2016年07月18日

沙紀「ワルツ・ワルツ」


・吉岡沙紀ちゃんのSSです



・7月8日は吉岡沙紀の日









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うまくいかないものだ。



大きく息を吸って、吐いて、前のめりなリズムを刻む心臓を落ち着かせる。



カラカラな口の中にぬるくなったスポーツドリンクを流し込む。



全身から汗として漏れ出してるんじゃないかっておもうほど、体の渇きが潤されることはなかった。





柔らかいタオルは水分を吸収してしっかりとした重さを持ち、着ているトレーニングウェアは首元から裾まで大きな染みを描いて、それがひとつのアートみたいになってた。



立ち上がろうとしても地球の重力に抗えるほどの力はなかったみたいで、一度座り込んだ場所から動くことができずにいた。



体力に自信はあった。

というより、ダンスの心得があったからいけるだろうっておもってた。

実際に基礎(というより体力テストみたいなものだったとおもう)は軽くパスすることができて、トレーナーさんにも、なかなかだ、なんて言われた。





調子に乗ったってわけじゃないけど、やっぱり褒められたら嬉しいもので、はりきった部分はある。

ハードルをひとつ跳んだら次のハードルが目の前にあって、トレーナーさんからの要求もクリアのたびに高いものになってくる。



ちゃんと習ったわけじゃない、ストリート仲間の見よう見まねで得たスキルなんて所詮付け焼き刃でしかない。

数回ハードルを跳んでから、見事に足がもつれて倒れこんだ。



そこで最初のレッスンは終わった。





情けない、っていうものよりも、しょうがない、って気持ちがそこにあった。

ダンスにもっと真剣だったなら最初の気持ちが大きいんだろうけど、これがいまのアタシの限界って素直に受け入れることができた。



それでもやっぱり、できないことは悔しい。

それにやるなら本気でって、スカウトされたときに強くおもったから。



周回遅れの感情が連れてきた後悔は次に拭き取ることにしよう。



そうおもって、レッスンが終わったあとの空き時間に、トレーナーさんの許可をもらって自主練を始めた。

最初は誰だってできないよ、って言われたけど、止めようとしなかったのは無理はしないでってことなんだろう。

アタシもそこまで無茶をするつもりはない。でも、悔しいんだ。時間の許す限り、ひたすら反復練習する。





今日はここで終わりかな。



呼吸と一緒に肩が大きく動くのが自分でもわかる。



冷たい床に座り込む。



もう一度水分をとろうとしても、ペットボトルの中にあった半透明のオアシスはいつの間にかなくなっていて、それが余計に体を渇かせた。





「なかなかおりてこないとおもったら」



他に誰もいないはずだったのに、顔を上げると濡れた前髪のすきまから、そんなに時間が経っていないのにすっかり見慣れてしまった人がアタシを見下ろしていた。



「やる気に満ち溢れてるのはいいけどヘロヘロじゃないか」



そう言って、アタシ以上に汗をかいたペットボトルを目の前に差し出してきた。

鼻先を冷気がくすぐってきて、オーバーヒートした肌を、体の中をクールダウンさせてくれる。



「無理はするなよ」



「ありがとっす、プロデューサー」





「開けられるか?」



「そんなボロボロに見える?」



パキッという音がこのときはほこらしげに響いた、気がした。



さっきよりも冷たい感覚が口の中を、そして喉からお腹に流れて、飲み口から唇が離れるのと一緒につい声が漏れてしまった。



それを聞いてか、正面にいる人は片眉だけを器用に上げて、ふふっと鼻で笑ってきた。





なんだ、別に、別にいいじゃない、それだけ喉が渇いていたんだから。

って心の中だけで自己弁護して、表ではささやかに態度で不満をぶつける。



なんとなく頬を膨らましてみる。

アタシらしくない、けど、一番わかりやすい方法だったから、しょうがなく。





「……そういえばさ」



「なんだ、腹でも減ったか」



初めて会ったときからちょっと変な人だなってぼんやりとおもってたけど、こうやってちゃんと話をするようになってから、それは強く鮮やかな確信になっていた。



友達、先生、家族、親戚、ストリート仲間、交友関係はそこそこ広いっておもってて、そこには十人十色、いろんなタイプの人間がいる。

この人みたいな知り合いはいない。

まだ二十も生きていない子供がなにを言っているんだ、っておもわれるかもしれないけど。



仕事柄、それは当たり前のことなのかもしれない。

だけど、何度拒否されても通いつめて、伝える言葉は口説き落とさんばかりに熱を持ってて、なかなかできることじゃない。



もし自分がその立場ならどうしてただろう。

きっと、この人より早く諦めていた。





「なんならメシでも食いに行くか」



「アイドルとプロデューサーがそんなことして大丈夫なんすか」



「はたから見ると恋人同士にしか見えないかもなぁ」



チャラい。

チャラいっす。



あまりの軽さに自然と大きなため息が漏れる。



アタシをスカウトしたときの熱い言葉はどこに?



「前にも言ったけど、チャラい人はノーセンキューっす」



「本気にするなよ。冗談だって」



「別に本気にしてないよーだ」





どこから冗談で、どこまで本気なのか。

この人の境界はよくわからない。



ここで喋り込んでもしかたない。

立ち上がろうとしたとき、さっきまで適当な言葉を並べてアタシをからかっていた人はどうしたんだろう。

口元を右手で覆って、遠くの一点をじっと見るように目を細めていた。



背中にはすぐ壁があって、特別目を引くようなものはなかったはず。

それはこの人が変な人でも。



ここから出される答えっていうのは。





視線がぶつかる。

胸の奥が跳ねた。



おもわず視線を外すも、視界に隅にいるあの人はまだこっちを見ていた。



ようやく冷めていた体温がまた上がる事態だ。

安全装置が壊れたみたいに心臓は強く脈を打ち続けていて、いますぐここから逃げ出したい気持ちに駆られるも、へとへとになっている体は自分がおもっているよりも動きそうにない。





落ち着こう。



リズムを整えようと深く息を吸い込んで、次に出した。

口から漏れ出した息はやけどしそうなくらい熱い。



「吉岡、お前」



抑揚も化粧っ気もない低い声は、ますますアタシの調子を乱す。



「や、ちょ、ちょっと、プロデューサー」





「……濡れた髪、いいな」



「……へ?」





なんて言った?



濡れた、髪?



「なんというか、色っぽいな。いや、普段に色気がないって言ってるわけじゃなくて、もともと素質があるからこそ、なにか要素を足すと輝くわけでね」



聞いてないのに言い訳じみた言葉を並べていくプロデューサーに、緊張の糸がぷつんと切れた。

そして次になんだか妙に腹が立ってきた。



いや、別になにか期待していたわけじゃなくて、というより急にあんな表情をして見られたら誰だって勘違いしちゃうわけで、そう、だから全部この人が悪い、そうだ、この人のせいなんだ。





「いやー、俺もやっぱりプロデューサーだから、どうデビューさせようかって考えるわけで。かっこいい系にするか、それともキュートな感じか、プロポーションいいからセクシーも捨て難いし」



そういうことを聞きたいわけじゃないっす、よっ。



ゴツン。



目の前にあったすねに軽いジャブ、のはずだったのに、おもったよりも鈍い音が届いた。

ちょうど骨のところに当たったのかも。





「いってぇ!」



大げさに痛がるプロデューサーはちょっと面白くて、おもわず口元が緩む。



「つい」



「なにもしてないのに殴られるのかよ!」



「なにもしてないっていうのはウソっす。なにかしました」



「いや、別になにも」



わざとだとしたら、この人、本当にどうしようもない。

わざとじゃないにしてもどうしようもないってことには変わりない。





「なにもしてないよな?」



「こっちに聞くの?」



「吉岡以外に聞く人いないからさ」



口が減らない人。



今度はこっちがじっと見る。

鏡があるわけじゃないから自分の顔がどうなっているのかって詳しくわからないけど、少なくともいい表情はしていないとおもう。



プロデューサーはというと、さっきまでの硬い表情はどこに飛んで行ったんだろう、中途半端な顔をしながら指で頬をひと掻きしていた。

別に困らせたいわけじゃないけど、ここでアタシからなにか言うのもなにかしゃくだ。





「……ご飯」



「え?」



「ご飯おごってくれたらチャラにするっす」



「あぁ、メシか」



「別に回ってないお寿司とか、フランス料理って高いものは言わないっすから。とにかくお腹ぺこぺこっすよ」



「それくらい安いもんだ。成長期だもんな」



「いや、アタシ大食らいじゃ」



「ご飯のお代わり自由なところとか」





だから、そんなに食べないって。



お腹はすいてるけどさ。



「いや、俺が食べるんだよ」



遊ばれてる。

絶対アタシで遊んでる。

なんだかいじわるそうな顔に見えてきた。

もう一発くらいおみまいしても許される気がする。



「……なんなんすか、もう」



その一言と乾いたため息を口から出して、いつの間にか握り込んでいた右手の拘束をほどく。

いまなにを言ったって、なにをやったって、負けそうで。勝手に勝敗を決めてるのはアタシだけども。





「ま、着替えてきなさいな。移動しながら店は決めよう」



「言われなくたってそうするっす」



ここでようやく立ち上がる。

へとへとだった体も、日常生活動作をスムーズに送れるくらいまでは回復していた。



「先に下りてくれていいっすよ」



「いや、更衣室の前で待ってるよ」



「……覗いちゃダメっすよ」



「興味はあるけど、犯罪者にはなりたくないなぁ」



本当に、この人は。





 *







床を蹴る甲高い音が鳴る。



途切れることなくアンドゥトロワのリズムに合わせて、なんて。



両足で刻むビートに合わせて、両腕はメロディを奏でる。



昔、ダンスが得意なおさげのストリート仲間に教えてもらったこと。



すっかり会えなくなって、いつの間にか記憶の山に埋もれてしまってたけど、プロデューサーも同じことを言ってて(この人はダンスなんててんでダメらしいけど)ふとおもいだした。





曲はかかっていない。



トレーナーさんの手拍子と声だけ。



そのふたつを聞きながら、頭の中で鳴り響く音楽を体を使って表現していく。



これもアートのひとつなんだって、いまさら気づいて、気分はいつの間にかハイになる。





この不思議な陶酔感に身を任せていると、トレーナーさんがなにか言ってるのに気付いた。



あぁ、次でこの曲は終わりだ。



考える間もなく、軸足を中心にしてフローリングをおもいっきり蹴る。



ターン、アンド、ストップ。



最後のポーズは……もうちょっと練習が必要、っすね。





 *







「すごい、数日でここまで!」



曲がフェードアウトしてその余韻もないまま、トレーナーさんの興奮した声と拍手が聞こえてきた。

それと一緒にアタシは床に転がり込んでしまって、視界には煌々とした蛍光灯と味気ない天井が映るだけだった。



「沙紀ちゃん、大丈夫!?」



「あはは……なんか、どっと疲れたっす」



練習なのに。

本番も決まっていない、ましてや課題でもないのに、達成感が身体中に満たされている。



本当に、本当に疲れた。





「の、飲み物……」



バタバタしているトレーナーさんの音をBGMにして、呼吸を整える。

頭がぐわんぐわんして、全身が床にひっついてしまったみたい。



水分補給をして、心臓の動きがだんだんと落ち着いてきたところで、さっき聞いた音とは違う拍手が耳に届いた。



「ブラボー、マーベラス、エクセレント」



知りうる限りの賞賛をただ並べたような言葉は、声の方を見なくたって誰なのかすぐわかった。

一目瞭然ならぬ一聴瞭然ってね。



「いやいや、おもわず魅入っちゃったよ。素晴らしい」



わざとらしい言葉を投げるプロデューサーにおもわず笑っちゃって、硬くなってた体がじんわりとほぐされていく。





「こられていたんですね」



「えぇ、どんな様子かとおもいまして」



「すごいですよ、沙紀ちゃん。ダンスの仕事、いけるんじゃないですか?」



「技術的なことに関しては門外漢なので、プロにそう言っていただけるのは十分に検討の余地がありますね」



あぁ、トレーナーさんにはそういう口調なんだ。





「これだけやってくれるなら、私もメニューを組むのに自然と熱が入っちゃいますよ」



「褒められてるぞ」



まだ酸素が行き渡ってないのかな。



汗を拭いたパイル生地のタオルのせいなのかも。

地に足がついてない、ふわふわとした感覚が体の真ん中から全身にむけてアタシを支配してる、みたいな。

深呼吸しても、水分補給しても、それは消えることがなかった。





「でも、自主練はいいですけど、ほどほどに。ね?」



「それは大丈夫っす。プロデューサーがいてくれるし」



そう言うと、トレーナーさんは黒目をきれいな丸にして、少しびっくりした表情をした。

なにか変なこと言ったかなって不安に襲われる。



「レッスンを受けている子同士がっていうのはよくあるんですけど、担当プロデューサーがというのは珍しいですね」



「そうなんすか?」



次にプロデューサーの方を見ると、

「そうだったのか」って、本人が一番びっくりしてどうするのさ。





 *







いつも通りに自主練が始まる。



トレーナーさんには、今日ぐらい休んでもいいんじゃない? って言われたけど、体を動かすのは好きだし、なにかできるようになったときのこの感覚を忘れたくないから。



今日できたのは偶然かもしれない。

それを必然に変えることができるのが日々の積み重ね。

アタシに対していつも適当なプロデューサーが真面目な顔をして教えてくれたこと。



そんなこと言えたんすね、って聞いたら、俺はいつだって真面目だよ、って。

たまに別人じゃないのかなっておもうときもあるけど、さっきの言葉のすぐ次にはいつものプロデューサーになる。

二重人格って現実味のない表現よりも、こういう人なんだって半ばあきらめに近い納得の仕方がやけにしっくりきた。





対面の鏡を見る。

扉の隣で壁にもたれかかったプロデューサーがいて、大きなあくびをしたあとに両手で顔をパチンと叩いた。



それを合図に曲が頭の中で鳴り始めて、アタシはそこに体を、心を委ねる。

晴れやかな青色のシューズはすっかり馴染んでいて、白のラインはまるで空を飛ぶための羽根、なんてね。



レッスン中よりも気持ちは随分とラフで、動作のひとつひとつに余裕ができてる気がした。

頭で確認する前に腕が、足が、自然に動いていく。

それは曲が終わるまで続いて、今日できたのは偶然じゃなくて必然だって確信することができた。





でもこれはあくまでハードルのひとつでしかなくて、まだスタートして少ししか走ってない。



ひとつ跳ぶたびにハードルは高くなっていくし、ダンスだけじゃなくて歌とかポージングだってそう。



跳ばなきゃいけないものはまだまだある。



もしかして、まだウォーミングアップの最中なのかも。



だったら。





だったらすごいワクワクしてくる。





アタシが考えてるよりもずっと大変だとおもう。



けど、新しい色を描けるんだ。



それって絶対楽しいに決まってる。



次に行きたい。



次の一歩を踏み出したい。





「ねぇ、プロデューサー」



靴底と床がこすれる音を響かせて、その場で半周くるっと回る。

その先にはアタシをこの世界に連れてきた人がいて、アタシを見ている……はずだったんだけど。



「……プロデューサー?」



声をかけても返事はなくて、よく見ると視線は下になっていて。

近くに行ってもそれは変わらない。

もう一度声をかけても反応はないし、すっごく静かだ。





耳を澄ませてみると、すぅすぅという息遣いが聞こえてきた。



顔を覗き込むと、両方の瞼はしっかりと閉じていて、肩は小さくゆっくりと上下していた。



寝てる。



この人、寝てる。





腕を組んだ状態のまま、体を壁に預けて寝てる。



それを見て器用だなって感想がまず浮かんだ。

その次になにかあるかと言われたらなくて、例えば、怒りだとか呆れみたいな感情は不思議と湧いてこなかった。



普通に考えて、プロデューサーはまず自分の仕事があるわけで、それからアタシの自主練に付き合ってくれてるって、本当にすごいことだ。



大変に決まっている。



そりゃあ寝ちゃうよね。





じっと寝顔を見ていると、意外とプロデューサーのまつげが長いことに気がついた。



どうでもいいことだけど、普通だとなかなか気がつかないことで、ちょっとだけ嬉しくなったりして。



「ねぇ、プロデューサー、寝てる?」



寝たふりしてるならここできっと起きて、ニヤニヤしながらからかってくるに違いない。

でも、それをしないってことは本当に寝てるんだって証明だ。





だから、自己満足の言葉を、あなたに。



ありがと、プロデューサー。





おわり





08:30│吉岡沙紀 
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