2013年11月05日

モバP「新しくアイドルプロダクションを作った」

前の仕事をやめる時に貰った退職金と、今までの貯蓄で、何とか新しいアイドルプロダクションを作る事ができた。

 購入した事務所は比較的新しく、古い物件ではないがやや小さい。一般的な収入で一個人が建てるならこの程度が限界か。いや、俺が貧乏なだけかもしれない。


とりあえず正式に設立を終えた。だが、残念な事にアイドルが一人もいない。

 最初はアイドルのスカウトから始めないといけない。

 だけど俺は男だ。いきなり近寄ってきた男にアイドルにならないかと誘われたら、よほど危機感のない女性では無い限り、俺を怪しむだろう。

 女性の従業員がいてくれれば、男の俺よりも幾ばくか容易にスカウトできるだろうが、アイドルが一人もいない今、給料なんか出せない状態だ。

 やはり、どんなに成功確率が低くても自ら足を運び、声をかけていく必要がある。

 ……それなりに困難だ。
 

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 世の中そう甘くない。自分の手でここまで来れたけど、こんなんでこれから上手くやっていけるだろうか……

 ――って、自分で起業するぐらい、俺はこの仕事が大好きじゃないか。今から弱気でどうする。ここまで来たら絶対アイドルになってくれる人を見つけてみせる。

 俺は腹を決め、アイドルになれそうな人をスカウトするべく、事務所を出て、人の多い駅前辺りに向った。

 下手したら通報されかねないが、アイドルに向いてそうな女性へと片っ端から声をかける。

 逃げられたり、無視されたり、悩まれたけど断られたり、何故か雑談になったり、色々な反応を貰ったが、俺は挫けない。
 

「見つからないなぁ……」

 いつの間にか夜になっていた。気がつかないうちに相当な時間歩き回っていたらしい。だが、未だに一人もアイドルになってくれる人が見つかっていない。なってくれそうな人はそれなりにいたが、流石に所属アイドルが一名もいないのは問題のようだ。当たり前だが。

 スカウトではなく、オーディションでもいいのだが、作ってすぐの事務所に果たして人が来るだろうか。案外来るかも知れないが、その子達がアイドルに向いているかどうかは未知数だ。やはり自分の足で探す方がいい。

 駅前の大きな広場にあるベンチに腰掛け、ぼんやりと人混みを見渡す。駅は相変わらず人が多い。

 一日中歩き回って疲れた俺は、ベンチで思う存分体を休めた。くつろぎながら、何となく、空を見上げた。

 星が綺麗だった。大都市だと明るくて見づらいものだが、それにも関わらず、たくさんの星が夜空で瞬いていた。
 
  

 星の観察に飽きて、そろそろ事務所に戻ろうかと視線を戻した時、視界に映る一人の少女に、思わず目が留まった。その少女は、夜空を見上げて佇んでいた。

 女性にしては身長がやや高く、少し華奢だが体つきはとてもいい。不健康に思えるほど白い肌に、整った顔立ち、透き通るような青い瞳、そして、道行く人々の興味を惹く、肩まで伸びる銀髪。
 真っ白なジャケットと黒いTシャツに、濃い青のジーンズを着こなしている。少女は日本人の顔立ちではなく、ロシア人やアメリカ人のような……分からないが、とにかく、西洋系の顔立ちだった。

 とても、綺麗な少女だった。端麗な容姿に加え、知的で理性的な雰囲気、冷たい眼差し、感情の読めない無表情も合わさって、かなり独特のオーラを放っていた。

 精巧に作られた等身大の人形が立っているのではないかと思わず錯覚してしまうほど、少女は美しかった。

   

 気がつけば、少女の近くまで歩み寄っていた。本当に、傍から見たら変質者である。

「なぁ、君――」

 空を見上げていた青い瞳が、ゆっくりと俺に向けられた。お互いの視線がしっかりと合わさり、何故か緊張が体を走る。
 彼女の瞳から目が離せない……いつの間にか彼女が持つ、深く澄んでいる、宝石のような青い瞳に見蕩れていた。

「アイドル、やらないか?」

 気がつけば、震える手で名詞を差し出していた。

 動悸が激しい……俺はかつて無い輝きを持つ少女を前に興奮していた。

 目の前の少女をプロデュースしたいと、心の底から思った。
  

「ヤー……私に何か、ご用ですか?」

 差し出した名刺には目も暮れず、その青い瞳は俺の目を捉えて離さない。

「アイドルやってみないか? 君なら絶対に、トップアイドルを目指せると思う……」

「アイ、ドル?」

 失礼を承知で、名詞を少女の目の前に突き出す。とにかく、受け取って欲しかった。
 少女は胸元に突き出された名詞に目を落とした後、受け取ってくれた。

「アイドル……ですか?」

 少女が、名詞と俺を交互に見ながら戸惑ったように言う。今まで無表情だった彼女の表情が変わった事に、何故だか小さな喜びを感じた。
  

「……そう、アイドルだ。君なら、どんなアイドルよりも輝けるって思ってる」

 何を言ってるんだ俺は……ナンパじゃないんだぞ。一人焦るものの、彼女は無表情のまま特に反応は示さなかった。目を見開いたまま微動だにしてない。

 少女はそうしたまま数秒間固まっていたが、おもむろに口を開いた。

「流石に、今すぐには決められません……ごめんなさい」

 少女は申し訳なさそうな声色そう言った。あまり表情に変化が無いけれど。

 ただ単に断るためにそう言ったのかも知れないが、それも仕方ない。年頃の女性から見ると俺は大分怪しいだろうし、警戒もするだろう。

 あまり感情を表に出さない少女からは、何も読み取れない。果たして、アイドルをやってくれるかどうかは分からないが……とにかく、名詞を渡せただけ良しとしよう。

「それじゃ、俺はこれで……いきなり申し訳なかった」

「いえ、大丈夫です。お話、ありがとうございました」
   

 俺は、後ろ髪を引かれる思いでその場を立ち去った。

 少し離れた所で、未練がましく一度だけ振り返る。

 ――少女は、俺の名詞を握り締めながら、また夜空を見上げていた。その深い青の瞳には、きっとたくさんの星々が映っているのだろう。

 あの子をトップアイドルへと導きたい。あの子と一緒に、トップを目指したい。

 初対面で、自分でも気持ち悪いと思うが、純粋にそう思った。
 
寝ます。
のんびり書いていくので更新遅いかもしれません、ごめんなさい。

「ヤー。髪が伸びて来ました、そろそろ切らないと」

 机で事務仕事を淡々とこなしていると、アーニャが前髪を弄りながら唐突にそう告げた。書類からアーニャに視線を移す。出会った時と比べると確かに伸びている。
 
 毎日のように顔を合わせている事もあり、言われるまで気付かなかった。

「俺が切るか? なんてな」

 笑いかけながら、九割冗談、一割本気で言ってみる。過去に女の子の髪を切った事が何回もあるのだ。自信は若干ある。

「切ってくれるんですか?」

 冗談のつもりだったが、アーニャは真顔で食い付いてくる。その予想外の反応に、動揺してしまう。ただ冗談に乗ってきただけだよな?

「アーニャがいいって言うんなら、切るけど……」

 冗談とは告げずに、俺は続けた。心の底ではアーニャの髪に触りたいとでも思っているのだろうか。了承されるわけないというのに。
 年頃の女の子が男に髪を触れさせるわけが無い。
 

「そうですか。では、お願いします、プロデューサー」

 予想をあっさり裏切り、アーニャは俺を放心させる一言を放つ。

「は?」

「髪切ってください、私の……」

 真っ白で柔らかそうなアーニャの頬に、赤みがさす。

 どこかで……どこかで似たような事があった気がした。

『髪……切っていただけませんか?』

 ――いや、嘘だ。俺ははっきり覚えているじゃないか。思い出したくないだけだ、過去を。

「プロデューサー?」

 呼ばれて、はっとする。アーニャが心配そうに俺の目を覗きこんでいた。

「大丈夫ですか? 汗を掻いてますけど」

 頬を小さな雫が伝う。確かに、汗だ。
 やはり、思い出したくない。昔の事なんて、忘れたい。
 

「大丈夫だ。それより、やっぱり切るのは無しだ。女の子の髪を男が軽々しく触るべきじゃないしな」

 そうだ。女の子の髪を、軽々しく触るべきじゃない。
 
「……むむ。男に二言はあってはいけませんよ」

「悪かったって、冗談のつもりだったんだ、許してくれ」

 可愛らしくむくれるアーニャは、天使の如く愛らしい。さらさらの銀髪も、正直言うと触りたかった。
 ……プロデューサーがこんなのでどうする。

 気を引き締めて、俺は再び仕事に取り掛かった。

「もうすぐレッスンだろ、準備しろよ」

「ダー。分かってますよ……もう、プロデューサーのバカ」

 後半は小さい呟きだったけど、しっかり聞こえてるって。バカとは何だ。

 女の子って男に髪触られて平気なんだろうか。
  

 代わり映えの無い日常が、暫く続いた。アーニャはいつもと変わらずレッスンを受け、仕事をこなし、学校で勉学に勤しむ。
 俺もアーニャの為に外を回り、仕事を取り、そして事務所で書類やらメールやらスケジュールやらを整理する。
 
 だが、今日は少しだけ違う。今日が、例のライブの日だ。

 もしかしたら今日を区切りに日常が変わるかもしれない。それくらい大規模なライブだ。

 故にライブ自体が初めてのアーニャにとってはプレッシャーと負担がかなりのものだろう。

 何か出来る事は無いものか……

「アーニャ、大丈夫か?」

 楽屋にて、用意された衣装に着替え、メイクも終わったアーニャに声をかける。いつも通りに見えるが、やはり少なからず緊張はしているのだろう、表情が硬い。

「やはり、少し緊張します」

「ごめんな……俺にはただひたすら応援する事しかできない……」

「ニェート。プロデューサーがいてくれるだけで、心強いです……」

 アーニャが、ぎゅっと、左手を胸の前で強く結ぶ。
 ほんの少し瞳を濡らして、上目で彼女は俺を見上げる。その表情は、何か言いたげだ。

「プロデューサー……!」

 不意に、アーニャが俺に抱きつく。正面から両腕を背後に回され、しっかりと抱きしめられた。
 彼女の柔らかい胸が押し付けられているが、突然の出来事に動揺してそれどころではない。
  

「どうした? やっぱり、怖いか?」

「怖いです。一杯、一杯人がいて」

 ワイシャツに顔を埋めながら、ぼそぼそと、独り言のようにアーニャは呟く。
 やっぱり、いきなりこんなに大きなライブは酷だったんだ。俺は、間違ってしまった。アーニャなら行けると勝手に思い込んで、アーニャにこんなに負担を掛けて……

 自分の過ちに苦悩していると、アーニャが俺を抱きしめる手に力を込めた。

 アーニャの体温に触れて、少しだけ心が安らぐ。
 自然と、アーニャを抱きしめる手に力が入ってしまう。

 暫くの間、普通ならダメな行為だが、俺とアーニャは抱き合っていた。
 恋人同士のような抱擁ではなく、彼女を落ち着かせるためのものだから問題ないと、自分に弁明する。

「プロデューサー、ごめんなさい……もう、大丈夫です」

 目を落とすと、アーニャが上目遣いでこちらを見上げていた。
 思わず見蕩れてしまうくらい、綺麗で、優しい笑みを、アーニャは浮かべていた。

 完全に緊張が解けてはないようだが、色々と吹っ切れたらしい。

 元気になってくれて、よかった。
  

「プロデューサー、貴方がいるから、きっと……ナジェージダ……希望を持てます」

 アーニャが、俺の胸に頭を預ける。

「ヤー……今の私は、空の向こうまで届くような歌、歌えると思います」

「あぁ……アーニャならきっと歌える」

 アーニャを半年以上見てきた。下手すると、そこら辺の恋人なんかよりも、ずっと長い時間、一緒にいた。

 だから、確信が持てる。アーニャなら、出来ると。

 一番最初の舞台がこんなにも大きな舞台だと、アーニャからしてみれば全てが初めての事で、負担が大きい事も分かっている。
 それでも、アーニャなら出来る気がした。

 ――アーニャは、輝いているから。

 夜空に浮かぶ星なんかよりも、ずっと強く、ずっと明るく。

「ありがとう、プロデューサー。私、できそうです」
 

 アーニャを呼び出しに、スタッフが楽屋に訪れる。抱き合ったままだったので、ノックされた時にお互い慌てて離れた。

「出番だ、行くぞ」

「ダー。がんばります」

 舞台へと、アーニャが向う。
 
「がんばれ、アーニャ」

 その堂々とした後ろ姿に、言葉を送る。

 アーニャの晴れ姿、見せてくれ。
 

 そして、舞台にアーニャが立った。

 たくさんのスポットライトの光が、彼女を照らしだす。後ろの大きなスクリーンには、アーニャの姿が映し出された。

 彼女はあまり有名ではないが、観客も新人アイドルを品定めに来ている人が多い。
 美しい容姿と神秘的なオーラを持つ彼女の魅力はすぐにライブ会場の人達に伝わり、既に観客席からはたくさんの応援の声と歓声が上がっている。

 やがて、観客の喧騒に負けないぐらいの大音量で流れ始める曲。

 アーニャは不敵に、楽しそうな表情を浮かべながら、何回も練習したダンスを観客に披露した。

 彼女のダンスは、全体的に動きが小さくて軽やかなものであり、決して激しいものではないが、そこそこに難しい振り付けだと聞いていた。だが、彼女は一つもミスをせず、汗を浮かべながらも、動きを鈍らせる事無く、踊る。

 そして、前奏が終わり、アーニャは歌いだした。 

 アーニャのよく通る綺麗な声は、喧騒に包まれるライブ会場によく響き渡った。

 本当に楽しそうに微笑みながら、美しい声色の歌声を届けて癒し、踊りで楽しませる。

 アーニャは、やはり夜空に浮かぶ星のようだった。贔屓でもなんでもない、絶対にアーニャは他のアイドルなんかよりも、誰よりもずっと輝いている。
  

 広いステージで、たった一人で踊り、歌う。そこに加えてたくさんの観客。精神的負担がどれほどのものか知らないが、彼女は全てを完璧に成し遂げた。

 誰もが釘付けになっていた。余所見をする者なんていない。例え他に好きなアイドルがいたとしても、誰もが一度は目を吸い寄せられる、そんな雰囲気と美貌を持つ少女がアーニャだ。

 アーニャの初めてのライブは、大成功に終わった。

 突如現れた新人は多くの人々の関心を集め、故に色々な所で取り上げられ、一躍人気者となった。

 アーニャがたくさんの人に評価されて、凄く嬉しかった。アーニャもとても喜んでいた。

 あの再開が無ければ、最高の日だったのだろう。

 忘れていた、ライブにはあのプロダクションも参加していた事に。
 気付かなかった、あのアイドル達が、参加していた事に。
  

「プロデューサー?」

 一仕事終えたアーニャに飲み物を持って行こうと、自販機にお金を入れていたら、プロデューサーと呼ばれた。

 声は女性のもので、明らかに俺に向けられている。今この場には俺しかいないのだ。

 だが……人違いな筈だ。アーニャの声ではないのだから。

「返事くらいしたらどうなのかしら? プロデューサー」

 この声を、知っている。アーニャにも劣らない、透き通った綺麗な声の主を、知っている。

 小銭を自販機に入れようとしたまま、固まった。
 恐る恐る、声をかけてきた女性へと視線を移す。

 そこに立っていたのは――

「……久しぶりだな、千秋」

「久しぶりね、プロデューサー」

 ――黒川千秋。

 ライブ衣装だと思われる黒いドレスに身を包んだ、長い艶やかな黒髪と端整な顔立ちの、やや長身の女性。

 過去に俺がプロデュースしていたアイドルだ。
 

「私の出番はずっと先よ……だから、今貴方とお話がしたいわ。ついてきて」

 放心している俺の手を掴んだかと思うと、強引に引っ張る。俺は抵抗せずに、彼女に大人しくついて行った。

 千秋の楽屋へと、二人で入る。アーニャの楽屋と似たような部屋だ。

 千秋は背もたれの無い椅子を指差し、座って、と促す。その椅子に座ると、千秋は唐突に俺の膝の上に乗っかった。

「おい、千秋……!」

「別にいいでしょう? 昔はよくこうしていたんだから」

 言葉に詰まる。確かに、過去にはよく、恋人のように寄り添っていた事があった。

「貴方も私の髪に顔を埋めていいのよ? 遠慮なんてしなくていいわ」

「遠慮する。そして離れてくれ、流石にまずい」

 昔のような過ちは犯さない。アイドルからの好意は、絶たなければいけない。

「嫌よ」

 きっぱりと、千秋がそう告げた。千秋は、根は悪くないが、昔からよく我が侭を言っていた子だ。そして、俺はその我が侭をよっぽど無茶なものでは無い限り、聞いてあげてた。

 だが、今回ばかりは、その我が侭を聞けない。俺は千秋を押し退けて強引に立ち上がる。
  

「話しは何だ?」

 なるべく早くアーニャの元へ帰りたかった。

「一年振りの再会なのに、どうしてそんなに冷たいの?」

 彼女が肩を震わせ、俯き、悲しそうにそう言った。

「もう二度と、あんな事が起きないように……な」

 千秋を見て、一年前の出来事を思い出す。思い出したくも無い、過去を。アーニャのステージに立つ姿を思い出して、必死に過去を振り払う。

 ――でも、無駄だ。一度思い出してしまうと、もう止められない。

「千秋……傷は?」

 そう聞くと、千秋はいきなり衣装を脱ぎ始め、下着姿を俺に晒した。

 呆気に取られている俺に、彼女が近づく。

 鎖骨の横と肩、左の二の腕に大きな傷跡が残っていた。これでは、水着になる仕事や、露出の多い服は着れない。
  

「プロデューサー。私、この傷が大嫌いよ」

「あぁ……」

 忌々しそうに、彼女が告げる。
 俺は彼女の傷跡を見て、思わず涙を零してしまう。理由は分からない。色々な事が浮かんでは消えて、何が理由で涙が出たのか自分でも分からない。
 
「俺が……いなければ……」

 千秋がこんなに苦しい思いをしているのは、俺のせいだ。
 みっともなくて、情けないのも分かっているが、涙は止め処なく流れ続けた。

「ねぇ、プロデューサー? 貴方がこの傷にキスをしてくれたら、私、この傷を好きになれると思うの」

 だから、と彼女は続ける。

「この傷に、キスをしてくれないかしら?」

 そんな事……

「お願い、プロデューサー。触れる程度で、いいの」

 普段の強気な態度からは想像できない弱々しい千秋を見て、心が揺らぐ。

 おぼつかない足取りで千秋に近づき、華奢な体躯に手を伸ばす。

 そして、彼女の両肩を掴んだ。

「あぅ……プロデューサー」

 彼女が頬を桜色に染め、恥ずかしそうに視線を逸らした。

 鎖骨の横と肩に刻まれた大きな傷跡に、顔を近づける。

 少し触れるだけだったが、俺は確かに彼女の傷跡にキスをした。
 
 鎖骨の横にある傷跡に口付けをし、次いで肩の傷跡に口付けをする。その後、左の二の腕の傷跡にも口付けを終えて、何故か荒い息をつく千秋から離れた。

「ごめんな……」

「ふふっ。何で謝るの? 私はとっても嬉しかったわ。ありがとう、プロデューサー」

 彼女が再度衣装を着ながら、そう言う。

 

 何で、笑えるんだ……アイドルじゃなくても、傷が残るなんて嫌だろうに。

 ましてや、その原因である俺に対して、どうしてそんな幸せそうな表情を見せる。

 千秋は、やはり何も変わっていない。  
 
「二人は、どうしてる?」

 気になって、聞いた。

「二人は貴方の事なんて忘れて新しいプロデューサーと仲良くやってるみたいよ。ふふっ……がっかりした?」

 意地の悪そうな表情を浮かべ、問いかけてくる。少しだけ、寂しい気持ちはあった。

「別に」

「私は、変わってないわよ……私には貴方以外、考えられない。一年間、ずっと貴方の事だけを考えて生きてきた」

 変わって欲しくないという気持ちも、心のどこかにはある。

 でも――

 千秋は変わるべきだって、思う。

 本来の姿に、戻って欲しい……その方が、きっと幸せになれる。



「それじゃ、連絡先を交換しましょう? プロデューサー」

「ダメだ」

 きっぱりと断る。このままじゃ、いつまで経っても彼女は変われない。

「傷跡、もっと愛してくれないと嫌よ」

 間髪入れずに、彼女がそう告げた。その言葉は、的確に胸の傷を抉る。
 傷跡が何だ、そんなもの……

 ――ダメだ……傷跡を出されてしまっては、千秋の願いを、断れない。

 彼女の傷跡には、負い目がある。

 千秋を傷つけた償いは、しなくてはならないのだ。一度逃げているのだから、なおさら。

 結局、千秋と連絡先を交換した。

 ……彼女を傷つけてしまった責任を、今度こそ果たさなくてはならないのだ、逃げるわけには行かない。

 今度は、逃げない。

  
 
サイレントヒルのBGM聞いてたら眠くなってきたし、キリがいいのでそろそろ寝ます。


 後日、千秋に呼び出された俺は、二人で人気のない公園のベンチに座り、話していた。

 千秋は変装し、じっくり見ても千秋だと分かる人間はいないだろうが、だからと言って絶対安全というわけでもない。正直二人きりで会うのは避けたかった。

「本当に、あの二人は薄情よ。貴方がいなくなって数週間経てば元通り、今では新しいプロデューサーに好意を寄せているわ」

「……あいつらも、何も変わっていないのか」

 女は恋愛しないと死ぬ病気にでもかかっているのか。

「でも、前も言ったけど、私は無理よ。私には貴方しかいないもの」

「千秋の気持ちは嬉しいよ……でもな……」

 千秋は、アイドルだ。アイドルじゃなければ、どんなによかった事か。

「分かってるわよ。最初からいい答えなんて期待してないわ」

 拗ねたような口調で彼女はそう言う。

「でも、傷跡は愛して欲しいの」
 

 千秋がおもむろに上着を脱ぎ捨て、下着姿を空の下に晒した。

 人気が無いからと言って、こんな事して言い訳がない。

「ちょっと、やめろ千秋」

「じゃあ、早く終わらせましょう? 終わらない限りずっとこのままよ」

 慌てて止めさせようとするも、半ば以上分かっていた事だが。あっさりと拒否される。

 俺の口から異様な呻きが漏れた。仕方ない、彼女の言うように終わらせよう……素早く。

 千秋の長身の割りにほっそりとした肩を抱き、痛々しく残る傷跡に軽く唇を押し当てる。

 千秋と言えば、うっとりとした表情をしながら、俺の頭の後ろに腕を回して抱え込む始末。昔はクールだったのに、何故こうなってしまったのだろうか……今も、テレビとかでは変わらずクールではあるのだが。

「ねぇ、舐めて?」

「は?」

 不意に、彼女が変な事を言う。

「ただのキスでは満足できなくなってしまったわ……だから、舐めて欲しいの」

「…………」

 俺は本当に千秋を変えられるのだろうか。

 やはり、俺達は出会うべきではなかったのだ。

 頬を紅潮させ、傷跡を舐めるように催促してくる彼女を見て、そう思った。

 ……だが、何を言ったって過ちはなくならないし、現状も変わらない。
  

 抵抗を諦め、彼女の願いを聞き入れる事にする。

 傷跡に再度顔を近づけ、舐めた。短い時間で、丁寧に、傷跡を舌でなぞる。

「あっ……んん……」

 千秋が小さな声で喘ぎ、俺を抱える手に力を込めた。顔が固定されて動かせない。早く終わらせたいのに。

「千秋、離して」

「ご、ごめんなさい……気持ちよくて……」

 全身性感体か何かなのか、千秋は。

 解放された俺は、さっさと残りの傷跡を舐めて、彼女の要求を満たす。

「ふふふっ。やっぱり、私には貴方しかいないわね」

 クスクスと小さく笑みを零しながら、手を伸ばして俺の手を握る。
 暫くの間、俺の手の感触を楽しむように細い指先を動かし、強く握ったり、軽く握ったりするのを繰り返す。

「――もう一度、私の……私だけのプロデューサーになってくれないかしら」

 頬を真っ赤に染め、瞳を潤ませて、彼女は言った……もう一度、プロデューサーになってくれと。
 
  

「悪いけど……それは無理だ」

 今の俺には、アーニャがいるから。

 それに、今千秋のプロデューサーになると、また彼女を傷つけてしまう。
 彼女が俺を好いている限り、千秋のプロデューサーにはなれない。

「……そう……やっぱりあの女が、私達の邪魔をしているのね……」

 聞き取れない声量で何かを呟いたかと思うと、千秋は俯き、口を噤んだ。

 俯いているが、彼女の表情は見えた。

 背筋がぞっとするような、冷たく、無機質な、能面のような表情に千秋はなっていた。

 彼女は瞳に暗い光を宿して、じっと地面を見つめている。

 何も変わっていない。

 再会した時から、分かっていた事じゃないか……

 黒川千秋は、一年以上経っていても、何も変わっていなかった。
 
更新終わりです。
寝ます。

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「緒方……緒方智絵里……です」

 目の前の、赤みがかった長い髪を二つに束ねた少女は、俯きながらも時折こちらに視線をよこしながら名乗った。

「あの……その……えぇと……が、がんばります……ので……見捨てないでくれると……その……うれしい……です」

 アイドルとしてやっていけるぐらい十分な魅力を持った女の子だが、性格がアイドル向きじゃないように感じる。
 ただ、彼女の意志は強そうだった。その意志が折れない限りは、可能性はいくらでもあるだろう。

「よろしく。緒方さん」

 そう言うと、彼女はオドオドしながらも、

「……よろしくお願いします。プロデューサーさん」

 と返した。

 小動物みたいな子だな。智絵里を見てそんな感想を抱く。

 
 ――こうして、俺はプロデューサーとして、智絵里はアイドルとして動き出す事となった。
  

 智絵里は運動が苦手なようで、ダンスなんかはトレーナーからよく注意を受けている。基礎の段階から、中々進まなかった。

 歌も聞けるレベルではあるが、大衆に聞かせるにはまだまだ実力不足だ。

 内気な性格も変わらず。

 前途多難ではあったが、智絵理は挫折する事なく努力を続けた。
 

 運動不足と指摘され、落ち込んでいる智絵里に、俺は一つ提案をする。

「智絵里、体力をつけるために一緒に走らないか?」

 一人では少し難しいだろう。だが、他の人と一緒ならやりやすいかもしれない。そう思って、提案した。
 彼女はお願いしますと言って、提案を受けてくれた。

 俺達は一緒に、暇な時間に外を走るようになった。

 最初、智絵理は一キロ走るのも辛そうだったが、根気強く続けていく内に、努力が実り、智絵里は長く走れるようになっていった。


 毎日ランニングを続けた結果、少しずつではあるものの体力がついてきて、智絵里は少しだけ自分に自信が持てたようだ。

 少しだけ自信を持つようになった彼女を見て、俺も嬉しい気持ちになる。
  

 だが、残念な事に問題はまだたくさん残っている。

 体力面は改善してきたものの、智絵理の運動神経が壊滅的で、結局ダンスが上手くできずに注意されてばっかりだった。

「智絵里、今度は一緒にスポーツしてみないか?」
  
 今度はスポーツに誘った。智絵里は見るからにスポーツが苦手そうだが、やってみると少しぐらい変わるかもしれない。

 智絵里は、全然できなくても見捨てないでくださいとだけ言って、また提案を受けてくれた。

 見捨てるか。智絵里が諦めてないのに、俺が見限ってどうする。

「とりあえず、野球でもするか」

 思い立ったが吉日、ソフトボール用のバットとソフトボールを購入し、広い公園へと向かった。

 ソフトボール用のバットなら軽いから智絵里でも大丈夫だと思っていたが、ちょっと重たそうだった。

 バットを構える智絵里に、下投げで、子供でも打てそうな球を放ってやる。

 彼女は過去に一度も経験した事が無いらしいので当たり前と言えば当たり前なのかもしれないが、中々バットには当たらなかった。

   

 空振りする度に涙目になっていく智絵里が、可愛かった。

 かすりもしていないが、一球一球必死に当てようとしているのが見て取れる。

 今にも泣きだしそうだが、彼女は諦めていなかった。

 やっぱり、アイドルになる素質はある。
 それに、どんなにダメ出しされても、彼女は未だにアイドルになる事を諦めていないし、挫折してしまいそうな気配も見せない。
 
 この子なら、トップアイドルを目指せる気がする。
 プロデューサーとしての経験が浅いので断言はできないが、直感的にそう思った。

 そして、もうかれこれ五十球ぐらい投げたような気がする。

 今までと同じように、下投げで軽くボールを投げた。

 智絵里は初期の頃よりもだいぶ様になっているフォームで、バットを構えている。

 次の瞬間、智絵里は飛んできたボールをバットの芯で捉え、そのまま青空に向かって大きく打ち上げた。

「え?」

 打った本人も度肝を抜かれたように驚いているのが滑稽で、可愛かったのを覚えている。

 ホームランとまでは行かないが、それなりの距離をボールは飛んで行った。

「……やった! 当たった!」

「あぁ、おめでとう」

 嬉しそうにぴょんぴょん跳ねる智絵里。

 彼女の笑顔が、とても眩しかった。
  

 それから、智絵里を少しでも動けるようにするため、色々なスポーツを彼女に教えた。

 スポーツと言っても、二人で少し練習する程度だが。

「えいっ!」

 彼女が爪先でサッカーボールを蹴る。
 威力は弱いが、ボールは真っ直ぐに飛び、俺の足元へと転がってきた。

「上手いな」

 転がってきたボールを、蹴って転がし、智絵里へと返す。

「えへへ……偶然です」

 智絵里はくすぐったそうにしながら、楽しそうに微笑む。太陽のように温かくて、優しい笑みだった。

 彼女はコツを掴んだのか、その後は大体正確なパスが出せるようになった。

 

 それからというものの、テニスやバトミントン、キャッチボール、バスケットボールでフリースローの練習など、アイドル活動からは程遠い事をやっていた。

 だが、驚くべき事に効果はあった。

 少なくとも以前よりは数倍、智絵里は動けるようになっていた。ダンスも、注意される事が少なくなり、まだ完璧とは言えないが、人並み以上にこなせるようになった。

 ダンスも以前とは比べものにならないほど上手くなっていた。
 智絵里は、プロデューサーさんのお陰ですと言いながらも、とても嬉しそうにしていた。

 智絵里は前よりも格段に自信がついてきて、少しずつアイドルとしての片鱗を見せるようになってきた。
   

「プロデューサーさん……えっと……今度は歌を頑張りたいので、一緒にカラオケに来てくれませんか?」

 相変わらず内気な性格は変わらないが、それでも智絵里は少しずつ変わってきていた。
 はっきりと喋れているし、視線だって外さない。

 今日だってほんの少し緊張しているようだが、俺にカラオケに着いて来てほしいと頼みに来た。
 前の智絵里なら年上の男に何かを頼むなんてとてもじゃないが無理だろう。

「一人は心細いもんな、分かった。仕事が終わったら行こう」

 彼女からの頼みでは断れない。というより、智絵里からの頼み事は断れない。断った瞬間どんな表情をするのかと想像してしまうと、断れなくなる。

 智絵里は、トレーナーに言われた事を思い出しながらカラオケで、場違いにもほどがあるほど真剣に練習した。
 俺はソファーに座って、智絵里の歌をずっと聴いていた。常日頃思っているが、やはり智絵里の声は綺麗だ。

 時折音を外したり、音程が分からなくなったりして焦る智絵里はとても可愛かった。

 カラオケでの練習は一時間と控えめだが、智絵里と俺は毎日のようにカラオケに行った。

 元々音痴というわけではなかったので、毎日のレッスンと自主トレーニングで、すぐに智絵里は上達していった。歌の方の才能は凄いらしい。
  

 智絵里は、月日が経つにつれて明るい女の子になった。

 オドオドしたような表情は消え失せ、常に優しい微笑みを携えている。

 元からとても可愛かったが、最近の智絵里は更に可愛さに磨きがかかっていた。

 小さなライブを行っては大量のファンを獲得し、モデル雑誌に乗れば、会社から次もお願いしたいと依頼が来る。

 こうして、智絵里は人目に触れる機会が多くなっていき、確実に知名度と人気を伸ばしていった。
  

 数カ月が経ち、智絵里にもとうとう大規模なライブの話が来た。

 智絵里に伝えると、とても喜んでいたが、どこか不安そうでもあった。

 無理もない。今まで彼女が行ってきたのは、小さなライブばかりであり、大規模なライブはこの仕事が初めてだ。


 当日、智絵里は緊張していた。

 楽屋で衣装に着替えた智絵里は、遠目からでも分かるくらい震えていた。

「プロデューサーさん……私、怖いです……」

 まるで出会った頃のような様子の智絵里に、思わず苦笑する。
 やっぱり、根本的には変われないのかな、などと思いつつも、震える彼女を見てどこか微笑ましい気持ちになった。

「なぁ、智絵里……よく聞いてくれ」 

 智絵里の肩を掴み、智絵里と目を合わせる。

「昔から、お前はできるっていう言葉がどうにも苦手だった。何を根拠にそんな事言えるんだ……根拠もないのに無責任な発言だなって、そう思った」

 智絵里の震えが少しだけ収まっていくのが分かった。直に触れているから。

「でもな、今ならお前ならできるって言う人の気持ちも分かる。何故だか知らないけど、智絵里なら出来るって思う。気休めにもならないかもしれないけど」

「大丈夫です……プロデューサーさんが傍にいてくれるから」

 智絵里が、ぎゅっと、俺の腰に手を回した。抱き合っているような状態なので、見られたらまずいが、少しの間なら大丈夫だろう。

「智絵里……お前なら出来るよ。だから、頑張って」

 右手を彼女の背に回し、ぽんぽんと軽く背中を叩いて励ます。
  

 数分間、軽く抱き合うような形で、智絵里が落ち着くまでずっと身を寄せ合っていた。
 智絵里からいい匂いがするし、体は柔らかいし、色々大変だったが、何とか持ちこたえる。

「……プロデューサーさん、もう、大丈夫です……ありがとうございました」

「そうか」

 抱きしめる腕に少しだけ力を込めた後、智絵里は離れた。
 不安はどこかへ吹き飛んだのか、智絵里はいつもの優しい微笑みを浮かべていた。

「行ってきますね、プロデューサーさん……私の事、ずっと見守っていてください」

「あぁ……見守ってるよ。いつまでも」

 智絵里はひまわりのように温かく明るい笑みを浮かべながら、楽屋を出て行った。

 その後ろ姿は、数分前の智絵里の状態からは想像もできないくらい堂々としていた。
  

 そして、彼女はステージに立つ。

 大衆の歓声を浴びながら、今まで培ってきた全てを、観客に魅せる。

 妖精のような儚さと、太陽のような明るさを持つ智絵里に、会場の人間の大半が心を奪われた。

 音楽が止まり、観客へ向けて智絵里が深々と礼をした時、会場を震わせるほどの歓声が、会場全体に響き渡った。






「好きです……プロデューサーさん」

 マイクの電源は既に切られ、小さく放たれたその言葉は誰の耳にも届かない。








「プロデューサーさん……一緒にいたいです……これからも……ずっと……」






   
 
更新はここまでです。

忙しくて中々更新できません。ごめんなさい。

 ★

 千秋が事務所に所属して二カ月ほどが経った。

 その間に、千秋とは色々な所に出かけた。
 向かう場所は、遊園地だったり、カラオケだったり、ゲームセンターだったり、お洒落なカフェだったり。

 勿論、仕事も習い事も学校もあるわけだから、自由な時間なんて本当に限られている。

 それでも、少ない自由を彼女は喜び、楽しんだ。

 喜ぶ千秋の姿が嬉しくて、俺もよく彼女の我が侭に付き合った。

 千秋はかなり多忙な生活を送っているが、大学の成績は落ちず、ダンスや歌唱力を着実に伸ばし、淡々と習い事をこなしている。
 送られてくるファンレターの数や、売上だって増えている。

 なんて優秀なのだろうか。


 大勢の観客に見守られる舞台の上で、物怖じせずに堂々と、煌びやかに歌って踊っては満面の笑みを浮かべ、大衆歓声を一身に受ける彼女の姿は脳裏に焼き付いて離れない。

 千秋と過ごす日々はとても充実していた。

 本当に、この仕事を選んでよかったと思う。
   

「プロデューサー。私の水着、どうかしら?」

 砂浜で黒いビキニを惜しげもなく晒す千秋。辺りに人は少なく、撮影のためのスタッフしかいない。
 これから撮影の仕事だが、初めての海ということで少し浮かれているようだった。

「ねぇ、プロデューサー。聞いているのかしら?」

「似合ってるよ。とっても綺麗だと思う」

「ふふ。褒めてもらえて嬉しいわ。プロデューサー」

 長い黒髪を弄りながら、可愛らしく彼女は微笑んだ。

「ほら、撮影始まるみたいだ。がんばれ」

「えぇ、任せて。ちゃんと見守っていてね……プロデューサー」

 はにかみながら仕事場へ駆けていく千秋を、手を小さく振りながら見送った。
  

 その後、順調に進んでいく撮影を見守っている中、不意に携帯がなった。
 智絵里からのメールだった。

 今現在、智絵里は違う地方にある事務所へと一時的に移籍している。
 会うには少し遠い上、今や大人気アイドルである智絵里は多忙で、この二ヶ月間一度も会えていない。
 そのことに寂しさを感じるが、智絵里が察してくれたのかマメにメールを送ってきてくれている。

 ただ、今日送られてきたメールの内容は少しだけ嬉しいものだった。

『もうすぐ、そっちの事務所に戻れます! またPさんと一緒にお仕事したいです』

 今や智絵里には新しいプロデューサーがついているだろうから、残念ながら一緒に仕事はちょっと難しいだろうけど、智絵里と話せる機会が増えるのは、素直に嬉しかった。

 少し、問題もあるが――
  

 智絵里の担当を外されたことを伝えたとき、智絵里が大泣きしながら離れたくないとしがみついてきたことを思い出す。

 挙句の果てに一時的移籍の話も入ったものだから、更に泣き出して宥めるのがとても大変だった。

 幸いなことに、移籍期間が短く、そのことを伝えて何とかなだめる事が出来たが、普段大人しい智絵里があそこまで頑なに離れたくないと泣き喚いて駄々をこねるとは誰もが想像できないだろうし、とても驚いた。

 それなりの信頼関係を築けていたということなのだろうか……少し違う気もするが。

 あれから二カ月と半月ほどが経った。流石にもうあんなことは起きないだろう。

『久々に智絵理と会えるのが楽しみだよ。
 ただ、一緒に仕事をするのは難しいかな』

 絵文字の一つもない質素な文章を返す。
 返信はすぐに帰ってきた。

『社長がたまにならいいって言ってました。だから、お願いします』

 大手プロダクションだと言うのに存外適当だ。

『分かった。また一緒に仕事がんばろうな』
  

 脳裏に浮かぶ、智絵里の仕事風景。

 何事にも一生懸命で、いつも精一杯頑張っていて、常に努力を惜しまない彼女の姿。

 幼くて、可愛らしい、どこか放っておけないような雰囲気の少女。

 テレビに映る智絵里は、堂々としていて、最初の頃とは比べものにならないぐらい成長している。

 今は千秋で手一杯だが、余裕ができたら、きっと、また、智絵里と一緒に仕事がしたいな。
 

「携帯を見つめながらにやにやしているの、気持ち悪いわよ」

 いつの間に戻ってきていた千秋の言葉に、はっと我に返る。

「あぁ、呆けていた……すまん。撮影は終わったのか?」

「まったく、スケジュールを覚えていないのかしら? 今は休憩よ」

 確かにそうだった。智絵里のことでいつの間にか頭が一杯になっていたようだ。反省しなければ。

「ねぇ、プロデューサー。仕事が終わったら、近くの有名なスイーツ店で甘いものを食べたいのだけれど」

「分かった。いいよ」

 こんな風に、千秋は少しずつ自分のしたいことを伝えられるようになっていた。
 今まで抑制されていた分、少々我が侭になりがちな所もある。だが、それでも俺は彼女の変化を喜ぶ。

 時々かかってくる仕事の電話に対応しながら、俺は千秋の撮影を見守っていた。
 そうしている内に、時間はあっという間に過ぎる。
 撮影が終わったらしく、水着に厚手の白いパーカーを羽織った千秋がこちらへと近づいて来た。

「それじゃ、行きましょう」

 一通りスタッフや監督に挨拶をして回った後、俺と千秋は現場を後にした。
   

 車を運転して十分、千秋のナビゲートの元、店に辿り着く。

「ここのケーキね、とっても美味しいって評判なの」

 千秋に案内されて着いたスイーツ店は、明らかに男性客が一人で来れそうにないような雰囲気だったが、千秋がいるので何とか耐えられるだろう。

 本来なら男と二人でこういう店に来ること自体好ましくないが、一応千秋は変装しているし、まだそこまで知名度も高くはないから恐らくは大丈夫だと信じたい。

 こういう油断が悲劇を生まないことを祈るばかりだ。

「ふふっ。私はこれとこれにするわ。プロ……Pさんはどれにする?」

 メニューを見ても口の中が甘ったるくなりそうなものばかり。
 無難に、比較的大人しめのパフェを頼んだ。

 オーダーした品は案外早く来た。
 見るからに甘そうなパフェを少しずつ口に運ぶ。

 ふと、視線を千秋に移すと、ケーキをおいしそうに咀嚼しているところだった。

 彼女の、綻んだ笑みでお腹一杯だ。
 もう幾度となく思ったことだが、やっぱり、彼女は美しくて、可愛い。
 

 会話を挟みながら、少しずつスイーツを片づけていく。千秋は終始楽しそうにしていた。
 そして俺が頼んだパフェは甘ったるすぎて吐きそうだった。

 店を出て、車に乗り込もうとしたその時、凄い勢いで駐車場へと入ってきた車があった。
 車はあまり詳しくないが、見るからに高価そうだ。一体どうしたというのだろうか。

 車から降り立ったのは高そうなスーツに身を包んだ若い男だった。端正な顔立ちに、凛々しい瞳で、明らかに優秀そうなオーラが漂っている。
 彼は、こちらに視線を送っていた。正確には、千秋を見ていた。
 

「――千秋さん!」

「っ! あなたは……」

 驚いた表情をする千秋。どうやら知り合いらしい。

 男と千秋は一言二言会話を交わすものの、その後は会話が続かず、暫くの間、彼女達の間には沈黙が広がった。
 何やらお互い、気まずそうだった。俺は席を外すべく車に乗り込む。ただ、二人の会話は聞こえてしまった。

「千秋さん……やはり、僕ではダメですか?」

 男が意を決したように口を開き、沈黙破る。

「ごめんなさい……何度も申し上げたように……私は……」

 辛そうに、彼女は顔を俯かせた。

「あっ、えーとっ……困らせるつもりはなかったんです。こちらこそ、ごめんなさい」

 あたふたと、暗い表情をする千秋を見て焦る男。

「本当に、申し訳ありません」

 千秋は、深々と頭を下げた。
 それを見て、男は困ったように頭を書いた。

「本当……諦めが悪くて、申し訳ない。まぁ、気が向いたらいつでも連絡ください」

 照れ笑いのようなものを浮かべて、男は去っていく。
 その間も、千秋は頭を下げていた。

  

「もう、行ったぞ」

「そう……」


 車の中で、彼女は彼について話してくれた。

 本来なら結婚するはずだった男であり、自分の自由の効かない境遇を理解してくれるただ一人の人だったことを、彼女は話した。


「そうか……」

「本当に裏表のない、良い人よ。あの汚い世界でどうやったらずっとそんな性格でいられるのかってくらい」

 確かに、いい人そうだった。勿論、猫かぶりかもしれないし、絶対に良い人だとは言い切れないが、それでも俺は彼が良い人であるように感じる。

「千秋の望まないことだし、外野の勝手な想像で悪いんだけどさ――」

 彼を見て思った。

「――彼はきっと、千秋を幸せにしたと思うぞ」




 ――俺がそう言った時の、千秋の筆舌し難い暗い表情はきっと忘れることが出来ない。
   
数日中に投稿します(大嘘)

反省しています。ごめんなさい。
更新遅いですがエタることはありませんので、そこだけは安心してください。

 ★
 
 今日は智絵里がこっちの事務所へと戻ってくる日だ。

 今更、何時ごろ戻ってくるかまでは聞いていなかったことに気づく。

 でも、事務所で待っていればきっと会えるだろう。

 駐車場に車を止め、事務所へと向かう。最近の朝は寒い。

 事務所の扉を開け、辺りを見渡す。今のところは事務員の姿しかなく、智絵里はおろか、どのアイドルもまだ来ていない。

 自分の机で今日の分の仕事を確認する。

 一通り確認を終えた後、コーヒーを淹れるために、俺は席を立った。


 不意に腰に腕が回され、柔らかいものが背中に押し当てられた。

「だーれだっ」

 耳をくすぐる可愛らしい声。勿論、聞き覚えのある声だ。

「普通は目を隠すんじゃないのか?」

 腰に回された手を優しく解き、後ろの少女へと向き直る。

「ただいま、です。Pさん!」

「おかえり、智絵里」

  

 久々に会話をしたかと思うと、智絵里は間髪入れずに俺の胸元目掛けて飛び込んできた。

 事務所でこれはマズいだろとは思いつつも、避けるわけにはいかないので受け止める。

 えへへ、と声を漏らしながら胸板に頬を擦りつける智絵里は、やっぱり小動物のようだ。

 智絵里には悪いが、ここは事務所の中で、周囲には事務員もいる。流石にこのままでいるわけにはいかない。

「あの、智絵里……そろそろ離れて」

「お願いします、Pさん……もう少し、このままで」

 急にしがみつく手に力が籠る。
 
「じゃあ……後三分、で頼む」

 ほんの少し項垂れながら、妥協案を出す。

 智絵里は顔をワイシャツに埋めながら、小さくうなずいた。智絵里の息がワイシャツを通り抜けて体に当たるのがくすぐったい。
 
 

 幸せいっぱいの表情を浮かべる智絵里を見ていると、三分とは言わずにもう少しこのままでもいいかなとは思ってしまう。

 智絵里は男と話すのが苦手な方だったというのに、一体いつからこんなに警戒心なくすり寄ってくるようになったんだか。

 俺は智絵里にとって父親みたいな感じなのだろうか。よく分からない。父親って年齢でもない。

 離すまいと言わんばかりにぎゅーっと抱き付く智絵里の頭を、なんとなく撫でる。さらさらで触り心地のいい髪質だった。

 傍から見たらセクハラ以外の何物でもないのですぐに手を放す。

 事務員の視線は未だにこちらを捉えている……やっぱり早く離れないとダメな気がする。

  

「プロデューサー、何をしているの?」 

 冷たい声が、背中に突き刺さる。
 俺は何故か、後ろの少女に恐怖を感じた。

「千秋、おはよう」

 後ろを振り向かずに、挨拶を交わす。

 素早く智絵里の両肩に手を置き、彼女には悪いが少々強引に引きはがす。
   

「智絵里。俺が今担当しているアイドルの黒川千秋だ」

「……初めまして、黒川さん」

 智絵里は、さっきまでの笑顔が嘘のように引っ込み……いや、口元は笑っているように見えるが、何故か笑顔に見えない――という謎の表情をしていた。

「千秋。俺が過去に担当していたアイドルの緒方智絵里だ」

「初めまして、緒方さん」

 変わらず、千秋は無表情だ。声色もどこか冷たいままだ。

 その後、何とも言えない無言の空間が続く。

 理由は分からないがとても居心地が悪く、嫌な感じの空気が漂っているような気がした。
  
    

「プロデューサー、仕事よ。行きましょう」

 嫌な空間は、千秋によって強引に破られた。

「え? ちょっと待て」
 
 仕事は午後からだった筈だ。

「ぐずぐずしない!」

 千秋は俺の右手を取ったかと思うと、急に早足で事務所を出ようとする。

「智絵里、悪い。また後で」

 右手を千秋に引っ張られながらも、後方の智絵里に視線を移す。

 俺の言葉に反応を見せず、智絵里はじっと俯いて佇んでいた。

 事務所の扉が閉まる瞬間、不意に智絵里が顔を上げる。


 その時、智絵里は――







 ――能面のような表情を浮かべていた。

  
寝ます
 智絵里が帰って来てから数日が経った。
 智絵里が帰ってきたその日から、千秋は情緒がやや不安定になり心配だ。

 携帯でメールを確認する度に誰からのメールか聞くようになり、一度一緒に事務所を出ると、仕事が終わっても中々事務所に戻りたがらない。

 挙句の果てにやたらと体をくっつけて来て困っている。それも、恋人のようにくっつくのではなく、鬼気迫る表情だったり、悲しそうな表情だったり、決して離さないと言わんばかりに強く掴んで来たりと、少し様子がおかしい。

 そして、智絵里と会話していたり、会話しようとすると強引に中断させ、仕事もないのに仕事だと言って事務所を出ようとする。今や誰もが知る大人気アイドルだからライバル視しているのだろうか、そう思ったりもするが違和感は拭えない。

 近い内に何とかしなければと思いつつも、中々行動に移せずにいた。

 今日は、まだ千秋を見ていない。


 今は、事務机の隣に椅子を持ってきて、にこにこ笑みを浮かべている智絵里と会話をしていた。

 新曲の感想を聞かせて欲しいと言われ、イヤホンを片耳に入れて、智絵里の曲を聴く。

 大人しめの曲だった。彼女のイメージとぴったりな。

「Pさん、私の新しい曲、どうですか?」

「相変わらず魅力的で綺麗な声をしているな、智絵里は」

 片耳に入れていたイヤホンを抜き、智絵里に返す。相変わらず守ってあげたくなるような可愛らしい声だった。
 感想を聞いて、智絵里は恥ずかしそうに顔を赤らめて俯いてしまう。

「あ、あぅ……えと、きょ、曲の感想をお願いします」

「いい曲だと思うよ、お世辞抜きにさ。智絵里は昔から歌唱力高かったから、更に上達した今ではもう敵無しだな」

 昔は歌唱力があったが圧倒的に肺活量は足りていなかった。それが今では改善され、更に歌唱力も磨かれたために、歌姫と謳われる如月千早にも匹敵するんじゃないかと思える。
  
コテ間違えました

「あの、Pさん。お仕事頑張ったので……頭を撫でてくれませんか?」

「ははは、いいよ」

 承諾したのはいいものの、少し気恥ずかしい。視線を少しだけ逸らせながら、髪がぼさぼさにならないようになるべく優しく智絵里の頭を撫でる。

 相変わらずさらさらしてておっそろしいほど触り心地のいい髪だった。相変わらずと言っても前に触ったのはつい最近だ。

「えへへ」

 気持ちよさそうに言葉を漏らす智絵里。大人の男に対して無防備すぎるような気がしなくもない。不安だ。
 

「おはよう、プロデューサー」

 不意に後ろかかる声。振り向けば、千秋が佇んでいた。彼女は無表情で、どこか暗い表情をしていた。

「おはよう、千秋。早いな」

「えぇ、早起きしたの。プロデューサーに早く会いたくて」

 いつも智絵里と会話をしていると強引に中断させようとする千秋だが、今日は存外大人しい。
 千秋は何故か、全体的に雰囲気が暗く、幸薄そうな感じになっていた。彼女に一体何が起きたのだろう。

「とりあえず、今日の仕事の確認でもするか」

 智絵里に目配せすると、察してくれたのか「また後で」と言い残して席を外してくれた。
  

「…………」

「千秋、最近様子がおかしいけど大丈夫か」

 智絵里が座っていた椅子を引き寄せ、千秋は俺の隣に座った。何故か凄く近い。

「プロデューサー、私の頭も撫でて」

「え?」

 私の、という事は智絵里を撫でているところを見ていたらしい。

「嫌じゃないなら、いいけど」

「嫌じゃないから、お願い」

 暗い声で懇願する千秋。本当に大丈夫なのだろうか。
 

 恐る恐る彼女の髪に触れ、撫でる。

 智絵里は小動物みたいな感じだから撫でるのにあまり抵抗はないが、高翌嶺の花と言った感じの鋭利な雰囲気を持つ千秋に触れるにはかなりの勇気が必要だった。

 智絵里に負けずとも劣らず、心地よい手触り髪だ。どうして女の子の髪はこんなにも触り心地がいいのだろう。

「……幸せ」

 ぽつりと、彼女が小さく呟いた。

「幸せ、なのか」

 それに対し、よく分からない返事を返す。

「えぇ……とっても、幸せ」

 撫でられて、くすぐったそうに微笑む千秋。ようやく笑顔を見せてくれて、思わずほっとした。
 

「だから私は、この幸せを絶対に逃さないの」

 千秋は、頭に乗せている手とは別の方の手を取り、自分の頬にくっつけた。彼女の手はひんやりとしていて、心地よかった。

 幸せそうな表情を浮かべる千秋は、女神と言われても納得するぐらい綺麗で、どこか儚い。
  
1:むぶろふすか ◆gijfEeWFo6 [saga]:2013/05/16(木) 00:22:38.51 ID:R6BEvH9r0
388 :ぱりぱりうめ ◆gijfEeWFo6 :2013/11/04(月) 01:45:24.49 ID:3MEKEC0p0

半年経ちそう……

寝ます

22:22│モバマス 
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