2014年05月19日

あずさ「珈琲」


午後からの収録のため、早めに家を出て早めに事務所に来る。

珍しく迷う事なく事務所に着いてしまったけれど、遅れてしまうよりはマシと思い、階段を上って扉を開いた。



「おはようございます〜」





中に入って開口一番に挨拶をする、業界人としては当然の事。

いえ、社会人としてかしら。





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「おはようございますあずささん、随分と早いですね?」



出迎えてくれたのはプロデューサーさんだった。

随分と早いと言ったその言葉をそのまま返したい程に、彼も随分と早い出社。



「今日は道に迷わなかったんですよ〜」



私がそう言うと彼は目を細めて笑っていた。



「笑うなんて酷いですよプロデューサーさん」



「す、すいません……!」



少しだけ不機嫌な振りをして咎めると、途端に慌てたように謝ってくる。

その様子が可笑しくて、今度は私の頬が綻んでしまった。





「ところで、どうしたんですか。収録、午後からですよね?」



時計を見ると現場入りする予定の時間までまだ4時間以上ある。

どうやら本当に早く着きすぎてしまったみたいね。



「早めに家を出たんですけど、迷わなかったせいか早すぎちゃって」



質問に答えると彼はやっぱり笑っていた。

人柄の良さが現れたその笑顔に、胸が高鳴るのが分かる。





今日のスタジオは車で30分程の距離の場所。

律子さんの事だから余裕を持って1時間前には出発するはずよね。

そうすると3時間ほど時間が余ってしまう。



「あずささん、コーヒーでも飲みませんか?」



どう時間を潰そうか考えていると、プロデューサーさんからそう切り出された。

断る理由も無ければそれを嬉しく思うので二つ返事で承諾する。

私がコーヒーを淹れに行こうとしたら自分が淹れるから座っているようにと促されてしまった。

どこか申し訳なさを感じつつも言われた通りソファーに腰掛ける。





朝の、まだ動き出す前の静謐な街の空気や人の居ない事務所。

こうして普段見ない景色を見れたのはやはり、三文の徳なのかもしれない。



そんな事を考えていると、プロデューサーさんがコーヒーを淹れて持ってきてくれた。

対面のソファーに座り、カップの持ち手部分を私の方に向けて差し出してくれるその気遣いが彼らしく、また頬が緩む。

受け取ったカップに砂糖とミルクを入れ、スプーンでかき混ぜて一啜り。



砂糖ので抑えられたほろ苦さと甘みが口の中で混じり合う。





「ふぅ」



暖かいコーヒーにほっと一息吐いた。

ゆったりとした時間に、心が落ち着いていく。



「最近はどうですか?」



コーヒーを啜り、カップから口を離して問いかけてきたプロデューサーさんを見やる。



「そうですね、お仕事も順調ですし伊織ちゃんとも亜美ちゃんとも仲良くやってますよ」



私の答えに満足したのかプロデューサーさんはふわりと微笑んで、再びカップを傾けていた。



本当に一息つくだけだったのか、すぐに彼はカップを持って自分のデスクへと戻っていった。





デスクに着いてノートパソコンとにらめっこする彼を、ソファーから眺める。

キーボードを打つ乾いた音が朝の静かな空気に溶けていき、耳に聞こえるその音がとても心地よかった。



ディスプレイを数分眺め、キーボードを打ち、コーヒーを啜る。

その一連の流れを、ただただぼんやりとソファーから眺める私。

それが私の為の仕事でないことは分かっていたけれど、それでも目を離すことができず、ふと気がつくとカップから掌へ伝わる温もりは殆ど失われていた。



ぬるくなったコーヒーを口に含む。

温かさが無くなった事以外さっきと変わらない味が口に広がった。





時計を見ると、既に長針が1周する程時間が経っている。

そんなに眺めていたのかと自分の事ながら恥ずかしくなり、顔が火照るのがわかった。

プロデューサーさんはまだパソコンと向き合っている。

仕事の邪魔になってはいけないので声をかけたりはせず、ソファーから動いたりもしない。

手持ち無沙汰ではあるけれど、それを嫌と思わない自分がいた。



話したり、何をするでもなくただ同じ空間を共有しているこの静かでのんびりとした時間がずっと続けばいいとさえ。



時計の針がもう2周した頃、音無さんがやって来て律子さんが続いてやって来た。

その間、会話は本当に二言三言。

たったそれだけなのに、私の胸は充足感で満ちている。



わずか三時間の、私とプロデューサーさんだけの時間。

けれどとても穏やかで大切な三時間だった。





スタジオへ出発する時刻になり、準備を済ませて外へ向かう。



「行ってきますね、プロデューサーさん」



出がけにデスクに座る彼に声をかけた。



「行ってらっしゃい、あずささん」



やっぱり笑顔で返してくれる。



もしもまた早く着きすぎたら、今度は私がコーヒーを淹れよう。

甘くてほろ苦い、コーヒーを。





おわり



23:30│三浦あずさ 
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