2015年02月02日

藤原肇「大事なのは、焦らない事です」


 「もう静岡か」



他愛も無いお喋りをしているだけで、時間は飛ぶように過ぎていって。

先ほど東京駅を発ったと思えば、もう静岡にまで差し掛かっていました。





 「楽しい時間ほど、過ぎるのが早いと聞いています。相対……えっと」



 「相対性理論。薬缶と恋人の例えで有名だな」



迷っている間にPさんが答えてしまいました。

でも、そこまで知っているのであれば。

この二人の旅行も、私がそれを口にしようとした意味も、察してもらいたいものです。



 「すっかり旧式とはいえ、流石に新幹線は早いな」





――せっかくですし、のんびり向かいましょう。





最新の新幹線で行けば、ほぼ半分の時間で着いてしまいます。

ですが今回はお仕事ではなく、夏休みの旅行。

急ぐ旅でもありませんし、こちらの席を取る事にしました。

予想した通り、空席の目立つこの時間帯の車内は落ち着いています。



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 「そろそろ昼にしようか」



 「ええ」



Pさんが袋から取り出したお弁当を手渡してくれます。

四角い弁当箱の端からは、何故か一本の紐が伸びていました。



 「これは……」



 「ん、初めて見るのか? 強めに引っ張ってみろ」



 「はい」



言われた通りに引っ張ると、ぷつりと紐が外れました。

一呼吸置いて、しゅうしゅうという音が聞こえ、端から湯気が漏れ出てきました



 「わっ。加熱用の仕組みだったんですね」



 「ああ。一人の時に食べようとすると少し恥ずかしいけどな」



 「石灰と水……でしょうか」



 「正解だ。化学反応で起こる熱を利用してる」



注意書きの通り、窓の下から起こした卓へ置いてしばらく待ちます。

稲荷寿司を頬張りながら、Pさんが思い出したように言いました。



 「反応式、答えられるか」



 「ええと、H2Oと……あれ、そういえば石灰って何なんでしょうか」



 「酸化カルシウムの別名だ」



化学の抜き打ち試験に、生来のんびり屋の頭を懸命に働かせます。

生成物は水酸化カルシウムになるでしょうから、うーん……。



ようやく正解を導き出した頃には、お弁当もすっかり温まっていました。

相対性理論って、便利ですね。



 「Pさんって、理系だったんですか?」



温かい山菜おこわを頂きながらPさんに訊ねます。

以前話を訊いた時は体育会系だ、と頭を掻いていましたが。



 「ああ。大学では……何と言うか、電子系と化学系の中間みたいな分野を専攻してた」



 「どんな研究をなさっていたんでしょう」



 「超伝導、と言えば伝わるか」



 「キンキンに冷やすと磁石が浮く、といった感じでしたか」



 「概ね間違ってはないな。俺は超伝導体の物性を研究していた」



 「うーん……文系の私には少々難しいお話ですね」



学校の成績に関しては、特別秀でている訳でも、特に劣っている訳でもありません。

ただ、化学さんや数学さんとはどうにも折り合いが悪く……古文さんなどと仲良くさせて頂いています。

アイドルと同じように、みんなの人気者を目指すべきなのでしょう。

この道もなかなか険しいものです。



 「分かりやすい所で言えば、リニアモーターカーだな」



 「それなら聞き覚えがあります」



 「俺が生きている内はともかく、肇ならまず乗れると思う」



 「きっと大丈夫ですよ。開業したら、また一緒に乗りに行きましょう」



何年後なのか、何十年後なのかは分かりません。

でも、いつかまたPさんといっしょにこうして旅行できたら、それはそれは素敵な事だと思います。



 「肇。富士山が見えてきたぞ」



見覚えのある橋を渡り始めると、富士山の姿が綺麗に見渡せるようになりました。



 「登った事があるんでしたよね」



 「ああ。講義をサボってな」



 「登山部だったんですか?」



 「いや。個人でたまに登っていたんだ」



 「そこに山があるから、ですか?」



背丈に負けないぐらいがっしりとした体つきは、登山で鍛えられたものなのでしょう。

近くでPさんの背中を見つめていると、何だか山のように見えた事もありました。



 「英文やら化学式を見ていると、たまにどうしようもなく何も無い景色を見たくなってな」



Pさんが目を細めて、太陽に照らされる富士山を眺めます。



 「学会前に論文を抱えたまま登った山は最悪だったよ」



 「ふふっ」



最後の一つを口へ放り込んで、弁当箱を片付け始めます。

今度、登山へ連れて行ってもらうのも良いかもしれません。



 「なぁ、肇」



 「はい」



 「他の人を誘わなくても良かったのか。楓さんとか、アナスタシアさんとか」



私の地元は星がよく見えますから、アーニャさんや泰葉さんにも声を掛けました。

声を掛けたのですが……







 『――ズヴェズダ、ですか? はい、見てみた……ンン? アー、ごめんです。その日は予定がありました』





 『――へぇ、綺麗に見えそうだね……えっ、あ、一緒に? えーと、そういえば用事があったんだった』





 『――あら。肇ちゃんのお誘いなら是非……えっ? そうなの。ごめんね、実は用があるのよう……ふふっ』







 「Pさんが引率について来てくれると言うと、何故だか皆さん突然用事を思い出して……」



でも、何故だか皆さん楽しげに笑っていて。

お土産を宜しくね、とたくさん頼まれてしまいました。



 「……俺はもしかすると、嫌われているのかな」



 「いえ、そんな事は」



 「肇も、無理はしなくていいからな」



 「きっ、嫌いな人を実家に招いたりしませんっ!」



Pさんの言葉に、焦ったように声を荒げてしまいました。

驚いたようなPさんの顔を見て初めて、自分が立ち上がっていた事に気が付きました。

口を開いて、けれど言葉は出てこなくて。

ゆっくりと椅子へ座り直します。



 「Pさんの事、ぜったいに嫌ったりしませんから」



 「……そうか。ありがとうな、肇」



消えそうな声で呟いた言葉に、Pさんがしっかり返事をしてくれて。

それをどうしようもなく、私は嬉しく感じてしまいます。



そうしてしばらくの間、私達は無言のまま車窓の外を眺めていました。

けれどその無言は、決して居心地の悪いものではなくて。

いつの間にか到着まで眠ってしまっていたくらい、心地の良い空間でした。







……ちょっと、もったいなかったな。





― = ― ≡ ― = ―



 「初めて会ったが、肇のご両親、にこやかで優しそうだったな」



 「ええ。今日はいつにも増して。ふふ、Pさんが一緒だったから、でしょうか?」



 「さぁ、な」



去年は寝込んだままのおじいちゃんへ挨拶しただけでした。

改めてPさんが両親へ挨拶をすると、いつもよりいっそうにこにこと笑って。



……その後はお決まりの、報告と言う名の私の私生活暴露会です。

何故大人というのはひとたび集まると、本人を前にして赤裸々な思い出語りをするのでしょうか。

PさんもPさんです。

この前のライブはここが良かっただの、映画ではあの演技が素晴らしかっただの。

私のお仕事を嬉しそうに話す度、両親も嬉しそうに話をせがんで……。



 「……はぁ」



 「長かったしな。移動で疲れたか」



 「いえ。疲れたのはついさっきです」



 「……?」



大人になるのって、とても難しい事なのかもしれません。



 「そういえば、お爺さんは何処に?」



 「この時間はおじいちゃんの工房に籠っています。私も父も入れません」



 「……職人、か」



 「両親が優しいのは、おじいちゃんの影響もあると思います」



おじいちゃんが厳しい分、両親は甘過ぎるくらいに優しくて。

私も将来職人を継ぐとすれば、まだ見ぬ子供には厳しく接するべきなのかもしれません。



 「親御さんが優しいのは、肇がとても良い娘だっていうのもあるだろう」



 「そうでしょうか」



 「ああ。俺も肇みたいな子供がいたら溺愛してるかもしれない」



 「…………」



 「どうした」



 「何でもありません」



 「何だか少し怒ってないか」



 「怒ってなんていません」



……子供、ですか。

子供にも女心があるという事を、この人は未だに理解してくれていないようです。



 「Pさんは、空でも見ていれば良いんです」



 「やっぱり怒ってるじゃあ……空?」



少し遅い夏休み。

秋の足音が聞こえ始めた岡山の空は、盛夏の頃より随分日差しも和らいでいます。



 「……良い天気だな」



 「そうですね」



男心と秋の空、と昔は言ったそうです。

今はそれを信じる気分ではありませんけどね。

― = ― ≡ ― = ―



 「では肇先生、お願いします」



 「うむ……とでも答えるべきなんでしょうか」



いつもの作務衣に袖を通して、私達はおじいちゃんとは別の工房に居ました。

合うサイズが無かったため、Pさんはネクタイを外してワイシャツの袖を捲っただけですが。

……ちゃんと私服、持って来てるんでしょうか?



 「蹴ろくろは少々難しいので、今回は電動式の物を使います」



 「ケロクロ?」



 「足踏みで回すろくろです。おじいちゃんやお父さんはこれを使っていますね」



お互い向かい合うように座り、それぞれのろくろへ粘土を載せます。

幾らか手で慣らしてから、回転のスイッチを入れました。



 「手捻りよりは少しだけ難しいです。大事なのは、焦らない事です」



 「全くの未経験でも平気なのか」



 「いきなり複雑な形の作陶は厳しいですから、茶碗か湯呑を作ってみましょう」



 「どちらがオススメかな」



 「そうですね…………茶碗、が良いかもしれません」



 「よし」



ほんの少しだけ下心が顔を出して。

けれどPさんには気付かれなかったようで、ほっと胸を撫で下ろしました。



 「まずは指を水に濡らして、土を撫でてみましょう」



回転数を抑えめに固定して土が逃げないよう調整します。

力がある分、Pさんならこの速度でも問題無いでしょう。



 「思ったより、固いな」



 「Pさんも土もまだ慣れていませんから。すぐ気にならなくなりますよ」



しばらく土を捏ね回していると、Pさんも慣れてきたようでした。

参考にしてもらおうと、両手で土を可能な限り上へのばしたり、ぐっとそれを縮めたりします。

優しく、力を入れ過ぎずにそっと添えるように。

それを繰り返していると、いつの間にかこちらを見ているPさんの手が止まっていました。



 「…………」



 「Pさん?」



 「あ、いや何でも無い。何でも無いんだ、本当に」



何故だか少し焦ったような様子で、Pさんが作業を再開します。



 「あ」



当然ながら、土の形はぐにゃりと乱れて。



 「Pさん、大事なのは焦らない事、ですよ」



 「……そうだったな」



深呼吸を一つして、Pさんが再び土を捏ね始めます。

……先ほど、頬が僅かに赤く見えたのは気のせいだったのでしょうか。

― = ― ≡ ― = ―



 「底は整えなくてもいいのか」



 「高台は後からでも付けられますので大丈夫です」



凛さん用の花瓶を捏ね終える頃には、Pさんの茶碗も形が見え始めていました。

やはり誰もがそうであるように、底の方が厚く、上るにつれて薄くなってしまっています。



 「難しいな。厚みを整えようとすると」



 「少し、力が入り過ぎですね。こうして力に逆らわないようにするとやり易いですよ」



Pさんが捏ねている茶碗にそっと両手を添えます。

土と水とで少し冷たくなったPさんの指先が、私の指先に触れました。





 「……あ」





 「あっ」





思わずぴくりと指先が跳ねて。

茶碗になりかけていた土が、ぐにゃりと歪んでしまいました。



 「す、すみませんっ」



Pさんに頭を下げます。

せっかく頑張って作っていたのに、私のせいで台無しにしてしまいました。



 「いや、気にしないでくれ」



 「でも」



 「肇だって言っていたじゃないか」



 「え?」



 「大事なのは、焦らない事。だろう?」



Pさんに言われて、思わず頬が熱くなりました。

自分の行った事を忘れてしまうなんて、先生失格ですね。



 「ええ、その通りです。もう一度、やり直しましょう」



 「ちょっとコツを掴めたからな。もっと上手く出来そうな気がするよ」



 「なら、もう少し応用的なやり方をお教えしますね」



何度でもやり直せるのが、陶芸の良い所です。

Pさんにもこの面白さが伝われば良いなと、土を捏ね直しながら考えていました。

― = ― ≡ ― = ―



 「……出来た」



 「お疲れ様でした。見事な物ですよ」



 「先生のお陰だな」



 「ふふ、お世辞の上手い生徒さんですね」



新たに捏ね直して完成させたPさんの茶碗は、贔屓目を抜きにしても良く出来ていました。

言われなければ普段使いにしても分からないでしょう。

少々大きい気もしますが、Pさんの体格であればこれ位でちょうどいいかもしれません。



 「次はどうすればいいんだ」



 「乾燥と焼きには数日掛かりますから、後ほど完成品を纏めて郵送しますね」



 「という事は、これでおしまいか」



 「そうですね、仕上げはおじいちゃんのお弟子さん達に任せる事になります」



 「俺なんかの物に時間を取らせていいのか?」



 「言葉は悪いですが、人から預かった作品は良い練習になりますから」



よそ様から預かったものを、最大限活かせるように丁寧に仕上げる。

考えようによっては、アイドルのプロデュースに似ているのかもしれませんね、なんて。



 「模様はどうしますか?」



 「付けてもらえるのか」



 「ある程度であれば描いてもらえますよ」



 「どうするかな」



Pさんが捏ね終えたばかりの茶碗をしげしげと眺めて考え込みます。



 「茶碗の柄というと、花とかが多いよな」



 「はい。花鳥風月は典型的な図案ですね」



 「そうか」



しばらくの間目を閉じて、一つ頷くと膝を叩きました。



 「桜がいいな、夜桜が」



 「夜桜……ですか?」



 「ああ。米がいっそう白く見えるくらいの、薄墨色の桜がいい」



 「花より団子、ですか? ふふっ」



確かに、桃色の可愛らしい柄よりは夜桜の方がPさんに合っているような気もします。

綺麗な墨色を出すのはなかなか難しいのですが、お弟子さんには何とか頑張ってもらえるでしょうか。



 「では、そろそろお夕飯でしょうから先に上がっていてください」



 「良いのか? 悪いな、肇」



 「私は後片付けがありますので、後ほど向かいますね」



 「分かった。陶芸も、やってみると楽しかったよ」



 「そう言って頂けるのは嬉しいです、とても」



軽く会釈をして工房を出るPさんに軽く手を振って返します。

戸が静かに閉まって、それからやや大き目の足音が遠くへ去って行きます。



 「…………よしっ」



それが聞こえなくなったのを確認して。

頭巾をきゅっと締め直し、袖を捲り上げます。



 「急いで、でも焦らずに……!」



新たな粘土をろくろに載せて、手早く形を整えます。

茶碗の一つくらいなら、夕飯前に仕上げるのは朝飯前です。

……なんて。





 「ふふ……っと、危ない、あぶない」





どうやら私も、楓さんに影響されてしまっているようでした。



― = ― ≡ ― = ―



 「釣り日和と言っていい日かな」



 「ええ、絶好の釣り日和です」



一夜明けた岡山は、涼やかな風が吹いていました。

ですがまだ本格的な秋と言うには遠く、日差しは昨日よりもやや強めです。

母に被せられた鍔広の帽子が私の胸まで濃い影を落としています。

Pさんの顔が見えにくいのは玉に瑕ですが。



 「方向からすると、前回の場所とは違うんだな」



 「ええ、前回は初夏でしたから。この季節はもう少し下流の方がよく釣れるんです」



 「釣りも素人なもんでな。宜しく頼む、肇先生」



 「頼まれましょう」



竿を揺らして、二人で山道をのんびりと歩きます。

午前の内からヒグラシが忙しそうに鳴いていて、あぁ故郷に帰ってきたのかと実感していました。



 「着きました」



 「ここか。紅葉には、まだ早かったかな」



 「来年は、もう少し後に来てみますか?」



 「ああ、今度こそみんなで紅葉狩りでもするといい」



 「ふふ、鬼さんが笑っちゃうかもしれませんね」



何処か遠くで、くしゃみの音が聞こえた気がしました。



 「今日は、ルアーフィッシングに挑戦してみましょう」



テグスにルアーを括り付けて、ぴんと川へ放ります。

Pさんも何とかルアーを括り付けて、川に放り込むのに成功しました。



 「ルアーというと、やはり掛かりにくいのか」



 「そうですね、生き餌より少し難しいと言われています」



 「釣れたら御の字って所だな」



 「難しい分、釣れた時の感慨もひとしおですよ」



もっとも、今日ルアーを選んだのはそれだけが理由ではありませんが。

餌の付け替えなどもない分、釣りの醍醐味を。

川のせせらぎを聴きながらのお喋りを、もっとゆっくり楽しめますから。

Pさんには内緒ですけれどね。



 「イワナが釣れる事もあるんです、ここ」



 「渓流の王様、だったか。もう少し上流に居るものだと思ってたが」



 「はい。ですが、たまにここまで下りてくる事もあるんですよ」



 「ビギナーズラックに期待しておこう」



 「運も実力の内、です」



二人並んで、布を敷いた岩に腰掛けます。

森の葉擦れと、川のせせらぎと、ヒグラシの鳴き声と。

遥か遠くの、微かな風鈴の音色が耳に届きました。



 「釣りは、虫との戦いです」



 「春なんかは大変だな」



 「夏は夏で、蚊が大変ですしね」



 「スプレーにも限界はあるからな」



 「ですから、この季節は良いんですよ」



空に目を向ければ、赤や銀のトンボがふわふわと浮いていて。

私より一段と高いPさんの頭にも一匹、留まっていました。



 「……肇?」



 「どうしました?」



 「俺はトンボじゃないぞ」



Pさんに向けて、くるくると指を回して。



 「ええ、真面目なプロデューサーさんですよね」



Pさんが目を回すには、私の魅力はまだまだ足りないようです。

― = ― ≡ ― = ―



 「逃したイワナは大きかったな」



 「ええ。とても抱えきれないくらいの大きさでした」



気付けば、辺りは夕焼けに燃えていて。

そろそろ帰るのにちょうどいい時間でした。

Pさんも、遠くに落ちる夕陽を眩しそうに見つめて。





寂しい、と。

そう思う事も、あるのでしょうか。





 「夕焼け小焼けの、赤とんぼ――」





何年ぶりでしょう。

ひょっとすると、小学校で習って以来かもしれません。





 「負われて見たのは、何時の日か」





私の声に合わせるように、Pさんが口笛を吹いて。





 「――留まっているよ、竿の先」





夕暮れの河原に、童謡が響き渡りました。





 「良い歌だった、肇」



 「ふふ、Pさんの口笛もお上手でしたよ」



 「鷹富士さんに習ったんだ。曲の打ち合わせなんかでも使えるからな」



私の曲を口笛で吹いて。

Pさんが可愛らしく口笛を吹くのは、何だか不思議と様になっていました。



 「改めて聴くと、いかにも昔の唱歌だな」



 「ええ。十五で嫁に、なんて、ちょっと想像出来ません」



 「肇は十六でアイドルになったけどな」



 「あれから二年。私も十八になりました」



 「ああ。あの頃に増して、肇は綺麗になった」



Pさんは時々こんな風に、照れるそぶりも見せずに私を褒め殺そうとします。

全くもって困ったプロデューサーさんです。

でも、そんな台詞を聞いて満更でもない私も。全くもって困ったアイドルなのかもしれません。

心の中で、私の顔をもっと照らしてくれるよう夕焼けにお願いしました。



 「十八と言えば、結婚出来ない歳でもありませんけど、ね」



 「まぁ、そうかもな」





私の顔が、夕焼けに紛れていますように。





 「Pさん」





岩に挟んだ釣り竿の先に、トンボが一匹留まっていました。

あの歌詞は確か、畑に差した竿を指していた筈ですが。

風流を解するトンボさんも居るんですね。





 「私、大好きです。Pさんとこうして過ごす時間が」





 「ああ、俺も肇とこうしている時間は気に入ってる」





あの時のように、一歩踏み出す勇気を。







 「大好きなのは、それだけじゃなくて――」











――ちゃぷっ。







水音と同時に、釣り竿の先がしなりました。

先に留まっていたトンボが驚いたように飛び立って、初秋の空へ消えていきます。



 「最後の当たりかな」



 「…………そうですね。絶対、釣り上げてみせます」



 「いつになくやる気だな、肇」



 「ええ」



風流を解さない魚さんに、負けるわけにはいきません。

女の意地を掛けた真剣勝負です。





 「逃した魚が、大きかったものですから」





それはもう、これ以上無いくらいに。





 「焦らないようにな、肇」



 「はい」







大事なのは、焦らない事。







私自身に言い聞かせるように、心の中で何度も唱えるしかありませんでした。



― = ― ≡ ― = ―



お風呂から上がると、廊下の先に二人の姿が見えました。

おじいちゃんとPさんが並んで濡れ縁に寝転んでいます。

間には、酒瓶とぐい飲みが置いてありました。



 「……ええと」



どうしたものかと思い悩んでいると、父さんが居間から顔を出しました。

二人を見ると、しょうがないなとばかりに苦笑して。

肩を支えておじいちゃんを寝室へと連れて行きました。



 「Pさん」



広い肩を軽く揺すります。

辺りにはお酒の匂いが漂っていました。



 「お体に障りますよ」



 「もう触ってるじゃないか、肇」



Pさんが身体を起こして頭を掻きます。



 「俺の冗談も、少しは上達したか」



 「それも楓さんに習っているんですか?」



 「習うというか、あの人がよく絡んで来てな……冗談も、酒も」



Pさんもまた、しょうがないなとばかりに息をついて。

私には出来ない大人のコミュニケーションに、少しだけ胸の奥がちりりと熱くなりました。



Pさんの隣にあったぐい呑みを拾い上げます。



 「お酒って、美味しいんでしょうか」



 「さぁ、俺にもまだよく分からない。ただ」



 「ただ?」



 「一人酒を悪く言うつもりも無いが、酒の味は隣に居る誰かに左右されると思う」



 「隣に……」



 「肇のお爺さんは、旨い酒の飲み方を知っているようだった」



ぐい呑みの底にはまだ少しだけお酒が残っていて。

顔へ近付けると、吟醸酒の香りが鼻をくすぐりました。

少しきつい、けれど大人の匂い。



 「飲むなよ、肇」



 「ええ。もう二年、我慢しておきます」



ここで残ったお酒をぐいと飲んでしまったら、Pさんはどんな反応をするのでしょうか。

大人に成りきれない私の心が、そんな無邪気な考えを覗かせました。



 「この二年を思うと、すぐとは言えませんね」



 「そうだな。まぁ、その時はとびっきりの酒を奢ってやるさ」



 「幸い下戸ではないようですので、楽しみにしておきますね」



 「期待を裏切らないようにしないとな」



 「そこは心配していませんよ?」



 「そうか?」



 「はい。ふふっ」





その時も、Pさんが私の隣に居てくれるというだけで。





 「きっと、格別な味に違いありませんから」





陶製の風鈴が、秋の夜風にちりりと音を奏でました。



― = ― ≡ ― = ―



 「おはようございます」



 「おはよ、肇。ちょうどいい所に来たね」



夜風に乗る虫の音が賑やかになってきた頃。

事務所へ顔を出すと、アーニャさんと凛さんが幾つかの箱を並べているところでした。



 「もう届いたんですね。凛さんとアーニャさんのもちゃんとありますよ」



 「ああ、じゃあこれがこの前里帰りの時に作ったって言う?」



 「はい。今度お二人も紅葉狩りに誘いますね」



 「……ダー。ありがとう、です」



 「……ま、考えとくよ」



ボール箱を開けて緩衝材を退けると、紙に包まれた陶器が見えました。

ペンで書かれた文字を確認して包みを解きます。



 「これは凛さんの花瓶ですね、どうぞ」



 「ありがとう……あれ、青みがかってる?」



 「はい。青が好きだと聞いていましたので。変わった釉薬を使ってみたそうです」



 「へぇ。何か、使うのが勿体無いくらいだね」



 「花を挿してあげないと拗ねちゃいますよ?」



 「それは困るかな」



おじいちゃんの作品はともかく、私が作った物にはそこまでの金額は付きませんが。

仕上げは本職の方がやってくれたお陰で、普段使いには全く差し支え無いと保障しましょう。



 「こっちはアーニャさんですね」



 「開けてみて、いいですか?」



 「どうぞ」



わくわくした様子で包みを解かれると、こちらまで何だか嬉しくなってしまいます。

小さな箱から出て来たのは、女性用に軽く作った湯呑でした。



 「イリューシン……きれい、です」



 「そちらの釉薬は薄めの物を使って、雪解け水の意匠を凝らしてあります」



 「お茶、冷めないでしょうか?」



 「ふふ、心配ありませんよ。早速淹れてみましょうか」



 「ならお湯湧かしてくるよ」



まだ残っていたお土産のきびだんごをお茶菓子に、話に花を咲かせます。

アーニャさんに桃太郎のお話をしていると、会議室からPさんが出て来ました。



 「おはよう。来てたのか、肇」



 「おはようございます。Pさんの茶碗も届いていますよ」



 「ああ、この前のか。さてどんな出来になっているかな」



よく見ると、ほんの少しだけわくわくしているような表情で。

Pさんが包みを剥がすと、少々大きめの、夜桜をあしらった茶碗が姿を見せました。

流石はおじいちゃんのお弟子さん達です。



 「へー、渋いね。自分で作ったの?」



 「ええ。そこに居る肇先生に教わって」



 「肇、センセイですか?」



 「ふふ、今度アーニャさんもやってみますか?」



 「……ん? こっちは作った覚えが無いが……間違いか?」



そんな話をしていると、Pさんが首を傾げて。

間違えて他の物も一緒に送ってしまったのでしょうか。

包み紙の中から現れたのは、Pさんのものより一回り小さい、桜のあしらわれた――



 「……っ!?」



 「へぇ、二つも作ったんだ」



 「いえ、俺が作ったのは一つだけなんですが」



もう一つの、とても見覚えのある茶碗には。

やたらと気合いの入った、満開の桜模様が描かれていました。

慌てて視線だけを改めて巡らせてみれば、私宛の箱はありません。

まさか、まさか。



 「……すみませんPさん、どうやら他の物が紛れ込んで、」



 「ああ、手紙も入ってるな。肇の親御さんからだ」



何やら、とてもとても嫌な予感がしてなりません。

私の作品は別に寮へ送ってくれるよう。

何度も何度も、何度も念を押したはずです。

脳裏に、母の不自然なくらいにこやかな笑顔が浮かびました。



 「『プロデューサーさんへ。この茶碗は肇の物ですので、渡してあげてくださいね』……ああ、肇のか」



何故。何故一緒に送ったのですか。

金魚のように口をぱくぱくとさせながら、Pさんから茶碗を受け取りました。







 「――ああ、そういう事。なるほどね。ふーん、なるほど」







凛さんの呟きが、まるで刑の宣告のように聞こえました。

おそるおそる、後ろを振り向けば。

今まで目にした中で一番の、満面の笑みを凛さんが浮かべていました。



 「そっかそっか、夫婦茶碗か。うん、いいんじゃない?」



 「メオト……?」



 「ああ、アーニャは知らなかったかな」



今にも踊り出しそうな表情でした。



 「メオトっていうのはね、『とっても仲が良い』っていう意味なんだ」



 「アー、そうなんですか!」



凛さんに意味を教わって、アーニャさんが嬉しそうに笑いました。







 「二人とも、とってもメオト、ですね!」







熱でも出てるんじゃないかと思うほど、頬は熱くて。

もう、顔を上げられませんでした。





 「さ、行こうかアーニャ」



 「? どこに、ですか?」



 「上のカフェ。何でも好きな物奢ってあげるよ。あ、おはようございます。ちひろさんも……」



凛さんが、アーニャさんの背を押して事務所の扉を閉めます。







――『話』、訊かせてね。







閉まる直前、振り返った凛さんの口元がそう動きました。

扉が閉まった後、何やら札を提げるような音も聞こえてきて。

そして私はようやく、逃げ場を塞がれたのだと認めるしかありませんでした。





 「…………なぁ、肇」





 「あのっ、Pさん。これは……ですね、その…………」







大事なのは、焦らない事。





そんな考えは何処かへ吹き飛んで。

頭の中はぐるぐると回っていて。





 「ですから……私は…………」





そして私は、すっかり頬に紅葉を散らしたまま。







トンボのように秋の空へ消えてしまいたいと、そう思うばかりでした。



おわり



20:30│藤原肇 
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