2016年01月13日

乃々「幸福のしっぽ」


「今日はデートの日なんだね」



「へっ」







賑やかな学生達に溢れる大学の構内を二人一緒に歩きながら、彼女は私に言いました。

思わず大きな声が出てしまって、慌てて口を手で覆い隠します。



彼女とはもう中学生の頃からの付き合い。同じ高校へ進学することはなかったけれど、大学でまた巡り会いました。

大学生活なんて灰色どころか色なんてつけるのがおこがましいぐらいの日々を過ごすだろうと覚悟していた私は、彼女との出逢いに深く感謝したものです。





「だってさ、今日はおめかししてるでしょ?」



「そんなこと、ないですけど……私にはそんな相手いませんし……」



「でも、服に気合が入ってる日じゃん、心なしか髪のロールも昔みたいにくるくるしてる」



「く、くるくる、ですか……?」





自分では見えない後ろ髪を指で巻いて解きます。

ほら、気にしてる。意地悪な言葉。

髪は子供の頃と比べると癖は少なくなって、重力に逆らわず波打ちながら落ちるようになりました。

……実はちょっとだけ、気に入っています。



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「その、私なんかそんなの、無縁な人間ですし……これは、意味があることではないといいますか……そもそも気合なんて……」





誤解を解こうと言葉を探しても形にはならず、慌てる私に目の前の彼女はクスクスと笑いを堪えるばかりです。

もう何を言っても無駄なのだろうと諦め目を伏せようとした瞬間、彼女は私の後ろを指で示しました。



指の先には黒いスーツを着た男の人がぼんやりと立っています。

その人は私に気付いて小さく手を挙げます。



なんて、なんてタイミングの悪い。

彼の姿に顔を引きつらせながら、私も胸元でこっそりと手を振って返しました。













「絶対、絶対勘違いされましたけど……いいんですか……私はよくないです……」



「何がだ?」





何でもないです。ええ、何でもないですし。

でも、あんなのを見られてしまって、彼女が私をもっとからかってくることは確実です。

迎えに来てくれるなら連絡ぐらいして欲しかった……うぅ、迎えにきてもらって文句を言うなんて、きっと私は悪い子です。



彼はぶつぶつと唸る私を怪訝そうに見ます。

新品のようにパリッとした黒いスーツとキッチリ結ばれたネクタイ、でも、左手にあるのはウサギのアップリケの入ったピンクのトートバッグ。

仕事上、身だしなみには気をつけないといけないと口癖のように言う彼の服装は、鞄以外大学にいる就活生達と変わりばえなどなく、この場に馴染んでいました。





「今日は忙しいんですか……?」



「いや、事務仕事ばっかりだ、ただちょっと量があるから……森久保には迷惑をかけるな」





歩幅の広い彼の後ろを早足でついていきながら、こっそりと腕時計を盗み見る。

今は時計の短針も長針も仲良く右に並んでいました。

いくら一緒に仕事をしていても、灯点し頃になれば彼はいつも私を家に帰そうとします。

今日はきっと、三時間もお手伝い出来ません。



今はもう何でもないバイトのくせに、昔はお世話になっていた事務所でいつも一緒にいたからか、仄暗い部屋に彼だけを残して帰るのはどうしても気が引けちゃいます。

もっと私に出来ることがあれば、言って欲しいとか思ったり……いえ、出来ることなんて限られてますけど……。



ちょっとした不満を込めて彼の方を見ると、彼は無言で私の肩にピンクのトートバッグをかけました。

たぶん、男の人には恥ずかしかったのかもしれません。

バッグの中身は可愛い筆箱と何冊かのノート。よく見ればウサギのアップリケにはネームプレートがついていて、懐かしい気持ちになりました。





「そういえば、大学生活はどうだ?」



「大学、ですか……? いつも通りですけど……」



「そうか、いつも通りか」





彼の歩くペースが遅くなる。遠くからどこかのサークルの笑い声が聞こえてくる。

そう、私はいつも通り、変わらない日々。

朝起きて、大学に向かって、たまに彼のお手伝いをして、家に帰って大学で出された課題に取り組んだり、料理のお勉強をしたり、絵の練習をしたり。

そして昨日も今日も明日も同じ繰り返し、同じ場所へ同じ手段で向かいます。



ああ、確か、洗濯物がそろそろ溜まっていたかもしれない。部屋の掃除も最近はちょっとだけ怠けちゃっています。

子供の頃に詩を綴っていたノートも今は日記帳に変わって、小さな喜びが文字の羅列になって並ぶだけになりました。



ぼんやりと時間だけが過ぎていって、もういつの間にか大学で迎える二回目の冬。

変わらないことはどれほど素晴らしいことでしょう。

変わることはとっても怖いですし、私はいつだって自分の居場所を大切にして、穏やかな日々を過ごしていたい。

あの、机の下の暗くて小さな部屋。小さな私を隠してくれるような、そんな居場所を。



それでも、どれだけ私が願っても、日々はほんのちょっとずつ移り変わっていってしまいます。



周りを見渡せば大声で笑う男の人達や、手を繋いで歩くカップル。

堂々と道の端に座り込んで携帯を弄っている青年や、喫煙所からわざわざ少し離れた場所でタバコを吸っているおじさん。

私以外の誰もが私の知らない何かを知っているような、そんな気がしてしまう。





「なぁ、輝子ちゃんって覚えてるか、昔事務所一緒だった子」



「は、はい……覚えてますけど……?」



「結婚するんだってさ」



「け、けっこん、ですか?」



「ああ、俺の後輩と……昔、彼女を担当していたプロデューサーとな」





机の下に身を縮めて隠れていた時、隣から聞こえてきたあの独特な歌をまだ私は覚えています。

その時の彼女の担当のプロデューサーさんが困ったようにこっちに謝っていたことも、覚えている。

私は彼女の歌が好きでした。自分の感情に素直に生きている彼女のことが、羨ましかった。



気付けば両手を胸に当てて、拳を弱く握りこんでいました。

19歳と20歳。彼女と私は1年しか変わらない。



それなのに、こんなにも違う。













不思議と縁は続いて、星さんの婚約のお話を聞いたその日の夜、数年ぶりに彼女から連絡がありました。

連絡とは言ってもきっかけはつまらないことで、LINEの友達追加機能です。彼女はLINEを初めてインストールしたみたいです。

こっそり友達の認証だけを押しておこうと思ってたのに、既に彼女から挨拶も届いていました。





"となりの、げんきですか"





変換くらいは出来た方がいいと思うんですけど……。

どう返そうかと悩みずっと頭の中で言葉を巡らせていると、いつの間にか返信の文面は10行を超えていて、結局私はその頭の一文以外を削除します。





"元気です……お久しぶりです、そちらはお変わりなくお過ごしでしょうか"



"ひさしぶり、うん、替わらない"



"瓦ない"



"かわらない"





変換くらいは諦めないで欲しいんですけど……。

恋愛ごとに苦手意識をもっていたはずの彼女が結婚を迎えようとしている。

それだけで変わってないことなんてないはずなのに"かわらない"なんて、彼女らしい。

それならでも、『お変わりなくお過ごしでしょうか』というセリフも他人行儀が過ぎるのかもしれないなんて一人で自問自答をしたりします。



そうしている間に彼女からも同じく社交辞令のような返信がやってきて、ちぐはぐな可笑しさがこみ上げてくる。





"はい、元気にしてます……ところでお話を聞きました、ご婚約、おめでとうございます"



"ありがとう、ののちゃんもあれだ……けっこん、してる?"



"してませんけど"



"あの、ごめんなさい"



"謝らないで欲しいです……"





なんだか、結婚しないことが悪いことみたいになってしまいました。



星さんは相変わらずマイペースで、私はその不思議なテンポに翻弄されながら彼女からのメッセージを読みます。

一文一文丁寧に送られてくる言葉から、彼女の今の温かさが伝わってきます。



彼は学生結婚に反対だったのに、自分が無理を言って結婚をせまったこと。

二人とキノコが住めるジメジメした新しい家を探していること。

今度、時間があったら会ってご飯を食べよう、美味しい中華屋さんを知ってるんだ。フフフ。……きっとキノコ料理でしょうか。



話をするうちに懐かしさが心の奥に優しい熱を産んで、同時に、私はとても寂しい気持ちになる。

時計を見ればそろそろ針は天辺を指してしまいそう、私の今日はもう終わる時間になっていました。





"幸せなんですね"



"そうか?"



"幸せじゃ、ないんですか"



"何も変わってないから、よく分からん"





何も変わってない。

確かに、私にとっては昔の星さんのままで、何も変わってないように思えました。



携帯の灯りを消して、部屋の電気を消します。

カーテンの隙間から漏れる月明かりもしっかりと隠して、部屋は暗闇に包まれる。



いざ眠ろうとして、そういえば今日はまだ日記を書いていないことに気づきました。



でも、今はもう何も考えず、ただただ眠ってしまいたかった。









駅のホームには通勤ラッシュには少し遅い時間帯だと言うのに、沢山の人が並んでいます。

口から出た溜息は空中で白い雫へと変わっていきました。



布団から出たくなんてなかった。

繰り返されるアラームを止めて、感情まで支配されてしまいそうな微睡みの中たった1秒でも長く眠っていたかった。

冷え切った血を無理やり暖めて外に出れば、それに反抗するように体は軋んだ音を響かせました。



鳴り響くベルと雑踏の中、アナウンスが流れます。

延着の連絡に小さな喧騒が生まれすぐに鎮まっていく。

人の命が電車の遅延と騒めきだけを残して、私は氷の中にいる心持ちになる。



15分も経てばまるで何事もなかったように電車はやってきて、たくさんの人がそれに乗り込みます。

私も遅れないように続いて、扉のそばの手すりに少しもたれかかります。



私の扉の反対側には小さな女の子がいました。小さな、なんて言っても私とそこまで背丈は特に変わりませんけど……。



彼女の表情は凛としていて、立ち姿にさえ毅然としたものを感じます。

けれど顔立ちにはまだどこか幼さが残っていて、そのアンバランスさに惹きつけられる。



そして、その彼女の肩には見覚えのあるピンクのトートバッグがかけてありました。



……もしかして、あの子なのかもしれない。

そう思い、こっそりとウサギさんがあるかどうかを確認しようとしましたが、ウサギさんは彼女の方を向いてるから見えないのか、それとも元からついていないのか判断できません。



彼女の姿と昔の自分が重なって、かつての日々が蘇ります。

あの頃、私はアイドルをしていました。

それはきっと私自身のためじゃなくて、誰かが私に頑張れと言ってくれていたから、そうなのかもしれません。

人に喜ばれることが、必要とされることが、そして、力になれることが嬉しかった。

……なんて殊勝なことを言いましたけど、単に逃げられなかっただけな気もします。

だから私は事務所がなくなってしまった時、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけホッとしたのかもしれません。



事務所がなくなってしまっても彼は私達が路頭に迷うことのないよう必死で違う事務所への異動をサポートしてくれましたが、知らない場所でアイドルをやれなんて、私はきっとホームシックの犬さんよりずっと萎れて小さくなってしまいます。

そんな勇気なんて、私にはありませんでした。



あの子はどこまで電車に乗るのでしょう。

もし先に降りるのなら、それまで私の方にある扉が開かなければいいなと、少しだけ願いました。











「すまん、今日は結構かかるから、先に帰っていて大丈夫だ」



「……今日も、ですか?」





すまん、と機械のように抑揚なく繰り返される声。

休憩室でも忙しそうにタブレットと睨めっこをしてる彼に、インスタントコーヒーを淹れます。

溶かす角砂糖は一つだけ、これは昔の事務所の事務員さんに教えてもらいました。



彼はありがとうなんて言わずに軽い会釈でコーヒーを受け取ってくれる。そんな仕草が私は嬉しい。

簡単な書類の整理や確認ばかりしている中で、最もお手伝いが充実した瞬間のようにさえ感じてしまいます。





「その、私なんかにでも出来ることがあれば、やりますけど……」



「いや、大丈夫だ、もう暗いし森久保はあがってくれ」



「でも……」



「明日学校あるんだろ?」



「……明日は、午前中授業がないですし」





私なりに粘ってみても結局、素気無く断られる。

自分の分のコーヒーをカチャカチャと混ぜます。まだ熱くて、飲むには少し時間がかかりそう。



「……心配なら、送ってくれればいいんですけど」





こそこそと口の中で呟いた言葉は思った以上に恥ずかしくて、私はまたスプーンを鳴らしました。

そんな私の想いを全く意に介さないまま、「今日は車じゃないんだ」とこちらを向きもせず答える彼……聞こえちゃってたんですけど……。



でも、車がないなんて、きっと嘘です。

仕事の性質上彼はよく外出することが多く、それには自分の車をいつも使っていましたし。



お疲れ様と、有無を言わせず私に告げて彼はまた自分のデスクに向かいます。

あがってくれと言われてしまったけど、せめて、コーヒーが冷めるまではここにいたい。



誰もいなくなった休憩室の中、電車にいた女の子のことを思い出します。

アイドルだった頃、私にはいつだって彼が寄り添ってくれていました。

私なんかがそばにいても怒らなくて、成功も失敗もーー失敗の方がずっと多かったですけどーー私と共有してくれていました。

けれど、今の彼にはもう、違う女の子がそばにいる。

その女の子のために懸命に頑張っている彼の姿が、どこか遠い。



コーヒーを啜る。湯気が頬を湿らせる。

……いえ、いえ、勿論そんなことのためにアイドルをがんばっていたわけじゃありませんけど……か、欠片くらいはあったのかもしれませんけど。



少なくとも、私の自覚はとても遅かった。

気づいた時はもう、アイドルではなくなってて、彼と一緒にいる理由なんてなくなっていました。



周りの景色はどんどんと移り変わっていって、いつも私を置いてけぼりにしていきます。

何も変わってないという、彼女の言葉を頭の中で反芻します。



変わらないものなんて、ないですし。

もし、何も変わらなくていいと言うのなら私はそれがいい。

変わらず彼のお手伝いをして、コーヒーを入れていたい。



ふと思い出して、自分の鞄の中から大きなスケッチブックを取り出します。

無造作に開いたページの中では、森の動物達が仲良く演奏会をしている。



繰り返す日々の中私が一つだけ、少しずつ積み重ねてきたもの。

このお話の続きはどうしよう。

暖かくて優しいお話になって欲しい。



いつか、物語の途中に入れようとしていたウサギとオオカミの恋のお話は、行間の中に隠れてしまっていました。













森の動物達は唄を歌っている。

満月の夜に、皆で集まって演奏会をする。

絵本に「何故?」なんて考えるのって、ちょっと変な気はします。絵本は読み手の想像力で物語が広がるものだろうから。

かといって、漠然としたイメージを描くだけなのも違う気がしてしまう。



だから、それってなんだか、難しい。



頬に冷たさを感じて、ぼんやりとした意識がはっきりしてきます。

いつの間にか寝てしまっていたことに気づき、慌てて体を起き上がらせる。

今はもう何時なんでしょう。

窓に映る街の灯りが暗闇の中に揺らめいています。





「おはよう、いびきかいてたぞ」





心臓が跳ね上がる。

声の聞こえた方へ体は向けないまま目線だけをぎこちなく向けると、彼がいました。

いびきをかいてたということ。顔に痕がついてないかということ。それを見られてしまっていないかということ。

そして何より、さっきまで手元にあったはずのスケッチブックがなくなっている。

それは今、彼の手の中にある。



起きたばかりだというのに、私の置かれている状況に逃げ場がないことに気づき、顔が青ざめます。

叶うならば、今すぐに机の下よりも深い穴の中に沈んで隠れてしまいたい。



「今日はもう遅いから、送って帰ってやる」



「……車、ないんじゃないんですか」



「そうだっけか、じゃあ、歩くか」



「私の家まで歩くと一時間以上かかりますけど……」





とぼける彼に私は気が気ではありません。

なんで、それを持ってるんですか。それを読んでもいいことなんてないんですけど。

目の前にいる女の子が泣きそうになるだけです。いぢめなんですか。



必死で睨んでも彼はゆっくりと私のスケッチブックをめくっていきます。

もう私はどうしていいかわからず、体を縮めて存在感を消そうとすることしかできません。





「うん、乃々らしい、いい話だな」





しばらくして白紙のページまで辿り着いた彼は確認するようにさらにページを重ね、最後にスケッチブックを閉じました。

冷めたコーヒーの香りが目を覚ましたばかりの私をくすぐってきます。



自分の絵本を読まれたという恥ずかしさ、そして、私らしいという言葉がどんなことを意味するのか分からないままということが酷くもどかしい。



でも、今はそれらとは違う、もう一つの気持ちも私の中に巡りました。



……私はさっき、乃々と、確かにそう呼ばれた。

その言葉の響きが体の奥に残っている。



私がアイドルをやめた時だったか、大学に通い始めた時だっかは分かりません。

彼はいつの間にか私のことを名前では呼ばなくなっていました。

それを少しだけ悲しいとは思っていたけど、彼からまた名前を呼ばれたことで、感情が揺れてしまう。





「優しい絵本だと、そう思うよ」



「……じ、実はそれ、まだ、終わってはない、ですけど」



「あれ、そうなのか?」



「……終わる気もしませんけど」





まぁ、終わらない物語があってもいいじゃないかとからからと笑う彼の姿を、ついぼんやりと見つめ続けてしまう。

包む空気が柔らかくて、私はまだ眠りの続きにいるみたい。





「――――さん」





彼の名前を呼びます。

呼ぼうとすれば、声はいつも少し震えてしまう。

彼が私のプロデューサーさんじゃなくなってから長い年月が経ったのに、私は未だそのことに慣れません。





「私、ここのアルバイト、やめようかと、そう思ってるんです」





どこまでも四角い部屋の中では、私のかすれて消えてしまいそうな声もよく響きました。

これは、いつか言おうとしててずっと躊躇っていた言葉。

言葉にする勇気がなかった言葉。



来年の春、私は今いる大学のキャンパスから移動して遠くの別のキャンパスへ向かうことになります。

距離と時間が私とこの場所を隔てて、今後ここへ通うことは現実的じゃなくなってしまう。



そのことを彼へどうやって伝えようか、どう説明しようかと不安で、何度も何度も繰り返し頭の中でシミュレーションをして準備をしていました。



なのに、彼は私にアルバイトをやめる理由を聞くことはなかった。

しばしの沈黙の後、言葉の代わりのように冷めたコーヒーを手に取って一気に飲み干すだけでした。



……あ、あの、一応それ、私のなんですけど……いや、いいのなら……いいんですけど。……間接…………なんでもないです……。



砂糖を沢山入れていたせいか、飲み終わった後に顔を歪ませています。

なんだかとっても申し訳なくなる。



「あの子も、やめるんだ」



「……あの子?」



「俺の今の担当アイドル」



「他に自分のやりたいことが見つかったから、だってさ」





寂しくなるな。

そう言って、彼はコーヒーカップを片付けます。

空になったカップがカチャカチャと鳴って、私も堪らなく寂しい気持ちになります。



今日が終わってしまうと、また明日が来てしまう。



片付けを終えた後すぐに彼はコートを着て、重そうな鞄を抱えました。

置いていかれてしまうともう二度と彼に出会えないような気がして、私は慌てて服の裾をこっそりとつかんで引き止めます。





「どうした?」



「あの、その、私は……私……」



「……今日は、帰りたくない……です」



シンと、部屋には無音が広がる。

それをかき乱すように自分の心臓の音だけが強く鳴っていて、まるで周りの時間が止まったみたい。



今、私は彼に会う口実をなくしてしまいました。なくしちゃったんです。

だけど、やっぱり私は変わらずあなたのそばでコーヒーを入れていたい。



離さないようにと、指に力を込める。

閉じたスケッチブックがこちらを見ています。







「……俺、実は結婚してるんだ」



「本当に……嘘が下手、なんですけど」







彼が頭をかく。

彼を困らせてしまった、そんなことにドキドキしてしまう。



彼は私を無視して歩き出しました。必死に掴んでた指は簡単に離れてしまう。

部屋の灯りは消え、代わりに月明かりが目を濡らして、私達は夜色に包まれていきます。

こんな夜なら彼の嘘に付き合って、二人歩いて帰ってもいいかもしれないなんて、そんなことを想う。



そうだ、明日はどんなに面倒でも部屋の掃除をきちんとしよう。

溜まった洗濯物も干して、あの絵本の続きを書こう。



そして、何も言わずに扉から出る彼の後ろをこっそりとついていっても怒られなかったなら。

明日はどうか、寒い朝に温かなコーヒーを彼に淹れてあげたい。



変わらずにあの人と、変わっていく明日を共にしていきたい。



20:30│森久保乃々 
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