2016年05月30日

速水奏「ブルードレス」

※字の分で書いてます。



※長い、安い、蒼い



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『愚行権』という言葉を知ったのは中学生の時だった。









退屈な午後の授業、義務と権利について語る社会の先生が余談として話してくれたあの日の事を、今でもはっきり覚えている。



「客観的に見た時どんなに馬鹿げていて当人が不利益を被るような行為であっても、他人に迷惑をかけたり法を犯さない限りその馬鹿げた事の邪魔をされない自由」



そんな風に先生は説明していたが、ほとんどのクラスメイトはそんな成績の足しにもならない無駄話を軽く聞き流しつつ、黒板に書かれた文字列を書き写したり、ただぼんやりとしているだけだった。







おそらくあの教室で唯一その話を真剣に聞いていた私は、その初めて聞く言葉を「なんて優しい言葉なんだろう」だなんて、ひとりで感動していた。



もちろんこの権利は当人の自己責任が前提であって、「その愚行によって生じたどんな不利益も本人が背負わなければならない」という言葉が枕詞のごとくついて来るのだけど、私には「間違いを冒してもいいんだよ」と優しく言われている気がしたのだ。



そんな話を仲のいい子にしてたら「奏って大人だよね〜」と笑われてしまったが、私には何がそんなにおかしいのか全く分からない。



何せ私自身にそんな自覚はないし、むしろみんながどうしてそんなに無邪気に無軌道に生きていけるのかこちらが聞きたいくらいだ。



でもだからこそ、先生のあの話が私には強く大きく響いて聞こえたのだと思う。









私にそんな権利があるなんて知らなかったから。



私は幼い頃から目立つ方だった。





人より肌が白い。



人より目が大きい。



人よりスタイルがいい。







様々な理由で人に褒められ、妬まれ、注目されてきた。







だから私は誰に言われるまでもなく、周りを見て自分を律する力を身につけて、あまり出しゃばらず、時々悪戯心で前に出る。



そんな生き方をほとんど無意識のうちに身に着けていった。







まるで課せられた義務のように、着々と、淡々と。

だから私は明るい輪の中心にいるようなタイプでない事を理解しているし、そんなポジションは苦手だった。



賑やかなグループの横、輪の中とも外とも言えない場所が私の定位置。









そう、私はいつも煌びやかなパーティーを近くで眺めるだけの存在だった。



壁にもたれ、笑顔を浮かべ、綺麗なドレスで着飾って。



そんな私の前を多くの人が通り過ぎ、その人達から様々な言葉をもらった。







「速水さんて綺麗だよね」







ええ、ありがとう







「アイドルなんでしょ?凄いね〜」







そんな事ないわ、星の数ほどいる内の一つってだけ。







「アンタさ、アイドルだからって調子こいてんの?」







そんなつもりは無いけれど、不快に感じたのならごめんなさい。











どれも聞きなれた言葉。他愛も無いありふれた言葉。





だから私はいつも通りに答えてみせた。できるだけクールに、余裕を見せて。





だっていつもの事だもの。

でもだからこそ、初めての言葉にはあまり強くないという事をもっと自覚しておくべきだった。



あの日あの時、貴方から言われた言葉を私は今でも覚えている。













「奏って結構バカなんだな」











そう言って笑う貴方に、私はどんな顔でなんて言ったのかしら?



あまり覚えていないのだけれど、一つだけハッキリしている事がある。







私の馬鹿げた恋が始まったのはその時からだと言うこと。

**************************************



















「奏って結構バカなんだな」





バラエティ番組の収録後に言われた突然の言葉。デリカシーの欠片もない予想外の言葉に、私の思考は停止した





「…え?」





そんな事、今まで誰にも言われたことが無かった。

私はポカンとした顔を彼に向け、次の瞬間には精一杯の不快感を顔に出してみる。





「…女の子にそんな事言うなんて、そんなに酷い人だとは思わなかったわ」





私は珍しく率直に、思った事を口にした。

彼は慌てる様子もなく悪びれる。



「ごめんごめん、言い過ぎた。でも嬉しかったんだ、いつも余裕たっぷりの奏の可愛いところが見れてさ」





そういって笑って見せる顔に取り繕った様子はなく、本心からいっている事は明らかだった。

でも、だからこそ私の不快感は大きい。

初めてのクイズ番組、なれない形式に戸惑ってミスを連発し、チームの足を引っ張ったのは紛れもない事実だ。



全国放送の番組で醜態を晒してしまった事を心から悔やんでいる真っ最中、素直で配慮に欠ける私のプロデューサーはのん気な顔をして笑っている。



まるで転んで泣いている子供に向けるような、優しい笑顔で。







「いいわ、実際におバカな回答をしたんだもの」







拗ねた顔で聞き分けのいい言葉。男の人を困らせる意地悪なやり方だ。



けれど、今のこの人にはそれくらいでちょうどいい。



私は彼から目線を外し、控え室の鏡に視線を移す。



自分ではあまり見ることのない顔をした私の隣で「参ったな」とでも言いたげな表情で、彼が立っていた。



それを見ても罪悪感は殆ど感じない。強いて言うなら悪戯心だけが心の中で静かに囁いている。



もう少しくらい意地悪してみようかしら。

「ねぇ、プロデューサーさん。お詫び、してくれない?」





そう言って彼の方へ向き直る。



少しだけ体を前に倒し、背の高い彼の鼻先越しに瞳を見つめて笑みを浮かべる。







「キスしてくれたら許してあげる」





「は?」







今度は彼がきょとんとして、私の顔を見下ろしている。



私の顔というよりも目線は唇に向けられていた。







「冗談でもそういうのはやめろって…万が一誰かに見られでもしたら…」







露骨な動揺が気持ちいい。







「誰にも見られなかったらいいのかしら…」







そう言って彼に一歩近づくと、彼は小さく一歩下がる。



目は左右に泳ぎ、表情は困惑に震えていた。

そのままの姿勢で2秒、3秒、4秒後には私は笑っていた。





「ぷっ…あははっ、ごめんなさい。冗談よ、冗談」







彼の顔があんまりにもおかしかったから、私の方が耐え切れず吹き出してしまった。



まだ誰にも試した事は無かったけれど、クラスの男子に同じことをしてみてもきっと同じリアクションをとるだろう。



そう思えるほど彼の顔を可愛らしいと思った。





「なっ…お前なぁ…大人をからかうなよ……全く…」



「人をバカ呼ばわりした罰」



「うっ…」





彼の反応に満足した私は、彼に背を向けて鞄を手に取る。



その中の着替えを取り出しながら、肩越しに追い討ちをかけた。





「それじゃあ、私着替えるから……それとも手伝ってくれる?」





表情は見えないが確認するまでもない。



彼の困惑を背中越しに感じつつ、衣装のボタンを外し始める。

「おまっ……ああ!それじゃあ手伝ってやろうかな!」







あら意外。まさか向かって来るなんて。



でもその声色に大人の威厳は無く、ムキになった男の子の台詞だった。







「プロデューサーさんってエッチなのね」







自分の身体を抱くようにして彼の顔を見上げる。



案の定、彼の視線は定まっていない。



ふふふ、やっぱり可愛い。



すると、扉のガラス越しに人影が写る。





ガチャ





「ふぃー、お疲れー♪城ヶ崎の莉嘉ちゃんから差し入れもらっちゃったんだけど、奏も食べ……へ?」







一緒に番組に出ていた伊吹が控え室に入ってくるなり、入り口で硬直する。

「ああ、伊吹ちゃん。お疲れ様。せっかく妹ちゃんからの差し入れだもの、頂くわ」





伊吹は控え室に入ってくるなり硬直し、見る見るうちに顔を紅潮させていった。





「あっ…ご、ごめん!おっ…お邪魔だだったみみみたいね…!!!」





彼女は壊れたおもちゃの様なぎこちない動きで言い訳をして、ギクシャクと後退していく。





「伊吹!?ちっ…違う、そういうんじゃないぞ!!?」





そして彼もまた、両手を落ち着き無く動かしながらあたふたと弁明を始めている。



ふふふ、ほんとに面白い人。





「ええ、そうね。伊吹もご一緒にどう?」





私の悪戯心が真っ赤に燃えると同時に、彼女の顔が沸騰した。





「はひゃ!?」



「奏!?お前…!」



「あら、私は一緒にお菓子食べましょ、って言っただけよ♪」







真っ赤に硬直する伊吹とあたふたと動き回る彼の表情を交互に見ながら、脱ぎかけの服のボタンを一つだけ止め直した。



アイドルという仕事柄、その後も何度か彼の前で肌を晒す機会があった。



水着の仕事や露出が多めな衣装を着ての撮影、着替えの最中に誤って控え室に入って来られた事もある。



その度に彼は困って焦って間抜けな姿を見せくれた。



恥ずかしくないと言えばそれは嘘になるが、それ以上に見て欲しいという欲求の方が強かった。





コレじゃあまるでストリッパーよね。





でも私が欲しいのはお金じゃない。



私が欲しいのはもっと優しくて、甘く蕩けるような…















「奏、チョコ食うか?」





赤信号で停車中の車内、そう言う彼の手にははチョコレートが握られていた。



彼の顔は前を向いたまま、後部座席の私に手を向けている。



私は静かに笑みを浮かべながら、口を開く。





「ごめんなさい。嬉しいけどいらないわ…グラビア撮影も近いもの」





そう言いながら彼の差し出す手に、自分の手を沿えてこう続ける。





「プロデューサーさんが食べさせてくれるなら…食べるけど?」



「じゃあコレはいらないな」





彼は甘ったるい声で囁く私の声を歯牙にもかけず、手にしていたチョコを自分の口へと放り込んだ。



平然とした彼の様子が不満な私は、ルームミラーへ向けて非難の視線を送る。



「おーこわっ、こりゃ手まで食べられるところだったわ」





彼はおどけてごまかそうとするが、私の不満に納まりは付かない。





「そーね、残念」





そう言いながら運転席のヘッドレストを掴み、運転席の彼の耳元へと顔を近づけてもう一度囁く。





「プロデューサーさんの指…美味しそうだったのに…」



「ひぅっ!?」





この人は耳が弱い事は掌握済み。予想以上の反応を得られた私は思わず笑い出す。







「くすっ…あはははははっ!プロデューサーさんったら女の子みたいな声出して…ふふっ」



「奏っ!お前なあ!!」





彼は運転席で大声を上げるが、殆ど同時に後続車のクラクションが鳴る。



悪ふざけへの嫉妬ではない、目の前の信号はもうとっくに青になっていたのだ。



プロデューサーはやや乱暴にアクセルを踏み、車は加速する。







「奏、後で説教だからな…」





ぼそりと恨み節を吐く彼もとってもキュートだった。

「ええ、貴方になら何を言われてもいいわ」





そう言ってルームミラーに写る私は目を細め、彼の口は真一文字になった。















「ねぇプロデューサーさんってどんな女の子が好きなの?」





ビルの向こうに沈む夕日から目を逸らしなつつ、私はさも他愛も無い雑談のように彼に話しかけた。

「ん?なんだよ急に」



「別に、ただプロデューサーさんってば、これだけ若くて可愛い女の子達に囲まれてるのに誰にも言い寄らないから……もしかしてソッチなの?」



「俺はノーマルだ」





ふふっ、と私は笑い声を上げるが、内心穏やかではなかった。



アイドル事務所である以上、色んな子がいる。



背の高い子、低い子。



胸の大きな子、小さな子。



明るい子や大人しい子。



そしてプロデューサーさんの事が好きな子。



その中で一番になるのは容易な事ではない。



だからこそ、本人の口からハッキリと聞きたかったのだ。



どんな女性を好きになるのかを。



「んー…そうだなぁ…」







彼はハンドルを回しながら唸り声を上げる。





「じゃあ質問を変えるわね、年上派?年下派?」



「んー…どっちかと言うと年上かなぁ…妹がいるから年下をあんまり恋愛対象には見れないんだ」



「そう…」





落胆の声を漏らしてしまった。



私と彼とは年齢の隔たりがある。それは努力や工夫で埋められるものではない。





「じゃあ川島さんとか?」





私はそれを悟られぬよう、とりあえず話を続ける。

「川島さんは…年上だけどあの人結構子供っぽいところあるからなぁ…早苗さんとかもだけど」



「じゃあ逆に年下でも年上っぽい子だったらいいのかしら?」





彼は「んー」とまた唸り、しばらくしてからやっと答えた。





「まあそうだなぁ、例えばホラ美波なんかしっかりしてるからさ。ああいう子が姉だったら良かったのにーって思ったりするぞ」



「ふぅん…美波みたいな子が好きなんだ…」





私は厭味っぽく言い直してみる。

「あ、いや、別に美波が好きという訳では無くだなぁ…」





案の定始まった言い訳に愛想笑いを浮かべつつ、私の質問は続く。





「やっぱりおっぱいは大きい方が好きなの?」



「い、いや…俺は別にその…胸とかにこだわりは無いかなー…」





はい、巨乳派確定。



本当に分かりやすい人。







「逆に奏はどうなんだよ?」



「はい?」



「好きなタイプ。どんな男が好きなんだ?」





参った。この展開を想定していなかった。



よく考えればこうなる事はある程度想定できたのに。

「例えば…ほらこないだ歌番組で隣に座ってたあのバンドマンとかどうだ?顔立ちも整ってるしお似合いに見えるけど」



「嫌よ、女癖悪そうだもの」







まぁそれもそうか、と彼は笑う。こちらの気持ちも知らないで





「で、どうなんだ?実際のところ」





ここでもし「貴方みたいな人」って言ったとしたらどんな顔をするだろう。









喜び…はしないだろう。



きっとさっきみたいに慌てていつもの困り顔を見せるだけだ。



けれど、もしそうだとしたら余計に言ってみてもいいのではないか。仮に彼が私の事を何とも思っていなくとも、狼少年のごとく冗談だと思われて終わるかもしれない。







だけど、もし…イエスだったとしたら…





そう思うと唇が震えた。

「そうね…」





場を繋ぐ曖昧な言葉を吐く。



たった一言搾り出すのに、私のどんどん鼓動は速くなっていった。





ドクン、ドクン





私の心音はやかましく音を立て、その音が彼に聞こえたりしないだろうかと不安になるほどのボリュームで鳴っていたが、むしろ聞こえて欲しいとすら思った。





そうすれば声に出さなくて済むから。









けれども、彼はじっと黙って私の答えを待っている。





口が渇き、呼吸が浅くなるのを感じる。





私は彼に聞こえないように深呼吸をしてから口を開く。

「優しい人……かしら…」









弱弱しく搾り出された言葉は、その重みすらも失っていた。





「なんだよそれ、無難だな」





彼はけらけらと笑っているけれど、私は情けなさ過ぎて泣きたいほどだった。







「いざ聞かれると難しいわね、この手の質問って」







私は込み上げる気持ちを抑えながら平静を装う。



彼の横顔から目線を逸らして流れていく景色を眺めると、もう外は暗くなり明るい月が優しく光っていた。













**************************************

「おはようございます」





事務所の扉を開け、小さく挨拶をした私に事務所のあちこちから返礼の声が上がる。



その後はいつも通りの賑やかな事務所に戻った。



様々な部署の人達がせかせかと室内を行きかい、事務員さん達も慌しくやり取りを交わしている。



みんなの邪魔にならないよう、すたすたと事務所の隅を通り抜け、自分のプロデューサーを探した。





事務所奥の休憩室から聞きなれた声がする。





「ねぇねぇプロデューサーお腹すいたーん」

「クンカクンカ…んー今日の匂いはイマイチ、コレいらなーい」

「あーもう、周子はその辺の菓子食ってろ!志希は人をコレとか言うな!」





休憩室の中から、彼のとアイドル仲間の周子、志希の声がする。

そこに彼がいることを確認した私は、壁にかけられた鏡を見た。



髪、よし

メイク、よし

服、よし





今日はいつもより大人めのコーデで来た。大丈夫少なくともおかしくは無い。



次に小さく深呼吸して、言葉を選ぶ。



おはようございます。とりあえずそれだけでいいだろう。



幸い仲の良い子がいるし、後は場の空気に乗ろう。



心の準備を整え、一歩踏み出したところで不意に声を掛けられる。







「あ、奏ちゃん。おはようございます」

出鼻を挫かれた私は声のした方に首を向ける。声の主は千川ちひろさん、この事務所の事務員だ。



休憩室に入るタイミングを失った心に小さな苛立ちはあったものの、それをちひろさんのせいにするのは理不尽だろう。



私は彼女に向き直りぺこりと頭を下げた。





「おはようございます」



「はい、おはようございます♪プロデューサーさん見ませんでしたか?」





彼女がいつもの柔らかなトーンで私に尋ねる。



嘘を付きたい気持ちがふつふつと持ち上がるが、彼女の仕事を邪魔する訳にはいかない。





「いいえ、でも声がするから多分休憩室じゃないかしら」



「そうですか、ありがとうございます」







ちひろさんは私の横を通り過ぎ、休憩室の入り口から顔だけ覗き込んだ。







「プロデューサーさん。…ちょっといいですか?★」

「はいぃ!」





声色で分かる。決して嬉しい話では無い様だ。



「何やらかしたのー?」「逮捕ー?逮捕なのー?」と休憩室の中からのん気な声とそれを諌めるような彼の声が聞こえてくる。



休憩室からワイシャツの袖を捲くった彼が姿を現した。いつもの困った顔に若干の怯えをのぞかせて。







「おぉ、奏。おはよ」



「あ、えぇ…おはようございます」





軽い挨拶を交わした彼は、ちひろさんの後をまるで忠犬のような足取りでついていった。







その場には休憩室に入り損ねた私だけが取り残される。



自分で掛けた梯子を勝手に外されたような気持ち悪さが胸の中に渦巻いて、ため息を一つついた。

こんな日もあるわよね。







「おはよう」





休憩室にいた面々から次々返事が返ってくる。





「お、はよー。おお?今日の奏、パンツルックだから余計に大人っぽく見えるね〜♪」



「やあやあ奏ちゃーん、んんー?ちょ〜っとブルーかにゃ〜?」







仏頂面にならないように笑顔を浮かべるが、確かに気分は沈んでいた。





「心配してくれてありがと、でも何でも無いわよ」





私は素っ気無く答えると、置いてあった雑誌を開く。



何気なく開いた雑誌には人気アーティストのスキャンダルだとか政治家の汚職が発覚しただとか、そんなくだらない記事でいっぱいだったが、気を紛らわせるのには丁度良かった。











結局そのまま彼と会うことも無く、打ち合わせとレッスンを終えた私は事務所を後にした。









*************************************

事務所からの帰り道、私は事務所近くの喫茶店の窓際に座り、道行く人を眺めていた。



確かプロデューサーさんはこの道を通るはず。



彼を見かけたところでどうするかなんて考えていない癖に、待ち伏せめいた事をしている自分が酷く滑稽だ。



それでも待ってみたい。そしてあわよくば偶然を装い話しかけ、いつもと違う格好の私を見て欲しい。



そんな子供のような欲求を満たすために、私は窓を眺め続けた。



空は鉛のように重い色に染まり、大粒の雨が地面で砕けている。



雨脚がゆっくりと強くなるにつれ、彼がタクシーで帰るのではないのかと心配になってきた。

彼に会ってなんと言おう





『あら、偶然ね。今帰り?』





いいや不自然だ。私が事務所を出てからずいぶん経つ。マネージャーなみにみんなのスケジュールに目を通す彼なら不審に思ってもおかしくは無い。





『お疲れ様、貴方の事待ってたの』







いつも通りではある。しかしこれは露骨過ぎて引かれてしまうだろうか。



いいえ、そもそもこの席から彼の姿を視認して席を立ち、会計を済ませて外に出たら彼に追いつくのだろうか。



その間に見失ってしまう可能性は十二分にある。



とは言え外では止む気配のない雨が打ちつけ、雨宿りできる場所は限られており彼が本当に通るか分からない以上、この場所で待つのが一番安全だった。







雨の中彼の帰りを待ち伏せる自分を想像し、まるで物語のヒロインのようだと笑いそうになった時、見慣れた人物が目の前を横切る。





彼だ。

傘を差しやや足早に歩いていく彼の足は最寄駅方面に向いている。



私は静かにそして手早く立ち上がり、レジへと急ぐ。



会計のためにレジの呼び鈴を鳴らすが、なかなか店員が出てこない。







はやく、はやく





心の中で急かしてみても聞こえるはずもなく、のんびりした動きで店員がバックヤードから出てくる。





「ありがとうござまーす。650円になりますー」





作業的なわりに間延びした声が気に障った。

こんな時に限って小銭を持っていなかった私は一万円をトレーに置く。





「1万円頂きましたのでお返しが…申し訳ございません。ただいま5千円札を切らしておりましてー…」



「大丈夫です」





焦りのあまり刺々しい声が出てしまう。

「それでは1,2,3…」





お札を数える店員の手元を見ずに私は外を見た。



もう既に彼の背中は見えなくなっている。





「8、9千円と350円になりまーす」





私はやや乱暴におつりをしまうと、喫茶店を飛び出す。



早足で彼の行った方へ急いだ。



駅への道は単純だ。彼がどこかに立ち寄らなければ十分追いつける。



私は歩を早めるが、傘を差した人が行きかう歩道は狭く思うように前に進めない。



業を煮やした私は傘を畳んで走り出した。



多少なら濡れてもかまわない。濡れた姿について何か言われたら傘が壊れたとでも言おう。



とにかく追いつかなければ話は始まらない。





話。なんの話をしよう。





何の話でもいい。とにかく呼び止めなければどんな話だって出来ないのだから。

などと考えている内に駅へとついてしまった。





彼はもう電車にのってしまったのだろうか。



微かな可能性にかけて辺りを見渡す。



周囲には人人人。雨が降っているせいでみな屋根の下に集まり、いつも以上に人ごみが酷い。



その中に彼と同じ様な背丈でスーツを着た人など、数えられないほど歩いている。



人ごみに飛び込んで辺りを見渡すが、決して背の高くない私には辺りを周囲を完全に見渡すことなど不可能だった。



今この瞬間だけ、同じ事務所のきらりちゃんくらいの身長が欲しい。



そんな事を思っていたとき







「お待たせ」

聞きなれた声。



優しく落ち着いた、あの人の声。



私はその声がする方へ振り向く。





私の後方数メートル先、駅の裏手へと続く路地の入り口に彼がいた。



傘を差し、いつもの笑顔でそこに立っている。











見慣れた人と一緒に。







「いいえ、待ってないですよ。それじゃあ行きましょう♪」







ちひろさんだ。

いつもの格好ではない明らかに異性を意識した小奇麗な私服に身を包み、いつも結っている髪を下ろしていたが見間違えるはずもない。







なぜ、どうして







仕事帰りに一杯という雰囲気ではない。明らかにちひろさんは一度家に帰って出直している。







何かの飲み会…?合コン…?







「いやー途中で部長に捕まっちゃってさ…」



「うふふっ、いいんですよ別に、部長とデートしてきても♪」



「そんなー」





二人の仲はとても他人には見えなくて、それはまるで映画の中で見たような…













「んじゃ行こっか」



「ええ♪あ、プロデューサーさん…」



「え?」







ちひろさんの手が彼の胸元に伸びた。





その手は彼のネクタイを掴み、強く彼女の胸元へ引き寄せられる。







顔と顔が触れ合い、薄暗い雑踏の片隅で口付けの音が聞こえた気がした。











それは紛れもない、恋人同士のキスだった。

二人の唇が離れると同時に、彼が悪戯な恋人に非難の声を上げる。





私には見せた事もないような幸せをそうな笑みを浮かべながら。





彼女はそれをひらりとかわして彼に寄り添い、含んだような笑みを見せる。





その光景は、まるで彼をからかって遊ぶ自分を俯瞰で見ているような、そんな気分にさせた。





困り顔した彼の唇が再び彼女に近づく。



彼女はそれをかわそうとしない。







2人が重なるその瞬間、私は弾かれたように走り出していた。













どこをどう歩いたのだろう。自分でも良く覚えていない。



二人のキスを見てしまった私は逃げるようにその場を去り、気が付けばよく知らない大通りに立っていた。



週末の雑踏を行きかう人々は憂鬱な雨にジッと耐えているか、雨を吹き飛ばさんばかりの笑顔を浮かべた人の2種類だけで、傘も差さずに雨を受け入れているのは私だけだった。



濡れて冷え切った自分の両手に視線を落とす。





私ってば本当にダメな女。失恋一つでこんなにも乱れるなんて。





そうやって空虚な自嘲を繰り返しては、何度も訪れる感情の波に流されぬよう必死に耐えていた。



そんな失意の波に揺られながら、見知らぬ大通りをふらふらと歩く。大粒の雨はいまだ上がらず、雑音だらけの世界に彩りを添えていた。



周りを見れば仕事帰りのサラリーマンや恋人達が続々と目に入って来る。先ほどの光景を嫌でも思い出させるが、それでも今暗い路地を歩く自身は無かった。



そのまま闇に飲み込まれそうで、怖かったのだ。

そもそもアイドルなのに恋をしようというのが馬鹿げていたのかもしれない。



まだ確固たる地位も確立していない私じゃ、ちょっとしたスキャンダルであっという間に引退だ。



それでもそんな現実から目を逸らし、甘い幻想を追いかけたのは紛れもない事実である。



本当に私は子供だ。現実を見ず、将来を自分の都合に合わせて思い描くおバカな子供でしかなかったのだ。



どんなに綺麗に取り繕い、周りからどんなにおだてられても、結局性根は変わらない。変れない。









それを気づいてもらえた気がした。



たったそれだけの事だったのに。









いつまで歩こう。どこまで行ったら自宅へ帰ろうか。



今は帰りたく無い。



今はまだ…









「あれ?奏ちゃん?速水奏ちゃんだよね?」

誰かが私を呼んでいる。誰だろう。



私はゆっくりと声の主へと視線を移す。







「びしょ濡れじゃん。どうしたの?風引くよ〜」





綺麗な顔立ちにすらりとした手足、女受けする軽薄な笑顔。



何から何まで彼と違う若い男がそこに立っていた。





「あれ?もしかして俺の事覚えてない?ほらこないだ一緒の番組出てたじゃーん、隣の席でさ」







ああ、思い出した。



同じ歌番組に出ていたバンドマンだ。



確かに思い出したけれど、こんな風に話しかけられるほどに親しい仲だったろうか。



せいぜい世間話を軽くした程度だった気がするのに…

「えぇ、ごめんなさい、一瞬お名前が出てこなくて…ご無沙汰してます」







私はいつも通りに平静を装う。これまで通り、平常に。







「マジかーショックだわー」





男はオーバーリアクション気味に頭を抱える。

こういうタイプの人間には慣れているし、普段は癪に障るこういう人の方が気を紛らさせるには丁度いいのかも知れない。





「ごめんなさい」



「いいのいいの、ていうかさそんなに濡れてやばくない?車持ってる友達いるからさ、送るよ?」





彼が指差す向こう側、品性を微塵も感じさせない高級車の周囲で、ガラの悪い集団がこちらまで聞こえるような声で騒いでいる。







「ね?いいっしょ?」





男が耳元で囁く。香水の香りと男の甘えた声がぞわりと神経を逆撫でするが、私の首は縦に振れていた。









*******************************











数時間後、私は見知らぬ天井を眺めながら色々なことに考えを巡らせていた。









彼に明日彼に会ったらどんな顔をしようか。



いいや彼以上にちひろさんにどんな顔をすればいいのだろう。



明日のスケジュールは午後からだったよわね



そう言えば伊吹ちゃんに借りてたDVD返さなきゃ







ぐるぐると考えが脳内を廻るうちに、何かが平穏な日常へと思考を誘導する。



今日は色々起こりすぎた。



もう今の私は、何が起きても驚かないだろう。

薄暗い部屋の向こう、浴室の方から鼻歌交じりの水音が聞こえてくる。



その浴室からは先日歌番組で聴いた、薄っぺらいラブバラードがご機嫌な調子で漏れ聞こえていた。



私はそれを遠ざけるために布団を被ると、下腹部の異物感に向かって舌打ちをする。



痛み、悲しみ、絶望や諦観。暗い感情のスープを嚥下した身体は不快感に苛まれていて救いがない。









それでも、処女を失った程度では何も変わらないという事はわかった。





肉体の変化が精神に及ぼす影響について事務所の誰かが語っていた気がするが、体の膜が一枚破られた程度で人は変われないらしい。











男に振られ、男にもたれかかって男を受け入れてみても、自分の中の何かが決定的に変わった実感は無い。



痛みに耐えて自分を傷つけみても、隙間だらけの心の中では相変わらず暗澹たる不快が渦巻いているだけだ。







こんなものか。そんな感想しか出てこない。

「ふぃー、アレ?奏ちゃん寝てる?」





布団の中の暗闇で考えごとをする私に誰かが話しかける。



身体を覆う掛け布団をめくり上体を起こすと、全裸の彼がこちらに笑みを浮かべていた。





「ううん、考えごと」





私は気だるげにそう答える。



嘘は言っていないが本音をいうつもりも無い。







「ふーん、シャワー浴びてきなよ」





彼は配慮も興味も無いような調子でシャワーを促しつつ、バスタオルをこちらに投げてきた。



私の感情はピクリとも動かぬままに「そうするわ」とだけ口が喋る。



バスタオルを手に取り、くるっと手早く身体に巻いて浴室へ向かった。彼はソファーにドカッと座って薄ら笑いを浮かべながらこちらを見ている。





彼の方には目もくれず、私は浴室の扉を閉めた。

浴室に入ると目の前には浴槽、右手にシャワーがあり左手の壁が擦りガラスになっていた。



ラブホテルというものはどうしてこんなにも悪趣味に出来ているのか、という苛立ちと共にため息が漏れる。



私は浴槽にお湯を張りつつシャワーのコックを捻り、ガラスから離れるようにして身体を洗い始めた。



あの擦りガラスの向こう側で彼があの薄ら笑いを浮かべていると思うと、肌の周りを粘着質の不快が襲う。



私は張り付くそれを洗い流すように全身を洗い流す。



全身にお湯が降り注ぎ、体温も上がる一方で頭の奥にはが冴えわたる感触がする。



今日自分が見たもの、した事、考えた事が怒涛のように駆け巡っていく。



雨、キス、雨、男、キス、ベッド、シャワー







まるで映画みたいだ。それもたぶんB級の、ありきたりでありふれたつまらない部類の。



そう思ったら段々おかしくなってきて、「ふふっ」と小さな笑いが口からこぼれる。





そうよね、まるで作り話みたい。





少し前、そういう馬鹿げた携帯小説が流行ってたはずだけど、まるで自分はその映画の主人公みたいだ。







後は事故に遭うなり、不治の病にでもなれば完璧ね。もしかしてどこかでカメラが回ってるんじゃないの?











そんな事を考えながらもう一度頭からシャワーを浴び、正面の鏡越しに映る自分を見ると、真っ赤な目をした裸の自分がそこに立っていた。



髪は濡れて顔に張り付き、その先端から雫を垂らしていたが、目尻の辺りから別の雫が頬を伝って流れ落ちている。







泣いてる?なんで?どうして?彼を忘れてさっきまで笑っていたのに、彼が好きな、彼に振り向いてもらえる大人の女の仲間入りしたのに。



彼を、彼が、彼に







彼の事が好きだった。涙の理由は明白である。







自分が一番知っている癖に、愚かにも目を背け、忘れようとしていた。



それでもこうして事実を突きつけられてしまえば、心の中に気づいた壁は音を立てずに崩れていく。



そう、私は彼の事が好きだ。でも彼が私を愛する事はない。



知っている。分かっている。それでも幼稚な私の本性は納得なんてしたくなかったのだ。

自分が泣いている事を自覚した途端、堰を切ったように涙と溢れてくる。



辛い、悲しい、悔しい



心臓から感情が搾り出される。



けれどいくら心を締め付けてもその雫は溢れ出し、その度に全身が悲しみに染まる。



私は凍えたように背中を丸め身体を抱いた。







あぁそうか、嫌だったんだ。







身体に残る感触が耐え難いほどに疼く。



剃刀でも何でもいいから今すぐ自分の肌を取り除きたい。



そう思うたびに彼の顔が浮かんでは消える。









彼に迷惑はかけたくない、悲しませたくない。だって…









豪雨のようなシャワーの中、私は声を殺してしゃがみ込む。



大人になった身体を抱きながら、そのまま子供のように泣き続けた。











*********************************

あの日から1ヶ月程が過ぎ、私はいつもの日常の中にいる。



やっぱり私自身は何も変わらず、日々やるべき事を淡々とこなしていた。





「やっほー奏☆なんか最近元気無くない?」



「そう?」





伊吹が笑みを浮かべながらソファーの隣に座る。



こういう明るい子は好きだ。見ているだけで暖かくなるから。





「ねーねー!オススメの映画あるんだけど」



「観ないわよ」



「えー!」





恋愛映画好きの彼女が薦める映画。今はそれを見る気になれそうも無い。

「えー…むっちゃ泣けるのに…失恋した女の子がさぁ」



「絶対観ない」





そんな映画を観れる訳がなかった。



無下に断る私に伊吹はなおも食い下がる。年上なのにちょっと子供っぽい彼女の隣はなんだかんだ居心地がいい。



今の私に日常を教えてくれるありがたい存在だ。







「伊吹ちゃんが男の子だったらよかったのに」



「へ?何それ………まさか奏…!」





自らの身体を抱く彼女に「違うわよ」と言う。どこかで交わしたようなやり取りに自然と笑みが出る。



こうして少しずつ、忘れていけばいい。そう思っていた。





がちゃり







休憩室の扉が開き、スーツを着た男が入ってくる。







「お、プロデューサーおはよー」



「おう伊吹、おはよう……奏、ちょっといいか」







真剣な顔をした彼を見て、伊吹は何かを察したのか黙ってしまう。



私は「えぇ」と短く返事をして背中を向ける彼の後ろに着いた。



いつもと違う声色への違和感と不安が胸に漂っている。

















「これに覚えは無いか」





そう言って差し出されたのは雑誌だった。



赤や黄色の強い色に刺激的な文面、それらがモザイク画のように並べられた週刊誌の下品な表紙を開き、彼はとあるページをこちらに向けて置いた。





『あのミステリアス【JK】アイドルに淫行疑惑浮上!!??蜜月のお相手は若手人気バンドボーカルか!!』





心臓がキュウと窄まる。

顔にはモザイクがかけられているため特定されるのは難しい写真だったが、紛れも無くあの日あの時、私とバンドマンの彼の写真が載っていた。



彼とはあれ以来連絡を取っておらず、向こうからの連絡も完全に無視していたので今何をしているのか全く知らないが、おそらく向こうの事務所でもこの記事についての話になっているだろう。



私は黙ったまま視線を目の前の彼へと移した。







「…そうなんだな」





そこに私の好きな顔はなく、声も重々しい。



私は事の重大さを理解するが、それ以上に彼に知られた事への後悔が重く圧し掛かる。



こんなスキャンダルを起こした私を、彼はどんな風にみているのだろう。



考えただけで、吐き気と眩暈がする。

「マズイことになった。この記事自体は大きくないし顔なんかの情報も完全に隠されてるが、ネットでどんどん拡散されちまって、お前とお相手のファンの間で不穏な空気が流れてる。内容は…分かるよな?」





彼の口調は硬い。



場の空気は重々しく、ぐしゃぐしゃに押しつぶされそうだった。







「で、騒ぎが大きくなる前にって事で決まっていたCMがひとつキャンセルになった。交渉中だったドラマも先方が難色を示すようになってきている状況だ。」







その言葉は非常に事務的で、心の釘を無機質に打ちつけてくる。





「なぁ、奏。別に恋愛するなとまでは言わない。バレなきゃやったっていいと俺は思ってる。実際そういうアイドルも多いしな。けど実際バレちまってるし、アイドルに恋愛がご法度なのは業界的には一応常識だ。そうだろ?」







違う。



言っている事は分かる。理解も了解もしている。



それでも私の欲しい言葉ではない。

「もしかして俺が冗談でいったのを本気にしたのか?だとしたら俺も責任を感じない訳ではないけども…」







そうよ、貴方のせい。



なんて言える訳も無い。



私はこみ上げてくるものを抑えるために、別の言葉を口にする。







「ごめんなさい。軽率だったわ、反省してる。」





常識的回答。今の私の心からもっとも遠い言葉を拾い上げ、彼へ投じた。



それでも気持ちは整理が着かず、身体の中から膨らんでいく。



今にも破裂しそうなそれを抱えて会話するのは危険だ。早くここから出なければ。

「今後はテレビとか表立った活動を少しだけ控えるって感じかしら」



「そうだな、一先ずは」



「そう…それじゃあ…」





そう言って私は立ち上がる。強引で無茶苦茶なのは承知の上、今はとにかく逃げるしかない。







「おい、奏!」







後ろから彼の声がする。でも今は構うわけにはいかない。







「ごめんなさい。本当に反省してるから」







らしくない逃げ方をする。これではまるで…

「待てよ!」







彼が私の腕を掴む。その手は強く大きく、そして何より温かかい。



だがその温もりさえも今の私には劇薬だ。





「…何?」





渾身の気持ちを込めて彼を睨みつける。



こんなことしたくない。彼と見つめあうのは好きだけど、私が送りたい視線はこんなのじゃない。



そして彼もまた、私の嫌いな怖い顔をしたまま話出す。







「奏、プロデューサーとしてじゃなく俺個人として言わせてくれ。アイツとは別れた方がいい」







怖い顔で何を言い出すかと思えば、そんなこと



「この事が発覚してから業界の人間に聞いたりして相手の事を少し調べてみたんだが、過去何度も女関係でトラブルを起こしているらしい。問題が大きくなる前に金で解決してるらしいが、泣き寝入りしてる女の子もいるって話だ…」





彼はなおも続ける。彼の表情は真剣で、その忠告が本心からであることを物語っている。







「奏がどれほど本気なのかは分からないが…アイツはやめておいた方がいい。それが…お前のためでもあるんだ」







お前のため。



そんな言葉は聞きたくなかった。



会社のためだと言ってくれたほうが、今の私には幾分マシだったのに。

「大丈夫よ、その日以来連絡すらとってないんだから」



「そうなのか…?ならいいんだが…」







ゆっくりとした動きで彼の手が私の腕を放す。しかし彼の顔には安堵と不安が見え隠れしていた。



私が言うべき事は言った。謝罪は足りないかも知れないが、言葉よりも行動で見せればいい。



だから今は一刻も早く、ここを離れなければ…







「本当にごめんなさい…それじゃあ」





私はそう言って背を向けた。





「あ、ああ…………奏」





私の背中に彼は言う。

「……その…男遊びはほどほどにしてくれ、お互いのためにも」











その言葉。





ふしだらな女を窘めるその言葉を一番聞きたくなかったのに。





私の中の膨らんだ心は、もう弾けてしまった。











「そう……男遊び…ね」







私は彼に向き直り一歩踏み出す。



頭の中はもう真っ赤に染まり、考えるより先に口と身体が動き出す。







「貴方にはそういう女に見えるのね」



「えっ?いや、その…」







彼の困り顔を見るのはもう何度目だろう。



可愛らしくて憎たらしいその顔に、怒りと嗜虐が膨らんでいく。

「否定はしないわ。未成年でラブホテルに入るなんて尻軽のする事だもの」



「そこまでは言わないが…」







彼の目は左右に泳ぐが私は視線を外さない。



彼の一挙手一投足に睨みを利かせながら、私はまた一歩踏み出す。



私は怒っていた。



身勝手に、自分勝手な心のままに。



論理だとか常識とかは関係なく。



その怒りの理不尽さに気づきながらも、それを抑えることはできなかった。



そうでなければ、こんな馬鹿な事口にはできない。







「じゃあ………キスして頂戴。そしたら男遊びなんてやめるわ」

私の馬鹿馬鹿しい提案は、彼の怒りに火をつけた。







「奏!お前ふざけるのもいい加減に…!」



「ふざけてなんかいないわ。本気で言ってる」





私は怯まない。







「私は本気で言ってるのよプロデューサー。本気で貴方に…キスして欲しいと思ってる」







ホントは心底おびえているくせに、次から次へと気持ちが溢れ出す。



もう彼が私を見てくれることはない、いいえ会うことすらなくなるかも知れない。



それでも私はこの気持ちを抑えられなかった。



さらにもう一歩踏み込むが、彼は動かない。







「約束は守るわ。だから一回だけ……キス…して」

私は馬鹿だ。





勝手に恋して、勝手に振られただけなのに、全部彼のせいにしてワガママを言っているに過ぎない。





それでも一度溢れた気持ちは止める事ができず、私と彼の距離はもうなくなっていた。





後ずさりもできずに立ち尽くす彼にそっと触れる。あの日見た光景を再現するように。







「お、おい奏…」

そっと目を閉じた私は、顎を上げて身体を預けた。





彼の温もりが柔らかい速度で私の体温と混じる。





嫌われたって構わない。捨てられたって構わない。





全部私のワガママで、全部私の責任だ。





それでも構わない。





どんな事でも受け入れてみせる。





だってそれは誰しも持っている







優しくて愚かしい、当然の権利なのだから。

私の肩に手が触れて、私は震える。





けれども次の瞬間に、その温もりは切り離された。









「奏…やめろ………冗談でも…本気でもだ」







私の身体は彼の手によって押し返された。



彼の声は振るえているが、何から来る振るえなのか私にはもう分からない。

「そう……そうよね」





冷たい虚空へと放り出された私の心は、深い深い青へと色を変えていく。



初めから分かっていた事だ。今更絶望なんてない。



ただこの寒さと憂鬱に身を委ねる以外、私に残された道は無いのであった。







「ごめんなさい…迷惑ばかりかけてしまって…」







私は自らの手で、両肩に添えられた彼の手を外す。



「反省しているのは本当よ………けど今は…一人にしてくれないかしら」



「……ああ、分かった。今後のことは方針が決まり次第報告する」



「ええ、お願い…」







彼に背を向けてドアへと向かう。



これを開けたら二度と彼と会えないような予感を感じつつ、私はドアノブを捻った。





「なぁ奏…」





私の背中に彼の声が投げかけられるが、私はそれを遮るように扉を閉めてその部屋を後にした。













**************************************













初恋の人の結婚式に参加する、というのは実は結構レアな体験なのかもしれない。



大抵の場合初恋は報われず、その相手とも疎遠になるのが普通だと思っていたが、どうやら私は例外のようだった。



それが嬉しい事なのかというと全く嬉しくはない。でもとにかく珍しい話ではある。



誰にも自慢はできないのだけど。

都内の大きなホテルで行われた結婚式は、芸能界関係者が多数参加する華やかなものだった。



本人たちは慎ましくやるつもりだったらしいが、新郎の方が周りに煽られるままにどんどん大規模になっていったという話だ。





押しの弱さは相変わらずなのね。





参加者の中には新郎のプロデュースでデビューしたアイドルも多数おり、中には既に引退したり事務所を移籍してしまった者もいたが、みなあの頃と変わらずに眩しく輝いている。



そして今は二次会の真っ最中。少し疲れてしまった私は「みんながあんまりにも眩しいから…」なんて言い訳をしてバルコニーへと逃げ出し、一人夜風に当たっていた。



部屋の中では柔らかな光の中で誰しもが幸せそうな笑顔を浮かべている。

手にしたグラスを唇に寄せ、そこ注がれたカクテルを口にする。



甘み、香り、苦味。順番にやってくるそれらを飲み込んで、空を見上げてみた。



真っ暗になりきれない都会の空の中、青白い月が浮かんでいる。











人様の結婚式に参加しておいて憂鬱に浸る私を邪魔するように、明るく騒がしい声がする。





「え!?いや、違いますって!もう勘弁してよ早苗さ〜ん!すぐ!すぐ戻りますから〜…」





白いタキシードを着た青年がバルコニーへと現れる。部屋の中へと笑顔を見せつつ現れた彼は、バルコニーに出てくるなり近くのベンチに座り込んでため息をひとつつく。



どうやら部屋の中でずいぶん飲まされたらしく、彼は首筋まで真っ赤になっていた。



私に気づいてない彼はぐうっと背もたれに身体を預け、私が見ていた月をぼんやり見上げている。

「あら、新郎がこんなところで油売ってていいのかしら?」





私が声をかけると、びくっと身体を震わせた彼がこちらに向き直る。







「うわっ!ビックリしたぁ…奏じゃないか……久しぶり、元気してたか?」



「えぇ、お蔭様で。誰かさん程じゃないけどね」





笑顔を見せながら彼に近づいて持っていたグラスを差し出す。







「これ、ジンジャエールだけど飲む?私今日車だからお酒飲めないの」



「マジで?助かるわ…」







そう言って彼は私からグラスを受け取ると、一気にそれを流し込んだ。







「ゴクゴク…ぷはぁ〜っ…って、これカクテルじゃねーか!」



「うふふっ、お酒の席に車で来るわけ無いじゃない♪それにこんなのお水みたいなものでしょ?」







彼からグラスを受けとると私もそれを口にした。

「全く、お前は変わんないなぁ…………でも、来てくれてありがとな…その…正直来てくれるとは思わなかったから」







彼は身体を前に倒し、少し言いにくそうに呟いた。





「あら、そんなに薄情な人間だと思ってたの?」



「そういうわけじゃないけど…」





彼は相変わらずの困り顔を浮かべて、さらに目を逸らす。





「そんなことしないわよ…私の初めての人だもの…」



「初めてのプロデューサーな?」





私の冗談にしっかり乗ってくれる。こんなやりとりもいつ振りだろうか。





「奏が俺のプロデュースから離れてもう3年か…」



「5年よ」



「えっ!?もうそんなになるのか…」





そう、もう5年も前なのだ。

「それよりいいの?私と話してるところなんて撮られたらプロデューサーさんも週刊誌デビューするわよ?」



「ははっ、そいつは光栄だ。ていうかお前、分かってんなら少しは隠せよな」



「いや、私の恋は私のモノだもの。誰かの指図なんて受けたくないわ」





私の勝手な口ぶりに彼は笑っていたが、自分がその被害者だった事を自覚しているのだろうか。



やれやれといった表情を浮かべる彼の顔を横目に、私はくるりと背を向ける。







「ちひろさんのドレス姿本当に綺麗だったわ。私も結婚したくなってきちゃった」



「なら良かった。そしたらさすがのお前も落ち着くだろ」



「どうかしら?うふふっ♪」





背中越しに彼を見て微笑んで、一歩彼から遠ざかる。

「でも私に純白のドレスは似合わないわね。綺麗過ぎるもの」



「そんな事無いよ。絶対似合う」





彼の言葉は正直で迷いが無い。まっすぐ過ぎてこちらが困るくらいだ。



自信たっぷりの物言いに少しだけ腹が立ったので、彼に向き直りこう返す。





「本当に?プロデューサーさんが着せてくれるの?」



「なんでそうなる」





ふふふっと2人揃って笑みを浮かべる。



そこには変なわだかまりも壁も無く、自然に笑い合っていた。



あまりに懐かしい距離感に胸がくすぐったくなってしまう。

「でも、今着てるパーティードレスも凄く綺麗だよ。やっぱり奏には青が似合うな」







そう言って彼は私の着ている青いドレスを指差す。



暗いブルーに黒のレースがあしらわれたお気に入りの一着だった。







「そう?ありがと」





私は素直に感謝の言葉を口にすると、ひらりとスカートを軽く翻す。





「今夜は昔好きだった人の結婚式だもの、悲しみと憂鬱のブルーで参加しようと思って」





私はわざといやらしく呟いて笑ってみせるが、彼の顔には怪訝が浮かぶ。



彼はゆっくり立ち上がって口を開く。

「でもな奏、青って『悲しみ』とか『憂鬱』とか『冷たい』って印象が強い色だけど、フランスの方では青は『幸せ』の色なんだぞ。ほら青い鳥の伝説とかあるだろ」



彼は続ける。



「欧米じゃ青は聖母マリアのシンボルカラーで純潔を意味する色だ、そんな色が似合うお前ならきっと幸せになれるよ」







まっすぐ見つめる彼の目が、月夜に浮かぶ私を捉える。



子供のような彼の目に映る私を見てみたくて、私も彼を見つめ返す。







「そう…ありがと…………で、その話って誰の受け売りなのかしら?文香?」



「あ、やっぱり受けうりだってバレたか。この話は千夏からだけど」





「うふふっ」



「あははっ」







確かに、今は案外幸せかも知れない。



凍える雨の中抱えた膝も、ぶつかり合った視線ももう過去の事だ。

「さてと…私はそろそろ中に戻るわ。ちょっと冷えてちゃったし」



「おう、俺はもう少しここで酔い醒まして戻るわ。戻ったらまた飲まされるし」



「ええ、それじゃあ」





私は軽い足取りで扉へと向かう。しかしドアノブに手をかけたところで彼の声がした。







「なあ奏」



「…なに?」





振り向く私と彼の間に風が吹き、冷たい空気が通りすぎる。















「俺の事、まだ好きだったりしないよな?」















彼はそこで言葉を止めた。



私は春の冷気を吸い込んでからこう返す。







「プロデューサーさんって、結構アレよね」







不思議そうな顔をして私を見る彼の間抜け面に満足した私は、もう一度ドレスを翻しながら彼に向き直った。

















「バーカ」













私は飛び切り子供っぽい笑顔を浮かべながら扉を開け放つ。





籠から出たら鳥は自分で羽ばたく。自由という足かせも今の私には心地いい。





さあ恋をしなきゃ。





とびきり素敵で馬鹿げた恋を。



21:30│速水奏 
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