。聞きたいか?」
「ふふ、勿論聞きたいです」

 冗談めかしていうと、彼女もそれに応える。
 笑顔が漏れ出るこの状況では、幾分か彼女も純粋になっているように思える。


「じゃあ言うぞ、心して聞け――」

 ――合同フェスでは、翠のための歌を歌うぞ。

 その時の翠の表情と言ったら、言葉では到底表現できそうにはなかった。






「…でも、私なんかでいいのでしょうか」

 ひとしきり喜んだ後、寝るまでずっとその気持ちを抱えているのかと思いきや、彼女は一転して声をすぼめた。

 何だか、遠い昔にもそんな言葉を聞いた記憶がある。


 …確か、スカウトする時だったか。

 アイドルとして生きることに自信がなかった翠を勇気づけて決断に至った事は、印象深い出来事として頭に残っていた。

「なんか、じゃないさ」
 結局、何にしたって不安というものは常に心臓の周りを漂っている。
 それは自己のイメージを反映しただけで、客観的でない架空の存在だ。

「アイドル始めた時と似たような物だ。ちゃんと今、出来てるだろ? …だから今度も大丈夫だよ」
 スケジュールも学園祭の時より余裕があるしな、というと、翠は小さく笑った。
 本人もそれは懸案事項として抱いていたということだろう。

「…私、頑張りますから」
「翠だけじゃない、俺もちひろさんも頑張って、翠をサポートするよ」


 ありがとうございます、と一言翠が述べると、その後は事務所に帰るまで談笑が続いた。






  *



「もしもし、ゆかりは今大丈夫か?」
 仕事も一区切り置いたところで、俺はゆかりへと電話をかけていた。
 喫茶店で昼ごはんを注文し、やってくる料理を待つ合間の出来事である。

「はい。今はオフですよ、Pさん」
 電話越しの彼女の周りからは何やらクラシックめいた音楽が小さくではあるが流れている。
 大方彼女の部屋で音楽を聞きながら何かをしていたのだろう。


 ところでどうしてゆかりへと電話をかけたのかというと、無論フェスの招待の事であった。
 この度の経過は、通常であればあり得ないはずのことだ。

 それが実際に起きているというのなら、それはあちら側で何らかのアクションを起こしたからだと推測できる。

 もしそうであるのならば、ただ黙ってそれを享受している訳にはいかない。
 こちらにとって好都合に事を運んでくれた人がいるのであれば俺からも何らかの感謝の形を伝えるのが筋という話だ。

 そういう訳で、例え仕事中であっても一応は休憩中であろうこの時間を狙って電話をかけたのである。

 彼女のプロデューサーにかけないのは、単にゆかりであれば内容はどうであれ包み隠さず教えてくれると踏んだからである。






「いきなりだけど……ゆかりは、翠がフェスに参加することを知ってるのか?」
 俺の質問に対しては、身内の出来事だと言わんばかりに喜色めいた声で返事が返ってきた。

「ああ、はい。知ってますよ。私のプロデューサーさんから聞いたんです」
「ということは…ゆかりが直接翠を推薦した訳じゃないのか?」

 予測の中の一つには、ゆかりが掛けあって実現したという案があった。
 むしろ個人的にはそうであって欲しかった。

 何らかの戦略で以て翠を招待したとあれば、こちら側にどんな干渉をしかけてくるか全く解らないからだ。

「そうですね。上での話し合いの結果ということらしいので、私にもどうだかはわからないんです。ごめんなさい」
「いや、ゆかりが謝ることじゃないよ。こっちこそいきなり悪かったね」

 第二の予測として、ゆかりのプロデューサーが推薦した…というのも考えたが、彼女の話しぶりからするとどうやらそれも違うらしい。

 当然、彼が推薦したという事実をゆかりに教えなかったということも、あり得る話ではある。
 彼の胸の内に抱えるストイックさを考えれば、可能性はゼロではない。





「実は後日に翠ちゃんから電話がかかってきまして…とっても嬉しそうに話してましたよ」
「…ありがとう、ゆかり」

 ごく自然に、俺は感謝の言葉を漏らしていた。

「どれもこれも、ゆかりが翠と一緒にライブをしてくれたおかげだ。本当にありがとう」

 俯瞰してみれば、どこにでもいるただの新人アイドルが曲も出さなかったにも関わらず年に一度の一大イベントに参加できるのは、結局彼女との繋がりがあったからだ。

 あのオーディションでの偶然の出会いが今を演出しているという事実に、俺は彼らに感謝せずには居られなかった。

「そんな…いえ、私からもです、ありがとうございます、Pさん」
「え?」

 すると不意に、彼女から俺へと何故か感謝されてしまう。
 後ろから聞こえるクラシックの音楽に同調するような、優しい声だった。

「翠ちゃんが楽しそうに話す声が、私も好きなんです。そういう風にしてくれたのは…他でもない、Pさんのおかげでしょうから」

 どうしてこうも、俺の知り合う年下の彼女達は大人びているのだろうか。
 お世辞にしろ本心にしろ、即座にこんな言葉がすらすらと出てくるのは年齢を考えれば違和感でしかない。

 尤も、それが芸能界で生きていく上での当たり前のことなのかもしれないが。






 対照的に大人と呼ばれるのにふさわしいのか未だに疑問の残る俺が浮かび上がって、一層気持ちが萎えてしまう。

 これじゃまるで俺が年下みたいではないか。

 もっとビジネス書でも読んだほうがいいのかな、とそういう思考がそもそも安直で大人ではないという事実に辟易としていた時だ。


「これでまた同じ会場でライブが出来ますね。私、楽しみにしてます」

 ……一つの大きな驚きが肺を震わせた。






「同じ…というと、ゆかりもか!?」
「はい。ファンの皆様のおかげで二年連続で出させて頂くことになりました」

 マジか、と無意識に口から言葉が漏れる。

 通常、合同フェスは開催日ニ週間前に初めて今年参加するアイドルが好評される。
 秘密裏に教えてもらうこと自体にも驚いたが、ゆかりもまさか参加しているのだということが一番の驚きだった。

 その間にウェイトレスが四つ切りの食パンで作られたサンドイッチとコーヒーを運んできたので、なんとか目線で礼を言う。

「二年連続だって?」
「Pさんはご存知なかったんですね。…まあ、私の知名度では無理もなかったかもしれません」

 おいおい、聞いちゃいないぞ。

 ……それ以前に、どうして気づかなかった?

「一年目はユニットで出させてもらったので、多分わからなかったんだと思います」
「ああ、なるほど…そういうことか」

 ゆかりの口から出たユニット名を鞄に入っていたタブレット端末で検索すると、確かに前回の合同フェスの序盤に参加していたという記事が見つかる。

 前に合同フェスの招待についてちひろさんから伝えられた時、一応過去の開催模様などを調べたりしたが、どれも有名所ばかりで彼女のユニットが埋もれて見逃していたのかもしれない。


「それでも一年目から参加できるなんて……やっぱりゆかりは凄いな」
「……そう、ですね。…幸運だと思います」


 ――俺の耳元に届く声から、覇気が一瞬だけ消え去った。






 先程まで感じていた嬉々の混じった抑揚の声とは明らかに違う何かを察知する。
「……ああ、折角のオフなのに長電話して悪かったな」
「いえ! そういう訳じゃ……! …勘違いさせてすみません」

 てっきり、つい今までやっていた作業を中断されたから少し不愉快に感じてしまっていたのかと思って話を切ろうとすると、慌てた声で今度は彼女が謝った。


 …どうにも歯切れが悪い。

 何やら彼女の中で俺の知らない物体が蠢いているのだろうか。

「実際長電話すぎたからね……俺もこれから仕事だから切るよ。話してくれてありがとう、ゆかり」

 …しかし、それを追求することはできなかった。
 藪をつついて蛇を出すことだってよくあることだし、何より俺が踏み込んで良い世界ではないと思ったからだ。

 人には誰しも如何なる自称に対して悩みや憂いを持っていることだろう。
 だが、それを解決するのは近しい人物だ。

 それをするのはゆかりのプロデューサーの彼であって、俺ではない。
 力になれるのなら何でもしてやりたいが、部外者の俺では到底務まらないだろう。

「…今日、時間はありますか?」

 ふと、耳元でゆかりの声が聞こえる。






 俺もサンドイッチとコーヒーが冷めきる前に食べないとな、と回線を切るために耳元から電話を離しかけた時だった。

 慌てて電話を耳に近づけ直すと、彼女の誘いを咀嚼する。

「今日? 昼の…そうだな、14時から夕方までなら空いてるぞ。何かあるのか?」
 静かな声でそう訊かれたら、何かあると思わざるを得ない。

「ありがとうございます。…それなら、暇になり次第来て頂けませんか? ……私の家に」
 驚きしか耳に入って来なかった。

 何だって? 俺がゆかりの家に行くように誘われた?

「…すまん、それって本気か?」
「少しお話がしたくて……駄目でしょうか?」
 電話越しで、彼女は小さく答えた。


 それが、どうにも声色と言葉が翠に似ているような気がして。


「…わかった。遅れるかもしれないけど、終わり次第行くよ」
「ありがとうございます。住所はメールで送ります。…待ってます」


 果たして俺の行動は正しかったのだろうか。

 それを証明してくれるものは……隣に居ない。


 コーヒーは、喧騒に揉まれて望まれた熱を既に失っていた。





  *



「まずは改めまして、翠ちゃんのフェス参加、おめでとうございます」
 ゆかりの部屋に行って茶のもてなしを受けたあと、開口一番に彼女はそう言った。


 ――水本ゆかりの家。
 なんとも落ち着いた家、というのが真っ先に浮かんできた感想だった。

 ゆかりは翠と同じく地方からの出身だが、東京からは遠いので都内に部屋を借りて生活をしているようだ。

 マンション内には同じ事務所の仲間も別の部屋で住んでいるらしいが、昼間というだけあって会うことは無く、スムーズにゆかりの部屋にたどり着くことができた。

 中は、お世辞にも芸能人らしい広々とした豪華な部屋とは言えず、一人暮らしの大学生が借りるようなワンルームマンションと言った感じであった。

 じろじろと周りを見渡すのは失礼なので、部屋に入るときに一瞥したところ、歳以上に落ち着いた雰囲気だと実感した。

 観葉植物などのインテリア小物やCDコンポやフルートのケースなどの実際に使いそうなものまで綺麗に整頓されていることから、彼女の性格がよく見えてくる。






「何だか恥ずかしいですね、こう…面と向き合ってお話するのは」
 ゆかりは照れくさそうに頬を掻いた。

 如何にもそうだろう、という風貌をしている。
 まさに清楚…いや、どこかのご令嬢ではないだろうかという疑問さえ浮かんでくるほどの落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

 似たような感じで翠も同様の雰囲気は感じるが、翠の方がやや幼く感じてしまう。

 ……まあ、そう思ってしまうのも全てあの異質な言動のせいなのかもしれない。

「俺も女の子の部屋に入るなんて今まで滅多になかったから同じ気持ちかもな」
「ではお互い様ですね……ふふ」
 漏らすように笑うと、ゆかりも同様に小さく笑った。

 やはり笑っている顔がいい。翠にせよゆかりにせよ、一番似合っていると俺は思う。

「ああ、そういえばこの前翠ちゃんと買い物に行った時のことなんですが――」
 ゆかりは掌を叩くと、その時の戦利品を棚から取り出してテーブルに置いた。


 用事などどこへいったと言わんばかりに、他愛もない話が咲き誇った。







 ――それで、話っていうのは何なんだ?

 雑談もそこそこに、俺は本題を切り出す。

「…あ、すみません。つい脱線してしまって…えと」

 一応ひとつの話が終わった区切りのいい所で訊ねはしたが、あの時…電話越しのゆかりと同様に、少し歯切りの悪い感じが見受けられた。

「実は、フェスのお話で……Pさんが、私をすごいって言ってくれた事なんです」
 容易く記憶が蘇る。

 僅か数時間前の出来事だ。
 扱いはどうであれ、一年目から合同フェスに参加できたという事に対して俺が言った『凄い』という言葉に関わる話らしい。

 気づかずに俺は彼女を傷つけるような事を言ってしまったのか、と俺の発言を軽く回想してみても、それらしきものは何も見当たらなかった。

「…よくわからないんだけど、俺の言葉が気に触ったのならごめん。謝る」
 貸してもらったクッションに座りながら、俺は頭を下げる。






「いや、そういうことじゃないんです! 頭をあげて下さい!」
 すると、勢い強い声で彼女は否定する。

 言葉のまま頭をあげると、体の前で手を振り回していた彼女が居た。

「…じゃあ、どういうことだ?」
 どうにも主旨が読み取れない。
 謝罪要求でもなければ何だというのだろう。

 ただのお茶会であればあんな気落ちした声色で誘うことは変だし、あえてゆかりの部屋に誘った理由もよくわからなかった。

 すう、はあ、とゆかりは胸に手を当てて、テーブル越しに深呼吸する。
 まるで一世一代のプロポーズをするかのような仕草だ。

 一体どんな言葉が出てくるのだろうか、と俺も唾を飲んで彼女の発言を待っていると、三回ほど深呼吸をしたゆかりは真剣な面持ちでこう言った。



 ――去年は、私の知る限り……最悪の日でした。


 静かに語りだす彼女の声は、とてもじゃないがいつものそれではなかった。






「私の所属している事務所はどんなところか…Pさんはご存知ですよね?」
「知っているも何も、超大手の芸能事務所じゃないか」
 当たり前だと言わんばかりに答えてみせる。

 事実、俺達の事務所とは比べ物にならないくらいの差がある程にゆかりの事務所は大規模だ。
「はい、その通りです。この業界では、こちらの事務所は有数といっても過言ではありません」

 それは、調べようとすれば、テレビ番組には殆ど出演しているという結果が出るのではないかと現実的に思えてしまう位のものだ。

 可愛らしい形の丸テーブルに用意したコップのお茶を少し飲んでから、彼女は言う。

「……ですが、それは私にとって利益であり、また不利益でもあったんです」

 よく吟味してみるが、味を知るまでには味覚が到達しなかった。

 所属する事務所が大きいと営業のパイプも無数に伸び、また太いので、多種多様のアイドル活動においてはこれ程重要なものはあまりない。

 大手であればあるほどルートは正確になり、段階を踏んでいけばすぐに羽ばたいていける、そんな整備された階段を持っているものだ。

 現に、口に出すつもりはないが、ゆかりだってそのパイプを知らないうちに利用しているのだろう。





 では、彼女の言う不利益とは何なのだろうか。

 ゆっくりと紡ぐように、ゆかりは語りだす。

「…私が一年目にフェスに出場できたのは、事務所の無理矢理なねじ込みが原因だったんです」
「ねじ込み?」

 途端に嫌な影が見え隠れする。

「はい。…事務所内で次に売り出すアイドルは誰か、というのが上の方たちの中で会議したそうで、それに私が選ばれ、その結果、去年のフェスには無理を通す形での参加となりました」

 この言葉だけで、俺でなくとも十分理解できた。
 しかし、もういい、とは言い難かった。

 …ゆかり自身がこれを吐露したかったのだろう。
 口ぶりが次第に加速していくのがわかった。

「合同フェスは主にアイドルの舞台なんです。ただいつもと違うのは……音楽に対してファンが妥協しないという事」

 俺は今年からこの業界に入ってきて、それまではアイドルなんて何も興味もなかったから、一年前に開催された前回のフェスは知らないし、このイベントの空気などもあまり理解できていない。

 しかし、しかしだ。
 恐らくではあるが、ゆかりはその中で持てる力を出しきって歌い、踊り、足元の覚束ないアウェーの中、必死で頑張ったのだろう。





 その結果。
「…私達を待っていたのは、批判でした」

 心なしか、ゆかりの視線が下を向く。


 これが、合同フェスが普段のライブと違う所以。

 通常のライブであれば、自分の好きなアイドルの歌や踊りを見に行くのが理由なのに対して、合同フェスというのは少し独特の価値観があった。

 それは、『アイドルだけ』にスポットライトがあたるのではなく、『アイドルが披露するパフォーマンス』に観客の焦点があてられる、ということだ。

 合同フェスがその年人気になったアイドルを運営が厳選して参加資格を与えるのも、質の低い音楽を観客達に見せないため、という理由から来るのかもしれない。

 あくまで推測でしかないが、そのイベントが年末の恒例行事とまで言われる程人気なのも、運営により実力が保証されたアイドル達だけが出てくるからなのだろう。

「流石に合同フェス中こそブーイングが起きることはありませんでしたが……その後は酷いものでした」
 俯いたゆかりの唇が、きゅっと結ばれた。





「…インターネットか」
 こくり、と頷くのが見えた。

 言うなれば、舌の肥えた客が評判の良い料亭に行ったが出された料理が普通だった、ということなのだろう。

 俺はインターネット上でそこまで深くアイドルについて語り合う書き込みをあまり見たことがないのではっきりとは解らない。

 しかし、合同フェスという「良い者」だけが出てくるはずの場に新人…それも、事務所の方針で無理矢理入れられた者が紛れ込んだら、目と耳が肥えた観客達は何を思うか。


 想像に、難くなかった。

 どの世界にも過激な人間は居る。
 その内、『目に見える形で』彼女達のユニットを批判した可能性も、十分に有り得る。


「…その件もありまして、当時組んでいたユニットのもう一人の方はアイドルを辞めてしまいました。そして、残されて弱り切った私の担当に新しく就いてくれたのが、今のプロデューサーなんです」

 少し、ゆかりのプロデューサーの態度が理解できたような気がした。

 その当時のゆかりは意気消沈し、歌やファンに対して恐怖感を抱くまでに陥ってしまったのかもしれない。

 彼はそんな彼女の担当につき、厳しく指導することで立ち直らせることにしたのだろう。

 傷を舐め合うことでは癒されない。むしろ、雑菌が入り込み、症状が悪化する。

 ゆかりのプロデューサーはそう判断し、彼女に接したのだ。






「だから、私は凄い訳じゃないんです。私のプロデューサーさんのおかげで立ち直っただけの…強くない人間なんです」

 ぽつりとそう言うと、ゆかりはそっと口を閉じた。


 彼女が俺をわざわざ呼び、思い出したくもない過去を晒したのは何故か。


 ――デジャヴ。

 不意にそんな横文字が頭に浮かんだ。


「……ゆかりは、やっぱり凄いよ」
「いや、そんな…私は」

 思いつく言葉を、俺はただ言う。






「多分、ゆかりは今年の合同フェスにも参加することで、去年のリベンジをしたいという気持ちもあるんじゃないか?」
「それは……」

 あの時こき下ろしてくれた観客たちに後悔させてやる。
 少なからずそういった反骨心もあって立ち直り、今までやってきたのかもしれない。

 それを果たす事で、彼への恩返しになると考えたのだろう。


 では、そんな人間が今こうして過去の話など話す余裕があるのだろうか?

 考えれば考える程、彼女の中に大きく存在する優しさが、静かに、ゆるやかに、俺の中に入ってくる。

「それなのに、翠が参加するという話を聞いてゆかりは危機感を覚えた。…一年前の自分と同じ境遇に翠がなってしまうんじゃないかという事に」

 前回で植え付けられたトラウマも全く無い訳じゃない。
 そして観客も、きっと彼女を実力不足という色眼鏡で見ることになる。

 今年の合同フェスでは、きっと体に色んな重しをつけて舞台に上がることを余儀なくされる、間違いなく苦しいライブとなるだろう。


 それでも、ゆかりは翠を心配した。

 ゆかりは、翠が朽ちる姿を見たくないのだ。



「……ありがとう、ゆかり」

 少し体をあげると、俺は自然にゆかりの頭を撫でていた。







 翠にやるようになって、抵抗感が薄れていた故の行動かもしれない。

 しかし、こうまでして心配してくれたゆかりを見ていると、こうしなければいけない気がしたのだ。

「そこまでして翠を心配してくれて。翠と仲良くしてくれて。…君が居て良かった。君と知りあえて、本当に嬉しいよ」


 彼女は恥を晒してでも、俺に教えてくれた。

 新人のアイドルが合同フェスに挑むことが、どういう結果をもたらすのか。
 まだ知らぬ俺と翠が、どんな感情を抱き、今後の道を選ぶのか。

 他所の事務所の人間が相手でも構わずにゆかりは、翠を、俺を助けることを選択した。

 何故ならば、翠の今まで歩んできた道のりが彼女のそれと錯覚したからだろう。

 そして同じように弱り切って、もうこの世界から消えてしまったゆかりの相方のようになって欲しくない。


 それだけのために、この時間を作り出したのだ。


 す、す。

 ゆったりとした動きで、頭頂から耳元へ、そっと手を動かす。
 彼女は抵抗すること無く、されるがまま俺の行動を許していた。






 五回、六回だろうか、少しの時間を置いて、ゆかりは口を再び開く。

「正直に言って、覚悟しないといけないかもしれません」
「え?」

 突然の言葉に思わず手が離れる。


 覚悟、というと、合同フェスのことだろうか。

「今回翠ちゃんに招待が来たのは、恐らく事務所の偉い人たちの目論見があってもおかしくないと私は思っています」

 思えば、どうして大手の事務所からこんな小さな事務所に所属している翠に招待が来るのかを考えれば、邪推であっても答えは自ずと出てくる。

「…当て馬、ってことか」
「自分の所属する事務所を疑うつもりはありませんが…やり方として、十分に可能性は考えられます」
 新人のゆかり達をフェスに無理矢理送り込んで活躍を計算するなどといった無謀な策を実行してしまうぐらい馬鹿げた上層部だ、そんなことを考えていても不思議ではない。

「今からでも辞退することはできませんか?」

 ゆかりは後ろめたそうに問う。

 実際、この合同フェスの参加者というのは、当日より少し前の特番で初めて世間に公表されることになっている。
 いわゆるファンに対してのサプライズ演出、ということなのだろうか。
 それとも、年末に起こるムーブメントまで見極めたいという運営の考えなのだろうか。

 どちらにせよ、今現在において翠が合同フェスに参加することはまだ世間には知られていない。





 しかし。

「…それはできない」

 去年のゆかりへの風当たりを考慮すれば、ここで潔く辞退して今後のアイドル活動への悪影響を避けるべきなのだろう。


 だが、俺はこの事を伝えた時の翠の笑顔を見てしまった。

 こんな巫山戯た格好で取り消しにしてしまっただなんて、言える訳がない。

 現実的な問題を挙げれば、招待を蹴った形になって相手方の事務所との関係が悪くなってしまうという懸念もある。


 それでも、進むと決めた。

 翠なら、きっと成功できる。
 疑問も批判も歓声に変えて、皆を魅了することができる。

 お世辞でも贔屓でもなく、俺はそう思っていた。

「そう、ですか」
 ゆかりはまた一つお茶を飲み、息を吐く。

「……では、翠ちゃんを支えてあげて下さい。私のようにならないように。お友達として……お願いします」

 その表情は、親愛から来るものに違いない。

 取引先の相手に頭を下げるような目つきではなく、それ以上の…心から思う、真摯な顔だった。





「わかってるよ。大丈夫」
「――わっ」
 もう一度、ゆかりの頭をぽんぽんと軽く叩いた。

 こんな表情をされて、断れる人など居るはずがない。
 元々断る権利もない。

 俺にできることなら何だってしてみせる。
 翠がこれからも活動していけるように。彼女の笑顔を守れるように。


 そう伝えると、ゆかりは今日一番の朗らかな笑みを浮かべて、ポツリと呟く。

「…翠ちゃんの言うことがよくわかった気がします。何だかふわふわします」


 ……翠め、そんなことも話していたのか。



投下中断。
申し訳ありませんが、当然のごとくオリジナル要素が出てきます。

……まだデビューしてないんだもの。ちかたないね。

事後報告ですみません。
  *




「キミが件の…いや、失礼」


 都内のレッスンスタジオ。
 休日にレッスンを行う場合にいつも使用している、青木さんが所属している会社のスタジオだ。

 今日は年末に控えたフェスに向けての臨時トレーナーとの顔合わせと話し合いのためにここを訪れていた。


 扉をノックして入ると、背中を向けていた女性がこちらを振り向く。
 手にはメモが握られている。何かを考えていたのだろうか。

「おはようございます。初めてお目にかかります、彼女はシンデレラガールズプロダクション所属の水野翠で、私はそのプロデューサーです」
「水野翠です。これからよろしくお願いします」

 名刺を渡すと共に頭を下げる。隣に居る翠も、綺麗に腰を曲げた。

「いや、妹から話は伺ってるよ。なかなかどうして、頑張ってるらしいじゃないか」
「ありがとうございま……妹って、まさかあなたは」

 聞きなれない言葉に耳を疑う。

 すると、女性は凛々しい笑みを浮かべて俺の言葉の続きを言った。

「その通り。多分妹から聞いているとは思うが、私は慶の姉の青木麗だ」
 深々と青木さんのお姉さんは礼をする。形も美しく、風貌からしてベテランと言ったところである。







「わかりにくいだろうから私のことは気軽に麗と呼んでくれていい。これからたくさん時間を共にするわけだからな」
 青木さんのお姉さん…もとい麗さんはそう言いつつ、翠を一瞥する。

「…ふむ、色々予定を先に話したいところだが、まずはキミにテストを受けてもらおうか」
「テスト…ですか?」
 翠は素直に聞き返す。

「そうだ。まあテストと言っても、キミがどれくらいのレベルか測る目的のものだ。妹ともやったことがあるだろうから、それと同じと考えてくれていい」

 メモを一度ポケットにしまうと、麗さんは部屋の中央に歩みつつ上着を脱ぐ。
 下はランニングシャツを着用していて、隙間ないピッタリの服は彼女の持つ立派な肢体のラインをありのまま露わにしていた。

「翠、準備運動をしてからしっかりテストに臨むようにな」
「はい!」
 ストレッチを始める麗さんを横目に、俺は着替えを促すと、翠は室内に設備として設けられている更衣室に入っていった。


 そして着替え終わった翠はストレッチの後、麗さんによるテストを受けることとなった。





  *



 ――絶望感。

 一言でこの心境を素直に表すことが出来る言葉はこれ以外には存在しない。

「…今日は調子が悪いのか?」
 彼女は…麗さんは、一瞬にしてこの空気の温度を氷点下にまで落とさせた。


 テストとは、まずは普通に体の柔軟性をチェックしてから、麗さんが披露するパターン化したダンスを即興で覚えて踊る適応力と、教えてからダンスをさせる純粋な能力、そして動きながら歌を歌い続ける持続性を確かめることだった。

「い、いえ。万全です」
 俺の目からすれば、今までの練習の成果を出した、申し分ない出来だったように思う。


「だとすれば……今からでも遅くない、参加を辞退しろ」

 だが、麗さんからみれば、それは生まれたばかりの子馬のように見えたのだ。


 翠の顔が、疲労以上に青ざめているのが明らかにわかった。





「ちょ、ちょっと麗さん!」
 硬化した空気に足を抑えられつつも何とか抜けだした俺は、麗さんの前に言って手を広げて抗議する。

 彼女は憮然とした表情で、…まるで地面に落ちた食べ物を見るような目で俺を見た。

「なんだい?」
 ただひとつ、ポツリと彼女は訊く。

 俺の意を汲んでいないのか?
 ……いや、わかっていて訊いているのだろう。

 麗さんはベテランで、恐らく何度も合同フェスを間近で見てきただろうし、それに参加するアイドル達も担当してきたのだろう。

 それで、過去の記憶や映像データと翠を比較して、そう言い放ったのだ。

 確かに新人で、ベテランに比べたらまだまだ未熟な面もあるだろう。
 しかし、それを指導し成功させるのがあなたの役目なのではないだろうか。


 お前は落第だ。

 彼女の目からは暗にそう言っているような気がして、俺の感情が一気にあちらこちらに振れる。

 あなたに何がわかる。
 あなたに翠の努力が一ミリでも理解できるのか。

 俺が信じてきた翠というアイドルをさっと触れただけでこき下ろしたトレーナーの横暴な態度に、いっそのこと殴りかかってやろうか、という禁断の思いすら抱き始めようとした瞬間だった。

「それは、承知しています」

 思考を放棄した俺が馬鹿であると思わざるを得ない程、背後に居た翠の声は、酷く落ち着いていた。






「そうか、なら話が早い。今なら先方にも間に合うから、辞退の連絡を――」

 その時だった。

 耳をつんざくような高音が、周囲の空気を激しく振動させる。


 テストを受けての麗さんの評価に対し、ただ彼女は叫んだのだ。

 お願いします、と。





 流石のベテランも、突然の大声には呆気に取られたのだろう、少し目を見開いて、俺の背後を…頭を下げる翠を見ていた。

「…重々承知しています。私がまだ一年目のアイドルで、合同フェスに参加するような技量もあなたが見てきた中で最低なのかもしれません」

「自己評価はできているようだな。なら――」
「ですが!」

 麗さんの声を打ち消すかのごとく反応し、頭をあげる。

「目の前に現れた道を、ただ呆然と眺めているだけのアイドルでありたくはないんです。機会を差し伸べてくださった方、期待してくださった方、その気持ちに応えるためにも私はやりたいんです。……お願いします」

 先ほどの空気が震えるような強い声とはうってかわって、静かな声で翠が語る。

 俺がやるべき姿を、翠が代わりにやっていた。
 写し身のような行動だ。

 酷く否定されたことを意に介さず、ただ頭を下げて、ひたすら懇願する。
 客観的に見れば哀れにも見えるだろう。

 しかし、翠は自分を見失っていない。

 大舞台で歌うという目標を前にして現れた問題から、逃げようとはしなかった。


「…麗さん。お願いします」

 完全に収まった気持ちになった俺もお願いをする。
 現状駄目だからといってそこで諦めては、絶対に上に行くことはできない。

 せっかく色々な縁あって到達できるチャンスを得た今を、ふいにはしたくない。


 翠と俺の気持ちは、確実にひとつになっていた。





「……よく言った」
 限りなく長く思えた地面とのにらめっこも、麗さんの一言で終了を迎える。

「では、翠を――!」
「勿論だ。ここで逃げ出すなら本当にそうしていたが、そこまでいうなら私も喜んで付き合おうじゃないか」

 ポケットの中のメモを取り出して、何かを確認する。

「いいか、翠。少しでも投げ出すような素振りを見せたら、すぐにでもレッスンを止めるぞ。それぐらいキミの実力はあの舞台に立つアイドルのそれと乖離している事を理解しないといけない」

 強く、麗さんは言う。

 否定したくもなるが、決して妄言でも脅迫でもない。れっきとした事実だ。


 だから彼女は言う。
 フェスに泥を塗る様な姿は許さない、と。

「わかっています。その基準を超えるために、あなたが絶対に必要なんです。よろしくお願いします」


 そして、翠は応える。
 絶対にそうはさせない、と。



 ふふ、と笑った麗さんの顔が、酷く狡猾に見えた。





  *


「元々、断るつもりはなかったよ」
 わずかに与えられた休憩時間中、麗さんは共に廊下に出て俺にそう言った。

「契約だからですか?」
 ちひろさんが青木さん達の所属する会社と契約しているため、俯瞰して考えれば雇われの身である以上、断る権限はどこにも存在していない。

 それを承知しての言動なのだろうか、と疑問に思う。

「無論それもあるがね。流石に初対面で相手の人間性を測るのは難しいから」
 スポーツドリンクを少し体内に落としこみ、息を吐く。

 つまるところ、あの言動すらも彼女によるテストの続きだったのだ。

 これを行ったのが麗さんでなければ、きっと怒りに身を任せていただろう。

「もしそれで翠があなたの思い通りにいかなければ、どうするつもりだったんです」
「そこで終わり。実力がないのなら、必要になるのはやる気だけだからね」
 俺の問いに、彼女はあっけらかんと答えてみせた。

 少しでも考える素振りを見せると思っていた俺は唖然としてしまう。






「これだってちひろとの約束だったからな。『あなたが見て、良ければお願いします』だなんてよく言うもんだ」
 くつくつと笑い、麗さんは手を広げてみせた。

 おかしな話だ、と即座に俺は訝しむ。

 そもそもこれは契約の話だろう。普通であれば…とりわけ彼女のようなトレーナーを雇い派遣する形の企業形態であれば、基本的な相談や交渉といったものはトレーナー本人に対してではなく、会社の管理をする人間が決める話だ。

 そこで決められた大まかなギャランティと契約期間の間で顧客と細かい打ち合わせをしていくのが当然だと思っていたが、どうやら彼女の話によれば違うらしい。

 考えれば考える程訳がわからなくなってくるが、それ以前に大きな疑問符が頭上に浮かぶ。
「…ちひろ?」

 どうして麗さんはちひろさんの事を親しげに呼び捨てて話すのだろうか。






「――いや、どうでもいい話だね」
「どういうことですか?」
 麗さんは言いかけていた言葉を取り消して再び飲み物を口に運んだ。

「キミが知っても意味はないよ。それに、私が話すのは悪いだろう」

 一体どういうことなのだろうか。

 その後は訊ねても茶を濁すばかりで明確な回答は帰ってこず、そのまま休憩時間を終えて練習再開となってしまった。


 俺は現状ですら器から色々なものが零れ落ちそうな程キャパシティに余裕が無い。

 翠に出会えてからは月日を忘れ我武者羅に動いて彼女のためにやってきたつもりだ。

 それがひいては事務所のためになっていると信じている。


 ……もしかしたら、何か見落としているのか?

 自身に突き詰めてみても、一向に結論は導き出されなかった。







「――いや、どうでもいい話だね」
「どういうことですか?」
 麗さんは言いかけていた言葉を取り消して再び飲み物を口に運んだ。

「キミが知っても意味はないよ。それに、私が話すのは悪いだろう」

 一体どういうことなのだろうか。

 その後は訊ねても茶を濁すばかりで明確な回答は帰ってこず、そのまま休憩時間を終えて練習再開となってしまった。


 俺は現状ですら器から色々なものが零れ落ちそうな程キャパシティに余裕が無い。

 翠に出会えてからは月日を忘れ我武者羅に動いて彼女のためにやってきたつもりだ。

 それがひいては事務所のためになっていると信じている。


 ……もしかしたら、何か見落としているのか?

 自身に突き詰めてみても、一向に結論は導き出されなかった。







 練習しているであろうレッスンルームに戻ると、柔和な笑みを浮かべて指導にあたる麗さんの姿があった。

 翠も先程のイメージとは全く違って困惑しただろうが、麗さんの言っていることは本当なのだ、鏡に映る彼女の顔つきは必死そのものであった。

 やはりそうなったのも先の啖呵の影響だろう。
 麗さんは翠の一挙一動を見て、余すところなく指導をしているように見えた。


 まずは第一関門突破、というところか。
 全く麗さんの『テスト』には困ったものだ、と独りごちる。


「…頑張れ」
 結局、遠巻きに見ている俺ができるのは応援をすることだけだ。

 一体俺はその間、彼女に何をしてやれるのだろう。
 どんな助けが俺にできるのだろう。

 この時、俺の中で募るもどかしさは一層渦巻いていた。





  *



 ――大丈夫か、翠。

 初日のレッスンを終えてちひろさんの実家に送る前に、俺達はふと事務所に寄っていた。

 既にちひろさんは帰宅を済ませており、今この暗い部屋には二人しか居ない。

「はい、大丈夫です。行けます」
 対する翠は、あれほどのレッスンを終えてなお意欲を見せていた。

 尽きることのない意志。消えることのない魂。
 彼女を構成する要素に、一体神様は何を混ぜたのだろう。


 本来であればそのまま直帰させるのがベストな選択肢なのだろうが、俺に何ができるかを考えた時、ひとつだけ思いついたのだ。

 俺は暗い事務所の電気をつけてから彼女のためのお茶を用意する一方、パソコンの電源を入れる。

 その間に引き出しから例のCDを机の上に置いた。


「翠、ちょっと来てくれないか」
 何の用なのだろう、といった表情の翠は、手招きする俺の元…パソコンの隣にやってきたので、ちひろさんのデスクの椅子の車輪を転がして翠に寄越した。








「なんですか、これ?」
 傷ついたケースから何のラベルも印刷されていない簡素なCDを取り出すと、パソコンに挿入する。
「ん、もうすぐわかるさ」
 鈍い音とともに画面上に現れる音楽プレイヤー。

 まるで今の翠はちょっと前の俺のようだ。
 この存在に訝しんでいるのが何だか少し微笑ましかった。

「準備完了。じゃ、聞いてくれ――」
 特にためらうこと無く、再生ボタンをクリックすると、俺があの時聞いた音が今一度部屋に響き渡った。







 あの時は昼。今は夜。

 夜景の中に光がぼんやりと浮かぶようなこの部屋だから、この歌はより一層感情を励起させてくれる。

「翠はこの歌を、どう思う?」

 エレキギターがさながらピアノのように落ち着いた旋律を流し、ドラムが一秒以下の世界を刻んでいる。


「…もしかして、これは」
 状況や因果が理解らぬ彼女ではない。

 少しだけ目を大きく見開いて、口を開く。


 俺が翠にできること。

 それは、ちょっとだけ早い鑑賞会だった。


 本当であれば、麗さんのレッスンが翠の身に馴染んできた所でレコーディングの練習を始めるという予定だったが、一足先に聞かせてやることにした。

 当然ちひろさんや麗さんには内緒である。






「不思議な…声ですね」
「声?」

 静かだった部屋の中に、燦々と鳴り響く歌を聞いていると、翠はぽつりと呟いた。

 曲調ではなく、翠はこれを歌っている女性のボーカルに感想を抱いた。

「Pさんはこの方が誰か知っているんですか?」
「いや、全く。ちひろさんも教えてくれないしな」

 正直に答えると、そうですか、と静かに返される。
「とっても思い入れのあるような、綺麗な歌声ですね。この曲を私が歌えるのなら、是非とも直接ご指導願いたいものです」

 ちひろさんは、この曲を演劇的な歌い方が必要だと言っていた。

 それは純粋に歌を歌う能力以外に歌に感情をやや過剰気味に込める事が大事だということだ。

 CDの中の女性は、まさしくその言葉を体現したような歌声だったのである。






 ただただ翠は曲を耳に入れる。

 音階一つ楽器一つそれぞれを理解して聞いているようだった。


 曲は更に進み、時間が少し跳んだところでようやく音楽の再生が停止する。
 シークバーが初期の位置に戻るのは、この曲が終わった証拠だ。

 先程まで流れていた音楽のある部屋が不意に静寂に包まれ、耳に少し違和感が残る。


 翠を見ると、目を閉じて何かを考えているように見えた。

 それは、本当に合同フェスに出たい。
 出て、満足のいくパフォーマンスをしたい。
 たくさんの人に自分の歌声を聞いて欲しい。

 そういった願いが彼女の仕草によって顕現されていた。

 翠の表情を見た時、俺は今更ながら『彼女はもうプロなんだ』と思ってしまった。






「…俺はさ。この曲を初めて聞いた時、『本当に翠が適しているのか』って疑問に思ったんだよ」

 しかし、いくら翠が練習に対して真剣に取り組める人間であったとしてもだ、心の何処かで不安や恐怖を抱えている事は以前で十分に理解している。

 彼女はもはやプロそのものだ。だが、彼女はただの少女なのだ。


「でも何度も聞いていると、今度は翠にこそこれが歌えるんだ、って思うようになったんだ」

 これからは、恐らく奈落の底に向かって突き進んでいくことになる。

 だから、手元にだけは光を持っていて欲しい。

「この女性の声じゃなく、翠の声でこの歌が聞いてみたい。…俺の願い、聞いてくれるか」

 曲が、俺の言葉が、彼女に良いモチベーションたる影響を与えられるのなら。

 そういう意味で、今日の鑑賞会を開いたのだった。





「…当たり前じゃないですか」
 パソコンのファンの音だけが事務所に漂っている中、翠はぽつりと口を開いた。

「せっかくPさんが私に渡してくれた曲を、無下にするなんて事はしたくありません」

 その言葉の中にあるのは、揺るぎない絆めいた感情。


 たかが仕事の関係と言ってしまえばそれだけであるが、水野翠という人間にとって俺という存在はどれほどの価値を見出しているのだろうか。

 かつてしてきた俺の選択は正しかったか。より広い道に導くことは出来たのか。

「何より、それがPさんの願いなら……絶対に叶えてみせます」

 彼女と接していく中で常にあらゆる不安に苛まれてきた俺は、翠の答えこそが唯一の標識なのだと感じた。





  *



「残念だけどこのCDは今は渡せない。麗さんの思うタイミングで渡されるだろうから、その時まで楽しみにしておいてくれ」
「はい、それまでずっと練習に励みます」

 あまり夜の事務所に長居することは褒められたことではないので、俺達は早々と退出し、夜の道路を車で走っていた。

 ちひろさんの実家は事務所から歩いてもさほど遠いという距離ではないが、夜という時間帯に加えこの下がりつつある気温では体調に悪い影響を与えかねないので、念のための処置だった。

 古い社用車の暖房をつけると、効果があるのかないのかよくわからない空気が車内に吹き込まれる。

 だがそんなすぐには暖かくならないので、翠の格好は外に出た時と同じく学校で普段着用しているらしいコートと手袋姿である。

 それが、より彼女を普通の少女めいた姿にしてくれていた。






 予定では、一週間程度で基礎体力を麗さんの望む通りに仕上げ、その後にCDを聞かせてレコーディングとライブ用のパフォーマンスの練習をする事になっている。

 一悶着あった初日も、結果的に麗さんの思惑通りという訳ではあったが無事終了した。
 モチベーションも十分だし、これなら良い状態で明日を迎えることができるだろう。


「あの、Pさん」

 仕事面でも彼女の負担にならない程度に組まないとな、とハンドルを握りながら考えていると、翠は運転する俺を見て切り出す。

「どうした、寒いか?」
 暖房のツマミを回して強くしてやると、いえ、違うんです、と否定される。

「…これからはしばらく学校も休みがちになるんですよね」
 改めて聞かされたその声には、若干の揺れが含まれていた。

 彼女の言う通りで、前回以上に詰め込んでレッスンを行うためにやむを得ず学校を休む日を多くすることに決まっていた。

 当然仕事に関しても減らす、あるいは麗さんの休養日に合わせて行うようにし、レッスンの時間を削る事のないようにしなければならない。

 なので、フェス後もスムーズに以前の仕事のペースに戻りやすいように営業は普段以上に行わなければならず、今まで通り翠に常に付きそうような形は取り辛くなってしまう。

 これからは俺は営業、翠はレッスンと別行動をする時間が多くなるだろう。


 その間、きっと孤独感といったものが彼女に襲いかかる。

 単身東京に出てきた翠にとって、親しい人物は俺とちひろさんとその家族、そしてゆかりだけだからだ。

 地元であれば、俺やちひろさんが居なくても学友が居たから何も問題はなかったが、これからは違う。

 俺も仕事の付き添いであったり、レッスンでも一日一回は必ず顔を出すなりして和らげる努力は行うつもりではいるが……。






「安心してくれ。勿論麗さんとの一対一のレッスンが多くなるだろうが、俺も極力顔を出すようにはするからさ」

 彼女の意図やこれから言わんとする要望は十分に理解できる。

 しかし、それを聞く訳はいかない。
 そんなことに時間を大きく割いてはいけないからだ。

 時間はまだある、が、ゴールには程遠い。翠には辛くとも頑張ってもらうしか無いのである。

 当然だが学校を完全に休むという訳ではないので、レッスンの休日には学校に行かせる選択肢も用意している。
 これならば精神的なストレスにも多少は効果があるはずだ。


「…じゃあ、撫でて下さい」
 そう伝えると、助手席の翠はそっと頭を横に傾けた。





「今運転中だぞ、全く……ほら」

 一体どうしてこんな事になってしまったか。

 由来は定かではないが、もはや彼女のこの願いを聞くのが当たり前になってしまっていた。
 流石に人前ではアイドルに対するイメージもあるため自重しているようだが、以降は車内や事務所内などで時折頼まれるようになっていた。

「…やっぱり変でしょうか」
 不意に翠は呟いた。


 変、といえば変だ。
 感受性豊かな女子高校生が赤の他人たる男に頭を撫でさせるという行為が如何に非常識であるかは、火を見るよりも明らかである。

 だが、伝えるという選択肢だけは頑なに拒否をする。

 …それをしてしまったら、一体彼女はどうなってしまうのだろう。


 直接的な褒美を願わずに、ただ俺の手だけを求める。
 図らずとも非常識が常識なりつつあるこの今を壊すのは、あまりにリスクが大きすぎるのだ。

「変じゃないさ。…俺も翠の髪を撫でるのは好きだからな」

 確かに変なのは間違いないが、それで今彼女は上手く行っているのだから止めることは難しい。
 ならば、素直に聞いてやるのが吉だろう。

「……そうですか」
 目を閉じてそう言う翠の表情は、さながら女優のようだった。





  *



「あー……。お姉ちゃ――いえ、姉が失礼なことをしてしまってすみません」

 麗さんとのレッスンの内容についての打ち合わせのため、都内のいつものスタジオに早々に到着してエントランスで待機していると、偶然彼女の妹…普段のトレーナーである慶さんに出会った。

「今は仕事中じゃないので、言い辛いならそのままでいいですよ」
 言い直す仕草は歳相応と言った可愛げがあったが、特に改まった礼儀が必要なほど俺と慶さんは遠い距離ではないはずだ。

「それなら…ええと。私からも謝ります。ご迷惑かけます」
 ぺこりと頭を下げる慶さん。

「いや、そんな程でもないですよ。…というか、麗さんは誰に対してもあんな感じなんですか?」
 少なくとも、姉の所業を何度も見てきたかのような態度だ。
 でなければわざわざ謝りはしないだろう。

「確かにトレーナーに身を置いて長いし優秀なので会社からの信頼は厚いんですが、私も勉強としてお姉ちゃんを見ていると、ややアイドルの反骨心に賭ける部分もあって…」

 過激、というのは無論初日に翠にかけた言葉の数々だろう。

 決して暴言なんて野蛮なものではないが、人によっては尊厳を踏みにじるようなものと捉えられても不思議ではない。

「驚きましたよ、私も。でも、翠は麗さんに負けないで食いかかって行ってくれた」
「同じ意見です。…強い子だとは思ってましたけど、まさかあんな反応ができるとは考えられませんでした」

 麗さんと翠の顛末を慶さんに話した時、彼女も大層驚いていた。

 翠は静かながらもひたむきに努力する人間だと表面上は見えてしまうが、なかなかどうして熱い闘志を持っている。
 昨今においては稀有な人格の持ち主と言えよう。





「今、慶さんは何をやっているんですか?」
 元々翠の担当トレーナーという役職で契約していたため、今のレッスンは麗さんが担当している以上、何をしているのか俺にはわからなかった。

「休憩、というと聞こえはいいですが、今は色んな子…新人の子を見て回って指導しています」
「すみませんね、翠との契約だったのに」

 現在はある一人との専属形式は取らず、言うなれば非常勤講師的な役割であちこち動き回っているらしかった。
 営業であることを除けば、おおよそ俺との違いはない。

「いえ、私はこの機会を利用して勉強していますから、またレッスンする頃には私もパワーアップしてますよっ」
 ぐ、と両手を握り元気なアクションを見せる。

 麗さんとは違った少女らしさ、元気さを感じ取り、いや慶さんもいずれ姉のようにベテランの風貌を見せるのか、といささか残念な気持ちが出てきてしまう。

「はは、翠もパワーアップしてますから、覚悟してて下さいよ」
 今のこの和んだ場に相応しい笑みを浮かべると、彼女もにこりと笑って返事をしてくれた。





「――あと、杞憂かもしれませんが……翠ちゃんには気をつけて下さい」
「どういうことです?」
 そろそろレッスンの時間だ、と慶さんは立ち去る寸前で意味深な事を口走った。

 担当トレーナーからの懸念。
 実の姉が担当するとなっているにも関わらず切り出すということは、何らかの確証があるということだろうか。

「いえ…その、翠ちゃんってとっても真面目で練習熱心で、そのせいで私もつい指導に熱が入ることがよくあるんです。お姉ちゃんも翠ちゃんみたいな子が大好きですから、私以上にハードとなると何が起きるか…」

 姉の性格を汲み取った予測だったが、間違いとは思いにくい。
 初めこそあんな口調だったものの、それからは翠のことをよく気にかけて熱心に指導してくれているのが、外野の俺にもよくわかっていた。

 それに、翠の性格への言及も的を射ている。

 彼女の言うとおり、真っ直ぐに向かっていけるのは翠の良さだ。
 麗さんに対しても進んで指導を請い、なかなかのスピードで習得をしていっている。


「慶さんも翠の事、よく考えてくれているんですね」
「け、慶さんって…」
 相手を称賛するように言うと、別の部分で彼女は顔を赤らめる。

「ああ、いや、すみません。姉妹二人と交流を持ってると苗字だと混同しやすいので、つい」
 俺も反応の意味に気付いて取り繕う。





 今のように一人相手だと青木さんという呼称で十分だが、二人同時に話すこともあると苗字呼びでは混同してしまう、と頭で考えていた事が不意に出てしまったのだ。

「別に嫌な訳じゃないですよ――う、嬉しいですし! もしよければこれからもそのままでお願いしますね!」
「え、まあそういうことでしたら…今後ともよろしくお願いします、慶さん」

 不意に訪れた予想外の展開に困惑しつつも、慶さんは改めてエントランスを立ち去っていった。

「慶さん、か。翠と殆ど変わらないのに不思議なもんだ」

 真面目で真っ直ぐなのは慶さんも同じだろうに、と俺は苦笑し、もうすぐ来るであろう麗さんの到着を再び待ったのだった。





  *



「それじゃ、明日までに曲を慣れてくれ。以上だ」
 レッスンの終わり、クールダウンを終えて帰宅しようかという頃、麗さんは翠にCDを手渡した。


 麗さんのレッスンが始まって五日。

 翠のやる気も相まってか、レッスンの習得スピードは麗さんの想定を上回り、予定よりも若干早目に表面上の初披露となった。

 表面上というのは、初日の時点で俺が聞かせてしまった故の表現である。

 彼女の意図に外れた行動をとってしまったのだから責められるは俺であって翠ではない。
 まあ、バレたとしても恐らく大した損害ではないはず。

 大丈夫だとは思うが念の為謝罪の口上でも考えようかとしていると、麗さんは俺の下にやってきた。

「ほら、プロデューサー殿にもこれを」
 汗で薄い服が体に張り付いて、上気した全身からは石鹸の香りが漂ってくる。

「あ、ああ。ありがとうございます。…お、歌詞カードまで入ってるんですね」
 流石指導を続けるベテランだ、引き締まった肢体はアイドルとしても十分やっていけそうである、とついつい考えてしまった事をすぐにかき消す。


 クリアのCDケースに目をやると、中には簡素な紙の歌詞カードが入っていた。

「当然だ。字面から感情を励起させるのが重要なのだからな。プロデューサー殿は既に聞いているだろうが、これからもよく聞いて、翠を適切に指導できるように準備しておいて欲しい」
「わかりました。カラオケで90点出せるぐらいに頑張ります」
「…そういうことを言っているんじゃないぞ」
 彼女は俺の胸を小突くと、くすりと笑ってみせた。

 あまり破顔することはないように見えても、目を細めて小さく笑う表情はなんとも言いがたい綺麗さがあった。






「それと、レコーディングの予定も早めますかね?」
 レコーディング、すなわち収録というのは、フェスでの披露と同日に発売する予定のCDの事だ。

 歌を歌わせたいと営業をかけても気にかける素振りすらみせなかったレーベルが、自前で音源も全て確保できているということを種に粘り強く交渉すると、なんとか合意にまで至ってくれたのだ。

「いや、収録で手間取りたくはない。ボーカルレッスンを増やして予定はそのままにしよう」
 麗さんはポケットの中のメモを取り出して何かを確認する。

「はっきり言って歌唱レベルはまだまだだ。だからその時までに私がなんとかしてみせようじゃないか」
 内心では彼女も楽しんでいるんじゃないかと思えるような節が時折見え隠れしている。

 仮に俺が指導する立場だとしても、やる気のない生徒よりもやる気のある生徒の方が楽しいと思っているだろうな。

 そもそもアイドルになる人間がやる気が無いなんて、その場でクビになってもおかしくないし、大抵の場合はスカウトの時点でお断りである。






「頼もしいですね。麗さんもフェスに参加して翠の隣で歌っちゃいますか?」
「んな、何を言っているだキミは…!」

 あ、麗さんはこんな表情もするのか。

 小さくのけぞり、赤らめつつ呆気に取られた顔をしている彼女がトレーナーで終わるのは勿体無い気もした。

「はは、冗談ですよ。イケるとは思いますけどね」
「巫山戯るのも大概にしてくれ。…私にそんなことはできないよ」

 …まあ、それは彼女が決めた人生なのだから俺がとやかく言う話でもないか。


「それでは明日もここで?」
「問題ない。明日でとりあえず歌えるレベルにまでは到達させてみせる」

 なんとも心強い言葉だ。

 それも、麗さんが培ってきた経験と知識に依るものなのだろう。
 彼女の表情に一切の不安の色はない。

「わかりました。…今日もありがとうございました。明日もよろしくお願いします」
「ああ。よろしく頼む」

 軽く礼をすると麗さんも礼をし、小さな笑みを見せてから俺の横を通って部屋を出て行った。





「…将来は慶さんもあんな感じになるのかなあ」
 まだ鼻に残る微かな香りを感じていると、慶さんの将来がイメージされる。

 いや、あの可愛げな顔で勇ましい台詞は似合わないか。

「Pさん…」
 勝手に失礼な事を想像して思わず笑うと、いつのまにか着替えを済ませていた翠は俺の肩を叩く。

「ん……ああ、ごめん。じゃあ帰ろうか」

 汗も完全ではないが乾かしていて、風呂あがりのようなまとまらせた髪を揺らした翠は何故か不満そうな顔つきになる。

 何があったのだろうと訊ねようとすると、彼女はとんでも無いことを口走った。

「…浮気は駄目ですから」


 ……一体翠は何を言っているんだ。





  *



「声の引き上げができてないぞ。もう一度だ」
「はい――」

 一字一句をはっきり言うのではなく、大事なのは全体の波だ。
 麗さんはそこを絶対視しており、翠への指導もその点を欠かすことはなかった。



 レッスン場。

 CDプレイヤーから流れるオフボーカルに合わせて翠は歌う練習をかれこれ一週間程度続けている。
 練習を始めたのが十月からなので、あともう少しすればフェスまであと一ヶ月となろうかという頃だ。

 ここからは、まず静止した状態での歌唱を上達させ、次にフェス会場の構造を研究した上で適切なダンスを教えることとなっている。

 たとえば大勢のバックダンサーと共に激しいダンスをしながら歌うのであれば、その関係者とともに綿密な連携を練習することが大事だが、今回翠のデビュー曲であるこの歌に限ってはそれが必要とならない。

 あくまで静かに、それでいて心に強く訴える激しさを伴うリリックが最も重要なのだ。
 それ故に、こうしてボーカル練習に多くの時間を割くことができているのだった。







「今のところは良いが、声の切り方が強すぎる。下りを意識しろ、いくぞ」

 プレイヤーを停止させたかと思えば、少し巻き戻して麗さんの思う訂正箇所から再生を始める。
 全く翠の発言を許す隙もなく、絶え間なく練習が続く。

 止むを得ない、と言えばその通りなのだろう。
 なにせ、時間がないことにはかわりがないのだ。

 それでも学園祭より倍近く時間がとれているというのだから、この練習がどれほど濃密なのかはもはや言うまでもない。


 俺は今日の分の営業を終えてからレッスンを見に来たので、もう日は完全に落ちきっていた。
 ということは、翠は仕事の予定が今日は無いので、朝からぶっ通しでやっていることになる。

 休養の時間や頻度については俺よりも麗さんの方が博識だと思うので、レッスンのスケジュールは基本的に彼女に任せている。
 仮に俺が仕切ってしまえば、変に過保護になってロークオリティのパフォーマンスを披露することになるとかなってしまうのかもしれないのだから、納得はしている。

 麗さんも麗さんでスケジュールを決める時は俺に逐一打ち合わせという形で報告してくれるし、何よりその時の進行状況で臨機応変に変えてくれるので不安はない。





「よし、休憩だ!」
 何度も繰り返されるBメロからサビへの移り変わりが、ぱん、ぱんという麗さんの拍手と共に打ち消された。

 時間的に、あとは最終確認という形で流すように復習するのだろうか。


「……ひとまずお疲れ様。今日もいい感じだったぞ」
 低い天井を仰いで息を出し入れする翠の下に駆け寄って、タオルとスポーツドリンクを渡す。
「はあ、はあ。ありがとうございます…」
 客観的に見れば、ただ立って歌っているだけの練習だが、本人に関わる心身内部の処理や雰囲気による精神的なプレッシャーに、流石の翠も疲労を隠せないようだった。

「何度も繰り返されるのはそこが重要な証だ。覚えて、できるようになろう」
「ふぁ」
 俺がタオルで顔を拭く翠の頭に乱暴に手を置くと、翠は変ではあるが可愛らしい声を上げた。

 ……最近では、こうして翠の頭に手を置くことも珍しくなくなっていた。

 無論翠が嫌がっているのに無理やり、という訳ではない。
 それどころか、撫でるたびににこやかな表情を見せてくれるのだ。


 実を言うと、もはや翠の髪に振れることに抵抗感は全く無くなっていたのである。






「相変わらず仲が良いな。少し羨ましいよ」
 良い事か悪いことか。
 それがこの先どういった事態を呼ぶのか。

 全く不透明な未来に目を背けていると、壁際で休憩していた麗さんが俺達の所へ来て声を掛けてきた。

「…麗さんも撫でましょうか?」
「要るか、馬鹿者」
 先ほどの言葉を察した俺が恐る恐る提案をすると、軽く頭を叩かれてしまった。
 しかし麗さんの身長は女性の平均より高いとはいえ俺よりかは低いので、少し手を振り上げて無理して叩く形になるのが、何とも冗談めかした雰囲気を醸し出していた。

「それよりだ、翠。これが頼まれてた物だ」
 はあ、と嘆息してから、麗さんは翠にペットボトルを手渡す。
 それは、先程から彼女が手に持っていた何やら黄色い液体が入ったラベルのないペットボトルであった。

「ありがとうございます。あ、こんな色…少し薄いんですね」
 会話がスムースに言っていることに俺は疑問を抱く。

 彼女達の反応を見るに、さも前々から何度も話していたかのようではないか。

 そうした俺の言葉は、翠の言う答えとして返ってきた。





「実は健康管理の面でもお世話になってまして、良いドリンクの自作法を教えてもらってたんです」

 薄い黄色の液体の入ったペットボトルは、翠と麗さん、それぞれ一本づつ携えている。話から、どちらも麗さんが作ったということだが…。

「ああ、実は私なりにレッスンに役立つドリンクを研究していてな……ちょうどいい、プロデューサー殿も一度飲んでみるといい」
「え? いいんですか?」

 思わぬ提案とともに、麗さんは俺にもう一つのペットボトルを手渡した。

 そもそも、彼女が指導の傍ら自分でドリンクを作ることもしている事が初耳だった。
 これも指導に対する思いのなせる技なのだろうか。

「では少し……ん? 思ったより甘いですね」
 キャップを開けて少し口に含むと、途端にほのかな甘味が口腔を撫で回す。
 そして喉を通れば喉に何かがまとわりつくような感覚がした。

 例えるなら、ウーロン茶の逆の感覚だ。
 ミルク系の独特な感覚がしたが、決して嫌になるタイプの飲み物ではない。

「基本的なレシピは変えていないが、人の好みで…今回は翠用に分量を変えているからな。そうだろう、翠?」
「あはは…恥ずかしいです」

 パフェを人並みに好んで食べる翠の好みを理解しての調合らしい。
 それでいて本来の目的である休息な栄養吸収を妨げることなくしているのだから、相当やりこんできたのだろう。






「全く、それにしてもキミが最初持ってきたドリンクを見てびっくりしたよ」
「や……!?」

 やれやれ、と言った風に手をひらひらとさせる麗さんを見て、翠が急に慌てる。

「それって……まさか」
 最初に、という言葉が、俺の記憶を意識に隆起させた。


 そう、年月で言えばおよそ半年前。

 俺のためにわざわざ自分の飲み物を分けてくれたにもかからわず、吹き出してしまうような酸味の効いたあの飲み物だ。

 彼女は弓道の部活のためにあれを自作していたと聞いたが、まさか今でも続けているとは思いもしなかった。

「…私も、ちゃんとした物が作りたいと思ったんです。それで」
「真面目だなあ」
 そう言って、再度翠の頭に手を置いた。

「翠もそれだけやる気を持って今回のレッスンに臨んでくれているということだ、私としては歓迎だよ」
 くす、と笑みを浮かべて、俺が持っていたペットボトルを返してもらう形に持っていく。

 既に休憩といえる時間はゆったりと流れ切っている。

 麗さんも本日最後の一仕事をやるつもりだろう、壁際に荷物を置きに行く。





「よし、最後まで気を抜かないようにな。頑張れ」
「わかりました、Pさん」
 もらったペットボトルのドリンクの水面を少し下げると、キャップを閉じて翠も荷物を戻しに行った。

 今日一日全体で言えば、終わりまでの時間など些細にしか感じないが、この時できているかどうかが今日のレッスンの総括となる。

 出来なければ、また明日同じ事をする。
 それで、本来するべきスケジュールがどんどんズレていく。

 予定調和などありえない話だというのは重々理解はしているが、大きすぎるズレは最終的な結果にまで影響するのだ。

 だから、決して立ち止まっては行けない。

 少なくとも……フェスの終わりまでは。


 再び最初から流れる新曲に合わせて歌う翠の声に耳を傾けながら、成功する未来を夢想する俺だった。






  *



「本日のゲストはおなじみ水本ゆかりと、そのお友達の水野翠さんですー!」
今まで行ってきた中でも最も大きなスタジオで、二人は拍手とカメラに包まれた。

 家を意識したセットの中に設けられたソファには、翠とゆかり、そして進行役の男性と二人コンビの芸人がそれぞれ座っている。


 翠も最近では、ゆかりのお友達として全国テレビに出る機会も僅かではあるが増え始めていた。
 性格や雰囲気が似ているためか、巷でも二人セットで扱われる機会が増えて、その度にゆかりのプロデューサーから苦笑交じりの嫌味を言われることも多くなった。

 アイツの食い扶持が減るだろ、とは口癖らしい。



 きっかけといえば、プライベートでの写真だろうか。


 俺も翠に教えられるまで気付かなかったのだが、ゆかりは事務所の命でブログを開設していたらしく、時折ゆかりの私生活やお気に入りの服や音楽について写真を添付して投稿していた。
 その中で、去年とは違ってある時から翠と一緒に写っている写真がぽつぽつで出始めているのだった。


 そういえば、という言葉が入る。

 学園祭の前後の頃、翠に携帯で撮影した彼女達のツーショットを見せてもらった事がある。
 その時の表情を見て、私的な友好関係を持ってくれているのだな、としか思わず、特筆すべきこともなく流してしまったのである。

 こういったブログでの公表に対して自由にやって良い訳ではなく、恐らくではあるが投稿の際には監視役…この場合、ゆかりのプロデューサーがチェックするのが当たり前だ。

 その上で画像が公表されているということは、すなわち彼も二人組として扱うのがゆかりにとっても良いという、相互利益関係が成立していると考えていい。


 現に、こうして二人でテレビに出演し、出会いのきっかけや趣味の話でスタジオを盛り上げていけているのだから、その考えは至極正しいのである。





「この前も忘れ物をして家に戻ったとき、何を忘れたのか忘れたこともあって……」
「どこまで忘れるんだよ!」
 スタジオの入り口付近、カメラの後ろで静かに俺は二人を眺める。

 ある程度決められた台本を渡されているとはいえ、翠の行動はやけにボケに冴えていた。

 芸人の指摘に観客も声と笑みを漏らす。
 この部分は台本で指定されているのではなく、トーク部分として時間だけ割り振られた部分だ。

「あのーお聞きしたいんですが、翠さんはいつもこんな感じなんか?」
「いつも…割とだよね?」
「違いますよ! たまたまです!」
 追い打ちを掛けるようにゆかりも翠にツッコミを入れると、手を振って翠は弁明する。

 本人たちはわざとやっているのかどうか分からない程に自然な口調で事実確認をしあっている。
「いやだって、前に私の家に来た時も私の服を着て帰ったことありましたよね」
「どういうこと!?」

 その会話も咬み合わっておらず、ズレっぷりが一層笑いを呼んでいた。


 ……というかその話は俺も初耳なのだが、本当に何があったのだろうか。




  *



「その話は恥ずかしいから止めて下さいよ、ゆかりさん…」
「ウケてたじゃないか。流石だな」
 ゆかりのプロデューサーは遠慮なく翠に言うと、うう、と羞恥心を漏らしていた。



 収録終了後。
 出演者やスタッフの方々に挨拶をして用意されている楽屋に戻ると、疲れ果てたかのように息を吐いて翠は椅子に座った。

 いつものきりっとした姿勢はどこへやら。心底恥ずかしいといった表情でため息をついていた。

「…あれ、本当なのか?」
 放送中で全て語られた事なのだが、どうやら翠がゆかりの家に遊びに行った時、二人で服の着せあいっこをしていたらしい。

 何でもスリーサイズがほぼ相違ないからだそうだ。
 身長こそおよそ10センチも違うのだが、着る服も似通った趣味をしていることから、そういう流れになってしまったらしい。

「…本当です。ゆかりさんって、スタイルいいですよね」
「翠ちゃんだって、身長が高くて羨ましいです」
 まあ三歳違いでスリーサイズがほぼ同じとあれば、そう言ってしまうのも無理はない。

 お互い褒め合う二人だが、どちらも気にする部分というものがあるのだろう。


 その会話を眺めていると、ゆかりのプロデューサーはぱん、ぱんと手を二回叩く。






「ゆかり。そろそろ時間だ。次の仕事に行くぞ」
 私的な会話から仕事の会話へと移り変わったのがはっきりとわかった声色だ。

 彼女もそれを聞いて理解し、落ち着いて「はい」と一言返事をして荷物をまとめ始めた。

「お疲れ様です。またどこかで」
「おう、またな」
 彼のプロデューススタイルについてこちらが文句をいう筋合いはない。
 むしろそれで上手く言っているのだし、ゆかりも不満を抱いていないのだから、それはお門違いだろう。


「……できました。じゃあ翠ちゃん、また会いましょう」
「はい!」

 去り際、ゆかりはこちらを振り向いて礼をすると、翠も丁寧にお辞儀をした。


 友達とまで行っても、こういった様式というのはいつまでも変わらないようだった。





  *



「飲み物、何がいい?」
「あ、ではお茶をお願いします」

 自販機からお茶とコーヒーを取り出すと、片方を翠に渡し、歩き出す。



 ――外。

 日差しはまだ心持ち温かいが、しっとりとした空気と撫でるような冷風が俺達を抜かしていく。

 そんな中を二人で歩いていた。


 今日はちひろさんが車を使っているため、電車で事務所まで戻ることになっているのである。
 悪いな、というと、歩くのは嫌いじゃないですから、と翠は笑顔で答えてくれた。


 燦々と輝くような笑顔ではないが、落ち着くような、素朴な笑顔はそれと違ってまた可愛げがある。

 コーヒーを持ってない手で頭を二、三度叩いてやると、こちらをみてまた笑みを浮かべてくれたのだった。






「…寒くなってきたな」

 今日の分の仕事は終わったが、時間で言えばまだ昼過ぎという頃合いである。

 ゆかり達のように、一日に何度も仕事場を回るような忙しい日々にはまだまだ遠そうだった。

 しかし仕事とは別に、今彼女にはフェスに向けたレッスンという大事な用事がある。
 当然昨日も夜までレッスンをしていた。

「そうですね」

 通常の感覚で言えばそこまでして後何を練習することがあるのだ、と思ってしまうが、柔軟やメンタルトレーニング、当日の流れについての復習など、内容が尽きることはない。


 …とはいっても、体力というものは無限に限りなく近いようで、無限ではない。
 仕事があるから、という名目で、今日はレッスンがお休みなのである。


 まだまだ冬というには暖かすぎる。

 しかし、彼女のつけた手袋が、冬の気配を色濃く描き出していた。






「途中寄りたい所とかはないか?」
 人がまばらな平日昼の駅。

 椅子に腰掛けた俺と翠はしばらく景色を見ていたが、俺は不意に声をかける。

「…特にはないですね」

 寸分考えてから、翠はそう言った。


 レッスン漬けの毎日と一生懸命こなす仕事。

 営業という仕事もパフォーマンスという仕事も、どちらも辛いことには変わりない。
 だが、精神的な負担はきっと彼女のほうが多くのしかかっていることだろう。


 せっかくの午後の休みを得られたのだから、もしかしたらどこかに行きたいと言うかもしれない、そう思って訊いたのだが、存外そうでもなかったらしい。

 まあ、彼女なりにそういう所も自己管理が出来ているということなのだろう。
 未だレッスンは熾烈を極めているが、それでも順調に進んでいるのなら、こちらから働きかけることはない。


 やがて視界の横で電車が遠くから大きくなっているのを見つけると、立ち上がってその時を待った。





  *


 ――Pさんの家って、どんな所なんですか?


 がたん、ごとんと揺れる車内。
 小気味よいリズムに乗せて、隣に座る翠は訊ねた。


 俺の家はちひろさんの実家のように一軒家ではなく、オンボロなアパートに一人暮らしだった。
 どこでどう暮らしてどう仕事すればいいのか理解らなかった入社前、社長に斡旋してもらって決めた部屋である。

 エアコンはついていないし壁も薄い。
 床は軋むし少し臭う。日当たりも悪い。
 この冬もきっと辛い日々が待っているだろう。

 そんな悪条件でも駅からは近く、家賃も安い。たったそれだけで決めた部屋だが、後悔はしていない。

 自立して暮らす初めの頃は、大体こんな感じなのだろうという予想はしていたし、意外にも住めば都という言葉がぽんと出てくるのだ。

「…まあ、ろくでもない所だよ」

 笑って答えると、彼女の表情が少し変わる。

「いつも仕事で大変なのに、そんな場所では休めないのでは?」
「そんな場所でも城は城なんだよな、意外に」

 翠の実家に入ったことのある身としては、落差には涙を禁じ得ない。
 しかし、男の一人暮らしなんてものはこれが当たり前なのだ。






「Pさん、確かお昼はいつもコンビニでしたよね」
「…よく見てるな」

 翠の質問は続く。

 家に帰る時間や睡眠時間、そして毎日の食事についてなど、俺の不摂生を明るみに出したいが如く、痛いところを突いてくる。


 そう言われて初めて、俺って結構後先考えない生活してるよな、としみじみ感じた。

 彼女のプロデュースが原因、とは言わない。
 ただ、翠の事を一日中考えているので他のことが手に付かないだけだ。


「…そうですか」
 不意に質問が止む。彼女の声に傾けていた耳の中が、車内の雑音で独占される。

 もう俺の家の話題は飽きたのかと翠の横顔を見てみると、俯いて深く考えているようだった。

 真面目な彼女の事だ、もしかしたら健康的な生活のためのプランでも考えているのかもしれない。
 確かに翠と出会ったきっかけからして、困った人を放っておくとは思えない。

 彼女を彼女立たせている大きな要素は、素直と献身なのだ。


 さて翠は懸命に考えて何を言ってくるのだろう、と予想を脳内に蔓延らせて若干楽しみに待っていると、とうとう本人の口が開いた。


「寄りたい所が決まりました。――Pさんの家に、行きたいです」
「……へ?」

 この子は一体何度突拍子もない発言をすれば気が済むのだろう。


 ゆらゆらと揺れ、流れる景色の中、その言葉を噛み砕くのには結構な時間を要した俺だった。





「…えーと、どういう意味?」
 Do you meanと聞こえようがなんだろうが、大体の意味は同じである。

「私のために時間を割いてくれるのは嬉しいです…けど、Pさんがそれでは私も心配です。今日だけでも行かせて下さい。…Pさんの役に立ちたいんです」

 おおよその意味は俺に通じていたようだった。

 尤も、そうであって欲しくなかったという気持ちは十分にあるのだが。

「…ありがたいけどな、それは無理だろう。翠ももうそこそこ名前も売れてきたんだからさ」
 プロデューサー、しかも男性の家にアイドルを連れ込むなど言語道断である。

 並み居る有名アイドルに比べればまだまだとはいえ、翠も今や全国テレビにも顔が写るまでになった。

 それを知っていてなお行きたがる神経が、俺には全く理解できなかった。


「…じゃあ約束して下さい。健康的な生活を送ると」
「うっ」
 半目で問い詰めるように翠は俺を睨んだ。

「……や、約束する」
「嘘です」

 元々歳以上に凛々しく見える容姿が今はもっと大人びて…いや、厳かに見える。
 それは久しぶりに帰省した実家で母親に生活を指摘されているような感覚に陥らせた。






「私の事が心配だというのなら、Pさんも心配かけないような生活を送って下さい。それができないなら――」
「ちょ、静かに……。静かに、な?」
 長丁場になりそうな口上を慌てて制止する。

 いくら電車の中に人が多くないといっても、居ることには違いないのだ。

 見た感じでは、残念ながら翠が座っているということに気づいている様子はない。
 しかし、そんなレッドラインを滑水するような会話はどう考えても不味い。


 ……普通に断ればいい。

 その場しのぎで騙してこのままの生活を続けたところで、どうせバレるはずもないのだから。


「……Pさん」
 だが。

 彼女の視線は強情を通り越して脅迫にとられかねない程の強さを持っていた。

 何やら、例え嘘をついてこの場を抜けだしたとしても、こまめにチェックしだしそうな雰囲気すら感じる。

「…わかったよ」
 そこまで俺の事を心配してくれているのか、と嬉しくなる一方、自覚のなさに若干の焦りを覚える時間となった。


「ふふ、ありがとうございます」
 まるで狡猾に見える彼女の笑みを他所に、俺は一つ嘆息する。
 とりあえず、ちひろさんにだけはバレないようにしないといけない。


 ……まあ、初めから俺がまともな生活を送ればいい話なんだけども。





  *



「ここが俺の家だ。まあ入ってくれ」
「わあ…ここがですか」

 駅から徒歩5分ぐらいか、静かな住宅街の中に俺の根城はあった。


 ガチャリとややぎこちない音を立てて玄関の扉を開けると、先に翠を入れてやる。

 念の為に駅を降りてから誰かにつけられてないかそれとなく確認してみたが、俺達以外に降りた人は居なかったので悲喜こもごもの感情を抱きつつ、俺も家に入り、扉を締める。

 翠は事前に渡して着用させていたマスクを外すと、丁寧に畳んで彼女の鞄の中に入れた。
 無論念には念を入れての変装のためだ。


 こうなることを予測して準備しておいたのではない。

 ただ、もうすぐ冬も近く、風邪菌を体の中に入れないようにと思って忍ばせていただけのことだった。

 まあ結果的に心理的安寧の役には立ったので良しとしようか。

「…思ったより綺麗ですね」
「翠は俺のことをどんな人だと思ってるんだ…」

 期待はずれというか、拍子抜けというか。
 そんな気の抜けた声で感想を言われてもいまいち喜べない。





 自分の部屋に返ってきたのにいつまでもスーツ姿は息苦しい。

 とりあえずスーツを脱ぎネクタイを解く。そしてそのままハンガーに掛けようとすると、翠がそれを奪いとってしまった。
「これぐらいさせて下さい。掛けますね」
「…あ、ああ」

 壁の木枠に吊るしてあったハンガーにスーツとネクタイを掛け、シワの着いた部分を軽く撫でるようにはたいた。

 今翠は私服姿だから冷静でいられるが、もし格好があの学校の制服であったとしたらいささか犯罪臭がしないでもない。

 そう考えるとこの状況が如何に不味いかがよくわかろう。


「晩御飯までは時間がありますね…部屋もそこまで汚れていないようですし」
「汚すほど部屋に居る時間が長い訳じゃないからなあ」

 俺の部屋には残念ながら客をもてなすような設備は全くと言っていい程存在しない。

 唯一のクッションである綿の潰れたベッドに翠を座らせて、俺はベッドを背もたれにするようにして下に座る。

「あ……すみません、Pさん」
 座る高さが違うせいか、珍しく俺が翠に見下される形になったのを感じ取ったようで、彼女も俺の隣、ベッドから降りてさっと座った。

 どちらかといえばベッドに二人並んで座ることが何となく気が進まなかったからである。

 なので気にすることはないんだぞと言ってやると、翠は目線を自分の膝に落として呟いた。

「…見上げている方が、私、好きですから」

 変わった人だ、とつくづく思う。





 昼下がりの午後。

 この付近は騒ぐような人間は居らず、うるさいといえば時折通る車の音や早朝の鳥達の音ぐらいである。
 ましてや人の声で喧騒が生まれることなど、俺の知る限りでは全くない。


 そんな壁掛け時計すらない簡素な部屋の中に、俺達は同じ方向を向いて座っていた。
 目の前には小さなテレビとテーブル、そしてパソコンがあるだけだ。


 よくよく考えてみると、まるで不思議な雰囲気である。

 そこまで広くはないが年齢差のある俺達が、はしゃぐ訳でもなければ大笑いして話す訳でもなく、こうしてじっと静かに過ごすという空気が想像以上に異質で、それでいて新鮮だった。


 ちらりと翠を見ると、それに気づいたらしい翠も俺を横目で見て笑う。
「…そんなに私がここにいるのがおかしいですか?」
 冗談めかした声色だ。

「そりゃあ…今まで誰かを中に入れたことすらなかったからなあ」
「本当ですか?」
「嘘つく意味はないさ」
 天井を仰ぐ。
 やや痩けた色をした合板がこの部屋を包んでいた。


 実際、入居してから今までの間にこの部屋に誰かを招いたことは一度もない。
 それどころか俺自身ですら、合計の時間で言えば外にいる時間のほうが多いぐらいだ。

 そんな寝るだけの部屋に俺以外の人間…それも担当するアイドルがいることに、とても非日常感を覚える。

 言い換えれば、ある日しがない人間である俺の下にテレビで見る可愛いアイドルが突然やって来たというような物だ。

 漫画であれば使い古された設定だろうが、まさかそれが現実に存在するとは誰も思うまい。






 静寂は徐々に霧散していく。

 ぽつり、ぽつりと普段のこと、最近のことを呟いて会話をした。

 学園祭のライブ後の時よりも、もっと深い、彼女の奥の奥。
 飾りのついた華々しいばかりではなく、素朴で、退屈で、取り留めもない人生の紹介だ。

 楽しませようというつもりはなく、ただ話し合う。

 それがビジネスパーソンとしての間柄でなければ友達という間柄でもない、ある種、家族のような近しさを覚えた。



 今思えば、翠とだけに静かに会話をするのは久しぶりのような気がする。

 最近の翠のスケジュールは多忙を極めていて、活動時間の殆どがレッスンで埋め尽くされている。
 その合間にも仕事が入っており、こうして二人で話をする時間というのは、いつのまにか貴重なものになっていた。

 それだけ合同フェスという存在が巨大なのだということが言えるのだが、気付かぬ内に話の内容が事務的なものに偏っていたことに今更ながら反省する。

「最近はゆっくりする時間を与えてやれなくてごめんな」
「……大丈夫です。今が大事なのは私も判ってますから」

 彼女は高校生だ。
 しかし、今は社会人だ。

 立場の変化に適応し遅れることのないように、と思ったが故になってしまった事態なのだ。
 せっかくだから今日ぐらいはゆっくり過ごしてもらおう。


 それが俺の家でなければな、という指摘は心の奥底で振り払っておいた。







「…ごめんなさい、Pさん」
「急にどうした?」

 肌寒い室内も、二人で過ごしていると心なしか暖かいように感じるまで進んだ時。

 ほんの少しだけ開いた間。前後をつなげるように、翠は言った。

「急に行きたいと言って、迷惑を掛けて」
 三角座りをして真正面をぼんやりと見ていた翠が、突如謝罪した。

「確かに驚きはしたけど…別にいいよ。心配かける生活してる俺が悪い」
 結局来てもらったところで何らかの指導が入る訳でもなく、家に来てからはただお茶を手元に話をしていただけだった。

 不安ではあったが俺達に害なす人影もなかったし、仕事というレッテルを剥がして話し合う時を俺も楽しんだのだから、翠が謝る必要はどこにもない。

 そう言うと、翠は黙りこくって俯いた。






 ふと彼女の横顔に注視する。

 先程まではこちらを見たり、窓を見たり、笑ったりするなど起伏に富んでいたが、今の彼女はどこか遠い目をしている。

 楽しそうとも退屈そうとも取れない、しかし通常の表情、という訳でもない。

 おおよそノスタルジックな雰囲気にあてられて感傷的になっているかのような……謝罪する時とも違う申し訳なさがあった。


 長く感じたようで実のところ一分も経たず。

 翠は少しづつ、思いを吐露し始めた。






「私が今日無理言ってPさんの家に行ったのは……ちょっとした、羨望なんです」
「せんぼう…羨ましい?」

 翠は最初に、そう語った。

 口語で羨望なんて言葉を使う人間がこの世界にどれほどいるのか。
 若干の理解タイムを経てようやく理解した俺が聞き返すと、はい、と彼女は小さく頷いた。

「……少し前、ゆかりさんの家に遊びに行ったらしいですね、Pさん」
「…どうしてそれを」

 出処からしてゆかりが翠にそう言ったのだと思うが、静かにそう指摘する彼女の落ち着き様に、僅かながら恐ろしく思えてくる。

 担当プロデューサーが別の…それも他所の事務所のアイドルの部屋に上がりこんでいたという事実に怒りを露わにしているのか、それとも失望しているのか。

 一瞬であらゆるシミュレート結果が出てくるが、彼女の言葉がそれを否定している。



 羨望、と。






「ゆかりさんの家に行ったのは、合同フェスに関する事で、なんらおかしなことではないというのは重々承知しています。ゆかりさんもPさんも……信頼していますから」

 もしも彼女の言ったその二文字が本心であるとするならば。

「ですが……仕事場以外で二人が会っていた事を聞いた時、胸が……寒くなったんです」


 どれほど抑圧された束縛の中で生きてきたのだろう。
 翠という人間は、齢十八にしてどのような環境で育ってきたのか。

 恐らく今の彼女の性格が形成されるに至った大きな要因は、弓道にあるはずだ。


 彼女にとって弓道とは、自己鍛錬という概念を学んだきっかけだった。

 その結果、翠は己で自身を高める術を手に入れた。
 自己管理や自己実現という手段を経て、努力へと昇華したのだ。

 それが彼女の持つ才能。
 ひたむきに努力し、真っ直ぐに学び、無我夢中に取り組む。
 そんな素質が、彼女を今という状況に結びつけてくれたのだった。


 しかしその一方で、それらは彼女を縛る見えない紐にもなっていたのだ。






「何故なんでしょう。今日だって、すぐ帰って自主練習をしなければいけないはずだとわかっていたのに…」


 自己犠牲、邁進。
 字面だけで見れば美徳で素晴らしく、潔白な人間に与えられる称号である。


 だが、彼女がそれを持つにはあまりにも早すぎた。

 設定された目標のために自分を高めていく。
 その過程で、進行に邪魔となる感情を抑えつけてきたことで、本来であれば誰しもが感じたり覚えたりする感情や感覚が身につかないという弊害が出てしまっていたのかもしれない。

 有り体に言えば、無垢なまま育ってしまったのだ。

 彼女の生きてきた時間からすれば俺の見てきた翠の姿はたった一年にも満たず、それ故に考えたことを口にすることは憚られる。

 わかった気になる、ということは一番やってはいけないことだからだ。


「プライベートの時間を、たった二人で過ごしていたということが……とっても、羨ましかったんです」

 ……それでも、俺の口は開く。





「…ごめんな。忙しくて」
「それは大丈夫ですから――」

 翠の言葉を遮って、続ける。

「そうじゃないんだ。高校生の大事な時期にアイドルにスカウトして、それでデビューからお茶の間に受け入れてもらえるまで時間がないように思えて。…俺は急いでいたんだと思う」

 結局は俺の都合。もとい、事務所の都合だ。

 誰ひとり所属していない事務所に、芸能界について何も知らない少女が所属し、何も知らないプロデューサーによって導かれていたというおかしさ。

 彼女が失敗すれば、俺どころかちひろさんや社長すら職を失ってしまうという焦燥感。


 それらが、彼女の成長を歪な向きに伸ばさせていたのである。





 翠は何も言わず、ただ俺の言葉の続きを聞く。

「余裕が出てきた今だから言えることだけど、できるならもっとゆっくり下積みをして、ゆっくり話し合って。本当にお互いが信頼できるように、わかりあってからアイドル活動を始動すべきだったんだよ」

「Pさんの事はとても信頼しています!」
 俺達のしてきたことは間違っている、と受け取ったらしい翠は俺を見つめ、強く反論した。

 違う。間違ってはいない。
 だた、ベクトルの解釈に相違があったというだけなのだ。


 彼女は、俺を信頼せざるを得なかった。

 全く未知の世界である芸能界に入る事に対して、俺を信じなければ何もできなくなってしまうからである。

 そして翠の持つ極端な人間性が、その信頼に拍車をかけてしまったのだ。


 今までに何度彼女を見間違えたのだろうか。

 ターニング・ポイントは恐らく学園祭だ。





 あの時翠は、俺を擬似的な相手として『恋心』を演出していた。

 まだ知らぬ感情に説明をつけるために、あんな事を言ったのだ。


 それは、客観的に見れば――冷静に判断すれば、異性への好意と解釈しても文句は言われない。

 到底不正解を言い渡せない程、翠の感情は愚直であった。



 しかし、問題は俺の行動だ。

 当時の俺は、そんな雰囲気を感じ取ったとしても、よもや現代の女子高生が自分のような人間に好意を抱くことなどあり得るはずがない、そう判断してしまったのである。

 故に、翠からの感情を年上への信頼と誤解して受け取ってしまった。


 そして、彼女にも同様のことが言える。

 きっと翠にとって、異性への好意という感情がまだ具体的にはっきりと形容できていないのだろう。
 今まで彼女と接してきて、そう思えるような出来事や言動は確かに記憶にある。

 何より翠自身が俺にそう伝えたのだから、歴然とした事実であるはずだ。

 …無論、その考えの根底には未だ『俺に異性として好意を抱くなんて変な話だ』という感覚があるからである。




 つまりだ。


 信頼と異性への好意を混同してしまった彼女。

 異性への好意を信頼と誤解してしまった俺。


 何とも馬鹿げた――特筆することもない、三文芝居であった。






 沈黙が設けられる。

 一台、車が通る音が、お互いの耳に入った。


 どうすればいいのだろう。

 どうすれば正しく導けるのだろう。


 それを熟考する猶予もなく、俺は再度口を開いて翠に問う。


「…翠はさ。俺のこと……好きか?」


 不条理な、問いかけだ。





「……え?」
 当然である。

 ぱちくりと目を見開いて、俺を見る。

 気温を言い訳には出来ない。うっすらと赤面していくのが俺の目にも見えた。


 トチ狂ったか、と言われても仕方がない。
 そうせざるを得ないほど、俺は解決策に飢えていた。


 どう流れを作っていくにせよ、まずは翠自身の本意を知らなくてはいけない。
 そのための問いなのだ。


 対する翠はというと、あ、だのう、だの、言葉にならないただの文字を言うだけで、ただただ困惑していた。

 そう呟けば呟くほど、ますます彼女の感情が加速していくのがわかった。







 ――そして、また少し経った時だ。


「好き、です」


 騒音のないこの世界の中で、か細い声が全身に響き渡った。








 何と甘美な響きだろう。

 美人な女子高生、それもアイドルに好意をぶつけられることなど、人生で一つもあるとすら思いもしなかった。

 しかし、現実だ。
 客観的に見てどうであれ、確実に俺のことを好きだと言ってくれたのである。

「…俺のどこをそう思ったんだ?」

 意地悪な質問に、俯いたまま彼女は言葉を紡ぎだす。

「……私に、道を作ってくれましたから。最初は、まさか本当にアイドルになれるなんて思わなくて、不安な私の背中を押してくれて」

 結果論だが、翠が俺に弓を引く姿を見せた時からもう、始まっていたのかもしれない。

「Pさんと仕事を続けている内にいつの間にか、私の前を歩いてくれる度、私の手を引いてくれる度、ドキドキして…でも、どうしたらいいのかわからなくて……それで」

 そう言って翠は言葉を切った。






 例えば、俺が学園祭で翠に対して行った『頭を撫でる』という行動が、『手を繋ぐ』だったとする。

 すると、それ以降彼女が俺に要求してきた行動も全て『手を繋ぐ』というものになっていたに違いない。

 翠の抱えている思惑というものは、一種のオウム返しに近い。
 質問に対しての回答が正解と信じて、それ以降はパターンとして当てはめる。


 素直すぎるが故の問題が、今噴出したのである。


 それを目の前にして取り得る行動は、あまりにも少ない。

 もしも俺がゆかりのプロデューサーのようにはっきりとしたボーダーを引いて接するような人間なら、論理的に説明して解決を図っただろう。


 だが、そんなことが俺に出来るかといえば、まず不可能だ。

 正誤はともかくとしても、彼女の思いを踏みにじる事になる選択肢は絶対に取りたくない。


 では俺はどんな行動を取ったか。


「よし。……じゃあまた今度、デートに行こう」

 ――蘇るあの時の記憶をなぞるように、俺は提案した。






 顔を紅潮させたままの翠を他所に、話を進める。


「好きという感情は、悪いものじゃない」

 翠のそれに流されてしまえば、俺は即座にこの立場を降りなければならない。
 本能に従うのは、奈落の底に飛び込む時だ。


 しかし、好きという気持ちは人をより大きく成長させてくれる大事な感情である。

 そういう感情を守り育んでいく事が、人間として、アイドルとして一層活躍していくために必要なのだという考えは教育論からしても間違いではないはずだ。

「でも…学園祭の時でも翠が言ってたように、アイドルとしてそれは絶対にやってはいけない事なんだよ」

 アイドルとして、間違った道に誘導するような事だけはしてはいけない。

 それでいて、頭ごなしに否定することだけはしてはならない。


 だから。

「だから、大事にしていこう。……好きという気持ちも、一緒に居たいと願う気持ちも」

 床に置いていた翠の手の上に、そっと俺の手を重ねる。






 一瞬体が震えて引っ込める力が加わったが、すぐさま力が解かれる。

 きっと彼女にとって、異性と手を繋ぐ事も、頭を撫でられた事も、こうして近くで見つめ合う事も初めてなのだろう。

 まるで異性との接触を禁じられた古いしきたりを律儀に守る、箱入り娘のような初々しさ。

 その感性を失わせることだけは、避けなければいけない。


「…約束です」
 俺の手の下にあった翠の手が裏返って掌が合わさると、彼女はそっと力を入れて手を握る。

「ああ、約束だ。この合同フェスが終わったら、オフを取って翠の好きな所に行こうじゃないか」
 忙しいのでは、という問いには、そんなもの知るもんか、と巫山戯て笑ってやる。


 赤らんだ頬から、最大級の笑みが零れた。






 あえて言うが、問題は解決していない。

 真意を引き出したところで、それが本当にそうなのかという判断はまた別の問題だからだ。
 一口に好きといっても、友人に対する親情や恋人に対する愛情など多岐にわたる。
 とりわけ感情の主が翠ならば尚更である。


 今の本人の気持ちとしては…言うまでもない話だ。

 しかし、これが今後どういう展開を遂げるかは誰にも…俺にも、翠にもわからない。



 だから育てるつもりだ。

 はっきりと本人が区別できるようになるまでは、恐れずに、驕らずに……誤らずに。





  *



「やっぱり、私はPさんの事が好きです」

 結局、お互い居た堪れなくなって晩御飯を食べること無く解散することになった。

 オフにも関わらず帰るのが遅くなるとちひろさんに怪しまれるからというのもあるが。



 そんな駅に向かう途中、やや暗くなり外灯が付き始める頃、翠ははっきりと俺を見て言った。

 まるで決意表明のような意気込みだ。
 あの時ぐちゃぐちゃに混乱した意識が、今になって落ち着いたからだろうか。

「はは、それって今言うことか?」
「わ、笑わないで下さいっ」
 茶化すと、もう、と頬をふくらませてしまった。





「…いけないことだというのは今でも判ってます。でも言葉にすると、何だかすっきりしました」

 真っ直ぐに生きてきた彼女にとっては、恋だの愛だのといった感覚が今まで不明瞭で、それ故に自分でも何が何だかわからないという感覚だったのかもしれない。

 それがあの時間を経ることで、一つ知り、学び、そして経験し、人として大きくなれたのだろう。

 もしそうであるならば、俺の言葉も無駄じゃなかったと言える。
 まかり間違っても恋愛感覚がエスカレートしなかったことが、俺を最大限に安堵させる一因となった。


「……あ」

 嬉しそうに隣を歩く翠が突如歩みを止めて、何かに気付く。

「どうかしたか?」
 立ち止まる意味が皆目見当もつかなかったので素直に訊ねてみるが、さっきとはうってかわって何やら言い淀んだ表情であった。



 一秒、二秒。いや十秒かもしれない。

 少しの間を開けて、彼女は言った。


「そういえば、返事を聞いてませんでした」

 あ、と漏らす声は俺から出たものだった。





「へ…返事?」
「そうですよ。Pさんが『好きか?』って訊いてきたから答えたのに、Pさんの気持ちをまだ聞いてません!」

 回想する。

「……そういえばそんな感じだったかもしれないな」

 あさっての方向を向いて頬を掻くと、翠は近づいて俺の手を取った。
 手袋越しの、少し冷たい手だ。

「せっかくですから聞かせて下さい、Pさんの気持ち。……私のこと、好きですか?」
 手をとるために近づいた顔が俺を見上げる。

「……っ」

 どうしてこう可愛げのある仕草をするのだろう。
 アイドルだからか、はたまた天性のものか。

 視線、顔の動き、服装、状況。
 どれをとっても申し分ない、心を高ぶらせるには文句ない環境だった。
 俺が教えた訳じゃないのにごく自然にやってのける様は、さながら誰かから教授してもらったかのような――。


 ……まさかゆかりじゃないよな?






「…好きじゃなかったら、あの時スカウトしてなかったよ。今でもその気持ちは変わってない」

 優勢だった関係がいつの間にか防戦になっていた。

 翠は俺の言葉を引き出すと、ふふ、と笑って手を離す。

「よかった。じゃあデートも最高の物になりますね!」

 狙っていたかのような仕草や言動に、ますます演技の才を感じざるを得なかった。
 先程まで赤面していた癖に何だか手玉に取られたかのように思えて、俺もささやかに反撃することにする。

「わわっ、やめ、ちょっとPさん!」
「大人をからかった罰だっ」

 自由になった手を翠の頭に乗せて、少し乱暴に髪をかき混ぜでやったのだ。

 ひとしきり髪を暴れさせてから手を放すと、苦笑しながら髪を押さえて直す翠の姿が見えた。

「…ふふっ」
「何だよいきなり」

 秋の夕日はどうも人を恋しくさせてしまうらしいが、その色を背景にして無邪気に笑ってみせる彼女の表情は……夕焼けの中でも暖かく映ったのだった。


中断。一週間にひとつのペースです、申し訳ない。
あ、なんかバラードでも聞きながら読んだら良いんじゃないかな。

もうすぐ投下します。

  *


 太陽も真上に向かって昇り始め、それに伴って僅かに気温も上がってきたと肌が感じるような冬の午前は、翠のリハーサルのために費やされることになっていた。


 合同フェスでは、各グループ毎にそれぞれリハーサルの日時が割り振られており、その時間内であれば自由にリハーサルを行なってよい事になっている。
 それで俺達に割り当てられた時間は、開催一週間前である今日の朝だったという訳だ。

 俺達の前の順番である早朝に充てられたアイドルユニットがリハーサルを終えるやいなや、運営のスタッフたちが一斉に舞台準備の張替えを行い始める。
 このイベントではグループが次々とパフォーマンスを行う上にステージギミックも多彩に富むため、僅かなインターバルでスタッフたちが準備をする必要があるのだ。

 本来であれば翠の前の順番はゆかりであるはずだが、リハーサルでも同じという事でも無いらしく、別の三人組のユニットが練習をしていたのだった。


 彼女達は本番同様に衣装もしっかりと着ている。

 黒が印象的なドレスを三人とも身に付けて、息のあったダンスで舞台を駆け巡る姿はまさにこのフェスの名に恥じないもので、荘厳で品格のある動きを見せつつも、冬の寒さを吹き飛ばすようなほとばしる熱さを感じた。

 当日となれば、彼女達に勝るとも劣らない観客とアイドルが一体となったパフォーマンスが次々と出てくるのだろう。


 いや、パフォーマンスと呼ぶべきではないのかもしれない。

 観客が居てこそのアイドル達の披露なのだ。
 そういう意味では、この会場全てが一つの作品なのである。

 学園祭の時とはどう見てもスケールの違う会場の雰囲気に、俺が直接観客の前に出る訳でもないのに自然と心が震えてしまった。





 翠はというと、当日着るドレスは着用せずに普段の練習着姿で居るものの、広がるように作られたステージの上に立って、観客席となる地面を見下ろしている。

 周囲には忙しなく動くスタッフたちの姿。
 まるで隔離されたかのように、翠は落ち着いて眺めていた。


 少し後ろから翠の姿を見ているせいで、彼女の感情は上手く捉えられない。

 しかし、おおよそ推測するには心地よい緊張感を漂わせているのだろう。
 ゆっくりと首を回して遠くの山々を見渡した翠は、何となく感慨深さを覚えているような気がした。

 …その景色はごく限られたアイドルにしか味わえないものなのだから、今のうちにたっぷりと見ておけばいい。


「大丈夫か?」
 俺は焦点を遠くに合わせてステージに立つ彼女の下へ歩み寄り、そう声をかける。

「一度やってみないとわかりませんが…レッスンで学んだことを、全力で出したいと思います」
 こちらに気づいた翠はゆらりと振り返ると、少し考える仕草をした後に答えた。

 実は、今の翠は普段のレッスンで使用している白のラインが入った青色のジャージを着ており、そのままではとても観客の前には出られない。

 というのも、現在はステージの上に立ってシーンごとのダンスを手拍子ですることで、観客からの見え方のイメージ、ダンスの動きやすさや難易度などを考慮しながら軽い調整をいれているのである。

 練習着なのは、翠の衣装は一品物で構造的にも衝撃に強くはないので、練習であろうとも気軽に着用していては万一の時に対処が難しくなってしまうからだ。

 風貌に似ず華麗に体を一回転させると、どういう訳か、翠は微かに笑みをこぼした。





 ――合同フェスで俺が提案したステージのテーマとは、幽玄であった。

 そのため、空色のドレスに合うような装飾…非日常的で、幻想的なイメージをなじませるにあたって様々な物を搬入させることとなったのである。

 駄目元で運営の人に話してみると、以前言っていたポリシー通り、やってみせましょう、と少しの間を置いてから心よく返事をしてくれた。

 俺の提案を聞いた時の彼のあの表情はよく覚えている。
 過去でも中々例を見ない…それも、新人であれば尚更なのだろう、聞き返した時の声がえらく素に戻っていた。



 舞台は比較的大きく、ニつのグループ程度なら奏者を含めて同時に入場してもパフォーマンスに支障が出ない位にスペースに余裕がある。
 これは広い敷地に入り込む数多の観客の中で、側面で見物する人から見えにくくなるというデメリットを解消するためであった。

 そのため、ポップや動きのあるロック系のジャンルで参加するユニットにとっては、少しでも控えめにダンスをしてしまうと途端にステージに負けてしまうという懸念を生み出している。

 恐らく、同じバラード系で勝負を仕掛けてくるゆかりも演劇さながらの大きな動きで目と耳両方に強く訴えかけてくるのだろう。
 以前プロモーション・ビデオで見た切なげに歌う姿とはまた違った物が見れるに違いない。

 そして翠だが、野外ライブという条件では非常に不利であると言わざるを得ない状況になっている。
 何故なら、広い観客席に対し仕掛ける曲がバラード系で、動きもそこまで大きくないからだ。
 下手をすれば、『何をやっているのかわからない』などと言われる事だって十分にあり得るのである。


 それへの対抗策が、先程述べたテーマにある。

 広々とした人工物であるステージに、夜の人ひとり居ない舞踏会を想起させるようなテーブルクロスのかかった丸テーブルや木椅子、観客席下の地面にまで届くような特別な赤色のペルシャ絨毯を用いることで、ステージを大きな絵本に仕立てあげたのだ。

 そこで翠が舞うことで、ジオラマの世界に入り込むような視覚的インパクトを与える、という算段である。

 しかし、これはいわば博打に等しいもので、ただ前の順番がゆかりであることを意識しての提案だった。

 初めての舞台でわざわざそんな博打に興じる必要はないのでは、という指摘もあって至極当然だが、そうせざるを得ない理由も確かにあるのだ。


 ――歌声だけで翠に興味のない人間も全て魅了できるなら、その人以外はステージに必要ない。
 むしろ過剰な演出は、その本人の足を引っ張ってしまうことすらある。





 しかし、現実は非情だ。

 翠の立場や状況を考慮すると、多少大げさであろうとも観客にとってインパクトのあるものにしなければ、他のアイドル達の並ぶスタートラインにすら立てないのだ。
 どうあがいても観客の色眼鏡を外させることは出来ないのだから、その色眼鏡ごと染める事が大事なのである。


「ドレスを着てこの会場で歌うなんて……まるで映画にでも出ているみたいですね」

 翠は運営陣の懸命なセッティングによって見事にあつらえられた舞踏会を歩いて周り、かつ、かつ、と耳を小突くような絨毯の下の無機質の音を響かせて、物語の場面に飛び込んだ。

 それまでむき出しであった右にも左にも伸びた柱は壁紙によって隠され、野外ライブ特有の感触が全くない。

 もしも翠が昼の部の出場であれば、当然この構成をすることも無かっただろう。
 確かに昼であればステージ全体がよく見えて良いのかもしれないが、インパクトがある分全体が鮮明に映し出されてしまうと、観客の視線が翠から背景に移ってしまう危険性がある上、暗さがないと舞台が陳腐に見えてしまうからだ。

 夜で、照明だけが頼りのステージだからこそ、今の演出が効果的に表れるのである。

 残念ながら、流石に実物のシャンデリアまで搬入することは不可能だった。
 より搬入までの管理が大変なのは勿論、設置においても事故の危険性が指摘されたからである。

 そもそも、今の状態ですら準備や次のユニットのための片付けに時間がかなりかかっているのだ、天井部まで手を回していれば運営自体に支障がでてしまう。

 ここは、限りなく本格的に再現してくれたことを素直に感謝すべきだろう。





「このフェスの映像も、後で映像になって店頭に並ぶからな。そんな目的を意識して歌うのもいいかもしれないぞ」
 過去にも言ったが、大事なのは演劇的な動きだ。

 こと一挙一動が映えるミュージック・ビデオを意識することが、翠に良い影響を与えるのではないかと思う。
 歌だけを意識せずに自分の姿を含めた全てが演奏なのだという考えは、あながち間違いではないはずだ。

「…いえ、そういう雰囲気では歌いません」
 しかし、意に反して翠は俺にそう言って拒否をする。

 その表情は落ち着いていながらも真剣で、冗談めかす香りはしない。

 どうしてだ、という俺の問いに、翠は再び観客席の方を視線を戻して答える。

「この場は、聞いてもらえる皆さんとあなたに対して歌うためにあるんですから。余所見をするつもりはありません」

 …なるほど、翠らしいといえばそうなるだろうか。
 いつかの頃と比べると見違える彼女の顔を見て、俺は一つ頷いた。



 ――こうして率直に意見や感想を言ってもらえるようになったのも、きっと前に起こった二人の言い争いの賜物だろう。

 あれ以降、翠は俺や麗さんに対しても物怖じすること無くどんどん進言するようになっていた。
 いくら考慮した上で反論や拒否をされようとも決してそこで終わらせず、場を良くしていくためにと意見する姿に、麗さんも些か驚いているようだった。


 愚直である事よりも、翠は賢明を選んだ。

 それこそが、彼女を良い方向へと導いた選択に違いない。


 以前よりも自信に満ちた目をしている翠を見て、そう思わずにはいられなかった。





 ――ニ、三会話をしていると、準備が完了したとの声が舞台袖から聞こえた。


 前のユニットの片付けと俺達のための準備を続けてしなければならないのだから、時間がかかって当然だろう。
 それでも十数分程度で完了できるあたり、本当に彼らの力量には脱帽せざるを得ない。
 無論、今回は生演奏ではなくただのオフボーカルの音源を用いてのリハーサルである上に厳密なリハーサルの内容は各個人に委ねられているため、極端に言えばリハをしないことも可能だ。

 しかし俺達は挑戦する側なのだから、怠慢にだけはなってはならない。

「では、Pさんは下がってください。…ここは私だけの世界、なんですよね?」
 事務所で翠に衣装を渡した時の俺が述べた言葉を、からかうように彼女は言った。

 どうせ舞台の上では彼女は独りなのだから、せめてその時だけは孤高であって欲しい、そんな願いも今では不要になるくらい、翠は充分な程自信を付けてくれた。

 休養からの復帰後も気落ちすること無く練習を続けていたその姿に、麗さんもいつにも増して気合が入っていたのは強く覚えている。

「はは、そうだな。じゃあ俺は後ろで見ているから、まずは通しで足元に気をつけながらやってみてくれ」

 今日確認すべきことは、翠の披露する衣装の詰めとダンスの調整で、あとは翠の慣れを助けることだ。
 麗さんは会場側から舞台を見て彼女のパフォーマンスをチェックしてもらっているので、後で来てもらって指摘を請う予定である。


 彼女の威勢のよい返事を聞き届けた後、担当の人に曲を流してもらうようにお願いをする。


 すると、機械を操作する担当者の合図の後に、翠のための曲の前奏がやや控えめに会場に響き始めた。



 ……いくつもの困難も壁もアクシデントも俺達の前に現れたが、それでも乗り越えることが出来たのだ。

 だからこそ、これが最大の壁だとは思わない。

 翠がアイドルとして大きく踏み出す表舞台への第一歩を最高のパフォーマンスで幕を上げるために、まずはこの場を最高のものにしたい、と俺はふと空を見上げたのであった。





  *


 ――冬の夜空というものは、何とも言いがたい特別な空気があるものだ。

 地域によっては雨が降り、雪が降り、様々な顔を見せてくる。
 しかし、冬という季節であるだけでそれらは何か違う物を醸し出しているのである。


 そんな不思議な空気は薄い壁を通り抜け、俺の居る事務所の中にもそこはかとなく充満していたのだった。


「……長かった、ですねえ」
 エアコンだけでは到底賄い切れないと分かってからすぐさま導入した電気ストーブに手を当てながら、ちひろさんはしみじみと呟く。

 型落ち品でも暖を取るには問題はない。
 手元には温かいお茶を、足元にはストーブを身に付けて左右に回転椅子をゆらゆらと動かしながら手をストーブに伸ばす彼女の姿は、何とも子供みたいである。

 とは言っても、彼女の目だけは冬の季節に充てられてか、どことなく感傷的であった。


 まあ、無理もないだろう。

 アイドルもプロデューサーも居ない、まさに一文無しの状態から始めてからもうすぐ年を越すところまで来たのだ。
 俺ですら当初はこの事務所の存続を心配していたのだから、最初からここに居る彼女はもっと感じているに違いない。

 この激動の年を回想した所で、誰も責めはしないはずだ。

「そうですね。…まさか俺もこんな仕事をするなんて、全く思ってませんでしたよ」
 はは、と笑い、おもむろに頭を掻く。

 ただ普通に生活を送ったとしても一年後の自分というものはおおよそ想像出来る人は少ないが、こと俺に関しては尚更である。

 就職先の決まらない一般の大学生がまさか芸能事務所でプロデューサーをやるだなんて、一体誰が予想できるだろうか。

「でも似合ってますよ、その仕事。天職なんじゃないですか?」
「まさか」
 似ても似つかぬ言葉に苦笑して肩をすくめる。


 …本当にこの仕事に就いてよかったのか、そんな疑問は今でも時々心の底で湧き上がる。
 失敗は今までもよくしてきたし、これからもずっと付き合って行かなければならないのだろう。
 他の人に比べても、俺は優秀という訳ではない。

 しかし、それでも翠に出会えたという事実があるのだから、彼女の問いを否定するのは何となく気が引けてしまう俺であった。





 出力全開でも一向に暖まり切らない貧相な事務所の中で、ふとした拍子で始まった一年の思い出話で談笑していると、殆ど来客のない事務所の扉が小さく音を立てた。

「ただいま戻りました、Pさん、ちひろさん」
「お邪魔するよ」
「お、お邪魔します」

 こんな時間にアポもなく誰が訪れたのだろう、と俺たち二人とも扉に視線を向けると、その薄い扉から見慣れた二人と久方ぶりの一人……翠と、現在のトレーナーである麗さん、そしてその妹で前トレーナーの慶さんが現れたのだ。


「あれ、慶さん……それに今日は直帰だったんじゃ?」
 今日の予定を思い出して、麗さんに問う。

 最近では、レッスンが終わると麗さんが翠を送ってくれるようになっていた。
 当然俺も送り迎えをすることはあるが、一番身近にいるのですぐに移動しやすいという利点があるが故に、麗さんさえ良ければお願いするようにしている。

 それに、彼女自身も翠とよく話す機会ができて嬉しいと話していた。

 普通のアイドルならまだしも、翠とだけは、ただ見ているだけでは彼女のことを解ることは難しい。
 目を見て、よく話し合って初めて彼女の本来の姿が見えてくるのだ。

 一般論や常識ではない、翠と接してきて色々なミスを犯してきたからこそ言える事だった。

「ああ、そういうことだったんだが……ほら」
 麗さんの手には、何かが入ったビニール袋が握られていた。
 その袋には近所のコンビニのロゴがあったので、何かを買ってきた、ということなのだろうか。





 それを掲げて俺達に主張する麗さんの隣で、翠が続きを請け負った。
「私がお願いをして、皆で…その、何と言いますか、決起集会をしようと思いまして」
 視線を少し逸らして、翠は苦笑する。


 よもや彼女からそんな提案をするとは思わなかった。

 いや、そういう類の事であれば、俺と翠とちひろさんの三人で打ち合わせをした時に簡素ではあるが以前にも既にやっている。

 しかし、翠は彼女自身を育ててくれた慶さんや麗さんがいないことが不満だったのだろう。


 ……翠からすればそれも当然か。

 思えば、アイドルになって右も左も分からない時には慶さんが道筋を示し学園祭のライブを成功に導いてくれて、更なる大きな壁に立ち向かう時には麗さんが厳しくも時に優しい一面を見せながら一緒にやってきてくれたのだ。

 時間で言えば俺やちひろさんとは全く及ばないが、密度という点ではもう同じ存在と言っても差し支えない。

 それ程までに、彼女達トレーナーとは不思議な縁もあって、翠のために頑張ってくれていたのだった。

「…それにしても、よく許可しましたね?」
 ちひろさんがくすり、と笑って麗さんに問いかける。

 俺もそれには気になっていた。
 ただでさえ練習に関することであれば食事に対しても真剣に指導する立場の人間が、イベント直前になってジュースやらおやつやらをテーブルに広げようとするのだから、何とも不思議である。

「翠なら、こういう事があっても羽目を外さないのはわかってるからな。それに慶も会いたがってたのだよ」
 慶さんはというと、麗さんに担当が変わってからは滅多に合わなくなっているような気がする。

 もちろん、本来の担当トレーナーとして近況報告などはメールで時折するし、慶さん自身も麗さんからいくつか話を聞いているとは思うが、こうして面と向かって話すのはどれほど久しぶりなのだろうか。




「それでは、折角来てくれたんですから少しだけやりましょうか」
 あまり夜遅くまで翠を起こさせるのは些か不安が残らないでもないが、明日が本番という訳ではないのだ、今日ぐらいは少しはしゃいだって悪い事にはならないだろう。

 何より、翠がそれをやりたいというのなら断る理由はない。

 また俺としても、麗さんや慶さんも含めてみんなで居てこそ俺達なのだと改めて感じたいのだ。


「ありがとうございます。あ、私用意手伝いますよ、プロデューサーさんっ」
 テーブルに置かれた雑誌類を片付ける俺に対し、麗さんからビニール袋を受け取った慶さんがテーブルにぴょこっと近づいて片付けを手伝う。

 ちひろさんは、寒かったろう、と給湯室から暖かい物を持ってきてくれているようだ。

 そんな姿を見て麗さんは翠の肩を叩いてニ、三話しかけると、空いているソファに座らせてからちひろさんの下へ歩んでいった。


 世間ではクリスマスと呼ばれる今日の夜空に見下ろされ、ささやかな風が頬を撫でるが如く、小さなパーティが開かれた。


 もう狼狽えている時間はないのだ。
 だからこそ、今この時をあるがままに過ごしたい。





  *


「…寒いなあ」
 アルミの窓枠からは、本来なら訪れることのないはずの肌寒い隙間風が部屋を否応なしに凍らせていく。

 肝心の遮断機能を有さない不良品のガラス越しには味気ない暗闇が見え、それを申し訳程度に街灯と空の星が防いでいた。



 暖房をつけようとも室温が一向に上がらないボロアパートの一室。

 もはや普段着と言っても過言ではないスーツを脱いで風呂に入り、体が冷える前に寝巻き姿に着替えた俺は、何をする訳でもなくベッドの側面に背を預け、シミの付いた天井をただ仰いでいた。

 しなければならないことは探せばたくさんあるのに、何もする気がおきない。
 そんな矛盾した感情を、俺は知っている。


 ――それは、例えるなら受験前日の夜。

 高校受験でも大学受験でも、行われるのは大体十二月から翌年のニ月までの寒い時期である。

 そこで、明日に控えた試験を前にして緊張で普段通りの感覚が失われてしまう学生は全世界に多々居ることだろう。


 だがそれは、受験から完全に開放された社会人であっても例外ではない。

「……明日なんだな」
 無駄な熱量を消費させて虚空を響かせると、ぼんやりとした空間が俺の頭をつんざいた。





 決戦の日。

 誰であろうとも容赦の無い、栄枯盛衰、弱肉強食を体現したかのような芸能界という戦場で、細く小さな一歩が踏み出せるかどうかを決める、最初で最後の日だ。

 あらゆる過程を吹き飛ばして参加が決まった合同フェスにおいて、成功すれば間違いなく翠の活躍は天命に護られる。

 だが失敗してしまえば、すなわちオープニングテーマが流れている最中に打ち切りを命じられたと同じ事が彼女の身に起こるのだ。


 …いや、厳密に言えば終わりはしない。

 仮に失敗したとしてもアイドルとして活動するのに問題がある訳ではないのだから、翌年から普通に活動しても何ら問題はないだろう。


 かと言って、平穏無事でそれができるかといえば難しいのが現実だ。

 権威あるイベントである合同フェスで失態を晒したという事実が一旦立てられれば、それは翠に永遠に付き纏い、彼女の精神を確実に削っていく。


 そう考えていると、ふと頭にもう一人の親しいアイドルの顔が思い浮かぶ。


 …水本ゆかりという存在は、レアケースなのだ。

 真実は想像することでしか察することはできないが、当時組んでいたユニットの相方も含め、彼女の下には数多の誹謗中傷が訪れたに違いない。


 それで彼女の相方は壊れた。

 ステージに立つことを夢見て必死に練習してきた少女がそんな結末にいとも簡単に辿り着いてしまうなど、よほどの事ではありえない。

 それが、俺の想像を遥かに越えた酷い罵声が彼女達を襲ったという推測に繋がるのだ。





 アイドルとしての全てを否定され、心ない人間からは人格すら否定されたのだろう。

 それを目にした当時のゆかりは、一体どんな感覚だったのか。


 夢見る純粋な少女に与える仕打ちとしては、これ以上に残酷な物はない。



 だが、ゆかりはそれでも諦めなかった。

 襲いかかる嵐の中に放り込まれても、心を折らなかったのだ。



 それがゆかりのプロデューサーとの出会いに繋がり、再び立ち上がって、また同じ舞台に上ることになったのである。

 …怖くないはずがない。
 自身を見るであろう観客達は、生肉を舌なめずりで睨む猛獣に見えることだろう。


 何故立っていられる?
 何故逃げなかった?

 例えゆかりがアイドルに対して確固たる信念を持っていたとしても、合同フェスという舞台で結果として失態を犯したという扱いになった事実は変わらない。


 にも関わらず、周囲の冷た過ぎる視線に耐えて、今日までやってこれたのだ。



 これを強いと言わずして何と言えばいいのだろう。

 彼女の芯の強さには、尊敬以上の感情さえ沸き上がってくる。



 ――そして、その舞台に今度は翠が立ち向かう。

 丁度一年前のゆかりと同じ、新人での合同フェス参加だ。



 もしも、翠がそこで失敗をしてしまったら。


 …そんなことにはなるはずがないという意識を、深層の心が締め付けていた。





 冷たい空気によって喉をかすめていた呼吸が、不意に苦しくなる。
 乾いた咳が出てしまうのは、唾液が全く分泌されていなかったからだ。


 ……大丈夫、翠は誰よりも練習してきた。
 ベテランである麗さんからも評価は得ている。

 デビュー曲であるこの歌だって、プロの人も認めてくれる程の歌声にまでレベルも上がった。
 規模は違えど、ライブだって経験している。

 雑誌の特集にも載ったし、ラジオにも、テレビにも出演した。


 地元では、皆が翠を応援してくれている。
 そうでなくても、翠のファンと言ってくれる人だっている。


 当日は彼女のファンも数多く駆けつけてくれている事だろう。

 そこで頑張って、披露して、喝采を浴びて、喜びを分かち合って、同じく見に来てくれた家族に報告をして、新たなる第一歩を踏み出せたと確信して。


 そんな未来を想像すればする程、俺の中の見えない傷は広まっていく。




 人は、成功よりも失敗に目を向けてしまう。
 それは俺も例外ではなく、捉えようのない痛みが体の中に溜まっていった。


 失敗すれば、一体翠はどうなるのだろう。

 挫けずにまた立ち上がれるのか。
 また俺に笑顔を見せてくれるのか。


 おはようございます。お疲れ様でした。
 事務所でごく当たり前のように交わされる挨拶は、これからも続くのだろうか。


 はっきり言って、俺の中でいつの間にかそれらが心地よくなっていた。
 日常生活の一部に…人生の一部に彼女が居ることが、何よりも嬉しく思うようになっていたのだ。


 もしも、それが喪失してしまったら?



 ――俺がステージに立つ訳でもないのに、誰よりも俺が恐怖していた。





 冬の夜。

 明日は大事な日なのだから、厚着をして布団を何枚もかぶってさっさと寝なければならないのに、俺のまぶたは一向に目を閉ざしてはくれない。
 まるで俺をいたぶるかの如く執拗に視界を開かせていた。


 心臓の音が絶え間なく体に響き渡る。
 それがどうにもうるさくて仕方がないのだ。


 もう、いっその事止まってくれればいいのに――。


 そんな現実逃避にも似た感想を抱き始めつつある俺の部屋に、突如電子音が鳴り響いた。


 ――ピリリリ、ピリリリ。

 情緒や流行の欠片も無い、古臭い携帯電話から流れる古臭い電子音に、所有者から離れかけた意識が再び喉を通り抜ける。


 こんな時間に誰からだろう。

 テーブルの上に雑に置かれた携帯電話の光る画面を見ると、何と担当アイドルの名前が表示されていたのだった。

「……何か起こったのか?」

 絶えぬ不安を身に纏いつつも一つ二つ咳をして声色を戻すと、通話ボタンを押して耳に当てる。


「あ、こんばんは。夜分遅くにすみません」
 しかしその機械から流れたのは、古臭さなどどこかへ飛んでいくような聞き慣れた翠の声だった。

 通話口からはとてもじゃないが明日という日を理解していないかのような様子が見え隠れしている。


 疑念と不安が入り混じりながら、彼女の言葉を待った。





「今、大丈夫ですか?」
 翠の問いに促されて無意識に天井近くの壁を見上げるが、残念ながらこの部屋には壁掛け時計がない。
 なので、近くに置かれていたいつも使っている腕時計を見て時刻を確認する。


 現在午後十時を回った頃だ。

「明日は本番なんだから、君は早く寝ないといけないんだけど…何か用か?」

 緊張して眠れず、結果的に夜更かしをしてしまうというのは誰にでも起こりうる事態だが、それが原因で当日のパフォーマンスが全力でできませんでしたと言われても、ただの負け惜しみにしか取られないのである。
 そうなってしまえば、得をするのはゆかりの所属する事務所の上層部くらいで、他は誰も喜ぶ事はまずない。

 観客も、俺も、皆翠の最高のパフォーマンスを見たいのだ。


 そういう意味でも、万全の状態で本番に臨むために俺は自分の感情とは裏腹に語気を強めて話すが、それに対する翠の回答は致命的なものだった。


「…きっとPさんは不安なんだろうな、と思いまして、つい電話をしてしまいました」


 どうやら、本当に心が見透かされているらしい。





「……いきなり何の話だ」
 傷めつけるように震えていた鼓動は、僅かながらも熱を帯び始める。

「ベッドの上に居ると、あなたの声が私に届くんです――不安だ、不安だ、と。おかしいですよね、そんなの……ですが、だから励まそうと思ったんです」


 本当に致命的だ。

 見せてもいない物を…見せたくもない物を、いとも容易く彼女は見破った。

 いや、見てもすらいない。
 ただそう感じたからといって、見事的中させてみせたのだ。


 奇妙な関係になってしまったものだ、と心の中で嘆息する。

 俺が当初望んでいたのは、結局彼女の心の中を覗きこんで適切な対処を採りたいと思う、極めて即物的な関係だった。

 翠の悩みも不安も、特性も短所も全て読み取って指導して、よりよいアイドルへと導きたいと思っていたものだ。


 しかし、いつのまにかそれは逆転していた。

 彼女の方が俺の思いを読み取って適切な対処をしたのである。


 何とも情けない話だ、と肩をすぼめる。

 すると、肩に降り掛かっていた見えない重みがするりと汚れた床に落ちた気がした。




「…翠は、自分のプロデューサーが情けなくて幻滅しないか?」
 溜め込んでいた薄暗い感情が、どろり、と通話口へ流れ込む。

 俺の中で、翠という存在がどういうものであるか度々考えてきたが、考える度に違った答えが出てきていた。

 ある時は、俺が導いていくべきアイドル。
 ある時は、横一列で共に歩いて行く仲間。

 そして……ある時は、寄りかかりたくなるような尊敬する人間。


 嫌われるのが怖い。
 そんな少女的感情で己の身を滅ぼしかけた彼女だが、俺にそれを打ち明けたことで一つ成長した。

「ふふ、やっぱり」
 彼女はその成長を見せつけるかのようにくすくすと笑い、言葉を続ける。

「幻滅なんて、絶対にしませんよ。この世界を知らない者同士、時には前に、時には横に。そうして一緒に歩いてくれてきたんです…あなたの性格も、弱さも、いっぱい知ってますから」
 こんな弱音を吐くなど、もう慣れたと言わんばかりの声色だ。
 相手を気落ちさせるような話し方ではなく、同調するような話し方。

 前に立って俺の手を引っ張るような、そんな姿が連想された。


 …俺が導いていたアイドルは、成長を続ける内に俺を追い越してしまったらしい。

「だから私に教えてください、あなたの不安を。そして…分かち合いませんか?」

 社会人のくせに、大人のくせに。
 完全に固まりきった常識を、翠の言葉が溶かし尽くした。





「どれだけ頑張る翠の姿を見ても、不安は消えない。むしろ、それでも失敗したら翠はどうなるんだろう、って怖くなってくるんだ」
 俯瞰して見れば見る程、俺という存在が矮小化されていく。

 いや、本質が見えてきたというべきだろうか。

 今までの俺は、所詮虚勢を張っていただけのハリボテに過ぎない。
 プロデューサーという皮を被ることで一丁前に大人ぶっていたようなものなのだ。

 そうすることで立場を守ってきた結果、迷い、惑い、間違え、翠に損害さえも与えてしまったのである。


 もう、正直に言って俺はどうすればいいのかわからなかった。

 ありきたりで、かつ莫大な不安が、自身の境遇すらも疑念の渦に巻き込んでしまっていたのだ。


 途絶える事無く延々と湧き出てくる不安を有りのままぶち撒けると、ようやく終わりが見えてきた。

 吐き出したかった感情が、いつの間にか底をついていたのだ。


 今までそんな悩みもなく生きてきた俺にとって、ここまで追い詰められるというのは恐らく初めてだろう。
 未知の感覚に意識の制御が失われつつあり、話が途切れた今、次はどんなことを言えばいいのか戸惑っていると、翠は小さく息を吐いた。


「…よかった。私も同じ事、考えてました」
 その声は神妙というよりも、どこか安堵したような声色だった。

「同じ事?」
 どんどん暗い方向に向かっていった意識が、彼女のよくわからない言動によってふと我に返る。

「私も、失敗してしまったらPさんはどうなるんだろう、と思ってたんです」
「俺がどうなるか、って…」

 一体翠は何を言っているのだろうか。

 失敗したら大変なのは翠であって、俺ではないのだ。


 そんな懸念は無用の物である、と反論する俺に被せるように、彼女は言葉を続けた。





「もし私が失敗してしまったら、きっとPさんは自分を責めてどんどん追い詰めていってしまうのではないか、責任を感じてプロデューサーを辞めてしまうのではないか……そんな不安が尽きないんです」

 不明な前後関係が、蜘蛛の糸によって繋がれていく。


 ――同じ事。
 彼女がそういう表現を用いた意味が、雨が上がるかのように現れてくる。

「Pさんは失敗する事で私が落ち込んでしまうと考えているのでしょうが、私なら大丈夫です。あなたが信じてくれるなら、あなたの隣に居られるなら、いつまでも歩いていけるんです。だから私は……あなたがあなたでなくなってしまうのが怖い」

 そういうことか、と俺の中の曖昧な感情が一気に収束した。


 俺は彼女の凋落を心配し、彼女は俺の凋落を心配している。
 すれ違っているようで、実は重なりあっているという、表現し得ない何とも可笑しな状態になっていた。

 心配している相手から心配されているなんて、一体どんな関係なら起こりうる状況なんだろう、と俺は思わず笑ってしまう。

「…お互い様だったな」
「ええ、お互い様でした」
 電話越しの彼女も小さく笑う。


 翠の持つ全ての苦しみを俺にさらけ出して欲しい、という言葉は、翠の誕生日に出かけた時に俺が彼女に伝えた物である。

 しかし、それは同様に彼女が俺に伝えていた言葉でもあったのだ。


 過去の内で俺が翠にそういった弱音めいた言葉を口にしたのは、状況に惑わされてか誘発されてか、いわば強いられた状況下での言葉だった。

 それを俺はよくないものだという風に捉えたから、なるべく外に出さないで、内に、内に、と溜めこんできたのだ。

 今思えば、それは彼女にいらぬ心配をかけなくないという心もあったのかもしれない。





「あなたが居るから私は居て、私が居るからあなたは居る、たったそれだけの事なんです。あなたは弓で、私は矢。どちらか片方がなくなっただけでも、意味のない物になってしまう……大事な、繋がりなんですよ」

 俺は翠をつがえて、険しいアイドルの頂に放つ弓。

 意識下に落とすまでもなく、翠らしい例えだった。


 彼女の言葉に、そうか、と一つ呟いて返す。
「なら、俺は弦をしっかり張っておかないとな」

 いくら美しく鋭い矢であろうとも、弓が折れていたり、あるいは弦がきちんと張れていなかったりすれば、それはただの塵と化してしまう。


 両者があって、初めてその存在の価値が生まれるのだ。

 弓と矢、プロデューサーとアイドル。
 片方が片方を利用するのではない、密接に結びつくことで真価を発揮する、共生の形であった。


 最終的、という言葉を用いることには若干の抵抗感はあるものの、俺は心から思う。


 ――俺と翠の関係は最終的にそこへ辿り着き、それこそがあるべき絆なのだ、と。


 かねてからずっと体の中に燻っていた要らぬ感情が、彼女の声により散っていく。

 清々しい、晴れ晴れだ。
 どんな表現を使用すれば正しく伝えられるのかはわからないが、見事に切り替わったこの気持ちはまさに理想であった。





「明日、寝坊するなよ」

 顔から携帯電話を少し離すと、一つ息を付く。


 成功したら、共に喜びと幸せを。
 失敗したら、共に悲しみと苦難を。

 背負うのではなく持ち合う事が、二人で歩く意味なのだ。


「勿論です。…迎え、待ってますね」
 最後にお互い就寝の挨拶を交わすと、雑な音を経て電波の繋がりが失われた。


 誰かから思ってもらえるという事がどれだけ幸せであるのか、改めて俺は知る。
 そのせいか、この寒い空間の中でも何故か笑みがこぼれ続けてしまった。


「…さて、寝るか」

 携帯電話をベッドの枕元に放ると、立ち上がって乗り上がり、綿の潰れた布団を被る。
 欠伸をした後は、何も考えない、ただ寝るという本能的欲求に従い、意識を沈めていく。


 体の中でつっかえてストレスを発していた何かは、跡形もなく消え去っている。

 あれだけ下がらなかったまぶたが今ではすんなりと落ちたという驚きが、薄れゆく自我の中での最後の発現であった。





  *


 ――合同フェス、当日。


 午前の時間帯はいつものレッスン場で細かい動きと体の柔軟運動、そして全体の流れなどの最終確認を行い、昼ごはんを挟んで現地入りする。

 いつもであれば俺と翠の二人で移動していた時間が、今回はちひろさんを入れて三人で移動することになっていた。
 すなわち、本日事務所は休業という訳である。


 会場が設置されている特別な雰囲気を醸し出す公園に俺達が足を踏み入れた時には、既にそこは関係者や観客、激しいサウンドが入り乱れる混沌とした場所と成り果てていた。


 年末で誰もが忙しいのでは、という疑問など遥か彼方に吹き飛ばしてしまうような熱気が会場やその周辺に溢れ、景色だけ見れば夏と勘違いしてしまいかねない程の盛り上がりである。

 ステージには溢れんばかりの熱さを纏った音楽とダンスが披露され、それに呼応するように観客がある曲ではタオルを振ったり、またある時ではタイミングを合わせてジャンプをしたりと様々なリアクションが行われていたのであった。

「体調はどうだ? 変な所はないか?」
 急なアクシデントでライブの時間に間に合わなかった、だからごめんなさいでは許されない。
 なので、必要最低限の事は済ませてからこうして早めに行動することにしたのである。


「はい、万全です」
 関係者用の通路の中で問うと、対する翠は元気よくそう答えてみせた。


 表情から見ても、決して強がってはいない。
 心の底からそう思っているのだろう、かつて見たような緊張の色はあまり見えなかった。

 ちひろさんもそんな翠の姿を見て安堵したような表情をする。





 さて、そんな当日の今からできる事といえば、本番に向けてのシミュレーションや確認の打ち合わせなどが主ではあるが、俺の立場からすればそれ以外にもまだ仕事がある。

「では、ちひろさんは先に到着している麗さんと合流して打ち合わせをお願いします」
「わかりました。翠ちゃんをお願いしますね」
 即座に意図を理解したらしいちひろさんは、俺の言葉に快く了承する。

 麗さんはというと、午前にレッスンをした後は俺達よりも先に現地入りして会場の雰囲気や今日のライブの傾向などを調査してもらっている。


 複数のユニットが次々とライブを行うというのは想った以上に厄介なもので、あるユニットの単独ライブであれば観客もファン故に全部盛り上がってくれるものの、こうして多彩なジャンルのパフォーマンスを披露するとなると曲調によっては盛り上がりの良い物、盛り上がりの悪い物といった傾向が僅かながら見えてくるのだ。
 いくらこの合同フェスの方針が好きな音楽ファンが集まるイベントといえども、人間なのだから無理もない。

 そのため、もしかするとロック・バラードというジャンルが今回の観客には受けにくいという可能性が存在するかもしれないのである。
 もしもそんな兆候が見られるのであれば、今からでも遅くない、若干の流れの変更を進めなければならないのだ。
 無論、ジャンル自体をがらりと変更することは不可能なので、あくまでステップの取り方や位置取りなどを変えるぐらいなのだけれども。

 そういった理由で、数多のライブイベントを経験してきた麗さんにお願いしているのだった。

 ちひろさんにはそんな調査をしている麗さんと合流し、具体的な改善案などを先に話し合ってもらうのである。

 ならば俺達もそれに参加するのが当然である一方、俺達にしか出来ない仕事もあった。


 それは、共演者への挨拶回りを兼ねた営業である。

「行こうか、翠」
「はい」
 俺の考えを読み取った翠は聞き返すこと無く、明瞭に返事をしてみせた。
 こうした挨拶回りもこの一年で幾度と無くしてきたのだから、彼女も不慣れとは思っていないだろう。


 今は昼の部なので、俺や翠とは関係のない人の方が圧倒的に多いだろうが俺達には関係がない。

 いずれ仕事で顔を合わせる可能性だって十分にあるのだ、今から積極的に話しかけに行っても損はしないのである。
 また夜の部には、翠の状態を見ながら再び挨拶回りをするだろう。


 小さくなってくちひろさんの後ろ姿を見届けて、俺達は他のユニットの控え室へと足を運んだのだった。





  *


「テレビでよく見る人が沢山いましたね」

 ライブ前の関係者に話しかけるという行為がそれなりに難しい物であるということを実感した営業であった。
 やはりどれだけ舞台に上がる事を経験した人でも本番前というものは独特な気分にさせてしまうようである。

 癪に障らせないように穏やかに、加えてなるべく下手に出てファンを装いつつ営業をすること一時間、広大な敷地の中に別途建てられた控え室やその周囲に居る他のプロデューサー達に話しかけ終えて、それなりに好感触を得ることが出来たという結果に終わった。

 本番のために集中しておきたい所ではあるが、弱小事務所だからこそそれだけに固執しないで出来る限り横の広がりを強くしていかなければ、この先の道は細くなるばかりなのだ。

 結果がどうであれ、来年の事も見据えて営業をしたかったのである。


 先輩アイドルやプロデューサーと話をするという事から、自信を見せていた翠も少なからず緊張してしまったようで、収録さながらのトーク営業を終えると苦笑して俺を見る。

 すごい覇気でした、とは彼女の弁だ。

 なるほど、圧倒されるというのはすなわちそういうことなのか。

 その言葉に納得しつつ、会場の近くに建設されている売店で飲み物を購入して公園のベンチに座ると、風景を眺めて暫し休憩する。

 この後は翠に用意された控え室でちひろさんと麗さんに合流して最後の打ち合わせを行う予定なのだが、実はその前にここである人と待ち合わせをしていた。

「温かいお茶っていいですよね」
「よくわかるよ、それ」
 両手でペットボトルを持っている彼女は、身長差により自然発生する上目遣いで微笑んだ。

 翠はその待ち合わせの予定を知らない。
 というのも、彼女にその事を伝えるのを憚られる事情があるからだ。
 決して子供染みたからかいがしたいだとか、気恥ずかしいだとか、そんな不真面目な理由ではない。


 青空を彩る白い雲がゆったりと流れていく。

 本番前ということもあって炭酸はご法度だが、そうでなくとも基本的に翠はお茶かスポーツドリンクかの二択である。
 日常的に飲むであろうお茶にも大層おいしそうな表情をする翠に、俺は少なからず安堵感を覚えた。

「さて、そろそろ――と、時間丁度だな」
 スーツの袖をめくって陳腐な腕時計を見ると、針の長針が真上をさしている。
 それに呼応するように、遠くから見覚えのある男性の姿が見えた。





「ああ、見つけた! こんにちは、とうとうこの日がやってきたねえ!」
 小走りで現れた彼は冬特有のダウンジャケットを着込みつつ、大層愉快な表情を見せていた。
 恐らく期待と喜びがぎっしりと詰まっているのだろう。


「あなたは――」
 その顔を見て事情を知らない翠は思わず驚いて立ち上がり、同時に俺はわざわざここまで足を運んでくれた彼に立ち上がって礼をする。

「やあやあ、ご無沙汰しております!」
 そんな対照的な表情をした翠が腰を折る所を見ると、男性は歯を見せて大きな笑みを晒した。

 ……その人は、まだヒヨっ子同然だった頃に大分とお世話になった、地元商店街の会長である。
 そう、待ち合わせの人物とは彼の事なのだ。


 ここに至るまでには、ちひろさんの営業努力が不可欠であった。

 本来イベント関係者向けの優先販売されるチケットは数が少なく、その枚数を翠の家族に充てたために通常では彼の分を用意することができなかったのだが、ちひろさんによる根気強いアピールによって、俺達だけ特別に少しだけ多めに用意してくれたのである。

 まあ、並大抵の言葉では不可能な事なのだから、弱小事務所故の恩情も少なからず入っているような気がするが……それを気にしても意味はあるまい、と素直に受け取っておく事にしたのだった。

「翠ちゃん、今日は頑張って――と、こういう言葉は駄目でしたね」
「いえ、お気遣いありがとうございます」
 きっと受験を経験した子供がいたのだろう、頭を掻いて苦笑する会長に、翠は微笑んで返事をした。


 それから少し三人で他愛もない話をして区切りの良い場面に移ると、彼はおもむろに『例の話』を切り出す。

「さて、プロデューサーさん。話ですが…」
「わかりました。翠、悪いけど二人で話すために少し離れるから、それまでベンチで休憩しててくれ」
 その言葉を聞いて、俺も本題に気持ちを切り替える。


 そろそろ談笑は終わりだ。

 時間が無い訳ではないが、この後も予定があるのだから悠長にする必要はない。
 疑うこと無く明瞭に翠の了解する返事を聞いてから、ベンチと少し距離を取って彼と改めて向き合った。





「翠ちゃんに言わなくていいんですか?」
「大丈夫ですよ。翠ですから」
 会長は訝しげに俺の行動を指摘するが、そんな彼の表情を俺は掻き消す。

 普通であれば、どういう形であれ仲間はずれにされると少なからず不信感を抱かれるだろう。
 しかし、俺と翠の間柄においてそんな懸念は微塵も持っていない。
 彼女が俺についてどういう感情を抱いているかを知っているからこそ、だ。

「例の計画ですが、夜の部の観客に入れ替わる時間帯に入場ゲートの後ろで全て配布してくれますか?」

 計画。
 未熟な俺がルーキーの集大成として考えた翠のための一計だ。

 それを翠に伝えないのは、発生するかもしれないリスクを回避するという理由であった。
 そのリスクに関してああだこうだと言うのは無意味なので、今は割愛をさせてもらうことにする。

「わかりました。それと緊急ですがこちらにも少し人員が増えましたから、プロデューサーさんの負担も多くはなりませんよ」
「人員……というと?」

 関係者であることを示す許可証を会長に渡して時間と配布場所を改めて伝えると、彼は察せない言葉を口にする。

 人員とはどういう意味なのだろうか、そう聞き返すと、彼は頭を掻いて笑った。
「実は、私の他にも一般抽選で手に入れたウチの商店街の人が居ましてね、その人にもお手伝いしてもらえることになってるんです」
「おお、そうなんですか!」

 何て幸運な出来事だろうか、と思わず彼に頭を下げた。

 この合同フェスは全国からファン達が駆けつけるために競争率がかなり高いはずなのに、そんなチケットを手に入れた人が近くに居て、更に協力を申し出てくれるとは思ってもみなかった。

「なら、その人と一緒に先ほどの場所にお願いします。運営側には伝えておきますから、向こうの人に私の名前を出して頂ければ大丈夫です」

 正直な話、莫大な数の観客に対して数人では『それ』の配布に限界がある。
 そういう意味でも、一人でも人手が増える事は非常に喜ばしい。

「了解しました。あれは運んでおきますから、後で向こうで改めて会いましょう」
「ありがとうございます。それではよろしくお願いします」

 事前に打ち合わせはしているので、話も深くは入らない。
 それは比較的音が大きいこの場所で細かい話をしていると聞き間違えなどが発生するからである。

 最後の確認を取ったところで、会長は少し離れた場所にいる翠に軽く会釈をしてここを立ち去っていった。





 ……計画は着実に進行している。

 後は夜の部の観客の入場を待って行動を起こせば、全ての準備が完了するだろう。

「お疲れ様です、Pさん」
 翠からすれば何やら俺が一生懸命仕事をしているように映ったのだろうか、労いの言葉をかけてくれる。

 確かに一生懸命仕事はしているが、それは当然の事だ。

 それでいて彼女にそう思われるのだとしたら、それは以前まではどちらかと言えば向こう側が発端となる受動的な仕事や計画が多かった故に、今回のプロデューサー主導で始まるこの話は俄然気合をいれているのが理由だろう。


 今の俺はもう新人という立場に甘えている場合ではないのだ。
 だから、負けないように全力で行く。

「ありがとう。じゃあ行こうか」
「はいっ」
 体で次の予定を指し示すと、翠は寒空に負けない元気な声で返事をする。


 ぬるくなって人肌になったペットボトルを取り出して指先を暖めながら、俺達は翠に縁深い人物に会うため、ここを発つのであった。





  *


「あ、お母さん、お父さん!」
 アイドルから少女に変わる瞬間を俺の目が捉える。


 まだ日が高いと言える午後の時間。

 予め連絡していた近所の小洒落た喫茶店には、翠にとってかけがえの無い人物である両親が彼女を待っていた。
 両親も翠の姿を一度視認すると途端に嬉しそうな表情になり、椅子から立ち上がって小走りでこちらに向かってきたのである。


「翠ちゃんのお父様もお母様も、この度は遠いところから遥々お越し頂きありがとうございます」
 正しくは少し前に翠は両親と会っているのだから、厳密に言えばつい最近会ったばかりだが、というべきなのかもしれない。

 しかし、その時の翠はあくまで両親の娘としての翠である。
 今回二人が会った時に彼らが歓喜の声を上げたのは、今の彼女がアイドルとしての翠だからなのだろう。
 私的な一面を廃したアイドル・水野翠と接するのは、恐らく今回が初めてである。

 やはり両親としては娘が遠い所で働くという事が無性に心配なのだろう。

 そんな三人の大人として、家族としての再会をひと通り喜び合った所で、少し後ろで邪魔にならないように待機していた俺は前に出て頭を下げたのであった。



「…話は聞いた」
 先ほどの跳ねるような声色から一転、父親が冷静にそう言うと、母親から着席するように言われて素直に応じる。


 彼の声色で、容易に内容が想起された。
 話とは、無論俺が母親に対して謝罪した時の内容……すなわち、翠が倒れた事である。

 あの時は父親に話そうとする俺を母親が制して、直接伝えることなく終ってしまったのだが、彼の口ぶりからすると事実をはっきりと母親から聞いたのだろう、その表情は怒っているというよりも沈着した様子であった。


 母親からそれを伝えられた時、彼は何を思ったのだろうか。
 怒りか、悲しみか。それとも不信感か。

 当時の感覚が戻ってくる。
 怒られたとしても仕方がない事をしたのだ、どこまでも謝罪する覚悟はある。


 突き抜けるのであれば殴られたって構わない、と意を決して彼の言葉を待っていると、父親は俺の貧弱な予想の範疇を越えた行動に乗り出した。






「……娘を、ありがとう」
 父親の方が、今度は頭を下げたのである。


「え、あの…!?」
 あまりの出来事に、俺や翠もその場で固まって態度に窮してしまう。


 一体どうして彼が頭を下げる必要があるのだろうか。
 実の娘を倒れさせてしまうという、怒るのも致し方ない事情にも関わらず、彼は気持ちに阻害されることなく俺に礼を言ったのである。


 ――そういえば、以前母親にこの話をした時も似たような事を感じた。

 確か彼女は翠の状態を訊ね、そして何も不安はない、そう答えたのであったか。

 不思議なことに、謝る時の俺の瞳が母親から見れば翠を心から思ってくれている、という風に見えたらしいのである。

 そうして彼女と会話を続けていると、この母親が居たから翠はこんなに素晴らしい子に育ったのだろう、と結論づけたのだった。


 もしかしたら、父親も――?

 俺の心の中での思案を他所に、母親は彼の肩を持ってゆっくりと引き上げる。
 父親の目は、見た目こそ厳しそうであるものの、その言葉を聞いた事で、どこか慈愛に満ちているような気がした。

「翠が倒れた時は、本当にお前を恨んださ。……でもな、翠からの話を聞いてると、とてもじゃないがお前を怒れやしない」


 愛知に行った日。

 俺は日帰りで東京に戻らなければならなかったが、翠は一日本当の実家で夜を過ごしたのである。
 つまり、そこで彼女は父親に今回の顛末について詳細を話したのだろう。

 そう続ける父親の顔に、怒りは全くない。





「自己の体調管理を怠った翠にも反省すべき点はあったし、お前も翠を大切にしていることは十分にわかった。だからこの場で改めて言わせてもらう」

 ――娘を、翠を、素晴らしいアイドルにしてくれて、本当にありがとう。

 …その強烈な言葉は俺の脳を激しく揺さぶり、体内に尽きぬ程の幸福物質をまき散らした。


 大事な子供を預けるという不安や顔を見れない寂しさ、不測の事態が起きたという憎悪がこの一年で彼の心の中を飛び回っていたのだろう。

 それが、最終的に感謝という形に収まったのである。



 ……しかし、それで終わらせていいのだろうか。

 少なくとも俺はそうは思わない。
 彼がそう思っているからこそ、その言葉は尚早なのだ。

「…それは、また今度聞かせて頂けませんか?」
 突拍子もない俺の言葉に、両親は真っ直ぐに瞳を向けてくる。

 確かに、このタイミングは彼らの考える節目と捉えても何らおかしくはない。
 年末という時期にしろ、大舞台前という時間にしろそうだろう。


 だが、アイドル・水野翠はまだ完成していない。
 この合同フェスを大成功で終わらせて初めて、彼らの思うアイドルはとりあえずの完成を迎えるのだ。


 だから俺は言う。

「翠の歌を聴いて、感動して、それからまた聞かせて下さい。……節目を迎えるには、まだ少し早いですから」

 二人組同士で座る配置なので、向かい側には両親が、そして俺の隣には翠が居る。
 そんな隣の翠が、そっと微笑んでいることに気づいた。

「お父さん、お母さん、今日は来てくれてありがとうございます。ステージに上る私の姿を見て、楽しんでいって下さい」

 子供が大人になる瞬間というのだろう。

 俺の宣言に呼応されて発した彼女の言葉は、両親の娘という肩書きではなく、一人のアイドルとして、大人としての区別を付けていたようだった。





「…そうだな」
 続いていた会話が途切れてしばしの沈黙が訪れている間、喫茶店特有の落ち着いた雰囲気がテーブルの上で踊っていたが、幕を下ろすように先に切り出したのは父親であった。

「過程は過程でしか無い。それが翠の立場なら尚更か。なら、俺にこう思わせてくれ――あのステージに立ってる奴は本当に俺の娘なのか、とな」


 テレビ越しにアイドルの翠を見たところで、それは結局ファインダーを覗いて見えた一部分でしかない。

 肉眼で、同じ空気の中で彼女と相対することで本質を理解したいのだろう。
 彼の言っていることはすなわち、成長を肌で感じたい、という意味に他ならない。

「ふふ、期待していて下さい」
 それに張り合うように、くすり、と笑って翠がそう言うと、両親も安心したように頬を緩ませた。


 …恐らく、本番までの間に気楽に笑っていられるのはこの時間が最後である。

 喫茶店を出て彼らと別れれば、そこに残されるのは無謀にも合同フェスに挑むプロデューサーとアイドルなのだ。

 本番では、練習では絶対に味わえない異様なプレッシャーに全身を押されながらパフォーマンスをしなければならない、辛い戦いになるだろう。


 だから、最後の休憩としてこの時間を楽しんで欲しい。

 俺もまるで彼女の家族になったかのような、そんな和気あいあいとした空間の中で、俺はそっと翠を想ったのであった。





  *


 冬と聞いて連想される事と言えば誰しもいくつか思い浮かぶが、その中の一つとして、やはり太陽が沈む時間が早いというのが挙げられるだろう。

 昼の時間帯にあった微かな暖かさなど明度と共にあっという間に消え失せ、残された冷たさがこの周囲を暗闇とともに覆い尽くしていた。

 空はすでに黒色に染まり、訪れた観客たちも肌を刺す寒さをステージ上で舞う彼女の一挙一動に見入ることで掻き消している。


 まあ、冬本番、一年の終わりとなれば暖かさを常に享受できる人は殆ど居まい。



「綺麗な声ですね…」
 翠は目を閉じて、その音ひとつひとつを丁寧に頭の中に入れているようである。

「翠の先輩として、流石の実力だな」
 悲しく揺れるバイオリンの煌めきが波に乗せられて、翠の前の順番であるアイドルの声が会場内に響き渡っていた。



 姿は見えない。

 ただ、ステージの裏側、観客からは完全に隠れた舞台裏で、準備されていた椅子に座りながら俺たちは彼女……水本ゆかりの歌声に耳を傾けていた。


 流石に熱源がステージ裏の照明では余りにも頼りない。

 とてもじゃないが厚さを感じないコートを着たまま、スラックスのポケットに手を入れる俺であった。





  *


 ――時は、誰の制御も受け付けることなく走り続ける。


「ご両親とはどうでしたか?」
 控え室に戻る最中、ちひろさんは俺に問いかける。

「ええ、いい時間でしたよ」
 あの光景を包み隠さずちひろさんに伝えると、彼女はよかったです、と微笑んだ。



 日が落ちるという現象は瞬く間の出来事で、入場ゲート付近での人の大津波に驚嘆しつつも無事『それ』の配布を終わらせた俺とちひろさんは、疲れた顔もせずに翠の控え室に戻っていた。

 翠にその計画を知られる訳には行かないので、一度控え室で合流してから俺とちひろさんの二人で行ったのだ。
 大変ではあったが、かといって麗さんも一緒に行くとなるとその間翠は一人になってしまうので、監督役も含めて麗さんを残したのである。

「本番も全力でできそうですね」
 控え室のドアの前でちひろさんは言う。

 例えそうでなくとも翠なら仕事として切り替えて全力で行けそうではあるが、同じ釜の飯を食べた彼女達の間柄だ、親子関係については何らかの共通点があるのかもしれない。


 できますよ、翠なら。

 端から見ればまるで根拠のない盲目的な信頼をちひろさんに告げると、俺は控え室のドアを叩いて開いた。





 室内では、立って身振り手振りで話し合う翠と麗さんが居た。

「ただいま戻りました」
「やっと戻ってきたか。早速だが始めるぞ」
 予め申請していた数のパイプ椅子が控え室には用意されていたので、ひとまず俺達は彼女の近くに座ることにした。


 恐らく二人だけで先に調整する事項について理解を進めていたのだろう。
 長テーブルには、飲料水のペットボトルや何かが記されたノートなどが置かれていた。

「では私の見てきた事で、調整可能な事案について報告する――」
 彼女達も近くのパイプ椅子に着席すると、ペンを取って俺の方を見る。
 その目に楽の感情は無い。ベテランの意地が垣間見えるほどに、真剣な表情であった。


 ……練習という概念において、麗さんの基本的な方針としては、極端に言えば本番までの時間は一ヶ月前であろうが一分前であろうが全て同じ練習時間である、というものがある。
 それ故か、この時話す彼女の言葉も、冗談の一つも見せないで、今日見て感じた事を余すところなく丁寧に俺達に報告していた。


 そうして話す彼女の手元には古ぼけたノートがある。

 きっと何年も何回も使ってきたノートなのだろう、シミが付き、角が丸くなったそれは彼女の知識の結晶、人生のバイブルそのものなのかもしれない。


 対する翠はメモこそ用意していないものの、聞かされた変更点について頷きながら改めて確認している。

 二人は俺達がここに戻るまでにもある程度話し合いを進めていたのだから、翠から質問が出ることは殆ど無かった。
 しかし、それでも気になる所というものは存在するようで、逐一翠が意見しては麗さんが立ち上がって問題の部分のダンスを披露して翠に教えていた。

 …ちひろさんと俺もただ人形でいる訳にはいかない。
 それぞれ感じた事、気づいた事を時折挟んでは議論になり、いつもの様子ではありえない口論にさえ発展しかけた事もあった。

 しかし、俺達全員に言葉以上の悪意は存在していない。
 誰もがただ翠のダンスをよりよい物にしたいと考えているからである。





「――よし、大丈夫だ」
 あまり変えすぎても、覚えきれず本番に支障が出る。

 ダンスについて軽く流すように微小な変更点を加えつつ、より大きく、より美しくするために洗練させていると、瞬く間に時間が燃焼されていく。

「うわ、もうこんな時間なのか!」
 ふと時計を確認すると、俺は思わず立ち上がってしまう。

 翠が変更点を飲みこんで完全に理解したのを全員が確認する頃には、もうスケジュール上の翠の順番がかなり迫ってきていたのである。

「焦らなくても問題はない。ちひろ、準備を手伝ってくれ」
「わかりました」
 運営の人によるステージ・セッティングの時間を考慮しても、今私服のままで時間を過ごしていては些か不味いことになる。
 麗さんの言葉によってそれぞれが動き出すと、翠の少女からアイドルへの変身に着手し始めた。

 通常であれば必要となるヘアメイクなどのスタイリストとしての役割は、全て麗さんが請け負うことになっている。
 そもそもレッスントレーナーなのに何故そこまで出来るのかが少し気になるものの、熟練の位置にまで辿り着くにはそういった知識や実力も必要なのだろう。
 翠も信頼出来る相手に任せたいと考えているはずだ。


 こうして急ぎでの準備が始まった訳だが、勿論この中で唯一の男である俺が着替えをする控え室の中に居る訳にもいかず、コートの中に収まる程度で必要な物を全て放り込んでから外に出たのであった。





  *


 運営の進行役を手伝うアシスタントから連絡を受けたこともあって、準備を完璧に行うと俺達は控え室のあるエリアからステージに続く舞台裏まで移動する。

 舞台裏は必要最低限の人員のみが同行を許される最後の空間だ。
 それは大人数で行っては準備を行うスタッフの通行に邪魔になるかもしれない、という運営側の判断だろう。
 ちひろさんと麗さんは、快く俺達を送り出してくれた。
 合同フェスは生中継でテレビ放送されているため、彼女達は携帯電話でテレビ視聴をするはずだ。


 そんな二人の思いを背に受けて歩き出していると。

 ふと、遠くから静かな音色が聞こえた。


 ――聞き覚えのある曲。

 咄嗟に俺はコートに四つ折りにされて少し形が崩れた紙を取り出すと、それを破かさないようにゆっくりと開く。

「……ゆかりか」
 その紙とは、出場者のリストや順番などのスケジュールが載せられた関係者向けの紙面であった。
 リハ―サル前の打ち合わせの時に配布された物と同一である。

「ということは、次は私なんですね」
 今パフォーマンスをしているのがゆかりとなると、間違いなく次は翠だ。
 それを知っても翠は全く慌てること無く、ただ歩くことが今の仕事なのだと言わんばかりにそのまま歩みを進めていた。



 時折挨拶と共に駆け抜けていくスタッフを眺めながら、舞台裏に向かって俺達は歩く。

 忙しなく動くのはスケジュールをギリギリまで詰め込んでいるからなのだろう、たった今通り抜けて行った若い男性スタッフは新人なのか、何かの紙と前方を交互に見ながら必死な形相をしていた。


 それもこれも、この合同フェスをより快適に、より品高く運営するための行動なのだろう。
 全ては成功のために、ひとりひとりが皆休むこと無く動いている。


 俺達ができることは、そんな彼らを労うために一々呼び止めるのではなく、合同フェスの名に恥じないパフォーマンスをすることだ。


 一つ歩くごとに一つ捉え様のない何かを思い浮かべながら、かつ、かつ、と音を鳴らして俺達は足を前に出し続けていた。





「――なんだかこの通路、階段みたいです」
 別段饒舌になる事もなく、二人で小さく響く歌を聞きながら歩いていると、視線を前に向けたまま不意に翠が呟いた。


 通路なのに階段とはどういう事なのだろうか。

 正直に言えば、俺はもう本番の事や今までの事の回想で頭が絡まっており、意味を推察する程の余裕がなかったのである。

 恥も外聞もなく、そのままの意味を以て訊き返す。


 そんな気の抜けた回答だったからなのか、翠は、ふふ、と笑って視線を上にあげた。

「思えば最初の頃からでしたね。私の事をシンデレラにすると言い出したのは」
 彼女の言葉に、混雑していた意識の渦が切断される。

「…そんな事もあったなあ」
 明瞭になった意識が、俺を苦笑させた。


 シンデレラ。
 何とも気恥ずかしい言葉なのは今でも重々理解しているつもりだが、どういう訳か俺は翠にそう言ってしまったのである。

 そもそも、それらを口にするきっかけになったのは事務所の名前であって俺が考えた事じゃないんだ、と心中で言い訳をした。


 とすればだ、彼女が階段と表現したのは絵本の中での話の事だろう。
 舞台へと赴く翠を、城へと参るシンデレラと重ねあわせたのだ。

「でも、話通りのシンデレラじゃなくなってしまったな」

 絵本の中の彼女は階段を昇る時、隣には誰もいないが、現実の彼女は違う。
 舞台では一人だが、その隣には見えずとも俺が居るのだ。

「その通りでなくてもいいんです。Pさんが居る、それが私をシンデレラにしてくれた魔法なんですから……そうでしょう?」

 はは、と小さく笑ってやる。





「まあ、そういう話でも悪くないか」
 不意に翠の頭に手を置こうとして、強引に引っ込める。
 せっかくセットした綺麗な髪を無遠慮な手で崩したくはない。


 翠は俺が当初描いていたそのシンデレラにはならなかったし、俺も理想の魔法使いにはなれなかった。

 だが、それも含めて、俺達が昇る階段なのだろう。

 漫画のようにトントン拍子と進むには程遠いものの、階段を上がって目指すは舞踏会。

 そこで参加する人全てに翠の存在を知らしめて初めて物語は成立する。


「…それは、終わったらお願いしますね」
 俺の所在不明の手に気づいた翠が、こちらを向いてにこり、と笑う。

「任せとけ」
 はっきり言って緊張が消えることは全くないのだが、彼女の笑顔だけはそれでも俺を沈めてくれたのだった。





  *


 曲の終わりは、出番への接近という事実となって目の前に表れる。

 転調からのラストのサビは、ゆかりの持つ圧倒的な声量によって絢爛に修飾され、この声を聞く誰もが心を震わせる、華々しい終わりを迎えていた。


「……リベンジ完了、か」
 ゆかりの言葉を聞きながら俺は小さく呟く。
 別の音に掻き消されたのかこの声は翠には聞こえていなかったようで、隣に座る彼女は目を閉じてそっと静かにその空気を感じていた。


 ――別の音。
 その音とは、声でも、楽器から放たれる音でもない。


 人の両手でつくり上げる、壮大な拍手であった。
 ゆかりの歌声に負けず劣らず、周囲の空気を震わせ、そこら辺一体がひしめき合っているかのような異様な大きさの音だ。

 壁によって若干音が減衰している事を加味してもかなりの音量が俺達の耳に入ってくる。
 きっとゆかり本人が味わうその拍手は俺達の今感じている物よりも遥かに膨大であることだろう。

 ライブと言うよりもむしろオーケストラのコンサートのような、全てを褒めちぎらんとする音達は、ゆかりの心を果てしなく満たしているに違いない。


 …そんな彼女について考えていると、成功、という文字がふと頭に浮かんだ。





 ゆかりを語る上では、決して忘れることの出来ない悲しい物語がある。

 期待を持ってアイドルの門を叩き、必死に練習して、そして上層部の画策により受ける必要のなかった屈辱の限りを味わい、どん底に叩き落された。

 しかし尊敬する人間によって再び立ち上がり、諦めることなく続けることで、再登場を果たすことが出来たのである。


 これは間違いなくサクセス・ストーリーと呼ぶべき存在だろう。

 彼女が何を感じてここまで過ごし、これからどんな事を考えて過ごしていくのか、本人でも担当プロデューサーでもない俺には到底推測できようにない。


 だが、完成したということに変わりはないのだ。
 紆余曲折の末、彼女の物語は一つの完結、一つの区切りを迎えることが出来たのである。



 ならば、翠はどうか。

 確かにゆかり程の強い意志は持ってなかったのかもしれないし、耐え難い屈辱というのも翠はまだ経験していない。
 この先起こるであろう失敗や挫折も、アイドルとして生きる限り幾度と無く彼女を襲うのだろう。

 大きくなればなるほど、それらの規模は一層広くなっていく。
 ごく僅かの人にしか影響を与えなかったこの前のトラブルも、彼女が成長していけば損害を被る人は莫大な数になるのだ。

 それらを未だ身をもって知らないということは、それだけで人間として考えるなら平凡と言われても仕方がない。


 しかし、彼女にはアイドルを通じて得た沢山の思いがある。


 寂れた事務所の中で、ごく小さな人間関係の中で生まれた彼女の純粋な心は、鋭くはないが人を惹きつける何かがあるのだ。


 この俺達の軌跡がどういう閉幕を迎えるのか、それはもうすぐわかってしまう。
 成功か、失敗か、続行か、終了か。

 あらゆるエンディングの形を思い浮かべながらも、願わくば彼女の笑顔を失わない結果になりますように、と心に浮かべた。





「――あ、翠ちゃん」
 天を仰ぎ、来るべき時間を物言わず待っていると、不意に細い声が聞こえた。

 この声を間違えるような事は絶対にない。

「……お疲れ様です、ゆかりさん」
 翠は目を開けて、ステージから戻ってきた水本ゆかりに深々と礼をした。

 傍目にはただの挨拶のようにしか見えないが、翠は誠心誠意を持って彼女を労っているつもりなのだろう。

 ゆかりは、彼女の担当プロデューサーに肩を抱かれ、かつて見たことのないぐらいに疲弊した表情であったからだ。

 実時間にしてたった少しだけの物であろうとも、大勢の人に視線を浴びせられながら、気温などの悪い環境条件の中で全身全霊で以て歌い尽くせば、そうなるのも不思議ではない。

 更に、ここは彼女にとって半ばトラウマの源に近い場所だ。
 無事乗り越えたという安堵感も、彼女を疲労困憊にさせた原因だろう。


 翠もそれが解っているから、仕事人としての礼に加えて、本人自身の思いを込めて頭を下げたのだった。


 彼女のパフォーマンスはもうこれで終了を迎えた。

 なのでこのまま控え室に戻ってひとまずの休息を取るのではないかと思っていたら、何やらゆかりがプロデューサーである彼に何かを囁くと、彼女は隣にある椅子に座り、大きく息を吐いてぐったりと固い背もたれに体重を預けたのである。

 疲れた体でここにわざわざ座る必要性は感じられない。
 とすると、そうしないのには何らかの理由があるのだろうか。


 彼はゆかりの肩から手を離すと彼女から遠ざかり、反対側である俺の隣の椅子に座った。
 アイドル同士、プロデューサー同士で隣に座った状態である。

 ゆかりのプロデューサーの表情は決して楽観的とは言えないし、かといって怒りに震えているという訳でもなかった。

 どこか神妙な面持ち、というべきだろうか。

 ステージの照明は一旦落とされて次の順番である翠のパフォーマンスの準備がされ始めている。


 その最中、彼は少しの間遠くに焦点を合わせていると、ふと俯き呟いた。

「…これがゆかりの実力だ」


 既にステージではパフォーマンスが終了した事から、観客たちのざわめきや物を運ぶ音などが周囲に散っている。


 それでも、彼の言葉は何故かすっと胸に入り込んできたのだ。





 ――その言葉で、彼の思いが全てわかったような気がする。


 きっと、後悔という文字がずっと彼の頭の中にあったのだと俺は思う。

 例え同じ事務所の中でも、担当プロデューサーが違えばそのアイドルと接する機会というのはそこまで多くはならない。
 それが彼ほどの巨大事務所で、更に経営に執心な上層部であったなら尚更だろう。

 休みの日に事務所に遊びに来てくつろぐ、だなんて事が実現する訳がない。


 だからこそ、彼は悔やんだ。

 距離で言えば近くに居たのに、守り、育むべきゆかり達を見殺しにしてしまったのだと感じてしまったのである。

 無論、彼に責任はない。
 責めるべきは、彼女達にそんな無理無茶無策の指示を出した上の者達であり、フォローすることを放棄した彼女達の元プロデューサーだろう。

 しかし、それでも彼は酷く後悔した。
 その事務所に居た人間の中で、誰よりも彼女を心配したのだ。

 理由については察する他ないのだが、恐らく彼のプロデューサーとして働く意義に繋がっているのかもしれない。
 成り行きですることとなった俺とは全く逆の何かであろう。


 彼には強い意志があった。


 リベンジを果たさせてやりたい。
 あんな心にもない非難を受けることのないような、最高のアイドルにしてみせる。


 ……彼女に見せる無愛想な表情の裏には、煮えたぎる魂がふつふつと命を鼓動させていたのだ。





「次、頑張ってね」
 まさに必死のパフォーマンスを終えた後に楽しく雑談など出来るはずもなく、現れるべくして現れた沈黙の、そんな無言を区切るかのように一つ、ゆかりは言った。

 本人だって疲れているはずなのに、出てきた言葉は翠を鼓舞するものであったのだ。


 俺は、彼らに何も言えない。

 まだそんな高みを経験していない俺が軽々しく意見する事は、彼らの積み上げてきた実績や苦しみを侮辱する事に他ならないからだ。


 だから、ただ黙って彼の雰囲気を感じた。

 幾千、いや、幾万の思いを彼らは交わしてここまで来たのだろう。


 俺達は、そこに辿り着けるのか。
 彼らの持つ信頼関係を、俺達が上を行くことは可能なのだろうか。


「……はい」
 そんなゆかりの姿を一瞥してから、翠は小さく頷いた。


 翠も俺と似たような事を考えているのかもしれない。
 何故なら、集中することの難しさ、努力することの意味を彼女は知っているからだ。


 故に、いつものように元気な声で返事をすることができなかったのである。



 そんな声を聞いたゆかりは、物言わずそっと翠の手を握る。
 突然の事に翠は少し驚いたが、それをするゆかりの表情を見て何かを悟ったらしい、 翠の表情がきゅっと引き締まったような気がした。


 そのまましばらく再びの沈黙が訪れていたが、パフォーマンスを終えた者がいつまでも舞台裏に留まっていは他の者の迷惑になるだろう、と判断したゆかりのプロデューサーはふと立ち上がると、ゆかりの肩を叩いて控え室に誘導する。


 ゆかりもそれに抵抗せず素直に従い、翠から手を離すとそのまま舞台裏から立ち去って行ってしまった。





「…もうすぐなんですね」
 二人の後ろ姿を見届けたことで舞い降りた俺達の沈黙は、翠の呟きによって掻き消された。
 彼女はゆかりに握られた手をじっと見つめている。


 ゆかりのパフォーマンス終了から数分もたてば、舞台もいよいよ完成に近づいていく。

 舞台裏を通るスタッフの数も瞬く間に減っていき、あとはセッティングの微調整ぐらいなのだろう、恐らく表舞台では暗い中必死に位置を動かしているに違いない。


「ああ、もうすぐだ」
 隣に座るドレス姿の翠を一瞥すると、俺はぼんやりと仰ぎながら返した。



 ――本当にこの一年は色々あった。

 思えば、仕事一つ取るのにどれだけ心労が溜まったのだろうか、と不意に記憶が蘇る。
 ちひろさんから渡された営業先のリストを穴が空くほど見て、初夏の頃で暑くなり始めていた空の下、あちらこちらへと走り回っていたっけな。

 翠も同様で、女子高生からアイドルへ、そんな急転直下な怒涛の一年を思い出しているのかもしれない。


「でも、これが終わりじゃないからな」

 しかし、これはただのプロローグである。
 あくまで、翠がアイドルという物語の開幕にたどり着くまでの外伝に過ぎないのだ。

 一年を締めくくり、来年から始まるアイドル二年目において更なる飛躍を約束するためには、まずはこの序章を終わらせなければいけない。


 いつか来るであろう翠のアイドル人生の終わりは、まだまだ先なのだ。





 遠くを眺めていた翠は、俺の声を聞いてこちらを振り返る。

 俺がそう言うと予想していたのか、翠は驚きもせず、怒りもせず、ただ平凡に、素直に、純粋に、くすり、と笑った。


 そして彼女は言う。

「勿論です。…あなたが射た矢は、こんな所では止まりませんから」

 らしいな、と、俺もつられて笑ってしまった。



 ――司会者の声が会場に響き渡ると、案内のスタッフが翠を誘導する。


 そこに俺がついていくことはできない。
 ステージに行けば、彼女だけだからだ。

 スタッフの指示により立ち上がった翠は、ステージへ歩き出す前に踵を返してこちらを振り向いた。

 ここで交わすべき言葉は、弱音でも意気込みでも虚勢でもなければ約束でもない。

「…いってらっしゃい」
 下らない画策を講じはせず、ただいつものように俺は言った。


 これからも、ずっと続いていけるように。
 これからも、彼女の隣に居られるように。


 俺の素朴な言葉を聞いて彼女は嬉しそうに微笑み、返事をする。

「――いってきます!」


 空色のドレス姿で笑う彼女は、ずっと少女的で、それでいてアイドルそのものの顔であった。





  *


 明かりのないステージに一つ、ピアノの打音が流れ始める。
 同時に、ざわざわとしていた観客の声がピタリと止まった。


 闇の中で、演奏が広がりを見せていく。

 ピアノがベースを、ベースがドラムを、ドラムがシンセを誘導する、落ち着いた伴奏が、冬の夜空を彩り始めた。

 たった五つにも満たない少ない音源で、シンプルな音色を響かせている。


 相変わらずステージに照明は灯されていない。
 伴奏を聞く観客たちも、何事か、ステージの故障かと周囲を見渡し始めていた。


 それでも止まらずに伴奏は続く。
 まるで観客のことなど全く気にしていないかのように流れるピアノは、絶対的な孤独感を生み出していた。



 それが十数秒続いただろうか。

 伴奏が僅かな溜めを作ったその瞬間、突如ステージの照明が全て明かりを灯したのだ。


 …その映しだされた光景に、会場が一瞬どよめく。



 一体何があったのか、という感想を抱いたに違いない。

 それもそのはず、先程まで見え隠れしていたはずの鉄骨が見えた生命感のない舞台が、いきなり真新しい洋館へと様変わりしていたのだから。

 その中のスポットライトが、手を胸に抱いた翠を映す。
 黒き夜空の中で、空色のドレスが一際異彩を放つ。


 響く音色に乗せられて、アイドル・水野翠のパフォーマンスが始まった。





 ゆらり、ゆらり。
 一つの楽器が増えたかのような、伸びやかで、しっとりとしていながらも感情を持った強い声。

 ピアノやギターと手をつなぎ、一緒になって歌を紡ぐような、暗い夜の寂しい雰囲気を十二分に彩っていた。


 …俺自身、こんな彼女の声を聞いたのは初めてかもしれない。
 やはり雰囲気による補正がかかっているからなのだろうか、レッスン室やレコーディングスタジオで聞いた時よりも、遥かに感情が強く込められている。

 そう感じてしまうのは、遠くでゆっくりと舞う翠の表情を舞台裏からは見ることが出来ないのに、声だけで、彼女が何を思っているのかがありありと伝わってくるからだ。

 ロック・バラード特有の強く、寂しさを持った音階に合わせるように、翠はリリックをありのまま観客に手渡していく。


 ギターを抑えて、ピアノと鈍く響くベースが中心のAメロから、次第に音色が加速し始めるBメロに移る。
 悲しみがメインとなっていた感情が、新たな展開を迎えるためにスピードを増していく。


 前の雰囲気を残しつつ物語の主人公の気持ちが変わり始めたのを、観客は見逃してはいなかった。
 じっと佇んでメロディを聞くだけだった観客が、右に左に、体をゆっくりと揺らし始めたのだ。
 それはリズムの鼓動であり、ドラムの刻印、ベースの波であった。


 観客の心が、翠の歌によって乗せられた証拠だ。
 その歌に『乗る価値がある』と思わせたのである。





 前よりも早いテンポでBメロが進んで徐々に音調が上がっていくと、そのメロディも終わりを告げ、ついにサビが訪れる。

 ピアノの勢いが更に増し、それを支えるようにドラムや先程まで抑えられていたギターが途端に強くなる。


 サビは、流麗な劇場であった。

 ステージの照明やレーザーが舞台を未知の物に姿を変えさせ、宙に浮かぶ空色のグラデーションが、淋しげな洋館の部屋の中で流星群を導き出す。


 流れ、舞い、訴える。

 翠は仕立てあげられた現実の絵本の中に入りきり、絶えぬ歌を続けた。



 すると、ここで翠にとって思わぬ変化が起きる。



 ――暗かったはずの観客席から、ぼんやりとした青い色が突如出現したのだ。


 そしてぽつんと揺れていたそれらは、瞬く間に観客席を覆い尽くしたのである。






 …その正体は、青色に光るサイリウムだった。

 観客の手に持っていたサイリウムが、この時振られるようになったのだ。



 しかし、何故このタイミングで観客が振り始めたのか。

 俺はその理由を、考えるまでもなくはっきりと理解していた。



 ――計画。

 実は、このサイリウムが現れる現象は、俺の計画によるものであった。


 もう分かるとは思うが、合同フェス以前、リハーサル前の打ち合わせの時に、俺はこのステージをインパクトのあるものにしようと提案した。
 その時にこの計画についても運営の人に話しておいたのだ。

 そして合同フェス当日、予め運営側から許可をもらって、夜の部の入場ゲートに俺とちひろさん、そして会長とその偶然手伝ってくれる商店街の人が集まり、ゲートを通る入場者にサイリウムと応援のためのチラシを頒布したのである。

 そのチラシに記載したのはたったの一言で、『水野翠のパフォーマンスを楽しんで頂けましたら、その時はこのサイリウムを振って下さい』というものだった。
 余計な恩情は必要なく、ただ純粋に観客たちに判断を仰いだのである。



 計画とは、単純に言えば『翠の味方を増やす』という目的のために作られた。

 ゆかりの例があることを考慮すれば、見る者が敵対的であるかどうかというものは本人の精神的負担や恐怖に著しく影響を与えているのは間違いない。

 だとすれば、どちらに転ぶかわからず歌うよりも、はっきりと味方であると判別出来たほうが翠もやりやすいのではないか、という事である。

 ならば本人に伝えなかったのはどうしてかというと、もしこの計画が失敗、つまり誰も渡されたサイリウムを降らなかった場合、計画を知っていたら翠はそれを見て失意に陥る可能性があったからだ。

 振れば味方、振らなければ敵と考えるよりも、翠のために振ってくれていると捉えたほうがリスクが少ないのである。


 普通であればこんなことはまず起こり得ない。
 観客全員が同じ青色のサイリウムを持っている事などありえないからだ。

 そして、振られたサイリウムの色は全て青色。

 だからこそ、例え翠に伝えなくとも彼女ならその意図や意味を絶対に理解できるのである。


 舞台で舞う彼女は、その光景を見て一層動きを大胆に魅せていた。





 ――舞台裏の僅かな隙間から覗くことができる会場は、かつてない程に異質な雰囲気を醸し出していた。

 そこはかとない一体感、ブレることのない全体感が俺の心を貫いていく。



 冬の闇夜に、綺麗な青が形を作る。

 それは翠の纏うドレスに凪がれるように右へ揺れ、天高く振り上げた手に集うように左に揺れ。


 歌声に乗せて、会場の一面を彩っていく。



 それは、まるで風に凪ぐ光の絨毯。

 彼女によって編み出された――翠色の絨毯であった。





「ああ……ああ……!」
 その光景を眺めていると、捉え用のない莫大な感情が溢れ、声が漏れ出る。

 俺の心に波打った感動が、涙となって世に顕現したのだ。
 ぼやけ始める視界が、より一層彼女の歌を心に取り込み始めていった。


 その声に意味は無い。意味を持てない。


 どう表現すればいい?

 ただの女子高生で、強くあろうとしても自信が持てず、元気の裏に莫大な不安を纏わせていた少女が、今、確実にアイドルに変身しているのだ。

 幾度と無くすれ違って、互いに果てしなく悲しみ、それでも一緒に前に進んできた人生がこの景色となって映しだされている。



 尽きず溢れ出る感情を抑えられないまま、やがて俺は激しく揺さぶられる無意識が一つの確信となって心に宿った。


 ……間違いなく彼女は観客を魅了している、と!




 未知の世界を観客達に知らしめる一番が終わり、また静かにピアノが静寂を抑えると、翠は集中を途切れせること無く二番を歌い始める。

 一番と似たようなリズム展開にも関わらず、観客が振る青の毛糸はほどけない。


 もう心配はない。
 もう不安はない。


「…君が主役だ」


 そう呟く俺の瞳は、翠色の絨毯で彩られた会場をただ無心に心へ焼き写していた。





  *


「ふう……いくら部活で慣れているとはいえ、東京でのこの時期は冷えますね」
「はい、お茶どうぞ。体を温めてね」
 ソファに座る翠にちひろさんが温かいお茶を渡すと、彼女は心底嬉しそうな表情をして飲み始めた。

 既に数時間、この部屋の暖房で暖められた俺達とは違うのだからそんな顔をするのも無理はない、と残りの冷茶を胃に流しみながら俺は彼女達を眺めていた。



 ――もう今年も終わりという頃。

 まだまだ弱小事務所の所属である俺達に仕事納めという概念が無いのだと知り若干の絶望感に心を苛まれながらも、相変わらずパソコンの液晶やスケジュール帳と睨めっこをする今日。

 いつも通りの仕事をする俺達と同様に、翠も――盛大な歓声に見送られたのが昨日であったにも関わらず――いつも通りに事務所に現れたのだ。


 微かに予想していたとはいえ、そんな調子で大丈夫なのか、と心配にも思ってしまうが、彼女はちひろさんと何気ない会話をして楽しんでいるようであった。





 …あの日。
 次第に音源が消失し始め、再び孤独になったピアノの音がついに姿を消した時、観客席からは期待以上の歓声が巻き起こった。


 成功したのだ。
 翠は、合同フェスにふさわしい人物であれたのである。


 その声援を背に受けながら再び舞台裏に戻ってきた翠の姿を俺が見た時には、彼女は目一杯に涙を溜め込んでいた。

 自身の歌に流されたのか、それとも無事終わったことに感極まったのかは分からないが、舞台裏でただ感動していた俺を見つけるやいなや胸に飛び込んで来たのだ。


 その時、微かにデジャヴを感じた。

 ……確か学園祭の時だったか。
 ライブが終ってテンションが上った翠は、普段ならありえないだろうに俺に抱きついてきたのだ。
 あれはきっと、嬉しさの形だろう。


 しかし、今の翠は俺の胸元で小さく声を上げて泣いた。

 メイクが崩れるだろうに、そんなことは一つも気にしないで、ただ嗚咽を漏らしながら俺の鼓動を聞いていたのである。

 翠がアイドルから少女にふと戻った…魔法が解けた瞬間だ。
 薄く綺麗な仮面を剥がして現れた彼女の表情は、ただの少女であった。


 そんな翠の素顔を見て俺は、おかえり、と一つ言い、彼女の開いた背中に手を回して翠を抱くと、心が落ち着くまでそっと彼女の頭を撫でた。

 これもきっと、嬉しさの形なのだろう。

 その涙は、悪い物ではない。
 それだけははっきりとわかっていたので、余計なことはせずその時間をただ過ごしていた。





 それからはというものの、まるで休む暇が無かった。

 合同フェスの日と同時に発売した翠のデビュー・シングルは当日こそ売上は伸びなかったものの、翌朝のニュースや新聞の芸能記事で合同フェスの事が取り上げられると、瞬く間にCDが売れていき、期待薄で入荷数を少なくしていた都内の一部店舗では売り切れの貼り紙を出さなければならなかった程だ。

 問い合わせも、勝手に休業しているにも関わらず昨日は俺の携帯に、そして翌日である今日には事務所の電話にも一時絶え間なく着信していた。


 おかげで来年の始めですら予定は埋まり、一ヶ月先までは合同フェスに関する話題で翠も引っ張りだことなっている。
 無論三が日くらいは愛知に帰らせて家族の時間を取らせつつ、一方で愛知の仕事をさせるつもりではいるが、それも束の間で、終わればすぐに東京での仕事が待っている。

 それ程に、新人があの場に立つということが異様であるということと、観客の心を掴む事が難しいのだ。

 そう考えると、翠の出した結果による影響は十分に納得できるものであった。


「今日の仕事は…テレビ局でゲストでしたね」
 僅かながらに暖まったであろう翠は、小さな鞄の中から落ち着いた色のスケジュール帳を取り出すと、今日の日程の欄を指でなぞり、俺に確認する。

 これも急遽決まった物で、朝のワイドショーにてゲストとして生出演が決まったのだ。
 本来であればオフであったろうに、無残にも俺のスケジュール帳に新し目の黒いインクでその事が記されている。
 翠の疲労を考慮して予定を決めあぐねていたが、彼女の了解により入れることにしたのだ。


「時間はまだ余裕があるけど…送ろうか?」
 つい先程届いたメールをマウスクリックで返信ボタンを押した所で、パソコンをデスクトップ画面に変えてから翠に訊ねる。

 今日の予定であるテレビ局は距離的にはそう遠くはないが、俺もかつてない忙しさからの現実逃避がてら送るのも悪くないと考えていた。

 しかし、彼女は俺の心を見抜いていたようで、いいえ、と一つ答えて続ける。
「一人でも大丈夫ですよ。それに、一緒に休憩したいですから」


 ……残念ながら、俺の休憩は随分先になりそうだ。





「元気ですね、翠ちゃん」
 がちゃん、と相変わらず歪な音をあげて閉まるドアを眺めながら、ちひろさんはトレイを胸に抱きながら微笑んだ。


 翠はこの件で自信がついたのか、近場であれば一人で仕事先に行くと言い始めた。

 当然ではあるが、気象条件が悪かったり遠かったりなどは絶対に俺が送るようにしているし、そうでなくともアイドルが一人街中をうろつくのはあまりよろしくないので、これからも俺が積極的に送迎するつもりである。

 しかしそれでも一人で行くと言ったのは、それがあんまりわかっていないのか、独り立ちしたいお年頃なのか。

「逆にこっちはしおれていくばかりですけどね」
 仕事と聞けばどことなく力が体から漏洩する程だ。

「ほら、大晦日はお休みなんですから頑張りましょうよ」
 ひとまず連絡を頂いた営業先を今年中に全部回ってから、ようやく俺達の仕事納めがやってくるのである。

「はあ……頑張ります。それじゃ、俺も営業行ってきますね」
 ふと壁掛け時計を見れば、動くべき時間に差し迫ろうかという頃になっていた。

 俺はパソコンに起動しているプログラムを全て終了させると、印刷した資料を整理して鞄に詰め込む。

「はい、車のキーです。いってらっしゃい」
「いってきます。帰りは翠と一緒に戻ってきますね」

 別の場所に保管されている車のキーをちひろさんから受け取ると、汚れの目立ち始めるコートを羽織って事務所を出た。


 ここは俺の家ではないのに、こんな人として当たり前の挨拶をする事がどことなく楽しいように思える。




  *


「はあ…寒い、寒い」
 外気に晒したままの素手をこすりながら階段を降りて地上に立つと、裏に回って決められた駐車スペースに行く。


 そこには見慣れた車があった。
 もはや運転し慣れた古臭く性能の低いかつての白さを失った社用車だ。

 雪こそまだ降っていないものの、外は現代人には耐え難い寒さがたむろっていた。
 乾燥した冷気が肌を撫でる度、体が無意識に振動する。

 これを風情と呼ぶべきか不便と呼ぶべきか、そんなくだらない事を考えながらキーをさし、そのまま車に乗り込んだ。


 車内も当然ながら気温が低く、エンジンをかけるとすぐにエアコンを最強にする。

 とにかく営業に回っている内に車を暖めて、昼ごろ乗り込んでくるであろう翠が寒さに震えないようにしないと。
 この時期に風邪を引いてしまったらかなりの損失だし、俺も悲しいからな。

 それに大仕事を終えてもオフを取らないで平常運行となればまた体調を崩す可能性だってある。
 場を改めての打ち上げもまだ行なっていないのだから、今日か明日にでも時間をとろうか。


 車のエンジンが始動すると共に車内に鳴り響く音質の悪いラジオからは、昨日開催された合同フェスについての話題が取り上げられている。

 もしかしたら翠の事も聞けるかもしれない、と期待しつつ、ブレーキペダルに足を置いた。


「営業先は…と、このルートだな」
 今日の予定先を古臭い車に似合わないカーナビに入力して選択する。
 余裕を持って移動しても、このぐらいの件数なら十分な時間を確保できるはずだ。


 そして何より、目的地を巡っていればその内暖かくもなるだろう。





 シートベルトをしめていると、ふと翠の声が頭に響き渡った。


 ――おはようございます。お疲れ様です。


 いつも聞く言葉であり、慣れ親しんだ言葉だ。



「……よし、頑張るか」


 願わくば、俺はいつまでもその言葉を聞いていたい。

 そんな小さな繋がりを、そんな当たり前の日々をこれからも続けるために、俺は今日も営業を始めたのであった。




 ――了



書き足りない事もあるような気がするけどとりあえず完結したんでくぅ疲。


初めはステマしたくて書いていたのにいつのまにか自分がもっと翠を好きになっているという事実。



仕方ないね。


こんな素人の長文を追ってくださった方々、本当に有難うございました。
願わくば翠を好きにならんことを。
>>641
そう言っていただけると幸いです。



ついでに置き土産をいくつか。

ttp://uploda.cc/img/img51f28440bef9b.jpg
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ttp://uploda.cc/img/img51f2845c24d7c.jpg

書き溜め中にステマしたくなって作ったコラ。
正直ステマするならこっちの方が早かったというオチ。


あと前回言っていたミスについて。
作中で18歳の誕生日を迎えていますが、それ以前での翠の描写に「齢十八」という単語を用いてしまっています。
そこはかとない矛盾です、申し訳ありませんでした。


最後にニッコリ
ttp://uploda.cc/img/img51f286931bad9.jpg

>>642
恒常追加でお財布にやさしい。
是非ともお迎えしてあげて下さい。


というか名前でちってた。でもいいか。
よろしければいつでも会いに来て下さいませませ。。
ttp://uploda.cc/img/img51f28863a3fb8.jpg

最後の貼り直し。連投申し訳ないです

17:30│モバマス 
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