2017年05月15日

双葉杏「明日の飴」

「愛とはな、人が人を慈しむ……ようなことなんだ!」



「ような、って」







だいたい、愛するも慈しむも意味が被ってしまってる。



薄汚れた壁、ボロボロのブラインド、狭っくるしい部屋の真ん中に一つだけ大きなソファー。ひび割れている。

壁にかかってる時計もそばに転がってるスマホも無視してゲーム機のホーム画面から時刻を確認した。もう夕飯には遅い、確かな夜の時間だ。

彼の仕事はまだ終わらない。お腹が減ったと抗議をして飴をもらったのがもう二時間も前、そばに転がった包み紙は二桁にのぼろうとしていた。





「例えばそう、杏は俺のために仕事をがんばろうと思うだろう?」



「うーん」



「愛だ!」



「じゃあそれでいいや」





きっと、仕事のし過ぎで頭がおかしくなったんだろう。こういうのは稀によくある。

夜に近づけば近づくほど、彼はいい加減な話を一人で始める。それもテーマが壮大なのを選ぶからタチが悪い。何のために生きるのかとか、心とは何かとか、さっきの愛の話なんて彼の十八番だ。聞くたびにそれは実体が変わる。

こないだの愛は確か性欲だった。じゃあプロデューサーは杏のこと愛してるんだねっておどけてみせたらなんか凄くテンパってて身の危険を感じた。



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「今日は遅くなるぞ」





寝返りを打つと、擦れた音は思ったより部屋に響いた。一人で帰るのはめんどくさいし、家に早く帰ったとこでベットでゲームするだけだろう。

無言をどんな風に受け取ったかは分からないけど、彼は黙々と作業に戻る。気にしないよ、とぐらいは言ってあげるべきだったのかもしれない。もしくは気にしてると言って罪悪感を与え、優位に立つべきだったかも。勝手に待ってるのはこっちなのに、彼はきっと飴玉をもう一袋くらい出してくれるはずだ。





「杏がこうやって待ってくれてるのも、愛かもなぁ」



「似てない真似はやめろよ」



「そうだなぁ、俺も誠意をもって有給で応えてあげないとなぁ」





遠くでエンジンの声が唸っている。

彼がため息と共にパソコンを閉じて立ち上がる。

それを見て杏もゴロゴロとソファーから床に滑り落ちた。ついでに起き上がるつもりだったが失敗だ。彼が冷めた目でこちらを見ている。





「明日はさ、愛ってどんなのになるの?」





雑に引っ張り上げられた瞬間、持ち前の運動能力で背中をとった。

仕事はいいのかなんて野暮なことは聞くもんか。代わりに、彼に散らばったスマホやゲーム機の回収を命じることにした。











私と彼の間にはおかしな約束があります。

約束、という言葉を使うほど厳かなものでもないんですが、かといって決して蔑ろにしてもいけない、それは確かに私達にとって約束という言葉で形作ることのできる行為でした。



その約束は月に一度、第三の金曜日に果たされます。

私は大学の講義が終わってから、いつも通りお世話になっているアイドル事務所に向かいます。

その日は基本的に休みであり、決して何かやらなければならないことがあって事務所に向かうわけではありません。不定期に仕事が入ってしまうのが当たり前の職業なのに、不思議とその日だけは何か用事が追加されることもありません。

ライブも、それに向けてのレッスンも、イベントも何もない。ただ、私は導かれるように事務所に、彼の元へ向かいます。小さな包みをお気に入りのバッグの中に抱えて。



私達の約束が始まった日の空は晴れていたような気もしたし、しとしとと雨が降っていたような気もしました。

私はサークルの友達に渡そうとしてた自作のシュークリームをソファの上で頬張っていて、向かいにあるテレビの中では下町のお菓子を綺麗なアナウンサーさんが紹介していました。

サクサクの生地は千切れる時にはしっとりと、破れた穴からはバニラの香りがいっぱいに広がる。シュークリームが美味しくできたという達成感と、その分だけ、友人が今日大学を休んだという寂しさが甘く私の喉を通ります。

心配して連絡を取った彼女の休みの理由はどうやら体調の悪さが理由ではなかったようで安心しましたが、逆に私が大学で一人で大丈夫だったかと彼女にしきりに心配されてしまったのを覚えています。どうも、私は危なっかしく見えるみたいなんです。

私自身はしっかりしてるつもりだけど、きっとそうではないのでしょう。彼女の口癖は「私がいないと愛梨はダメだから」で、その言葉を疑う暇もないくらい大学では私とずっと一緒にいてくれます。



「愛梨が作ったのか」





破れた皮から溢れてしまった、雲のようなクリームを丁寧に舐めとっていると、不意に後ろから声をかけられました。

私は驚きつつも、そうなんです。と、テレビの四角形とシュークリームの甘さの中に包まれながら返事をします。

彼の方を向かなかったのはクリームが頰についてるかもしれないと、恥ずかしかったからかもしれません。

ふうん。と、所在なさげに息を吐く彼を後ろに感じて、そうだ、今度、彼のために甘いものを作ってあげよう。そう漠然と思ったんです。



シナモンのアップルパイ。イチゴのタルト。カスタードのシュークリーム。

私は月の第三金曜日、事務所に必ず自作のお菓子を持っていくようになりました。何故その日だったのか、というのに明確な理由はありません。ただ、不思議とその日の前日の夜は暇ができて、やっぱり次の日にも用事が入ることが必ずと言っていいほどなかったからです。



私が包みを出すと、彼は給湯室から綺麗なお皿とフォークを一つずつ取り出してきて、自分の机の上に並べます。そのお皿は飾り気のない質素なものでしたが、私は彼の出したお皿の上に自慢のお菓子を載せて、どうやれば最も見栄えがよくなるのかを狭い器の中で試行錯誤します。そうして、やっと満足いったころには、いつの間にか彼が紅茶が入ったマグカップを二つ持って私のそばに立っています。



彼はいつも出されたものをモソモソと億劫そうに食べるだけで、賞賛も文句も言いませんでした。

ただ、お菓子を食べ終わった際、ありがとうという感謝の言葉を決して忘れません。

私は彼がお菓子を食べている間、彼の机と反対側にあるソファに座っていて、できるだけ彼の方を見ないようにしました。彼の気配を後ろに感じるこの瞬間が、たまらなく好きでした。

だからなのでしょうか。

本当は彼が甘いものが苦手だということを私が知ったのは、それが半年以上も続いてからのことです。

たまたま、事務員の方と所属していた研修生の方の会話を聞いたんです。バレンタインのチョコレートをどうするかという会話でした。まだずっと先の出来事なのに、彼女たちはまるで明日がその当日かのように楽しげに話していて、その内に彼が甘いものが苦手であるという事実が含まれていました。



でも、私はその話を聞いたとき、彼に苦手なものを食べさせ続けてしまったという罪悪感よりも、甘いものが苦手な彼が私のお菓子を食べ続けてくれていたのだということが嬉しかった。

食べ終わった後に必ずありがとうという彼の言葉を反芻すると、そこには確かに、私達の約束がありました。





彼が甘いものが嫌いだということを知ったその月、私は甘さ控えめのクッキーを作ることにしました。

甘さの代わりに食感が楽しめるよう、ナッツなんかを混ぜ合わせたりなんて工夫をして、喜んでくれるだろうかと期待でいっぱいでした。



包みを取り出すと彼はいつも通り給湯室に向かい、お皿を運んできます、そして、私は彼が持ってきたお皿の上に自作のクッキーを並べます。大きさも形も様々な彼らをどうやったら綺麗に見せることが出来るのかは複雑で、いつもより一生懸命になってしまいました。



私はその日だけ、お菓子の準備を終え、紅茶を受け取り、ソファに座っても、ずっとチラチラと後ろを伺い続けました。

彼はまず丁寧に手を合わせて、フォークを取ります。そして、綺麗に並んだクッキーの一つを三つの針で突き刺そうとしますが、それは小さな粉を撒き散らしながら二つに割れてしまいます。その欠片と衝撃はお皿の上で渦を巻いて、彼らが守っていた美しい隊列は一突きで簡単に崩れ、悲惨な様相です。彼は困ったようにしばらくぼうっとしていましたが、やがてフォークを置き、壊れた欠片を優しくつまみ上げ、億劫そうに口の中へ運びました。



彼の表情は変わりません。美味しいとも美味しくないとも言いません。

私はそのことに安心して、ようやく彼の様子を伺うのをやめようとします。





「甘くない」





最初は、誰が呟いたか分かりませんでした。今この部屋には私と彼しかいないのに、いつの間にか第三者が紛れ込んだのかと不安にさえなりました。

それは決して明るい声ではなく、低く濁った、私が初めて聞く誰かの不満の声。

振り向けば、やっぱりそこには彼以外誰もいません。そして、彼は何も無かったようにモソモソとクッキーを口に運んでいます。





ーーーー次は。次からは。



とびきりの甘いお菓子を彼に振舞おう。温かくて、暖かくて、暑くなってしまいそうなほど優しい甘さを彼に手渡そう。



ソワソワと紅茶を啜れば、マスカットの香りの中に思わず顔をしかめてしまいそうなほどの渋さが隠れていました。







彼との約束は、今も変わらず続いています。

月に一度、とびっきり甘いお菓子を私は作り続けています。





「いつか、隣でお菓子を食べているとこを見ててもいいですか?」





そう聞くと、甘いものが苦手な彼は照れたようにはにかんで「いつもありがとう」と、一言だけ呟きました。











愛とは何でしょうか。



いとおしい。かわいい。護りたい。親しい。与えたい。そばにいたい。



想っている。惜しんでいる。つながっている。つないでいる。



所詮言葉は言葉。性愛はただの生存本能。

そもそも、愛なんて抽象的なものは存在しないまで。

誰もが聞き飽きたぐらいに愛という言葉は人々の空気に馴染んでいて、行間の中に隠れています。



でも、愛という言葉に惑わされてはいけません。

愛は誰かの気持ちが何処にあるかを示している。それだけで十分のはず。

こんなにも愛おしい。

こんなにも愛している。



「で、で、なんだが、親友がな」





目の前にあるパスタをフォークでくるくると巻き取る。

彼は今何処で何をしているのでしょうか。

いえ、本当のところは何をしているのかなんて把握しています。

きっと、今頃は私のお弁当を食べてくれている。

今日のおかずも彼の好きなものを揃え、たとえ忙しくても簡単に食べることができるよう愛情を包んだおにぎりを並べました。

喜んでくれているでしょうか。





「あの人はそんなこと言ってくれませんし……言われても困りますけど……」





くるくる。ぐるぐる。

彼に会ったら言いたいことばかりです。

今日もお疲れ様でした。お風呂にしますか。お夕飯も準備は出来てますから、お好きなのを。もちろん私でも大丈夫です。心の準備は出来ていますから。

ねぇ、ところで、そろそろ。





「あ、愛って、なんだ」





私達も結婚とか、どうなんでしょうか。





「二人とも、お幸せそうですね」





そう言うと片方は小さく笑みを浮かべて、もう片方は目を背けて頬を染めます。

パスタを一口分フォークで巻いたけれど、もうお腹いっぱいで食べることは出来ません。ご馳走様です。



彼女達とは昔お仕事でユニットを組んだ仲でした。

「ユニット」で間違えてはなく、私達はかつて、一時期にはなるんですが、三人グループのアイドルとしての活動をしていました。

そこそこ売れはしましたが有名というと程遠い。そんな位置を平行線のまま進み、プロダクションが倒産すると宣告された頃には自然と消滅しかけていたようなユニットです。



個人で連絡をとることも近頃はなくなっていて、こうして再び出会い、食事をするなんて数年ぶりのことでした。





「まゆさんも、笑ってる」





輝子ちゃん。腰まで伸びる長い髪は無造作な方向に流れていて、眠たげな瞳でこちらを真っ直ぐに射抜いてくる。

彼女と向き合えば、いつの間にか彼女にこちらの内側にまで踏み込まれてしまっている。

言いようのないむずがゆさに視線をそらしてしまうと、不安そうに謝られてしまいました。

まったく可愛くて無防備な人だと、そう思います。



乃々ちゃん。目を逸らした先には心配そうにこちらを見つめる彼女がいました。

目が合えばすぐに顔を逸らしてしまうのが小動物のようで、ついつい視線を外さず、意地悪をしてしまう。

癖のあった髪は今は柔らかくふんわりとまとまっています。くりくりと指を絡めてみると、あううと唸られてしまいました。





「まゆさん、変わりました」



「そうですか?」



「昔より、ちょっと意地悪なんですけど」





それはそうかもしれません。

だって、こんなに幸せそうな二人の惚気話をずっと聞いていれば、少しだけ捻くれちゃいます。

かつてのアイドルとプロデューサーが結ばれる。そんな関係が二人も身近にいる。

そんなの私にとっては淡く光る灯のようなもので、血のように赤々しい毒でもある。





「輝子ちゃん、結婚は特別ですか?」





乃々ちゃんの髪をくるくると巻きながら、ついそんなことを質問してしまいました。

でもきっとこれくらい、彼女になら許してもらえるでしょう。

乃々ちゃんも興味があるのか、ちらちらと目線を輝子ちゃんに送っています。

この際乃々ちゃんにもいつ結婚するのか聞いてみたいけど、彼女は机の下にもぐっちゃうかもしれません。



輝子ちゃんはしばらく考えたそぶりを見せた後、目の前にあるコップを指でつついて水面を波打たせながら、私の瞳を真っ直ぐに覗き込みます。

潤んだ唇が頼りなく緩んでいる。





「結婚じゃなくて、親友が、特別」





言葉は漠然と張った膜越しに私に響いてきました。

私はやっと、彼女が昔よりもずっと色っぽくなっていることに気づきました。





…………





「おかえりなさい、お疲れ様でした」



「またいるのか」



「まゆはアナタのものですから」





軽口を叩くと(私は軽く言ったつもりはありませんが)彼は困ったように言葉を探し出してしまったので、話を切り上げることにしました。

重そうな鞄を両手で受け取って居間に戻ります。



鞄を受け取る際、手と手が触れ合うよう努力をしてみたけれど、彼は無反応でした。

昔はすごく照れてくれていたのに、私は今もこんなにも照れているのに、もう慣れてしまったんでしょうか。



部屋の中に彼の足音が響く。

タンタンタンと、存在感のある音が心地よい。

その音が鳴り止んで衣擦れの音に変わる頃、私は目を伏せて小さく咳払いをします。

コホン。それでは。





「お風呂にしますか? お夕飯も準備は出来てますから、どちらでも大丈夫ですよ」





それとも。





「ご飯がいいな、というかだな」





彼は呆れたようにかぶりを振りました。

それはわざと大げさに演じているようにも見えます。





「来るなと、何度も言ってるだろう」





いつもと同じ定型句が紡がれる。

彼の家にお邪魔することに決めてからもう一年は経ち、その間ずっと言われてきた言葉です。そっちには慣れてはくれないみたい。





いえ、言い訳をさせてもらえるなら、私もこんなに強引なことをするつもりはなかったんです。

彼の迷惑になるかもしれない。

たとえ私が迷惑にならないための最大の努力をしたとしても、人の関係は数値のように単純なものではありませんから。



でも同様に、道のりも決して単純ではなかった。

アイドルとプロデューサー、その関係は私達を強く結ぶ赤い糸になるとずっと思っていました。

いつかアイドルとして自分がどこかに辿り着ければ。

そんな漠然とした夢をもって進んできた道は崩れて消え去ってしまう。

自分がどこにたどり着きたかったのがさえ分からないままに。





首元にかけたチェーンに触れると、そこには飾りの代わりにこの部屋の合鍵が結んであります。

ねぇ。ここに来るなというなら何故私にこの鍵をくれたんでしょうか。





「ねぇ、アナタ」



「結婚してねぇ」





……怒られてしまう。

ニュアンスは変われど、さっきは否定されなかったのに。少し残念な気持ちです。

そう、私達は結婚してなんかいない。それどころか、付き合ってるというのも私達の関係を正しく表してはくれない。



プロデューサーに恋したアイドルと、自分のことが好きなアイドルを担当したプロデューサーの延長線上。



やっぱり彼は私にとっての特別です。

自惚れでなければ、彼にとっても私は特別だと、そう感じている。

そこに確かな形はありません。でも、きっとそれだけでいい。

あなたのそばにいることができるなら。



それなのに。





「ねぇ、旦那様」



「旦那じゃねぇ」





それなのに、こんなにも不安な私をどうか許してくれませんか。













私が潔癖症になったのは、初めて生理を経験した時がきっかけになったと思う。

昔から綺麗好きではあった。暇さえあれば除菌クリーナーでどこかを拭いてしまうし、なんであれ使った道具は湿った布で拭く。

ハサミやペン、必要なものが必要なとこに無いのが落ち着かなくて、どんなときも彼らをどこかにおき忘れることなく、それぞれ名前付きの箱の中に丁寧に入れていたし、どこかに染みや汚れを見つけたときには親の仇のように擦りに擦った。

きっと、私は1日お風呂に入らなかっただけで死んでしまう、そんな弱い生き物だった。

だから、身体から流れ出る赤いものを初めて目の当たりにしたとき、私はどこかで自身が取り返しのつかないくらい汚れてしまったのではないかという錯覚があった。



こんな私だったから、彼女のことを『汚い』と思ってしまったのはどうか許して欲しい。

それがどれだけ失礼なことか分かってるし、行き過ぎてるのは私なのだ。彼女は何も悪く無い。

ただ、スリッパ着用の事務所内を裸足でペタペタと歩いて、櫛を通さないままの長いボサボサ髪をそのままにしている彼女に私はやはり嫌な気持ちを抱いていた。

あまつさえ、机の下に潜り込み、そこへ素足のままべったりと座り、雑菌の塊……いや、菌そのものであるキノコ達を幸せそうに抱えている姿をみれば、彼女はきっと私とは別の生き物なのだろうと思ってしまうぐらいだ。



彼女はとても可愛くて綺麗だった。

私が担当するアイドルで、親友でもあった。



私の潔癖症はあまりに行き過ぎている。それを人に押し付けることはしてはいけないことも分かっている。

けれど、彼女が随分と年下で、素直だったからだろう。私は彼女にある程度の譲歩を求めた。



まず、部屋の中では必ずスリッパを着用すること。

そして、外から事務所にやってきたのなら、部屋に入る前に個室(私達の事務所にはメイクをしたり、落としたりする目的などに使われる部屋がある)で手洗いうがいをし、髪をきちんと整えること。

これは基本的に私が担当した。

色んなとこが跳ね狂っている彼女の髪は不思議なことに、櫛をすんなりと通すことができた。

けれど通った後、元どおり重力に逆らっていき、なんとも手応えがなかった。



要は私の大まかな要求は彼女の身体がある程度清潔であることだった。

時と場合によるものもあり、その都度彼女の顔を拭いたり、髪をまとめたりさせてももらったが、それに彼女は文句を言わず言う通りにしてくれた。

そして、まるで、私に身を任せれば何も問題ないというように、嬉しそうに微笑むのだ。



ただ、そんな彼女も決して譲らないことが一つだけあった。

譲らない、というのは少し異なるかもしれない。私が彼女に決して干渉してはいけないだろうと思ったもの、の方が的確だろうか。



それは机の下で彼女がキノコを大事そうに抱えている時間だ。

何故、私の机の下なのかという不満はあったが、彼女はそこでは私の頼みを聞いてくれない。

わざわざ履いていたスリッパを脱ぎ、地面と一体化するようにペタンと座り込む。

その姿は彼女の身体の延長線上に机の下という空間があるようだった。

私はその行為をやはり芳しく思えなかったが、神聖めいたものも感じていた。

その時の彼女は私と別の生き物どころか、遥か別の次元に存在していた。



私は彼女の不可侵な時間に干渉する代わりに、せめて机の下をどこよりも綺麗にしようと努力をした。

毎日朝早くに来て机の下を覗き込み、小さなちりとりで軽く埃を掃き、その後、軽く洗剤を湿らしたスポンジで机の足を綺麗に磨く。

百円で買った三枚の雑巾のうち一つを水で濡らして床全体を拭き、もう一つ乾いた雑巾で仕上げをする。最後の一つは予備として机の端に残しておく。

そうして、私専用のスリッパも机の下に用意してしばらく待っていれば、段々と他の人も事務所にやってくる。

そのとき、コンコンという遠慮がちなノックがドアに響くと私は鞄から櫛を取り出して部屋の外に向かった。そうすれば彼女が淡い笑顔で私を待ってくれているのだ。





たまに思うことがある。

もし、彼女とキノコたちのあの狭い空間の中に私が入り込ませてもらうとどうなるのだろうかと。

そこには汚いものなんて一つもなくて、ただ私達がいる。永遠の時間が流れていく。

私が入りたいと願えば、彼女はやっぱり受け入れてくれるのだろう。

もしかしたら「なんだ、やっぱり入りたかったんじゃないか、ここは居心地がいいから」なんて言葉をかけるのかもしれない。





汚いところでは死んでしまう私は、綺麗なところでも生きることが出来そうになかった。

彼女の抱えるキノコ達の傘がつるんとしていて、それは思わず触ってしまいそうなほど魅力的だった。













「愛とはな……実は、この世には無いんだ!」





力強く、魂に響くように言い放つ。これはとても衝撃的なことだ。なんたって、そもそも有ると思ってたものが無いのだ。こんなことを聞かされたらさぞ驚愕するだろう。さて、彼女はどんな表情をしてくれるだろうか。



……。彼女はそっぽを向いて携帯機に夢中のままだ。暫く経っても返事は来ない。代わりに、ピコピコという間の抜けた音がボロボロの部屋に広がっていくだけだった。

意味もなくブラインドを手でこじ開けたり戻したりしてみる。もしかして聞こえなかったのだろうか。いや、いや、そんなはずはない、魂が震えるほどの気持ちを込めたつもりだ。





「じゃあさ、杏の、杏のこの感情は……一体、なんなの?」





段々とブラインドを指でひっかけるのが楽しくなりだしたころ、唐突にそんな言葉を返されてむせてしまった。肺はせり上がり心臓はドキリと、漫画みたいに本当にドキリと鳴った。鼓膜にそう響いた。



こいつは何を言っている。いや、いつもの通り俺をからかってきているのだろう。胸からゆっくり、溜息とも深呼吸とも言えない息を吐いた。



夕方が夜になるこの時間帯は俺にとって解放の時間だった。



いつも口うるさい女上司。人の机の上なんて関係ないだろう、誕生日プレゼントに除菌クリーナーなんて嫌味ったらしくて仕方がない。

隣では機械のようにおにぎりを頬張る同僚。話しかけても愛想はない、何を考えてるかさえ分からない、段々と給湯室に増えている食器類はこいつの仕業らしい。



まだまだいるぞ。この事務所にはそんな奴がまだまだいる。めんどくさい奴らばっかりがいる。俺はそんな奴らに囲まれて仕事をしている。



それでも、この時間には解放されるのだ。時間に厳しく有能な潔癖女やロボット男は当然、怠けたいだけの奴らも早く暖かいお家に帰りたくて、少し待っていれば事務所内は俺ともう一人だけだ。



二人だけのこの時間、俺は彼女に甘えているのだろう。

愛とか愛じゃないとか、適当なくだらないことを彼女はくだらないまま返してくれるから、それはとても居心地が良いんだ。





彼女の冗談を濁すように、飴をポーチから取り出して、ソファに向かって放り投げた。彼女からは少し遠くに落ちてしまったそれを、彼女はその場から動かないまま必死に手を伸ばして拾おうとしている。



「プロデューサーってたぶん、ナルシストで人嫌いが過ぎるんだよ」



「何を、俺ほどの愛信者はいないぞ」



「愛なんて無いって言ったばかりじゃんか」



「お前を見てると、そんなこともないかって思ったんだよ」





適当ばっかり。そう言った彼女は飴には届かなかったようで、ソファの上で再びぐったりとしていた。

飴を放り投げたのは照れくさかったからだ。ちょっと自分が情けない。





「少なくとも、お前は好きだし、事務所のみんなも好きだよ」



「じゃあ、杏をもっと甘やかしてね」





はいはいと返事をして、飴を拾おうとするついでに、彼女も拾って今日はもう帰ろうと思った。

無理矢理体を引き上げて肩に担ぎ上げてやろうとすればよじよじと不恰好に背中に背負われようとしてくるので、なすがままにされてやる。



「たまにはお姫様抱っことか、愛があると思うんだけど」





背中から聞こえる声はうるさく、抱える重みは少し心地いい。

それなら明日は不意打ちでお姫様抱っこしてやろう。



どうせ、今日の会話を彼女は忘れているだろうから。



12:30│双葉杏 
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