2016年12月20日

森久保乃々「ただののの」

前へ。



 ほんの少しの、些細で小さな、けれど確かな一歩を踏み出して前へ。



 それまで居た場所から前へと出た。





 自分の意思で。望み、欲して、自分で願ったそのように。



 前へ。



 これまでよりも前へ。これまでよりも先へ。これまでよりも、傍へ。



 踏み出した。出て、至った。



 そうして至ったこの場所。この、ここの、こうして辿り着いたこの今を感じ始めてから数分。



 たったの数分。机の下の聖域に居れば一瞬。レッスンに追われていればいつの間にか。眠りへ落ちる前の妄想を描いていればわずか。そんな、ほんの数分の時。



 たった、ほんの、それだけ。



 でも、それでもそれなのに、そんな数分が何十分にも何時間にも感じられた。



 長く永い、まるで永遠のように。



 感じられた。感じられて、感じられる。



 永く遠く果てのない、最期の終わりの予兆さえ訪れ迫ってこないような、途方もない時。



 あまりにも大きく深すぎて不安にすらなってしまいそうな――けれど、それでいて嫌ではない時間。



 嫌ではなくて。どころか、祈りを込めて一途に手を伸ばしてしまいたくなるような。



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 永遠に感じられるまま、永遠になってしまってさえ構わない。



 この時が永遠になるなら。それならもう、他のどんな時間が来なくてもいい。



 他のどんな時間も。もしかしたら得られるのかもしれない楽しい空間も、喜びに満ちた世界も、この今とは違う他の幸せのすべても。



 自分の感じられるすべてが、ただこの一時だけになってしまったって構わない。永遠にこの時が流れて、永遠にこの時で停まってしまっても、いい。



 良くて、そして、叶うのならそれを願ってしまいたい。



 成ってほしい。実ってほしい。叶ってほしい。



 それほど。そんなふうになって、本当に心から本気でまっすぐ思えてしまうような、そんな幸せな時間。



 身体が熱く火照るような、心が温かく染められていくような。



 身体が激しく高鳴るような、心がときめく感情に尽くされるような。



 身体が甘い痺れに震えるような、心が恍惚とした想いに塗り染め尽くされるような。



 そんな時間。



 そんな、幸せな時間。



 溢れるほどに満ちて、零れて止まらないほど満ち満ちて。



 どうしようもないほど強く深く、どうにもならないほど濃密な、これ以上なんてありえないほどの量に包み抱かれて。



 心も身体も。自分という存在、そのすべてがそうしてただひたすらな幸せに塗られて。もういっそ押し潰されてしまいそうなほど、どこまでも、濡らされて。



 そんな時間。



 そんな幸せで幸せな、幸せの時間。

 その中へ。前へ進んで、そして至って手に入れたこの時間の中へ浸りながら想う。



 隣に居る人のこと。



 これほどの幸せを生み、これだけの幸せを感じさせ、これほどこれだけの幸せへ自分を溺れさせる人のこと。



 それを想う。思い描いて、想いを尽くす。



 ちらりと横目で。



 顔は少し俯かせたままそこへ向かせることはせず、視線を流して瞳だけを向け注ぎ、覗き見るようにして視界へ収める。



 その人のこと。



 毎朝、眠りから覚めたまず初めに思い描くその人のこと。



 毎晩、眠りへと落ちるその最後に夢へ願うその人のこと。



 その人のことを見て、想う。



 感じながら。



 熱くなる。心の底から広がってくる火照りに顔が赤く、熱くなる。



 高鳴る。鼓動が、気持ちが、想いが。とくんとくん、早まり昇って高鳴る。



 もう熱く高鳴っていたのに。それなのに、それまでを越えて、それまでのどんなそれよりも熱く、高く。



 そうなるのを、狂おしいほどの幸せに文字通り狂わされていくのを感じながら。



 想う。

 好ましい想いを湧かせて。



 恋しく慕う想いを紡ぎ重ねて。



 愛おしいあらん限りすべての想いを溢れさせ尽くして。



 そうして想う。



 大好きな人のこと。



 愛おしい人のこと。



 大好きで愛おしいその人の――自分の、唯一人の、プロデューサーのこと。

「――なぁ乃々」



「……なんですか」



「いや、なんかさっきからこっちを窺ってるようだったからさ。何か言いたいことでもあるのかなぁ、と」



「べつに見たりとかしてないですし……そんな、言いたいこととかも無いんですけど……」



「そう?」



「そうなんですけど……」



「そっか。こう、今日は珍しくこっちに座ってきたりもしたから何かあるのかと思ってたんだけど」



「何もありませんし……。というか、それはあれですか。もりくぼはここに相応しくない後部座席がお似合いのだめくぼだっていうことですか……もりくぼいぢめですか……?」



「ダメじゃないし虐めてもないしむしろ歓迎なんだけどさ。なんだか珍しいなーって」



「ただ、なんとなく……たまたまで、意味なんてないですし……」



「んー。まぁ、乃々がそう言うならいいんだけど。――ただ」



「……ただ、なんですか……やっぱりもりくぼはだめくぼだって、そういうことなんですか……」



「そうじゃないよ。――ただ、最近ちょっと心配……とは違うんだけど、なんていうのかな、こう、気になっててさ」



「……何がですか」



「挙げるといろいろあるんだけどさ。例えば――この前、営業から事務所に帰ってきたときとか」



「……べつに何も、いつもと違うようなことはなかったと思うんですけど……」



「違うというかなんというか。帰ってきて部屋に入ったら、乃々が机の下にいてさ」



「いつものことなんですけど……あの場所はもりくぼの聖域なんですけど……」



「や、あそこに居るのはいいんだけどね。あれ、あの時はそこに居ながらほら、寝てたでしょ?」



「……」



「寝てたでしょ?」



「……寝てましたけど」



「僕の椅子を枕にして」



「……あれはプロデューサーさんの椅子なんかじゃありませんし……。もりくぼの枕ですし……」

「あの椅子を取られちゃうと困るんだけどなー。仕事できないし、というか事務所の備品だし」



「そんなの知らないんですけど……あれはもう、他の誰でもないもりくぼのものなんですけど……」



「あれの何が乃々にそこまで気に入られたのか……。頬擦りまでしてたしね。全然放してもくれなかったし」



「自分の所有物が不当に奪われようとしたら……それは、断固拒否するのが当然だと思うんですけど……」



「その所有権自体がまず不当というか」



「……なんですか、もりくぼ否定ですか……? もりくぼなんて消えてしまえばいいって、そういうことですか……?」



「そんなこと言ってないでしょ」



「いいんです……もりくぼはただの女の子に戻るんです……ただのもりくぼ。……いえ、ただのののになるんです……」



「む、それも最近多いなぁ。アイドルやめたいーって」



「元々もりくぼにアイドルなんて向いてないですし……。ひっそり、静かに、普通の家庭の中にいられれば、それで……それが、良いんですけど……」



「この頃は皆とも打ち解けてきて、アイドルでいることも楽しめてきたのかなーなんて思ってたんだけどなぁ」



「それは、そんな……全部が駄目なわけじゃ、ありませんけど……」

「やっぱり、もう嫌?」



「……嫌とかでも、ないんですけど……。苦手で、でも……嫌なだけじゃ、ないですし……」



「そっか。でも、それならどうして? 最近、アイドルやめたいーってそういう感じのことを言うの、また増えてきたけど」



「……べつに、アイドルをやめたいなんて言ってませんけど……。もりくぼは、ただの女の子になりたいって、そう言ってるだけなんですけど……」



「……? それは同じなのでは?」



「全然違いますし。……プロデューサーさんは少し、鈍感が過ぎるんですけど……それは全部気付かれても、それはそれで困りますけど……」



「なんだろう。僕が悪いのかなこれは」



「その通りなんですけど……」 



「そっか、それじゃあごめんな。……まあでも」



「……?」



「それなら乃々はアイドルに嫌気が差したり、やめようとしてたり、そういうわけじゃないんだね」



「それは、はい……。……やめたりだとか、そんなことしたら……アイドルじゃないもりくぼじゃ……もう、ここにも居られなくなっちゃいますし……やめたりなんて、しませんけど……」



「そっかそっか。……ん、それなら僕ももっと頑張らないとなぁ。もっと嬉しくもっと面白く、もっと楽しくアイドルをやってもらえるように。乃々には責任あるしね」



「責任、ですか……?」



「そ、責任。乃々をアイドルとしてプロデュースしてるのは僕だから。乃々のプロデューサーとして、乃々に対してはちゃんと責任持たないとさ」



「……責任。……プロデューサーさんは、もりくぼのこと……ちゃんと責任取ってくれるん、ですか……?」



「それはもちろん。取らせてもらうよ、誠意を持って」



「……そう。……そう、ですか……」



「まあ、僕にそんなこと言われても乃々からしたら不安かもしれないけどさ」

「そんなことはありませんけど……でも、そう。……プロデューサーさん」



「ん?」



「もりくぼがアイドルで……アイドルになって、いろいろを知ることになって……それで……アイドルをやめられなくなってしまったのは、アイドルを……この場所を離れられなくなってしまったのは、それは……プロデューサーさんの責任、ですから……だから……」



「うん」



「だから……ちゃんと責任、取ってください……。もりくぼが、ただの女の子に戻るときまで……そして、それから……ただのもりくぼ……ただの女の子になった、ただの……のののことまで……ちゃんと……」



「大丈夫、ちゃんと責任取るよ。ちゃんと乃々をシンデレラにしてみせる。それに、引退してからも当然ね」



「……ほ、ほんとう、ですか……?」



「本当だって。乃々をシンデレラに、っていうのが今の僕の夢だし。引退してからも乃々には輝ける活躍の場を提供できるからね。どうせ僕はその先でもプロデューサーなんだろうし、後輩たちの指導とか、そういうのに呼んだりさ」



「……はぁ」



「ん、何、どうかした?」



「べつに、なんでもないんですけど……プロデューサーさんがそういう人だって……そういうのは、分かってましたし……」



「んー?」



「……いいです。……今はそれで、それでも……いいんです……。今は、まだ……」



「乃々?」



「……プロデューサーさん」



「うん?」



「いつか……いつか、プロデューサーさんには責任、取ってもらいますから……。もりくぼから森久保を奪って……それで……もりくぼを、ただの……乃々に、してもらいますから……」



17:30│森久保乃々 
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