2015年03月26日

工藤忍「今日はいいてんき」


「懐かしいなあ……」



まだ寒さの残る乾いた青空の下、助手席に座る彼女はポツリと呟いた。このあたりに来るのは、ずいぶん久しぶりだった。





「詳しいんですか?この辺り」



隣でハンドルを握る後輩が訪ねる。

無理もない。ここは二十三区内とはいえ、都心からはかなり距離がある、企業も飲み屋もないような住宅街だ。



電車は各駅でしか止まらない。今でこそ背の高い建物も建ち始めているが、当時、十五年前は、スーパーすら近くにないような、文字通りの閑静な住宅街だった。





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「十五年前ですか……」



後輩がピンとこない、という風につぶやく。十五年前と言うと、彼はまだ小学校低学年かそこらだろうか。その反応も無理はなかった。



「アタシが東京に来た年」



「そうなんですか?じゃあ、十六歳でこっちに来たってことですか?」



「うん」



何を想像したのか、後輩がこれ以上訪ねて来ることはなかった。

おそらく家庭の事情か何かを想像したのかもしれないが、そんなものではない。もっと個人的なわがままだった。



十六歳。アイドルを目指し家出同然で青森を飛び出し、東京に、この町に住んだ。





「都心から遠くて、都会すぎないのが良かったんだと思う。たぶん」



どこか他人事のようにつぶやく。実際は、一番近くのスーパーですら歩いて数十分の距離にあるわ、近くに遊べる場所もないわで、青春真っ盛りの女の子が一人暮らしをするには少々、かなり控えめに言って少々不便な町だった。



信号が青から黄色、黄色から赤に変わり、それに伴い車も止まる。

ちょうどこのあたりだ。ここを右に曲がって、突き当たりを左。床屋の角を右に曲がって……



「ねえ、今何時?」



「大丈夫ですよ。次の現場まで、まだ時間もありますから」



「そう?」



思わず声がはずむ。工藤さんが寄りたいって言い出したんじゃないですか、と後輩が笑う。

ずっと態度に出ていたのだろう。心象を見透かされていたかと思うと、少し恥ずかしく、またそれが少し心地よくもあった。





「どっちに曲がります?」



「右。それで、突き当たりを左に……」



カチ、カチ、カチと、規則的なウィンカーの音がする。











アイドルは、大学卒業と同時にやめていた。

プロデューサーやほかの子たちは引き止めてくれたが、自分の中で「区切り」ができたように感じられたのだ。



満足していたわけでも、未練がなかったわけでもない。ただ、決断が必要な時期だった。それだけの話だ。





アイドルをやめてからは、放送作家をしている。

とは言っても、他の作家の補佐程度の仕事で、自分が主体となるような仕事はほとんど任されていない。



実力には自信があったし、決して自惚れではないように思う。

だが、裏方とはいえ動きを止めることのない芸能界だ。

結婚したら、妊娠したら、生理で体調を崩したら……女性であるということは、仕事の上で大きなハンディキャップとなった。

そんな理由で仕事がおじゃんになるたびに、私は苛立ち、焦り、多くの人に迷惑と心配をかけたものだった。



なぜここに来たがったのかは、私にもわからない。

かつて指導を受ける身だった自分が後輩を持ち、指導する立場にまわった。

それにあたって、自分が芸能界に足を踏み入れた時に住んでいた、この町が懐かしくなった。大げさな理由をつけるとすれば、そんなところだろうか。











十五年というのは、町並みを変えてしまうには十分すぎるほどの長い年月である。

移り変わりの激しい都心部はもちろんのこと、こういうごくありふれた住宅街でも、それは同じだ。



十五年どころか、半年に一度、正月とお盆には帰省している青森の風景でさえ、その変化には驚かされるのだ。かつて私が住んでいたアパートがどうなっているかなんて、想像もつかない。



だからこそ、覚悟はしていた。懐かしさを辿るのではなく、懐かしさを感じる気配すらも消えてしまったことを確かめるために来たんだ、と自分に言い聞かせてもいた。



だが。





変わりゆく町の中でもあのアパートは、今も変わらずそこにあった。しかし、人が住んでいる様子はない。

茶色に錆びてボロボロになった手すりや、外れかかった雨どいを見るに、不動産屋が採算を取れないと判断し、遊ばせているのだろう。

新興住宅が建ち並ぶ中、グレーにくすんだその姿は、まるで一人だけ馴染めずに、周りから取り残されているように見えた。



「とりあえず、停めましょうか」



後輩がアパートの前で車を停めてくれた。

私は車を降りる。背中からもう一度ドアを閉める音が聞こえたので、後輩も続いて降りたのだと分かる。





「ほんと、懐かしいなあ……ここらへんって小学校の通学路だから、毎朝子どもたちの声で目が覚めて……」



聞かれたわけでもなしに後輩に向かって話す。



「普通のアパートと同じでキッチンは部屋ごとにあるんだけどさ、それとは別に食堂があって、平日はそこでご飯を食べてたんだ。毎週金曜はカレーの日だったんだけど、バイトを入れてたからほとんど食べられなくて……」



一人で思い出に浸っているうちに、後輩のあいづちは次第に気のないものへと変わっていった。

無理もない。自分自身に置き換えてみれば、よく分かる。初めてプロデュースを担当したアイドルの思い出話。プロデューサーの話、もっと真剣に聞いてあげればよかったかな、と悔やむのは、自分が彼と変わらない年になってからだった。



「……行こうか」



「もういいんですか?」



「うん」



溜め息交じりに言って、再び車に乗りこむ。後輩もそれに続き、静かに車を発進させた。



サイドミラー越しに、アパートを一瞥する。変化の中にあって変われずにいるその姿は、ひどくみじめだった。











かつて住んでいたアパートの前の通りを十分ほど歩いたところに、小さな公園がある。

ここも、あの頃と変わっていなかった。ブランコがあり、滑り台があり、シーソーがあって、そして、桜の木があった。



「ごめん、ちょっと止めて」



「は?」



「いいから」



「はあ……?」



シートベルトを外して、小銭を後輩に渡した。



「飲み物でも買ってきてよ。そこらへんの自販機でさ」



後輩を邪魔者扱いするつもりはなかったが、今は少し、一人でいたかった。思い出に浸るには、やはりその方がいい。



車を降りて、公園の中に入る。桜の木に向かって歩きながら、そうだった、そうだったとあらためて思い出す。



三月の終わりだ。

桜の木が私を助けてくれた。



夜だった。

ひとりぼっちだった。

三十一年の人生の中で、いちばん孤独だったのは、あの頃だった。











ずっと、アイドルになりたかった。他人に言えば笑われるような夢だったが、幼い頃から変わらない、たしかなものだった。

当然、親からはいい顔をされなかった。特に父の反対が激しく、何度も口論を重ねて、そのたびに母を心配させた。



そんな両親の気持ちなんてつゆ知らず、私の夢への憧れは日に日に大きくなっていった。それに、アイドルになるなら東京だとも思っていた。青森でもアイドルにはなれるが、チャンスの数は天と地ほど違う。だからこれが最善だと思い、新幹線に飛び乗って、東京に行った。



東京の風景は、私の生きた十六年間の、どの経験にも例えられないくらい衝撃的なものだった。

グレーのビル群、黒いスーツの波、明るい夜……何もかも青森とはスケールの違うものばかりで、おのぼりさんだった私は期待に胸を膨らませながらメモをしておいた事務所の住所を探した。





幸い、オーディションには合格したが、事情を話したらすぐに事務所から両親に連絡が行き、二日とたたずに母が迎えに来てしまった。



こっぴどく叱られるかと思っていたが、母の口から発せられた言葉は、私の予想していたものとはまったく違うものだった。



好きにやりなさい、と呆れた様子で母は言った。愛想を尽かされたのかな、と当時は思ったものだったが、今にしてみれば、頑なに反対していた父をなんとかなだめて了承を取り付けたであろうことは、想像に難くなかった。



その後、私は一旦青森に帰り、転入の手続きや友達へのあいさつなどのもろもろを済ませて、三月の半ばからあのアパートで一人暮らしを始めたのだった。



家族や友だちとの別れはつらいものではあったが、自分の夢を叶えるための第一歩を踏み出せるという喜びに比べれば、それらは瑣末なものだった。

そして再び東京に行くまでの三ヶ月と少しの間、結局父と言葉を交わすことはなかった。ケンカをしたわけではなかったが、私は父を避けていたし、父は私を避けているような気がした。





学校への転入もアイドルとしての活動も、新年度を待つ形となっていた。そのため、三月が終わるまでの間、何もすることがない。

暇つぶしに事務所に出かけてみても、私と同じくらいの年の女の子はいなかった。事務をする場所なのだから、アイドルはいない。当たり前のことだった。



両親とひとつ屋根の下で暮らしていた今までは、一日中家にいれば、家族と口をきく機会なんて何度もあった。

外に出れば友達もいた。なにか特別なことをしていたわけではないが、友達と一緒にうだうだと過ごしていれば、一日なんてあっという間に過ぎていた。



だが東京では、知り合いは誰もいない。部屋にいるのはもちろん私一人。アパートにいても話す相手はいない。外に出ても話す相手はいない。買い物に出ても無言で用は済む。



近所を歩いても、事務所に行ってみても、都心のおしゃれなカフェに入ってみても、東京では誰も声をかけては来ない。十六歳の私は、正真正銘のひとりぼっちだった。



もちろん携帯電話は持っていたが、母や友達と連絡を取り合ったのは、一人暮らしを始めてからの最初の二、三日程度だった。みんな新年度に向けていろいろ忙しいんだ、と自分を無理に納得させたところで、元気は出ない。



かといって、こっちから連絡するのも「負け」を認めてしまうような気がして嫌だった。



とにかく寂しい。人恋しい。青森にいた頃は、外を歩けば見知った顔のおじちゃん、おばちゃんが声をかけてくれた。

こんなに長い間誰とも話さないのは、本当に、ものごころついてから初めてのことだった。





学校に通うようになれば友達もできるから、あとちょっとの辛抱だ、と自分に言い聞かせた。しかし、その一方で、友達ができなかったらどうしよう、という不安も消えない。



今にして思えば笑ってしまうような話だが、あの頃の私は真剣だった。

言葉を発しないまま一日を終え、布団にもぐりこむと、このまま私は一生誰とも口をきかないんだろうかという不安に襲われて、頭からすっぽり布団をかぶって、ラジオで聴いてそのまま耳に残っていた曲を、思い出すままいくつも歌った。



昼間はほとんど動かしていないぶん、顎の付け根が微妙にこわばるような気がして、それがますます不安を煽る。

肺のあたりがただれたようにむず痒く、意識していないのに息が震えた。





学校が始まる前日も、誰とも言葉を交わすことなく終わった。

昼間は適当な店を見て暇をつぶし、夕方になってアパートに戻った。



明日からは大丈夫だ。青森にいた時みたいに友達とわいわい賑やかにやれる。

心の半分で期待しながら、田舎者だとバカにされたらどうしよう、いじめられるんじゃないか、という、もはや妄想に近い不安も心の残り半分を支配していた。



そんな暗い想像に悶々としながら玄関の鍵を閉め、なんの気なしに郵便受けを覗いてみると、はがきが入っていた。

あの頃は新聞をとっていなかった。だから来るものと言えば生協のチラシくらいのもので、手紙が届くようなアテはなかった。



手に取り見てみると、絵はがきだった。青森の、弘前。観光名所でもある鮮やかな桜並木の写真に、まさかと思い、宛名を確認する。





父からだった。



元気ですか?

一人暮らしには慣れましたか?

住所が合ってるかどうかどうか分からないので、届いたら電話をください。



ほんのそれだけの短い文面を、私は何度も何度も、何度も読み返した。



どれほどそうしていただろうか、気がつけば日は沈みかけて、部屋はすっかり暗くなっていた。

慌てて明かりをつけようとしたが、思いとどまる。電話が先だ。明かりは、その後でもいい。



呼び出しのコールが耳に響く中、しょうがないんだ、電話をしないと住所が間違ってると思われるから、しょうがないんだと、自分に言い訳をしていた。



父が電話に出るまでの、あの長く永遠にも感じられた何秒間かを、私は一生忘れないだろう。





べつにたいしたことは話さなかった。早口になり過ぎないように、喋り過ぎないように「はがき、届いたから」「うん、学校は明日から」「ごはん?ちゃんと食べてるよ」なんて言って、父の話はほとんどきかずに話は終わった。



「うん、じゃあ」と言って、父が電話を切るのを待つ。ところが、父もなかなか電話を切らなかった。十秒ほどの沈黙があったあと、父の方から電話を切った。



ひと呼吸おいて、もう一度絵はがきを見る。暗闇の中でもはっきりとわかるほど鮮やかな桃色をした、弘前の桜。並木の桜は、道往く人たちを抱きしめているように見えた。



気がつくと、私は泣いていた。咳のような嗚咽が、胸の奥からせり出してきて止まらない。涙を、鼻水を拭うこともなく、ひたすら息を震わせて泣いた。



やっと落ち着いてきた頃、あることに気がついた。アパートの住所なら契約書の控えを母が持っているはずだ。べつに私に手紙まで送って聞く必要はないじゃないか。



父がどんな気持ちで電話に出たのかを考えると、おかしくてしょうがなかった。おかしくてしょうがなくて、笑って、笑って、そうして、もう一度泣いた。





部屋の明かりをつける。ティッシュで涙を拭き、鼻水をかんだ。



まだ友だちはいない。知り合いもいない。状況は何も変わっていない。

それでも、やっていけると思った。東京でがんばっていけると信じられた。



『すごいじゃん。十五年たっても、まだ東京で頑張ってるなんて。でも、まだまだこっからだよ』



十六歳の女の子が、三十一歳のおばさんを励ましてくれた。



ありがとう。



素直に思う。もうちょっと頑張るから見ててよ、とも。きみの描いた夢とは、ちょっと違うけれど。



桜の木をみる。まだ花の咲いていない裸のそれは、無骨で、なんだか寒そうだった。

絵はがきに映されていたものとは比べるべくもないような小さな木だったが、幹から枝を天に突き上げ、がんばれ、がんばれ、がんばれと、私を応援してくれているように感じられた。





木にもたれかかって、電話をかける。コールの音はあの時ほど長くは感じられなかったが、あの時と同じように耳に響く。



夫が出た。



「あ、アタシ……うん。いや、べつに何もないけど、うん、仕事頑張るぞ、って……あと、最近いらいらしててごめん……うん、それだけ……」



要領を得ないといった様子の夫に「帰ってからちゃんと話すから」と言って、向こうが電話を切るのを待った。



通話を終えると、ちょうど後輩が飲み物を買って帰ってきた。

こちらに気づくと手を振ってきたので、こちらも振り返して歩き出す。



乾いた青空に、桃色の蕾が胸を踊らせていた。





おわり





21:30│工藤忍 
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