2016年10月25日

高垣楓「夢と現を、月見で一杯」


 月が出ていた。



 白く、欠けの無い月だった。





 月明りが一本の長い田舎道と、そこに沿って生えるススキの群れを、柔らかな光で照らし出していた。



 さわさわとススキを鳴らす夜風に乗って、虫たちの合唱が聞こえる夜道。

「満月ですよ」と、アスファルトで舗装された歩道を行く高垣楓が、夜空を見上げて呟いた。





「満月ですよ。プロデューサー」



「ええ、満月ですね」



「本当に、見事なまぁるいお月さま」



「綺麗なもんです」



「こんな月光の下で飲む酒は……けっこういいぞ、プロデューサー」



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 楓がくすくすと笑いながらそう言うと、彼女の前を歩いていた、プロデューサーと呼ばれた男が振り返って聞いた。



「何です、それ?」



「ふふっ……今の私の、気持ちです」



 二人の間を吹き抜けた夜風が、去り際に近くの山の雑木林をガサガサと揺らす。



 闇を照らすための街灯もポツンポツンとしか無い田舎道は、月明りのお陰か、不思議と暗すぎるということもない。





 ――……高垣楓は、アイドルである。実年齢は二十五歳。

 それでも十分学生として通用する童顔を、ふわりとしたボブカットで飾り、

 猫のように左右で色の違う瞳、左目の下にポツリとついた泣きぼくろは、時に大人の色気を醸し出す。



 元モデルということもあってか、スラリと細いプロポーションと、

 女性にしては高い身長を、今はゆったりとしたノーカラーコートの中に隠している。





 そんな、いわゆる「美人」と分類しても差支えのない容姿を持った彼女であったから。



 その穏健とした性格と合わせて初めて楓と会う人間は、基本的に彼女のことを

「上品で、落ち着いた雰囲気の素敵な女性」と評価する。



 だがしかし、少しでも彼女と付き合いのある人ならば残念そうに肩をすくめ、

 口を揃えてこう言うのだ……「あれで洒落さえ口走らなければ、完璧なのに」と。



 ちなみに、黒いスーツ姿の男の方は彼女を担当するプロデューサー。

 こちらについては、特に特筆すべきことも無いので割愛……話を戻そう。





「それで、私たちはいつまで歩けばいいんでしょうか」



 楓が、月明りに浮かび上がるプロデューサーの顔を、じっと見つめて問いかけた。



「いつまで……と、言いますと?」



「文字通り、『いつまで』です。……お店、この先にあるんですよね?」



 二人は今、今日の分の仕事を終えて――楓の言葉を借りるなら、

「仕事の後の一杯」を味わうために、居酒屋を目指して歩いてる――そういうことになっていた。





 月の光を反射して妖しく輝く二色の瞳が、プロデューサーの顔を捉えたままで離さない。



「プロデューサー?」



「明日は、五時半までに宿を出ないと。始発で戻らなきゃ、午前の仕事に遅刻します」



 そんな彼女の視線を振り払うように踵を返し、スタスタと歩き出したプロデューサーの背中を、

 楓は少しムッとした表情で睨みつけた。

 

 周囲の人間からは、落ち着いた大人の女性として見られている彼女にしては、とても珍しい反応。



 

 ……どうやら自分は「今回もまた」、彼にまんまと乗せられたらしい。



 以前は沖縄、その次は確か北海道。

 珍しく海外にロケへ行った時でさえ、楓は同じような手で騙されていた。



 つまり、それがどういうことかと言うと。



「もう! 貴方はいつもそうやって……事前にお店を調べておいたと、言ってくれたじゃないですか!」



「勘弁してくださいよ楓さん。地方の仕事は、スケジュールとの戦いなんです! 

 長期のロケならいざ知らず、短期の、それも殆ど日帰りみたいな仕事の何処に、飲みに行く時間なんてとれますかっ!」





「騙しましたね? いつもみたいに!」



「騙してません! 現にこうして、急いで宿に戻ってるでしょ。……今ならまだ、お酒の自販機も開いてますよ!」



 どうやら二人の泊まる民宿に置かれた、お酒の自動販売機が彼の言う「事前に調べたお店」らしい。

 先ほどまで虫の鳴き声と風の音しかなかった夜の空間が、二人の言い争う声により、ほんの少しだけ賑やかになる。



「どうりで、変だなとは思ったんです。なんでわざわざ、タクシーだって途中で降りて……

 気づけばこんな寂しいいあぜ道を、遠回りみたいに歩かされてるのか」



「タクシーで直接宿に帰ると、そのままゴネ倒されるのは前回の経験で分かってましたからね。

 今回は、少し強硬な手段に出てみました」





「だからって、仕事終わりで疲れているアイドルを、無駄にとことこ歩かせるのはいいと?」



「そんなこと言って、楽しそうについて来てたじゃないですか!」



「当たり前です! 私はほんのついさっきまで、美味しいお酒が飲めると思ってたんですから!」



 子供のように口を尖らせ、自分を非難する楓に対し、プロデューサーは呆れたようにため息をついた。



「あの、一応確認しておきますけどね。美味しいお酒が飲めるからって、

 普通はホイホイ、男の後について行くもんじゃないですよ?」



「でも、相手がプロデューサーでしたから」



「見知った人が相手でも、少しは怪しいと疑うべきです! 

 ……まぁ、今回もそんな楓さんだから、こうして騙せたようなものではありますけれど」



 明日の仕事に響かぬように、アイドルの体調……もとい、飲酒量を管理するのも、

 マネージャー兼プロデューサーである自分の務め。



 その為には、多少の方便だって使って見せるものだと思っているが。

 それにしてもこの、彼女の警戒心の無さは……アイドルのプロデューサーという立場からもだが、

 単に彼女の傍にいる、一人の友人としても心配になる。





 とはいえ、今はそんなことを考えるよりも……ここから彼女を、無事に宿まで連れて行く方が先なのだ。

 心配事について考えるのは、それからゆっくりすればいい。



「さぁ、このままこの道を真っ直ぐ行って……寄り道せずに宿へ戻りますよ」



 しかし楓は「嫌です」と一言。

 拗ねたようにぷいっと、その顔を逸らして見せた。



「楓さん……帰りますよって」



「嫌です。こんなに月が綺麗な夜なのに、飲むのが自販機のお酒だなんて。そんなの、寂しすぎます。つまらないです」



「だからって、お店で飲んでも月は見えませんよ」



「お店なら、月の代わりに料理が出ます。

 宿じゃもう、お夕飯だってとっくに終わって……とにかく、嫌です。納得ができません!」



 そう言って今度は大人げなく、その場にくしゃりとしゃがみ込み、抵抗の意思を体全体を使って表す楓。

 その姿はもう、上品で落ち着いた雰囲気の大人の女性ではなく、ただの可愛らしい駄々っ子だった。



 そんな彼女を見てプロデューサーは困ったように頭を掻き、

「夜食なら、ちゃんと用意してありますから」となだめるような口調で言った。



「……プロデューサーのことです。どうせそんなことを言いながら、コンビニで買ったおにぎりやおつまみなんでしょう?」



「失礼な。今回はちゃんと、駅の売店で買った正真正銘、地方の味だってありますよ」



「酒の肴に、お土産のお菓子ですか」



「結構、つまみになりそうなのがありました。どうです? 興味湧いて、きませんか?」



 それでもなお不機嫌そうな表情の楓に、プロデューサーが腕時計の盤面を向けて指さした。



「何度も言いますけど、明日の朝は早いんです。今日のところは我慢して……今度、別の形で埋め合わせはしますから」



「むぅ」



「膨れても、駄目ですからね。まぁ……楓さんがこのままここで駄々こねて、

 自販機のお酒すら買えずに眠りたいって言うんなら、話は変わってきますけど」



 プロデューサーが、この手のかかる駄々っ子のご機嫌を窺うように腕を組む。

 すると楓は渋々と……本当に、渋々といった様子でゆっくりその場から立ち上がった。



 そんな彼女の態度を見て、ほっと胸を撫で下ろすプロデューサー。

 けれどもまたすぐにその顔は、ぎょっとしたような困り顔へと変化することになる。



「四本です」



 楓が、困惑するプロデューサーに向けて、その細い指を四本立てた右手を突き出し言った。





「四本です。500の缶を、全部で四本」



「飲み過ぎですよ。せめて一本と半部で抑えましょう?」



「なら日付が変わる前と後の二日分ということで、二倍の三本」



「……どうしてそうなるんですか」



「じゃあ、二本と小さいの……350を一つ」



「駄目です、まだ多い」



「500を二本」



「明日の仕事に響きます」



「……なら、500を一本と小さいのを二本。これ以上は、譲れません」



 そうして右手を突き出したまま、再び楓が、その場にくしゃりとしゃがみ込む。



 ――……秋の夜長にじりじりと、虫の声を背景に行われた静かな睨み合いの末、先に折れたのはプロデューサーの方だった。



「……小さいのを、三本までなら」



「やった!」



 彼の立てた三本の指を見るなり、ぴょこんと勢いよく立ち上がり、

 今にも小躍りしそうな笑顔になって胸元で可愛らしく手を合わす楓の姿に、プロデューサーが大きく深くため息をつく。



 ……この人は本当に、これで二十五にもなる大人の女性なんだろうか?



「どうしましたー? 早く来ないと、置いてっちゃいますよー」



 プロデューサーがそんなことを考えていると、いつの間にか先を歩き始めていた楓が、くるりと振り返って彼の名前を呼んだ。



「あっ、ま、待ってください!」



 まるでスキップでもするような軽やかさで進む彼女の後を、慌てた様子で追いかける。

 全身に心地の良い夜風を感じながら、さわさわというススキの音と、虫の声に包まれて歩く二人。



 そんな風に二人が進んでいると、突然プロデューサーの前を行く楓がピタリその場に立ち止まり、

「ねぇ、プロデューサー?」と言ってゆっくりとした動作で振り返った。





「どうかしましたか、楓さん」



「あの、その、実は……あれ、なんですけれど」



 子供のような無邪気さを持ちながらも、常に落ち着いている彼女にしては珍しいその要領を得ない返答に、

 プロデューサーが「はて?」と小さく首を傾げる。





 そうして彼が目を凝らして見た道の先。

 困ったような、驚いたような、そしてなぜだか少し嬉しそうな楓の指さす先に、それはあった。



 二人の立つアスファルトで舗装された道路と、田んぼから続くあぜ道が交差する小さな十字路。



 少し開けた広場になっているその場所に、ぽつねんと立つ古びた街灯。

 そしてその下にはもう一つ、赤く、丸い提灯の明かり。



「屋台ですよ、プロデューサー」



「……ええ、屋台ですね」



「本当に、見間違いじゃなく屋台です」



「でも、そんな……まさか」



「……月光の下で飲む酒は、けっこういいぞ、プロデューサー」



 その二色の瞳を、まるで宝物を見つけた子供のようにきらめかせながら呟く楓とは反対に、

 プロデューサーは鳥肌が立つような寒気と、何とも言えない嫌な予感に襲われていた。



 二人が今いる道路の傍に、民家はただの一軒も見当たらない。

 ほんの少し前ならば(丁度、二人でタクシーを降りた辺りだ)、何軒かの住宅が道沿いに並んでいはしたが……。



 今、二人の周りにあるのは延々広がる田んぼの他に、道路脇に続くなだらかな斜面をうっそうと覆う雑木林だけ。

 そんなまるで人気の無い道に夜遅く、営業している一軒の屋台。……誰がどう見ても、怪しすぎる。





「あ、あの、あの、楓さん?」



「屋台を見つけて、やったーい」



「ええ、ええ、分かりましたから楓さん」



「田舎の酒と、いーなかに」



「か、か、かっ、楓さんってば!」





 思わず、大声で叫ぶように彼女の名前を呼んでしまった。



 そのプロデューサーの大声に、辺りがシンと静まり返った。

 あれだけ吹いていた風の音がピタリと止むと、ススキも、虫の鳴き声も、

 それまで耳に聞こえて来ていたあらゆる音が、完全にどこかへ消えてしまった。



 ――……しかし、それでも道の先にある広場には、未だ提灯の丸い明かりが灯ったままだ。

 その存在が、夢や現で無いと言うように。



「……怖いんですか、プロデューサー」



 腹の底から寒くなるような静寂の中で問いかけられて、プロデューサーが「怖いですよ」と、情けない顔で頷いた。



「怖いし、妙だし、怪しいし……何よりあんまりに突然すぎます。

 何だってこんな時間の、こんな場所に、屋台なんかが出てるんですか!」



「……田舎ならではの風習とか」



「そんな風習、俺は知りません!」



「でも、お客さんは入ってるみたいですよ?」



 そう言って、楓が再び屋台の方を指さして見せる。



 赤い提灯の下がった、どこにでもありそうな佇まいの屋台。

 その屋台を覆う戸板の向こう側には、確かに彼女の言う通り、数人分の人影が動いているのが確認できた。



「きっと近所の人が趣味でやってるとか、そういった隠れ家的なお店なんですよ」



「……だから大丈夫だって言うんですか?」



「そう考えれば、安心……しません?」



「全然!」



 プロデューサーが、大きくキッパリと首を振って否定する。



 すると楓も彼に負けじと数を数えるように左手の親指を折りたたみながら、

「……宿に戻るには、この道を通る必要があります」と静かな調子で切り出した。





「道の先には、怪しいけれど営業している屋台が一軒。

 どうやら私がお酒を飲みたいあまりに見ている、夢や幻でもなさそうです」



 右手の指を使って、今度は左手の人差し指を折りたたむ。



「このまま道を引き返し、回り道しようものなら今晩の晩酌はお預けです。で

 も、屋台を素通りして宿に戻っても、待っているのは缶のお酒と肴代わりのお菓子だけ」



 中指をゆっくりとたたみながら話す彼女の両目には、「絶対に飲む」という、強い決意が見て取れた。



 ……これが、困るのだ。

 普段は柔和な態度で人に合わせることもできるのに、こと自身の好きな物……

 特に、酒と温泉が話に絡むと、信じられない程の頑固さを発揮する彼女のこの一面が。





「……嫌ですよ、俺は」



「なら、プロデューサーはお先にどうぞ。私は、ちょこっとだけ覗いて帰りますから」



 意地悪そうな、からかうような楓の微笑み。



 断れないことを知っていて答えを求めるそのやり口は、

 本当に先ほど、道端にしゃがみ込んで駄々をこねていた女性と同じなのかという程の変わりようだった。





 こうなってしまっては、そもそも勝負にすらならない。

 

 ご機嫌を損ねて明日の仕事につかえるぐらいなら、

 ここは大人しく、彼女の言うことを聞き入れる方が賢明か……。



「……本当に、チラッと覗くだけですからね」



「ふふっ、勿論ですとも」



 プロデューサーの、腹は決まった。



 もしも怪しいお店だったなら、中に入らずにそそくさと立ち去ればいい。

 そうでなくても一杯二杯、早々に店を出ればそう問題にもならないだろう。



 ……なに、飲み足りないと駄々をこねられたなら、宿に戻って飲ませればいいのだ。



「それじゃあ、行きましょうか」



 そんな彼の葛藤を知ってか知らずか、ウキウキとした足取りで歩き出す楓の背中を目で追いながら、

 プロデューサーは今日何度目かになるため息をついたのだった。

===



 古びた街灯の黄色味がかった明かりの下、まるでスポットライトに照らし出されるように存在していたその屋台は、

 二人との距離が近づけば近づくほど、その外観をハッキリと確認すればするほどに、どんどんとその怪しい雰囲気を増していく。

 そんな風に、楓の後をついて歩くプロデューサーには思われた。





「やっぱり、妙ですよ」



 楓のすぐ後ろを早足で歩きながら、プロデューサーが小声で囁く。



「何が妙なんです?」



 歩くスピードを落とすことなく、楓が顔だけを彼の方に向けて聞く。



「今なら、まだ間に合います。やっぱりここは、寄り道せずに帰りましょう?」



 プロデューサーの弱気な提案に、楓が「意気地がないですね」と眉をしかめた。



「私時々、お仕事中の貴方とそうでない時の貴方、どちらが本当のプロデューサーか聞きたくなります」



「どっちも。ただ、勝手の違いに戸惑ってるんです」



「……それで、何が妙なんです?」



 まったくしょうがないですねといった様子で、楓がその場に立ち止まって体を向ける。

 するとプロデューサーは、まるで怪談話でもするようなトーンの声で話し出した。





「気づきません? 俺たちはこれだけ屋台に近づいてるのに、ぷんともすんとも、食べ物の匂いがして来ない」



「それは屋台を囲んでる、戸板とビニールシートのせいでしょう」



「まさか!」



 プロデューサーが、そんなわけあるはず無いと強く否定する。



「じゃああの写ってる人影は? 何人かいるようなのに、話し声すら聞こえない」



「それは皆、食事に夢中なんですよ。それこそ、お喋りする間も無いくらいに」



「だから食べ物の匂いはしないんですって」



「なら、お酒ですね。美味しいお酒は、飲むと言葉を盗んで行くものですから」



 しれっと答える楓に、今度はプロデューサーが眉をしかめる番だった。



 ……本当にこの人は、ああ言えばこう言う。



 彼女には、未知なる物に対する恐怖というものが無いのだろうか? 

 きっとこんな人が美味しいお酒が飲めるなら、怖さも忘れてお化けとだって平気でお酌を交わすんだ。





「それで、お話は終わりですか?」



「本当に……楓さんはどんな時でも平然としてますよね」



「そうでしょうか?」



「そうですよ。危ない目に遭うかもしれないとか、これっぽっちでも考えたりしないんですか」



 楓を説得することを今度こそ諦めたプロデューサーが、悪あがきにも似た皮肉を込めてそう言った。

 

 すると楓は、何を言ってるんですかと言わんばかりの顔でプロデューサーを見つめると、

「だって、貴方と一緒ですから」と答えたのだ。それもさも当然、当たり前だと言った調子で。





 これには、プロデューサーも驚いた。



 まさかそんな答えが返って来るとは思っていもいなかった彼は、目を白黒させて口ごもる。





「だって私はアイドルで、貴方はそのプロデューサー。

 担当が危ない目に遭いそうになった時には、当然庇ってくれるでしょう?」



「それは、まぁ」



「なら、心配なんてありません。言いましたよね? 

 私時々、お仕事中の貴方とそうでない時の貴方、どちらが本当か聞きたくなるって」



「……頼りにされてると、自惚れても良いんですかね」



「『いざという時には』、がつきますけれど」そう言って楓が、悪戯っぽく片目を閉じた。



 何だかんだと御託を並べても、プロデューサーだって一人の男。

 素直に喜べない条件付きでも、美人に頼られて悪い気はしない。



 ……そんな乗せられやすい自分にたいして、呆れたように苦笑する。



 結局そのまま、二人は屋台のすぐ近くまでやって来ると、

「まちぼうけですって」楓が、店先に提げられた赤提灯に太い毛筆で書かれた文字を読み上げる。





「俺たちが、うさぎにならなきゃいいですけど」



 不安を誤魔化すようにおどけて見せて、

 プロデューサーは屋台の前に作られた、戸板で出来た仕切りに手をかけた。

=・=



 カウンターの向こう側。老木のような顔をした、見た目の割に恰幅の良い老人が、

 やって来た二人を「いらっしゃい」と出迎えた。



 周りを戸板とシートで囲まれた屋台の中は外と比べて暖かく、

 中に入ったプロデューサーと楓の二人は、思わずほぅっと息をつく。





「好きんとこ、座ってェよ。椅子は一つっきゃあ無んけどねェ」



 耳に絡むような、独特のイントネーションで喋る老人が、そう言ってカウンターの前に置かれた長椅子を指でさす。



 すると、先客なのだろう。長椅子の上に敷かれた、くすんだ柿色の座布団に座っていた一人の少女が、

 プロデューサー達の方をチラリと一瞥し、「どーも」と声をかけてきた。



 脱色でもしているのか、壁に取り付けられた蛍光灯からの光を反射して銀色に輝くショートヘア。

 一緒にいる楓にも負けない程に色白の肌に、キリッと釣り目がちな目は、

 プロデューサーに狐や狼といった野生動物の鋭さを連想させた。



「お隣どーぞ、お二人さん」



「あ……どうも」



「お邪魔します」



 こんな時間、こんな場所に居るのが不自然に思える見た目の少女(大体、高校生ぐらいだろうか?)が、

 座っていた長椅子の真ん中から、足元に置いていた鞄ごと、長椅子の端っこへそのお尻を移動する。



 そうして空いた長椅子の上に、プロデューサーが真ん中、もう一方の端には楓が続いて腰を下ろした。





「……珍しいお店ですね」



 店内をぐるりと見回した楓が、不思議そうな顔で老人に聞く。「ここは、何のお店なんですか?」



「何ってアンタ、屋台よォ」



「あ、いえ……どんな屋台なのかを、聞きたくて」



「屋台は、屋台よォ。飲んだり食うたり、なぁ?」



 老人の答えに、楓がプロデューサーの方を見た。

 その顔にはデカデカとした大きな字で「困った」と書いてある。



 とはいえ、別に楓の質問の仕方が悪かったというわけではない。



 事実、プロデューサーも彼女と同じ疑問を抱いていたし、思わず尋ねてしまう程度には、この屋台の中は奇妙であった。



 店内の壁には古いカレンダーやポスターの類、それになにやら文字の描かれたお札なんかはあるものの、

 メニューやお品書きのような物は一切見当たらず、しかも肝心要、普通ならば料理だったり、

 調理用の器具だったりが置かれているはずのカウンターには、木彫りで作られたウサギの小さな置物が数匹分と、

 大小様々な甕(かめ)が並べられているだけだったのだから。



 それにもう一つ……プロデューサーにはこの屋台の奇妙さとは別に、気になっていることがある。



「あの、お客は俺たちだけなんですか? 外から見た時は、もう二、三人いたように見えたんですけど」



 プロデューサーが老人に、自分の感じている不安を悟られたりしないよう、極めて平静を装いながらそう聞いた。



「なんも、お客はそこん人だけよォ」



「そうだねー。あたし以外には、おにーさん達ぐらいかなー」



 老人の言葉に、プロデューサーの隣に座る少女が相槌をうつ。



「なになに? もしかして外から見たら、人が一杯いるように見えたわけ?」



「ま、まぁ」



「ふーん……おかしなことも、あるんだねー」



 そう言って何やら意味ありげに笑う少女の姿に、プロデューサーは心の中で、

「本当は君のことも、不思議でたまらないんだけど」と思わず呟く。



 ――……外から見た人影が単なる見間違いだったとして、すると今度は、

 相席した少女の存在が気になりだしてしまうのは、ある意味で詮索好きで臆病な人の性だと言える。



 不安な状況に置かれた人は、目につく限りの疑問にたいし、

 何らかの納得できる答えを求めるものだ。



 だからこの時のプロデューサーが、この身元不明な少女の正体を

 自分なりにハッキリとさせたいと思っても、なんら不思議なことではない。





 少女は濃い青色のダウンジャケットにショートパンツという恰好をしており、

 長椅子とカウンターの間に置かれた大きめのリュック、丈夫そうな作りのスニーカーから、

 プロデューサーは彼女のことをとりあえず、家出少女か何かと思うことにした。



 ……これなら、夜の屋台に若い少女が居る説明が(例え無理くりだったとしても)つく。



 そうすることで、自分の中に僅かに残る不安や恐怖にたいし、

 納得できるだけの答えを作り出したわけである。



「プロデューサー?」



 不意に声をかけられて、プロデューサーが我に返ったように楓の方を向いた。



「顔が、お仕事の時のソレになってます」



 プロデューサーを見る楓の視線は少し冷ややかで、呆れの気持ちが混じったものだった。

 ……どうやら自分がこの少女のことを、この場でスカウトでもするんじゃないかと思われたらしい。



「私達がここに来た理由は?」



「仕事終わりの一杯を、楽しむためです」



 まるで授業中に問題を解いた生徒を褒める先生のような調子で、

 プロデューサーの答えを聞いた楓が「よろしい」と一言、満足そうに小さく頷く。





 それから彼女は、そんな二人のやり取りを黙ってみていた老人の方に向き直ると、



「注文したいんですけど、メニューは何処に?」



 尋ねた楓に、老人が言う。



「ウチには、団子と酒しか置んてね。……なんたって、こかァ月見屋台だかんよォ」



「月見屋台?」



 楓が思わず聞き返すと、老人に代わって銀髪の少女が横から答えた。



「お月見専門の屋台だよ。出てくるのはお団子とお酒と、後はそれから、お椀に入った綺麗なお水」



 少女の説明を受け、今度はプロデューサーが身を乗り出すようにしながら老人に聞いた。



「酒と団子、だけですか」



「今日はヨモギ餅と白玉。そんから、特製のニンジン酒なァ」



 そう言って老人が、カウンターの下から一枚のお皿を取り出した。



 学校給食で使われてそうな丸いアルミ皿は真ん中で丁度仕切られていて、

 一方には串に刺さったみずみずしい白玉が、もう一方には、こぶし大の大きさのヨモギ餅が二つ載っている。





「これに蜜をかけて食んと、んめえのよォ」



 そうして今度は、老人がカウンターの上に置かれていた甕の蓋をとり、その中身を小さな杓子ですくって見せた。



 トロリ杓子から垂れ落ちる蜜を、興味津々と言った様子で見つめる楓。



「黒蜜ですか」



 少女が、楓の言葉にフフッと笑った。



「た、だーし。虫歯一直線の甘さだけどねー」



 プロデューサーがチラリと横目で少女を見れば、なるほど、

 彼女の前にはたった今老人が取り出したのと同じ団子の乗った皿が、

 食べかけの状態でちょこんと置かれているのが見える。



「だけんど、これがんめえのよォ」



 老人が、今度は両目を糸のように細めて言った。

=・=



「じゃあ、お団子を二人分」



「あんよ」



 楓が二本の指を立てて注文すると、老人がカウンターの下から追加でもう一枚、団子の乗った皿を取り出した。



 それを先に出していた団子と一緒に、プロデューサーと楓の前にそれぞれ差し出す。





「蜜んは?」



 老人が、甕に杓子を入れながら聞いた。



「甘いのは、大丈夫ですか?」



「別に、嫌いじゃありませんよ」



 楓に尋ねられて、プロデューサーが答える。



「んじゃ、蜜んねェ」と、老人が杓子にすくったトロリとした黒蜜を、

 二人の皿に並んだ白玉の串に満遍なくかけていく。



 丸い大きなアルミ皿の上に、黒蜜によって黒く染まった白玉の串が二本と、

 こちらは蜜をかけられなかった二個の大きなヨモギ餅が並ぶ。



「それでは」と楓が呟いて、四つの小さな白玉が刺さった串を、黒蜜で出来た水たまりの中から取り上げた。



「白玉団子……たまに里芋に似てるなって、思ったりしません? プロデューサー」



「今言うことですか、それ。……思いませんよ」



「ふふっ……ふと、気になったもので。だけどこれじゃ、白玉じゃなく黒玉ですね」



 楓の「いただきます」に合わせて、プロデューサーがぱくりと一口。

 楓も串焼きの魚を食べるようにして、白玉団子に齧りつく。



 そして二人同時に持っていた串から顔を遠ざけると……そのまま眉間を押さえ、痛みを堪えるように悶え始めた。





「な、なんです? この甘さ!?」



「ん、んんっ……!!」



「あんまりに、あ、甘過ぎて……噛めない!」



 口の中に入った白玉の想像以上の甘ったるさに、驚きの声を上げるプロデューサーと、

 悩ましい吐息を立てながら、困り顔でもぐもぐと必死に口を動かす楓。



 そんな二人の反応を満足そうに眺めて、老人が言う。



「な? んめェ」



「そこで隣の、ヨモギ餅だよ。ヨモギの渋さが、白玉の甘さに丁度いいんだ」



 ニヤニヤとした含み笑いで、銀髪の少女が言った。

 プロデューサーが、彼女に言われた通りにヨモギ餅へと手を伸ばす。



「あの、あのっ! 私には、何か飲み物を!」



「ニンジン酒しかねんよォ?」



「構いません!」



 そしてこちらも、口に含んだ分の白玉を何とか飲み込んだ楓が、老人に飲み物の注文をする。



 彼女は兎にも角にも一分一秒でも早く、この口の中に絡みつく

 歯が溶けてしまうんじゃないかという粘り強い甘みを、どうにか飲み込んでしまいたかったのだ。



「あい」



 カウンターの上に、徳利とお猪口がトンと置かれた。



 楓は受け取った徳利から酒を注ぎ、手にしたお猪口に勢いよく口付けると、

「ん、んっ!?」と小さく声を上げ、驚きにその目を丸くした。



 ニンジン酒の名前の通り、綺麗な朱色に染まったその酒は、

 口に含んだ瞬間、生のニンジンをそのまま齧ったかと錯覚するほどの強い風味を広げながら、

 楓の口の中に絡みついていた、黒蜜の甘さをサッパリと洗い流していった。



 そんな強烈な一口目の後に残るのは、ニンジン独特の癖のある、上品で控えめな甘さだけ。

 それでもさっきまで口の中で暴れていた黒蜜の甘さと比べ、まだ「甘い」と楽しめるだけマシである。



 ニンジン酒の二口目を口に含み、黒蜜の暴力的な甘味からようやくの思いで解放された楓が、

 カウンターの上に置かれていた木彫りのウサギの姿を視界に見つけ(本当に……ウサギになった気分だわ)と息をつく。





 そうして何とか落ち着いた楓の隣から、言葉に出来ない、声にならないような悲鳴が上がった。



 驚いた楓が慌てて振り向けば、隣に座るプロデューサーが、

 手にヨモギ餅を持ったまま固まっているではないか。



「ひゃんで……みふがぁ……」



 ふがふがと涙目になりながら口を動かすプロデューサーの姿が、

 入れ歯を失くしたお年寄りのイメージと被って見える。

 

 ……どうやら勧められて食べたヨモギ餅の中にも、例の黒蜜が入っていたらしい。



 プロデューサーの奥でお腹を抱え、必死に笑いを堪えている少女の姿が、

 このお茶目な悪戯の犯人が誰であるかを語っていた。

=・=



 ――……黒蜜騒ぎからしばらく経って。



 屋台の中には静かに酒を飲む楓と、眉間に深い皺を寄せ、

 ニンジン酒の入ったコップを片手に、出された団子を完食しようと悪戦苦闘するプロデューサー。



 そしてそんな彼の苦闘っぷりを見せ物のように楽しみながら、自分の団子をつつく銀髪の少女。



 店主でもある老人は小さな椅子に腰かけて、

 何処からか取り出した小さなお椀を、布きんを使って磨いている。





「それにしても、ビックリしました」



 楓が手にしたお猪口を眺めつつ、目の前に座る老人に言った。



「お団子の甘さもそうですけど、こんな……珍しいお酒があるなんて」



「ニンジン酒ね。ウチでしか、まず飲んめ」



 楓の言葉に老人が、得意そうに小さな鼻を「フフン」と鳴らす。



「私も色々とお酒は飲んで来たつもりでしたけど。こんな味は、初めてです」



「ニンジンをォ、丸かじりしてるよんな味。活きの良いニンジンじゃなきゃ、まず出んめ」



 そこに「ニンジンのお酒自体、珍しいですよね」と、口の中で白玉をもちゃもちゃやりながら、プロデューサーが加わった。





「初め名前を聞いた時にはよくあるあの、ほら、薬臭い感じかと思ったんですけど」



「野菜ジュースとも、違いますよね。癖のある独特の甘みだけ、飲みやすいように取り出したような」



「だかんら、ウチだけなのよォ。特製の、自家製」



 老人の口の端が「けんどもねェ」と、まるで三日月のようにニヤリと上がる。



「これも月見酒には、敵んめ」



「月見酒」



「んまいのよォ、月見酒はさァ」



 そうして老人が「んまいし、素敵なのよォ」と、カウンターの上に磨き終わったお椀を置いた。



 漆塗りの、上品なお椀が四つ。



 そこに老人が黒蜜の入っていた甕とは別の甕を傾けて、

 透き通った液体をトポトポと注ぎ込んでいく。





「飲んでみんかい? 月見酒」





 ――……改めて確かめられるまでもない。



 ニンジン酒なんて変わったお酒を出す屋台、その店主が勧める「素敵で、んめっ」な月見酒……

 一体全体どんな酒なのか、興味が湧かないハズが無い。





「勿論、いただきます」と笑顔で答えながら楓は差し出されたお椀を受け取ると、

 そのまま中に入った液体を口にしようとして、「ああ、違ん!」と老人に慌てて止められた。



「何が、違うんですか?」



 不思議そうに小首を傾げた楓に、老人が屋台の外を指さして言う。



「月見酒は、月を飲む。外で飲むお酒なのよォ」

=・=



 月が、出ていた。



 黄色く欠けの無い月は、先ほど見た時よりも、さらにその輝きを増しているかのようにも見えた。



「いい、月だんなァ」



 屋台から外に出た四人を、柔らかな光で月が照らし出す。



 老人の指示通り、液体によって並々と満たされたお椀を手に、

 楓たちはシンと冷たい、夜の空気の中に立っていた。





「こんな月の夜は……ん、良い月見ができんのよォ」



 老人が、手にしたお椀を見せて微笑む。白い息を吐きだしながら、楓が聞いた。



「それで……月見酒とは?」



「お椀に、月を浮かべんの。ウロウロっとして、丁度いい場所を探しなァ」



 楓からの問いかけに老人が、トンボを捕まえるように、指をクルクルと回して答える。



「どういうことですかね」



 プロデューサーが、楓の隣にやって来て囁いた。



 とはいえ、楓にもサッパリ分からないのだ。分からないことは、答えようもない。



 お椀を両手で持ったまま、どうしようかと辺りを見回すと、老人と少女の二人がウロウロと、

 お椀を持ったまま屋台の周りをあっちへ行ったりこっちへ来たりしているのが目に入る。



「場所って、言ってましたよね」



「ええ。それから、月を浮かべるとも」



 お椀の中で揺れる水面に、ゆらゆらと空の星たちが、

 まるで散りばめられた宝石のように揺れている。



 そっとお椀を動かせば、当然そこに映り込む星たちも、また違う星になって。





「水の上に、月を映せばいいんでしょうか?」



 揺れる水面を覗き込みながら呟いた楓の横顔を見ながら、プロデューサーが「できますかね?」と聞く。



「でも、二人はそのつもりみたいです」



 顔を上げた楓が、辺りを行きかう老人たちを目で追った。「多分、できるんじゃないでしょうか」



「多分って……」



「じゃあ、出来ます。あの二人がしてるんです……できそうな気が、しませんか?」



「星はともかく、小さなお椀に月なんて映りますか?」



「だから場所を、探すんでしょう? 丁度いい、その場所を」



 プロデューサーを見つめる楓の目は、今や好奇心でらんらんと輝いていた。



 いや……単に屋台で飲んでいた、酒の酔いが回ってきているだけかも知れない。



「……分かりました。そうしましょう」



 だがそれを指摘したところで、彼女は場所探しを止めたりなんてしないだろう。



 プロデューサーは仕方がないとため息をつき、月を映せる場所を探して、歩き出した楓の後に従った。



 それから、四人で屋台の周りをウロウロとすること十数分。

 いい加減に、夜風によってお椀を持つ手も冷えてきた頃だ。





「プロデューサー!」



 広場の隅、小さな用水路が流れている傍に立ち、こちらへ来いと楓が手招きをする。



「どうしました?」



 プロデューサーが、赤くなった鼻を啜りながら近づいて行くと、老人と少女もやって来た。



「ほら、見てください!」



 楓がそんな三人に向けて、宝物を見つけた子供のように無邪気な笑顔でお椀を差し出した。



「アンタァ、いーい月だよォ」



 老人の言葉に、プロデューサーも思わず頷いた。



 楓の白い指が支えるお椀の中には、まるで卵の黄身を浮かべたような、

 平たい団子を浮かべたような、ぷっくりと膨らむ月があった。



 ふと、プロデューサーが夜空を見上げる。



「ホント、いーい月だよ」



 少女がそんなプロデューサーを、可笑しそうに見つめて笑う。





 それは夢か現か幻か――……夜空にあるハズの月が、今は確かに楓の持つ、星空の海に浮いていた。



=・=



「ささ、グイッと飲んめェ」



 老人に勧められるままに、楓がお椀の中の液体を口に含む。



 一口、二口……楓の喉がこくこくと波打つ度に、彼女の瞼は惚けるように落ちていく。



 そしてみるみるお椀の中身を減らしていくと、

 最後にはグイッと一息、中に入っていた月を飲み込んだ。



 しばらくの静寂。口元からお椀を離した楓が、肩を上下させながら大きく一つ息をつく。



「んめくて素敵な、いーい酒だったろォ?」



 ニヤリと笑う老人に、楓が頬を紅潮させて小さく頷いた。



「とても……とても素敵な、味でした」



 そうして少し興奮しているのか、彼女はプロデューサーの方を振り向いて、

「プロデューサーも、是非どうぞ」と手招きをする。





「アンタも、こっちに立ちなァよ。月が空にあんうちは、月見はいくらでもできんねェ」



「いや、しかし……」



「ちょっとちょっと、おにーさん!」



 断るために上げた腕を、不意に少女にとられ、プロデューサーが狼狽える。



「月見屋台に来て、月見しないで帰るなんてさ。

 そんなの勿体ないよって。なんならあたしも、一緒に飲んであげよっか?」



 からかうように自分を見上げる少女の手を払いのけることもできずに、

 プロデューサーがズルズルと、彼女に引っ張られるようにして楓たちの待つ場所まで近づいて行く。



「グイッとな、グイッとよォ」



 そう言って老人が指さすプロデューサーの持つお椀の上には、

 いつの間にか楓の時と同じように、黄身のように丸い月が浮かんでいた。



「さぁ、さぁ、早く」



「グイッとなァ」



「ただ、飲むだけでいーんだからさ」



 プロデューサーの両手が、「待て待て、落ちつけ!」と警告する自分の意思とは反対に、

 ゆっくりと顔に近づくと、彼の唇もまるで引き寄せられるように、その並々とした水面に口付ける。





 ――……初めはキンキンに冷やされた何の混じりけも無い水を、口に含んだようだった。



 余りの冷たさに思わずプロデューサーは瞼を閉じて……再び目を開けた時には、彼は空に浮かぶ星の一つになっていた。



「え、えぇっ!?」



 思わず驚きの声を上げ、自分の周りを見渡して……彼は、ますます混乱することになる。



 ――自分は、夢を見てるのか? 



「は、ぁ……」



 プロデューサーの髪を、頬を、全身を、冷たく、心地の良い風が吹き抜けていく。



 自分が今、夜空の只中に浮かんでいるという事態を理解したのは、

 彼が自分の足元の遥か下にポツポツと広がる、明かりの粒……街の灯りを見たからだ。



 人の体が空に浮き、水月(くらげ)のように漂うなんて。



 そんなこと、現実的に考えてあり得ない……それは、誰だって知っているし、不可能だと頭でも理解はしている。



 けれども、実際の彼は空にいた。



 体はふわふわと、水に浮かぶよりも軽やかに、星の瞬く夜の空に浮いていたのだ。



「ビックリするのは分かるけど、あんまり慌てると、そのまま地面に落ちちゃうよー?」



 そんな風に、事態を飲み込めないでいるプロデューサーに向けて、聞き覚えのある声がする。



 見れば先ほどの銀髪少女がその手にお椀を持ったまま、

 何もない空中を歩くようにして、こちらにやって来るところだった。





「どう? おにーさん。初めての月見の感想は」



「つ、月見って……一体、どういうことだい!? 俺は、確か、お椀に入った水を飲んで……!」



「だから、お月見だって。ほらー、お椀をちゃんと持たないと」



 少女がプロデューサーの手を取ると、そのままお椀の中身をこぼさないよう、ギュッと握り直させた。



「中身を失くすと、帰れなくなるから。気をつけてよー」



 もはや、プロデューサーは言葉も出ない。



 ただ彼女が言うように、小さなお椀の中身をこぼさぬよう、

 痛いぐらいにしっかりと、両手で支えるだけである。



「凄いよね、不思議だよね。まさかこんなこと、あるなんて思わないよねー」



「き、君は、平気なの?」



「あたしは、今日二回目だから。慣れるとさ、面白いよー、これ」



 緊張と恐怖で、ガチガチに顔を固めるプロデューサーとは違い、少女はいたって自然体。

 笑いながらその場でクルクルと、舞うように回転して見せる。



「ホント、来てよかった。こーんな体験、普通ならできないでしょ?」



 星明りに照らされた、少女の笑顔がキラキラと輝く。



「あたし今、あっちこっちフラフラしててさ。

 その途中で、教えてもらったんだよね。何か凄い、お月見ができる場所があるって」



「そ、それが、あの屋台だった?」



「そっ!」





 少女がお椀の中身を一口飲み、「でもね、まさかまさかだよ」



「まさかお団子食べてるところに、駆け落ち中のカップルが来るなんて!」



「か、駆け落ちぃ!?」



 突拍子もない少女の台詞に、プロデューサーが素っ頓狂な声を上げた。



 余りに驚いたせいで、プロデューサーの体が、少女よりも一段下に落っこちる。

 すると彼女は、「違うの?」と目をぱちくりさせて。



「あんな時間に、ワケ有りそうな二人組が来るから。あたしてっきり……」



「ち、違う違う! 俺たちは本当に、仕事終わりの一杯を」



「それも周りを誤魔化す、演技だと思ってた。そっちの方が、会う人も不審に思わないじゃん」



 ケラケラと陽気に笑い出した少女に、プロデューサーが少し不機嫌そうに聞く。



「大体、どうしてその……駆け落ちだなんて思ったんだい?」



 すると少女が、また一口お椀に口をつけ、「勘だよー」と笑顔で答えた。



「こんな田舎の寂しい場所にスーツとか、周りから凄く浮いてるしさ。

 おにーさん甲斐性もなさそうなのに、連れてるおねーさんは美人なんだもん」



 少女に「甲斐性なし」と評されたプロデューサーが、悔しそうに「ぐぅ……!」と唸る。

 ……確かに彼は安月給。甲斐性があるかと聞かれれば、素直にうんとは頷けない。



「あら、図星ー?」



「ち、違うよっ! そりゃ、甲斐性が持てるならその方が良いに決まってるけど……だからって、駆け落ちは違う!」



 顔を赤くしながら、慌てて否定したプロデューサーの反応に、少女が一際高く笑って言った。



「じゃああたし、おにーさんに決ーめたっ!」





 そうして少女がグイッとお椀の中身を飲み干すと……そのまま彼女は、星空に溶けるようにして姿を消した。

 驚くプロデューサーのすぐ傍を、一筋の風が通り過ぎる。それを追うように振り向いた彼の視界を、巨大な月が埋めた。



『帰りたいなら、お椀を空にしないとねー』



 黄色い月が、欠けの無い満月が彼を見ていた。



 プロデューサーは震える手でお椀を口に近づけると、夢中でその中身を飲み干した……



 ぎゅっと、固く強く、両目の瞼を閉じたまま。

===



 ――……どれくらいの時間が、経ったのか。



 プロデューサーは自分の肩を揺すられて……ゆっくりとその目を開けた。



「ああ、良かった」



 目の前に、心配そうな表情の楓がいた。次に自分の頭が、何か硬い物の上にあるのが分かった。



 ガンガンと痛む、もやのかかった意識を無理やり叩き起こしながら、プロデューサーがカウンターの上から体を起こす。



「もう、私に気をつけろと言っておいて……自分の方が先に、酔いつぶれちゃうんですから」



 困ったものですといった顔をして、楓がカウンターの上にあったおしぼりと、水の入ったコップを差し出す。



「あ、ああ……すみません」



 だが次の瞬間、彼女からおしぼりを受け取りながら、プロデューサーは言葉を失った。





「どうかしましたか? お客さん」



 プロデューサーの目の前に立つ、店主が不思議そうな顔で彼を見る。



「あ、あの……」



 口ごもりながらキョロキョロと周りを見回して、プロデューサーはごくりと唾を飲みこんだ。



 ――……ここは……ここは、何処だ?



 目の前に立つ、せいぜい四十か五十の男は誰だ? カウンターの上に並んだ、このおでんの什器は一体どこから現れた? 

 あの少女は? 老人は? ニンジン酒は、甘ったるい黒蜜は、あの月見酒は一体何処に……。



「……プロデューサー、大丈夫ですか?」



 呆然とする彼の顔を覗き込んだ楓が、再び心配そうに聞いてきた。



「あ、あの、楓さん? 俺たち、さっきまで屋台の外に……」



「外?」



「え、ええ。月見酒を、飲んでましたよね?」



 プロデューサーの言葉に、楓がキョトンとした顔で言う。「いいえ。私たちはずっとココで……お酒は、飲んでいましたけれど」



 楓がそう言って、ビールの入ったグラスを見せる。





「寝ている間に、夢でも見ていらしたんですか?」



 可笑しそうに微笑む楓に、プロデューサーはただ、黙って頷くしかなかった。



「そろそろ……帰りましょう」



 ようやくの思いでそれだけ言うと、会計を済ませて屋台から外へ出る。



「気持ちのいい、夜風ですね」



 楓が、風に流れる髪を押さえながら言う。



「……ですね」



 曖昧に答えたプロデューサーの見上げた夜空には、白い月が浮かんでいた。



 丸く欠けの無い、それは見事な満月だった。

===



 次の日の朝早く。



 民宿の前にやって来たタクシーに荷物を詰め込むと、

 楓とプロデューサーは駅に向かうタクシーに乗り込み、二人仲良く田舎道を走る振動に揺られていた。



 助手席に座り、窓の外を流れる田舎の景色をぼんやりと眺めながら、

 プロデューサーが昨夜の不思議な出来事について――あの妙な喋り方をする老人や、

 辟易する甘さの団子に、奇妙な少女との出会い――あれは、本当に夢だったのか? 



 酒に酔った自分が見た、幻のような物だったのか……そんな風に、思いにふけっている時だった。





「きゃあ!」



 後ろに座る楓が、驚いて声を上げる。プロデューサーの体が、つんのめるように前に出る。

「危ないじゃねぇか!」と、タクシーの運転手が声を荒げた。



「な、なにが……」



 何が起きたのか? 目の前のダッシュボードに持たれるようにしながら顔を上げたプロデューサーの目に、

 澄ました顔でタクシーの前に立つ、一人の少女の姿が飛び込んできた。



 それは、昨夜出会った銀髪の少女。



 服装も持ち物も、何一つ記憶と変わらない少女は、そのままテクテクとプロデューサーの座る助手席の傍まで移動すると、

 コンコンとタクシーの窓を叩いた。……どうやら、窓を開けて欲しいらしい。



「知り合いかい?」



 運転手から不機嫌そうに尋ねられ、プロデューサーが「はい、まぁ」と返事する。



「えへへ……ごめんねおにーさん」



 窓を開けると、少女は屈託のない笑顔で言った。



「ここで待ってたら、会えると思ってさ。昨日は、何も言わずに別れちゃったから」



「別れたって……でも、君は……」



「言ったでしょ? あたし、おにーさんに決めたって」





 プロデューサーと少女のやり取りを後部座席で聞いていた楓が、「あの、どなたなんですか?」とプロデューサーに聞く。



「私の知らない間に、声をかけた方?」



「いえ、実は……」



「そうだよー。おにーさんについて来ないかって、誘われちゃった!」



「……プロデューサー?」



「そ、そんなこと一言も言ってない!」



「えー? 甲斐性が欲しいって、言ったじゃーん」



 やいやいと賑やかに騒ぎ始めた三人に向かって、タクシーの運転手が大声で吠える。



「その嬢ちゃんを乗せるのか、乗せないのか! どっちなんだ、お客さん!!」



 運転手に、言われるまでもない……始発の時間は、すぐそこまで迫っているのだ。

 ここで彼女との押し問答に割くことのできる時間なんて無い。



 イライラした顔の運転手に睨まれながら、プロデューサーが慌てたように少女に言った。



「と、とにかく……その話は後でしよう。楓さん、この子、一緒に乗せても構いませんよね?」



「私には、話がサッパリなんですが……プロデューサーがスカウトをしていたということで、いいんですか?」



「とりあえず今は、それでいいです! ……ほら君も、乗るなら乗って」



「はいはーい!」



 少女がタクシーに乗り込むと、運転手は田舎の一本道を軽快に飛ばし始めた。



 ……まずはタクシーが駅についてから。

 少女のことをどうするか考えるのは、それからでも遅くはない。





「周子ちゃんて、言うんですか」



「うん。この辺をフラフラさ、旅してる時におにーさんと会って」



「まぁ、旅を」



「そう、旅を。バックパッカー? 自分探しの旅ってやつー?」



 プロデューサーと楓、そして周子と名乗った少女を乗せたタクシーが、ススキの生える秋の道を走り抜けていく。





 ――……この出会いの数日後、プロデューサーの担当するアイドルに

 一人のお気楽娘が加わることになるが……それはまた、別のお話。



17:30│高垣楓 
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