2017年02月02日

高垣楓から脱出せよ






目を覚ますとベッドの中で楓さんに抱き着かれていた。

出来ればこのまま死にたい。









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まず落ち着こう。

何が何だか状況はさっぱり分からないが、とにかく冷静になる事だ。

こういう時は深呼吸に限る。





 「――……」





めっちゃ良い匂いがする。





何だろうこれ、ほんと……何なんだろう。

どうして女の子ってのはこう、みんながみんな良い香りなのか。

俺たち男とは種族からして違うんじゃないだろうかと常々思う。



思考が変態染みた路線へ切り替わりそうになり、慌てて頭を振った。

深呼吸はやめておこう。これ以上は危険だ。



別の手段で落ち着こう。

そうだ、何かの漫画で読んだ通り、素数を数えてみようか。

2……ん、あれ、1って素数だったっけか。

ええと、確か定義が約数に1とそれ自身をもつ数だから……ええと?



イマイチ回りの悪い頭を懸命に働かせるうち、思考も段々と冷えてきた。

ゆっくりと息を吐き、これからどうすべきかを考え始める。

一番に把握するべきは……現在の状況、だろう。





視界は暗い。

俺はベッドへ仰向けに寝転がっていて、丸い照明の吊られた天井が見える。

小さめの窓に掛かるカーテンは、室内よりも僅かに明るい。



明らかに俺の部屋ではないようだ。

どこかの宿にしては小物が多く……となれば、考えられる可能性は一つ。

楓さんの自室。そして彼女のベッド。その上に身体を横たえていると。



 「……」



それは考え得る限り最悪の状況で、反証を探しに首だけを静かに回した。

すぐ壁際に空の酒瓶が三本ほど転がって見えて、俺は全てを諦める。

どうしようもないくらいに楓さんの部屋だった。

瓶くらい片付けましょうよ。



あと、下着もきちんと畳んでしまっておいてください。放ったらかしにしないで。



ここが楓さんの部屋だというのはよく分かった。

今は、いつだ?



ここに至るまでの道筋を手繰り寄せる。

目を閉じ、漂うアルコール臭にようやく気が付いた。

そうだ。俺は酒を飲んでいた。どこで?



 「……あ」





思い出した。全てを。





俺は楓さんと飲んでいた。

こんな雪の日はおでんが食べたいと、都合良く見つかった屋台で。

そこで上機嫌な楓さんと酒を交わし、そしていつの間にか不興を買った。

凄味のある笑顔に迫られるまま、俺はぐい呑みを口元へ押し付けられて。

そこから先がぶつりと途切れている。



なるほど、俺はまんまと楓さんに捕まってしまった訳だ。



となれば、今は深夜。

外が僅かに明るいのは街灯を照らし返す雪のせいか。



 「…………ん」







耳元で楓さんが寝息を零した。

有り得ないような近さで、いっそ暴力的なまでに心地良い声が耳へ沁み入る。

背筋がぞくりと震えて、思わず叫び出しそうになる唇を全力で引き結んだ。

心臓が爆発しそうなくらいに唸り、ごうごうと血の巡る音が鼓膜に響く。



鼓動が静かになるまで、俺は指一本動かせずにただ固まっていた。

雪のお陰か、神様のせいか、世界は音を失っている。

すぐ隣の安らかな寝息と、押し殺したような俺の呼吸。

喜劇にも似た合唱がそう広くない部屋を満たしていた。



音を殺し、至極静かに首を回す。

凝り固まった骨と筋肉がギリギリと鳴り出さないか気を付けながら。



 「……」



果たして楓さんは静かに眠っていて、長い睫毛が微かに揺れている。



視線を天井へ向け直して、俺は細く息を漏らした。

このままでは、マズい。

何か取り返しの付かない事が起こって、俺は一切合切を失ってしまう気がする。



再び幾分かだけの冷静さを取り戻し、俺は見様見真似の瞑想に挑んだ。

目を閉じ、呼吸を落ち着かせ、五感を研ぎ澄ます。

耳元に吐息を、腕に温度を、腹に滑らかな感触を覚えて。

かき集めてきた冷静さはどこかへと吹き飛んでいった。



 「……!」





――いや、服っ!





鷹富士さんに祈りを捧げる。

彼女もまた安らかに眠っていて、前には『明日九時から』の立て札が置いてあった。

孤立無援の視線をそっと下ろせば、そこに見えるのは少し汚れた襟。



 「……」



心の腕で胸を撫で下ろす。

靴下に包まれた足先で確かめれば、スラックス師匠も無事でいらっしゃった。

抜き取られたのはネクタイとベルトだけらしい。彼女なりの気遣いだろう。

出来ればその気はもっと別のところに遣ってほしかった。



怖い。



だが、確かめてみなければなるまい。

これは、プロデューサーとして避けては通れない行為だ。

断じてスケベ心なんかじゃない。もしそうだったらすぐ目を逸らす。すぐ。



楓さんの目蓋へと向けた視線。その行く先をゆっくりとズラしていく。

鼻先。唇。顎。首。鎖骨。布。



肌色は無事にそこで途切れて、俺は内心で安堵の息を零した。

被った布団のせいでそこから先は分からないが、恐らくはそちらも大丈夫だろう。

にしても、流石は楓さん。ナイトウェアも上等なものをお召しになっている。

詳しくはないがシルクだろうか。

よく見ればかなり薄手の生地に包まれた胸元を、何かが小さく押し上げ







目が痛い。

これほど力一杯に目蓋を閉じたのは生まれて初めてだった。

たぶん明日は筋肉痛になるんじゃないだろうか。







それで、俺は今、何を見た?







かもしれない運転。

以前教習所で教わったその言葉を、俺はふと思い出す。



突然飛び出してくるかもしれない。

ブレーキの利きが悪いかもしれない。

前の車が急停止するかもしれない。



同じ事だ。



気のせいかもしれない。

見間違えかもしれない。

都合の良い妄想かもしれない。





ただ、確かめる気には到底なれなくて。

俺は固く目を閉じたまま――痛い――首を天井へ向け戻した。

ゆっくりと目蓋を開くと、圧迫し続けたせいか、天井が緑がかって見えた。





あれは、気のせいだ。

身体が熱を帯びていく。

熱い。上等な掛け布団だ。羽毛だろうか。



これなら、例えば……例えばだ。

薄手ののネグリジェでも風邪の心配は無いだろう。





気のせいだ。違う。





脱出せねばならない。一刻も早く。



となると、クリアしなければならない障害が二つ。

掛け布団と、楓さんの腕だ。



ベッドは部屋の端に寄せられていて、幸い楓さんは壁側に陣取っている。

こっそりと抜け出せさえすれば、俺はそのままこの部屋を出て行けるだろう。

問題はそこからだ。

分厚い掛け布団と、俺の腹に載せた片腕を退けられて。

酒が入っているとは言え、果たして楓さんは起きないだろうか?



そもそも、近い。



仰向けに寝る俺を見つめるように、楓さんは横を向いて眠りこけている。

寝息は時たま俺の耳をくすぐる。

載せられた片腕は力も抜けきって、敷き布団とで俺の身体を挟み込む。







――このままでもいいんじゃありませんか?







どこからともなく悪魔が囁く。

何となく耳馴染みのある声だった。





駄目に決まってるだろう。



――どうして?



楓さんはアイドルで、俺はプロデューサーだからだ。



――そればっかりですね。



それだけだ。



――じゃあ、今すぐ彼女を叩き起こして説教の一つでもしては?



…………。



――あら。あらあら。



……誤解を招くような真似を、控えたいだけだ。



――誤解?



ああ。



――ところで楓さんは、分別も理解もある女性ですよね?



当たり前だ。





――その女性がどうして、ただのビジネスパートナーを同じベッドに?





言い返そうとして、悪魔はとうに姿を消していた。

吐き損ねた言葉が喉元を荒らし回る。ひどく気分が悪い。



妄言に振り回される趣味は無い。

とっとと出よう。



腹の上へ載せられた腕にそっと触れる。

頼りない、けれど滑らかな手を少しずつ、少しずつ押し返す。

楓さんの手が俺の手を握り返した。





 「……」



 「……ん、ふふっ…………んぅ」





良い夢でも視ているのだろう。

彼女は微かに笑って、確かめるように手を滑らせる。

俺の手は石化の魔法でも掛けられたように動かず、ただ撫ぜられるままだった。



温もりを探すような手つきが止まって、俺はこれ以上無いほど慎重に指を抜く。

楓さんの手をシーツの上にそっと置き、俺は激しくなった鼓動を三度宥めすかした。



ともあれ、これで残る壁は一枚。

摩耗しきった精神を今一度奮い立たせ、掛け布団に手を掛ける。





しゅっ。かさ、しゅるり。





どれだけ気を張っても、衣擦れだけは抑えきれない。

すぐ隣の暖かな寝息と、いっそうるさいぐらいに響き渡る衣擦れの音。

すっかり汗だくになった身体がいよいよ馬鹿になりそうだった。

込み上げてくる何かを殴りつけて沈める。



布団をめくり終える頃には、何故だか妙な達成感に包まれていた。



 「…………よし」



右脚を抜き、左脚を抜く。

床へと両足を着けて、可能な限り滑らかに上体を起こす。

脚の筋力だけで立ち上がろうとして、腰に頼りない手が巻き付いた。





 「プロデューサー」





静かだった。



耳を澄ませてみても何も聞こえなくて、腰だけが無闇に暖かい。

かもしれない運転が脳内を暴走して標識に激突した。『とまれ』。



 「全部、寝言です」



耳慣れた声を未だ信じられずに、俺は目をつぶる。

全てを天へ任せたい気分だった。





 「プロデューサーは、鍵を持ってません」



 「私は眠っているから、内鍵を掛けられません」



 「無防備です。東京は、怖い所です」



 「それでも」



 「プロデューサーは、私を置いて、出て行ってしまうんですか?」



 「その格好では、風邪を引いちゃうかもしれません」



 「そうしたら、お仕事も出来なくて、その……色々と、困ってしまいますよね」



 「ごめんなさい。私の家、お布団はこの一組しか……なくて」







 「プロデューサー」









 「お手洗いです」





ようやく腹から温もりが剥がれていく。

彼女は分別も、理解もある女性だった。

それが嘘でも本当でも。



改めてベッドから起き上がる。

残して来た体温が妙に惜しくて、足取りが重くなる。

それでも俺は歩き出した。

振り向かないままドアノブを握る。

重たく冷えた真鍮を捻って、俺は念願の寒々しい廊下に出た。



 「……」



立っていられなくて、ずるりとドアへもたれ掛かる。

メガネもベルトもタイも無い身体は軽くて、冷えた。

膝を抱えたまま横を向けば、そこには世界へ通じる扉がある。

静かで冷たくて、何よりも安全な。



 「……」



しばらくぼんやりしてから、俺はようやく立ち上がった。



 ― = ― ≡ ― = ―



しつこいぐらいに顔を洗ったせいで、両手はすっかり温度を失っていた。

どれだけ前に立ち続けたか分からない洗面台の鏡を、俺は見る事が出来ない。



のろのろと遅い足取りで、それでもようやく扉の前へ立つ。

冷え切ったドアノブに手を添える。

その冷たさが、俺になけなしの礼節を思い出させた。





トン、トン、トン。







 「――どうぞ」







中から寝言が返ってきた。

気のせいでは無さそうだ。



そっと扉を開き、後ろ手に閉める。

部屋の中は相も変わらず静かだった。

ベッドの上には上等そうな羽毛布団。

その中からはみ出すようにして、線の細い肩とうなじと背が少しだけ覗いている。



寝返りは何も珍しい事ではない。

人は眠っている間、何度も寝返りを繰り返す。不思議ではない。



めくれ上がったままの掛け布団。

俺は馬鹿みたいに突っ立ったまま、その布団をじっと見つめていた。

一歩、二歩。

たったそれだけの距離を詰めて、俺は片膝をベッドに載せた。





ぎしっ。





マットレスが軋んで、楓さんの肩も小さく揺れる。

ルビコンを渡りきった俺は全てがどうでもよくなって、勢い良く身体を沈めた。



頭まで布団を被る。

楓さん一人では持て余すだろうシングルベッド。

けれど大人二人にはどうにも狭くて、向けた背が彼女の背に触れてしまう。

僅かに触れる部分が、そこだけ火傷したように熱い。



眠れる訳が無かった。

今までの二十余年間でも類を見ないくらい目が冴えている。

いま測ったなら血圧計も煙を吐いて壊れそうだった。



時間の感覚が飛ぶ。

こうしてもう何時間が経った? いや、まだ数十秒か?

分からない。誰か教えてくれ。





やがて、僅かな温もりが離れた。

名残惜しいような、安堵したような。

細く長く息を吐き出して、俺の身体が柔らかな温度に包まれた。

何が何だか一瞬理解が出来なくて、すぐに顔が茹だる。





 「……」



 「……」





胸に腕を回されて、首に顔を埋められる。

流れる髪にくすぐられ、俺はいっそ開き直って笑い出したかった。



 「逃げてっちゃうと、思ってました」



 「……風邪を、引いてしまいますから」



俺の口はとんでもない阿呆だった。

寝言に返せば、楓さんの身体が揺れる。





 「風邪を、引くと?」



 「出勤できなくなります」



 「出勤、出来なくなると?」



 「プロデュース業務が出来なくなります」



 「プロデュース、出来なくなると?」



 「……」



 「……」



 「楓さんと一緒に、居られなくなります」



 「はい」





細い腕に力が篭もって、俺の身体が暖かさへ引き寄せられていく。

笑っているような、泣いているような鼓動が、俺の背に伝わった。





暖かくて、柔らかくて、穏やかだった。

いつまでもこうしていたい。

過ぎた夢を願い、俺は目を閉じた。





 「プロデューサー」





俺を捕まえていた手が、するりと頬へ回される。

滑らかな指先に包まれて、冷えた頬が温度を取り戻していく。





 「冷たいです」





良い匂いがする。

吐息が耳をくすぐる。

衣擦れが耳に響く。

ベッドが軋む。





 「だから」





彼女の瞳は今、どんな色をしているだろう。







 「あったかくしてください」











日本語というのは、とても難しい。







 ― = ― ≡ ― = ―



 「プロデューサーさん、今お時間大丈夫ですか?」



 「ええ。どうしましたか?」



 「春の定例ライブなんですけど、メンバー追加がありまして。それに伴って」



 「ああ、リスケですね。分か――っくしっ」



 「あら。お風邪ですか?」



 「……ええ、まぁ……そんな所です」



 「最近は雪も降って寒いですから。ちゃんとあったかくしてくださいね?」



 「……え、ええ。気を付けます。ちひろさんも」



 「おはようございます」



書類を受け取り、ティッシュ箱を引き寄せた所で事務所のドアが開いた。

洒脱なトレンチコートを羽織った楓さんが顔を出して……ん?



 「楓さん、今日はレッスン直行きでしたよね」



 「はい。ちょっとプロデューサーに用事がありまして」



 「何でしょう」



 「どうぞ」





楓さんが笑顔でタイピンを振る。

差し出すままに固まった俺の掌へ載せて、華麗にウィンクを一つ。



 「ベッドのそばに落ちてましたよ。レッスン行ってきますね」



緑なす髪がご機嫌に揺れ、事務所を出て行った。





タイピンはほんのりと温かく。

俺の背はどんどんと冷たく。





ぽん。





軽く肩を叩かれた。

油を差し忘れた首がギリギリと回って、ちひろさんの素敵な笑みと目が合う。





 「……」



 「……♪」





ちひろさんが親指を挙げ、そのまま小会議室を指した。

俺もなけなしの笑顔を振り絞り、それから乾いた頭を振り絞った。







――果たして、どうすればこの場から逃げ出せるだろうか。







20:30│高垣楓 
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