2017年01月27日

鷺沢文香「蝶」


モバマスのSSです

地の文多めです

講談社文庫 北村薫著『紙魚家崩壊』内の『蝶』を参考にしています

《》で囲われた文は『蝶』からの引用になります





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 エレベーターから降り、エントランスにある喫茶店へと向かう。夕食の時間を軽く過ぎているとあって、並んだテーブルに座っている客はまばらだ。

 その中に目的の相手を見つけ、近づいていく。革のブックカバーのついている文庫を読んでいる彼女は、集中しているのか、すぐそばまで寄っても気づく気配がない。



「悪い、遅くなった」



 そう言うと、ようやく鷺沢文香が文庫から顔を上げた。

 こちらを見上げたものの、長い前髪が彼女の目を隠してしまっている。細い指先で前髪をすっと避けると、文香はようやくおれを認識したようだった。



「プロデューサーさん」



 栞を挟み、文香は文庫を閉じる。机には空になったティーカップが置かれていた。

 脚本家との意見交換は、やはり思った以上に時間がかかっていたらしい。



「気になさらなくて大丈夫です」



 ちらりと文香が文庫に目を落とす。建前ではなく、本音だろうなと思えるところがありがたかった。



「区切りのいいところまで読んでいくか?」



 今日はドラマの撮影ということもあって、社用車できている。電車の時間を気にする必要はない。明日も同じように撮影があるが、今日はこの先の予定がないため、それほど時間に焦らなくてもよかった。



「いえ……。ちょうど読み終わったところです」



 本に栞を挟んでいたようだったが、文香がそう言うのなら追求するのも野暮だろう。

 おれは伝票を持って支払いを済ませる。お釣りと一緒に領収書を受け取り、文香と一緒に地下の駐車場へと降りる。



 文香と一緒に撮影現場となるこのビルに訪れたときは、まだ営業中だったためか、駐車場はほとんど一杯で、エレベーターから遠いところに停めるしかなかった。

 地下ということもあるのか、おれたちの靴音が長く反響する。



「先生は文香のことを褒めてたぞ」



 脚本家の先生との話し合いは、主に文香が作品の雰囲気に沿った演技をしているかどうかということだ。

 現場でも適宜修正されるが、監督や演出家から出される注文はその場の細かいことだ。物語の生みの親とも言える脚本家のイメージを把握しておかなければ、ちぐはぐな演技になってしまう。



「文香はイメージ通りらしい。今日の感じでこれからも頼む」



 いま文香が撮影しているドラマの脚本家は、ここ数年で名を上げてきた若手作家だ。

 ここで文香を売り込むことができれば、すぐにとは言わないが近い将来また仕事を貰えるかもしれない。



 サブキャストが空いているということで、会社から半ば無理矢理文香をねじ込まされたときはどうなることかと思ったが、ドラマの撮影という大仕事に文香が物怖じせずにいてくれることは嬉しい誤算だった。

 オーディションの前やクランクインするまでは緊張していたようだったが、カメラが回って演技をしている文香におどおどした様子は感じなかった。

 撮影も何回目かになってくると、だいぶ文香も肩の力が抜けてきているようだった。



「上手くやれていたのなら、よかったです」

「最初はどうなることかと思ったけどな」



 車の前に着き、上着のポケットからキーを取り出して解錠する。後部座席に文香を乗せ、運転席に乗り込んだ。シートベルトを締め、エンジンをかける。文香もシートベルトを締めたことを確認し、ゆっくりと車を出した。



「最初は私も不安でした……」

「その割には初日から堂々としていたんじゃないか」



 ゆっくりと駐車場を順路に沿って進み、地上への坂道を上っていく。出口のバーの前で車を停めた。

 駐車券はあらかじめ処理してもらっているので、差し込んだだけでバーが開く。



「何かを演じるのは、思ったよりも苦手ではないのかもしれません」



 意外だな、と思ったが口にはしない。ウインカーを出し、駐車場の出口から出る前に一時停止する。前を一台のタクシーが走っていった。左右を確認し、車道に出る。夜も遅いとはいえ、都内だから車通りはまだそれなりにある。



「書物を読むとき、私は空想の世界にいるのです。そのときの私は、その世界の登場人物に共感し、成りきるのですから、それもまた演じる、ということではないでしょうか」



 なるほどな、と思う。そういう考え方をすれば、本を読むのも、役者として演技するのも同じということか。頭の中で行うか、身体を使って行うかという違いはあるだろうが。

 文香は経験のないことには自信がないようで抵抗を示すが、経験したことのあるものについては、すんなりやれてしまえるところもある。

 この場合はもともと文香にはそういう素養があったということなのだろうが。



「それに……台本があり、あらかじめ決められた動きをするので、バラエティ番組の収録よりは向いている……と思います」



 と、文香は声を小さくして言った。文香はデビューしてからいくつかのバラエティ番組に出ているが、やはりアドリブを振られるのが苦手なようだった。

 最初は台本にないことを振られると、考え込んでしまったりしてNGを出してしまっていた。最近は少し考えるだけで済んでいるが、少しピントの外れた受け答えが多い。番組ではそういう姿が求められてはいるのだが。



「おっと」



 急に前のタクシーがスピードを落とした。こちらもそれに合わせてブレーキを踏む。停車したタクシーはそれに遅れてハザードを点灯させ、開いた扉からお客が降りてきた。



「大丈夫か?」

「はい。少し驚きましたが……」



 急ブレーキとまではいかないが、いつもよりも強くブレーキを踏んでいた。

 アイドルというのは身体が資本だ。バックミラーに映る文香はなんともないようで安心した。

 ウインカーを出し、車の流れが途切れるのを待ってから右の車線に移る。交差点の先に同じように停車しているタクシーの姿があったので、そのまま右車線を進んだ。



 信号のある交差点を四つほど過ぎた先で、信号に捕まった。車を追い越してきたスクーターが隣に並ぶ。

 静かだなと思ってバックミラーを見ると、文香と目が合った。ささっと目を逸らされてしまう。



「さっきは何の本を読んでいたんだ?」



 手持ち無沙汰なのだろうかと思い、話しかける。本を読まないのは、車酔いしてしまうからだろう。



「北村薫の『紙魚家崩壊』です」

「ああ、あれか」



 以前、本屋に寄った際に見かけて、文香に買っていったタイトルだった。

 おれは本をほとんど読まないが、文香の記事の載った雑誌は定期的に買っている。本屋でどのように並べられているか、あるいは実物を見てどんな印象を受けるのか。それを確かめる目的で購入している。役に立っているかはわからないが、今後のプロデュースの参考になればと思っていた。



 そんなときに、たまたま本屋で、紙魚、という言葉を見かけたのだ。

 紙魚というのは本を食べると言われている昆虫のことだ。以前、文香が自分のことを紙魚のような存在だと言っていたのが心に残っていた。

 文香の口から、しみ、と出てきたとき、おれはどういう字を書くのかすら知らなかった。折り紙のかみ、川を泳ぐさかな、紙に魚と書いて紙魚。文香はそう説明してくれた。それは頭の中に入っていたのだが、本屋で実際に目にするまではピンぼけしたうっすらとしたイメージでしかなかった。

 何気なしに見ていた棚に並んだ本の背表紙の中に、紙魚、という言葉を見つけ、ようやく文香の説明が実像を結んだ。これが紙魚か、と感動した気持ちのままレジに持っていったのだ。

 後日、文香に渡した瞬間に、持っているかもしれないぞ、と慌てたがとりこし苦労だった。快く受け取ってくれてほっとしたものだ。

 そのあと、紙魚という言葉を調べてみて、渡したことを少しばかり後悔したのだが。



 信号が青になる。スクーターがフライング気味に交差点を直進していく。こちらもあとに続いた。



「スケジュール減らそうか?」

「え?」

「その本、渡したのは数ヶ月前だろ? 本を読む余裕くらいは必要だろうから」



 人から受け取った本を文香が数ヶ月も読まずに置いておくとは思えなかった。ちょっとした時間の合間を埋めるように本を読む文香なら、数日のうちには読んでしまうのではないだろうか。

 好みに合わなかった本を、数ヶ月かけてちょっとずつ読んでいる、となると申し訳ない気持ちになる。もしくは、おれから受け取った本なら後回しにしようと思われた可能性もあるが、おれのことを快く思っていなかったとしても、文香はそういうタイプの人間ではないだろう。

 バックミラーに映る文香が、首をふるふると振った。



「いえ、読書の時間は充分です。あれはもう一度読んでいるだけです」

「それならいいんだけど」



 杞憂だったようだが、文香はスケジュールのことに関して口は出しにくいタイプだろう。レッスンで体力はついてきたものの、これまではずっとインドアの生活をしてきたのだ。スケジュール管理にはもう少し気を配った方がいいだろう。



「渡してから気づいたけど、あまりよくなかったんじゃないかと思ってたんだ」

「どうしてですか?」

「おれは知らなかったけど、紙魚っていうのは虫のことだろ」



 見た目もよろしくない害虫だ。それはもちろん文香も知っていただろうが、紙魚という言葉は比喩として使ったのだろう。あるいは自虐的な面もあったのかもしれない。



「女の子が自分のことを紙魚だなんて言うものじゃないと思ったんだ」

「そういうものですか?」

「比喩だっていうのはわかってるけど、できたら外では言わない方がいい」



 こういうのはイメージの問題だ。文香がカメラの前で自身を紙魚だと喩えて、それを見たファンが紙魚という言葉を調べたときに、出て来るのが害虫ではアイドルとしてはマイナスだろう。



「プロデューサーさんがそう仰るのなら、そうします」



 文香はあっさりと頷いた。あまり深く言葉を監視すると窮屈だろうとは思うが、今時、どんな一言が原因でイメージが落ちるかわからない。文香ならそんなことはないと思うが、不用意な一言を発したばかりに世間からバッシングを受けることもある。



「ですが、この本はとても面白いです」

「それはよかった」



 本を読まない門外漢の選んだものだ。好みに合うかどうか心配だった。



「表題作の『紙魚家崩壊』も面白いのですが、私は『蝶』がとても面白いと感じました」

「へえ……」



 文香が読んだ本について感想を話すというのは珍しいなと思った。

 本を読んでいる姿はいつも見ているが、記憶を辿ってみても、文香が感想を話しているシーンが出てこない。



「私は、読んだ本の感想を言葉にするのが苦手です」

「それであまり聞かないんだな」

「感動はします。さきほども言いましたが、物語の主人公に自分を重ねて、喜んだり、悲しんだり、楽しんだりします。ですが、それを誰かに伝えようと言葉にするのは苦手なのです」



 なるほどな、と思う。文香の知名度がもう少し上がれば、読書家という点を押し出していこうかと思ったが、少し考える必要がありそうだ。



「文字にするのはどうなんだ?」

「……それなら、少しは。読書感想文は書き過ぎだと怒られたことがあります」



 書評ということならやれそうだな、と考えを巡らす。

 帯に一言くらいだったら気軽にやってくれるだろうか。あるいは大手書店がやっている企画に文香も絡ませられないだろうか。

 色々な売り出し方を考えているおれを、文香の一言が現実に戻す。



「人から本を勧められるのは、実は苦手で……」

「そうなのか?」

「感想を訊ねられますから」



 文香の言葉に納得する。自分の勧めた本が、どう受け取ってもらえたかは知りたくなるものだろう。



「ですので、本の感想を誰かに言うのは滅多にしません」

「そんなに気に入ってもらえたならよかった」



 進んでいた車線がそのまま右折専用車線になる。信号は青だったので交差点に侵入し、対向車がいなくなるのを待つ。対向車と対向車の間隔が空くが、矢印信号も出ることだし、安全運転でいくことにした。



「『蝶』は二人の男女が食事をするだけの十ページ程度の短いお話なのですが、とてもよくできていて……」



 信号が赤になり、矢印が点灯する。安全の確認をしてから右折する。陸橋の脇道に入り、止まれの標識の前で一時停止してから本線へと合流する。



「女性はもともと別の男性と食事をする約束をしていたのです。女性の友人、こちらも女性なのですが、その三人で食事をしようとしていたのです。今で言うなら合コン……ということになるのでしょうか。お見合い、にも近い気はしますが……」

「昔の話なんだ」

「九〇年に書かれた物語ということなので、もうだいぶ前のことですね」



 確かに文香にとって、その頃の話は、昔、と形容するに相応しいだろう。その頃の大人がどんな生活をしていたのか、と聞かれればおれも答えられないくらいには昔だ。



「段取りをしてくれた女性が急病で来られなくなるのですね。こちらはもともと食事の前に退散するつもりだったそうなのですが」

「後は若いお二人で、ってことか」



 お見合いに近いと言っていたのもわかる。



「それだけでなく、相手の男性も急病になってしまいます。代わりに段取りをした女性が別の相手を用意するのですね」

「なるほど」



 不意の偶然で出会った男女というのはそれだけでドラマだ。



「それで……あ、プロデューサーさんは読んだことがありますか?」

「いや、読んでないな」



 中身も知らない本を人に渡すのもどうかと思うが、なにぶん小説なんて国語の教科書くらいでしか読んだことがない。



「では、プロデューサーさんは物語の核心を話してしまっても大丈夫な人ですか?」

「たぶん、読まないだろうから全部話してくれて大丈夫」

「そうですか。――よかった」



 文香は物語に入り込むタイプの人間だと言っていたが、そういう場合は物語の内容は知らない方がいいのだろうか。おれとしては読んでいようが読んでなかろうがどちらにしても関係のないことだった。文香が話したいと言っているのだから、話の腰を折ることもないだろう。



「結論から言うと、この二人には何も起こらないのです。代わりに来た男性は、段取りをした女性とお付き合いしているのです」

「それじゃあ話が進まないんじゃないか」

「そうですね。だから、二人の間には何もないのです」



 浮気した二人と、段取りした女性の間で修羅場になる話を思い浮かべたが、やはり素人考えだ。安っぽい深夜ドラマにもなりそうにない。



「でも、何事もないからといって、心の中までは別ですよね。女性の方は、最初、二人の関係に気がついていなかった」

「好きになったわけだ」

「端的に言えばそうですね。……女性はこの食事に不安を覚えていたのですね。《不自然みたいな気がして》いたのです」

「不自然?」

「はい。女性の考えとしては《作為なしに巡り合う人でないと、本当の相手じゃない》と思っているのですね」

「セッティングされた相手は本当の相手じゃない、と」

「そうですね。これがこの作品の肝なのですが、言葉の向こうにある心情を想像してあげないといけないのです」



「言葉の向こう?」



 小説の読み方に関してはからっきしだ。作者の考えを、ということだろうか。



「その……つまり、反語といいますか……」



 反語ならわかる。先ほど文香が話していた内容を反芻する。これを逆にすればいいのだろう。《作為なしに巡り合う人でないと、本当の相手じゃない》だから……。



「偶然出会えたあなたは本当の相手、ってことか」

「はい。そういうことです」



 そんなことを実際にやられても気が付かないだろう。おれは相手の男性に少しばかり同情した。



「これが物語を構成する根幹にあるのです」

「だから何事も起こらないのか。切ない話だ」

「はい。花粉症の話を切り出して、《突然来て、防ぎようがない》から《恐い》と言うのですが、本当は別のことを言っているわけですね」

「なるほどな」



 気取った言い方をすれば、恋とか運命とかそういう言葉になるのだろうが、彼女の口からは言い出しにくいことだろう。

 今の主流からは外れているが、昔はそういう奥ゆかしい女性が好まれた。いじらしくてなんとも可愛らしいと思う。

 文香もそういうタイプに近いな、と売り出し方に活かせないかと考えるが、隠す、という要素がやはりネックだった。



「それでですね、この後、男性が段取りをしてくれた女性とお付き合いしているのがわかるのですね。女性がどう感じたのかは描かれていませんから、想像するしかないのですが、それでも女性は男性と会話を続けるのですね」



 おれならがっかりするだけだろうが、そういう答えは求められていないだろう。気の利いた返事は思いつかなかったので文香の続きを待つ。



「女性は《デートの相手をコンピューターで》見つけられたらという話をします。《世界中の人がインプットされていて》《運命の相手が》必ずいるものとして、と仮定するのですね」

「SFみたいな話になってきたな」

「それで運命の人が見つかるなら、という仮定の話ですから。《相手が分か》れば《地理的な遠さは問題》ではないですよね」



 九〇年に書かれた物語であったとしても、距離は問題ではないだろう。たとえ地球の裏側にいても飛行機が運んでいってくれる。



「でも、《時間的に遠かったら》どうでしょうか」



 時間と言われて首をひねる。どういうことだろうか。考えることがもう一つあり、思考がうまくまとまらなかった。先に現実の問題を片付ける。



「事務所に忘れ物とかはないよな」

「あ、はい。なにもないと、思います」

「時間も時間だから直接家に送るよ」

「わかりました。お願いします」



 すぐの交差点を左折する。取り返しがつかないというわけでもないが、ここを曲がり損ねると少し遠回りになる。文香は明日も撮影がある。休める時間はあればあるほどいい。



「それで、時間的にっていうのは?」



 話の腰を折ってしまったので文香に続きを促す。



「《例えば、その人が江戸時代の長崎にいた》場合、《長崎はどうにか》なりますけど、《江戸時代はどうにもならない》ですよね」

「死んだ人間はどうにもならないってことか」

「未来の人もそうですよね。自分がしわしわのおばあさんになった頃に生まれる人だったら。あるいはそれよりももっともっと未来に生まれる人だったら。……どうにもならないですよね」



 そんなことを知ったところで、とも思うが、それは当人の感じ方というものなのだろう。



「それで、その後は《そうなったら、古い文書かなんかに、その人の名が一文字でもいいから出て来ないかと探すだけですよね》と続きます」

「そんなことなら知らない方が幸せかもしれないな」

「そうですね。でも、《何十年かけて、ようやくみつけたら、きっと言葉も出ないでしょうね》」



 これも本当の意味は別のところにあるのだろう。この場合は、あなたをようやく見つけた、とかそういうことだろうか。



「《後は、そのかすれた墨の文字を抱いて生きて行くんだろうなあ》《それって、かえって幸福なのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない》《分からない》と、女性は言うのですね」



 文香の真に迫った引用を聞いて、なるほどこれなら演技も似たようなものだろうと思った。文香の頭の中では、普段、こうして物語が展開されているのだろう。いまはそれを表に出したというわけだ。



「プロデューサーさんはどう思いますか? これは幸福なのでしょうか」

「おれは……」



 前の交差点で、右折のウインカーを出している対向車がパッシングをした。アクセルから足を離し、減速するのと同時に対向車が右折していく。それを確認してアクセルに足を戻した。



「その女の人は会えたわけだろ、その相手に。ということは幸福、と言えるんじゃないか。別に結婚しているわけじゃないんだろう?」



 別れるまで待つ、という選択肢もあるわけだ。現実味はないかもしれないが、江戸時代にいる相手よりはまだ現実的だ。



「なるほど……。ですが、おそらくこの女性は本当に《かすれた墨の文字を抱いて生きて行く》つもりだと、私は思います」



 こればかりは読んでいない人間に言える問題ではないか。自分の意見が前提から否定されて少し釈然としないものの、あくまで語り手は文香だ。おれの意見はおまけみたいなものだ。



「文香はどう思うんだ?」

「そうですね。私は……分からないです。これが幸福なのか、そうじゃないのか」



 そうか、と相づちを打つ。てっきり何かしらの答えがあったから訊いてきたのかと思ったが、どうやらそうじゃないみたいだ。



「……ですが、これでよかったのだと思います」

「どうして?」

「秘めた心情というのは蛹のようなものです。自分の中にある想いを尊いと思ったから、蛹のままにしてはおけなかったのだと思います。たとえ、吹きすさぶ嵐に飛ばされてしまったとしても……」



 県道から左折する。三〇キロ制限の標識のある住宅街へと入って、少しいったところに文香の一人暮らしのアパートがある。大学生の一人暮らしらしいこじんまりとしたものだ。

 ハザードを出し、車を左に寄せて停める。サイドブレーキを引いて後ろを振り返ると、文香と目が合った。



「今日はお疲れ。明日も撮影よろしくな。迎えに来ようか?」

「……いえ、私から事務所に行こうと思います。事前に発声練習もしておきたいですから」

「そうか。あまり無理しないようにな」



 腕時計を見ると、すでに日付が変わっているようだ。ドラマの撮影が連日押すようだったら、撮影現場の近くに宿をとってもいいかもしれない。大学の授業との兼ね合いも必要だろうが。



「送ってくださり、ありがとうございます」



 文香は行儀よく頭を下げて、車のドアを開いた。ルームランプが灯り、明るくなったので念のため文香の忘れ物がないか確認しておく。



「今日はお疲れ様です、プロデューサーさん。……明日も、よろしくお願いします」



 もう一度、文香がぺこりと頭を下げ、静かにドアを閉じるとルームランプの灯りも消える。

 文香がちゃんと彼女の家に入っていったことを確認して、車を出した。





 ――了――



17:30│鷺沢文香 
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