2016年06月06日

速水奏「むっつりだなんて、失礼しちゃうわ」


好きな人に邪険にされるのが好き。



たとえばそう、私が誰かに対して。





いくら声をかけても、ちょっかいをかけても、その人は簡単に打ち払うだけでちっともこちらをむいてくれない。



私が何をしたってどうでもよくって、私が何をしたって、なんとも思ってくれない。



それって、どんな私でも受け入れてくれてるってことじゃない? 



それがとても楽しいから、なんて。





そんな秘密を漏らしてしまったのはいつのことだったかしら。



ああも赤裸々に口にしちゃって、どうしてだかは覚えてないけれど、その時の私はよほどご機嫌だったらしい。



たしかお相手は加蓮。



もちろん加蓮は、またこの子は変なこじらせ方して、なんて言ってるような、どうしようもないしかめっ面をしていたけれど。



その顔に、その目に。



少しだけ、満足した。



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――――

―――――――

―――――――――







「今夜は恋愛映画にしない?」





そんな私の言葉を聞いて、伊吹がニヤリと笑う。



わざとらしくつり上がった口で、へぇ〜だなんて言いながら。



お仕事終わり、もうすぐ深夜といえるような時間が近づいてきたあたりの、レンタルビデオ屋さん。



ちゃっちなホラー映画を物色しながら、気だるげに見えるように流し目を送る。





上機嫌の伊吹がくるっとまわって足早に向かうのは、普段の私なら意識してでも目を向けない、恋愛映画の棚。



パッケージどころか、背表紙のタイトルですら恥ずかしくって見てられない。



そんな中をずんずんと進む伊吹は、なんだかいつもより頼もしく見える。



まぁ、いつもがちょっと、抜けすぎているだけなのかもしれないけれど。





「ところで、部屋は?」



「それも伊吹ので、いいわ」



「ふふー、おっけおっけ!」



今夜のようなお仕事とお仕事のちょっとした隙間、二人でなんとなく暇ができれば開かれる鑑賞会。



映画の選択権は順番順番に持ち回り制で、部屋を準備するのももちろん映画を選んだ方。



主催は、監督は、全てを決めていい、だなんていうとちょっと大げさかしら? 



部屋を暗くするか明るくするか、座椅子やテレビの位置、食べ物の有無に、飲み物のチョイス。



最高の環境を整えて、自分自身が最高に楽しめるように全力で。



その時だけは相手への配慮なんて、最低限でいい。



欠片だけでいい。



そんな、わがままで最高に独りよがりな、二人ぼっちの鑑賞会。





「奏ってさ、たまーにこういうことあるけど、どういう心境なの?」



「さぁ? なんとなく?」



「はぐらかしてる?」



「さぁ?」



「うーん……まいっかこんな時でないと二人で恋愛モノはみられないもんねー♪」





伊吹の顔に浮かぶにやにや、にやにや。



手加減しないよー? と張り切るいたいけさがまた微笑ましい。



普段は私がからかうことが多い分、反撃の目が見えた途端、あからさまにうれしそうになるのよね。



降ってわいたチャンスに浮かれている。



自分だってきわどいシーンでは顔真っ赤にしちゃうくせに。



本当、かわいいんだから。



ところで、いくら独りよがりだなんていいはしても、いつもならさすがに相手が見られないものは避ける。



私ならもちろん恋愛映画は見られない。



伊吹なら……単純につまらない映画。



いわゆるB級とか言われるようなやつ。



こっちは普通にしてれば私だってまず選ばないから、制限なんてないも同然。



ハリウッド、邦画、フランス、イタリア、香港、インド。



アクション、ホラー、コメディ、サスペンス、はたまた懐古にひたる白黒やサイレントまで。



何十回もの鑑賞会で二人でなんだって見てきた。



「うーん、こっそり見てた私のイチオシもいいけど、どうせならやっぱり私も初めてのがいいなぁ」



「あら、伊吹の初めてをいただけるの? 光栄ね」



「今選ぶのに真剣なの。 そういうのいらないから」



「あらごめんなさい」





茶々を入れれば、しっしとあしらわれる。



ふふふ、真剣な目、しちゃって。



こっそり手元を覗いていると、だんだんと伊吹の中で作品が絞られていくのがわかる。



うーん、いくら恋愛映画って言ってもさすがにインド映画はどうかしら?

  

あれはあれで情熱的でいいものだけど。



あ、戻したわね。



あら? その左手のは確か恋愛モノの皮をかぶったサスペンスホラーだったはず。



パッケージ裏、どう見ても恋のピンクってよりは血の赤だもの。



昔に見て、そこそこには面白かったけど、こんなところに紛れ込んで。



店員さんが間違えたのねきっと。



あら、気が付いた。



青い顔して、慌てて戻して。



……そうそう、結局のところ、無難なハリウッドか邦画あたりに落ち着くのよね。



壮大なのか、身近なのか……



迷ってる迷ってる。





「よし、これにしよ!」



「決まったわね。 行きましょ」



「あ、ちょっとまってよ! これねこれね! 最初はあんまり期待されてなかったんだけど、あとから口コミとかリピーターの評判がね――」



「待って」



「え?」





嬉々として選考理由を語りだす伊吹にマテをする。



なんで? なんで? と見つめてくるそのとび色の目にすこしだけ、罪悪感。



「評判なんて、見る前に聞くものじゃないわ。 そうでしょ?」



「うーん、それもそっか! 気にするねぇ……ふふふ、なんだかんだ奏も楽しみなんだ?」



「まぁ、ね」



「そっかそっか」





恋愛映画の好い評判なんて、どうせ発信者の投影とエゴだらけよ。



そんな言葉は呑み込んだ。



決して見下すわけではないけれど、聞いてしまえばきっとじっとはしてられない。



耳に入った途端に歯が浮いて、背中がかゆくなって、鳥肌が立って。



頭をこじ開けてでも、入った音を掻き出したくなる。



見た人の感想なんてバイアスをかけてすらこれだもの。



本編を見た日になんて、どうなってしまうのかしら。



これだから、恋愛映画は苦手。



「よし、それじゃあ感想会は終わってからのお楽しみ! 借りてくるから、待ってて!」



「はいはい、いってらっしゃい」





とっとっとっと軽快にレジへとかけていく二つのしっぽを見送る。



ひらひらのシュシュでまとめられたその子たちは左右に振れて、まるで持ち主のうかれっぷりを教えてくれるよう。



改めて罪悪感。



ごめんなさいね、感想なんてきっとあなたの言葉のオウム返しよ。



心の中でだけ、いまのうちに謝っておく。



でもそれで気が付かない、あなたたちのご主人も悪いんだから、おあいこよね。





「でも、楽しみ」





映画を見られないまでも、私には私の楽しみ方がある。



内緒にしてる、私だけの楽しみ方がある。



内緒なのは単純に知られると恥ずかしいからとか、気が引けるからというのもあるけれど。





「だって、ヒミツは多いほど、きれいになれるらしいじゃない?」





もちろんこんなのこじつけで。



こじつけだけど、気に入っているのよね。



―――――――





「このくらい?」



「うーん、もうちょっと、もうちょっと角度を下に……」



「指示が曖昧ね……こう?」



「そうそうそう! ……うーん、よし! これでかんせーい!」



「……ふぅ」



クッションにカーテンにクロスに壁紙にと、パステルな色合いが並んだワンルーム。



その真ん中で、女の子すわりの監督がご満悦にカットを鳴らす。



小さなこだわりが山ほど詰まった大型テレビの出で立ちに、微調整に奮闘した私の苦労が偲ばれた。



画質調整のテストで流しているニュース番組が、もうすぐ日付が変わると告げている。



鮮やかになった色調で光る、ニュースキャスターの肌色が目にいたい。



「それにしても、今回はずいぶんとこだわったわね」



「まーね! ちょっといつもと違う気分で見よっかな、なんて」



「そうね、そういう気分になる時はあるわよね」



「さっすが奏! わかってるー!」





歓声を受けながら、この部屋の玉座たる、だるだるに伸びたビーズクッションに背を預けた。



となりで伊吹があ、という顔をしたけど知らん顔。



わざと伊吹から視線を外して、ゆるく閉まったカーテンを眺めながら、無言で権利を主張する。



あれだけ働いたんだもの、いいでしょう? 



いいわけあるか。 ここはアタシの城だぞメーン? 



数十秒間、そんな無音の戦場をくぐり抜ける。



ため息が聞こえた。



パチンと電気を消す音がすれば、私のごねがち。



カーテンごしに街灯の淡い光が広がっていて、それに照らされながらすねた伊吹が戻ってきた。



と、思ったのだけど。





「はい、どーん」



「ちょっと、せまいわ」



「このクッションは私の特等席なのー。 半分で妥協してあげるだけでも感謝するんだね」



「…………」





また、にやりと笑われた。



伊吹のくせに、なまいきね。



「さすがにこれじゃあ落ち着かない……」



「しゃあらっぷ! もう映画がはじまります」





アタシ、真剣だから。



そう主張する目に見つめられればもう言葉は繋げない。



しかたない、しかたないと言い訳して、ごそごそとしっくりくるおしりの位置を探す。



気がつけば自然と、それとも無意識に欲が出たのか、なんだか伊吹に寄りかかるようになった。



まるで電車で寝てしまったお隣さんのように。



肩を寄せて、頭を預ける。



今日は顔が、唇が、近い。



「なんだか、ドキドキするわね」



「でっしょー! やっぱり始まる前のこの感じがいいよね!」





にやけてしまう口元を隠すのはうまくいったかしら。



本編ではもっともっとドキドキするよ! とは伊吹の談。



どうせ私は目を向けないけど、思う存分、楽しんでほしい。



周りの事、例えばそう、私の事さえ忘れるくらい。



私のことがどうでもよくなるくらい。



それくらい、楽しんでもらわないと。



暗がりにこうこうと光る四角の板。



劇場とは違って広く空いた背中の向こうに、私たちの影が出来る。



今日はよろしくね、と自分の影にご挨拶。



画面は見られないから、結局のところこの子を見つめることになる。



真っ黒なもう一人の自分とおしゃべりでもできれば、音声も気にしないようにできるのに。



目的の時が来るまでは、ちょっとだけ苦しいかも。



リモコンの主たる伊吹は、パシパシとCMを飛ばしていく。



これも楽しみの一つだと思うのだけど……



あ、今の予告、気になってる映画だったのに。



なんて考えていたら、あっという間に本編へ。





「わ、見て見て! この俳優さん、この映画のために体作り直したんだって!」



「……普段とどこか、違うかしら」



「えー、全然違うじゃん! ほらほら、ちょっと頬がこけててさー」



「そういわれてみれば、そうかも」



「でしょ?」



ぼーっと虚空を見つめながら、伊吹の力説に生返事。



序盤も序盤、ありきたりでべったべたな出会いの物語が液晶の向こうを流れていく。



あーあーあー。



一目見た瞬間の感動の独白なんて、聞こえないわ。



街の中でおこった、些細で些細で、奇跡的な鉢合わせなんて、目に見えない。



いままでの空虚を埋めてくれるかも、そんな期待のこもった女の子の笑顔なんて、恥ずかしいからやめてくれないかしら。



ふと手元をみれば、爪の先にマニキュアのかけらが残っていた。



削ってしまうのは傷になりそうでいやだけれど、除光液は手元にない。



カリカリ、していましたい。



カリカリ。



「ちょっと……! ほらいま大事なとこだよ……! どこ見てるの……!」



「はーい」



「しーっ!」



「…………」





私の返事に反応して、私の口元に添えられる一本指。



叱責する伊吹の言葉はコショコショと小声で、いったいだれにはばかっているのかしら

 

映画の神様とか? 



映画を見てる私たちを見てる、映画の神様。



……さすがにちょっとくだらない。



よそ見をしてれば叱られるのは、知ってた。



だって、まだまだ伊吹は映画に集中していないもの。



入り込んでいないもの。



小声でちょくちょくといろんな解説を入れてくれる。



いくらかお話が進めばこれが、はーとか、えぇー、とか、うわーとか、言葉じゃなくって音になるからとてもわかりやすい。



ただ今はまだ、そうじゃない。



今はまだ、目を背ければ伊吹にばれて怒られてしまうと、わかっていた。





「それでさ」



「はい?」



「結局のところ、どうして今日はこれが見たいって?」



「…………」





伊吹の指先にぶら下がるパッケージイラスト。



花びらだか心証だか、派手なピンクをバックに抱きあう男女が白々しい。



流れる物語は今、運命が始まってから運命に転げ落ちるまでの中だるみ。



伊吹の意識がこっちに戻ってくるこの時が一番やっかい。



声が戻って意識が浮かんで、聞いてほしくないことを聞いてくる。



「さっきもいったじゃない? 気まぐれよ?」



「ほんとにー?」



「さぁ?」



「うわ、ここでもはぐらかすの、ずるい」



「ふふふ」





でも、これさえ超えてしまえば。





「ほら、映画。 見なくていいの?」





男の子が、デートに誘うわよ? 



そんな簡単な言葉一つで、あちらの世界に蹴っ飛ばしてやれば。





「あ、見逃したかも!」



「巻き戻す?」



「そんな野暮な事はしない!」





あーもう! 奏のせいだからね!

 

なんてしばらくはぶつくさ言っていても、すぐに文句に力がなくなって、解説すら言葉少なになって。



とうとう、黙ってしまう。



きゅっと口元を引き締めて、いつもパチパチとはためいている大きな目を、くわっとさらに見開いて。



画面の向こうの一挙手一投足に、くるくるくるくると顔のパーツを動かして。



どんどん、空想の恋に囚われていく。



こうなると、そろそろかな? そろそろかな? と、私の中の小悪魔がささやいてくる。



まだ、まだガマンなさい。



もう少し我慢すればいい目が見られるから。



だから……ガマン……



ほんの少し、理性と呼ばれるような何かで持ちこたえるけれど、それも一瞬。



ちょっとだけ、ちょっとだけ、いいかしら……? 



「伊吹」



「しっ!」





やっぱりまだみたい。



もう少し待つ。



とうとう恋仲になった二人が、不幸の重なりと誤解でまた疎遠になりそう。





「伊吹?」



「…………」



「ねぇ伊吹」



「ちょっと、袖引っ張らないで」



「はぁい」





薄い応答に少し、期待してしまった。



まだ、まだ。



でも、あとちょっと。



真実の愛に目覚めた二人は、夜景を背後に今までを振り返る。





「伊吹?」



「…………」



「……伊吹」



「…………」



「……なにか言ってくれないかしら、ねぇ」





首元に伸ばした手を、ぱちんとはじかれた。



別段痛くもなんともない、すごく優しい、拒絶。



その手に残る感触が教えてくれる。



白い光に無遠慮に照らされている、伊吹の真剣な表情が教えてくれる。



いまならもう、いける……



いまならもう、大丈夫……! 



「伊吹、ねぇ伊吹……」



「…………」





小声で、万が一にもあっちから意識を引っ張ってこないように。



でもしっかりと主張して。 真剣な耳にちょっかいをかける。



反応はごくごくわずか。



間近の音にうっとおしそうに、俳優の愛をささやく言葉を聞き逃さまいと、ぴくぴくと。



こまかくこまかく、耳が動く。



「……ふふ、ねぇってば」





二人の愛の決意は、もうすぐ絶好調になりそうな。



差し出される指輪。



不確かだった愛を、しっかりと形として受け取った女の子は言葉にならない感動を涙にする。



それに合わせて私の目の前の純情ちゃんもうるうる、うるうる。



「…………ふふふ」





もう一度、手を伸ばす。



今度は払いのけられすら、しない。



かすかにふれた頬は、きっと興奮だか感動だかで紅潮しているのだけど、熱いとは感じなかった。



私の体温も上がっているから、お互い様。



頭のどこかで、相対温度なんて言葉がよぎって、その場違いな堅苦しさにおもわずにやけてしまった。





そのまま動きを止めて、言葉でちょっかいをかけるのすらやめてしまえば、この部屋に響くのは、スピーカー越しの愛の誓いと、伊吹の鼻をすするかすかな音だけ。



私の心臓の音は、私にしか聞こえない。



大きくなる私の吐息は、全力を込めて押し殺す。



あがった心拍数を逃がすように、不自然に息を止めてしまわないように、ゆっくりゆっくり細く細く、深呼吸しながらこの闇の中に溶かしていく。



大丈夫、聞こえてない、きっと、聞こえてない。



そう言い聞かせなければ、緊張に、興奮に、押しつぶされてしまいそう。



頬にやっていた手をはなす。



代わりに、少しずつ少しずつ、顔を近づけていく。



弱めに触れている程度だった体の感触は、いまでは互いに互いが、寄り添って、寄りかかって、預け合う。



今日はただでさえ近かった顔を、頬を、慎重に慎重に近づけていく。



首筋に、鼻を寄せて。



匂いには特に興味はないけど、お約束として、一呼吸。



ここまでしても、伊吹の目はその先の光をまっすぐに追うだけで、こちらを見ようともしない。



ひたすら無反応。



私の度を過ぎたイタズラもなんて、文字通り、眼中にない。



ここまでしても、なんとも思われていない。



ああ、楽しい。





今のこの瞬間。



暗く、閉めきった部屋。



私の音をかき消す、映画の轟音。



世界で私を意識できるのは目の前の女の子が一人だけ。



私の好きな、女の子が一人だけ。



その子ですら、今の私を認識しようとはしていない。



私のことなんてどうでもいいと思ってる。





いつまで続くかもわからない、今という刹那の中でだけ、私は何をやっても受け取られない。



何をしても、私に対する心は変わらない。



それが心地よくって仕方ない。

さらに頬を寄せる。



頬にくちびる近づける。



もし普段こんな距離に近づいたら、ぎょっとされて、距離を取られて。



もっと近づけば押し返される。



そんなの、当たり前。



だけど今なら、大丈夫なんじゃないかしらなんて、錯覚とわかる錯覚に身を任せながら。



近づいて、近づいて、近づいて。



欠片だけの理性を頼りに、ギリギリを探る。



気分は、最高。



これ以上ないってくらい高揚して、もう頭のてっぺんから意識が飛んでいってしまいそう。



だなんて。









そんな一瞬の永遠を楽しんでいたのに。













「奏、キス、したいの?」



「……え?」













不意に、世界が壊れた。









「奏」





気が付けば伊吹がこっちを覗いていた。



真剣な顔が、斜め後ろからじゃなくて、真正面から見える。





「そんなに近づいて、そんなにうるうるして」





こっち見ちゃってさ。





呆然としつつテレビに意識を向けてみたけれど、映画はまだおわっていない。



スタッフロールに入る素振りも見せない。



ついさっき愛を誓った男女には、最後の試練が待ち構えていて、と。



よく言えば王道で手に汗握る。



悪く言えばありきたりで取ってつけたような。



そんな映画の、もっとも盛り上がるところのはずなのに。



なのに、どうしていま伊吹は、映画に夢中になっていないのか。



「よそみ、しないで」



「あ……」





それていた意識が、私の顔を挟む両手に矯正される。



もう、真正面しか、見られない。





「キス、しようとしたよね?」



「そ、そんなつもりは……」



「あったでしょ?」



「…………」





なかったといえば嘘になる。



でも、そんな、本当にやる気は。



雰囲気だけで。



「してあげるよ」



「え?」



「キス、してあげる」





いまだ楽園から帰ってこない頭を、言葉が素通りしていった。



いま、伊吹はなんて言ったの? 



どうして、だんだん、伊吹が近づいてくるの? 



はっと短く絞り出た息の反動で、いつの間にか止まっていた呼吸が再開する。



脳に空気が染みこんで、遅れて吹き出た嫌な汗で、全身がさぁっと冷めていく。





「や、やめて……」



「…………」





やめて、やめて。



かろうじて漏れでた声を受けて、伊吹が少しだけ止まった。



考えて、考えて考えて。



どうしてこうなったのか。



今からどうすればいいのか。



少しでも頭を働かせて……

「やだね」



「なっ……!」





やだって、そんな……



ありえないほど簡潔で、絶望的な返答に、また頭が真っ白に。



思考が、ふりだしに。



いや振り出しよりも悪いかもしれない。



頭のなかが、建設的からは程遠い“やだ”なんていう一言で埋まってしまっている。





やだ。

やだ。

やだ。



さっきまで、さっきまでは全部全部うまくいってたのに。



私の全部を受け入れてくれる人が目の前にいたのに。



それが、今では……





声を荒げて、みっともなく逆ギレできればどんなに楽か。



震える唇からもれるのは、鼓動と一緒にせわしなく吐き出される、空気だけ。



「そもそもさ、仕掛けてきたのは、奏でしょ?」



「なんの、こと?」



「恋愛映画が見たいとか、心にもないこといっちゃって」



「心にも、ない、なんて」



「ほんと?」



「…………」





つたなくていいから否定して、はぐらかして、この場をしのいで、なんとかする。



黙ってちゃダメ。



早く次の言葉を、言葉を。



なんでもいいから場を繋いで、引き伸ばして。



……なんとか、しなきゃいけないのに。



伊吹の頬が不吉に、ぐにぃっと上がって……





「うーん、じゃあさ、奏、あんた――」





嫌な予感がした







「――この映画のタイトル、言える?」 





「……ぅっ!」





心臓が握りつぶされる。



予告もなく一瞬で潰されて、行き場のなくなった血が小さな筋肉の袋を破裂させる。



そんな、衝撃。



タイトルなんて、わかるわけないでしょう?

 

今出せる答えなんてそんなもの。



逃げたい。



この状況を全部なげうって逃げてしまいたい。





あてもなく床を這っていた指の先に、冷たいプラスチックの感触が走った。



パッケージに違いない、けど。



今の伊吹から目をそらす気になどさらさらなれない。



きっとちらりとでも目線を離した瞬間に……



ちょっとした未来予想が頭をよぎって、目頭の水分に少しだけ鼻がツンとする。





「だんまりはよくないんじゃないかな」



「……ま、まって」



「待たない」



止まっていた伊吹がまた動き出す。



少しづつ少しづつ、こちらに向かってきて。



それに合わせて、後ろへ下がろうとするほど、距離を保とうとするほど、目に映る部屋が傾いていく。



腰は抜けて動かなくて、座ったまま。



当たり前のようにあおむけに倒れる。



背中には冷たい床。



上には天井を背景にした、伊吹。



伊吹の顔は妖艶だった。



いつもいつも、かわいいだとか幼気だとか、そんなふうに見ていた顔。



それが今日は初めて見る形をしていた。



パーツパーツのすべてで、いつもと全く違う表情を作っていた。



それはたとえばまっすぐになった眉とか。



うるんだ目とか。



紅潮した頬とか。



ゆるく引き締められた口元とか。



いくつもの妖しさの欠片を目で巡っていって。



視線は最後にくちびるへ。





「もう、待たないよ」



「や、ぁ……」





もう、逃げられない。



手のひらが痛い。



爪の食い込んでいる。



痛くて痛くて、まぶたが決壊しそうになる。



やだ、まって、やめて。





なんで、こんなことになってしまったんだろう。



こんなはずじゃなかったのに。



走馬灯のように、緊張とあきらめと後悔が目の奥を流れていく。





「ね、奏」



「…………っ」





近く近く近く。



もう触れる。



もう、すぐ、触れてしまう。



お願いだから、許して。



全部全部私が悪かったから。



嘘をついて、騙して、私のいいようにしていたのは反省するから。



だから、本当にもう……







ごめんなさい―――









「なーんちゃって!」



「……え?」





口から思考が漏れて、そのまま音が出た。



にやにやと意地の悪い顔をした伊吹が、蛍光灯から垂れた紐をぱちんと引いて、とたんに部屋が明るくなる。



目がパシパシとして、寝起きにカーテンを開けた時のよう。



さっきまでのって夢? 



一瞬だけそうも考えたけれど、瞬いた拍子にこぼれた涙が、それは違うと言っていた。







「びっくりした? ね? びっくりした?」



「…………あ、う」



「もー、あんなにおろおろしちゃってさー。 かわいいんだからもー!」



「…………」





ゆがみかけた視界に映るのは、普段通りの伊吹。



つい数十秒前とはうってかわってケラケラと踊るように笑う、小生意気な伊吹。



意味を成さない自分の声が、どこか遠くから聞こえる。



絶望はこなかった。



「わー! 映画おわってるー!?」



「…………」



「もう! 奏があんなことするから!」



「う、うん……」





また、置いて行かれていた時間に追いついてきた。



どうやら私は、からかわれたみたい。



そう気がついた瞬間に襲ってきたのは、まさに津波のような安堵。



よかったとか、本当に怖かったとか、どうにかなってしまうかと思ったとか、緊張で過敏になった頭が感情に押し流されそう。





「うーん、なんかやり過ぎた? 大丈夫?」



「え、ええ、大丈夫……」



「そうは見えないけど……」



「ちょっとね……まさかやり返されるとは思ってなかったから……」



「なんだそんなこと。 へへー、油断大敵ってやつだ♪」



「…………」





いつものように調子にのった伊吹に、少しだけ落ち着いてきた。



へへー、なんて良くも言ったものね。



もう、伊吹のくせに。



正直に言えば、伊吹なら何をしても気が付かないと、安心だと、思ってた。



そんなこともなかったから、今はなんとも言い返せない。





「ひどいわ」



「あはは、ごめんごめん。 でもそもそも奏が――」



「でももなにもないでしょ」





うへー、と伸びる伊吹。



そうだ、このまま、いつものように。



何もなかったことに……





「あ、あと一つ聞いときたいことが一つ」



「なに?」



「こんなこと他の人にもしてたりする?」



「……どういうこと?」





いってしまえば、こんなことする相手なんて、伊吹の他にはほとんどいない。



それでもほんのちょっとは、いなくはない。



だから、先が気になった。



聞かない方がいいかもとも考えかけたけど、気になってしまった。



人差し指をぴっとかざす伊吹。



どういうことってそりゃさ、と。





「あんな誘惑みたいなことしてさ」





その指で私の眉間をついばみながら。



「反撃してみたらあんなに弱々しくなっちゃって」



「…………」





からかいの抜けた真面目な目でこちらを覗きながら。







「奏って本当はホントに―――」









―――襲われたいの? 









「……――――っ!」







「そうじゃないならちゃんと反撃、できるようにね?」





最高の爆弾を落とされた。



そんなわけない! と叫びたかったのに。



喉が詰まって何も出てこないのはきっと、言いたい言葉が多すぎたせい。



伊吹の勝ち誇ったような、全部お見通しとでも言うような、そんなしたり顔を見て、かーっと血が上に登っていく。



真っ赤に真っ赤に、目の前が血色に染まってく。





認めたくないけどごもっともなお言葉に恥ずかしくなったのか、カンパされるような物言いに反発したくなってるのか。



……それとも、本当に襲われるなんていう、考えてもみなかった未来を想像してしまったのかしら。



もうわからないけれど、とにかく顔が、頭が、ひたすらに熱い。





「ま、おせっかいはこのくらいにしてさ、どーせならもっかい見直そ?」



「…………」



「今度はちゃんと見ないとダメなんだかんね? いくら恥ずかしいからって容赦してあげないんだから――」



「帰る」



「え?」



「私、帰るわ」



「え、え?」





硬い床に手をついて、妙に体の沈む、立ち上がりにくいビーズクッションから腰を引き剥がす。



隅においてあったバッグを乱暴につかみ、部屋の外へ。





「え、え? あ! ごめん、奏! ごめんってば」



「…………」





慌てたような伊吹の声は、気にしてなんかあげられない。



ワンルームのちょっとした廊下を一気に抜けて、電気の付いてない玄関でパンプスを引っ掛ける。







「ちょっとまってよ! 奏!」



「伊吹」



「む!」





そこで不意に振り向いて、今まさに肩をつかもうとしていた伊吹に向き直る。



人差し指で伊吹の唇に蓋をして、一瞬だけ間を作った。





「今日は、さよなら」



「んう!」





そのままぐいっと口元から押してあげれば、顔を潰してのけぞる伊吹。



その隙に、ガチャンと玄関を閉めてしまう。



あとは、振り向かずに、離れる、離れる、離れる。

「ああ! もう!」





もうだいたいの家の電気は消えていて、電信柱の下だけがひたすらに明るい。



そんな道を歩いて、ひたすら歩いて、やっと頭のぐちゃぐちゃが晴れてきたころ。



伊吹が追ってくる気配はないと気がついた。





「ああ、ほんとに……もう……」





息巻く声が、ため息に変わる。



なんてことをしてしまったんだろう……



冷静になればなるほど、自分を責める自分にさいなまれて。





わかってる。



そう、わかってる。



伊吹は伊吹なりに私のことを考えてアドバイスをくれただけ。



それも、私の醜態を、汚い欲望を、見かねるように。



彼女に腹をたてるのはお門違い。



思い出すのは帰り際、今にも泣きそうな伊吹の顔。



あの子は今ごろ、どうしているかしら……



「悪いこと、しちゃった……」





じくじくと胸が痛い。



今日何度目だかわからない、けれど今日一番つらい罪悪感。



深夜の暗い道が心細い。



本当は、こんな時間に帰るつもりなんてなかったのに。



後悔の重しに耐えられなくなってうつむけば、街灯のあかりも見えなくなる。



見えるのは、足元の暗がり、だけ。



こんなことになるはずじゃなかったのに。



もっと素敵な夜になるはずだったのに。





「それが、蓋を開けてみれば、ね……」



ちょっとした仕返しを真に受けて。



固まって、転げて、挙句の果てに泣いちゃって。



そのうえ図星……かどうかはともかく、痛いところを突かれ逃げ出して……





なさけなかった。



恥ずかしかった。



「…………っ」





思い出せば思い出すほど、また鼓動が早くなる。



押し倒されたあの瞬間の景色が切り取られて、まぶたの裏に張り付いていくよう。



目を閉じれば伊吹の顔が脳に浮かんで、もうどうしようもないというのに覚悟すら決められなかった、あのどん底のような心境が蘇ってくる。



私の力の及ばないところで、私がいいようにされてしまうかのような、そんな破滅的な緊張が遡ってやってくる。



心のどこかに、ひどい負担がかかった時間だった。



もう二度と味わいたくはない、そう思うような……







……二度と味わいたくない? 本当に? 







……思い返せばあの時。



伊吹に迫られて、もうどうしようもないと感じた時。



あの時が、もしかしたら今日一番ドキドキした、かも……



いえ、今日一番というよりも、まさに今まで生きてきた中で一番。



それこそ心臓が止まるんじゃないかと勘違いするほど、心が、けたたましく……





「なに、考えているのかしら……」





魔が差した。



わざわざ口に出した独り言で切り替えて、足に力を込める。



帰りましょう、お家に。



そして、また今度伊吹に謝るの。



もう今夜はそれでいいじゃない。



今この場で私を責めたってなにも変わらないんだから。



だから今日はもう、伊吹のことは考えない。



おしまい、おしまい。



「……おしまい、おしまい」





それでも脳裏に浮かぶ光景はかわらないままで。



どこか不穏な思考が頭のスミにちらついて。



考えまいとすればするほど、考えてしまいそうになる。



なにを? 



さぁ?



いつのまにやら自宅について。



ふと見た鏡には、気持ち悪くにやけてる私がいた。



なんでにやけてるのかは、わからないふりをしておいた。



でないと、後戻りできなくなる気がしたから。





図星って? 本当の心を暴かれること。



図星って? 本当の心を自覚すること。



そんなこと、今は関係ないわね。





さぁ、次に伊吹に会えるのは、いつだったかしら? 



それまでには心を整理しておかなきゃ、いけないわね。







そのままずっと、考え事で頭がぐるぐるして、ほとんどのことが手につかない。



仕方がないからあきらめて、私は着替えもせずに、横になった。



きちんと眠れるといいのだけれど。



その日最後に考えたのは、そんなことだった。







――――――――

――――――

――――





「で、私になきついた、と」



「そうなの加蓮ー、助けてよー……」





なんてことない、いつも通りなレッスン後のお楽しみのハンバーガー屋さん。



なんと今日は、私の大好物のポテトがおごりで食べられる!

 

……まぁ、ものすごい厄介事とセットでなんだけどさ。



やっぱりこの手のジャンクフードは、ジュースだとかそういう割高なものと一緒にご提供されるのが世の常みたい。





「あれからなっかなか奏に会えなくてさー……避けられてるのかなぁ?」



「うーん……偶然じゃない?」





聞いてて思ったのはなんていうか。



奏、めんどくさい。



伊吹、また的確に地雷ふんずけて……



そんな感じ。





時間はおやつ時からも外れた中途半端な昼下がりで、人もまばら。



でも伊吹、いくらおっきなテーブル独占してるからって、べたーってするのはやめた方がいいと思うよ? 



ポテトの油とか、こぼれたソースとかでけっこう汚かったりするし。





……ってあれ? あっちから歩いてくるのってもしかして





「伊吹、なんか奏きたよ?」



「え?」



「ほら向こう向こう」



「え!」



「こんにちは、ふたりとも」



「うわ! 奏!?」





なんだかいつもより神妙そうな奏と、妙に慌ててわたわたする伊吹。



落ち着きなって、あなたのほうが年上でしょ。





「か、奏……その、このあいだは……」



「待って」



「え?」



「謝るのは、なし。 悪いのはお互い様ってことに、しておきましょう?」



「う、うん……」





いやどう考えても変な趣味した奏が悪くない? 



とは思ったけど、口には出さなかった。



だって絶対ややこしくなるもの。



アタシ、空気の読めるオンナ。





「あとは、その……仲直りの代わりってわけではないけれど……これ……」



「あ、それ、この間の続編の……」



「そう……また、一緒に見てくれないかしら……?」



「う、うん……! うん! 見よう見よう!」



「……あ」



「加蓮? どうかした?」



「あ、あー……ううん、なんでもない」



「そう?」





うわ、っと思った。



見なきゃ良かったものを見ちゃった。



……さっき奏、一瞬だけすごい顔をしてた。



そっとパッケージで口元を隠した瞬間、伊吹が返事をあげた瞬間。



それはもう、にやぁっというか、どろぉっていうか、生々しい期待が見え隠れする妖しい顔。



伊吹からはうまく隠して見えなかったろうけど、私にはもう丸見えで。



え? なんか奏、変な覚醒してない? 



前まではちょっとMっ気こじらせてただけなのに……



っていうかすっごく危ない香りが……



「あ! 加蓮も一緒に見ようよ! アタシと奏と加蓮で、三人で恋愛映画!」



「え!? ……あー、うーん……アタシは遠慮しとくや。 ごめんね?」



「えー?」





なんでさーというダダを小耳に、さっきから奏と目と目があって離れない。



もうね、なんかね、ねっとりした目がアタシを離さない。



来るならアナタも歓迎するわよ? という、視線の誘いを断った。



ごめんね伊吹……頑張って……





「アタシはいいから、二人でいってらっしゃい」



「そう? 伊吹、なら早速行きましょ」



「え、でもまだ明るい……」



「少しずつ薄暗くなっていく中で見るのもオツなものよ?」



「そんなもんかなぁ?」



「それじゃあ、加蓮……また。 今度は一緒に見られるといいわね」



「う、うん……じゃーね」



「ちょ、ちょっと奏引っ張らないで! 今行くから! 行くから! わわわ!」



「バイバイ」





「…………」



哀れ巣に連れ込まれたわんこはどうなってしまうのか。



というか、わかっててしれっと見殺しにしちゃったけど、よかったのかなぁ……? 



一瞬でお店から出ちゃったからもう手遅れだけど。



奏、足速いなー……





…………よ、よかったのかなぁ? 







……ううん、あれはそうだ、ちがう。



奏は、そう。





「ただの、むっつりスケベだね」





そう思うことにしよう。



あの光景を見てとっさに頭に浮かんだのは、捕食者とか誘い受けの魔女とか、物騒な何かだったけど。



けっして、そんな何かじゃない。



……きっと……いや絶対! 



……たぶん?

それにむっつりスケベってなんかおマヌケな響きだし。





「だから、伊吹も大丈夫。うんうん」





冷めてしなびたポテトを片手に、一人うなづく。



伊吹におごってもらったそれはなんともいえない味がして、一瞬だけ伊吹ならむっつり相手でも負けそうだなんて思ったけど、すぐに忘れた。





頑張れ伊吹! 



またなんかあっても相談にはのるよ! 



今度はシェイクもつけてね! 



そんな念を飛ばしていたら。



伊吹の代わりにどっかから。





奏の声が聞こえた気がした。





むっつりだなんて、失礼しちゃうわ







おわり!



08:30│速水奏 
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