2015年04月14日

ウォークザキャット


片側二車線の幅広の道路、その車道沿いにある歩道を俺は歩いていた。



日は今にも沈みかけようとしていて、橙色の空は物悲しい雰囲気を滲ませている。





往来にはスーツを着たサラリーマン、駅に向かって歩いていく賑やかな四人組、制服を着た学生などが居て、人通りが激しい。



目当ての少女を見逃さないように、俺は向かってくる歩行者の顔を遠慮なくじろじろと見ながら歩く。

 



見つけた。

 



制服に身を包んだ少女は、トレードマークとも呼べるものを頭に付けているはずもなく、代わりに赤い縁の眼鏡をしていた。



「やあ、久しぶり」



歩行者に紛れてしまわないように、大きめの声を出す。



向こうもこちらに気がついたようだ。



が、俺の顔を見た途端、表情をこわばらせ、踵を返して来た道を引き返そうする。



「ちょ、ちょっと待て!」



俺は慌てて追いかけて回り込み、彼女の進行方向を塞いだ。



「何も逃げることはないだろうが……みく」



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久方ぶりに会った少女、前川みくは不満げな顔を隠そうともせず、言った。



「……こんなところで、何してるの?」



「何してるって、お前を待ってたんだよ。無視することはないだろ」



「久しぶりだね、Pチャン」





まだ俺をプロデューサー扱いしてくれるのか、と安堵する。



しかし今はそんなことで喜んでいる場合でもない。



「とりあえず立ち話もなんだから、どっか店に入ろう」



「みくはPチャンと話すことなんて何もないんだけど」



「俺には山ほどあるんだよ」



辺りを見回すと、往来の人々がこちらを好奇の目で見ていくのがわかる。



中には明らかに不審げな視線を投げかけてくる者も居た。



思い出すのは、一人のプロデューサーの話だ。



一人の女の子をアイドルに勧誘するべく、連日通学路に張り込み、名刺を渡そうとする男が居た。らしい。



もちろんそんな奴は不審者以外の何者でもなく、当然のごとく警察に通報された。



その男と俺との共通点は二つある。



プロデューサーであることと、女子高生に話しかけている、ということだ。



もし通報されて、警察の厄介になれば、共通点が三つになってしまう。それは避けたかった。



「とにかく、頼むよ。久しぶりに会ったんだし、お茶を飲むだけでもいいからさ」



「それ、完全にナンパだよ」



「ナンパでもなんでも良い。とにかく話をさせてくれ」



みくは大きなため息を一つついた。



「Pチャンのそういう頑固なところ、全然変わってないね」





俺はその時、というかさっきから強烈な違和感を覚えていた。



その正体にすぐに思い至った矢先、みくは歩き出した。



「いいよ。どうせ今日断っても、また来る気なんでしょ?」



俺はみくの後を追いながら、それに答える。



「明日にでも」



「だったら、Pチャンの負担になるのも嫌だしね」



「負担だなんて思ってない」



「負担だよ。今日だってどうせ仕事の合間を縫って、わざわざ来たんでしょ?」



負担だと思っていないことも、仕事の合間を縫って来たことも、事実だった。



「だからさ。もうはっきりさせるよ」



みくはそれが何でもないことであるかのように、平坦な口調で、続けた。



「みくはもう、アイドルを続ける気はない、ってこと」



日は完全に沈み切り、夜の闇が空を覆っていた。



みくに連れてこられたのは、猫カフェだった。



店内は喫茶店というよりも、インテリアショップのような趣があり、ゆったりとしたソファーや洒落た照明、漫画が詰め込まれた本棚が置かれている。



落ち着きのある空間はそれなりに広い。



物をどかせば、ちょっとしたミニライブなら出来るな、とキャパシティを確認している自分に気が付いて苦笑した。



客はそれほど多くなかった。男女二人組で猫を愛でている者もいれば、猫を膝に抱え漫画を読んでいる者もいる。



俺とみくは、ふかふかのソファーに腰かけていた。



みくは隣で、白と黒の毛が混じったブチ猫を撫でていた。ブチ猫は気持ちよさそうに目を細めている。



「随分と手馴れてるんだな」



「ん。ここのネコチャン達とは顔なじみだしね。家じゃペット、飼えないから」



時折、にゃー、と呟いているのを聞いて、俺は思わず口に出す。



「猫語」



「え?」



「猫語だよ。俺と会ってから全然使わないなと思ってさ」

 

違和感の正体はそれだった。



「アイドルを辞めたんだから当然でしょ」



「まだ辞めたわけじゃない、から」



俺は歯切れ悪く口にする。



みくは俺の発言を無視して続けた。



「想像してみて。学校で、宿題忘れちゃったにゃ! 先生ごめんなさいにゃ! っていう女の子が居たとして、Pチャンどう思う?」



「宿題はちゃんとやった方がいいな」



「そ、そこじゃないにゃ!」



思わず口をついてしまったのだろうか、少しだけ猫語が飛び出していて、みくはわずかに顔を赤らめる。



みくは無理をして猫語を使っていたわけではない。



多少は意図的に使うこともあっただろうが、今みたいに会話に滲み出てくるように自然に使うことの方が多かったと、俺は思う。



みくがこほん、と小さく咳払いをする。



「学校でまで、にゃあにゃあ言っているわけにはいかないの、にゃ」



今度はわざとらしく語尾を強調するかのように言った。



「なあ、そろそろアイドルに復帰する気はないか?」



俺はなるべく深刻にならないように、みくに問いかける。



「だから、それは言ってるでしょ。みくはもうアイドルを続ける気はないって」



「ファンの皆だって、きっとみくのことを待ってる」



「みくにファンなんていないよ。CDだって全然売れなかったもん」

 

確かにみくのデビューCDは売れなかった。売れたCDを積み上げて、俺の身長に届くかどうか、といった程であり、ちひろさんは泣いていた。



「……あれは時期が悪かったんだ。それに宣伝も不十分だった。とにかく一枚のCDが売れなかっただけで諦めるには早すぎる」



「いつまで……」



俯いたみくがどんな表情をしているのかはわからない。



「……帰る」



「待ってくれ!」



「これ以上話しても無駄でしょ。たぶんお互いに。それにさ、Pチャン。こんなところで油売ってないで、アイドルの仕事を取ってきた方がいいよ」



立ち上がって、みくは歩き出す。



「また、来るから!」その背中に、そんな声をかけるのが精いっぱいで、ひどく情けなかった。



――



思い出す。



都内にある、比較的賑わいを見せるショッピングモールだ。



休日だからだろうか、通路はおろか、その両脇にあるショップや喫茶店はどこも満員で、人とすれ違うのも一苦労なほどの混み具合だった。





俺たちの立つ、イベントスペースを除いて、だ。





このスペースでは、定期的に様々な催し物が行われている。



それは例えばお笑い芸人を招いての漫才だったり、新進気鋭のバンドのミニライブだったり、そして、アイドルのデビューライブだったりする。



つまり今日は、前川みくが人前で初めて歌を披露する日、だった。



「前川みくですにゃー! どうぞ、よろしくお願いしますですにゃー!」



既にライブを終えたみくは、俺の隣で、CD片手に声を張り上げていた。



今披露した曲が収録された物を、その場で売ろうという魂胆だった。



「……もうちょっと自然な言葉遣いは出来ないのか?」



「き、きんちょうしてるんだからしょうがないでしょー!」



小声で文句を言い返してくる。





先程のライブは、悪くなかったと、俺は思っていた。



初めてのライブにしては堂々とした歌い方だったし、ダンスの方はぎこちなさが残るものの、大きな失敗は見られなかった。



ただ、無名の新人アイドルに対する評価はそれほど甘くないらしい。



無関心に通り過ぎていく者、ちらっと一瞥し、すぐに去ってしまう者、中にはみくの猫耳を見て、苦笑していく者までいた。



「なかなか厳しいな……」



「にゃー! Pチャン! 諦めたら、そこで試合終了にゃ!」



「何西先生だよ……」



逆境にもめげず、ダンコたる決意を持って、俺たちは声を上げてCDを宣伝し続けた。



その甲斐あってか、その場のノリで生きているような学生グループや、どう見てもアイドルに興味なさそうな愛想の悪い男性がCDを買っていき、わずかではあるが、売上を記録した。



「ねえあれ」という声が聞こえてきたのは、その時だ。



周囲には様々な人の話声が混ざりあい、雑音めいたものが取り巻いていたのだが、その男女二人組の声は嫌にはっきりと聞こえる。



「ねえあれ見て。猫耳ってさあ」



「あー、あれは……ちょっとキツイかなあ」



「だよねー。なんかアキバ系っていうかさ? てかそもそもさ、アイドルとかって自分が可愛いと思ってないと出来ないっしょ?」



「まあ、だろうね」



十代くらいだろうか、その男女二人組は、アイドル評論家にでもなったつもりで、次々と偏見に満ちた言葉を繰り出す。



曰く、アイドルにとって歌もダンスもおまけで、結局は容姿だ。



曰く、勉強しなくてもなれるんだから、アイドルは楽でいい。



他にも様々なことを言い立てて、果ては「お腹、空いたね」といって、人込みの中に姿を消した。



体の奥底で、得体の知れない、もやもやとしたものが渦巻くのが、わかる。



怒りだ。



一言浴びせねば気が済まない、と思った俺は一歩、足を踏み出そうとした。



「Pチャン、サボってないでCDを売るにゃ!」



みくの声ではっと、我に返る。「ああ……すまん」





俺は、みくがさっきの会話を聞いていなかったのだと、愚かにも決めつけ安堵した。



俺に聞こえていたのに、すぐ隣にいた彼女が、聞こえていないはずがなかったのだ。



おそらくみくは鬱蒼とした気持ちを表情に出さないように、堪えていたのだろうとは、今になって、わかる。



本人たちからしたら、悪気はないのだろう。会話を盛り上げるための、一つの話題に過ぎないに違いない。



ただ言われた側からしてみれば、それは明確な悪意となって、突き刺さる。



そして、そのことに気付いていない人間は残念ながら、非常に多い。



ネットを探せば先ほどのような論調は山ほど見かけるし、キリがない。



それら一つ一つの意識のない悪意が前川みくを蝕み、彼女のひたむきさを捻じ曲げてしまった。



結果、前川みくはアイドルを無期限で休止することになる。



多くの馬鹿の発言が一人の少女の夢を、心を、折った。





ただ、一番の馬鹿は、少女がそうなるまでに何も出来なかった他でもない、この俺だ。





活動休止を決定する少し前に、事務所でみくが言っていたことが、頭にこびりついて、離れない。



「ねえPチャン。みくの歌って誰にも届かないのかな」



それに対して慰めるべきか、笑い飛ばすべきかで悩み、結局何も口にすることが出来なかった俺は、やはり馬鹿だ。



またこの猫カフェに足を運んでいる。



みくに会うために来たのだが、学校を休んでいるのか、下校ルートを変えたのか、どちらにせよ会うことが出来なかった。



だから一縷の望みを託して、この猫カフェにやってきた。



前来た時とは異なり、煌びやかな装飾がそこかしこにされていたが、相変わらず空いており、人よりも猫の方が多いくらいだった。



猫を追いかけまわしている少女がいて微笑ましい。



俺はソファーに腰を下ろし、足元の寄って来たブチ模様の猫を撫でている。



ふと、柱に張られた、一枚の紙に目が行く。



『ネコチャン総選挙!』とポップな字体で書かれたそれには、猫のランキングが記載されている。



猫たちもこうして人気を争っているのか、と思うと複雑な気持ちになる。



「お前も、大変だな」とブチ猫に向かって、思わず話しかけていた。





「あの」という声がして、俺ははっとする。



「あの、今少しよろしいですか?」



「えっと……」



俺は猫に向かって独り言を呟いていたところを見られた気恥ずかしさがあり、まともに対応することができなかった。



「ああ」



俺に話しかけてきた女性は、二十代半ばだろうか、エプロンを身に着けており、胸元には『てんちょう』という文字と猫の肉球が書かれた名札を付けていた。



「猫に話しかけているお客様、結構いらっしゃいますよ。私もよく話しかけますし」俺が戸惑っている理由に気付いたか、フォローを入れてくれる。



「でも俺は人間ですが」



「今は人間に話しかけたんです」そう言って笑うと、周りの空気が弛緩するかのようで、こういう人が猫に好かれるのだなと、思った。



「少し、お時間いいですか?」



「ああ、それは全然」



「あの……間違ってたら申し訳ないんですけど、もしかして前川みくちゃんのマネージャーさん?」



ここでみくの名前が出てくるとは思っていなかったので、咄嗟に反応が出来なかった。



「の、ようなものです」とだけ、辛うじて絞り出すように言えた。



「やっぱり!」



「あの、前川みくをご存じで?」



「ご存じも何も」



この店の店長さんと思しき女性は、たっぷりと間を取ってから言った。



「私たち、みくちゃんのファンですから」



みくは、昔からこのお店に来ていた。特別話をすることもなかったが、店長さんからしたら常連さんという認識だった。



ある日の休日のことだ。家族で買い物に出かけると、その常連さんが、アイドルになって歌って踊っていたものだから驚いた。



その日以来、店長さんたち一家はみくのことを陰ながら応援している。



店長さんの話をまとめるとこういうことらしい。



「声を掛けたりはしなかったんですか?」



店長さんは困った顔になってしまった。



「それは悩んだんだよねえ。ここに来てる時ってプライベートってことでしょ? そんな時にアイドルやってるよね、なんて仕事の話をしていいのかどうか」



「きっと、喜びましたよ」それは間違いないと思う。「ファンです」という言葉ほど、嬉しいものはないだろう。



「ああ、そうなんだ」と店長さんはあっさり納得した。



「じゃあ、次は声、かけてみようかな」



「いや、こう言っておいてなんですが、今は」



今、その話をするのは逆効果なように思えた。



何故なら本人はすでにアイドルを辞めた気でいるのだ。



「そうなの? そういえば、次のライブの予定とか決まってないの?」



俺はどう返事をしたものかと迷っていた。



すると、その時、不意に聞き覚えのあるメロディーが聞こえてきた。



見ると、先ほど走り回っていた少女が、疲れたのだろうかソファーに腰を下ろしていた。



「あの子」



「ああ。あの子、家の娘なんです」そう言う店長さんの顔に、母親の貫録めいたものが浮かぶ。



店長さんが声をかけて、その子を呼んだ。



「なあに?」



「この人、みくちゃんのマネージャーさんなんだって」



「まねーじゃーってなに?」



「世話係みたいなものだよ」俺はそう説明する。



それで理解できたのかわからないが、せわがかり、せわがかりと呪文のようにつぶやく様は可愛らしかった。



「ねえ、君もみくのファンなの?」



「うん! わたしはひとりめのファンなの!」



この子の中ではみくのファン第一号らしい。



「さっき歌ってたのって、みくの曲だよね」



「パパがCDを買ってくれたの! もうほとんど歌えるよ! ともだちもみんないい曲だねって!」



「そう」俺は腹に力を込める。そうしなければ、込み上げてくるものが溢れてしまいそうだった。



「でもねえ」



「でも?」



「お歌は何回でもきけるけど、ダンスは一回しか見てないから覚えられないの。はやくみくちゃんのライブ、見たいなあ」



「……そうだね。俺も早く、見たいよ」





なんだよ、と俺は思う。



なんだよ、お前の歌、ちゃんと届いてるじゃんか。



その後も「じゃあそろそろこのへんで」とはならず、世間話は続いた。



「猫って勝手にどっかに行っちゃって、困ることないですか?」俺はそんなことを聞いている。



「少しは心配するけどね、でもやっぱりそこまで、しないかなあ」



いつの間にか店長さんは大分砕けた喋り方になっている。



他にすることもないのか、のんびりとした話し方で俺につきあってくれていた。



「あれいないな、と思って少ししたら、いつの間にか帰ってきたりするし」



「やっぱり猫自身も家族の一員だ、という意識があるのかもしれないですね」



店長さんはうーんと唸ったかと思うと、「というよりも」と口に出した。



「というよりも、大切なことは自然とわかってるって感じかなあ」



「大切なこと?」



「うん。たとえば餌とかさ。この家に帰ってくれば飢えることはないし、外はやっぱり寒いでしょ? そういうのって大切なことじゃない? でもそれって別に私が言わなくてもちゃんとわかってるなあって、思うんだよね」



「ああ」俺はうなずく。「ですね」



「実は、このお店、もうじき五周年を迎えるの」



「だからですか」俺は、店中にある飾り付けを見回す。



「ええ。せっかく五周年だし、何か企画でもしようかって、主人と話してたんだけど、特に思いつかなくて。何かいいアイディアない?」



俺はその時、閃くものがあった。



そして、それは自分でも驚くほどなのだが、上手くいくのではないかという予感があった。



――こんなところで油売ってないで、アイドルの仕事を取ってきた方がいいよ



本当にその通りだ。だから俺は俺の、本来の仕事をしよう。



「少し、ご相談があるんですけど」



――



「ライブ? 誰が?」



事務所で、前川みくが素っ頓狂な声をあげる。



「誰って、今説明したじゃないか。みくが」



「……待って、待って。話がおかしくない? みくは今何で事務所に居るんだっけ?」



「俺が電話で呼び出したから」



「うん、それは合ってるでしょ。それは何でだっけ?」



「事務所を辞めるために必要な手続きがあるから来てくれって俺が言ったから」



そう言えば、責任感の強いみくは必ず事務所に来るだろうと踏んだ。



「うん、うん。で、その書類は? 手続きは?」



「すまん、それは嘘なんだ」



みくが大げさにこける真似をする。



「おお、さすが関西人。本場のリアクションだな」



「じゃなくて! どうしてみくがライブすることになってるの!?」



「場所はあの猫カフェなんだ」俺は店の名前を口にする。



「え」



みくにとっては思いも寄らないことだったのだろう、口をあけて呆然としている。



「どうして」



「実はあの店の店長、とその家族を含めて、みくのファンだったらしい」



「え」



またしても固まってしまう。「そうなんだ」とつぶやくみくの顔がやや紅潮しているのがわかる。



「でも、なんでお店なの?」



「実はキャパシティ的には問題ないんだ。昔ライブハウスだったのを改装したみたいで、場所を確保して、機材を持ち込めば、音響とかも問題ないし……」



「じゃなくて!」



「あのお店、閉店するんだ」俺は再び、嘘をつく。



「へ、へいてん?」



「そう。だから、閉店の前に是非、ということで依頼されたんだ」



「そっか……あそこ閉店しちゃうんだ……」



何でも素直に信じてしまう、みくの将来が若干不安に思えたが、今回ばかりは好都合だ。



「だから、頼むよ。もう引き受けちゃったしさ。俺の顔を立てると思って」



「……別にPチャンのためじゃない。けど、やるよ」



「! 本当か?」



「あのお店にはお世話になってたから、それが理由なの!」



「助かるよ」



「それで、本番はいつなの?」



「二週間後だ」



「にっ」猫の毛が逆立つかのように、みくが反応した。



「二週間じゃ無理があるにゃ!」



「確かにきついスケジュールだと思うけど、二週間もあれば猫語も取り戻せるだろ?」



「そういう問題じゃないにゃ!」



猫語はもう既に戻りつつあった。事務所の空気がそうさせるのかもしれない。



「そういうと思って今日からレッスンできるように段取りしといたから。今すぐ向かってくれ」



「きょ、今日から!?」



今日のみくは驚いてばっかりだなあ、と思った。そして、なんだか懐かしい気持ちにもなる。



前川みくがこの事務所に帰ってきたのだということを実感する。



「急がないと、トレーナーさんカンカンだぞ」



「誰のせいにゃ!」



みくはあわてて鞄を掴み、外にでていこうとする。



「待て」俺はみくに向かって、ある物を投げる。



「忘れ物だ」



放り投げたそれは、みくのトレードマーク、猫耳だ。



みくは何か言いたそうにしていたが、あきらめたのか、そのまま事務所をでていった。



みくが事務所を出ていってから、俺はパソコンに向かっていた。



「ずいぶん、強引な方法で進めましたね」



向かい側に座るちひろさんが声を掛けてくる。



「まあ多少はしょうがないですよ」



「多少……だったでしょうか?」ちひろさんは苦笑いを浮かべる。



「ただ、不安はあります。二週間でどこまで宣伝ができるか……遠方からのファンは望めないかもしれません」



「プロデューサーさんの腕の見せ所、ですね」



「ええ。Webの更新は勿論として、あとはフライヤーを刷って、他事務所のライブでも配ってもらって……」



時間的な制約も勿論だが、予算の制約もあった。それにみく以外のアイドルのことも並行してやらねばならない。



焦燥感はある。



ただ不思議と、苦痛ではない。



みくのアイドルとしての姿が、再び見られる。そのことを想像し、俺は胸を踊らせる。



二週間はあっという間に過ぎた。



例の猫カフェの事務室を、控え室代わりに使わせてもらうことにし、俺はそこに居た。



が、そこには前川みくの姿がなかった。



既に、ステージのセッティングは完了している。あとは、時間になったらみくが登場するだけなのだが、本人がいなければどうしようもない。



「あの、みくちゃんは」



店長さんが不安そうな面もちで訪ねてくる。



「わかりません……携帯も連絡が繋がらなくて……今、手当たり次第に探しているのですが」



焦る思いが募る。まさか事故か?



そう思ったところで、携帯の着信音が鳴り響く。俺は受話ボタンを押す。



「ちひろさんですか?」



「みくちゃん、見つかりました!」走って探してくれたのだろうか、息も切れ切れだった。



「本当ですか!? どこです!?」



ちひろさんは、近くにある、公園の名を出す。



「わかりました。すぐ向かいます」



俺は通話を終了させる。



「みくが見つかりました! 申し訳ありませんがもう少しだけ、時間をください」



店長さんはみくの無事がわかると緊張が解けたのか、怒るわけでもなく、にこやかに微笑んだ。



「わかった。お客さんに、もう少しだけ待つようにお願いしてみる」



「すみません」とだけ言って、俺は駆け出す。



猫は気まぐれだからねえ、という言葉を背に、俺は部屋を飛び出た。



運動不足の体に鞭を打って、走る。



公園にたどり着くとベンチに座っている人影が見える。



ちひろさんと、俯いてはいるが間違いない。みくだ。



「ちひろさん、ありがとう、ございます」



俺は息も絶え絶えに喋る。



「いえ……でも……」



と言うちひろさんの視線の先には、前川みくの姿がある。



「みく。こんなところで何してるんだよ、さあ早く行こう」



「……やっぱり、やめるにゃ」



掠れた声で紡がれる言葉が、地面に落ちる。



「え?」



「やっぱりみくには無理にゃ……歌だってダンスだって、前よりずっと、出来なくなってた」



「そんなことないよ。トレーナーさん、褒めてたぞ。ブランクの割によく出来てるって。やっぱりお前凄いんだよ。俺が見込んだ通りだった」



それでも、みくは決して顔を上げなかった。



やがてみくは、一言、ぽつりと、こぼす。





「怖い」



それから、堰を切ったように話し始める。



「みく、怖いにゃ……みくが歌っても、踊っても誰も見てくれないのが。この二週間、ホントに楽しかった。

久しぶりに、思いっきり歌って、身体動かして、スカッとしたにゃ。やっぱりみくアイドルやりたいって思えた。

でも、夜になると夢を見るの。誰もいない広いステージで、みくは一人、踊ってる。それが、一番、怖い」



矢継ぎ早に繰り出されるみくの言葉が、俺にぶつかる。



一度も泣き言らしい泣き言を言わなかった少女が、こうして弱音を吐いている。



強く拳を握りしめた。そして手を開いて、そっと語り掛ける。



「怖いよなあ。外野は勝手に、いろいろ言うしさ。でもさ、みくのファンには、ちゃんと伝わってると思う」



みくはすっと顔をあげた。「でも、みくにファンなんて」



俺はそこで、今にも涙がこぼれそうな少女の目をしっかり見て、言う。



「ファンはいる。それを今日、確かめてこい」



俺は手を差し伸べる。握り返すみくの手のひらは、猫の手のように柔らかく、温かかった。



折角なので、俺は客席から見ることにした。



会場の猫カフェに、カフェのような趣は今はなく、持ち込まれた機材などが即席のライブハウスを作り上げていた。



あれだけ多くいた猫は大きな音がストレスになってしまうだろうということで、一匹残らず別の場所に移してもらった。



本当に、店長さんたちには頭が上がらない思いだ。



物が多く、ステージの設営がやや不安ではあったが、店長さんとその主人(驚くほど愛想が悪かった)の指示のもと業者がテキパキと動いたため、舞台は無事に整っていた。



あとは今日の主役が登場するのを待つばかりだ、と思っていると、前川みくがステージに現れる。





――その瞬間、客席は割れんばかりの歓声を上げる。





みくの目が、みるみる内に丸くなるのがわかり、俺は笑ってしまう。



「あなたたち、どこに隠れていたんですか」と問いたくなってしまうほどのたくさんの人が、居た。



――



告知をしてからライブ当日までは実に二週間しかなかったのだが、チケット自体は初めの一週間で完売してしまうほどの盛況ぶりだった。



Webで告知を始めたときに問い合わせが殺到したのだが、その内の一件は特に印象深い。



「二週間前に告知だなんて、こんなに急じゃ、有給が取れないよ」電話口で、おそらくは会社員であろう人が俺に不満をぶつけてきた。



その人の意見は最もだったので、俺は謝るほかない。



ただ、責められている時に通常抱くような負の感情はなかった。



むしろこうして熱心に電話までしてくれる人物が居るという事実に、喜びを覚えていた。



「次はもっと早めに情報を出してくださいね」と言って、電話を切られる。



「次は」という言葉が非常に力強く思え、俺の心は軽くなる。



――



「みくを驚かせたかったんですけど」



俺は隣に立つちひろさんに向かって、困ったように言う。



「もう、だから早く教えてあげたほうがいいんじゃないですか? って言ったのに……」



「はは……ですね」ぐうの音も出ない。



ステージに茫然と立つみくが、客席からの歓声に促されて、ハッとし、言葉を紡ぎだす。



最初は緊張している様子だったが、徐々に緊張がほぐれていくのがわかる。



やがて、音楽が流れ始め、みくの歌声が乗る。



曲が始まり、会場は一段と熱気を増したように思えた。



気づけば、俺の体も自然とリズムに合わせて動いている。



俺だけじゃない。隣のちひろさんも、いや、会場にいる人全員が体を揺らし、みくの声に聞き入っているのがわかる。



最前列には手足を思いっきり振り回してはしゃいでいる、店長の娘さんの姿も見える。



スピーカーから流れるメロディー、みくの歌、客席の歓声、それら全てが混ざり合って一つになり、会場の空気をかき回す。



今、この時だけは。



この場に居る誰もが、不安や不満といったものとは無縁でいるような気さえしてくる。いや、きっとそうだ。



そしてそんな状況を作り上げているのは紛れもない、ステージに立つたった一人の少女なのだ。



みくと視線がぶつかり合う。



今にも泣きだしそうな顔で、けれども八重歯を見せて大きく笑うみくは、そのまま歌い続ける。



俺は確信めいたものを感じた。彼女はもう、大丈夫。



ふと、店長さんの言葉が頭の中で蘇った。





大切なことは、自然と、わかる。



――――



――



「Pチャーーン!! はやくしないと遅刻するにゃああ!」



「ああいや、そうなんだけどさ、車の鍵が見つからなくて……」



「鍵はいつもの場所に置くようにいつも言ってるにゃ!」



「いつもの場所を5か所ほど当たってみたんだけど、どこにもないんだ」



「いつもの場所、多すぎにゃ!」



あの、猫カフェライブから、半年が経っていた。



すっかり忘れていたのだが、みくはあのライブを、店の閉店に際して行われたものだと思っていたのだった。



当然、店が閉店する予定なんかなかったので、みくは安堵のため息をついたり、俺への怒りを表してみたりと忙しかった。



今、あの猫カフェにはみくのサインと、あの日の猫耳が飾られている。



先日、遊びに行ったときは、店長の娘さんがその猫耳を付けて、楽しそうに猫を追いかけていた。



今はごく普通の営業モードになっているが、店長さんからは「6周年はどうする?」と言った声もいただいているので、現在、企画中だ。



「ところで」とちひろさんが声を出す。



「ところで、そのみくちゃんが手に持ってるのは、車の鍵じゃないの?」



「へ?」



みくの手には確かに鍵が握られている。そしてそれはどう見ても、今俺が必死になって探していた、車の鍵だ。



「あー……これは。そうにゃPチャンがいつも鍵がないないって騒ぐから、みくが先に……でもたまにあるでしょ? リモコン持ったまま、あれリモコンどこだっけーって探したり……」



突然言い訳を始めていた。



「なんでもいいから、鍵をこっちに……」



「えいっ、ネコパンチ!」



「痛っ!! なんで!?」



「特に意味はないにゃ。とにかく先に行ってるから、Pチャンも早く来るにゃ!」



みくはそう言って、事務所を慌ただしく出ていった。



「何にもなしに、殴るなよ……」



ふと、にゃーという猫の鳴き声が聞こえた気がして、俺は窓の外を眺める。



絵具で塗ったかのような青が、そこにはあった。空はどこまでも突き抜けていて、果てがない。



「Pチャーーン! 早くしないと本当にやばいにゃ!」



「誰のせいだよ! ったく……ちひろさん、行ってきます」



「いってらっしゃい。お気をつけて♪」



ちひろさんに見送られて、俺も走り出す。





我が家の猫は、長い散歩から無事に戻って、こうして今日も、鳴いている。





   了



21:30│前川みく 
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