2015年06月08日

速水奏「インタビュー・フォー・ヴァンパイア」




 「――っあ、っ! 奏……かな、で……っ!」







満月よりも白い周子の喉笛へ、何の遠慮も無しに牙を突き立てる。

薄い皮の破れる感触と、流れ出る温かな感触と。

滑らかに肌を伝う、たった一すじの流れに。





私は溺れそうになっていた。





 「ふっ……んぅっ」



赤ワインは飲まない。

トマトジュースは嫌い。

ブラッディマリーなんてだいっきらい。



ただこの静脈からの流れだけが、私のどうしようもない渇きを潤してくれる。



 「っ、はぁ…………どう、だった? 奏……」



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磨き上げた黒曜石に似た瞳が、目の前で炎のように揺れる。





吸血鬼の眼は魅了の瞳。





なら、私を捉えて。

捕えて離さないこのコの瞳は、一体何なのかしらね?







 「――ええ、とっても美味しかったわ。御馳走さま、周子」







口の端に残った雫を舐め取って、私はいつものように魔法を掛けた。



 ― = ― ≡ ― = ―





 「――あー。そういやニンニク嫌いって言ってたっけ」





 「まぁそれは単なる私の嗜好だけど」







私、本当は吸血鬼なの。







馬鹿みたいな私の言葉に、周子はいつもの涼しい顔で応えた。



 「そのチョーカーの飾り、銀じゃなかった?」



 「武器として振るわれなければ平気」



 「胸に杭打ち込まれると死ぬんだっけ」



 「死なない人が居たら是非見てみたいわね」



 「良い天気だね」



 「ええ、本当に」



 「吸血鬼日和?」



 「日光が苦手と言うより夜が好きなのよ、私の場合」



穏やかな風の吹く気持ちの良い昼下がり。

オープンカフェは賑わいに満ちて、絶好の雑談日和だった。



 「吸血鬼さんかー。やっぱトマトジュースとか好きなん?」



 「むしろ嫌いね。血もそんなに好物じゃないし」



 「それ吸血鬼としてどうなの」



 「昔からよく言われるわ」



血なんて数えられる位しか啜った記憶が無い。

ただ、落ち零れめ、と事あるごとに蔑まれたのはよく覚えている。

口癖のようにそう呟いていた両親の顔は、もう記憶の海に埋もれて思い出せないけれど。



 「ミルクの方がずっと美味しいじゃない」



 「奏のイメージ的にはブラックコーヒーとか飲みそうだよね」



 「そっちの分はPさんに任せてるの。二人合わせればカフェオレで丁度良いでしょう?」



 「後はブランデーとか……っていうか奏、そしたら年上?」



 「最近は数えてないけど、だいたい貴女の十倍ちょっとかな」



物心が付いた時、私は今で言う中東に居た。

中東、欧州、新大陸。

血の匂いのする国を、両親に連れられて転々として。

争いに嫌気が差してこの国にやって来たのも、もう十数年前になる。



 「日本は平和で良いわ。吸血鬼狩りも居ないし」



 「え、マジでそんな奴ら居んの」



 「ええ。銀の弾丸で撃たれた時は焦ったわ」



襲われて、騙して、殺して、狙って、逃げて。

そんなのはやりたい奴等同士で勝手にやっていてほしい。



 「そっか、奏がねー……あ、すみませーん。本日のケーキくださいな」



店員さんを呼んで周子が注文を頼む。

……あら、ザクロのケーキとは珍しいわね。私も頼もうかな。



 「吸う?」



 「え?」



 「血」



タートルネックの首元をぐいと捲って、周子が私へ首筋を見せ付ける。





レアチーズケーキみたい。





場違いにそんな感想を抱いた。



 「いや、別に大丈夫だけれど」



 「遠慮せんでええよ。献血で慣れとるし」



 「一緒にされても……大体、吸わなくても死にはしないし」



 「わけわかんないね吸血鬼って」



 「私もそう思うわ」



実際、私は私自身の事をよく知らない。

何時、何処でどう生まれたのか。

何故魔法が使えるのか。

一体、何の為に生きているのか。



興味も無いし、別に構わないけどね。



 「いや献血は何度もやってるけどさ、吸血はされた事一度も無いんよ」



 「大抵の人はそうじゃないかしら」



 「だから興味あるんでいっちょよろしく」



 「こんな気軽に吸血希望する娘、史上初めてかも」



 「いいねー史上初って響き」



ケーキをつつきながら、周子が楽しそうに笑う。

正直、吸血鬼と同じくらいわけのわからない娘だった。



 「……まぁ、そんなに言うなら試しに吸ってみましょうか」



 「痛い?」



 「さぁ?」



 「優しくしてね」



 「努力するわ」



 「お願いねー」



 「周子」



 「んー?」



 「信じるの?」



 「うん。奏は大事な所で嘘言えないでしょ」



 「……そんな事無いわよ」





周子が一層楽しげに笑う。





 「うそつき」



 ― = ― ≡ ― = ―





 「いや、だから献血じゃないんだってば」



 「そう?」





周子がアルコール脱脂綿を放り捨てる。

首元を捲り下ろして、その眩しさを私へ見せ付けた。



 「じゃ、どうぞ」



 「ああ、首じゃなくていいのよ」



 「え、そうなん? 吸血鬼って言えば首筋をガブリとやるもんだと」



 「『狩り』の時はそれでいいんだけどね。別に貴女を殺すつもりも無いし」



周子の左手を取る。

見た目に違わぬ滑らかさは羨ましくなる程だった。

その細い細い小指を、そっと口元へ寄せる。



 「吸血にもね、作法があるの」





ぶつっ。





 「――つ、っ!」





周子が眉根を寄せる。

けれど、痛みは全く無い筈。

彼女の小指には、痛覚鈍化の魔法を掛けておいたから。



食い破られた彼女の小指から、生温かい血が滴っ、て…………。



 「何か変な感じだね。くすぐったいってゆーか」



 「…………」



 「でもちょっと……って、奏?」



最後に血を吸ったのは何十年前だったのか。

記憶には欠片も残っていないけれど、それでも分かる。





血なんてモノは、こんなに私を満たしてはくれなかった。





 「おーい奏さんや。聞こえ」







ちゅうっ。







 「――っひゃ、んっ!!」







周子に肩を突き飛ばされ床へ倒れ込む。

その弾みで小指に牙が引っ掛かって、破けた皮膚から血飛沫が飛び散った。



 「っはぁ、はぁっ…………!」



周子が左手を胸に抱え込み、紅潮した顔で私を睨み付ける。

いえ、それは正確ではないかもしれない。

その整った顔に浮かんでいたのは、怒り、怯え、困惑と。





ほんの微かな恍惚。





 「ごめんなさい、いま治すわ」



周子の指を引き寄せて、魔法の呪文を紡ぐ。

静かに流れていた血が止まって、ゆっくりと傷跡が塞がっていく。

その様子を、私達は無言のまま眺めていた。



 「これが吸血。……ご感想は?」



 「……なんか、疲れた」



 「血が減ったせいね。後で何か食べに行きましょう。奢るわ」



 「お、じゃーあのイタ飯屋さん行こ。たらふく奢ってもらうかんね」



 「はいはい。全く高くついたわ」





私達の言葉は、嘘ばかりだ。



 ― = ― ≡ ― = ―



吸血鬼には制約がある。



朝陽を浴びれば灰と化す。

十字架が苦手。

流れる水を渡れない。



最も、例外はたくさんあるけれど。

私も親も陽の下を歩けたし、若い世代は十字架なんて何とも思わないらしい。



ただ、それじゃあ余りに情緒が無くて。

私も少しは伝統を守りたいなんて思ったりもしている。

だからこれだけは守る事に決めた。





――吸血鬼は、招かれなければ他者の元へ踏み込めない。



 ― = ― ≡ ― = ―



 「……ん」



今度は指先ではなく、指の腹。

周子は目蓋をぴくりと動かして、けれど前ほどの違和感は感じていないように見えた。



 「んくっ」



実際の甘味なんかとは違う。

けれどこのラズベリーソースみたいな甘やかさが、私の舌を痺れさせる。

お腹ではなく、胸の満たされるような感覚がした。



 「はい、おしまい。……どういう風の吹き回し?」



魔法を掛けて傷跡を塞ぐ。

周子はあー、とかんー、だとか言いながら頬を掻いた。



 「誰かに献血するのも良いけどさ、どうせなら身近な人にあげたほーが手っ取り早いと言うか」



 「ふぅん」



 「ほら、血不足で奏の元気が無くなっちゃっても困るしさ」



 「へぇ」



 「…………」



 「…………」



 「…………癖になっちゃった」



 「そ」



吸血行為は繰り返すごとに快感が高まっていく。

徐々に血を吸って、従順な僕を生み出す為に。

最終的には、性行為なんかよりもずっと深い快楽を感じる。



最も、周子を僕にするつもりは無いし、それを伝える必要も無い。



 「ねぇ」



 「ん?」



 「何で小指なの」



左手の小指の先を見つめながら、周子が呟いた。





 「一番惜しくない部分だから」





腕を取る。

ちゃんと食べているのか心配になるくらい軽かった。



 「左手の小指、手首、腕、二の腕、肩――」



そして周子の首に触れる。

滑らかな肌は、まるで摩擦が存在しないみたいで。



 「最後が首、ってわけね」



 「あら、違うわ」



 「え?」



 「最後はね、いちばん重要な部分なの」



 「…………左胸?」



 「いいえ」



そう古い伝統って訳じゃない。

けれどその優雅さは、吸血鬼達を納得させるに十分な魅力があった。





 「結婚指輪を填める指よ」





その場所は地域によって様々だ。

右手に填める国もあれば、婚姻と結婚で填める指を変える所もある。



けれど。



 「……左手の薬指、って事?」



 「この国は吸血鬼にとってロマンチックね。始まりとお終いがすぐ隣り合わせなんて」



こんなに綺麗な娘なんですもの。



いつかは素敵なひとと結ばれて。

それはそれは幸せな人生を全うして。

そして死を手懐けて、天国へのお供にするんでしょうね。





私が其処へ往く事は、決して無いけれど。





 「ねぇ、周子」



 「……何?」





だからせめて、それまでの間は。





 「好きよ」



 ― = ― ≡ ― = ―



 「どうした塩見、調子が良さそうじゃないか」



 「え、そう?」



 「いや、ちょっと違うな。やる気……そう、意欲が出て来たのか」



 「あはは。何か最近ムショーに身体を動かしたくって」



ベテトレさんの賞賛に、周子が照れくさそうに笑う。



 「ああ、身体の隅々まで良く動いている。この調子で行けばまたライブに出られそうだな」



 「やった。まだ一回しか出てないかんね」



 「歌の方もその調子で頼むぞ」



周子には、アイドルとしての才能があると思う。

人の視線を捕らえて離さない、魅了する何かを持っている。

何なら私が保証したっていい。



 「速水の方もなかなか良い具合だ」



 「……え、私?」



 「ああ。今までのお前はどこか冷えていたと言うか……今は、僅かだが温度を感じる」



 「おー、ベテさんのベタ褒め。こりゃ帰りは台風かな」



 「ターン練習の嵐で帰れなくするぞ」



 「ひえぇ、カミナリが落ちた」



周子が頭を抱えて私の背へ隠れる。

今はほとんど変わらない背丈のお陰で効果は薄そうだった。



 「ここだけの話な」



 「?」



 「遠くない内にお前達のCDを出そうかって話も出てる。しっかりやれよ」



 「ベテさん」



 「何だ」



 「そのここだけの話。私達のPさん含めて、聞くの三回目」





階段を一段ずつ上るように。





塩見周子はゆっくりと、アイドルとしての魅力を増していく。



 ― = ― ≡ ― = ―





 「んっ」





とある劇作家曰く、キスは見舞う場所によって違う意味を持つらしい。





 「……っく、ぅ」





吸血はそれぞれどんな意味になるのか、是非とも教えてほしいものね。





 「は……んあ、っあ!」





たぶん、全て狂気の沙汰でしょうけれど。







 「――っあ、っ! 奏……かな、で……っ!」







その夜、初めて。







満月よりも白い周子の喉笛へ、何の遠慮も無しに牙を突き立てた。





 ― = ― ≡ ― = ―





 「――塩見っ!!」





目の前で起きている出来事が理解出来ない。

力無く崩れ落ちた周子の指先が、怯えるように震えている。



 「救急へ連絡する。速水は何でもいいから布と飲み物を持って来い! ありったけだ!」



 「え、あ……」



 「はやく!!」



 「っ!」



頭で処理するよりも早く、私の脚が勝手に動き出した。

レッスン場の床に飛び散った汗で、トレーニングシューズが滑る。

ぽたぽたと滴ったのが汗ではなく涙だった事に、その時は気付けなかった。



 「……はは。おおげさ、だって」



 「お前は静かにして全部任せとけ……では、よろしくお願い致します」



少々呂律の怪しい舌で強がったまま、周子が救急車へ運ばれて行く。

私はその様を、どこかフィルムの中の風景のように感じながら眺めていた。



 「――はい。はい、そうですか。ありがとうございました。では」



受話器を置いて、ベテトレさんが長く息を吐いた。

安堵の息だった。

それに釣られるように、私も知らず息を吐く。







 「ただの貧血だそうだ」







首を絞められたように、息が止まった。







 「食生活が偏っていたんだろう。それか夜更かしでもしていたか」



血の気が引く。





――馬鹿ねぇ。血の気が引いてるのは彼女の方じゃないの。





私の中で嘲笑する私を噛み殺す。

口に広がった血は、二世紀生きてきた中で最悪の味がした。



 「気付けずに普段通りのレッスンを課してしまった。私の失態だ」



違う。

ベテトレさんの所為なんかじゃない。

悪いのは…………悪いのは、



 「速水。すまないが今日は中止だ。これから報告に行かなきゃならん」



 「…………はい」



 「図々しいお願いだが、後で塩見の所へ顔を出してやってくれ」



慌てた様子で準備を済ませて、ベテトレさんがレッスン場を飛び出していった。

熱が引いて寒気がするようなレッスン場に独り、取り残される。





 「そっか」





どうやらまた、時間切れみたい。



 ― = ― ≡ ― = ―





 「やっほ、奏」





綺麗な満月の晩だった。

窓から月明かりが差し込んで、周子の肌を妖しく照らしている。

月は彼女の味方だった。



 「元気そうね」



 「元気げんき。こんな入院服着たの初めてだよ」



 「まぁ、今日はゆっくり休みなさいな」



 「こんな時間に面会来といてその台詞はどうよ」



 「ごめんなさい、野暮用を済ませてきたの」



他のベッドに患者の姿は無い。良い事ね。

念の為にと放り込まれた病室のベッドの上で、周子はいつも通り私を出迎えてくれた。



 「暗いでしょう。電気ぐらい点けなさいな」



 「いや、今は暗い方が落ち着くしさ。それに」



 「?」



 「月がさ、奏みたいだなって」



 「…………」



全く、困った娘。

そういう台詞は、将来の良い人の為に取っときなさい。



 「ほい」



 「何よこの手は」



 「何って、差し入れ。お見舞いと言ったらやっぱり、ねぇ?」



 「ちゃっかりしてるわ……はい」



後ろ手に隠していた花束をそっと差し出す。

ラッピングされた、二輪だけの花束。



 「お見舞いと言ったらやっぱり、花よね」



 「…………」



 「花より団子が良いとか言い出さないでよ」



 「……これ、何て言う花?」



 「何と言ったかしら……夕美に見繕ってもらったから、気になるなら訊いてみて」



 「ふぅん……まぁいいや。奏からの花なら何だって嬉しーし」



彼女に負けず劣らずの白い花を眺めて、周子が微笑む。

このまま時を止めて、額縁に入れて飾ってしまいたくなる光景だった。





けれど彼女は人間で。

0時を過ぎれば、また明日がやって来て。

そして眩しい朝陽が昇る。





 「周子」



 「んー?」



 「潮時よ」





周子の微笑みが凍り付く。





ああ、やっぱり。

この娘は、とても聡い。







 「…………何が?」



 「もう、時間切れ。潮時なの」



 「しお、どき? 何ソレ、塩見さんへのドッキリかな? あはは」



 「きっとまた迷惑を掛けるわ。だからお別れよ、周子」



周子の身体が強張って、二輪の茎が手折られる。

揺れるカーテンの衣擦れがよく聞こえる、静かな夜だった。





 「やだよ」





 「そんなのいやだ。トップアイドルどころか、まだライブにだって一度しか出てない!」



最初は、吸血鬼がアイドルなんて馬鹿じゃないかと思った。

朝陽どころかスポットライトを浴びて踊るなんて冗談にもならない。



けれどまぁ、長い生の暇潰しにはなるかと思って。

そこで出会った女の子は、見惚れるくらいに綺麗で。





彼女と共に跳ね回ったライブは、これから先も、きっと忘れない。





 「ゆ……ユニットは? ミラージュはどうすんのさ!」



 「貴女はまだまだ、もっと輝けるわ。でも私はもう、魔法の解ける時間が来たの」



 「分かんないよ。奏の言ってる事、何一つだって分かんない!」



周子が駄々っ子のように首を振る。



 「全然歳を取らないなんて、おかしな事なのよ」



 「おかしくないよ! 長生きできていいじゃん!」



 「そんなおかしな奴がずっと傍に居たら、きっと貴女の邪魔になる」



だからいつものように消してきた。私が居た痕跡を。

私に関する資料も、Pさんや他のアイドルの娘たちの記憶も。



最も、既に巷へ出回っているライブDVDなんかは魔法だってどうしようもない。

まぁ、駆け出しの私のファンなんて数えられる程しか居ないでしょう。

幻のアイドルっていうのも、なかなか悪くない響きよね。



 「紛い物の魔法はもうおしまい。貴女の彼の、本当の魔法を信じてあげて」



貴女の担当さんは、貴女の事をよく見てる。妬けちゃうくらいに。

きっと周子ならトップアイドルにだって、シンデレラにだってなれる筈。



 「……あ、あたしっ! あたしね」



周子が私の腕を掴む。

その手は力が篭められていて。

けれど吸血鬼を止めるには、悲しいぐらい非力だった。



 「奏のこと、好きだよっ。大好きだよ!」



 「私も貴女もきっと溺れているだけよ。吸血の快楽に」



 「そんな事どうだっていいよ! もう血なんて吸ってくれなくていい! だからっ!」



彼女はとうとう泣き出してしまって。





 「そばにいてよ、奏…………」





血よりも涙を流している方が、ずっと綺麗だと思った。





 「周子。私の目を見て」



 「……っ!」



周子が目蓋をぎゅっと閉じる。

いつだって私の言葉に逆らわなかった周子が、初めて見せた拒絶だった。



 「周子」



 「いやだ」



 「お願い」



周子の目蓋にキスを見舞う。

震えていた周子が恐る恐る目蓋を上げて、そして驚いたように見開く。





その表情が、ひどく滲んで見えた。





 「かな……で…………」





吸血鬼の眼は、魅了の瞳。







 「おはよう、周子。せめて明日からは良い夢を」







周子の目蓋が再びゆっくりと閉じて、静かな寝息が聞こえてきた。







悪い吸血鬼は、朝になれば去るのが運命。

彼女はずっと、悪い夢を見ていたのだ。



腰掛けていたベッドから立ち上がる。

穏やかな彼女の寝顔へ、私はそっと顔を寄せる。



 「…………」



やっぱり、やめた。

代わりに彼女の左手を取る。





お終いに相応しいお別れを言おう。







 「――さぁ。夢から目覚めて、周子」







貴女のシンデレラストーリーは、これからがはじまりだから。







薬指へキスをして、私は夜の中へ歩き出した。





 ― = ― ≡ ― = ―





 「――ん……」





今日もパリは喧噪に満ちていた。

少し冷めたカフェオレを傾けて、文庫本に栞を挟む。



 「嬢ちゃん。良い赤ワインが入ったんだが試してみるかい」



 「……私、ティーンよ」



 「何だ、惜しいな。せっかく読んでる本が本だったんでね」



マスターが文庫本を指差して笑う。



 「『暁の吸血鬼』だろう? 映画にもなったんだが知ってるかね」



 「いえ。今度借りて観てみようかしら」



 「おう、是非ともな。昔のパリが出てくるぞ」



久々に来たけれど、やっぱりこの街は過ごしやすい。

まだまだ映画の都だし、暇を殺すのにも困らない。

聖地巡礼、ってやつをしてみるのも良いかもしれないわね。





―― Everybody can, be CINDERELLA!





カップに手を伸ばすと、懐かしいメロディが聞こえてきた。

マスターの視線の先に、私も目を向ける。





未だ現役稼働中のブラウン管テレビに映っていたのは、忘れもしない顔で。





―― When you wake up, it's no longer a dream!





あの頃から少しも変わらない、白磁の肌と黒曜石の瞳。

けれどその魅力は、驚くくらいに磨きが掛かっていた。







そして、仲間達と踊る彼女の足元には――







 「……ふふっ」



 「ん? どうかしたかい」



 「いえ。こちらの話、よ」





貴女の魔法使いさんも、中々どうしてやるみたいじゃない、周子。





どうやら何人かでフランスツアーに来ているらしい。

万雷の拍手と共に歌を終えて、インタビューのコーナーへと移った。





 『――いやぁ可愛らしい。聞いた所、あなた方は”シンデレラ”を目指しているとの事ですが』



 『そーそー。今の所シューコちゃんは一歩リードって所かな――』





 「……げほっ、ごほっ!」



 「おい、どうした嬢ちゃん」



 「ふっ、何でも、くっ……ないわ……ふふっ!」



インタビュアーの質問に、周子が流暢な英語で答える。

そのおかしな光景に、思わず笑いが零れてしまった。

周子、貴女そんなキャラじゃないでしょうに。





 『”シンデレラ”と言うのはその、こちらで言う”サンドリヨン”の事ですかね?』



 『うーん、多分。そこんとこどうなのフレちゃん』



 『そだよー? サンドリヨンマドモアゼール、しるぶぷれー』





周子の背中から顔を出したフレデリカがウィンクを飛ばす。

相変わらずのマイペースさは、ここパリでも健在みたいだった。





 『あ、言い忘れてたけどあたしがシオミシューコでこっちがフレデリカミヤモトね』



 『ワーォ、フレちゃんハーフみたい』



 『ツッコまないかんねー。というかフレちゃんってこっちでは有名なん?』



 『どうだろ? アタシ顔広いって言われるけど、顔ちっちゃーいってよく言われるんだよねー』





インタビュアーそっちのけで漫才が始まる。日本語で。

担当さん達の頭を抱える様子が脳裏にはっきりと浮かんだ。





 『――さて。シューコは先日”シンデレラガール”になったらしいですが、それを実現させた原動力とは?』



 『原動力ねぇ……うーん』





周子が頬を掻いて首を捻る。

そして笑って言った。





 『何と言うかね、身体が疼くんだ』



 『と言うと?』



 『いつからだっけな……じっとしてらんないの。今は踊りたくて堪らないんだ』





ひょっとしたらそれは。

吸血の快感が忘れられない故の渇きだったのかもしれない。



けれどそんなものが無くたって。

彼女はきっとここまでやって来たのは間違いない。





 『後ね、どうしても有名になってやりたい事があるんだ』



 『ほう……ひょっとして王子様探しですか?』



 『あー、惜しいねお兄さん』



インタビュアーの肩を叩いて周子が笑う。







 『探してる女の子が、いるんだ』







ブラウン管の中の周子と、目が逢った。









 『女の子を?』



 『うん。詳しくは分からないんだけど、すっごい綺麗な娘でね』



 『分からない人をお探しで?』



 『うん、一枚のDVDにちらっと写ってるだけだし。黒髪が綺麗でさ』



 『名前なども何も?』



 『あ、名前は分かるよ』





魔法は完璧に掛けた筈。



そう自分に問い掛けて初めて、あの夜に浮かべた涙の事を思い出した。

……やられたわ。





涙は女の武器、ね。





 『ではフランスに向けて呼び掛けてみましょうか』



 『お、いーの? お兄さん太っ腹!』





インタビュアーにカメラを指し示されて、正面を向く。

周子が目を閉じて、深呼吸を一つ。

カメラがズームして、周子の整った顔をアップで写す。





そして、柔らかく微笑んだ。









 『――待ってるからね、奏』









ああ、いけない。





こんな素敵な表情をされたら、きっと彼女は世界中のものになってしまう。

それは、とてもとても面白くない。





私は悪い吸血鬼だから、ね。





インタビュアーが次の娘に質問を始めた。

釘付けになっていた視線をようやく外すと、カフェオレはすっかり冷め切っていて。



 「ねぇ」



 「ん?」



 「次来た時に飲むから。取っておいてね、赤ワイン」



 「ティーンに酒は出せない事になっとるんだがなぁ」



 「大丈夫。私、実は吸血鬼なの」



 「はは。そうかいそうかい、分かったよ」



マスターが苦笑して、ワインを棚の奥へとしまった。





 「さて、と」





今は、このカフェオレの味で我慢しておこう。

冷たくて、苦くて、けれど甘い味わいで。





 「攫いに行きましょうか。うら若き乙女を」





コーヒーカップにキスをして。







悪い悪い吸血鬼は、パリのカフェを後にした。



おわり



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