2014年01月15日

春香「右の腕時計」

曇りの日が続いています。

七月。


電車の窓から眺めても雲がどこまでも広がっています。

天気予報によると、今日の午後からは雨。

暦の上では夏みたいですが、今日みたいな日は少し肌寒いです。

そんな中、765プロは今日からクールビズに入ります。

とは言っても、クールビズの対象になるのは三人だけ。

律子さんと小鳥さん、そしてプロデューサーさんです。

その三人も、常に長袖を着て、スーツの上着を持って動いていました。

クールビズを奨励してはいますが、形だけのルールになっています。

もしかしたら社長はクールビズなのかも、とは思いましたが、真っ黒なのでわかりません。



SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1373113325


事務所に到着。今日も元気よく挨拶から開始。

「おはようございまーす!」

「お、おはよう、春香」

バタンと勢いよく扉を開けたすぐ先に、千早ちゃんがいた。

危なかった。もう少しで千早ちゃんをドアでぺしゃんこにしてしまうところだった。

「千早ちゃん、ごめんね。びっくりした?」

「べ、別にそんなことはないわ」

平静を装っていても、ドアを開けたときは全身がびくってしてたね。

とても驚いていたようなので、少し反省。



電話を受けている小鳥さんに静かに挨拶をして、スケジュールを確認する。

今日は千早ちゃん、プロデューサーさんとずっと一緒。変更なし。

他のみんなも色々と仕事が入っているみたい。

ホワイトボードなのに、もう書くスペースなんてないくらい真っ黒。

連日、プロデューサーさんと律子さんが走り回ってくれているおかげです。



「お、春香おはよう。来てたのか」

「おはようございます、プロデューサーさん。ついさっき来たところです」

プロデューサーさんはいつものようにここで寝泊りしたようだ。

シャツがとても外には見せられない程、よれよれになっている。

こんな時、プロデューサーさんに大丈夫ですか、と訊くのは禁止。

言っても無駄だし、その分だけなぜかもっと頑張ろうとするから。



「プロデューサーさん、朝ご飯はもう食べましたか?」

「ん、今からちょっと買いに行こうかと思ってたところだけど」

「そう思って、今日は私が作ってきました」

かばんから丸く膨らんだ包みを取り出してプロデューサーさんに手渡し。

「おにぎりか、ありがとな。じゃあ早速いただくよ」

プロデューサーさんは机にもたれかかれながら食べ始めた。

「やっぱり手作りのおにぎりは旨いな」

と、ここで遠くから声が聞こえた。

「おにぎり!」

仕切りの向こうから、ぴょこんっと金色の髪が飛び出た。



相変わらず、おにぎりという単語には敏感だ。

機嫌よくソファから起きてきた美希を見ながらそう思う。

私よりも先に来るなんて珍しいけど、最近やる気を出している美希ならこういう日もあるのかな?

「春香、ミキにもおにぎりちょーだい♪」

「え、プロデューサーさんの分しか持って来てないよ?」

一瞬だけショックを受けた表情をする。

でもすぐに立ち直ってプロデューサーさんの持つおにぎりを見つめる。

「ハニー、ちょうだい?」

可愛らしい仕草でお願いをする。なんだかズルイ。

プロデューサーさんは私からもらったおにぎりを、すぐに美希に渡して良いのか困惑している。

「プロデューサーさん、ミキに一つあげてもらってもいいですか?」

「春香がそう言ってくれるなら」

「春香、大好きなの!」



「私より早いなんて美希にしては珍しいね」

「今日はずーっとハニーと離れ離れなの。だから、早く来たの」

これも相変わらず。どうしてこうも素直に好意を表すことができるんだろう。

「ハニーのおにぎりの具は何が入ってるの?」

「俺のはおかかだな」

「ハニーと一緒なの!」

美希はそう言ってプロデューサーさんの左腕に抱きつく。

「おいおい、食べてる最中にそんなことするんじゃない」

掴まれた左腕を簡単に引き離す。とても慣れた行動に見えた。

「むー」

そう言って美希は今度は右腕を捉えようとするが、これまたすっとかわされていた。

「ハニー、冷たいの!」

「いや、だってな……」

じゃれ合っている美希をみると、少し羨ましい。

……今日はずっと一緒だから気にしないもん。



千早ちゃんから4回のダメだしを受け、やっとレコーディングが終わった。

歌に関しては千早ちゃんはプロデューサーさんよりも厳しい。

最近はオブラートに包む言い方をしてくれるようになった分、まだ楽になったけど。

「おつかれさまでした〜」

へろへろになりながらスタッフの人たちに挨拶をする。

「春香、厳しくしてごめんなさい。でも、最後はすごく良かったわ」

「ううん。千早ちゃんがびしっと言ってくれないと、本当に良かったかどうか分からないから」

「ふふっ。厳しくする方がいいだなんて、変な春香ね」



「春香、おつかれさん。ほい、お茶」

プロデューサーさんが冷たいお茶を手渡してくれる。

「ありがとうございます」

「千早も春香の指導ありがとな」

そう言ってプロデューサーさんは千早ちゃんの頭を左手でぽんぽんと撫でた。

「はい、春香のためですから」

手を頭に乗せられた千早ちゃんは顔を少し赤くして俯いた。


椅子に座ってぐったりとする。

冷たいお茶を飲んで熱くなった喉を冷やす。

千早ちゃんは隣で雑誌を読んでいる。

横目で見ると、ファッション関係の本のようだ。

ふと、出会ったばかりの千早ちゃんを思い出す。

あの頃はこんな雑誌なんて、絶対に見なかったのに。

すっかり丸くなっちゃったね。

どうしてか、みんなからは私のせいだと言われる。

そんなことないのに。

千早ちゃんが自分で頑張って変わったんだから。



千早ちゃんが熱心に読む先は、男性の落とし方講座という怪しい題目だった。

面白そうだから、気付かれないように後ろから見てみる。

ふむふむ、好きな男性には積極的にアピールとな。

思い切って抱きついちゃえ……いつの時代のアドバイスだろう?

雑誌の表紙を確認してみると、なるほど。亜美や真美くらいの年代向けの雑誌だった。

右手の指に指輪をつければ彼氏募集中の意志表示。

ふむふむ。でも、これって相手が知らないと意味ないんじゃないかな?

でもそれを食い入るように見る千早ちゃん。明日から実行してきそうな気がした。



別の席ではプロデューサーさんはスタッフの人と打ち合わせをしている。

熱が入っているのか、大盛り上がり。

よく見ると、プロデューサーさんだけが汗をかいていた。

ここももうクールビズを実施中のようで、みんな半袖。

プロデューサーさんは腕まくりをしてはいるものの、ネクタイをきっちりと締めているので暑そうだった。

少しくらいラフな格好になったって誰も文句なんて言わないのに。

生真面目さが災いして、融通がきかないみたいだった。

壁の貼り紙によると、空調は来週くらいから入るみたいです。



「ごめん、お待たせ。ちょっと話が盛り上がっちゃってさ」

汗だくで満足そうな顔をして戻ってくるプロデューサーさん。

「あの、私のタオル使います?」

「ん、いいのか?」

「はい。これまだ使ってませんので」

予備のタオルを取り出して渡す。

「ハンカチで拭いても全然止まらなくてな。洗濯して返すよ」



中にいるのにびっしょり。全身から湯気が出ていそうだった。

拭くよりもシャワーを浴びたほうがいいような気がする。

ふと、目がタオルを持った右手に止まった。

「あれ?」

「ん、どうかしたか?」

ちょっとした違和感から出た言葉。

そういえば、他の人がこうしてるところってあんまりない気がする。

「プロデューサーさん、どうして腕時計を右腕につけてるんですか?」



「ああ、これか?」

プロデューサーさんは右腕につけた銀色の時計をこっちに向ける。

「プロデューサーさんって、確か右利きでしたよね?」

「ああ、右利きだ」

「時計を右につけてる人なんてあんまりいませんから」

「なんというか、子供の頃からの癖なんだよ」

そう言うと、プロデューサーさんはなんとも説明しにくそうな顔で頭を掻いた。



プロデューサーさんが言うには、大切なものは右に持っていく癖があるらしい。

財布、携帯、その他諸々。その中に時計が入っているだけ、とのこと。

実際に、今も右ポケットから財布と携帯が出てきた。

何度か治そうとしたものの、結局無意識の行動はどうにもならなかったみたい。

「なんだか、それってバランス悪くないですか?」

「全くだ。右肩だけが凝ってしょうがない」

屈託無く笑うけど、きっと体が歪んでますよ!

「せめて時計くらいは左でもいいんじゃないですか?」

「んー、この時計は特に大切なものだからな。他のを左にするよ」

そう言ってプロデューサーさんは財布と携帯を右ポケットにしまった。



「プロデューサーは右側……」

ぼそっと千早ちゃんが呟いた。

私には聞こえたけど、性格難聴のプロデューサーさんには聞こえなかっただろう。

やっぱりなんだか不安になる。

「まあ、あんまり気にする人もいないからな。春香もできれば気にしないでくれ」

「はい、わかりました」

でも、私はその腕時計のことがいつまでも頭の片隅に残ることになった。



空は真っ黒な雲で埋め尽くされています。

明日はやや強めの台風がここに来るみたい。

ニュースでは地方の状況が逐一放送されていて、台風の強さが伝わってきます。

いくつかの地域では停電もあるようで、あまり良い話題ではありません。

明日はもしかすると、電車も止まっちゃうかも。

でも、その前に、別の台風が765プロに吹き荒れることになりました。



「兄ちゃーん、これどう?似合うっしょー?」

真美がプロデューサーさんに右手を見せていた。

正確には、右手につけた指輪だ。

少し背伸びしたい感じがして微笑ましい。

だけど、真美の表情はどこか真剣だった。

真美の突然のおしゃれ宣言に、プロデューサーさんも驚いている。

私は嫌な予感がした。千早ちゃん的な意味で。

「プロデューサー、少しよろしいでしょうか?」

あ、来た。わざわざ真美との会話を遮ってもアピールしたいことがあるようだ。

「あ、ああ。なんでも言ってくれ」

千早ちゃんからの助け舟。プロデューサーさんはそれに考えもせずに飛び乗った。

それ、きっと泥舟ですよ、泥舟!



「この歌詞のこの部分なんですけど」

「うん、なになに……えっと、そこはだな……なっ!?」

千早ちゃんがニヤリと笑う。

「どうかしましたか?」

プロデューサーさんは、千早ちゃんの右の薬指に付いた指輪を見て口をパクパクさせている。

楽譜を右手で遮る。話すときは右手を胸の辺りへ持っていく。

これ見よがしに、指輪を特大アピール。

口では真面目に仕事の話をしてるけど、千早ちゃんは下心満載だった。



またもやおろおろし始めるプロデューサーさん。

ただの彼氏募集中宣言なのに、どうしてそんなに狼狽するんだろう。

というか、真美も同じ雑誌を見て一緒に影響されるだなんて。

「千早お姉ちゃん、そ、それどうしたの?」

真美は驚いているようだ。

うん、千早ちゃんがあの雑誌見てたらちょっと驚くよね。

「真美こそ、急に一体どうしたの?」

平静を装っているけど、真美に先手を打たれたのが痛かったみたい。

あんまり険悪な雰囲気になるのも嫌だし、ここはそろそろ私が船を一隻出さないとだめかな?



私が一歩足を踏み出した時、入り口の扉がが勢いよく開いた。

「おっはようございまーす!」

真が勢いよく入ってくるなり、プロデューサーさんに詰め寄った。

「プロデューサー、見てくださいこの指輪。すっごく可愛くて買っちゃいました!」

真美と千早ちゃんが頭を抱える。私も抱えた。

ああ、修羅場。



千早ちゃん、真美、真。

三人それぞれが、なぜか同じ指輪を同じようにつけている。

きっと真も同じ雑誌情報なんだろうけど、指輪まで同じものを探してくるなんて。

知らない人からしたら、仲良し三人組で通るかも。

同じ日に同じ行動をしてるから、それはそれで仲がいいんだけど。

でもね三人とも。

読んでる雑誌も雑誌だけど、業界人なのに惑わされすぎ!




「ふう、まあ落ち着け」

平静を取り戻そうとするプロデューサーさんが一言。

頭が痛いようで、右手は頭を抑えたまま離れないみたいだ。

「にいちゃ〜ん」

真美は甘い声を出しながらプロデューサーさんの余った左腕にしがみつく。

妙にくっついている。どうも胸を押し当ててるみたい。

なるほど。真と千早ちゃんが相手なら、真美にもこの手は有効かも。



しかし、千早ちゃんには真美の知らないアドバンテージがあった。

千早ちゃんはそっとプロデューサーさんの右側に立った。

「私はプロデューサーの右にいるだけで構いません」

さすがに恥ずかしいのか、抱きついたりまではしないみたい。

でも、この意味深な行為に真美は目を丸くしていた。

左腕に抱きついているのに、右側にいるだけの千早ちゃんに対して困惑しているみたいだ。



さあ、ここで動けないのは真。

真美のように抱きつくことは恥ずかしい。

でも千早ちゃんのようなマル秘情報もない。

ここは引き下がるかな……と思っていたら、真はもう一つの指輪を取り出した。

「プロデューサーもこの指輪どうです?ボク、余計に一個買っちゃったんで、あげますよ」

まさかのペアリング宣言だった。



「よし、お前達の気持ちはよーくわかった」

なにやら思いついたのか、プロデューサーさんは真美を引き離しながら言った。

多分、わかってない。

「その指輪は没収する。いくら彼氏ができたとは言え、そんなことアピールするもんじゃない」

三人の表情が引き攣ったところで固まった。

「右手に指輪を付けるのは彼氏がいるって宣言だろ?」

「え゛っ!?」

誰の声か。それとも三人が一緒に言ったのか。それは間違いなく驚愕の声だった。



「雑誌で読んだぞ。ほら、これだろ?」

プロデューサーさんが出してきたのは、千早ちゃんが読んでいたものとは別の雑誌。

それには、彼氏がいるよアピールとして、右手に指輪をつけるとい内容だった。

別のところには、禁断の恋は外堀から埋めようとまで書いてあった。

三人は目が点になっている。

三人が読んだ内容とは正反対のことが書かれていて、プロデューサーさんはそっちを読んでいたみたい。

つまり、プロデューサーさんに『恋人ができたから認めてよ』とアピールしていたことに……。



「ま、真美にこんな指輪なんて似合うわけないないよね!」

「ボクも実はこれ、あんまり可愛くないなーって思ってたんですよ」

「プロデューサーは冗談も通じない、つまらない人ですね」

急いで指輪を外す三人。だけど手遅れみたい。

「会社としてはアレだが、お前らが選んだんなら、きっと良い奴なんだろ。俺個人としては嬉しいよ」

プロデューサーさんは時折、変に追撃をしてくるのがいやらしい。

「応援はするが、バレない範囲で付き合えよ。アイドル生命も賭けてるってことなんだからな」

三人は涙を浮かべながら、雨が降りそうな外へ駆け出した。

「いつの間にか、みんな大人になっていくんだな。これが父親の気持ちなのか……」

なんだか達観しているけど、全くの見当違い。

これってやっぱり、私がフォローしないとダメなんだろうなぁ。



「プロデューサーさんって、残酷ですよね」

「俺が残酷?むしろかなりの慈悲を与えたつもりなんだが」

「プロデューサーさんはすっごく誤解してますよ?」

「誤解?」

私は千早ちゃんの鞄から飛び出していたジュニア向け雑誌を抜き出した。

ページを捲り、該当する項目を探す。

「ここです。よーく読んでください」

「そうか、あいつらはこれを読んだのか。これだとまったくの正反対の意味になるな」

「はい、だから誤解なんです」

ほっと一息。これでなんとか三人は救われそう。



「だがな、やっぱりアイドルが大々的に彼氏募集中なんていうのはダメだ」

「ええっ!?」

なんだか別の誤解が生まれた。

「えーっと、きっと三人が好きな人が気付いてくれないから、もっとアピールしてるだけ……かな?」

「もっとアピール……一体誰に……ま、まさかジュピターなのか、そうなのか?」

「ほ、本気で言ってるんですか?」

「ははは……そ、そうだよな。あいつらに限ってそんなこと……」

目が空ろだ。これはきっと信じてない。

ごめんね、千早ちゃん、真、真美。誤解は解けそうも無いみたい。



「なあ、春香は、こういうことはないよな?」

本当は募集中だけど、そこは目の前にいる人の予約席。まだ空けるわけにはいきません。

「あんまりしたいとは思いませんけど……プロデューサーさんはどうなんですか?」

こんなプロデューサーさんに恋人はいるのだろうか。どうせなので訊いてみたい。

「まだいないかな。欲しいことは欲しいんだが、ちょっとな」

プロデューサーさんはそう言って右手で軽く頭を撫でてくる。

「やっぱり忙しいからですか?」

「手のかかる、甘えん坊なやつらばかりだからな」

私もその甘えん坊の一人に入ってるみたいだった。


もうだめおやすみなさい

台風が過ぎると急に暑くなってきました。

まだ梅雨明け宣言はされていませんが、もうすっかり晴れ模様です。

そのせいか、765プロのエアコンは朝からフル稼働です。

今日はまだそれほど暑くありませんが、遠慮なくかけています。

去年と比べて格段にお仕事が増えたためか、律子さんも許容しているようです。

暑さが緩和されたおかげで、小鳥さんたちのキーボードを叩く音も軽快です。



そこにカチャカチャと金属をすり合わせる音。

プロデューサーさんが腕時計を外す音だった。

なんでわざわざ外したんだろう?

「春香、どうかしたか?」

じっと見てたら気付かれちゃった。

「いえ、どうして時計を外したのかなって」

プロデューサーさんは右手に持ったボールペンを私に見せる。

「字を書くとき、結構邪魔になるからな」

そう言って、目の前の書類の山にサインをし始めた。



字を書くとき、確かに利き腕に時計をしてたら少し書きにくい。

だったら余計にどうして右手に時計をするんだろうという疑問が出てくる。

「時計、左腕にすればいいのでは?」

律子さんが私の代わりにつっこむ。

「何かする度に外していたら面倒ではないですか?」

「いや、それもそうなんだが……」

「外す回数が多くなれば、それだけ壊れやすくなります。大事な時計なんでしょう?」

律子さんからの猛攻に、プロデューサーさんはどう反論しようかと迷っているみたい。

律子さんは律子さんで、外す時のあの音と行動が気になっていたようだった。



こんなとき、助け舟を出す人も大体決まっている。

「律子さんはとてもよくプロデューサーさんを見ていますね」

微笑を浮かべながら、意味深な言い方をする小鳥さん。

この人の助け舟は、自分が乗った船か相手が乗った船か、どちらか、たまに両方が沈没・炎上する。

「そんなことありません。ただ少し気になっているだけです」

「一昨日、繁華街にある時計屋さんに行きましたよね?」

小鳥さんの予想外な言葉に、いつもは冷静な律子さんの動きがピタリと止まった。



「そこでプロデューサーさんと同じようなデザインの腕時計を見てましたね」

「な、なんの話でしょう?」

図星なのか、律子さんの目が泳ぐ。

「時計の写真を店員さんに見せて、一緒に探してもらうなんて中々できませんから」

小鳥さんの勢いは止まらない。今日は律子さんの船が大炎上だ。

「最後には、わざわざ昔のカタログを取り寄せちゃうなんて、律子さんも可愛いですね〜」

律子さんは信じられない、と言った表情をする。

小鳥さん、律子さんをストーキングでもしているのだろうか。



「なんだ、律子も同じ時計が欲しかったのか」

ここで話の本質をイマイチ理解していないプロデューサーさんが出てくる。

「これは律子には似合わんと思うぞ。安物の時計だしな」

時計を持ちながら真剣に答えるプロデューサーさん。

「俺と同じ安物時計なんてつけてたら、それこそみんなから笑われるぞ」

そしていつもどおりの一刀両断っぷり。

「そ、そうです、よね……」

いきなり不似合いと断言され、少し落ち込む律子さん。

さすがの小鳥さんも、これにはフォローのしようがない。

「今度、伊織や美希にでも相談したらどうだ?」

「はぁ……そうさせていただきます」

律子さんは頬杖をついて溜息一つ。半分諦めているようだった。



そうこうしているうちに、プロデューサーさんと律子さんが外出の準備を始めた。

書類をまとめ、鞄に詰めていく。

来月にある大型ライブの打ち合わせと下見に行くみたい。

プロデューサーさんは机の上にあった時計を例の金属音を鳴らしながら身につけ……止まった。

「げっ」

「プロデューサー、どうしました?」

「電池が切れた」

「このタイミングで、ですか?」



プロデューサーさんの時計は太陽電池式らしい。

普段は勝手に充電されるけど、曇りの日が続いたりすると充電できずに止まるみたい。

プロデューサーさんはずっと長袖なので、袖の下に隠れることが多く、それも余計に響くようだった。

「仕方ない、今日は置いていくか」

「他に忘れ物はありませんか?」

「ああ、大丈夫だ」

そう言って、止まった腕時計を机の上に置き、そそくさと二人は出発した。



机の上に置かれた腕時計を手にとってみる。

思ったより軽い。裏を見るとチタン製と書いてあった。

「プロデューサーさん、この時計がとても大切みたいですね」

「大切なものを机の上に置きっぱなしにするなんてね。誰かに取られちゃいそうよね」

小鳥さんがくすりと微笑んだ。

ここには物を盗む泥棒はいないけど、大切なものを扱うにしてはちょっと乱暴だ。

充電のためなんだろうけど、せめて小鳥さんに一言言えばいいのに。



「机の上よりも窓際の方が太陽が当たるんじゃないですか?」

小鳥さんは、そうね、と肯定してくれた。

窓際でも特に日当たりの良いところを探す。

と。手元にある時計を見て、興味本位でつけてみる。

うん、やっぱりぶかぶか。

革ベルトじゃないから調整なんてものはできない。

それに、右手につけると違和感がすごい。やっぱり左手の方がしっくりくる。

私は苦笑いしながら腕時計を外し、浅底の容器に入れ、文字盤を太陽の方へ向けた。

どのくらいで充電できるんだろう?

あ、小鳥さんの目の前で思いっきりつけちゃった。

急いで小鳥さんを見ると、すでにビデオカメラを構えていた。

「ばっちり!」



千早ちゃんと一緒に外でお昼を食べて事務所へ戻ってきた。

中に入ると、やよいが窓際でなにやら背伸びをしながら両手を挙げていた。

「高槻さん、何をしているのかしら?」

千早ちゃんも首を傾げていた。

「やよい、ただいま。何してるの?」

「あ、春香さん、千早さん、おかえりなさーい」

よく見ると、やよいの手のひらにはプロデューサーさんの腕時計。

「プロデューサーさんの時計なんて持ってどうしたの?」

「小鳥さんから太陽で充電できるって聞きました!」



「少しでも太陽に近いほうが早く充電できるかなーって」

なんともやよいらしい回答だった。

「じゃあ屋上の方が良いんじゃない?」

「あ、屋上のこと、忘れてましたー!」

思い立ったが吉日。やよいは腕時計を握り締め、元気よく屋上へと向かった。

やよいが一人で屋上。なんだか不安になる。

千早ちゃんを見ると、同じ考えみたいだった。

「春香、行きましょう」

「うん」



屋上では、やっぱりやよいは目一杯背伸びしながら時計を掲げていた。

なんだかなぁ、と思いながらも、提案したのは私なのでちょっと言い辛い。

「気持ちいい天気ね」

千早ちゃんが座りながら言った。

「うん、そうだね」

このくらいの暑さなら、気持ちよく日光浴ができそう。

風もゆったりと流れて、少しこそばゆい。

「ふぁ……」

珍しく千早ちゃんがあくび。

千早ちゃんの綺麗な髪が風でなびいている。

気が緩むのも仕方ないかな。この太陽のぽかぽかは眠気を誘う。

私は千早ちゃんの横に座り、元気に飛び跳ねるやよいを眺めながら日向ぼっこを始めた。



夏です。

降り注ぐ強い日差しを浴びながら一つ言わせていただきます。

「プロデューサーさん!夏ですよ、夏!」

「言わなくていい。余計に暑くなるだろ」

「夏ですよね?」

「ああ、夏だ」

「夏と言えば?」

「……海だ」

「私たち、どうして山に登ってるんですか?」

「……すまん」



プロデューサーさん、久しぶりの大失敗。

本当ならば、私たちは山ではなく海でのロケでした。

そして本来の山ロケ組は海へ。

プロデューサーさん曰く、書く方を間違ったとのこと。

急遽訂正しようとはしたらしいですが、先方さんがこれでいいやと進めてしまい、後戻りできませんでした。

なんとも適当感溢れるロケです。

そのおかげで、私は慣れない山道を、せっせとキャンプ用品を持って登っているのでした。



この事実が発覚したのは昨日の夜。

準備する時間なんてものはありませんでした。

頑張って長袖の服は用意したものの、それだけ。

あとは全部、山へ行く予定だった人のものを借りてきました。

借りた相手は響ちゃんと伊織。二人が準備したものは完璧なものでした。

でも、こういうのはあっちが用意してくれるんじゃないんでしょうか?

「……すまん」

ジト目でプロデューサーさんを見て、ションボリさせてみた。



「あらあら〜春香ちゃん、あんまりプロデューサーさんをいじめたらだめよ〜?」

そして今回の失敗で一番怖いのがあずささん。

海なら少しくらい迷子になってもいいんだけど、山はさすがに怖い。

私とプロデューサーさんで、交互にあずささんを監視するという体制を採っています。

念のため、発炎筒やらGPS携帯も持たせています。万全です。

スタッフさんたちも、山とあずささんという組み合わせに、戦々恐々しています。



山登りと行っても、道自体はそれほど険しくありません。

家族でキャンプをするレベルの山だからでしょうか。

携帯の電波もバリバリあります。

今回のロケのテーマは気軽に行けるアウトドア。

本来の参加者は響ちゃん・伊織・やよい・真美・亜美だったので、本当に気軽そのものです。

たまには海じゃなくてもいいかも。

あずささん対策さえできてたら、楽しいロケになるかもしれない。

私は視線をあずささんの方へ向ける。あ、あれ?

「ぷ、プロデューサーさん、あずささんが見当たりませんけど……?」

「じょ、冗談だろ?」

「おい、三浦さんいないぞ!」

周囲の人たちも相次いで声を上げる。

酷い監視体制でした。



「春香ちゃん、ごめんなさいね〜」

幸い、道からそう離れていないところにいました。

曰く、どうも綺麗な花が咲いていて、それを見ていてはぐれたそうです。

こっちはGPSが居なくなってる時だけ使えなくて大慌てだったのに。

その後、迷子対策として、頂上までずっと私と手を繋ぐことになりました。

「春香ちゃん、せっかくだから腕組みしましょうか〜」

「え、この暑い中、更にくっつくんですか?」

「うふふっ。えいっ」

スタッフさんによると、仲の良い姉妹みたいとのことでした。




頂上付近のキャンプ地に到着。

プロデューサーさんやスタッフさんの指示に従い、撮影を順調にこなしていきます。

テントって簡単に張れるんですね。

テント設置後は本来ならば昆虫採集の予定でした。

しかし、響ちゃんたちがいないので、虫については誰も分かりません。

ついでに、あずささんを一人きりにできないので、どうにもなりません。

夜まで適当に風景を眺めつつ、夕食のシーンに力を入れようという結論になったようでした。

行き当たりばったりのロケに不安が募ります。

それでも、私たち以外には誰もいなかったので、海よりも静かでゆっくり出来ました。



「春香ちゃん、こんなのどうかしら?」

木陰で休んでいると、あずささんが可愛らしい小さな花を見せてきた。

シロツメクサだ。

「これをこうしてこうすると、はい」

茎をもってくるくると編んでいくと、段々と一つの輪になりそうだった。

「花冠ですか?」

「うふふ、することないから、あっちでいっぱい摘んできちゃった」

やよいみたいなあどけない笑顔が眩しい。

「私もお手伝いしますね」

あずささんから何本か受け取る。

時間はいっぱいあるから、暇つぶしにはちょうどいいかも。



やり方を教えてもらいながら編んでいく。

不恰好だけど何とか腕輪くらいの大きさならできた。

一方のあずささんは、大きい冠とやたら小さい輪を作っていた。

「これを頭に乗せて、これを付けると、はい完成」

私の頭に花冠を乗せ、左手の薬指に小さな花の輪をつけられた。

「うふふ。春香ちゃん、可愛いお花のお姫様みたいよ〜」

あずささんは無邪気に言ってるけど、さすがに高校生でこれは厳しい。

プロデューサーさんはプロデューサーさんで満足そうな顔。

「わ、私も作ります!」

巻き添えにすべく、急いであずささん用の指輪と冠を作り始めた。



夜。

バーベキューと言えど、料理スキルの差は歴然だった。

ゆっくり動いてるんだけど、手際の良さでみるみるうちに食材が切られていく。

いつの間にか終わっている下ごしらえ。他の人たちは焼くだけ。

頭にあの花冠をつけながらしているので、なんとなく優雅な気がする。

恥ずかしくないのかな?あずささん、恐るべし。

対して、私は飯盒係。火にかけて見守るだけ。切るくらいなら私も手伝えるのに。

「ふおーふおー」

吹く必要は無いらしいけど、なんだか寂しいのでアピールしておこう。

カメラさん、天海春香はがんばってますよー!



食事が終わり、寝袋で眠るシーンも撮ったので、今日の撮影は無事終了。

スタッフの皆さんお酒を出してきて飲み始めました。

「うふふっ。かんぱ〜い」

何度目か分からない乾杯コール。あずささんはすでにお酒をたっぷりお召し上がりに。

765プロのアイドルで唯一お酒が飲めるあずささんは、スタッフの方からは大人気です。

もしかしたら、今回のロケはこれが目的……?

私は伊織が飲むはずだっただろうオレンジジュースを手に、星空を眺めていました。



「春香、隣いいか?」

そう言ってプロデューサーさんが私の左に座る。

「今日はごめんな。俺の手違いで山登りになっちゃって」

「いえ、たまには山もいいかなって思いました」

プロデューサーさんはまだ気にしてたみたい。

私は思いのほか楽しめたから、すっかり海のことは忘れていたのに。



「なんだ、あずささんに作ってもらった花飾り、退けちゃったのか」

「はい、少し恥ずかしくて」

綺麗に作ってもらったものだから、鞄の中に大事に入れてあるけど。

「まあ春香くらいの歳なら少し恥ずかしいかもな」

そう言ってプロデューサーさんは私の頭を見てくる……ん?

「え、もしかして、私のリボンに疑問持ってるんですか?」

「いや。それが花のリボンだったら、もっと似合うかもなって思っただけだよ」

花のリボンなんて持ってたかな?ううん、ここは新しいのを買おう。

「まあ、春香はどのリボンでも似合うよ。やっぱり春香自身が可愛いからかな」

赤い顔をしながらドキっとすることを言ってくる。

よ、酔ってるのかな?



「そ、空見てください。とても綺麗な夜空ですよ!」

思わず話題を変えてみる。

「こうしてゆっくりと空を眺めるのは、みんなで天体観測した時以来ですね」

「懐かしいな。そういえば、あの時の願い事は叶ったのか?」

去年、みんなで765プロの屋上でした天体観測。

沢山の流れ星に向けた、私の願い事。

あれ、なんだったかな?

思い出せないけど、なんだか自分のアイデンティティを否定するようなものだった気がする。

「えへへ、忘れちゃいましたけど、まだ叶ってないみたいです」



「願い事はなかなか叶わないもんだな」

「プロデューサーさんのお願い事って何でしたか?」

「ん、俺はみんなの健康かな。叶いやすそうだったからさ」

あれ、意外。てっきり私たち全員をトップアイドルにするっていうことなのかと。

「それはお願いすることじゃなくて、俺がしなきゃいけないことだからな」

「こ、心を読むなんて、面妖ですよ、面妖な!」

「貴音の真似をするとは、なにやつ!?」

二人して貴音さんの真似をして、お互いに滑ったのを笑いあった。



「まあ、今お願い事をするなら、こんなヘマをしませんように、かな」

苦笑いをしながら空へ向かって言う。

「それはお願いしないと治らないんですか?」

「俺のうっかりは、小鳥さんの妄想癖と一緒だ。永遠に治らない」

重病みたい。

そっちが治らないのなら、その鈍感を治るようにお願いすれば……あ、こっちも無理か。

私は流れ星のない夜空に、これ以上プロデューサーさんを好きになる人が増えないようにお願いした。



「そういえば、伊織たちの方は終わったんですか?」

急遽、海に行くことになってしまった五人。伊織がいるから大丈夫だとは思うけど。

「小鳥さんから連絡があって、夕方にはもう終わったみたいだ」

プロデューサーさんはビールを飲みながら答えてくれた。

その時、ぼんやりと光る右腕の時計に目が行った。

腕時計の針に蛍光塗料がついていて、その光だったみたい。

「俺の時計、気になるか?」

プロデューサーさんは空を見上げたまま問いかけてきた。



「最近よく俺の時計見てるけど、右手にするのってやっぱり目立つか?」

なんともばつが悪そうな顔で訊いてくる。

「いえ、えっと、その時計っていろいろ機能が付いてるんだなって」

「そうか?かなりシンプルなタイプなんだが」

太陽電池・電波時計・蛍光塗料。3つしかなかった。

「この時計はな、俺が初任給で買った時計なんだ」

なんでも、765プロに来る前に働いていた会社で買ったものらしい。

社会人としての一歩ということで、初めてのお給料の大半を使って買ったとのこと。

「社会人一年生の初任給なんて知れてるからな。あんまり高いもんじゃないんだ」

プロデューサーさんはそう言いながらも、腕時計を誇らしそうに見つめる。

一番大切なものだから、右側に。

プロデューサーさんの言っていたことが、少し理解できた気がした。



「今日は疲れたか?」

「はい、でも今日は暑かっただけですから、まだまだ平気です」

「俺はもうヘトヘト。山道は辛いよ」

歌とダンスで鍛えられているので、私たちの体力は同年代の子よりもかなり多い。

それこそ、運動部の子にも負けないくらい。

反対に、営業で出歩くとは言え、プロデューサーさんの体力は少ないみたい。

仕事ばかりだから家で運動する時間もないんだろうなぁ。



「お疲れのプロデューサーさんに、飲み物取ってきますね」

そう言って立ち上がろうとしたところ、足に力が入らなかった。

とすんっと尻餅をつくようにまた座ってしまった。

「おいおい、大丈夫か?」

思ってたよりも疲れてたみたい。

「えへへ、足が縺れたみたいです」

「今日は早く寝よう。明日はここから降りないといけないからな」

そう言いながら、プロデューサーさんは私の頭を撫でてくる。

肩の力が抜け、思わず身体が傾く。

「春香?」

意図せず、プロデューサーさんに身体を預ける形になってしまった。

「ふあ……少し眠くなっちゃいました」

頭がプロデューサーさんの肩に乗ると、急な眠気が襲ってきた。



目線を落とし、右手を見る。革ベルトの腕時計だ。

これは時計屋さんから貸してもらった代替品。

プロデューサーさんの大切な腕時計は修理中。

中の機械がやっぱり壊れていたみたいで、メーカーに送る必要があるらしい。

まだしばらくはこのまま。プロデューサーさん、残念でした。

でも、やっぱり代替の腕時計をしているプロデューサーさんはなんだか違う気がする。

何かする毎に時計を見ては時間を気にしていた。

そんなに何度も見たって時間はいつも一定に進んでいるのに。



やっぱり、この時計はプロデューサーさんの信頼をまだ得ていないみたい。

右手にしているのだって、あくまでも借り物だという意識なのかな。

そう、あの腕時計は私よりもずっと長くプロデューサーさんの傍にいるんだから。

私の知らないことだって、いっぱい一緒に見てきている。

溜息をつく。頭を左に傾けて、眠っているプロデューサーさんの腕に乗せた。

私も、あの腕時計みたいにプロデューサーさんの一番になりたい。

「無理だよね。こうやって腕時計に嫉妬してる私なんかじゃ……ん?」



えっ、私、今なんて言ったの?

と、時計に嫉妬してる?

美希や他のみんなに嫉妬するならともかくとして、と、時計に嫉妬?

人ですらない相手に嫉妬って……?

誰よりもプロデューサーさんとずっと一緒にいて、とても大切にされている時計。

肌身離さず、右腕につけている腕時計。

話を聴いた時、少し羨ましいとは思ったけど、言葉に出すほど、私は意識していたのだろうか。

何ていうか……恥ずかしい。私ってすごく恥ずかしい。

もしここが自分の部屋なら、枕に顔を埋め、じたばたしているだろう。

このことが誰かに知られたら、死んでしまうかもしれない。



でも、それくらいプロデューサーさんのことが好きってことなのかな。

腕時計一つに、こんなにも嫉妬しちゃうくらいに。

きっとこの気持ちは美希にだって……ううん、誰にも負けてない。

今、プロデューサーさんの恋人は不在。だったら、少しくらいはいいかな。

私は寝息を立てるプロデューサーさんの右手に自分の左手を重ねた。

暖かい気持ちが左手から伝わってくる。

これが今の私ができる、精一杯の勇気。

腕時計さんありがとう。少しだけ、近づけたような気がします。



事務所に戻ると、中から甘ったるい香りと焦げた臭いが同時に襲ってきた。

案の定、鍋底は真っ黒焦げ。

どうも、煮詰めている間に床のシロップを掃除しようとして、それで放置してしまったみたい。

臭いに気付いた小鳥さんが止めたものの、手遅れ。

鍋底には見事な炭があった。

小鳥さんは重曹と新しい鍋を買いに行ったみたいだった。



響ちゃんと真美は床をじーっと見ている。

何かと思ってみてみると、蟻が数匹、列を成していた。

「やっぱり蟻も可愛いなぁ」

「ひびきんはなんでもありすぎない?」

「動物はみーんな可愛いんだぞ!」

いやいや、早く掃除しないと蟻だらけになるから!



千早ちゃんは市販のシロップをかけたかき氷を作ってくれていた。

「ごめんなさい、春香。失敗してしまったわ」

千早ちゃんが申し訳なさそうに言う。

「また私が作るから大丈夫。でも今度からはずっと見張ってないとだめだから」

「そのことなんだけど……」

再チャレンジするのかな?

「今晩、私の家でまた作ろうと思うの。それで、良かったら春香に手伝ってほしくて」

「じゃあ今日のお仕事が終わったら、千早ちゃんのお家に行くね」

「材料は私が用意しておくわ」

「うん、いっぱい作ろうね!」

次の日、私は灯油タンクに詰まったシロップを事務所に運び込むはめになった。


おやすみなさい

夏の765プロオールスターライブが終わり、どたばたしていた日々から少し解放されました。

ここ二週間くらいはずっと合同レッスンばかりでした。

練習を抜けては仕事へ行き、終われば戻って練習。

待ってくれないからすとうさぎに追いつくため、みんなと一緒に頑張りました。

その甲斐あって、ライブは大成功で終わり、また一歩、トップアイドルへ近づいた気がします。

しかし、無理をした反動か、私はこの三日ほど体調を崩してしまいました。

なので、事務所へ来るのは久しぶりだったりします。

今日からまたお仕事、頑張ります!



「で、どうなってるんですかこれ?」

気合を入れて来たのはよかったけど、いきなりのサプライズ。

私は横でおろおろしている小鳥さんに質問した。

「わ、私も全然わからなくて」

「え、知らないんですか?」

「私も今帰ってきたところなの。だから、どうしてこうなってるのか……」

二人揃って見つめる先。

「やよいーーーやよいーーー」

そこには床にあひる座りをして、大粒の涙を流す伊織の姿があった。



普段の伊織からは想像もできない程の号泣っぷり。

頭をフラフラさせながら、なぜかやよいを呼んでいる。

真っ赤な顔をして、お酒でも飲んでるんじゃないかと疑うくらいだった。

「伊織、やよいと喧嘩でもしたの?」

「はるかぁ、やよいは?」

小鳥さんを見る。今日はいつも通り、料理番組の収録らしい。

この時間はやよいの冠番組の収録があるもんね。

伊織だって、それくらい分かってるはずなんだけど。

「えっと、今はいつもの番組の収録に行ってるから、ここにはいないよ」

「やよいーーー」

とても竜宮小町のリーダーとは思えない姿。

なんだか可愛い。少しだけ小鳥さんの気持ちが分かった。

これなら確かにお持ち帰りもしたくなる。ちょっとうるさいけど。



でも、伊織がここまで泣くだなんて、それこそ大事件かも。

「伊織、やよいと喧嘩でもしたの?」

「はるか、やよいかわいい」

やよいが可愛いから泣いてる?もうなにがなにやら。

「それは知ってるけど、どうしてそれで伊織が泣いてるの?」

「えぐっ、えぐっ。やよいがーやよいがー」

「やよいがどうしたの?」

「だいすき」

ペチーン。おでこを叩くと良い音が鳴った。



どうもおかしい。呂律が回っていない。理性が無い。

本気でお酒を飲んでいる気がする。

こういうとき、真っ先に疑うのは小鳥さん。

でも、さすがに小鳥さんでも、唐突にこんなことはしない。

もしそうだとしたら、ここは何があってもカメラを回しているはず。

「ど、どうしましょう……と、とりあえずプロデューサーさんと律子さんに……」

おろおろしながらも、二人に連絡していた。

なら、間違って飲んだのだろうか。

テーブルの上にはオレンジ色のシロップが入った容器とかき氷を食べたあとだけ。

冷蔵庫を開けて調べたけど、中にはお酒らしいものは無かった。

ぎっしりと普通の飲み物やシロップで隙間無く埋まっていた。



お酒らしいお酒は無い。

いくら伊織でも、料理酒には手をつけないだろうし。

キッチンシンクにもそんな匂いはしなかったから、流した線もなさそう。

目撃者がいないため、伊織混乱事件?は早くも迷宮入り。

あとで本人から訊けばいいんだろうけど……。

「やよいーーやよいーー」

もし記憶が残ってたりしたら、私は小鳥さんと一緒に消されるかもしれない。



「伊織どうしちゃったんでしょう?」

小鳥さんは人差し指を口元に当て、少し考える。

「最近は特に頑張ってくれてたから、息抜きかな?」

これって息抜きって言うレベルなんでしょうか?

「もしかすると、ストレスが溜まってたのかもしれないわね」

「ストレスが溜まってもこんなことはしないと思いますけど……」

小鳥さんは天井を見上げながら言った。

「追われてストレスを溜め続けるとね、突然泣きたくなることもあるの……」

何かに追われている小鳥さんは遠い目をしていた。



とりあえず、伊織をソファへと運ぶ。

私は伊織の起こそうとしたけど、足に力が入らないのか、なかなか立ってくれない。

仕方なく、両脇を抱えて引きずるように連れて行く。

その短い道中でも、伊織はやよいを求めることをやめない。

そんなにやよいの温もりが欲しいんだろうか。

伊織は思ったよりも寂しがりやなのかな。

「やよいーやよいー……ぐすん」

あとで録音しておこう。やよいが喜ぶかもしれない。



と、運んでいる途中に気が付いた。微妙にアルコールの臭いがする。

やっぱりお酒を飲んでる。じゃあお酒はどこに?

可能性としてはやっぱりシロップだよね。

伊織をソファに寝かせて、シロップを確認しようと……

「はるかぁ、やよいはー?」

伊織に捕まった。やたら強い力で服を引っ張ってくる。

「え、さっき言ったけど、今日は収録で」

「やよいーーー!」

耳元で叫ばないでほしいかなーって。



「小鳥さん、そのシロップ、本当に中身、シロップですか?」

「ちょっと待っててね」

小鳥さんがシロップの蓋を開け、中の匂いを嗅ぐ。

「わっ。これ、うっすらだけどお酒の匂いがする……」

誰かがいたずらでシロップの中にお酒を混ぜたみたいだった。

いたずらと言えばあの二人だけど、ちょっとこれは悪質すぎるから違う気がする。

「これ、オレンジジュースが混ざってるし、甘い匂いだったから気付かなかったのね」

小鳥さんが一滴なめて確認。

「かなり弱いけど、スクリュードライバーっぽいかも」

さすがの伊織も、レディキラーには勝てなかったみたい。



「冷蔵庫の中のは大丈夫ですか?」

「調べてみるわね」

小鳥さんは手際よく、どんどんと味見をしていく。

多種多様なシロップが出てくる。みんなそれぞれがマイシロップを作っては入れているから。

一応、私と千早ちゃんが頑張って作ったかいはあったみたい。

「これも大丈夫。これも大丈夫」

結局、お酒が入っていたのは最初の一本だけだった。



小鳥さんが冷蔵庫に出したシロップを片付けているのを見て、思った。

冷蔵庫っていっぱいだったよね。じゃあ伊織のシロップって、もしかして常温で置いてあった?

「小鳥さん、そこのタンクの中、どうなってます?」

「これ?」

以前、千早ちゃんと一緒に大量に作ったシロップを詰めた灯油タンク。

みんな心置きなく使ってはくれたけど、まだまだ有り余っている。

それは当然のように常温で放置。

ええ、それはもう見事に発酵していました。

765プロは……というより、私と千早ちゃんは思いがけず、お酒を作ってしまったようです。



「ねえ春香ちゃん。折角だからこれ、私が貰っても良い?」

なんだか嬉しそうな小鳥さん。

「それはいいんですけど」

「けど?」

「伊織、どうしましょう?」

泣き止ませるためにとりあえず膝の上に座らせて抱っこしている。

背中をぽんぽんと叩くと、落ち着くのか泣き止んでくれた。

未だにやよいの名前を呼んでいるけど、眠くなったのか、小声になって一安心。

でも服を掴んで離してくれない。どうにかして、やよいー。

「どうせだから一枚」

フラッシュ全開で写真を撮られた。



一時間くらいした時、プロデューサーさんが息を切らして帰ってきた。

「伊織はどうなんだ、大丈夫なのか?」

小鳥さんから連絡を受けたあと、すぐに飛び帰ってきたみたい。

伊織がすやすやと眠る姿を見て、ほっとした表情をする。

暑さと焦りで、プロデューサーさんは汗だく。

これって、伊織をすごく心配してくれてる証拠。

プロデューサーさんは、やっぱりとても優しい。



「プロデューサーさん、タオルどうぞ」

小鳥さんがびしょ濡れのハンカチで汗を拭っていたプロデューサーさんに渡す。

腕までびっしょり。シャツが少しだけ透けて、腕に張り付いていた。

今のプロデューサーさんの右手首には代替品の革ベルトの腕時計。

汗を吸って、少しきつくなっていそうだった。

冬でもよく汗をかくプロデューサーさんにとって、革ベルトは合わないのかも。



「しかし、その姿はまるで親子だな」

汗を拭きながら、プロデューサーさんは伊織を抱っこする私を見てそう言った。

伊織とは二歳しか離れてないのに!

「プロデューサーさん、私まだ高校生なんですけど」

じとーっと見る。ここは姉妹と言うのが普通ですよ!

「すまんすまん。優しそうに抱っこしてるからさ」

普通に抱っこしてるだけなんだけど、プロデューサーさんにはそう見えたみたい。

「まあ、親子なら小鳥さんくらい年が……あ」

小鳥さんが泣き崩れた。

デリカシーが無さすぎです。最低。



伊織、よかったね。

あんな姿をプロデューサーさんに見られていたら、すぐにみんなに広まってたよ。

そんなことされたら、伊織の威厳と私の命、どっちも無くなってたもんね。

お酒で、ずっと溜めてたものが、爆発しちゃったんだね。

よっぱらいおりんは手が付けられないから、もうお酒は飲まないでね。

寂しくならないように、もう少しだけこうしてるから、安心して。

そのあと、あの口軽プロデューサーさんをみじん斬りにしよう。

だから……このことは忘れてて、お願い!



その時、電話が鳴った。プロデューサーさんの携帯だ。

「はい、もしもし……ええ、本当ですか!」

身体で表現するくらい嬉しそうだ。また良いお仕事が取れたのかな。

「じゃあ明日必ず絶対に取りに行きますから、お願いします」

取りに……伊織を撫でる手が止まる。

「春香、俺の時計、明日戻ってくるってさ。長かったなぁ、やっとだよ」

プロデューサーさんが喜びの声で私に言ってくる。

少しだけ、私の心臓が締め付けられた気がした。



天気予報は曇りのはずでした。

でも、電車に乗った後、すぐに雨は降り始めました。

雨の勢いも強く、おかげで駅から事務所までは走ってもびしょ濡れ。

うう、朝からついてないなぁ。

今日は朝から家を出るのが少し億劫だったのに。

伊織、昨日のこと、覚えてないよね?

あれから小鳥さんに交代して仕事に行ったから、伊織とは会っていません。

大きな不安感だけが残っていました。

玄関から出る時は何度も周囲を見渡して、誰もいないことを確認したくらい。

どうか、伊織の記憶がありませんように!



「おはようございまーす」

おずおずと扉を開ける。

きょろきょろと見渡したところ、伊織はいないようだった。

ほっ。一安心。

そんなに怖がる必要はないはずだけど、やっぱりちょっと怖い。

「おはよう、春香!」

代わりに、なんだかやたらテンションの高いプロデューサーさんが挨拶をしてきた。



「おはようございます、プロデューサーさん。なんだか嬉しそうですね」

「ん、そうか?いつもどおりなんだが」

声が上擦ってるじゃないですか。

腕時計が戻ってくるということで、とてもご機嫌のようだ。

雨に降られ、伊織に怯えて来た私とは大違い。

ふんっだ。プロデューサーさんも、私と一緒にびしょ濡れになっちゃえ。

私はリボンの水気を取りながら心の中で悪態をついた。



「プロデューサー、今日のレッスンで相談が……」

律子さんがこちらへやってくる。

「あら、春香おはよう。かなりやられたみたいね」

「おはようございます。電車に乗ったあとで降られちゃいました」

律子さんは用意してあったタオルを渡してくれる。

「それ、着替えちゃった方がいいかもね」

「はい、今日はレッスンなので、もうここで着替えようと思います」



「律子、それでレッスンの話って?」

「はい。実は、今日私が使おうと思ってたところが、急に使えなくなったみたいで」

「ああ、またか。本当に最近は多いな」

やれやれ、と言った感じでプロデューサーさんは首を振った。

レッスン場の臨時休業はよくあること。

参加する人のテンションが高いと、不思議と臨時休業になるみたい。

気合を入れて行ってみたらお休み。

出鼻を挫かれた感じがして、少しへこみます。



「それで、春香のところで一緒にレッスンを受けてもよろしいですか?」

なんですと!?

「ああ、今日は春香一人だからスペース的にも問題ないよ」

「助かります」

「春香も、一人よりは律子たちと一緒にしたほうが良いだろ?」

できれば今日はやめておきたいなぁ。

「はい、律子さんたちが一緒なら楽しくできそうですし」

でも私の意志とは裏腹に、口は肯定の言葉を勝手に喋っている。

行き道の短い時間とは言え、せっかくプロデューサーさんと二人きりになれたのにな……。



「なら、一緒に春香も見てくれないか?」

「春香の個人レッスンを見るのは久しぶりですけど、よろしいですか?」

「久しぶりだからこそ、気付けるところもあるだろうしな」

「分かりました。じゃあ春香、着替えたら行きましょうか」

プロデューサーさんは来なくなりました。

「えっと、急いで着替えてきますね」

私のテンションは駄々下がり。

臨時休業にならないかな?

あ、私のテンションが低いから、きっと開いてるよね。



「春香、おはよう。今日はよろしくね」

「え、あ、うん。よろしく」

驚いたことに、伊織は普通に接してきた。

なんだか予想外。脅されるかと思ってたのに。

「はるるん今日一日よっろしくー」

亜美が勢いよく後ろから抱き付いてきた。

予想外の衝撃で思わず身体がよろける。

「わっわっ!」

どんがらがっしゃーん。

「あらあら、大丈夫〜?」

「いたたたた」

私はあずささんの手を取り起き上がった。



レッスンが始まると、みんなの顔つきも一変に真剣なものになる。

やっぱり律子さんの指導は的確だ。

三人だけの歌声を久しぶりに近くで聴いたけど、本当に綺麗で揃っている。

思わず耳を傾けてしまう。

「ほら春香。別のこと考えてたでしょ?」

ぎくり。注意される速度も早い。これは気が抜けないかも。

ふと壁時計を見る。レッスンが始まって二時間経っている。

今頃、プロデューサーさんは空いた時間で腕時計を取りに行ってるんだろう。

私よりも腕時計を優先されたみたいな思いがした。

「こら春香。下向かないでちゃんと集中して!」

「は、はいっ!」

うう、やっちゃった。



「じゃあちょっとここで休憩ね」

一時間後、トレーナーさんが休憩を宣言した。

その途端、私はぱちーんと強く背中を叩かれた。

「春香、声に気持ちが入ってないけどどうしたの?」

叩いた犯人は伊織。背中がひりひりする。

伊織は平然として、悪そびれた様子は微塵も無い。

「そ、そかな?」

とぼけてみる。溜息と一緒に背中をもう一回叩かれた。



「また一人で悩まないでよね」

伊織、私のこと心配してくれてるんだ。

伊織だけじゃない。あずささん、亜美、律子さんも私を見ていた。

「春香ちゃんはすぐ顔に出るからわかりやすいわね〜」

あずささん、私ってそんなに顔に出てるの?

「春香はすぐ後ろ向きな行動に出るから、わかりやすいわよ?」

律子さん、私ってそんなに後ろ向きことしましたっけ?

「はるるんはすぐリボンに出るからわかりやすいよねー」

亜美、私ってそんなにリボンに……

「リボン関係ないよっ!」



「何かに気が向いてるのはバレバレなんだけど、どうせ今は話せないことでしょ?」

相変わらず伊織は鋭い。

腕時計嫉妬してますなんてこと、話せるはずが無い。

「いざとなったら私でも律子でも相談に乗るから」

「う、うん。ありがとう。でも大丈夫だから」

「なら、ほら、もっと気合入れて歌わないと置いてくわよ」

得意げだけど、優しさの篭った言葉だった。



伊織は真っ直ぐと私を見てくる。

昨日、お酒を飲んでやよいやよいと連呼していた寂しがりやの伊織とは思えない。

伊織だって、大なり小なり悩みくらいはあるよね。

だったら、私も年上として、少しくらい頑張らないと。

「よーし、天海春香、頑張ります!」

「やっぱり春香はそうじゃないとね」

そう言って伊織はもう一回、背中を叩いた。景気付けにしてはちょっと痛い。

「伊織、叩きすぎなんじゃない?」

すると伊織は営業スマイル全開の顔を向けてきた。

「昨日、私の頭を叩いたお返しよ。にひひっ」

あ、死んだ。私、死んだ。



「ありがとうございましたー」

レッスン終了。今日は一段と疲れた。

律子さんの指導もそうだったけど、何より伊織が、怖い。

伊織たちはトレーナーさんに挨拶をして帰り支度を始めた。

私はどうしよう?もう少し練習していこうかな?

「春香、私たちは帰るけど、残って練習する?」

律子さんからの問いかけに、少し悩む。

うーん。でも、今日は傘を持ってきてないから、一緒に帰ったほうがいいかな?



「えっと、それじゃあ」

「春香は最近休みがちだったし、今日は一人で練習できなかったから、少しくらい残ったらどう?」

伊織が遮るように言った。

「そ、そうかな。じゃあもうちょっと練習していきますね」

「病み上がりだから無理はしないでね。水分はこまめに採るように」

「はいっ!」

「うふふ、春香ちゃん、頑張ってね」

「はるるん、ふぁいとー」

私は四人の応援を受けて、もう少し頑張ることにした。



広い部屋で一人きりになった。

一人なので自分の声がよく響く。

反射してくるその声は、やっぱりどこか気持ちが入りきっていない感じがする。

千早ちゃんがいたら、きっと無言で見てくるんだろうな。

でも、どうしても頭の片隅で、プロデューサーさんの腕時計が気になっていた。

「私、なにやってんだろう……」

はぁ、嫉妬が強くてちょっぴり自己嫌悪。



お茶がなくなったので、自販機まで買いに行く。

窓の外を見ると、まだ雨が降っている。

携帯を取り出して天気予報を確認する。

どうも明日の昼まではずっと雨みたい。

少しもったいないけど、近くのコンビニで傘を買って帰るしかないかな。

ペットボトルの蓋を開け、一服。買ったばかりなのでとても冷たい。

ふと思った。そういえば、私はなんで伊織を怖がっているんだろう?

よく考えたら、ばらされると恥ずかしいことをしてたのは伊織だ。

録音はしていないけど、確か小鳥さんが写真を撮っていた。

それがあれば、立場逆転。

すぐにでも小鳥さんにメールで送ってもらおう。



ここでタイミング良く携帯がなった。メールの着信が1件。

「えっと……小鳥さんから?」

メールの本文はなし。添付ファイルが一つ。

なんだろう……画像だ。開いてみる。

粉々になった小鳥さんのカメラの画像が出てくる。メモリカードも縦に真っ二つになっていた。

きっと送ってきたのは伊織だろう。

ああ、もうだめだ。



失意の中、更に練習をすること一時間。

気が付けば外はもう暗くなりはじめていた。

雨はまだ降っているけど、そろそろ帰らないと。

その時、部屋にノックの音が響いた。

「はーい」

「春香、頑張ってるか?」

「ぷ、プロデューサーさん?」

プロデューサーさんが扉を開けて、ゆっくりと入ってきた。



「あれ、どうしたんですか?」

てっきり今日はもう帰ったと思っていたので、ちょっと予想外。

でもなんだか嬉しい。

「春香が一人でがむしゃらに練習してるって聞いてな。少し心配になって見に来た」

そこまでは熱心にしてはないけど……誰だろう?

「きちんと休憩しながらしてますけど、誰かそんなことを言ってました?」

「ん、四人ともだけど?」

「え?」

「特に伊織が妙に行け行けってうるさくてな。まあ言われなくても来るつもりだったけど」



嬉しさで思わず顔が綻ぶ。

もしかしたら、伊織なりのお礼のつもりなのかもしれない。

今日のあれは、きっと恥ずかしさの裏返しだったのかな。

伊織らしい、素直じゃない遠回りなお礼の仕方だと思った。

「おっ、そんなに俺が来たのが嬉しかったのか?」

「えへへ、違います」



「もう帰るところだったか。じゃあ送っていくよ」

私は急いで帰り支度をする。

「プロデューサーさん、傘って余ってましたか?」

「あ、しまったな。春香が傘忘れてるの、忘れてた」

今日もうっかりされてしまった。私も忘れたので一緒だけど。

「少しコンビニに寄ってもいいですか?」

「いや、俺の傘を貸すよ。俺の家は駅から近いから、走ればそれ程濡れないからな」

「あの、ではお言葉に甘えてお借りしますね」



私はプロデューサーさんの傘を借りることになった。

「ほい春香、どうぞ」

「お、お邪魔します」

「そんなに畏まらなくても」

プロデューサーさんの傘の中に緊張しながら入る。

大雨が降る中、私はプロデューサーさんと一緒に、一つの傘で歩き始める。

もしかして、伊織はこのことすら予想していたのかな。



プロデューサーさんの傘は私のよりも大きいけれど、やっぱり二人で入るには狭い。

雨脚が強いので、すぐに私の右肩は雨に濡れる。

きっとプロデューサーさんの左肩も同じくらいびっしょり濡れているのだろう。

朝の悪態がこんなところで返ってくるなんて。

「春香、もうちょっとこっちに寄ってくれ。結構濡れてるだろ?」

「そうですけど、それだと……」

遠慮がちな私に、プロデューサーさんは自分から寄ってきてくれる。

やっぱり今日のプロデューサーさんのテンションはかなり高いみたい。



もし美希なら、構わず傘を持つ腕に抱きついているんだろうな、と思う。

でも今の私にはそんな勇気はない。

自分の左肩でプロデューサーさんの右肩から伝わる体温を少し感じるだけ。

夏真っ盛りなのに、これだけ雨が降ると気温も随分と下がったように思える。

白い吐息なんて出るはずもないけど、レッスンの疲れも相まって寒いくらい。

だからこそ、プロデューサーさんの体温も強く感じられるのかもしれない。

私はちらりと隣を歩く好きな人の顔を見る。目が合った。

思わず目線をそらす。そらした先は傘を持った手。

そこには、革ベルトの腕時計があった。



「時計……」

思わず口から言葉が零れる。

「ああ、まだ取りに行けてないんだ」

朝からあんなに嬉しそうにしてたのに。

仕事は置いておいて、すぐにでも取りに行きそうなくらいだったのに。

今日は私を律子さんに預けたのだから、時間くらいあったはずなのに。

「ちょっと今日もどたばたしててな」

どうやら、また失敗したみたいだった。

思わずくすりと笑う。



「また何かしでかしたんですか?」

そう訊ねると、プロデューサーさんは苦笑いを浮かべた。

「ははは……やよいが高所恐怖症なのを忘れてて」

一体どこで何をさせたんだろう。

「室内プールの飛び込み台でな……」

「うわぁ……」

やよいが飛び込み台の上で足を震わせている光景は容易に想像できる。

でも、あんなの、私だって怖いです。

きっと響ちゃんとか真がやる予定だったんですね。



「あの、それだと早く行かないといけないんじゃないですか?」

時計屋さんと言うと、そんなに遅くまで開いているイメージがない。

「あそこは7時までだからな。もう間に合わないよ」

プロデューサーさんの腕時計を見ると、7時を過ぎていた。

残念そうな顔に、少し胸が痛くなった。

「私のところに来なかったら間に合ったんじゃないですか?」

「ん……」

言葉が詰まったみたい。どうも本当のことらしかった。



「大切な時計なんですから、早く迎えに行ってあげないとダメじゃないですか」

「先に春香を迎えに行かないとダメだろ。全部やるまでが仕事なんだからさ」

こつんっと傘の柄で頭を小突かれた。

「春香は俺の大切なアイドルなんだから」

「えへへ、そう言ってくれるなんて嬉しいです」

仕事でも、大切って言われると少し恥ずかし嬉しい。



しばらく歩いているうちに、繁華街が近くなってきたので人通りが増えてきた。

「春香、ちょっとだけ寄り道してもいいか?」

プロデューサーさんが歩調をゆっくりとしながら訊いてくる。

「はい、いいですよ」

私の返事を聴いてから、プロデューサーさんは人気の少ない狭い道を選んで歩き始めた。

きっと目的は時計屋さんなんだろうな。

もしかしたらまだ開いているかもしれない。

普通の人だったら明日でも良いことなのに、やっぱりプロデューサーさんは待ちきれないようだ。



時計屋さんに到着。それ程大きくはないけど、個人経営のお店ではないみたい。

まだ明かりはついていたけど、扉には当然のようにCLOSEの看板がかけられていた。

「やっぱり閉まってるか」

万が一の期待は空振りに終わったみたい。

中では女性の店員さん二人が掃除や事務仕事をしているけど、営業時間外なので何も言えない。

やっぱり私のせい……だよね。

と、中にいた店員さんの一人と目が合った。

店員さんは自動ドアを手で開けてこちらへ来る。

「あの、もしかして本日、時計を受け取りの?」

「はい、今からでも大丈夫だったりしますか?」

プロデューサーさんが期待を膨らませた笑顔を向ける。

店員さんもそれに応えるようににっこりと笑う。

「中へどうぞ」



閉店後の店内はBGMもなく、店員さんの事務処理の音だけが聞こえた。

夜の事務所と同じ感じだ。

雨脚はまた少し弱まったけど、それでも音が響いて少し寂しい感じがする。

「少々お待ち下さい。店長を呼んで参りますので」

「すいません、よろしくお願いします」

プロデューサーさんはすでに代替の時計を外して待っていた。

手持ち豚さんな私は、少しの間、私は中を見て回ることにした。



ショーケースの中に入っている時計はどれも綺麗だ。

一つ一つが光沢を放って、小さいながらも自分達のステージを煌びやかにしている。

形や大きさがそれぞれ違っても、全部が綺麗と思えるのは、機能美というものなのかな。

その分、値段も大変なことになっているけど、買おうと思えば買える自分もいたりする。

男の人が時計にお金をかける理由は、やっぱり装飾品としての意味もあるからかな?

仕事で身につけることができるアクセサリなんて、他には結婚指輪かネクタイピンくらいかも。



「なにか良さそうなやつはあったか?」

一通り見て回ったので、私はプロデューサーさんの隣に座る。

「はい、あのメガネなんかはなかなか素敵でした」

「時計じゃなくてメガネ?」

「え、だってメガネもいっぱい置いてますよ?」

時計屋さんなのにメガネも置いてあった。

どうしてこの二つは一緒に置いてあるお店が多いんだろう?



「それに、私は腕時計はそんなに必要ありませんし」

そう言って私は携帯電話をプロデューサーさんに見せる。

ちょっとした溜息が聞こえた。

「持っておいた方がいい。仕事中に携帯で時間を確認っていうのはあんまり印象が良くないからな」

腕時計だと相手に気付かれずに時間を確認できるけど、携帯電話ではそれができない。

その動作を嫌う人も少なからずいるとのこと。

「でも私、テレビとかのお仕事だと腕時計はつけられませんよ?」

「あー」

ステージ衣装で出る時には腕時計なんて振り付けの邪魔になるのでつけられない。

ラジオとかも基本的にどこも時計が置いてあるので、あんまり困らないし。



「まあ、あれだ。社会人としてはやっぱりつけといた方がいい」

むむ、まだ引き下がらない。でもなんで私も反発してるんだろう?

「じゃあプロデューサーさんが選んでくださいよー」

「俺が?」

「私だと、どれが良いのか全然分かりませんから」

それに、プロデューサーさんが選んでくれた時計なら、毎日身につけておきたいし。

「じゃあ、今度時間がある日とか休みの日にでも見に行くか」

「は、はい!」

なんだか、自然な流れでデートの約束ができちゃった。



「あの、もしかして天海春香さんですか?」

店員さんが話しかけてきた。あ、まずいかな?

横目でプロデューサーさんを見ると、コクンと頷いた。

外にはCLOSEの看板があるから、もう他に人は来ない。

「はい、天海春香です」

「握手してもらってもいいですか!」

「私でよければ」

差し出した右手を両手で握手される。

こうやって握手を求められるのは、いつでも嬉しい。



「サインもお願いできませんか?」

「えっと、どれにしましょうか?」

店員さんは急いでバックヤードに行くと、ごそごそと何かを取り出してきた。

のヮの<かき氷作ろう

ぽかーんと口が開く。

「これ、先週から始まった通販で買ったんです!是非ここにお願いします!」

え、このかき氷機って販売してるの?

てっきり小鳥さんが冗談で作ったワンオフ品だと思ってたのに。

「このあたりにお願いできませんか?」

どうしようもない気持ちになりながらも、かき氷機の背中にサインをした。



店長さんが現れると、世間話をしながらもすぐにプロデューサーさんの時計を出してくれた。

数週間ぶりに戻ってきた腕時計は、新品同様に綺麗になっていた。

結局、中の機械はほぼ全滅だったみたいで、半分オーバーホールのようになってしまったらしい。

フレームはそのままだけど、プロの人が洗浄したので、それも綺麗になっていた。

壊れた原因である留め金具もきちんと直されていた。

大切な時計が戻ってきたプロデューサーさんはとても嬉しそうだった。



やっぱりプロデューサーさんにはあの時計が似合う。

代替品の時計を壊さないように注意していた時よりも、ずっと自然な感じがする。

完全にフィットした革ベルトより、少し隙のある、ちょっぴり固い金属ベルト。

生真面目に時間だけは正確だけど、それだけに融通がきかないこともある。

でも、私たちが落ち込んで暗くなっていても、優しい光でちゃんと道標になってくれる。

プロデューサーさんの恋人は、やっぱりプロデューサーさんにそっくりだ。



「閉まってたのに無理をしてもらって、ありがとうございました」

「ありがとうございました。またのご来店、お待ちしております」

遅くまで残ってくれていた店員さんに挨拶をして、私たちは歩き出した。

残念なことに、雨は止んでいた。もう傘は必要はないみたいだ。

気温も上がり、湿度も手伝って少し暑くなっていた。

だから、私も自然とプロデューサーさんと距離を取った。

当たらない天気予報が少し恨めしい。



「こんな近くにもファンがいてくれたな」

「はい、嬉しいです。ところで、あのかき氷機って……」

765プログッズの通販。一応、取り扱ってくれているところはある。

とは言え、765プロでこんなものを流通させるのは、社長か小鳥さんくらいだ。

私は律子さんに相談しようと、携帯を取り出した……けど。

「……あれ、俺が作ったんだ」

「えっ」

「すまん。春香が可愛すぎてついやってしまった」



「ぷ、ぷ、プロデューサーさん?」

衝撃の事実。

もしかして、一生懸命かき氷を作ってたのも、自分が作ったから?

「もっと春香の可愛いところを知ってもらいたかったんだ」

なんだか熱心に私の良さを語ってくれるプロデューサーさん。

あの、凄く恥ずかしいんですけど……。

「黙って作って悪かった」

でも最後には謝ってくれる。

「今度から、私に一声かけてくれれば、大丈夫ですから」

「ありがとな。やっぱり、俺は春香で良かったよ」

どういう意味だろう?



歩いていても、プロデューサーさんは時計が嬉しいのか、右手首を頻繁に触っている。

まるで子供みたい。本当に大切なものなんだ。

「プロデューサーさん、時計戻ってきてよかったですね」

私は綺麗な右の腕時計を見ながら言った。

「やっと戻ってきてくれたよ。少し高くついたけど、こればかりはな」

こぼれる笑みを隠そうともしない。悔しい。



今のプロデューサーさんの右側はあの腕時計。私はその横にいるだけ。

文字盤は光が反射してよく見えないけど、それはしっかりと一秒一秒を秒針が刻んでいるのだろう。

やっぱり、私はまだプロデューサーさんの一番近くには行けないみたい。

いつか、あの腕時計よりも傍に近づきたい。

「仕事一筋って言ってたのに、恋人、いるじゃないですか」

ちょっとだけ棘のある言い方をしてみる。

でも仕方ないかな。だって、私はその腕時計に嫉妬してるんだから。



「腕時計が恋人とは、これまた変な表現だな」

「だって、誰よりも一番、プロデューサーさんの右側にいますから!」

きょとん、とした顔をされる。それからすぐに苦笑いをし始めた。

もしかしたら、私は少し怒っていたのかもしれない。

プロデューサーさんは鈍感だけど、私たちの体調や機嫌については鋭い。

「やっぱり、春香は可愛いな」

カチャカチャと懐かしい金属音が聞こえる。

プロデューサーさんは立ち止まり、私に外した腕時計を見せた。



「言いたいことは言った方がいいぞ。春香のお願いなら、できる限り叶えるからな」

そう言って、プロデューサーさんは私に大切な腕時計を渡してきた。

あれ?

予想外の行動にはてなマークが頭に浮かぶ。

プロデューサーさんはそのまま先を歩こうとする。

「えっ、えっ、ま、待ってくださいよー!」

疑問を頭に浮かばせたままで追いつこうとしたのがいけなかった。

「わっ、わっ!」

右足が左足にひっかかり、いつものように私はバランスを大きく崩す。

でもそこにはやっぱり当然のようにプロデューサーさんがいて、胸でしっかりと受け止めてくれた。



「危ないなぁ。せっかく戻ってきた時計を壊さないでくれよ」

「あの、さっきのあれってどういう……?」

顔を上げると、プロデューサーさんが露骨に目線をそらした。

「まあ、なんというか……時計に嫉妬されてもな」

少し困った表情で頬を掻いている。

ば、ばれていた……まさか、よりにもよって鈍感王のプロデューサーさんに!

「そんなことで時計を壊されたりしたら、たまらんからな」



うぐぅ……なんて酷い言葉。

「わ、私はそんなことしないですよ!」

「それに」

私の言葉を遮ってプロデューサーさんは続けた。

「恋人募集中はおしまいかなと」

そう言って右手を見せてくる。その手には、何もない。

「……は、はい?」

私はぽかーんと、ただ口を開けて立っていた。

「え、あ、え、え、えーっと……」

意味がわかったあとは、顔どころか、身体全体が熱くなった。

そして、言った本人のプロデューサーさんも、どこを見て良いか困っていた。



「遠回しだけど、俺にはこういう表現しかできなくてさ」

こ、こんな時はどうすればいいんだろう。

熱暴走する頭で考えるけど、さっきから思考が止まっている。

「い、いきなりそんな、変なこと言わないでください!」

「いきなりって言うほどいきなりか?前から春香が好きってアピールはしてただろ?」

わ、私が好きって言うアピール?何のことだろう?

「俺なりに春香をずっと右側にしたつもりなんだが、気付かなかったか」

大切なものは右側に。

と、と、遠回りすぎる……そんなこと、気付くわけないじゃないですか!



「も、も、もっと近道使ってくださいよー!」

プロデューサーさんの目に余る発言に、頭も少し冷えてきた。

数学みたいに、大切なものは右側に、という公式当てはめて行動したのだろうか。

嬉しさ八割、悲しさ二割。もっと積極的な人だと思ったのに。

でも、きっと今の私って、頬が緩んで誰にも見せられないような顔をしてるんだろうな。

「はは……ごめんごめん」

そう言って私の頭をいつものように優しく撫でてくる。

ちくりとした痛みはなかった。



「じゃあ、ちゃんと言うから聴いてくれるか?」

「は、はい」

「なんだか告白を言い直すのって少し恥ずかしいな」

「き、聴くほうの身にもなってください。私だってさっきから心臓が壊れそうですよ」

胸の鼓動を両手で抑えても、込み上げてくる気持ちが止められそうにない。

「春香、大好きだよ」

プロデューサーさんはぎゅっと私を抱き寄せてくれた。

少し暑いはずなのに、こうしてぎゅっと抱きしめられ続けたいと感じる。

プロデューサーさんの心臓の音が直接聞こえて来る。すごくドキドキしてる。

「私も……です」

精一杯、声を振り絞ったけど、全然出ない。

だから、代わりに私もプロデューサーさんの身体をぎゅっと抱きしめた。



少しだけ時間が経つと、周囲の目が気になって、恥ずかしくなってきた。

残念な気持ちを仕舞い込んで手を離すと、手のひらに違和感があった。

そうだった。私、ずっと腕時計を手に持ったままだったんだ。

右手の中の腕時計は、握り締めた体温と幸せな気持ちで暖かくなっていた。

この時計、私が持ってちゃダメだよね。



「プロデューサーさん右手、貸してくれませんか?」

「ん、こうか?」

私を抱き寄せていた腕を引いて右手を出してくれる。

「はい、ありがとうございます」

私はずっと手に持っていた腕時計を、丁寧にプロデューサーさんの右腕につける。

ありがとうの気持ちを込めて。

この腕時計はずっとプロデューサーさんの傍にいた。

それって、私がアイドルになってからずっと一緒にいたってこと。

嬉しかった時も悲しかった時、失敗したときも成功した時も。

ずっとプロデューサーさんと一緒に見守ってくれてたんだ。

腕時計さん、今までずっとありがとう。そして、これからもよろしくお願いします。

カチリと繋がった音が鳴った。



「なんだか、暖かいな」

「この時計のおかげで、私もいっぱい幸せになれましたから」

やっぱりこの時計はプロデューサーさんの右腕にあるのが一番だ。

でも、もうこの腕時計はプロデューサーさんだけの大切な時計じゃない。

「なら、余計に大切にしないとな」

そう言って差し出してきてくれた右手に私は左手を重ねた。



「やっぱり私、時計はいらないみたいです」

「ん、いらないのか?」

「代わりに、今度一緒にデートしてくれませんか?」

「そうだな。ちょっと遅くなったけど、海に行こうか」

「はいっ!」

そういえば、まだ今年は一度も行ってなかった。

折角新しい水着を買ったのに、お披露目はまだだった。

プロデューサーさんに水着姿を見られるのは慣れている。

でも、恋人としてのプロデューサーさんにはまだ見られたことない。

ちょっぴり、恥ずかしいかも。



「しかし、別に時計だって遠慮しなくてもいいぞ?」

「実を言うと私、もう大切な時計がありましたから」

「そうか。なら、春香の大切な時計に、俺も少しは嫉妬しないといけないかな」

「その必要は無いと思います。だって……」

「だって?」

「えへへ、恥ずかしいからこの先は言えません!」



「春香、俺から一つお願いしてもいいか?」

「プロデューサーさん、そういうのはあんまり催促しないでください」

「おいおい、俺の心を読まないでくれよ」

「プロデューサーさんのことなら、もう私、何でもわかりますから」

そう言って、深呼吸。さっきの分も合わせて、一番大切な言葉を言おう。

私は自分の左手に繋がった先を見る。

そこには綺麗な銀色と暖かな黄色の光が見えた。

「私もプロデューサーさんのことが、大好きです!」

左手をぎゅっと握り締めた。手と手が離れないように。

だって、こうやって手を繋いでいれば、その右の腕時計は、私の左の腕時計でもあるんだから!



おわり



初めて地の文有りでSSを書かせていただきました。
読みにくい、ぐだぐだしすぎ、寄り道しすぎ等、ご指摘いただければ幸いです。

11:30│天海春香 
相互RSS
Twitter
更新情報をつぶやきます。
記事検索
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計: