2015年08月25日

卯月「プロデューサーさんの、本当の幸せを」


・すこしだけ重い



・ほのかにエロい





・季節は冬頃です





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幸子

「ぷ、プロデューサーさん……あのウワサって、ほ、本当なんですか……?



 なんのことだって……そんなの決まってるじゃないですか。プロデューサーさんが事務所を辞めるってウワサです。



 も、もちろんボクはこれっぽっちも信じてなんかいませんよ!? こんなにカワイイボクをプロデューサーさんが置いて勝手にいなくなるなんてありえませんからね! でも、その……わかりきったことでも、ちゃんとプロデューサーさんの口から聞きたいというか……い、いなくならないですよね……?



 ……そ、そうですよね!!! ももちろんわかってましたよ? プロデューサーはボクじゃないとダメだって! ちょ、ちょっとちょっとなんですか? ただたんに確認しただけじゃないですか。あ、そんな顔で……もう……頭撫でないでくださいよ…………エヘヘ……



 ま、まあ? セットが乱れてもボクのカワイさは微塵も揺るぎませんけどねっ! だからもっとわしわし撫でてもいいんですよ、プロデューサーさん!」



 結局、頭をくしゃくしゃにされてしまいました。ボクがカワイすぎるのもいけないとはいえ、本当に仕方のない人なんですから、プロデューサーさんは。



 レッスンの後は喫茶店で勉強です。コーヒーの味はよくわかりませんが、いつ来ても人が少ないのでイマイチ美味しくないのでしょう。ですからファンの方たちに騒がれる心配もありません。ただ喫茶店に着くまでは人目がありますから、ボクもちょっと変装してカワイイオーラを隠すんですけどね。能ある鷹はツメを隠すんですよ。



 喫茶店に着いたら予習と復習です。勉強用のノートと清書用のノートを広げて、カバンから取り出したのは革のペンケース。プロデューサーさんにもらった大切なプレゼント。その日の授業を思い出しながら、真っ白なページに時間をかけてゆっくり書きこんでいきます。



 お代りしたコーヒーが冷めるころには勉強は終わっています。ノートをしまって、新聞を読んでいるマスターの様子をちらっとうかがいボクはペンケースから万年筆を出しました。これはスカイダイビングのお詫びにプロデューサーさんから貰ったとびきり大切な一本です。これを使って小さな手帳におまじないをするんです。



  『Pさんが好き Pさんが好き Pさんが好き Pさんが好き

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   Pさんが好き Pさんが好き Pさんが好き Pさんが好き』



 1ページを使ったところで、そろそろ万年筆のインクがなくなりそうなことに気付きました。代えのインクは寮の部屋です。ボクとしたことが、プロデューサーさんのウワサでうっかりしていました。あと9ページ書かないとおまじないにならないのに……仕方ありません、足りない分はボールペンを使うことにしましょう。



 ボクは心行くまでプロデューサーさんへの想いを書きつづった後、手帳をしまいました。ちなみにこれで11冊目です。このペースだとプロデューサーさんと結婚するころには200冊以上になるかもしれません。ボクとしては100冊を超える前には結ばれたいのですけど、仕方ありませんね。だってプロデューサーさんは女性の扱いが下手ですから。ボクがしっかりリードしてあげないといけないんです。



 寮に戻った後、ボクはインクを買いにデパートに行きました。アイドルとして大人気のボクにはあまりまとまった時間というものがないので、買えるときに買い足しておかないといざという時に困るのです。通販で注文するという手もありますが、あの万年筆はプロデューサーさんとボクだけの絆ですから、なるべく余計なモノは関わらせたくありません。



 文具の専門店でお気に入りのインクを買い求めたあと、ついでに書店に寄ります。ふと何気なく目をやったホビー誌のコーナーに、見知った人影がありました。帽子をかぶって変装していますが、同じ事務所の仲間を見間違えるはずもありません。



 特撮雑誌を立ち読みしていたのは、光ちゃんでした。一人のようです。珍しいところで会うものだと思っていたら、これまた見慣れたスーツ姿の男性がやってきました。プロデューサーさんです。



 二人は短く言葉を交わすと、歩き出しました。光ちゃんが雑誌を棚に戻してプロデューサーさんの手を握ります。プロデューサーさんは光ちゃんのほうを見ることもなく、ボクを撫でてくれたその手で、当たり前のように光ちゃんの手を握り返しました。



 ――まるで、恋人同士のように。



幸子

「…………………………プロデューサー、さん」



 その背中が見えなくなってから、ようやくボクは立ち尽くしていたことに気付きました。あわてて電話をかけます。



幸子

「……あ、プロデューサーさんですか? いえ、大した用じゃないんですけど……ちょっと、声が聞きたくなっただけで……ち、違いますよ! 別にさびしいとかそういうのじゃ………………いえ、ごめんなさい。嘘です。さびしいです。だから、迎えに来てくれませんか?」



 受話器の向こうでプロデューサーさんが押し黙りました。長い長い沈黙の後、僕がどこにいるか聞いてきます。



「あの、デパートです! プロデューサーさんが万年筆を買ってくれた……はいっ、そこです! 北口で待ってればいいんですね? え、ボクの服装ですか? 赤いマフラーにニット帽ですけど……迎えに来てくれるんですね! わかりました! 待ってます!」



 電話を切りました。嬉しくて、嬉しくて、今にも踊り出してしまいそうな気分です。デートを邪魔してしまって、光ちゃんには申し訳ないけど……でも、アイドルとプロデューサーがデートなんてしちゃいけないんですから。ボクが負い目に感じることなんかないんです。……ない、ですよね?



 北口でプロデューサーさんを待っていると、不意に後ろから声をかけられました。



美優

「こんばんは、幸子ちゃん」



幸子

「あ、美優さん。留美さんも。こんばんは」



留美

「こんばんは。さ、行くわよ」



幸子

「え?」



美優

「ごめんね、幸子ちゃん。プロデューサーさんは忙しくて迎えに来れないそうなの」



留美

「だから代わりに私たちが来たというわけ」



幸子

「ちょ、ちょっと待ってください。あの、お二人はプロデューサーさんが忙しい理由を知ってるんですか?」



留美

「さあ? 私は頼まれただけだから」



美優

「……幸子ちゃんは、知ってるの?」



幸子

「さっき、見たんです。プロデューサーさんが、光ちゃんとデートしてるの……恋人みたいに、手を繋いでて……」



留美

「……………………」



美優

「……………………」



幸子

「ダメ、ですよね? アイドルがプロデューサーさんとデートなんて……ダメですよ……そんなの……」



留美

「そうね。でも幸子ちゃんが見たのは、本当にデートなのかしら?」



幸子

「えっ」



美優

「幸子ちゃん、知らない? プロデューサーさんの趣味は特撮で、光ちゃんの趣味も特撮。デートっていっても、きっと二人でオモチャとか買いに行っただけなんじゃないかしら?」



幸子

「そう、でしょうか」



留美

「きっとそうよ。なんなら今度、二人に聞いてみればいいじゃない。あの夜なにをしていたんですかって。やましいことがなければ答えてくれるわよ」



幸子

「……そう、ですよね」



 ボクは無理やり自分を納得させて、二人に連れられて留美さんの車に乗りました。ちなみに運転は留美さんで、助手席に美優さん、ボクは後部座席です。



 寮に着くまで会話はありませんでした。ボクは特別お二人と親しいわけではありませんし……それに、なんだか様子がおかしいんです。うまく言えませんけど、気軽に話しかけるのをためらうような空気でした。



留美

「着いたわ」



幸子

「送っていただいてありがとうございます。それじゃあ、お休みなさい」



美優

「お休み、幸子ちゃん」



留美

「お休みなさい」



 車から出ようとして、ボクはうっかりデパートで買ったインクを落としてしまいます。小さな箱は袋から転がり落ちて、座席の下へ。



留美

「あら、大丈夫?」



幸子

「平気です」



 座席の下に腕を入れました。指先に何かが当たる感触。インクの箱よりもっと小さなものです。



 出てきたのは見覚えのあるネクタイピンでした。プロデューサーさんがつけていたのを見たことがあります。



美優

「……幸子ちゃん? どうかした?」



幸子

「あ……な、なんでもありません!」



 ネクタイピンをあわててポケットに入れて、座席の下からインクを探し当てました。そのまま逃げるように車から降りて、女子寮の入り口まで走ってから、恐る恐る振り返りました。留美さんと、美優さんが、車の中でにこっと笑って軽く手を振ります。ボクもなるべく自然に見えるように笑って、手を振り返しました。



 車が道路の向こうへ走り去っていきます。いまさらですが背筋が寒くなりました。二人とも、目だけは笑っていませんでした。



 手のひらのネクタイピンをじっと見つめます。どうして、これが留美さんの車の中に落ちていたんでしょう。アイドルの前では一度もネクタイを緩めたことのないプロデューサーさんが、うっかりネクタイピンを落とすなんてことはないはずです。だとすればこれを外したのは……留美さんしかいません。でも、車の中でネクタイピンを外して何をしようとしたんでしょうか。あのプロデューサーさんが外されたネクタイピンが落ちたことにも気付かないようなことでしょうか。



幸子

「………………………………………………」



 そんなわけがありません。あるわけがありません。留美さんがネクタイピンを取って、きっちり結ばれたネクタイをほどいて、シャツのボタンを外して、まだ誰も見たことのないプロデューサーさんの首筋にキスするなんて、あるわけがないじゃないですか。だってあのプロデューサーさんですよ。どんなアピールも笑顔でさらっと流して、困ったような目ではぐらかして、どうやっても応えてくれないあの人が、あの人が、アイドルとそんなことをするわけがないんです。絶対に。絶対に。絶対に――!



幸子

「……あ」



 おっといけません、ボクとしたことが。ネクタイピンを握りすぎて血が出ていました。急いでハンカチでネクタイピンを包んで、手のひらに滲んだ血をぬぐいます。傷は大したことはありません。ただじくじくと痛むだけです。ええ、平気です。本当に。こんなの。へっちゃらです。



 あの人が、まるで恋人のように光ちゃんと手を繋いだあの瞬間の――肺が潰れるような、痛みに比べれば。



 ――でも、そうですね。仕方ありませんよね。男の人はシャイっていうじゃないですか。だからボクが、こんなにカワイイこのボクが、プロデューサーさんとまだ手を繋いだことさえないっていうのは、つまりそういうことなんですよ。つまりプロデューサーさんの本命はボクなんです。プロデューサーさんが一番好きなのはボクなんです。プロデューサーさんが誰よりも愛しているのはボクなんです。ただそのことをプロデューサーさんは気付いてないだけなんです。本当に仕方ない人ですねっ!





「……プロデューサーさんにとって、一番カワイイのは誰か。思い知らせてあげますから」



桃華

「……あの、Pちゃま。お話しがございますの。お時間、よろしいですか?



 はい。最近Pちゃまが事務所を辞めるという噂を耳にしたんですの。どこから流れているかわかりませんが、根も葉もないただの噂ですわよね?



 ……ああ、よかった! Pちゃまが辞めてしまったらどうしようかと、わたくし食事も喉を通りませんでしたのよ? そのことでお父様にもずいぶんと心配をかけてしまって……あっ、そうですわ! Pちゃま、また今度、お屋敷に遊びに行きませんこと?



 お父様もPちゃまに会いたがってましたわ。滅多に人を褒めないお父様ですけど、Pちゃまのことだけは高く買ってるんですのよ? ウフ……なぜって、それはPちゃまが立派な紳士だからですわ」



 ――わたくし、いまでもはっきりと思い出せますの。



 Pちゃまが初めてお父様にご挨拶されたときのことを。



 あの日のお父様は、初めからPちゃまを追い返す気でしたわ。



 舌戦で散々に打ち負かして、わたくしからPちゃまを遠ざけようとしてましたの。



 ですからあの日、Pちゃまの一分の隙もない着こなしの中で、唯一浮いていたカフリンクスを、意地悪なお父様が見逃すはずありませんでしたわ。



 ……でも、Pちゃまはそれが狙いでしたのよね。



櫻井

『会食とはいえあくまでもビジネスの延長。その席で君のカフリンクスはいささか華やか過ぎはしないか』



 そう牽制したお父様に、Pちゃまはニコッと笑って仰いましたわ。



P

『確かにこのパパラチアサファイアのカフリンクスは、私などには似合いません。ですがそもそもこれは私のためのものではなく、桃華さんのためのものなんです』



 そう言って立ち上がり、わたくしの手を引いたPちゃまを見て、お父様は二の句を告げなくなってしまったんですの。夕焼けにも似たパパラチアサファイアのきらめきが、わたくしの金髪をより魅力的に惹き立てていたと悔しがっておいででしたわ。



 けれど諦めの悪いお父様ですから、今度はPちゃま自身に言いがかりを始めたんですのよね。



櫻井

『パパラチアサファイアはスリランカでしか取れない希少な宝石だ。失礼だが君の年齢でおいそれと手が出せるようなものではないし、それをカフリンクスに使うとなると特注しかあるまい。



 これは本来聞くべきことではないが、娘を預けることになるかもしれない相手のことは知っておかねばならん。君はそのカフリンクスをどうやって手に入れたのだね?』



 そしたらPちゃま、悪びれもせずにこれはイミテーションですって言うんですもの。あのときのわたくしはドキドキが止まりませんでしたわ。



P

『櫻井さんの言うとおり、パパラチアサファイアは希少な宝石です。ですがこれはピンクサファイアに表面拡散処理をしたもので、いわばイミテーション。私の稼ぎでも手が届くものです』



櫻井

『……君は、私の娘をまがい物で虚飾しようというのかね? 娘のためのカフリンクスと言うならば、別の宝石でもよかったはずだ。なぜわざわざ高価なパパラチアサファイアにこだわる』



P

『確かに桃華さんなら他の石でも充分に映えるでしょう。けれどパパラチアサファイアは、4月8日の誕生石。桃華さんのプロデューサーである以上、どうしてもこの石でなければならなかったのです。



 それにこれは私なり決意の証でもあるのです。いずれ桃華さんが押しも押されぬトップアイドルになった時に、このカフリンクスの台座に本物のパパラチアサファイアを嵌めようと考えています。



 そこまで辿り着くには長い道のりになるでしょう。けれど私は、桃華さんを支えながらその道を歩んで行きたいのです』



 お父様を見ていたPちゃまは知らないでしょうけど、このときのわたくし、顔がほてって仕方なかったんですのよ、Pちゃま。



P

『ですから櫻井さん、私を信じて桃華さんを預けていただけませんか。



 この子は原石なんです。サファイアの王と言われるパパラチアサファイアでさえ霞んでしまうほどの可能性を秘めているんです。



 私は、この子を磨きたい。磨き抜いて、その輝きを一番近くで見つめていたいんです。



 どうかお願いします、櫻井さん』



櫻井

『……わかった。君の人となりはそのスーツを見ればわかる。



 生地はともかく仕立ては一流のスーツ。きちんとアイロンの当てられたシャツ。よく手入れの生き届いた靴。そのどれもが君によく馴染んでいる。下ろしたてではその落ち着いた風合いは出ない。ひとつのものと長く付き合うことのできる男だとわかる。



 そこにそのカフリンクスだ。娘の手を引いた君を見て、君なら娘を大切にしてくれると確信したが、つい意地の悪いことをしてしまったね。



 だが、君という男をより深く知ることができた。娘を、末長くよろしく頼むよ』



 ……あのときさびしそうに笑ったお父様の顔を思い出したら、いてもたってもいられなくなってきましたわ。



 次のお休みにはPちゃまと一緒に帰って差し上げないと、お父様が老け込んでしまいますの!





桃華

「Pちゃま、次のお休みは一緒に神戸に帰りましょう! お父様にも久しくあっておりませんし、いろいろお話したいんですの。



 ……どうしたんですの、Pちゃま。え? 次のお休みはしばらく取れない? どういうことですの? たしかにわたくしも皆様のおかげでお仕事が増えていますけど、さすがにお休みが取れないほどでは……あっ、Pちゃまのほうのお休みですのね。



 でもPちゃまは最近働きづめではありませんこと? ちひろさんに言って有給を取らせていただければ……それもダメ? どうしてですの? 労働者の権利を守るのが雇用者の最低限の務めだとお父様はおっしゃってましたわ。Pちゃまの有給が認められないなら、わたくし社長に直談判してまいります!



 は、離してくださいませ、Pちゃま! これはPちゃまの権利を守るための……! ……えっ、どういうことですの? 有給が全部、埋まってる? え? どういう意味ですの?



 ……そう、他の方との約束があって、そのために有給は使えないと……そうでしたの。つまりPちゃまは、わたくしのために使う余暇はないとおっしゃるんですのね?



 いえ、いいんですのよ。他の方の約束が先だったのですから。神戸へはわたくし一人で帰りますわ。ええ、大丈夫ですの。どうかご心配なさらず、桃華のことなど忘れて他の方と羽根を伸ばしてくださいまし。



 それでは、わたくしはこれで失礼いたします。レッスンがありますので!」



ちひろ

「……あれ、桃華ちゃん? どうしたの?」



桃華

「なんでもありませんわ。レッスンにいってまいりますの」



ちひろ

「え? まだ時間にはだいぶ早いけど……あっ、桃華ちゃんっ」



 Pちゃまにひどいことを言ってしまったことに耐えられなくて、あんな当てつけを言ってしまった自分が許せなくて、逃げ出すように事務所を飛び出しましたの。



 けれど、わたくしは立ち止まりました。こんなことではいけないと思ったのです。確かにわたくし以外の誰かのために有給をすべて使ってしまうPちゃまもPちゃまですけど、それを受け止めきれないのはわたくしの狭量さがいけないのですわ。自分の未熟を棚に上げて大切な方を傷つけてしまうなんて、櫻井の娘にあってはならないことですの。



 ですからわたくしはすぐに事務所に引き返しましたの。ちひろさんが言ったようにレッスンまではだいぶ時間がありましたし。……本当は、最近Pちゃまとお話できていないからレッスンの前にたくさんおしゃべりをしたかったのですけど……謝って、少しだけ甘えさせていただく時間くらいなら、まだ残っていますの。



 事務所に戻ると、Pちゃまの姿が見当たりませんでした。ちひろさんもいません。本当は声をあげて呼べばよかったのですけれど、この時のわたくしにはそれができませんでしたの。謝ると決めたのに、まだ踏ん切りがついていなかったんですのね。



 ですからわたくし、Pちゃまを探しましたの。そうしましたら事務所の奥から声が聞こえてきましたの。薄暗い廊下の先で、給湯室の灯りが洩れてましたわ。



 蛍光灯の光が、廊下の壁に影を落としていましたの。ぴったりと寄り添った、二つの影でしたわ。



ちひろ

「……んっ……ちゅっ、ちゅぅ……ふふ、キスしちゃいましたね、プロデューサーさん。だってしょうないじゃないですか、あんな泣きそうな顔したあなたを見たら、慰めたくなってしまったんですから。



 ……なにがあったかは聞きません。でも、いつでも話してくださいね? 私はプロデューサーさんのものなんですから。



 それで……どうします? このあとしばらく、事務所にはだれも来ない予定ですけど……ちなみに、私はもう、準備……出来てますから……ほら、触ってください、ここ……っん……ぁっ……そうです、簡単に指が入っちゃうくらい、ぬるぬるになっちゃいましたから……ふふ。



 ……いま、着けますね………………はい、できました。では……どうぞ……」



 気が付いたらわたくしは事務所の外にいました。どうやら、今度こそ逃げ出したようですの。ふらふらと、脚が独りでに動いているのに、どうやって止まればいいのかもわかりませんでしたわ。



 頭の中がぐちゃぐちゃで、全身がわなないていましたの。わたくし、白昼夢を見ているんじゃないかと自分を疑いましたわ。だってPちゃまはわたくしを支えてくれると言ったんですもの。あのカフリンクスに誓ってくださいましたもの。それなのにどうして、ちひろさんと、あのようなみだらな行いを、それも事務所で、昼間から。まったく理解に苦しみますわ。いいえ、違いますわね。Pちゃまはお父様も認めてくださったほどの紳士ですもの。ちひろさんがたぶらかしたに違いありませんわ。そうです、そうに決まっていますわ。でなければわたくしのPちゃまがわたくしを裏切るわけがありませんもの。Pちゃまを取り返さなければなりません。わたくしはPちゃまとともに歩むと決意したのですわ。喜びも悲しみも分かち合って、痛みも苦しみも乗り越えて、いつか輝きの向こう側へ辿り着くのだと。お父様もお許しになってくださいましたの。ですから、これは乗り越えるべき試練なのですわ。わたくしとPちゃまの輝かしい未来のために。





「――障害は、排除いたしませんと」



響子

「おはようございます! ……あれ、Pさんしかいないんですか? ちひろさんは?



 はあ、シャワールーム? どうしてですか? ……え、お昼のカップラーメン頭からかぶっちゃったんですか!? や、火傷とか大丈夫ですか? ……そうですか、よかったあ。



 ……あれ、じゃあもしかして、雑誌の取材までPさんと二人っきり……?



 え? な、なんでもありませんよPさん! それにしてもスケジュールボードびっちりですね!」



(……あ、スケジュール確認したら、やっぱり事務所に二人っきりだ……これって、あの噂を確かめるチャンス? 早めに来てよかった。よし、まずはお茶を淹れて、プロデューサーさんとおしゃべりできるきっかけを作らないと!)



 私はデスクワークに没頭しているプロデューサーさんを横目に、ロッカーへ荷物をしまうと給湯室へ向かいました。廊下を通り、給湯室の入り口まで来てふと足を止めます。



 おかしな臭いがしました。鼻につくかすかな異臭。私は直感でゴミ箱を開けました。固く口を縛られた黒いビニール袋が入っています。破いてみると、くしゃくしゃになったティッシュと、しなびた風船みたいなものが出てきました。使用済みのコンドームです。



 私はなにかの間違いだと思って、思いたくて、信じたくて、ゴミ箱をあさり続けました。でも、ありません。事務所内の生ごみやにおいの出るゴミは、すべて給湯室に捨てる決まりになっています。



 ですから、ちひろさんが本当にお昼のカップラーメンをこぼしてしまったのなら、少なくとも、ここにはそのゴミがなければなりません。ですが、そんなゴミはどこにも見当たりませんでした。



 足が震えているのが自分でもわかります。床に散らばったゴミを拾う指が、上手く動いてくれません。私はゴミをすべて元に戻すと、給湯室を見回しました。いつもより、いつもより、ずっと綺麗に掃除されています。隅っこにも埃一つ落ちていません。きっとここでなにかあって、丁寧に掃除をする必要があったんでしょう。……ええ、そうですよね。事務所でえっちしたなんてばれたら、ただじゃすみませんしね。



 けれど詰めが甘すぎます。どうしてもっとうまくごまかしてくれないんでしょうか。臭いだって消えてないし、コンドームは捨てっぱなしだし、嘘だってペラッペラじゃないですか。上手に騙してくださいよ。騙しきれてないじゃないですか。私の気持ちには全然気づいてくれないくせに。応えてくれないくせに。どうしてちひろさんとヤってるんですか? そんなに年上がいいんですか? 私じゃだめなんですか?



 ぐるぐるぐるぐると頭の中で言葉が回ります。心がどんどん重くなって、心臓が潰れてしまいそうなくらい胸が痛くなりました。私は手を洗ってから給湯室を出ました。



 プロデューサーさんは相変わらずパソコンのキーボードを叩き続けています。私は後ろからプロデューサーの頭を抱え込むように抱きついて、デスクのペン立てに差してあったハサミを素早く抜き取りました。その冷たい刃先を、ゾクゾクするくらい色っぽいプロデューサーさんの首筋に、ぴたりと押し当てます。

響子

「……ねえ、プロデューサーさん。どうして嘘なんかついたんです? ……なんのことだ、なんて……まだごまかそうとするんですね。プロデューサーさんがそのつもりなら、みんなに言っちゃいますよ?



 あーあ、まゆちゃんがこのこと知ったらどうなるのかなあ。凛ちゃんも驚くだろうなあ。私たちの気持ちをずっとずっと無視してきたプロデューサーさんが、事務所でちひろさんとえっちしてたって聞いたら……みんなどうなっちゃうんでしょうね?



 ……ねえ、プロデューサーさん。私、教えてほしいな。プロデューサーさんにとって私たちって何なんですか? アイドルってなんですか? いつも優しくしてくれるのはどうしてなんですか? 寄り添って、励まして、勇気づけてくれるのは、なぜですか? 私たちのモチベーションを管理してお金をたくさん稼ぎたいから? それともプロデューサーさんの言葉の一つ一つに浮かれる私たちが滑稽だから? あるいは……本当に、私たちのことを大切に想ってくれているから?



 答えてくださいよ。言えないんですか? どうしてですか? 本当のことを言ったら、私たちを傷つけるから? あははっ、でもそんなのいまさらじゃないですか。たくさんたくさん傷ついてきたんですよ。苦しくて、切なくて、張り裂けそうなのを我慢してきました。もうぼろぼろなんです。私の心。



 この前の映画の撮影だって、そうです。真っ暗な校舎で、いつもと違うシチュエーションで……胸が高鳴ってて、ドキドキして……でも、言えなかった。私、なにも伝えられなかった。だって……言えるわけないじゃないですか。言ったら終わってしまうんだから。



 けど、もうそんなのどうでもいいですよね。だってプロデューサーさんはちひろさんといちゃいちゃいちゃいちゃ……たくさんしたんですよね、えっちなこと。言わなくてもわかりますよ。プロデューサーさん、素敵ですから。私がちひろさんだったら……ふふっ。それにわかってるんですよ。ちひろさんは絶対にプロデューサーさんを逃がさない。私の恋は始まる前から終わってたんです。だから、もういいですよね? 我慢しなくても。



 あの真っ暗な校舎の中で言ったこと、スキって……言ったこと。嘘じゃないですから。台詞なんかじゃないんです。お芝居じゃなくて、本当の本当に好きなんです。気付いたらもう離れられなくて、何度も諦めようとしたけどできませんでした。寝ても覚めてもプロデューサーさんが私の中にいるんです。私の心はもうあなたのモノになってしまったんです。ですから……プロデューサーさん、私のモノになってください。ちひろさんを捨てて、私とずっと一緒にいてください。なんでもできますよ、私。お料理も、お裁縫も、お掃除も。家事なら全部任せてください。あ、もちろんプロデューサーさんがやれって言うなら他のことも出来るようになりますよ? えっちなこともたくさん勉強します。プロデューサーさんのためならどんなことだってできるんです。だから、いいですよね? 私でいいですよね? ちひろさんじゃなくってもいいですよね?



 いいって言ってください……でないと、私……ふふふ…………私のモノにならないなら……このままハサミで……『グサッ!』 ……ってしちゃいますからね? 痛いの、嫌ですよね? 私もプロデューサーさんが痛がることはしたくないんです。ね? わかってくれますよね? うなずくだけでいいんです。私のモノになってくれるって。私とずっと一緒にいてくれるって。私だけを愛してくれるって。それで全部、許して――」



ちひろ

「響子ちゃん!? あなた一体何を……!」



響子

「あ、ちひろさん。おはようございます」



ちひろ

「おはようございます、ってあなた……あいさつなんていいからプロデューサーさんから離れなさい!」



響子

「……嫌ですよ。絶対に嫌です。もう離れたくありません。離れられるわけがないじゃないですか。自分を騙して、心を押し殺して、ずっと胸に秘めていようと思っていたのに、大好きな人がほかの女と結ばれてたなんて……許せるわけが、ないじゃないですか。

 私だって好きなんですよ? 大好きなんですよ? ずっと。ずっとずっとずっとずっと………………っ! なのに、どうしてちひろさんだけなんですか? おかしくありませんか? ずるくないですか? 不公平ですよ。アシスタントだからって四六時中プロデューサーさんに関わって、一緒にいて、同じ時間を同じ場所で過ごして。私だって一緒にいたい。たくさんおしゃべりしたい。でも私はアイドルで、プロデューサーさんはプロデューサーで……だから我慢して、頭がおかしくなるくらい自分を抑え込んで、レッスンに全部ぶつけて、辛いの吐きだして……それで、よくやったな、頑張ったな、って……………………それだけ。それだけなんです。それだけ。たったそれだけが、私が得られるすべてなのに……ッ! ちひろさんはプロデューサーさんの全部を手に入れてて……! こんなの、ひどすぎる……あんまりだよ……っ……」



ちひろ

「響子、ちゃん……」



響子

「近寄らないでください。なんなんですか? なんでちひろさんにそんな目で見られなきゃならないんですか? 憐れんでるんですか? 抱きしめてもらったことさえない私に同情してるんですか? いいですよね、ちひろさんは。キスしてもらったんですよね? 抱いてもらったんですよね? いつからですか? 何回したんですか? 気持ちよかったんですよね? 羨ましいなあ。羨ましすぎて殺したくなっちゃいます。……あ、そっか。ちひろさんがいなくなればいいんですよね! ちひろさんを消して私で上書きすればいいんですよね! なんでこんな簡単なことすぐに思い浮かばなかったんだろ……? あ、大丈夫ですよ、プロデューサーさん。忘れさせてあげますから。待っててくださいね、すぐに殺してきますから。そしたらたくさん褒めてくださいね? うんとかわいがってくださいね? ちひろさんにしたこと、私に全部してください。ちひろさんがしたこと、全部してあげますから。それから……ふふっ……プロデューサーさんのこと、私でいっぱいにしてあげますね……」



ちひろ

「きょ、響子ちゃん……?」



響子

「怖がらなくてもいいですよ、ちひろさん。私、けっこうお魚とか捌くの上手なんです。だからそんなに痛くないと思います。でも大人しくしててくれないと手元が狂っちゃいますから……変なとこをグサッって………………、……?



 ……あれ、なんで止めるんですか? やめてくださいよ、プロデューサーさん。いきなり後ろから抱きしめられたら、ちひろさんが殺せないじゃないですか。なんで謝るんですか? プロデューサーさんが泣く必要なんてないじゃないですか。なにがいいんですか? もういいって……わけがわかりません。俺が全部悪かったって、そんなこと言われても……プロデューサーさんはなにも悪くないじゃないですか。優しくて、素敵で、鈍感なだけで。好きになった私が悪いんです。今まで応援してくれたファンの方よりも、たった一人の男の人を好きになってしまった私が悪いんです。



 ……プロデューサーさん、泣かないでください。お願いします。そんなに悲しい顔をされたら、私、なにもできなくなっちゃうじゃないですか。本当に……あの、そんなに強く抱きしめられたら、立てなくなっちゃいますから……え、どうしたら許してくれるかって……それってプロデューサーさんを許すんじゃなくて、ちひろさんを許すってことですよね? いえ、許すとか許さないじゃないんですよ。私だってちひろさんの気持ちはわかりますから。プロデューサーさんみたいな素敵な人と朝から晩まで仕事をして、ときどき一緒にお昼を食べて、途中まで一緒の電車で帰って、たまに二人でお酒を飲んで……そんな生活をしてて、好きになるなって言うほうが無理じゃないですか。別に私はちひろさんが嫌いなんじゃありませんよ? 憎いとか、違うんです。ただちひろさんが邪魔なだけで……潔く身を引いてくれるなら、殺す必要なんてないんです。でも、ちひろさんは引きませんよね? たとえ殺されるとわかっても、プロデューサーさんを諦めたりなんかしませんよね? だから殺すしかないんです。私がプロデューサーさんを手に入れるためにはそうするしか、」



ちひろ

「そ、それは違うわ、響子ちゃん! 落ち着いて! まずは話を――」



記者

「こんにちはー、○×出版の記者ですけどー」



ちひろ

「」



響子

「」



記者

「」



記者

「……あ、あのォ、五十嵐響子さんの取材に来たんですけど……警察、呼んだほうがいいですか……?」



響子

「あっ、すみません、勘違いさせてしまって。これは次のドラマの役作りで……って、この話ってまだ言っちゃいけないんでしたよね、ち・ひ・ろ・さ・ん?」



ちひろ

「……そっ、そうですね! あの、すみませんけどこれはオフレコでお願いします。まだ企画段階の話ですので……」



記者

「ああ、なるほどォ! 役作り! 五十嵐さんこの前の映画でキマってましたからねェ! もう次の作品の話があるんですかー。いやいやわっかりましたー、このことは編集長にも黙っておきます。けど、話が具体的なトコまで煮詰まってきたら、ちゃんと教えてくださいね? ね? ウチの雑誌で特集組んでバンバン宣伝させてもらいますから!」



ちひろ

「それはもちろん! ではあちらの応接室でお待ちください、すぐに伺いますから」



記者

「はい、あそこの応接室ですね、わかりましたァー」



響子

「………………………………」



ちひろ

「………………………………」



響子

「……じゃ、行ってきます」



ちひろ

「きょ、響子ちゃん……」



響子

「心配しなくてもいいですよ、ちひろさん。私、演技が上手みたいだから。



 でも、忘れないでくださいね。プロデューサーさんは必ず手に入れます。



 どんなことをしてでも、必ず。それまで、我慢してくださいね、プロデューサーさん。



 すぐです。きっとすぐに……私が、あなたを迎えに行きますから」







「ふふっ。楽しみにしててくださいね――?」



「お疲れ様」



未央

「おつかれー」



卯月

「お疲れさまでした」



未央

「いやー、今日の収録もばっちりだったね!」





「そうだね。最近は特に評判がいいって、スタッフさんたちも言ってた」



卯月

「この調子で頑張っていきましょう! あ、そうだ! この前美味しいケーキ屋さんをかな子ちゃんに教えてもらったんだけど、これからどうです?」



未央

「あー……今日はちょっと予定が。ごめんっ」





「私も。ごめんね、卯月。家で用事があるんだ」



卯月

「う、ううん! いいよ、また時間があるときに行けばいいだけだから」



 ――近頃、どうしてでしょうか。凛ちゃんと未央ちゃんが、なんだか遠いような気がします。



 前より二人はずっと綺麗になりました。歌もダンスもぐんぐん伸びてて、とても輝いて見えます。



 だからでしょうか。私は疎外感を覚えていました。二人がなんだか、よそよそしくなったような気がしているんです。



 二人を見送った後、私はまっすぐ寮に帰ります。自主レッスンや学校の宿題を一通り終えて、それでももやもやが晴れないときは、プロデューサーさんに電話をかけます。



「あ、プロデューサーさん。こんばんは。えへへ、また電話しちゃいましたっ」



 携帯電話を片手にベッドに寝転んで、他愛のない話をします。凛ちゃんと未央ちゃんのことは、話せませんでした。



「もう、コンビニ弁当は止めたっていってたのに、今度はスーパーのお惣菜ですか? だめですよ、コンビニよりはいいかもしれないですけど、やっぱり栄養に偏りがあるんですから。なんだったら、その……私が作っちゃいましょうか? えっ、いいんですか? 卯月、頑張りますっ!



 あ……あの、ところでプロデューサーさん。すこし聞きたいことがあるんですけど……その……あの……えっと、や、辞めない……ですよね? お仕事……プロデューサーさんが、プロデューサーさんじゃなくなったり、しません……よね? ……えへへ、そうですよね! 信じてましたっ!」



 とりとめのないことをしゃべり続けて、気付けばもう二時間が経っていました。



「あっ、もうこんな時間ですね。すみません、そろそろ切りますね。はい、お休みなさい。……それじゃ……はい……」



 いつから、でしょうか。こんなふうに、プロデューサーさんと電話をしているフリを始めたのは。



 本当は、いろんなことをお話ししたいんです。事務所を辞めるなんてことがただの噂かどうかを確かめたいんです。でもプロデューサーさんはとても忙しくて、私のためだけに何時間も長電話するような暇はありません。お仕事中はもちろん、お仕事が終わった後も。



 疲れているプロデューサーさんに負担はかけられませんし、それに、プライベートなことを話すのは……アイドルとプロデューサーという関係からすると、ちょっと間違っているような気がします。



 どこまでがただの女の子の島村卯月で、どこからがアイドルの島村卯月なのか。私は器用じゃないから、そういった線引きができなくて、プロデューサーさんとは、お仕事以外でお話をしたことがあまりありません。してはいけないと思ってしまうんです。



 正直なことを言ってしまうと、私はたぶん、プロデューサーさんのことが好きです。でも私はアイドルでいたいから、プロデューサーさんが自慢できるようなアイドルでありたいから、素の私は見せられません。あくまでもアイドルの島村卯月として接するしかないんです。



 ――ああ、そうでした。プロデューサーさんと長電話するフリを始めたのは、私が自分の気持ちに気付いたころでした。



 もしも、もしもアイドルじゃない島村卯月と、プロデューサーではないプロデューサーさんが出会っていたら、どうなっていたんだろうか。どこで知り合って、どんなふうに仲良くなって、どうやって恋人同士になるのか――これは、そんなむなしい空想の産物なのです。



 わかっています。もしも私がアイドルじゃなかったら、そもそもプロデューサーさんと出会うことすらなかった。あの人を好きになることもなかった。運命というほど大それたものではありません。ただ、お互いが収まるところに収まっているだけなのです。私とあの人はアイドルとプロデューサーだから――きっと、結ばれない運命のもとでしか出会うことができなかったんでしょう。



 仕方ないと思っていました。ずっと黙っていようと心に決めていました。だってアイドルは恋をしてはいけないんです。裏切ってはいけないんです。夢を壊してはいけないんです。それが、アイドルとして普通の――いえ、最低限のことですから。



 だからプロデューサーさんとは必要以上の会話はしてこなかったつもりです。スキンシップも控えてきました。アイドルの島村卯月であり続けるためにプライベートな相談もしませんでした。わたしはアイドルなんです。事務所のみんながプロデューサーさんと打ち解けていくのを笑ってみているしかありませんでした。プロデューサーさんとどこそこへ行った。プロデューサーさんにプレゼントを買ってもらった。プロデューサーさんと食事をした。そんな他愛のない会話を、私は笑ってあいづちを打ちながら、心の中では唇を噛みながら聞いていました。



 素の自分のまま接することができる彼女たちが羨ましかったんです。アイドルではなく、一人の女の子として、プロデューサーさんと向き合える彼女たちが、その勇気が、無神経さが、羨ましかったんです。でもそれだけでした。だってプロデューサーさんはプロデューサーさんでしたから。みんながどんなにアピールしてもさらっと流してしまうんです。優しい顔で、ホッとする声で、いつだって上手にあしらってしまうんです。



 報われない恋でした。私だけではなく、プロデューサーさんのことを好きなアイドルは、みんな報われない恋をしていたのです。だから私は安心してアイドルを続けることができました。プロデューサーさんは誰とも結ばれることはないと思っていました。ずっと私の、私たちの、優しいプロデューサーさんでいてくれると信じていました。



 ですから、いいんです。気付いてくれなくて。そばにいてくれるだけで。



 それだけで島村卯月は幸せでした。



 ――本当に、本当に。幸せだったんです、あの瞬間までは。



 その日、私は事務所に学校のプリントを忘れてしまったのです。先生に提出する大事なプリントでした。お仕事の都合上、確実に渡せる機会はそうありませんので、私は一度帰った後、プロデューサーさんに連絡してから事務所に戻りました。



 プリントはすぐに見つかりました。でも私は探すふりを続けます。だって二人きりだったんです。ちひろさんはとっくに帰っていて、事務所には私とプロデューサーさんしかいませんでした。こんな機会はめったにありません。そうしていると、ふとプロデューサーさんが私を手招きしました。一つだけ余ってしまったから、とキャンディが手渡されます。包み紙の両端をきゅっと絞った丸いキャンディです。私はありがとうございますと頭を下げて、キャンディを頬張ります。もちろん、包み紙はきっちりと四つ折りにしてポケットに大切にしまいました。



 私は口の中でキャンディをころころさせながら、事務所のいろんな所を探りつつ、チラチラとプロデューサーさんを盗み見ます。いつでもパリっとしたスーツ。一度も緩めているところを見たことがないシャツの襟元。糊のきいた襟とプロデューサーさんの首筋はいつ見ても素敵です。



 キーボードを叩く指。シワ一つない袖口から伸びる男の人の手首。カフスボタンと腕時計の調和。コーヒーカップをつかむ指と、その縁に寄せられる唇。まゆちゃんが夢中になるのもわかります。けれど私は島村卯月ですから、あまり見つめてこれ以上好きになってもいけません。私は残業しているプロデューサーさんの背中に後ろから抱きついてしまいたい衝動を抑え込みながら、プリントが見つかったことを伝え、お疲れ様です、失礼しますと言い、送っていくよと席を立ったプロデューサーの好意を固辞して、事務所を後にしようとしました。でも――



卯月

「……あれ、凛ちゃん? 未央ちゃんも……?」



 私が帰る直前に、二人が事務所に顔を出しました。





「卯月……?」



未央

「し、しまむー……こ、こんばんは」



 二人ともばつが悪そうな顔でした。当然です。



 だって二人は、今日も用事があると私の誘いを断っていたのですから。



卯月

「凛ちゃん、お家の手伝いはもういいの?」





「……うん。もう終わったよ」



卯月

「未央ちゃん、溜まってた課題はちゃんと終わったの?」



未央

「ば、ばっちり! ついさっきね、うん! 終わらせたんだー!」



卯月

「そっか。私は事務所に忘れてきたプリントを取りに来てたんだ。じゃあ二人ともお疲れ様。おやすみなさい」



 私は二人の間をすり抜けるようにして事務所を出ました。



 もうすっかり夜です。空を仰いでも月は見えませんでした。



 星もよく見えません。街灯がぐにゃりと歪んでいます。



 いまにも涙がこぼれてしまいそうでした。



 凛ちゃんと未央ちゃんはメイクをしていました。撮影用の、カメラにちゃんと映えるようないつものメイクではなく、女の子として、男の人に魅力的に見えるメイクでした。服もさりげなくですがかなり気合が入ってました。香水も付けていた気がします。



 お手伝いとか、宿題とかは嘘だったんです。二人は私と別れた後、帰って準備をしていたんです。シャワーを浴びて、たっぷり時間をかけてお化粧して、悩みに悩み抜いたドレスを着て、香水を纏って。プロデューサーさんとのデートをするために、何時間も自分を磨いたのでしょう。私にだってそれくらいはわかります。



 どうしてなんでしょうか。二人はアイドルで、私のお友達で、大切な仲間なのに。いったいいつからなのでしょうか。いったいいつから、二人はプロデューサーさんと――



 いえ、そんなわけがありません。だってプロデューサーさんはプロデューサーさんなんですから。きっとデートといってもディナーをしておしゃべりをして、二人をお家まで送り届けるだけに決まっています。



 私は涙をぬぐって、事務所に戻ります。ちょうど、戸締りを終えたプロデューサーさんたちが出てくるところでした。



 ――しっかりと。まるで恋人のように、手を繋いで。



 それを見て、何かが壊れたような気がしました。



卯月

「未央ちゃん!」



 街灯の位置を確認して、私は少し離れた所から声をかけました。プロデューサーさんから頂いたキャンディの包み紙をポケットから出して、恥ずかしい芝居を打ちます。



卯月

「あのね、未央ちゃん……これ、さっきね、未央ちゃんのカバンから落ちたのを拾ったんだけど……その、渡すのも恥ずかしいし、かといって私が持っているわけにもいかなくて……だから、ごめんね、返すね」



 私が持っている包み紙は、向こうからは逆光でほとんど見えないはずです。四つ折りになった、そのシルエット以外は。



卯月

「未央ちゃんも女の子だから……好きな人と……そういうことは……わかるけど、もうちょっと気をつけてほしいというか……他にも落としてない、よね? もし誰かに拾われたら……終わりだよ?」



 未央ちゃんは顔を真っ青にしてポーチを開けました。薄闇のなかで指がせわしなく何かを探して、やがてふっと力を抜きます。明らかに安堵したような息でしたが、すぐに未央ちゃんはその呼吸を止めました。恐る恐る私のほうを見ます。ようやく気付いたみたいです。



 私がキャンディの包み紙を広げると、未央ちゃんは世界が終ったような顔をしました。たぶん、私も同じ顔をしていると思います。



 凛ちゃんは何も言わずに、静かに目を伏せました。ということは凛ちゃんもそういうことです。知ってたんですね。



 プロデューサーさんの表情は暗くてよく見えません。見たくもありません。



卯月

「……どうして?」



 胸の奥にたくさんのものがつかえています。吐きだしたいのに、苦しいのに、言葉になりません。



 ぐるぐると渦巻いて、重くなって、どろどろになって、どうしようもないそれが、ぶつりと落ちました。



 熟しすぎた実が腐り落ちるように。どす黒い嫉妬が、お腹の底に落ちました。





「……好き、だったから」



 その一言で、島村卯月の幸せは終わりました。



 もう何もかもが嫌になって逃げ出しました。凛ちゃんがわたしの名前を呼びます。未央ちゃんが追いかけてきます。プロデューサーさんがなにかをいいました。何も聞きたくありません。何も知りたくありません。わたしは少しでも遠ざかりたくて、持っていたものを手当たり次第に未央ちゃんに投げつけました。悲鳴が聞こえて振り返ると、何かが当たったのか、転んだ未央ちゃんがわたしを見上げています。



未央

「しまむー、ごめん! ごめんねっ! でも、待って! 少しでいいから、話を――」



 話すことなんて何もありませんでした。何を聞かせてくれるというのでしょうか。プロデューサーさんとしたたくさんの幸せなことでしょうか。そんなのいりません。知りません。わたしは未央ちゃんを置いて逃げました。走れなくなるまで逃げました。いっそ心臓が破れてしまえばいいと思いながら、逃げ続けました。



 けれど心臓は壊れませんでした。わたしはふらふらになってどこかの路地裏にへたり込みます。一歩も動けなくて、動きたくなくて、何かの看板の裏に隠れました。声が聞こえたような気がします。わたしを探す声がしている気がします。誰かが走っている音がしました。それはだんだんと近づいてきて、泣きそうな声で何度も何度もわたしを呼んで、そしてどこかへ行ってしまいました。



 それからどれくらい経ったでしょうか。いまが何時なのかはわかりません。ケータイは未央ちゃんに投げたか、走ってる途中で落としたか、とにかく持っていませんでした。心臓が落ち着いて、身体が冷えて震え始めたころ、その人影はひょっこりとわたしの前に姿を現しました。



幸子

「卯月さん、こんばんは。カワイイボクがお迎えに来てあげましたよ?」



卯月

「……幸子、ちゃん? 迎えって……プロデューサーさんに、頼まれたんですか……?」



幸子

「違いますよ。ボクは今回の件で最大の功労者である卯月さんを、みんなでお祝いするためにお迎えに来たんです」



卯月

「……なにを言って……?」



幸子

「いいから早く来てください。すぐそこにタクシーを待たせてますから。このままじゃカゼをひいちゃいますよ?」



 差し出された手を握って、わたしはようやく立ち上がりました。幸子ちゃんの後についてタクシーに乗ります。向かった先は事務所からほど近い分譲マンションでした。



幸子

「こっちです」

 案内されたのは、一階の角部屋でした。玄関をくぐり、薄暗い廊下を抜けて、リビングに入ります。リビングにはひとそろいの家具がありましたが、生活感は一切ありませんでした。首をかしげるわたしを尻目に、幸子ちゃんはクローゼットを開けます。クローゼットには何も入ってませんでしたが、どういうわけかドアが付いていました。



 幸子ちゃんはそのドアを抜けて行ってしまいます。すこし迷ってから付いていくと、隣の部屋のリビングに出ました。振り返ると、クローゼットがあります。クローゼット同士でつながった部屋というよくわからない物件でした。幸子ちゃんはドアを閉めて、じゃらりと鍵束を出すとおもむろに鍵をかけ、こんどは大きな冷蔵庫を開けます。まさかとは思いましたが、冷蔵庫の中にはドアがあり、また別の部屋に続いているようでした。



 これはいったいどういうことなのでしょう。冷蔵庫の次は本棚で、その次は大きな油絵です。幸子ちゃんに聞いてもフフーンと笑うばかりで応えてくれませんでしたが、大きな和箪笥の向こうに、この奇妙なマンションの答えがありました。



 そこは今までと同じ部屋でした。家具も調度品も特に変わったものはありません。ですがここが一番奥の部屋だということは見ればわかりました。ソファで紅茶を片手にくつろいでいる女の子と、キッチンで鼻歌を歌いながら料理をしている女の子と、どうですかといわんばかりに胸を張っている女の子と――そして、部屋の真ん中でふかふかのカーペットに横たわり、両手を縛られたまま眠っているプロデューサーさんを見れば、これがどういうことなのかは誰だってわかります。



 わたしはふらふらとプロデューサーさんに近寄って、ずっと触れたかったプロデューサーさんの頬に手を当てました。あたたかくて、愛おしくて、どうしようもないくらいの幸せが、手のひらから伝わってきます。胸の奥にこびりついたものが嘘のように消えて行きました。わたしはプロデューサーさんに膝枕をしてあげます。頭を撫でて、耳をなぞって、指先で唇を感じます。



幸子

「おかえりなさい、卯月さん」



桃華

「おかえりなさいませ、卯月さん」



響子

「おかえり、卯月ちゃん」



 わたしは顔をあげて、とびっきりの笑顔で答えました。



卯月

「ただいまっ」



幸子

「おはようございます。朝からボクの顔を見られるなんて幸せ者ですね、プロデューサーさん」



桃華

「Pちゃま、やっとお目覚めですのね」



響子

「あ、プロデューサーさん。ご飯できてますよ」



卯月

「どうしたんですか、そんな真っ青な顔して」



桃華

「ふふっ。逃げても無駄ですのよ、Pちゃま。玄関は溶接してありますし、窓は嵌め殺しにして強化ガラスに取り替えましたの。もちろん完全防音ですからどんな音を立てても外には漏れませんわ」



幸子

「ボクらが使う出入り口は隠してありますし、仮に見つけても鍵がかかってますから、一人で脱出するのは不可能ですよ」



響子

「ちなみに助けもきませんから。プロデューサーさんたちが総出で卯月ちゃんを捜している時に迎えに行ったので、あっちはようやくいなくなったことに気付いたくらいじゃないですか?」



卯月

「それにいなくなったことに気付いたとしても、いなくなったり理由にはたどり着けないでしょうし。わたしに見られて自責に駆られたプロデューサーさんが、発作的に失踪した……辻褄は合わなくても凛ちゃんたちはそう考えるでしょうね。だって思い当たることをたくさんしてきたんですから」



桃華

「ちなみにPちゃまのカードで航空券を買ったりして偽装工作は終わっていますのよ。ですから安心してわたくしたちに身を委ねてくださいませ」



響子

「……あれ、なにか不満があるんですか?」



幸子

「間違っている? なにがですか?」



卯月

「わたし、聞きましたよ。プロデューサーさんが凛ちゃんたちとしてきたこと。いままでの、全部。それとこれと何が違うっていうんですか?」



桃華

「ええ、確かにちひろさんたちはこんなふうにPちゃまを鎖でつないだりしたりはしませんでしたわ。ですがそれがなんですの? すこし調べたらわかることですのよ? あの方たちは自分たちを人質にしてPちゃまの心を縛りつけ、Pちゃまの心を無視して自分たちのところに繋ぎとめようとしたのですわ。思い返してみてください、Pちゃま。ちひろさんたちといてPちゃまに自由はありまして? けだものの群れの中にあって、一度でもPちゃまの心が安らいだことがありますの? Pちゃまの心に一片の罪悪も呵責も後悔もなく、彼女たちと屈託なく心の底から笑いあえた時間が、ただの一瞬でもありましたの?」



響子

「……へえ、あったんですか。そうですか。それにしては答えるのにずいぶんと時間がかかってませんか? 目が泳いでますよ? 呼吸も落ち着かないようですし。苦しそうですね、プロデューサーさん。どうしてそんなに苦しそうなんです? ライブが終わった後、私を褒めてくれたときのあの笑顔はどこに行ったんですか? ねえ、気付いてますか、プロデューサーさん。事務所で時々そんな顔してるんですよ? 世界が終ったような顔で、じっと遠くを見つめてるんですよ? あの人たちとあんな関係になって、本当に悔やんでないんですか?」



幸子

「みんな気付いてるんですよ、プロデューサーさん。おかしいって。なにかがあったんだって。でもプロデューサーさんはなにもいいませんよね。心配させたくなくて、じっと隠してますよね。みんな知ってるんです。気になってるんです。プロデューサーさんが黙ってるからみんな聞かないだけで、とっくにわかってるんですよ。プロデューサーさんの様子がおかしいことに気付いてないの、あの人たちくらいですよ」



卯月

「……ほら、ぜんぜん見えてないじゃないですか。大切なんですよね、みんなのこと。なのに、その大切なみんなの不安が感じられないくらい、プロデューサーさんは追い詰められてます。自分のことで精いっぱいで、もう余裕なんてないんですよ。生活環境がいきなり変わって、プライベートがなくなって、何人ものアイドルと関係を結ばされて……幸せですか? 違いますよね。プロデューサーさんはこんなの望んでいませんでしたよね。だから、しばらくあの人たちと距離を置きましょうよ。ゆっくり考えればいいんです。これからどうすればいいのか。どうするべきなのか。たくさん時間はありますから、みんなで一緒に考えましょう?」





卯月

「――プロデューサーさんの、本当の幸せを」





      【HAPPY END】





16:30│島村卯月 
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