2014年03月12日

翠「銀紙に、微かな思いを」

さくっと終わる地の文SSです。



SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1392210211





 街は赤く彩られ、茶色に思いを載せて行く。



 少し前までは鬼とか豆とか言っていた街中も、すっかり姿を変えていたのでした。









 昼下がり。

 仕事を終えて事務所に帰ってみると、そこにはまことしやかに甘い空気が漂っていました。



 その中には微かな声。

 ほんのりとした香りを拡散するかのように、楽しそうな声が奥から聞こえています。



「あら……誰でしょう」

 その声の元――事務所の角にある給湯室を覗くと、そこには小さな後ろ姿が一つと、私と同じくらいの後ろ姿の二つが隣同士で作業をしていたのです。



 決してはしゃぐような盛り上がりを見せていた訳ではありませんが、静かに、それでいて和気あいあいとした雰囲気があるような気がします。





 そんな私の足音に気づいのたのか、二人の内の一人、小さな子が後ろを振り向くと、落ち着いた声色で私に声を掛けてくれました。

「あ、水野さん。お疲れ様です」

 まだまだ幼いながらも綺麗に髪を結ったその子は、丁寧にも礼までしてくれます。

 私の頃はそうだったかなと思うと、あまり自信はありません。



 そしてその子が振り向いて初めて隣の子も気づき、同様に挨拶をしてくれました。





 みんな仲が良くて友達のようでも、実は違う。

 二人とも、そして私も、立派なアイドル。



「うふふ、とっても甘い香りがしますね。ありすちゃん、千鶴さん」

 目尻が下がるような匂いの中で、彼女たちは果てない思いを込めていました。











「――なるほど、確かにそういう時期ですからね」

 彼女たちの手元にある物を見れば、何をしていたかはすぐにわかります。

 そんな私の言葉を聞くと、二人は少し後ずさってそれを隠してしまいました。



「べ、別にそれだけのためにやってる訳じゃありませんから!」

 腕をまくって私から目を逸らした小さな子、ありすちゃんは少し言い淀むようにしつつも理由を高らかに言います。

「同様に、です……いや、本当だってば」

 そして千鶴さんも同じように。



 まるで姉妹のように似通った仕草をしていますが、全くそういう繋がりはありません。

 でも、ある意味では姉妹に近いのかもしれませんね。



 二人ともほぼ同時に否定しても、私にはすぐにわかります。

 ……いや、誰にだってわかるとは思いますけども。



「誰にあげる、とは言ってないのですが……?」

「あっ」

 私がそう言うと、二人して同じ反応をしました。

 これじゃ、似たもの同士と言われても仕方がないでしょう、なんて。



「ふふ、素直じゃないですね」

 そう言って私が笑うと、二人はばつが悪いそうに笑い返しました。





 別にそれでもいいと私は思います。



 何故なら、もうすぐ二月の十四日。

 甘い香りを振りまいて、微かな思いを伝える日ですから。











  *





「でも、お二人で作るのはちょっと意外でした」



 その日のために作ると言っても、作業量自体はそこまで多くはありません。

 加えてありすちゃんもそこまで根気のいるレシピを使っていた訳ではありませんし、何より千鶴さんが少しづつ教えていたようで、あっという間に完成に至ったのです。



 まあ、完成とはいっても冷やすのにまた時間がかかるのですが。



 そういう訳で、今は片付け作業を終えてソファで休憩しているのです。



「千鶴さんなら……笑わないと思いましたから」

 自分で注いだジュースを一口飲むと、ありすちゃんがぽつりと呟きました。



 その表情に、あまり明るみはありません。

 ありすちゃんを知らない人から見ても、私と同様の思いを抱くことでしょう。

「同じかも。……恥ずかしいし」

 またもや同じように、千鶴さんが呟きます。



 ……敢えて言っておきますが、ありすちゃんの言葉に悪意はありません。

 この事務所に居る皆は、絶対に笑ったりはしません。



「まあ……みんなも笑いはしないだろうけど。でも何だか、ええと……」

 ですが、当の本人にとっては色々と複雑なようです。



 それでも、私には何となく分かるような気がします。

 皆さんはとても優しいから、ありすちゃんや千鶴ちゃんがアドバイスを求めようなら手取り足取り教えますし、人によっては行動の背景に至るまで全て聞きたがりそうですから。



 勿論、そういう事が他の皆さんにとっては当然なのかもしれません。

 しかし、例え冗談や単なる話題であろうとも、人には色々な気持ちというものがあります。



 それが彼女たちが他の皆さんに頼れない理由の一つなのでしょう。

 考えすぎ、と言うべきなのかもしれませんが、彼女たちなりの思いがあるのです。











「……ところで、翠さんはどのくらい作りました?」

 ありすちゃんがジュースなのに対して、千鶴さんは湯のみから暖かい緑茶を注いでいました。

 習字が趣味とのことですから、もしかしたらお茶も好きなのかもしれません。



「私、ですか……」

「とりあえず私達は二人で余裕のある分だけチョコを買って来て作ったのですが……きっとたくさん来るでしょうし、これで良いのかと思って……」



 確かに悩ましい問題です。

 私が入ってきた時から既にこの事務所はなかなかの規模を誇っていたのですが、時が経つにつれても成長は一向に止まらず、現在のテナントだけではもはや補いきれないぐらいだそうです。

 いつかは、ビルを丸々一つ事務所のものになる、そんな日も遠くないのかもしれません。



 さて、彼女たちの抱える疑問というものは起こるべくして起こるものです。

 何せ上記のような規模ですから、当然そこに出入りする人も数多く居ます。



 他所の事務所の事には明るくないのですが、とりわけ私の居る事務所というのは出入りに厳しくなく、用事のない人がそこに居てもまず怒られることはありません。



 そしてここに来る皆さんは恐らく、彼女たち同様その日のためにチョコレートを作ってるでしょうから、仮に全員作ってきたとしたら――そうでなくとも、来た人に渡そうと思えば――量というのはあまり想像したくないでしょうね。



「ふふ、大丈夫ですよ」

 しかし、私は彼女たちの不安に対して存外な反応をとることにしました。

 当たり前ですが、何を言うんだろう、といった視線を向けてきます。



 正直に言うと、私もそういった日には疎くてあまり積極的では無かったのですが、それでも皆さんからチョコレートを頂いたりして楽しく過ごせたのはよく記憶に残っています。





 結局、その日の価値というのはチョコレート云々といったものではなく、その日を介して色々な言葉や表情を交わす事でお互いに楽しみあう、ということなのかもしれません。









「なるほど……水野さんがそういうのなら大丈夫、ですよね」

 そもそも全員が食べられる量を二人で作るのは至難の技ですから、そこまで気負うこともないとは思いますが。



「それに、お昼が食べられなくなるし。……うん、いける」

 納得するありすちゃんの隣で、千鶴さんが頷きながらそう小さく呟きました。



 事実、去年のこの日は少し困ったことになってしまいましたから……ある意味気遣いができている、というべきなのでしょうか。



 当時のことを少し思い出して思わず苦笑していると、千鶴さんは顎に当てていた手を下ろしました。



「ところで、翠さんの今年分はどの位?」



 その言葉を聞いてこの前のオフの事を回想したら、実はそこまで作っていないという記憶に辿り着きました。

 実費ですから当然多くは作れませんし、何より去年の再来だけは避けなければいけませんからね。

 トレーナーさんの呆れ顔は中々離れません。



「そうですね……作り方を教わった方や個人的に親しい方、後は普段お世話になっている方が主ですね」

「それだと、事務所にはあまり残りませんよね」

 ありすちゃんの問いには、小さくて細かく分けて食べられる物を少しだけ、と答えます。



「じゃあ、食べられない人も多いってことになるんじゃ……」

「それはあり得ませんので大丈夫ですよ、うふふ」

 この事務所にはお菓子を作るのが好きな人がたくさんいますから、と言うと、二人はたった一つ、こくり、とうなずきました。



 ……それだけでわかってしまうほど、あの人のお菓子へのひたむきさというのは並外れているのがよく理解できます。



「ふふ。まあ冗談はさておくとしても、皆が皆作って持って行くと食べきれなくなって、せっかく作ったチョコレートが勿体無いですから」

「全く。こんな風習を作り上げた企業を恨みます」

 そう言ってため息を吐きますが、ありすちゃんもそれに乗っかってるんですよ。











 ひとしきり話し込むと、不意に沈黙が訪れました。

 話題が一段落すると突然やって来る、心地良い間とは、まさに今のことなのでしょう。



 あまり匂いを事務所内に立ち込めさせるとよくないという理由で窓を開けて換気を続けていたため、もう先ほどのような甘い空気は去って行ってしまっています。



「……ちゃんと渡せるかな」



 その中で、千鶴さんがぽつり、両手で持った湯のみの水面を見つめながら呟きました。



 言葉だけ見ればとても不安がっているような、そんな揺らぎを感じてしまいますが、実際はそうではありません。



 悩ましいというよりは、諦めのような感情。

 この先が見えているかの如く自嘲する声色でした。



「あのPさんですから。心配しなくとも受け取ってくれます」

 彼女の発した言葉がどういう意味なのか、ぼんやりとですが伝わってきます。



 ありすちゃんも千鶴さんも、どちらも直接のPさんに対してのアプローチは、全て素直にという風には中々できないみたいです。

 当然嫌ってなんかは居ません。



 ですが、どうしても気恥ずかしさがある、ということなのでしょう。



「わかってるけど……いざその時になったら」

 恥ずかしさが上回って上手く伝わらないのではないか、そういう事を言いたげな言葉でした。



 一方、ありすちゃんは近くに置いてあった鞄からタブレットを取り出して操作をしているようでした。

「……何をしてるんですか、ありすちゃん?」



 無心に画面を人差し指でさすっているので気になった私が声をかけると、彼女はタブレットの画面をこちらに向けて見せてくれました。



「調べ物です。ネットには上手い渡し方をレクチャーしてくれる所があるんです」

 勿論渡し方というのはチョコレートの事で、わざわざ拡大してくれたのを見ると渡す状況やら仕草、言葉などを色々まとめてあって、いわゆる『まとめ』とのことです。



 私はそういう物に詳しくないのですが、ありすちゃんの話によると大抵誰かがこうしてまとめて一つの記事にしてくれるそうです。











「あ、それ私も見ていい?」

「どうぞ。ためになりますよ」



 千鶴さんの発言でタブレットを手元に戻すと、互いの膝を合わせてすり、すりと画面を真剣に撫で始めました。



 その姿には必死に勉強する受験生のような気概すら感じられましたが、決して彼女たちが無知だとか、そういう訳ではないと思います。



 普通に渡せばいい。

 でも、その普通が駄目だとしたら?



 読み込んでゆく二人には、そういった無数の仮定があるような気がします。



「……それは見ないほうがいいです」

 だから、私は彼女の視線をタブレットに向けるのを制止しました。



「どういうこと?」

 千鶴さんが怪訝な声色で問い返してきますが、私はそのまま返します。



「確かにそれを参考にして考えるのもいいかもしれません。ですが、Pさんが喜ぶのはやっぱりいつもの皆、素直な本当の姿だと思うんです。……ねえ、ありすちゃん?」

「う……」



 素直になれないからこの日を通じて素直に接する。チョコレートに思いを包むことで、普段言えないような事も言えてしまう。

 そういった『きっかけ』も、その日の役割なのかもしれません。



 この言葉にはそれなりの納得を感じてもらえたようで、思い思いに取り込んでは頷いて聞いてもらえました。



 変にこだわるよりも、敢えて飾らずに伝えた方が良い事はあの人の人となりを見れば誰しもが思うことです。



 なんとかなるさ、という気持ちでアイドルをやることは好ましくありませんが、本人の純粋な気持ちを表すためには、むしろそういう感覚で行った方が良いのではないでしょうか。



 二人もそれにはすぐ共感し、いかにPさんがそういう人格の人間であるかを――ちょっと気づいてもらいにくい欠点なども含めて――ありすちゃんが口をへの字にして吐いていると、不意に千鶴さんが私の目を捉えました。



「じゃあ、せめて翠さんの、ぷ、プロデューサーへの……渡し方を聞いてもいい?」



 その時、私の意識が硬直したのがはっきりとわかりました。











「私の、ですか?」

「うん。そりゃ渡すだけだから大したことはしてないと思うんだけど……参考にしておきたいなって」



 多分、その質問自体に何ら悪意は存在していないのでしょう。

 信頼するプロデューサーへ普段のお礼と親しみを込めてチョコレートを送る、という行動には一切の異論も存在しません。



 事実、この事務所に居るアイドルの皆さんはきっとそれぞれの形に思いを込めて渡すのが恒例となっています。



 しかし彼女の質問というのはあくまでそれが前提であればこそ成立するものであって、その場所にすら立てていない人間に訊くのはお門違いというものでしょう。





 だから、期待されていた回答をすることはできませんでした。



「……すみません。私は――」

 何故なら、あの人ににチョコレートを渡さないのですから。











「……どうしてですか」

 換気が済み、すこしツンとする冷たさが肌を撫でる事務所の中に訪れた小さな沈黙。

 飲み物の存在などとうに忘れ、全意識が私に向かっているのをひしひしと感じています。



 ありすちゃんは一言そう呟いて、じっと私を見ました。

 普段彼女にある穏やかさすら抜けた、真剣な表情。



 それを見て、私は苦し紛れに微笑むしかできませんでした。



「別に渡すのが義務と言っている訳じゃないです。私だって、今回たまたまやってみようと思っただけですし。……でも、水野さんは特別プロデューサーを嫌っているわけじゃないですよね」



 当たり前です、とはっきりと述べたかったのに、何故か喉から出ませんでした。



 私も、ありすちゃんや千鶴さん、そして他の皆さんと同じようにPさんの事を信頼していますし……普通の男性にはない魅力というのも、理解しています。



 ですが、こうした形で気持ちを表そうとした時に、皆さんと同じ舞台には立てないのです。



「勿論尊敬はしています。……ただ、皆さんも渡しますから、きっと食べきれなくなるでしょう?」

「それは、……まあそうだけど」

 何かを考えこむような仕草をした千鶴さんが、私の言葉を聞いて頷きました。



 これはただの推測でしかありませんが、恐らくPさんはこの事務所に居る皆さんからチョコレートをもらうことでしょう。

 あれだけ誠意ある振る舞いをしていて、嫌いになる人は絶対に居ません。



 ただ、もしそれで多くの人からチョコレートを貰ったとしたら……きっと、Pさんはありがたがって全部食べようとします。

 あの人の性格を考えれば、ある程度見当はつくものです。



「何日も続けてチョコレートを食べれば体調を崩すかもしれませんし、特に手作りだと長持ちはしませんから。皆さんが送る分、私は送らないほうが……良いんです」

 そう言い終えて、また私は笑みを浮かべてしまいました。



 何かが面白い訳ではなく、ただ何となく。

 ……そうしなければ、普通の表情で居られないような気がしたから。











 その時、ありすちゃんは身を乗り出して私の瞳に顔を近づけました。

「あ、ありすちゃん?」

「……」

 戸惑う私と、私の目を見る彼女。

 かつての光景を鏡に照らしたかのような世界でした。



 そう、あの時は確かありすちゃんのテレビの立ち振る舞いがどこか背伸びしていて、せっかくの他にはない可愛らしさを打ち消してしまっていたのを一緒に話をして気づいてもらえたのでした。

 当然ながら、ありすちゃんの『そういう』需要もあるのは間違いありませんが、彼女という存在を見た時、やはり最も優れている所は可愛さだと思うのです。



 本人は未だ慣れない様子ではありますが、少しづつ愛らしい素顔を見せてくれているので、後々更に魅力は増していくでしょう、と思っています。



 それが、今は逆の立場になっている。

 見る彼女が居て、見られる私がいる。





 隣に居る千鶴さんは何が起きたのか理解できないといった表情で、何も出来ず私達を眺めるしかしていません。





 そんな中で、意図が切れたかのようにありすちゃんは瞼を下ろし――ぽつり、と呟きました。



「うそつき」



 と。











「――っ!」

 明らかに普段の調子ではない声色に、思わず意味を持たない声をあげてしまいました。



 何事かといった千鶴さんも、ソファに勢い良く戻ったありすちゃんを心配そうに声をかけますが、彼女の視線は私をずっと捉えていました。





 身に覚えがある言葉。



 ――嘘つき。

 その言葉が、私の四肢を強く締め付けていく。



「水野さんは以前、私に言ってくれましたよね。自分の気持ちに素直な私が好きだって」



 大人であろうとする彼女に、素直で、本心である事を願った自分。

 あれは、間違いなく私の本意でした。



 現に、他者に対しての障壁を崩し、自己を主張しつつある程度態度を軟化させた現在の彼女の方が私は好きです。



「やるのは難しいですけど、水野さんに教えてもらって頑張ったから今こうして居られるんです。それが良いことだってわかったのも、水野さんのおかげなんです。なのに――」



 では今私の目の前に居る彼女は、どういう心境なのでしょうか。



 喜んでいるのか、怒っているのか。

 悲しんでいるのか。楽しんでいるのか。



 恐らく、いずれの感情にも属さない――いや、どこか混じりっけのある感情なんだと思います。



「目は心を映す鏡です。……水野さんの目に何が映っていたか、自分ではわかりませんか」





 敢えていうのなら、失望。

 そんな風に、見えました。









 どっ、と私の中から濁ったモノが溢れてくるのが全身に伝わってきます。







 ――何故送らないのかという問いに対して、私が答えたのはPさんのためでした。

 ですが、それは間違いなく私の本意です。



 あの人は誰よりも優しく、そして誰よりも勇敢です。

 例年通りでいけば、きっとPさんは色々な人からたくさんのチョコレートを貰うことはほぼ確実でしょう。



 そして、その全てのチョコレートを一つ残らず平らげて一人ひとりにお礼を言ってくれて、更にお返しまで律儀にもしてくれる。

 決して汎用的な言葉ではなく、それぞれ作った物を食べて実際に感じた事や嬉しかったことを、素直に、率直に答えてくれるのです。



 そんなさりげないながらも本気で接してくれるPさんだからこそ、皆さんは信頼をするのでしょう。



 それは、私にも同じことが言えます。





 人生で初めて作った、不格好なチョコレート。

 他の人が作るような形も味も良くないチョコレート。



 それを嫌な顔ひとつせず受け取って、その場で食べてくれて……笑顔でお礼を言ってくれたこと。



 それが、たまらなく嬉しかった。





 ……だから、私はこれ以上渡すべきでないと思ったのです。











「水野さんは、Pさんの事は好きですか?」

「なっ――」



 不意に呟いた彼女の問いに、思わずたじろいでしまいました。

 勿論私がPさんの事をどう思っているか、という質問の内容に対してでもありましたが、何より彼女が『そういった事』について話す事に何のためらいも感じていない事に、私は驚いてしまったのです。



「私は好きです。自分がこんな性格なのは自覚してますけど、それを承知で受け入れてくれたPさんですから」

 視線を逸しはせず、ただ真っ直ぐにありすちゃんは私を見つめてきます。



 少し前に時間を巻き戻せば、今の彼女と同一だと言いにくいまでの率直さ。

 その瞳の形はかつてあった私の物だという事に、否応なく気付かされます。





 素直に伝える事。ブレずに思いを貫く事。



「だからチョコレートを送ります。送りたいんです。……水野さんは、本当にそれでいいんですか?」



 昔の私にあったものが、今はなくて。

 昔の彼女になかったものが、今はある。

 それがどれだけ羨ましい事か、考えるまでもありませんでした。



「私は……好きとか、嫌いとか、じゃないけど。でも……すごくいい人なのはわかるから」

 ありすちゃんに誘発されたのか、千鶴さんは少しためらいつつも、そう答えました。



 私はわかっていました。

 Pさんという人物が、良い人間である事を。



 そして、Pさんへ並々ならぬ思いを抱いている人が、この世界に居る事を。











 恋愛感情という存在を形として表すにはとても曖昧すぎる事は、いくつかの小説や映画で見聞きしています。

 本当にそれが好きという感情なのか、それとも擬態した何かのなのかは、本人の年齢や環境、そしてその当時の状況によって変わってくるからです。



 それは今抱いている人たちにも言えるのかもしれません。

 中には敬愛や親情からきている人だって、居ないとは思いません。



 しかし、明確な意思を持って彼に好きだと言える人も、確実にいるのです。



 もしかしたら、目の前に居るありすちゃんもその中の一人なのかもしれません。そして、私の知る人にもそれは――。



「……ふふ、やっぱり遠慮しておきます」



 渡せるなら渡したい。

 皆さんと同じ舞台に立って、アピールがしたい。



 でも、戦場に立って戦うには、私は弱すぎる。



 私が近づけば近づくほど、壊れてしまいそうな気がするのです。

 実るとか実らないとか、私個人に帰結する意味ではなく、純粋に、この世界が。



「留めておく分には、自由ですしね」

 そっと口元に手を当てて、わざとらしく微笑んだ。





 もしも渡してしまえば、この感情は恐らく加速していくのでしょう。

 現状では物足りなくなって、更に近づいていって……誰にも負けたくなくなるのです。

 義理という便利な言葉があるのに。





 ――安らかで、幸せなこの世界で争いたくない。



 その考えが、ありすちゃんの言葉に反論できない最大の原因なのでした。











 再度訪れた沈黙。

 誰もが望んだ物ではなく、何かの導きによって生まれた空間。



 ありすちゃんは、何となく悲しそうな表情をしていました。



 彼女の言いたい事はわかります。

 好意を示すことに制限などはありません。とりわけこのようなイベントに乗じればより容易く行えることでしょう。



 ですが、そうするには少し背が高すぎた。

 無我夢中で向き合えるほど、同じ立場で戦えるほど、私は水平でなく、そして気づけば無意識に俯瞰していたのです。



 思えば思うほど、恋しくなって。

 思えば思うほど、怖くなって。



 ありすちゃんは、私の言った意味がわかったのでしょう。

 だからこそ、この沈黙は生まれてしまったのです。











「……私は、そう思わないけど」

 しかし、それは予想外の所から打開されました。



 ぽつりと呟いた声の主は、ありすちゃんの隣でどこか考え込んでいた千鶴さんでした。





「どういう、ことですか?」

 私の問う声に一度だけこちらに視線を合わせましたが、すぐに目を逸らし、そのままゆっくりと口を開きました。



「そんな、簡単に壊れるような関係なの? ……私が言って良いのか、わからないけど」





 一つ、息を吐く。

 私にとって、彼女の言葉はとても新鮮でした。



「確かに、私の目から見ても……その、頑張ってる人はいるけど。それで喧嘩までいくのかな」

 ありすちゃんのように、こちらを直視はしないものの、漠然と私を見ながら話す千鶴さんはどうも手探りのようにも見えました。



「みんななら。多分、喧嘩じゃなくてかけっこになると思う。……むしろ、そうなってくれないと嫌」

 そんな中でも最後の言葉だけは語気が強まり、はっきりとした意思が込められていました。



 かけっこ。

 彼女の言葉の指し示す所というのは、いわば独立した競争なのだと思います。

 相手の策に嵌めて蹴落とすのではなく、誰が一番先にゴールに辿り着けるのか。奪い合うのではなく目指す。



 今私達がやっているような、純粋にアイドルとしての歩みを、千鶴さんはそうあるべきと言っているのでした。





 勿論、私もそうあってほしいと願っています。

 しかし、人間の欲深さというものもまた知っているから、そういう結論に至れないのです。











「――もしも、です」



 どのように答えるのが正解なのか、そしてどのように考えるのが正解なのかがまとまらずに答えあぐねている私を見て、ありすちゃんはふと切り出しました。



「もしも、私がPさんにチョコレートを……その、本気であげようとしたら、水野さんはどう思いますか?」

「……あっ」

 そんなもの、決まりきっている。



 即座に浮かんだ言葉を口に出そうとしたその瞬間、私の意識がぐらりと揺すぶられた。





「そう、……そうなんですよ。私が贈ろうなら水野さんは応援してくれますし、逆に水野さんが贈ろうなら、私も、千鶴さんも応援します。絶対です」



 彼女の声色にも視線にも、揺れは一切ありませんでした。

 私を真っ直ぐに見て、事務所の事を真っ直ぐに捉えて言葉を発したのです。



「私みたいな……不器用な人にも、みんな優しいし。プロデューサーが居るからなのかもね」



 千鶴さんが湯のみを胸元に近づけて、そっと湯気にあたった。

 外はまだ寒空だからこそ、その湯気に有り難みを感じているようでした。



「みんなPさんの下で活動してるんだから、そうなる訳がないんです。……だから、もう一度言わせてください――」



 私は、素直な水野さんを尊敬しています。





 ……ありすちゃんは私の中にある弱い所を一切の容赦なく突いてくる。

 そんな刃に為す術はなく、私の不安は瓦解していきました。











 つまるところ、私は色々な物事に保険をかけてかけて、それこそ何重にもかけたせいで、思考と行動が雁字搦めになっていたのです。



 チョコレートを通じて私の心が止まらなくなるのが怖い。

 私の行動がきっかけで事務所が壊れるのが怖い。

 私の思いが皆さんを裏切るのが怖い。



 そして、そうなることでPさんが嫌な思いをするのが……怖い。



 では、それを防ぐためにはどうすればいいか――それまで即座に帰結していた答えが、何にでもなる不定形へと融解していたのでした。





「……ありすちゃん。もう一度、私の目を見てくれますか?」



 不信という当然を描いていた私と比べると、彼女はどれほど勇敢なことか。

 私だって事務所の皆を信頼していたはずなのに、いつのまにかそうでなくなっていました。



 ですが、彼女は信じて疑わなかったのです。

 これはありすちゃんだから、そう色濃く言えるのでしょう。



 彼女の言葉に突き動かされ、私の意識は急激に冴えてきました。

 本当の私は何をしたいのかという脳裏に隠れていた感情が、瞳に浮き出ているような感じがしたのです。



「――」

 ありすちゃんは、私の言葉を聞いて再び私に顔を近づけてきます。

 歳相応の柔らかな肌がぐっと近づき、真剣な表情で私の瞳を見つめると、ふと表情がほころんだような気がします。



「……どうでしょうか」

 ぽふ、とソファに勢い良く座り込むありすちゃんは、どこか楽しそうにも思えます。

 まるで思い通りに事が運んだ軍師のよう。



「聞かなくても、わかりますよね?」





 つまりそういうこと、らしいです。











  *





「――はい、翠さん」

 外は晴れではあるものの、つんとした空気は未だ健在で、中々外にでるのは億劫になりそうな気温。

 用事が出来たことで、時間を無駄にはできないと外出する準備をしていた時、不意に千鶴さんが私に袋を手渡してきました。

 スーパーのロゴが印刷された白いビニール袋を持つその手は、とても暖かかったです。



「ええと……なんでしょう?」

 とりあえず受け取るような流れだったので受け取りはしましたが、頼んでもいない物を急に渡されても理解はできません。



 なので笑みを浮かべた千鶴さんの顔を伺ってから袋に入っていた一番上の物を取り出しました。



「……銀カップ、ですか」

 私の手が持ったのは、十個入りと書かれた小さな銀カップのセットでした。

 加えて袋には他にもチョコレート作りに使ったんだろうなと思われる物が他にも入っていました。



「ありすちゃんが見つけたレシピに書いてたから買ったんだけど、買いすぎちゃって……」

「あれはレシピを書いた人が悪いんです! たくさん作り過ぎなんです!」



 千鶴さんが苦笑すると、荷物を鞄に詰め込んでいたありすちゃんが反論しました。

 割と距離はあったはずなんですが、どうやら彼女は耳がいいようです。





「多分今から探して買ってると時間もお金も勿体無いでしょうから、私達のをあげます。頑張ってください」

「はい、ありがとうございます。お二人とも」

 つまり、これからチョコレート作りに入る私のために、不要になった道具類を下さったのでした。



 ちなみに、これから仕事のない私は早速調理をしようと考えているため、残りの必要な物を買いに行こうとしています。

 彼女たちは、自主的ながら私に付いてきてくれるというのです。



 見るだけでなく応援もする、というのは彼女たちにとっても一つの楽しみなのかもしれません。











「……ねえ、銀紙ってなんでチョコレートに使うと思う?」



 三人で小さなお出かけ。

 扉を抜けて外に出て、ありすちゃんが時は金なりと言わんばかりに先にビルの階段を降りて行くのを眺めている時、千鶴さんがふと私に声を掛けました。



 外はまだまだ寒空で、一気に冷気が頬を撫でます。

 先ほどまで暖かい所に居た私に思いをぶつけるかのような勢いの風は、これからの私を元気づけているようにも思えました。



「ええと……綺麗に魅せるためでしょうか?」

 銀紙と言われれば、まず思いつくのは包装です。

 市販のチョコレートを買えば、大抵銀紙で包装されています。

 事務所の中で頂いたのは銀紙ではなく銀カップのセットですが、これも同様の目的でしょう。

 暗いチョコレートの色に対して銀色は映えますから、見た目も美しい。



 ですからそういう理由なのだと答えますが、それを聞いた千鶴さんは、小さく笑いました。



「それもあるんだろうけど、銀紙ってチョコレートを長持ちさせる効果があるんだって」

「へえ、そんな理由があるんですね…納得です」



 千鶴さんは以前から仕事に聡明な人だと思っていましたが、こうした知識にも長けているのだと知って感心します。

 私は私なりに勉学には励んでいますが、どうしてもそういう関連の学はあまりないので、羨ましくも思います。



「……でも、バレンタインのチョコレートだけは少し意味が違うらしいの」



 思った感想をそのまま述べると、千鶴さんは不意に恥ずかしそうな素振りをして続けました。



 その時の彼女の表情は妙に赤らんでいて、とてもハキハキとは言えなさそうでした。

 この気温のせい、という言い訳が通用しない位の、私のような人が見てもあからさまに分かるような紅潮した顔は、普段では見られない新鮮な顔でした。



「バレンタインで包む銀紙は――」



 いつもの千鶴さんであれば決して言わないのでしょうに、この時だけは、何か意を決したかのように、少し息をためて言いました。





 ――恋する気持ちが、そのまま全部届きますように。











「……先行ってるからっ!」

 心底予想外の言葉に驚いて反応できずに居ると、千鶴さんはそのまま駈け出してしまいました。



 こうした特別な日というものは誰しも心を変わらせる、というのは間違いではなさそうで、まだ当日でないにも関わらず、千鶴さんもどこか浮き足立っているのかもしれません。

 普段は少しだけむすっとして、それでいて自身の感情を否定しがちなありすちゃんも、今日はずっと素直で、それでいて真剣でしたから。





 だから、……少しだけ。

「私も素直になりますね、Pさん」



 銀紙に微かで素直な思いを包み込もうと決めて、私は千鶴さんの後を追うのでした。



おわり









20:30│水野翠 
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