2016年08月27日

楓「カルアミルク」


ちひろ「………」





楓「……ぷんすか」







早苗「………」





ちひろ「楓さん、あの」





ちひろ「擬態語みたいなのそのまま声に出して怒るのは……」





楓「……お、おらおら」





早苗「そろそろボキャブラリーが尽きそうだから大丈夫そうね」







怒りを表す擬態語を探しながら、高垣楓は徳利に酒が入っていないことに気付いた。2人のグラスももう一口くらいでなくなる。



SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1470309674





楓「……ちひろさん、次は何を飲みますか」





ちひろ「ちょっと待ってくださいね。私も飲むもの選びたいです」





早苗「この居酒屋、意外とお酒の種類あるんだね……日本酒以外もいろいろ」





三人でメニュー表を囲んで、あれもこれもと指を差す。

チェーン店以上にカクテルのメニューも揃っている。





楓「……これに、します」





彼女が選んだのは、普段そのイメージとは違う酒だった。



早苗「あれ、かわいいの飲むね。カルアミルクかー」





ちひろ「それ、お酒飲み始めの頃はよく飲んでました。」





楓「最初は好きだったんだけど、すぐに辛口のに行っちゃうんですよね」





早苗「そうそう。酒飲みの宿命っ! だよねー」





楓「でも、たまにはカルーく、カルーアにします」





ちひろ「でも、日本酒ほどではないにしろ、度数あるんですよね……」







たまには女子会らしくおしゃれなカクテルを、と他の二人もカクテルを頼んだ。





楓「むすー」





ちひろ「い、いらいら」





早苗「えーと……むしゃくしゃ!」





飲み物が届くまで、怒りを表す擬態語大会が始まっていた。結果、飲み物が届くタイミングで思い浮かばなかった早苗の負けだった。





早苗「えー! ……でも、ちひろさんの"いらいら"って微妙じゃない? 判定を要求する!」





楓「むー……」





ちひろ「腹が立ってるような表現だからいいと思います! 審判!」





楓「アリです!」





ちひろ「ほらー! やったー!」

早苗「なんだとー…! ……ねぇ、次のお酒、この"イージーマネー"ってカクテル、ちひろさんにぴったりだと思うなー」





ちひろ「ほほう、早苗さん。では次はこの"ゴッドファーザー"っていうのはいかが?」





早苗「ほーう、元警察官にマフィア映画にまつわる酒をねー」





会話の中、楓は何食わぬ顔でカルアミルクに口につけた。

普段飲む酒とは違い、甘味とコーヒーリキュールの苦みが舌に残る。





楓「…今飲んでみると、お酒の味が全然感じられないですね」





ちひろ「お酒の苦みに慣れると、そうなっちゃいますよね」





早苗「やっぱりクドいのかな? ちょっともらっていーい?」







楓に差し出されたカルアミルクを、早苗は飲み口を変えて少しだけ味わった。

遠くの空間を見るような目をした後、「ああ、甘い。甘すぎる」と、つぶやいた。





早苗「味覚は変わっちゃうもんねー。昔はこっちのが好きだったような気がしたんだけど。」

ふいに、楓の鞄から振動音が鳴った。音の長さからしてメールやSNSの通知音ではなく、電話であることがわかる。

振動のパターンは単調なものではなく、3連符などが混ざった複雑なものだった。





楓「………」





すぐさまその振動音に反応するも、彼女は聴こえなかった素振りをした。





ちひろ「出なくていいんですか?」





楓「……」





早苗「P君からでしょ? それ」





楓「! ……そうですけど」





いいんです、と言葉をつづけた。





ちひろ「……むしろ、今のほうが”ツーン”とか”むすー”が聴こえてきそうですね」





鳴り終わったのを確認すると、楓は携帯を取り出し、何かを素早く打ち込み、再び仕舞った。





早苗「…で、P君と何あったか、まだ全然聞けてないんだけど」





そもそも、この女子会が開かれたのは、それが原因だった。しかし今のところ、その話題には誰も触れられないまま、もう5杯のグラス(あるいは徳利)が片づけられていた。





楓「………」





ぷい、と顔を横に向けて、彼女は再び沈黙した。ここから、冒頭の"怒りの擬態語"状態になったのだった。



ちひろ「では、楓さんが話せないならば、僭越ながら私がプロデューサーさんに直接ー」





ちひろは自分の携帯を手に、笑顔でゆっくりと電話帳を開こうとしていた。





楓「!っ ちょ、ちょっとまってください、それでは意味が」





早苗「もーそれだったらいっそ話しちゃいなってー。お姉さんたちが聞いてあげるってば」





楓「……」





流石に楓もこれ以上渋ることができないと悟った。

自分が持ちかけたこの会なのに、いつまでも話せずにいるのは二人にも失礼であることはわかっていた。





カルアミルクのグラスは、氷が解けて薄くなりかけている。少しだけ口に含んで、彼女は話すことにした。

プロデューサーとの些細な喧嘩のことを。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー





事務所の窓の外は、昼間だというのに暗かった。

ラジオパーソナリティは関東の梅雨入りを告げている。今はシンデレラジオが流れている時間だ。





 輝子『フ…フフ、絶好のキノコ日和、だね……』





 小梅『ぽ、ポジティブな言い回しだね…。ホ、ホラー映画の季節、でもあるかも、ね』





総選挙が過ぎてひと月もすると、その熱気も雨に冷やされたようだった。

私のうわついた気持ちも、とっくに通常モードに切り替わっていた。





未央「はー! エアコン効いててよかったー!生き返るねーっ!!」





出勤してきた未央ちゃんが、タオルで濡れた髪を乾かしている。

ちひろさんから差し出された麦茶を豪快に飲んでいる。





楓「……今日はビールにしよう」





その姿を見て、まだ午前中だというのに仕事終わりの一杯のことを考えてしまった。

喉を通り過ぎる冷えた炭酸の痛み、舌に一瞬だけ残る心地いい苦み……。





P`「……ええと、涎、垂れてますけど」





楓「…はっ」





脳内が完全にビールに支配されていた。





楓「……ビール星人がいたら、きっと洗脳されているところでした。」





P「ビール星人?」





楓「そうです。というわけで、今日はビアガーデンかアイリッシュパブあたりで、ビール星人と戦いましょう」



フィッシュアンドチップスと共に……と言いかけたところで、「まぁ、時間があったら行きたいですね」といなされる。

最近はやや付き合いが悪いのが不満だ。





P「今回の総選挙の結果が……功を奏して、仕事の幅が広がりそうです。オファーも増えてますよ」





この中からだとどれがいいですかね、といくつかの企画書を差し出した。



『代官山カフェ探訪』



『女子会にぴったりの居酒屋めぐり』



『女性のカクテル入門』



etc...





楓「…温泉はないんでしょうか」





P「ああ、夏前ですからね。また秋冬まで温めておいてるんです」





楓「夏の温泉も乙なものですよ。おつかれな体に、いいんですよ」





考えてみましょう、とやはりいなされる。

しかし、彼なりに考えがあってのことだし、これ以上わがままをいうつもりはない。





P「これなんかいかがですか? カクテルのやつ。飲料メーカーのKIRINZIがスポンサーで、珍しいお酒も提供してくれるみたいで」





番組の中の短いコーナーになるけれど、毎回一品ずつカクテルの作り方を覚えて私が作る、というのが大まかな内容らしい。





P「ゴールデンタイムに毎週出演できる、というのが強みです。是非これを推したいのですが……いかがですか?」





もちろん断るつもりもなかった。



本当は焼酎と日本酒中心ならばよかったけど。





P「楓さんが好きな日本酒とかは、また後のタイミングで。今は若い男女をターゲットに、スタイリッシュで抵抗のないお酒を紹介して欲しいんです。」





読まれてた。顔に「日本酒と焼酎」って書いてあったんだろうか。





楓「わかりました。あとそれ以外はPさんが決めてください」





今まで彼が持ってきた企画書の中で、抵抗のある仕事は一つたりともなかった。



彼のそこのフィルターはしっかりしている。



最も、そのフィルターに温泉の仕事もひっかかって取り除かれてしまってるような気もするけれど。





楓「ところで、Pさんが好きなカクテルって、なんですか?」





P「え、俺ですか?」





普段私と一緒に行くお店は、カクテルよりも日本酒や焼酎、ワインの充実した店だった。



だからPさんはいつもそのあたりを代わる代わる飲んでいた。





楓「いっつも私に付き合って、その辺は飲んでないじゃないですか」





P「んー……、でもそんなに知ってるわけでもないので……」





楓「私もそうですよ。有名どころを少しくらいしか。」





P「急に言われると、浮かばないというか、えーと……」





楓「じゃあ、今ふっと飲みたいやつで、いいです」





こういう質問の答えは、しばしば心理テストで「記憶に残っている○○」だったりする。





P「……あの、笑わないでくださいね」





P「"カルアミルク"って、ご存じですか?」

ーーーーーーーーーーーー





カルアミルクの作り方。「カルーア」と呼ばれるコーヒーリキュールを「牛乳」で割ったもの。

カルーアと牛乳は大体1:3くらいだが、好みによって大きく変わる。





バーテンダー「ステアはご存じですか?」





楓「ええと、このスプーンで混ぜれば、いいんですよね」





第一回目のリハーサルが始まった。



新人バーテンダーに扮した私が、先輩バーテンダーから作り方を教わる。



今回は「ステア」のやり方だ。





バーテンダー「混ぜ方にもコツがいるんですよ。見ててください」





スーツを着た女性バーテンダーは、細心の注意で糸をつまむようにスプーンを持った。



そのスプーンの先は、果物の皮を薄く剥くようにグラスの中を回った。





楓「…………」





それらしく回そうとしたが、意外と難しい。



この回し方ひとつで、氷が解けすぎて味が薄くなってしまったりするらしい。





楓「ステアも、ステたものじゃない……」





私が必死に手を動かしている様子を、カメラマンの奥の方でPさんが見ていた。



初回のカクテルがカルアミルクになったのは、特に偶然ではない。





この番組は酒離れが進む若い人もターゲットにしている。



打ち合わせで「女性が好きそうなカクテルで、初回は簡単に作れるもの」



というお題に対しての意見を問われて、咄嗟に





楓『あの、カルアミルクって、混ぜるだけ…ですよね』





と答えたからだ。



確かに簡単で、女性が好みそうな味だと、ディレクターもそれでGOサインを出した。



楓「……できました」





バーテンダー「では、私のと飲み比べてみましょうか」





彼女が作ったものを差し出された。

まずはお手製のカルアミルクを一口。





楓「…うん、美味しい」





懐かしさを感じる味だった。お酒を飲み始めの頃、これをよく頼んでいた。



次にプロが作ったものに口をつける。





楓「……! あれ?」





私の作ったものと、彼女が作ったものは別モノのように感じられた。



私のカクテルは、水で薄められ牛乳の柔らかな口当たりが損なわれてしまったようだった。





バーテンダー「氷の形や、材料の注ぎ方、グラスの持ち方。もちろん混ぜ方でも、できるものは違ってくるんです。わずかな違いだけれど、結構面白いでしょう?」





確かに、特別な材料を加えたわけではない。



よく見ると私のグラスの底には、カラメルソースのようにリキュールが溜まっていた。





その技術だけで、こんなにも出来上がりに差が出るなんて。今まであまり飲んでいなかった分だけ、興味が湧いた。





楓「混ぜるだけ、だなんて思ってたけど、奥が深いんですね。プロの技です。」





バーテンダーは優しく微笑んだ。その表情は誇らしげにも見えた。



今日知ることができたカクテルの面白さと、その奥深さが少しでも番組の視聴者に届けばいい、と思った。



・・・・・・・・・・・・・・・・





「それでは、本番いきまーす!」





カウンターバーのセットに、2人の女性バーテンダーが立っている。

白いシャツに黒いベスト羽織った高垣楓が司会を務めている。





楓「第一回目のゲストは、現在絶賛放送中のドラマ、………の主演を務める…………」





長い下積み生活ののちにブレイクしたそのゲストは、"新進気鋭"という言葉が何より似合いそうな強い目をしていた。

現在はドラマや映画でも、その風貌を活かした役に引っ張りだこだ。





楓「今日は、思い出のカクテル、カルアミルクについてお話しをしていただきます」





俳優は、カルアミルクの思い出を語った。



それは放送作家が用意したものなのか、それとも本当のことなのかはわからない。





楓「……お待たせいたしました。カルアミルクです」





置かれたグラスを手に取り、口元に運び、香りをかぐ。

飲むまでの一連の動作でさえ、まるで演技の一部のように流れている。





楓「撮影の方はどうですか?」





話題は現在放送中のドラマに移った。



撮影中のトラブルや、他の役者との掛け合いについての笑い話に花が咲いた。





楓「そんなドラマ、………は、明日の9時から……」





撮影は滞りなく進んだ。恐らく番組に使う撮れ高には十分だった。





『この間、CGプロの総選挙、あったんでしたっけ?』



ゲストは、唐突に楓に問いかけた。





『確か、2位だったんですよね。』



『高垣さん、悔しかったんじゃないですか?』





高垣楓は目を見開いて、驚いたような表情を見せた。





『いや、もし不快に感じたらすみません。でも、きっちりと順位がついて、

自分がどこにいるってありありと見せつけられると、僕は酷くみじめな気持ちになるんですよ。』





彼の言葉に悪意のようなものはなかった。



彼の反骨精神の一部を共有しようとしているだけだった。





楓「……悔しい、というのは違うかもしれないですね、きっと」





やや自信なさげに、言葉を確かめるように楓は答えた。





楓「卯月ちゃんはかわいい妹みたいなものですし」





変な事を訊いてすみません、とゲストは謝った。



いいえ、そんなことないですよ、と楓は答えた。







「ありがとうございましたー! 初回の撮影、終了です!」



・・・・・・・・・・・・・・・



ーーーーーーーーーーーーー



帰りは酷い雨に見舞われた。ドライバーは慎重にクラッチを踏み動かし、車間距離を詰めた。フロントガラスのワイパーは、せわしく雨跡を消した。





P「……すみません、渋滞がひどくて」





楓「いいえ、大丈夫ですよ。渋滞はじゅうだいなことではありません」





雨の日のドライブは、実を言うと嫌いじゃない。

普段よりもゆっくりな速度の中、フロントガラスの向こうで、かつ消え、かつ結び、そしてかき消される雨粒を眺めるのは心地いい。





楓「運転疲れたら、代わりますよ」



P「あなた撮影中酒飲んだでしょ。」





そもそも免許もってないでしょうに、とつっこみを入れられた。





ラジオは渋滞の情報を伝えている。パーソナリティは、急きょ渡された原稿を読み上げているようだった。





  《……の影響で、……間が渋滞となって、います》

  《ドライバーの皆さん、雨の中ですので、特に安全運転でお願いしますね》





P「今日の撮影、楓さんの感想はいかがでしたか?」



楓「おいしかったですよ、カルアミルク」



P「いやそうじゃなくて」



楓「……ふふっ。カクテルって面白いなーって、思いました」



P「……そう、ですか。次回はシェーカーを使ってみるらしいですよ」



楓「ほんとですか? あれ、一度振ってみたかったんです」





  《梅雨入り早々ですが、当分この雨は続く模様です……》

  《週末のお出かけには、予報のチェックを欠かさずに……》





P「……今日のゲストさんの言葉、楓さんは気にしてませんか?」



楓「……?」



P「あの、総選挙についての」





『確か、2位だったんですよね。』



『高垣さん、悔しかったんじゃないですか?』





私の頭の中で、あの言葉が静かに反響した。





  《それではお便りの紹介です。ラジオネーム、おっきい0時さんからのお便り……》

  《Cymbalsを受け継いだバンドが昨年より……》





P「あの、俺、次こそ…あなたにシンデレラガールに、なってほしいと思ってるんです」



P「きっと、次こそは、と思ってます」





  《2ndアルバムもリリースしたTWEEDEESの動向が今後も非常に楽しみな……》

  《90年代渋谷系の中心的なグループを聴きながら……》

  

  

P「……もし次に、あなたを1位に連れていけなかったら、」





『2位』



『悔しかった?』





P「おれは……楓さんの担当を外れる覚悟です」





……え?

  



  《それでは次の曲は、雨の日にぴったりなナンバーを…》

  《PIZZICATO FIVEで "きみみたいにきれいな女の子” 》





P「だから、その」

 

楓「待ってください」



楓「なんで、Pさんが外れなきゃならないんですか?」



P「…いえ、そういう覚悟だということです。つまり…」



楓「そんなの、……冗談でも嫌です」





だって言ったじゃないですか。トップアイドルにしてみせる、って。

あの時、そういわれたから、私だって……





P「楓さんには、アイドルとしての素晴らしい素質があります」



P「それを引き出せないのは、プロデュースの問題です」



P「あなたのせいじゃないんです。だから…」





楓「…そんな!」





思っていたよりも強く声を発していることに気づけなかった。





楓「そんなの、ずるすぎます。二度と、言わないでください」





そう言い放って、私はPさんをにらみつけるように横を向いた。

Pさんは私の言葉にたじろいでいるようだった。



そのままにらみ合っていると、後ろからクラクションが鳴った。





Pさんは慌てて車を進めた。ほんの10メートルに満たないような距離だった。





ラジオから流れるゆるやかな曲は、二人の沈黙を埋めた。





私はそれからずっとむくれていた。

フロントガラスの向こうの、光の川を眺めていた。

その後交わした言葉は、よく覚えていない。





楓「…それでは、お疲れさまでした」





日が変わる少し前に私の家の近くについたあと、挨拶でさえおざなりにして、プロデューサーと別れた。



シャワーを浴びながら、ラジオで流れていた曲を、うろ覚えのままに口ずさんだ。





私はどうして泣きたい気持ちになってるんだろう?





蛇口を締めると、残った滴がシャワーヘッドからこぼれ落ちた。



ーーーーーーーーーー



ーーーーーーーーーーーーーーーー





早苗「……ここなの?」



楓「はい。確かに、ここのはずです」





2次会の会場は、雑居ビルの脇にある小さなバーだ。



楓が例の番組で知り合ったバーテンダーがかつて修行した場所だという。





早苗「確かに店名はあってるけど、ドアに何も書いてないね」





楓「おかしいですね……でも、ここしかないと思うんですが」





早苗の言う通り、ドアには取っ手以外に何もない。



店であれば、きっと「OPEN」なりの立札ぐらいあるものだが、それはドアとしての機能以外をそぎ落とされていた。





ちひろ「もーいーから、はいっちゃいましょうよー……」





間違ってたら謝ればへーきですへーき、と言いながら、ちひろはドアを押し込んだ。





が、ドアは動かない。





ちひろ「あれ、開かない」





あ、引くんですね、と、ちひろはつぶやいた。



彼女の頬はほのかに赤い。





早苗「あ、ちょっと…」





楓たちがドアをくぐると、初老のバーテンダーは小さくお辞儀をし、席を案内した。





早苗「…そっか、ちゃんとしたバーってこういう雰囲気、だったかも」





楓「こういうところは、あまり来た事がなかったです」





ちひろ「知る人ぞ知る…って感じでしょうか」





バーテンダーはおしぼりとメニューを手渡した。





バーテンダー「そんなちゃんとしたところではありません。ごゆっくりおくつろぎください。年寄りが道楽でやっているような店です」





楓「ありがとうございます。でも、とっても素敵なバーだと思います」





バーテンダー「そう言っていただけて、光栄です」





カウンターの後ろのスペースには、様々なリキュールの他に、大量のレコードが棚に収められていた。



店の隅には、アップライト・ピアノとドラム、ウッドベースが僅かなスペースに寄木細工のように整頓されている。





ちひろ「……さっきの楓さんの話を聞いて、もうこれしかないと思ってるんですが」



早苗「あたしも。ちゃんとしたバーのを飲んでみたいな」



楓「では……すみません、カルアミルクを、3つ」





バーテンダーはカウンターに戻り、棚のカルーアを手に取った。



その様子を楓は目で追っている。





楓「…やっぱり、番組のバーテンダーさんと同じ動きです」





ちひろ「もうすっかりバーテンダーの卵ですね」





早苗「技を盗むってやつー? このまま今度はバーテンに転職かな?」



楓「もう、二人してからかわないでください」





3つのグラスと、ミックスナッツが運ばれてくる。カルアミルクは特に代わり映えのないものだ。



ミントが飾ってあるわけでも、インスタントコーヒーが散らされているわけでもない。





早苗「では、さっきのお店とどれくらい違うのか……」



ちひろ「いただきます」



3人はカルアミルクに口を付けた。





バーテンダーはカウンターに戻ると、注意深く、ゆっくりと時間をかけて一枚のレコードを選び、盤面を丁寧に拭いた。



アルバムのタイトルはHerbie Hancockの「Speak like a child」だ。



古いものだが、常に手入れされたターンテーブルに置き、針を落とした。





ちひろ「……おいしい」



早苗「ほんと、カラオケの飲み放題なんかで出してるのと比べたら失礼だね」



楓「番組のバーテンダーさんのと、同じ味です」



ちひろ「牛乳が違うんでしょうか?」



早苗「いや、技術だけだって言われても信じがたいよね」



楓「ふふん、それが本当なのですよ」





ほどなくして、バーテンダーは水の入ったグラスを運んできた。





バーテンダー「すみません、遅くなりました。チェイサーになります」



ちひろ「ありがとうございます」





楓「あの、マスター、このお店のことはバーテンダーの……さんから教えていただきました」



バーテンダー「え? ……ああ、彼女ね。しばらく顔見てなかったけど、元気なのかな」



楓「はい。嬉しそうにこのお店のことを話してくれました」



バーテンダー「そうでしたか、なら何よりです。こんな綺麗な女性を3人も連れてきてくれるなんて。いい弟子です」





そう言うと、バーテンダーは悪戯っぽく微笑んだ。





バーテンダー「暇な時間ができたら、また店手伝いに来て、って伝えておいてください」



楓「わかりました。伝えておきます」





スピーカーからはジャズのピアノ・トリオを流れている。



コロコロと鍵盤の上を転がるようなピアノの小気味良いフレーズが響く。





楓「…………」





時折、楓は空いた席に置かれた携帯を気にしているようだった。



一次会の居酒屋以来、プロデューサーからの着信は無い。





早苗「……電話、待ってるの?」



楓「へ? え、いや、そういうわけじゃ……」



ちひろ「だってずっと見てるじゃないですか、携帯」



楓「いや、別にそういうわけじゃないですよ。もう電話はかかってきません」



楓「さっきの店で、『3人で飲んでます。明日連絡します』ってメールしましたし」



早苗「うわ…シンプルざっくりした返信……」



ちひろ「でも、さっきの話を聞く限り、なんで楓さんが怒ってるのかわかってないんじゃないでしょうか」



楓「…………」



早苗「あの人はねー、いっこ気にすると、こう! こうだからねー」



早苗は、正面に前ならえを振り下ろすようなジェスチャーをした。



ちひろ「でも、ああいうところがいいところでもあるんですがね」



楓「……そうなんですけど、ね」



ちひろ「ねえ、楓さん。もし今電話がかかってきたら、なんて言いますか?」



楓は、グラスに口を付けた。もうこの一口で飲み切ってしまう。



楓「……どっか飲みにつれてけ、って、言います」



楓「そして飲みながら、さっき覚えた擬態語を隣で言い続けてやります」



早苗「はは、そんで、P君は『あの、すみません』とか、また懲りずに言ってそうだね」



楓「……私も、きちんと何に怒ってるのかとか、何が悲しかったのか、伝えるべきだったと思います」



早苗「まあ、伝えるタイミングがね。なかなか、仕事モードのときに話すと、P君重く捉えすぎるし」



楓「お酒でも入ってると、また違うんでしょうけれども」



ちひろ「そうですか、そうですか」





ちひろはどこか不敵な笑みを浮かべている。



頬の赤みも手伝ってか、ひどく意味深げだ。





楓「明日あたりちょっと、飲みにでも誘おうと思います」



ちひろ「もう一回電話があれば、もしかしたら仲直りできそう、ってとこでしょうか」



楓「……いや、今から電話はしませんよ。また明日とかにでも、と」



ちひろ「いいえ、電話する必要はありません」



楓「……え?」



ドアが控えめに開いた。



スーツを着た男が、やや緊張した面持で隙間から顔をのぞかせている。





「あの、ここは、……というお店でしょうか?」





バーテンダー「そうですよ。どうぞお入りください」





ちひろはドアの方に手を振った。





ちひろ「プロデューサーさん、こっちですよー」



ーーーーーーーーーーーー



ーーーーーーーーーーーー





楓「…………」



P「…………」





2人はそのまま先に帰って行った。



Pさんをここに呼んだ犯人は、言うまでもなくちひろさんだ。





ちひろ『じゃ、プロデューサーさん、この貸しはここの会計でよろしくお願いしますね♪』





と言って去っていった。ちゃっかりしている。



カウンター席に移動させてもらったが、お互いに言い出しかねて、この調子だ。





楓「こ、ここは、番組でご一緒したバーテンダーさんが働いていたバーなんです」



P「あ、そうだったんですね」





いや、違う違う。話そうとしていたのはそんなことじゃない。





P「楓さんは、何か飲みますか?」



楓「えっと、そうですね。Pさんはもう決まったんですか?」



P「……恥ずかしながら、最初ですがカルアミルクを」



楓「……では、私もそれを」



P「いいんですか? さっきも飲んでたみたい、ですが」



楓「いいんです。ここのをもう一度飲みたかったので」





Pさんがカルアミルクを頼むと、バーテンダーはかしこまりました、と応えた。



グラスにロックアイスを加えて冷やし、カルーアを注ぐ。



P「……あの時なぜ、カルアミルクが飲みたかったのかというとですね」



楓「……はい」





P「酒を飲み始めの頃は、カルアミルクくらいの甘い酒の方が好きだったんです」



P「今でこそ、楓さんと色んな酒を飲み比べたりできるんですが」



P「かつて好きだったものとか、またそういうものを思い返したかったのかもしれません。自分でもひどく感傷的だと思うのですが」





私は、自分が“かつて好きだったもの”を思い浮かべた。



10代の頃に何度も読み返した小説や、辛いときに支えになってくれた音楽。



あの頃の自分は、夢や希望への憧れを強く秘めていたかもしれない。今の自分はどうだろう?



バーテンダーさんがカルアミルクを運んだ。何も言わずにお辞儀をし、ターンテーブルのレコードをひっくり返した。





P「では……」





私はグラスを持ち上げた。



何も喧嘩については触れていないが、まるで仲直りの握手をするように、ささやかな乾杯をした。



楓「どうですか?」



P「言うことなしです。今まで飲んだ中で、一番美味しいカルアミルクです」



P「実を言うと、あの収録のときに作ってたやつもちょっと飲みたかったんですよ」



楓「あら、じゃあ一杯飲めばよかったじゃないですか」





あの時、練習で作ったものをいくつかスタッフさんに内緒で配っていた。





P「いやいや、仕事中に飲めたらのんでますってば」





意識しないうちに、いつもの会話に戻っていた。



自然と互いの方向に顔を向けている。



私は頬杖を突きながら、Pさんはグラスを持つ手の肘をつきながら。



楓「……あの時、ごめんなさい」



私から謝ろうと決めていた。



むしろ彼の気持ちを引き出したい。





P「いえ、こちらこそ。すみませんでした」





楓「私は、本当は悔しかったんです。あなたを、“シンデレラガールのプロデューサー”にしてあげられなかったことを」



楓「卯月ちゃんがなったことは、もちろん必然だと思います。あの子の努力を思うと」



楓「でも、もっと悲しかったのは、Pさんが担当を抜けるって言ったことです」





Pさんはグラスを置いて、何も言わず、私の方を向いて聴いていた。



楓「Pさんのプロデュース、とっても安心しています。私がやりたい仕事だけじゃなくって、私のキャリアになる仕事を考えて選んでくれてるのは、私だってわかります」





スカウトされた時のことを思い出す。



『あなたなら、きっと素晴らしいアイドルになれる』と渡されたPさんの名刺。





楓「一緒に頑張りましょう、って、あの時いってくれたじゃないですか」



楓「だから……車の中で言われたことは、悲しかったんです」





言い切った。まくし立てて乾いてしまった喉に、カルアミルクを流し込んだ。



甘味が喉に少しだけ沁みた。





P「……二人で頑張りましょう、って、いつも言っていたはずなんですが」



P「つい忘れていたみたいで、すみません」



楓「……本当ですよ。反省してくださいね」



私は微笑んだ。ふと、番組のバーテンダーさんの、優しく誇らしげな微笑みを思い出した。



あんな微笑みを、いつか浮かべられたらいい。そう思った。



P「あなたの魅力は、俺が一番よく知ってるつもりです。自惚れと言われても仕方ないかもしれませんが」



P「だから、それを自惚れと言われないためにも、またあなたのすばらしさを引き出せるような企画を勝ち取ってきますよ」



P「次こそは。きっと次こそは、あなたをシンデレラガールに選ばせて見せます。また、一緒に頑張りましょう」





……いや、プロポーズじゃないですから。今、赤面してるんじゃないだろうか。





私は、表情ができるだけ見えないように、頬杖を左手でつきなおした。





楓「……はい、また、よろしくお願いします」



それから、二人でメニューにあるカクテルを眺めていた。



見覚えのあるような名前が目に留まる。





楓「この、ピニャ・コラーダって、あのぬいぐるみの?」



P「……ほんとだ。ぴにゃこら太の元ネタ、なんでしょうか」



楓「じゃあ、私はそれを飲んでみます」



P「俺は……どうしようかな」





次のページをめくると、さっき聞いたカクテルの名前があった。



次に飲むカクテルは、もうこれに決まった。





楓「ねぇ、Pさん。このカクテルって、ちひろさんにぴったりじゃないですか?」



Pさんは、私が示した名前を見て、噴き出した。



イージーマネーって、まさかスタドリで割ってあるわけじゃないでしょうけれど。



ーーーーーーーーーーーー



ーーーーーーーーーーーー



楓「……それで、例のお店に行ったんですよ」



バーテンダー「あ、そうなんですね。いかがでしたか?」





番組のリハーサルが始まった。今回は3回分の収録をまとめて行う。



これから作るカクテルは「ホットバタード・ラム」だ。





楓「素敵なバーでした。音楽も楽しめるお店みたいで、また行きたいです」



バーテンダー「ジャズをずっと聴いていたくってバーを始めた、って自分で言ってましたからね」





週末にはジャム・セッションもやっているらしい。今度行ってみよう。





楓「そうだ、もし暇があったら手伝いにきて、って仰ってましたよ」



バーテンダー「あはは。でも、最近行ってなかったな」



バーテンダーさんは耐熱グラスの温め方を説明した。



ホットバタード・ラムは、温めたラムとバターで作る。



きっとPさんの好きそうな味だ。





ふとセットの外に目をやった。スタッフさんに紛れて、Pさんが見ている。



私が見ているのに気づいて、彼は微かに微笑んだ。





バーテンダー「できました。ちょっと飲んでみてください」





私はPさんの方を再び見た。仕事中だから飲めないでしょうに、かわいそうに。







いつか、飲むだけじゃなく作るのも上手くなって、あなたと飲み交わしたいと思う。



いつか彼に、私が作ったカルアミルクを手渡したい。





温められたラムと、少量の砂糖。その表面にはバターが溶けている。



口に含むと、ラムの優しい甘味と、バターの香りが通りすぎていった。





――――――――――





12:30│高垣楓 
相互RSS
Twitter
更新情報をつぶやきます。
記事検索
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計: