2016年04月25日

瀬名詩織「決心」




身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。



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当時、泳ぎというものを経験したことが無かった私は、無防備そのままに海に飛び込んだ。

ざぶっ、という波しぶき一つすらが……味わったことの無い目新しさ。







息継ぎもろくに出来ずに。









海の塩辛いわけを、訳もなく知りたくなって。

夏は沖縄の海は荒々しく、広々と私の心と体を包んだ。







そうして見えた、数秒の妖しく揺らめく輝きを――







――私は、掴みたいと……そう思ったのだ。





…………





身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。

などと言ったところで、19にもなれば、分別はついている。



小さいころに我が身を波立たせた轟はどこへやら。



肉体に秘めた才能は持ち合わせていなかったようで、意を決して飛び込んだ海からはすげなくあしらわれている。







――要約すると……泳げない。







泳げないと……何が出来ないか。





海が好きでも、サーフィンもボートもカヌーもジェットスキーも出来ない。

川が好きでも、ラフティングが出来ない。



近頃では、ダムが観光地化することが多いとも聞くけれども……興味があるわけでもない。



生活に困っているわけではないから、リゾートでのんびりする。

されども、肌を焼くほど太陽を浴びたいわけではない。







我ながら、一体何をしているのだと言われたら――具体的に何も言えない。



とかく、この世は住みにくい。







一時期はスローライフという概念が話題となったが、蓋を開けてみれば、この通り。

夏の海という煮え立った鍋から溢れた人々に、あえなく弾かれてしまう。



消え去った流れと浜辺に残るのは、廃棄された残骸だけ。



綺麗な貝殻など望むべくもない。

がっかりだ。





白の縁取り帽子を被りながら――溜息をつく。

感情が薄れ始めている私でも、この惨状には目を覆いたくなる。

それでも帽子で目線を隠しながら、ゆっくりと纏め始めた。



いつの間にかつけ始めた帽子を、僅かに力強く握りしめながら。





海に魅入られて、海を愛するようになって、海が心に宿り――

海に広がった、私の心。



陸で生きることも、海で生きることも、等しく――生きづらい。







あるいは生きづらいと感じてしまうほどの、海に溶け込んでいってしまった――活力こそが、一番の問題なのだろうか。



おしゃまでおてんばで、あらゆる全てに好奇心を持った、人魚姫にはなれない。







身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。



人魚姫は、半人半魚の異形にして、人魚の国の末のお姫様。

貝に住む人魚は、泡から生まれ、魂を持たない代わりに、いつまでも美しく長命で穏やかな日々を過ごす。



末の人魚姫は好奇心旺盛で、海で溺れていた王子を助ける優しい心を持ち、魔女に唆されて偽りの魂を手に入れた。

そして、王子に拾い上げられた。



声を失い、王子と結ばれなければ、泡となって消えてしまうと――。



そして、王子から愛されて、王子は別のお姫さまと結婚する。

王子から愛されど、教会から承認されない人魚姫は、死という泡に変わる。



姉から受け取った魔法のナイフを王子に刺して、救われる事もせず。

王子への愛を貫いた。



虚構の魂しかない姫は泡となる運命。



しかし、王子への、人への愛を貫いた姫は――真の魂を手に入れて。

天の国へ招かれた。







……何度も読み返した人魚姫の童話。





泡とは――死の象徴にして、人の意識の最小部分であるとも。

教会による承認とは――人であることの象徴。



魔女との契約とは――大罪の象徴。



天の国とは――人であることを認められた象徴。



……総合すると。





人魚姫は現世で結ばれることは出来ず、されど天国では王子やお姫様と結ばれるであろう、ということ。









ではなぜ、人魚姫は魔女と契約した大罪人であり、偽りの魂しか持たない存在であっても天国に招かれたのか。









一つは、魔女の誘惑から逃れ、王子への愛を貫いたこと。





もう一つは――単純に彼女はそもそも人間でもあったからだという。

そして泡となって消えていこうとした人魚姫は、天国で王子と再会するだろう、と――。







…………



身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。







冬の海は、荒々しい白波がいい。



吹き立つ水しぶきが、目を洗う。

時には寒中水泳も好ましい。

寒さは、意に介さなければ、さほどでもない。

泳げなくとも僅かな浅瀬であれば、問題なく歩けるのだから。







――轟轟と。

唸る風に煽られる砂浜。



いつもの様に、海辺を歩いていた。

沖縄の海は冬でも人気があるけれども、波が高すぎるのか、今日は人影がいない。



岩の密集する区域をぐいぐいと進んでいく。







――轟轟と。



揺らぐ海風が、澄んだ空気を体の隅々まで浸透させる。

波の泡が、風に千々られて、空に舞い上がり。



岩肌に粒となって落ちる。







――轟轟と。



体いっぱいに吸い込んだ冷気。

体の隅々まで払う風。

夏には夏の。冬には冬の海の良さがある。





誰にも理解されずとも、確かに存在する価値。





――ふと。





ふと、砂浜に映る人影が目に入った。



海を何するともなく見ている、ライン入りの黒スーツにリーガルの革靴の男。

体格は175�を超えているだろうか、中肉中背で姿勢はいい。

目につくものと言ったら簡素な腕時計ほどの、誰からも怪しまれにくい恰好を意識しているみたいだ。



テトラポットが点在する岩場の砂場なので足場が悪いが、穴場のスポットだ。





観光客が見つけたのならば――運がいいか御目が高いと称賛したい。





彼も気づいたようで、海に向いていた目線をこちらに向ける。

僅かに目を見開くと、ゆっくりと会釈する。

こちらも会釈しようとすると先からの風と相まって――いつの間にか被り始めていた帽子が彼の元へ飛んで行ってしまった。





――ぽすっ。



足元へ落ちた帽子を軽く払うと、目線を合わせてくる。

近づいて受け取ると、よくできた所作で、一歩下がる。



きっと私の顔色は凪いでいるだろう。

彼と、同じように。









――だから、これはきっと何かの間違いだと思った。







彼は胸からアルミの名刺入れを取り出すと、ゆっくりとこちらに向けてくる。

思わず受け取ってしまったその名刺には、『芸能プロダクション・プロデューサー』とあった。



ただの挨拶にしては過剰ではないかと思いつつ、返す名刺は所持していないことを伝える。

頷く彼は、平坦に、揺るがない意思を秘めているかの如く、太々しい声でこういった。





<――アイドルに、なりませんか……>







彼は一言告げると、その場から去っていった。

意表を突かれてしまった私は、声を掛けようとしたが、何も言えずに手を降ろしてしまった。

そんな自分自身にも驚いていたが――何にもまして驚いたこと。





初対面の男が発した一言にこそ――強く心を揺さぶられたのだ。









それほどの誠意と強い信念が感じられた。

凪いだ心であることとは、相手の発する感情を端的に捉えやすいということだ。

それに、生まれつき所有していた、目を合わせることで嘘を見抜く特技と合わせることで――感情図や性格をある程度読み取ることができる。



だから伝わった。

何一つ嘘もなく、親切であろうともせず、感情だけが伝わってきた。



それが波となって、裡を突き抜けていった。









――アイドル。





しばし考えたのちに、一笑に付すことにした。

人から好かれることなどとりたてて行ったことはない。好かれることなど苦手なのだから――。







身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。



毎日の海辺の散歩に、一つの乱れが生まれた。





――来る日も。

来る日も。

来る日も。

来る日も。来る日も。

来る日も。来る日も。来る日も。

来る日も。来る日も。来る日も。来る日も。

来る日も。来る日も。来る日も。来る日も。来る日も。来る日も。来る日も。

来る日も。来る日も。来る日も。来る日も。来る日も。来る日も。来る日も。来る日も。来る日も。









黒スーツの男が、名刺を渡してくるのだ。



日課の散歩道を変えることなく歩き続けている私もだが、彼も大概だ。

会話すらもほとんどないまま、受け取るだけ。

二、三、聞いてみたこともある。







――どうして、アイドルへ誘うのか?

――楽しそうに、浜辺を散歩されていたから。



楽しそう?

そう、聞き返す私に。

はい。

彼は、言う。





――私は思い出せなかった。

楽しいという気持ちが何だったか。







身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。







――ざあっ。



私にとって、楽しいと感じた記憶は、全て海に関わることだった。

彼が見た楽しいとはなんだ?



知りたくなった。



子どもの頃の、誰よりも活発に動いていて、そして海に焦がれた楽しいという記憶を。

もう一度思い出したくなった。









波立つ泡と岩壁で守られた――地元でも知らない、細身でないと通れない洞窟とも言えない岩の隙間。





間隙となった部分には、圧倒的な透明度の海の宝石がある。

風は上面から当たる風が反響して聞こえるのだ。



眺める。



ゆっくりと進んでいる。



もうすぐだ。



ゆっくりと。



そして。





到着した。





泡が吹き出ている。

僅かに生まれる波が、風と岩と闇にぶつかって割れた、泡。





――ざあっ。

眺める。





ぽんっ。

ゆっくりと。





――ざあっ。

眺める。





ぽんっ。

ゆっくりと。





――ざあっ。

眺める。





ぽんっ。

ゆっくりと。





ぽん。ぽん。ぽん。

ぽん。ぽん。ぽん。ぽん。ぽん。ぽん。

ぽん。ぽん。ぽん。ぽん。ぽん。ぽん。ぽん。ぽん。ぽん。

ぽん。ぽん。ぽん。ぽん。ぽん。ぽん。ぽん。ぽん。ぽん。ぽん。ぽん。ぽん。



泡が無数に。







――ざあっ。







さあ、見えてきた。

子どもの頃に何度も何度も潜って、すぐに浮き上がった。

消えてなくならない、原初の海辺。





――自分の≪可能性≫の海が。



目の前に!







…………

…………………………

…………………………………………

…………………………………………………………………



……思い出した。





海に沈んでいた私の可能性が。原初の煌めきが。活力が。

今、目の前に。目の前に。

私の周りに。







葦に。



肚に。



志に。



喉に。





潮騒が貫いていくような――――呪いと期待の『泡』。





――ざあっ。

飛び込む。



岸を歩くだけの、泳げもしない少女が。



意を決して飛び込んだかつての海は。





瞬く煌めきに満ちた……自分の人生を変えてしまう輝きに満ちた場所だった。









そして。



再び飛び込んだ妖しい海は……過去の輝きよりも、どこか色褪せていて。





そして――。



くすんだ汚れが、どこか流れ込んでいるような。





そして――――。



岩場の妖しい縁取りも、何かが透けて見えるようで。





そして――――――。



<――アイドルに、なりませんか……>











溶け出していたと思っていた、幾重にも重なる――自分自身の未来と感情がそこには詰まっていた!





波立つことのなかった感情の波が、泡となって浮かんでくる。

打ち付ける白波が、伝えたい気持ちを呼び起こしていく。





身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、と――。









「――おはようございます。瀬名さん」

「ええ……おはよう……」



「……ご決心いただけましたか」

「そうね……あなた次第かしら……プロデューサーさん。どうして私をアイドルに?」



「あなたが笑顔になってくれることを願って、です」

「笑顔?」



「楽しいのに笑顔ではない。素敵な方が自分を誤解されている。そんな方をアイドルに。輝いてほしいと――」

「その内容では……人は口説けないわ……。私以外にあなたの感情なんて伝わらない……かもしれないのに――」



「鋭意、努力します」



「――わかったわ。私でも……アイドルになれるのね……?」

「――はい。私がトップアイドルへ」



「人魚姫の様に泡と消えることは避けたいわね」

「彼女はハッピーエンドを迎えました。天の国で王子と巡り合える――。

私はあなたに、ステージという輝きとファンの声援という……唯一無二の希望をお見せします」





「……では……」

「……では……」









強く握った手の感触は、燃えるような情熱を伝えてきた。



どうなるかはわからなくとも。

彼の後ろに広がる、果ての無い道を、あなたとなら……進めると信じて。







<――私を……信じてくれる……?>











きっとそこには…………無限の思いがあるから――――。









…………





おわり。







21:30│瀬名詩織 
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