2013年11月08日

雪歩「たかゆきはよ。はよ」

遅れに遅れたアイドルマスター萩原雪歩誕生日記念。

・四条さんに幸せになってほしかった。
・この雪歩はゆりしーです。
・この四条さんは人間です。


各種注意書きはありません。
個人的事情によりPが特定人物をモデルとした名無しのオリキャラであり、これにより原作準拠の曲は現在使用される予定がありません。

私信、ekrさんへ。及び天使へ。

以下、本文

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1356491019

萩原雪歩

幽華仰月 自由律
『遥か空にまろぶ君へ』

---

「お兄さまァ……お兄さまァ……私です……あなたの許嫁です……」

 壁を叩きながら、向こうで目を覚ましたお兄さまに声をかけます。
 お兄さまは、私のことを覚えていないというのです。
 私は髪を振り乱し、首に痣を巻きつけて、照明の下、嗄れた声を張り上げました。



 第二回目の公演も無事に終わり、みなさんに挨拶をして、楽屋に戻ってくると、鏡の前に、ちょん、と、小さな鉢植えが置かれていました。『祝 萩原雪歩様』。差出人の名前はありません。小さな鈴なりの、下を向いた、白に近い淡い紫の花。アキチョウジだと思います。
 嬉しくなって、でもすぐに申し訳なく思いました。お礼をしたいな、と思ったのです。わざわざ公演中に楽屋に届くということは、多分関係者の人だから、スタッフに訊いてみれば何かわかるかも。

 ……思った通りでした。案外早く、送り主は判明し、それからというもの、なんだかどきどきしてたまりません。舞台に立ったときのような高揚が、足元にふわふわとした感覚を伴って、私の血を上へ上へと押し流していきます。

「四条さん……」

 思っていたより、声が弾んでしまいました。恥ずかしい……です。

「はい?」
「えっ」
「ああ、雪歩」

プロデューサーと、四条さんでした。楽屋からすぐの廊下で、立ち話をしていたようです。

「お疲れさまです、萩原雪歩……素晴らしい舞台でした」
「ありがとうございます。今日は、どうして?」
「無論……あなたの舞台を、観るためですよ」

 嬉しい。その怜悧な優しい眼が、私の姿を、照明の白色の輪に浮かぶ私を見ていてくれたなんて。どうして気付けなかったのでしょう。



「花だけお渡しして、すぐに帰るつもりだったのですが。プロデューサーにつかまってしまいました」

 ふふふ、と笑います。プロデューサーは憮然とした顔で立ってますけど。照れくさいのでしょう。

「プロデューサー。ありがとうございます」
「勘違いしないように。土産物の安全確認は業務ですので」
「はい」

 社用車で、四条さんと一緒に事務所に戻ります。私と四条さんは並んで後部座席。膝に、鉢植えを抱えて、花と、四条さんの横顔を、交互に見つめます。気づかれないように。
 頬杖をついて、憂うように外を見ていた四条さんの顔は、街灯を受けて、周期的に光と影とが色合いを変え、長い睫毛が、まるで銀細工のようです。
 あ、眼があった。

「……」

 四条さんは、何も言わず、にこ、と微笑むと、また窓の外に視線を戻してしまいました。
 私は頬が熱くなるのを自覚しながら、膝上に視線を落とし、それから、事務所に着くまで、誰も話はしませんでした。不思議と、居心地は悪くなかったんですけれど。

 私は、四条さんのことが好きなんでしょうか?
 そんなことを、近頃考えます。
 凛とした佇まいも、女性の美しさを湛えた体躯も、その行動が『四条貴音だから』の一言で理由づけされてしまう風格も、私がありたいと思い、そうあれなかった姿のようで、出会ってすぐ、私は憧れのような感情に突き動かされて、四条さんに惹かれていったのでした。


「雪歩、お湯沸いてるよ」
「あっ、……うん、ありがとう」

 美希ちゃんに言われて、しゅんしゅんと蒸気を上げ続けるやかんの火を止めます。プロデューサーにはしょうがの擦りおろしとはちみつを入れた紅茶。四条さんと、私と、美希ちゃんと、小鳥さんに、緑茶。私たちのを淹れる前に、プロデューサーに持っていきます。どうせ、少し冷まさないといけないから。

「プロデューサー、お茶です。どうぞ」
「ああ……ありがとうございます」

 給湯室に戻ると、美希ちゃんが立ちあがって、私の前でくい、と頭を下げました。背中に腕を回して、斜め下から上目づかいをする、美希ちゃんお得意のポーズ。

「珍しいね、考え事?」
「珍しいって……」
「お茶淹れてる時にぼーっとするなんて、珍しいかも」
「ああ、そういう」

 少し、相談してみようかな、と思ったのだけれど、何を訊けばいいのかわからなくて、曖昧に笑い、一口香を差し出しました。お盆から一つつまみあげて、立ったままぱくっ、と齧りつきます。行儀が悪い、なんて言われそうだけれど、そんな言葉よりもまず、美味しそう、なんて思ってしまう。彼女には、そんな魅力がありました。

「雪歩」
「はい、四条さん。ちょっと待っててくださいね」

 給湯室の扉の向こうから、ひょこ、と顔を出して四条さんが私を呼びます。柳眉が下がって、困った風な表情なのは、おなかがすいているのでしょう。それが微笑ましくて、くすり、と、小さく笑いました。
 湯呑も急須も十分に温まり、お湯も程よく冷えました。みんなの分のお茶を持って、私も談話スペースのソファに腰をおろします。美希ちゃんは、給湯室からここまでの間にもう一つ一口香を食べてしまうと、私の向かいに転がって、すぐに寝息を立て始めました。四条さんが隣にやってきて、「頂きます」と、へそ菓子をつまみ上げ、折りたたんだ懐紙の上に置くと、一口、お茶を含みます。
 こくん、喉が動くのに、多分、私は見とれていました。

「正月菓子ですね」
「頂き物なんです。少し、余っちゃいそうだったので」

 もう、冬も終わります。


「これよりレッスンの時代です」

 半期に一度の、定例ライブが近付いて、レッスン内容が基礎力から本番形式に変わってくると、トレーナーさんと一緒に、プロデューサーが付き添うことが多くなりました。
 プロデューサーの一風変わった演出に美希ちゃんが大ウケして、律子さんなんかは初めこそ困っていたようですけれど、そのやり方で結果がついてきているのだから、と、最近では大分協力的になってくれているみたいです。
 開幕とトリに、名実ともにこのプロダクションのツートップ、春香ちゃんと千早ちゃんを据えて、全員が入れ替わり立ち替わり、数組のペアと、一曲オールスターを挟む、二時間以上の長丁場です。観客動員数はアンダー八千人という、余りにも大きな仕事。
 そのライブに際して、プロデューサーが私に一つの曲を手渡しました。

「これは……」
「経験上、すこし面倒なことになる場合がある。経験上ですが。私個人はそういう下界のことには興味はないのだが、浮足立って仕事に手が付かないようなら、その考え事はライブの後までしまいこんでおきなさい」
「……はい」

 それから、私を傷つけないように、と、何重にも言葉を重ねてくれました。確かに、この思慕の情に、最近の私はとらわれすぎていたのです。プロデューサーは、仕事のために、という言葉で、どつぼにはまってしまいそうな私をとりあえず掬いあげてくれたのでしょう。

「仕事場は……タブー」

 仮音源の入ったマイクロSDをプレイヤに入れて、談話スペースのソファで聴いてみます。曲調は……ロック。メタルでもパンクでもないロックのようでした。

「これ、Bパートがある……」
「じゃあそれ、ミキがいれてあげる」
「美希ちゃんが?」
「今回新譜出すの、雪歩とあずさだけなの。あずさは千早さんとハモるみたいだし、ね?」
「うん、ありがとう。じゃあプロデューサーに聞いてみないと」
「プロデューサーさんなら問題ないの。バカコーラスじゃないならだれが録ってもいいって言うと思うな」
「そうかなあ」
「そうなの。場合によっちゃバカコーラスも誰でもいいのかもしれないの。そのかわり、雪歩はミキのオーロラ、一緒にステージ出てね」

 美希ちゃんは言うだけ言って、ころんとソファで眠りはじめます。
 セパレートの向こうで、あずささんと律子さんが新曲のミュージッククリップの話をしているのが聞こえてきました。

「あずささんは、余りにも喪服が似合いすぎるんです」
「あらあら」
「未亡人系アイドルなんです。毎日お墓参りに行くタイプの」
「あの、律子さん?」
「なので、逆に今度の曲では、あずささん。あなたが死んでみませんか」
「律子さん、律子さん?」

 どうなるのでしょう。プレイヤはカードの曲が終わったことを示す画面のまま、首にかけたヘッドフォンからは何も聞こえません。早春、あるいは晩冬、窓から差し込む柔らかな日差しは温かくて、なんだか眠く……――


「雪歩、雪歩」

 誰かが私を呼んでいます。きれいなメゾソプラノ。あたたかくって、やわらかくって、ずっとここでこうして、その声に包まれていたい。

「雪歩、日が暮れてしまいますよ」
「ぴっ」

 自分が今どこにいるのか、ゆめうつつのまま知覚して、慌てて飛び起きます。

「ど、どうして、四条さんに膝枕されて……て?」
「最近少し、考え事をしていたようですから、起こすのも忍びなく」
「でも、なんで、その、膝……」
「だめでしたか?」

 眉を下げて、困った顔。私は、そんな顔をさせたいわけじゃないのに。
 ちょっと恥ずかしくて、本当にただ、理由がわからないだけなのに。
 うたたねしていた私を、四条さんが、脚に乗せて頭をなでてくれていた理由が、わからない。


「いやじゃ、ないです」

 でもどうして、と、もう一度続けることはできませんでした。
 四月末のライブまで、あと二月ないくらい。
 さようなら、と挨拶をして。「貴女の髪は、柔らかいですね」と後ろから掛けられた声に、顔が熱くなって、振り向かないままコートを被って飛び出してしまいます。


「夜空は曇天……シチューの泡、雲のみどろが……」

 隠喩のような歌詞を、口ずさみます。
 恥ずかしい、とは違う。照れくさい、わけでもなかった。
 怖い? そんなわけありません。でも、そう表すのが一番近い気がするのです。
 不思議……そう、不思議でした。
 不思議なものは、怖いのです。
 男の人は、わかりません。知らないからです。私が女だからです。
 プロデューサーも男の人ですけれど、あの人は、男の人とか女の人とかの前に、今はもう、プロデューサーです。初めのほうは怖かったですけれど。
 犬は怖いです。わからないからです。知らないからです。私が人だからです。けものは言葉を話しません。響ちゃんはそんなこと無いって言うけれど。
 牙が、眼が、毛並みが、骨格が、爪が、肉球が、かかとが、鼻が、ひげが、理解できません。

 四条さんは……不思議な人です。
 不思議な人が近くて、私は、恐怖に似た感情を抱き、そのことにひどく狼狽しました。
 四条さんは、もっと、だれからも遠い、そんな風に思っていたのです。きっと、それは、私の憧れが、勝手に作り上げた四条さんで、四条さんは、もっと、きっと……。

「……よし」

 翌日は、私は午後から仮録、四条さんはインタビュー記事一枠だけ。この日を逃せばチャンスはありません。
 タイミングを見計らって、茶器を片づけ、月刊ラーメンなる謎の情報誌に読みふける四条さんの隣に座ります。

「しっ、し、しし四条さんっ」
「はい」
「…………ど、どうぞっ!」

 下を向いて、膝に手を突っ張って、何を『どうぞ』だというのでしょうか。四条さんも、首を傾げ、「あの……?」と、怪訝な表情です。私は首を振るい、脚を手でぺしぺしと叩きました。

「あのっ、昨日の、その、」

 少し思案した四条さんは、「ああ」と得心したような声を漏らし、隣に座ってくれました。ふわり、と、ほのかにウィステリアの香りが揺らぎます。

「よいのですか」
「はいっ、お願いします」
「では、失礼して」

 ころん。身長の高い四条さんは、真横に倒れるようにして私の脚に頭を乗せて。思っていたよりも頭蓋は重く、豊かな銀色の髪が流れては、絡みつきます。少し身じろぎして、形のいい頭をおなかに抱きかかえるように収めます。

「……」

 何か、呟いたようでした。恐る恐る、毛先に滑らせるようにした手を咎める声はなく、私は安心して、きしみも引っかかりもないすべやかな銀紗の髪に、柔らかな丸みを帯びる頭に、手のひらを、指先を、段々と大胆に、触れさせていきました。

「四条さんは、どうして、……私を」
「…………」

 応えはなく、沈黙が下ります。
 手を止めて、指先で髪をくるくるともてあそびます。やわらかい。
 四条さんが、少し行儀悪く、肘掛に長い脚を投げ出して、私を見上げて仰向けになりました。



「あの」
「……雪歩」

 私の、何を問うでもない問いは、小さく、小さく、息を吐くような囁き声で、力を無くします。

「萩原、雪歩」
「四条、さん……?」

 下から、たおやかな指が、温かな手が、伸びて、頬に触れる。
 まるで世界が小さくなるような、ぜんぶぜんぶ落ちていくような。
 四条さんの瞳の中に落ちていくような。
 貴女の頬は磁器のように白くシルクのように甘く、弾ける直前の柘榴のように瑞々しく。
 その瞳に映る、うかされたような陶然とした表情の私が、近づいて、近づいて、


 事務所のドアの開く音で、一気に世界が発破を食らいます。

「おかえり、春香ちゃん」
「ただいま、雪歩。貴音さんと何してるの?」
「うん……うーん、何だろう」

 春香ちゃんは、えー、何それ。なんて言って笑ったけれど、私には、本当に今まで何をしていたのか、それを表す言葉がわからなかったのです。




『あゝ 窓に あゝ オーロラ
 眼を見張れ今は 夜が歌うとき』

『祈るなら今は 願いは叶うと』

 美希ちゃんとのステージデュオ、コーラスの件は、美希ちゃんの言った通りあっさりと採用されました。私の出番は、全員で歌う曲と、新譜と、美希ちゃんとのコンビです。
 ライブ当日、千早ちゃんの伸びやかな声が緞帳を上げ暗闇を裂き、開幕を告げます。

『巡る日々に 相応しく
 キミの声は 隠されて』

 会場にサイレンが響き渡り、歓声とスモークとともに春香ちゃんと千早ちゃんがステージに現れました。

「お仕事、お仕事」

 集中しろ私、とつぶやきます。

『サイレン uh- 時が止まるよ
 サイレン uh- あとわずかで――』

 入れ替わり、立ち替わり、みんながステージに走り出ます。プロダクションのみんなと、観客のみんなと、あと、それから、何かわからないもの。気配とか、空気とかテンションとか、そういう言葉で表される、わからないもの。
 そういうものたちで構成された、なんだか、よく、わからないもの。
 不気味なほどに、高揚します。

 真ちゃんが、プログレッシヴを一曲踊りきります。
 やよいちゃんが、ダークな歌詞をかわいく歌い上げます。
――『ハーイヤッ! はいっ! やーはいやぁっ! はっ! はあーあ? ふうーう!』

 春香ちゃんは、右手をびしっと上げる決めポーズで、会場全体の雰囲気を病的なほどにヒートアップさせます。

――『私に続きたまえ』


 四条さんは、驚くことにほとんど動きませんでした。あずささんはアコースティックギターを演奏していたし、千早ちゃんも身ぶりを交えて歌っていたのに。

――『TrujilloのHaldyn―TorujilloのHaldyn』

 どう、伝えるか、の違いなのでしょうけれど。
 何重にも重ねられた優しく呼びかけるような声が鼓膜から、眼窩から、全身の肌から染み込んで、私を甘くびりびりと痺れさせていきます。

 四条さんが動いたのはついに一度だけ、最後の、最後で、眼を艶麗に眇め、腕を差し伸べるように前に上げて。

『一緒に 行きませんか』


「ぁ――――!」

 雷でも落ちたようでした。
 視界が白く埋まり、延髄に甘く重い電流が渦を巻き。

「ん……はぁっ、ぅ」

 眼をきつく閉じて、唇を噛み、腕を自分を抱きしめるようにしてしゃがみ込みます。
 息が、頬が、それ以上に胸が熱い。
 長い睫毛が、潤む瞳が。あの眼が、あの指が、私を殺してやまないのです。
 慌てて駆け寄る美希ちゃんを制し、大きく呼吸をして、むりやり息を整えます。
 プロデューサーがこっちを見ているのを感じたけれど、どんな顔をしているのか、わかりませんでした。
 はしたない、と、渋い顔?
 ……そんな風には、思えませんでしたけれど。

――『仕事場は タブー』

 そう、タブー。禁忌。でもそれもこの場まで。
 熱っぽく歌い上げます。美希ちゃんのコーラスは、ここでは別録のもの。メインMCでもある美希ちゃんの、体力を考えてのことでした。

――『グラビアの姫 人質に 
    吐息で竈に 火をつける』

 ステージが一巡したあと、初めの曲の二番を千早ちゃんが歌い、緞帳ではなくスクリーンが下ります。
 ステージの後ろに。
 これから何かがあると察した観客の人たちが、口々にアンコールを叫ぶ中、スクリーンに文字が映りました。段々と声が揃い始めます。『ウィーワット』


 頃合いを見計らって、美希ちゃんがマイク片手に飛び出します。

「まったくぜんぜんなってないの。ロックのライヴを教えてあげる。みんなで声を揃えてウィーワットと叫ぶのだよ。いい? もう一回やってみて。ミキたち後ろに引っ込むから」

 スクリーンにもう一度、同じ文字が。今度はテンポよく、すぐに声が揃います。盛り上がり、盛り上がり、絶頂に達しようかという抜群のタイミングでもう一度美希ちゃんが口を開きました。

「しかしミキたちはロッカーじゃないの! 行くよ!」

 歓声。そして照明の熱を持つ閃光。アンコール曲が、唯一の全員で歌う曲です。

――『今日の日をまた閉めて 隣人の愛を見に』

 プロデューサーは、簡単に、まあ良かった、というようなことを言って、すぐに出ていってしまいました。どうせ聞いていないって、わかっているんだと思います。春香ちゃんと千早ちゃんなんて、ハイになってキスしてましたし。
 私は、汗も拭かないで、息を荒げて真ちゃんや美希ちゃんと笑いあう自分を、ひどく冷静に観察していました。どう見ても、どこから見ても、私もライブ明けでハイテンションです。
 それを自覚して、ふらつく脚で立ちあがり、鏡台に腰をかけて水を口に運ぶ四条さんへ歩み寄りました。四条さんはすぐに私に気が付いて、微笑んで何かを言おうとするのに、飛びかかって首にすがりつき、ぐいと引きよせて妨げます。無我夢中で、感触なんてわかったものじゃない、やりかたもよくしらない、唇をぶつけるだけのそれ。

「ひゅー! 雪ぴょんやるぅ→!」
「色バカが増えた……」

 四条さんの持っているペットボトルから、水が流れて、私たちの服ににじわ、と染みが広がります。
 床が濡れていきます。濡れて。滑るくらいに。
 後で拭かなくちゃ、なんて、やっぱり妙に冷静に、私は自分を観察していました。


 ライブのあとの空気というのは、いわゆる『あてられる』ものがあって、そこであったことは、たいていおぼろげな、現実感のない、あるいはあっても言質とするには余りにも不確実な、そんな曖昧さがあるのです。
 それにしたって、私がそんなことにかこつけて、四条さんの唇を強引に奪ったのは変わりないのですけれど。
 でも、いいんです。ややこしく考えていてもぐるぐるまわるばかり。だったらもういっそ、好きだって、それだけで、そんなくらいのことで。きっとそれだけで。
 どうしようもなく、私は、強くなってしまうのですから。
 隙を見つけては、四条さんと肩が触れるほど近くに座ったり、どちらからともなく、髪や指先に触れ合ったり。
 曖昧に、曖昧に、答えを避けて。強かに。

「四条さんは私に触れてくれないですよね」

 嘘。私がそれ以上触らせないだけ。

「もっと」「もっと」「ずっと」

 ああ、ひどく、甘い毒。
 戯れに唇を、互いの手指に触れさせて。

「触れてもいいのですか?」

 ほら。四条さんはわかってるんです。私は言葉に詰まり、そして言葉に詰まったことで、私はそのことに気づきそうになるのを、必死に眼をそらそうと、抱きついて押し倒しました。
 私が、私の方が逃げている。

「もっとさわってほしいのは、本当ですよ」

 そう呟くと四条さんは唇を噛んで。私は、きっとおびえた顔をしていました。
 ごめんなさい。と言えなくて、視線を外して離れました。胸に残る四条さんの体温を、すぐに部屋の冷めた空気が奪い去っていきます。


「仕事に行きますね」

 小鳥さんにそう告げて、事務所から出ます。彼女は、どう思っているのでしょう。
 何も言わないのがらしくなくて、そんなに私は醜いのかと、鏡もないのに自問します。
 鏡はないので、応えはありませんでした。

 こんなんじゃ、ダメなんだろうなぁ。

 言いたい言葉は、ただの二文字。
 唇に指を置いて、それを象ると、言葉は白く、結露して消えた。



 プロデューサーが、大きな仕事を持ってきてくれました。
 片付けたら、もう一曲あなたに差し上げたい。と。
 片付けたら、というのはもちろん、この舞台の仕事と、もうひとつ。
 私たちに気をつかって、事務所が少しおかしな雰囲気になっているのは、わかっていましたから。

「一人芝居……ですか」
「はい。今の構想では早着替えはなし。キミならできると思います。勿論、やるやらないはあなたの自由ですが」



 オファーが来た仕事ではありません。プロデューサーが企画を立案し、スポンサーを募ってくれたのです。私のために。私たちのために。だから、それに責任を感じてはいけないのです。
 私はその仕事を是非やりたいと答え、本格的な舞台練習と調整に入ることになりました。
 そして、決意をします。

「がんばります。……いろいろ」
「そうですか」

 軽く頷くと、プロデューサーは律子さんのほうへ行ってしまいました。千早ちゃん、美希ちゃんと、インタラという新しいライブをやりたいらしいです。
 四条さんは……窓際に椅子を持っていって、座って外を眺めています。そちらに私が歩み寄るだけで、みんなが妙に緊張するのがわかりました。私は不安そうにするやよいちゃんに、微笑みかけます。多分、とても久しぶりに。

「大丈夫だよ」

 やよいちゃんは、きょとん、として、それから、笑い返してくれました。

「はいっ」

「四条さん」
「はい」

 わざと、半歩離れて立ちます。四条さんはこちらに流し眼を寄越して、距離をはかるようにその紅玉髄の瞳を動かすと、すい、と、外に向き直ってしまいました。


「私、大きな舞台、決まりました」
「ええ。聞いていました。おめでとうございます、成功を祈っていますよ」
「ありがとうございます。……それで」
「何でしょう」
「……きっと、大変だと思うんです」
「ええ」
「だから、じゃないんですけど。少し、おまじないを、したいなって」
「呪い、ですか」
「はい。いいですか?」
「私に協力できるものであれば」
「四条さんでないと、だめなんです」

 私は、その玉虫色の想いを、もう一度だけ、確かめておくことにします。


「きっと、きっと、いいお芝居にしてみせます。私だけじゃない、みんなの力で。
 そうしたら、……そうしたら、四条さん。私のことばを、聞いてください」

「……承りました」

 なんとかなるよ。絶対、だいじょうぶだよ。
 なんて。



 それから、スケジュールに演技指導や打ち合わせ、演出や舞台設計の調整等、舞台に向けた予定が入ってきて、私はいままでにない忙しさに追われて、そんな中ぽつん、と空いてしまった時間、久しぶりに道具を揃えて、お茶を点ててみることにしました。
 すごく目立ちながら抱えて来た傘を組み立てて、毛氈を敷いた事務所の簡易スタジオに立てます。
 うん。邪魔。なんなんでしょうこれは。
 一面、壁にある鏡はホームセンターで買ってきた竹垣に一輪ざしを下げて、隠してしまいます。
 火を焚いてもいい、と(驚くことに)お許しがもらえたので、茶釜を炉にかけました。
 このあたりになってくると、なんだなんだと遠巻きにみんなが集まりだしていたので、ことさらにわくわくしていた響ちゃんと、亜美ちゃん、真美ちゃんを手招きして、作法を知っていそうな伊織ちゃんに上座についてもらいました。
 掬う。注ぐ。捨てる。ひとつひとつの所作に、歴史があります。最近では、科学的な理由も。
 一番美しく、無駄がない動き。
 それをたどりながら、場に応じて細かく気を配る。
 何も、考えなくていいことが、私には必要だったのです。

「どうぞ」

 私と伊織ちゃんが軽く頭を下げるのに、慌てた様子で三人が続きます。

「あんまりかしこまらなくていいよ。脚も崩して大丈夫」

 そう言うと、後ろのほうで小鳥さんが息をついていました。いつのまにか三脚の上にカメラが据えられています。きっと後で、公式サイトにあげるつもりなのでしょう。
 もう、春でした。
 私の舞台公演は、十一月。
 半年以上、私たちには、考える時間ができてしまいました。


「茶席を設けたそうですね」
「はい。少しだけ」

 四条さんは、私と違うソファにかけて、お茶菓子を上品にやっつけています。仕草は上品に。確実に着実にやっつけて。
 事務所に巨大な傘を持ちこんだ、三日後のことです。

「……」

 かり、かり、かり、と、四条さんが竹楊枝で指先をひっかくのが、やけに目につきました。


「稽古の調子は如何ですか」
「覚えることが、多くて。でも楽しいです」
「そう……それはよいことですね」
「あの、頭、痛むんですか」

 眉を顰めて額を押さえる仕草が気にかかってそう訊ねると、四条さんは、少しだけ考えるそぶりを見せました。

「いえ……はい、少し。でももう、大丈夫ですよ」
「季節の変わり目ですし……気をつけてくださいね」
「留め置きましょう。あまり心配をかけても悪いですから」

とりあえずここまで。

「雪歩……雪歩」

 温かい声でした……触れられるわけでもないのに。

「四条さん……」
「魘されていたようですが……悪い夢でも?」

 寝惚けたまま、私は考えます。寝惚けている。私は。それを言い訳に、瞼にちらつく崩れた顔を上書きすべく、ぺたぺた、と、除き込む四条さんの気遣わしげな表情をした頬に手を触れさせました。

「いいえ……もう、大丈夫です」
「そうですか……それは、まこと、重畳」
「はい、四条さんが、いてくれましたから」
「申し訳ありません。私、あなたが倒れたと聞いて居ても立ってもいられず……」
「ありがとう、ございます」
「先ほどまで真もいたのですが……どうしても帰らなければ、と」
「あの……」

 サイドボードに置かれた時計を見ようとすると、四条さんの手がそれを伏せてしまいました。

「……?」
「夜ですよ、雪歩。食欲はありますか? 何か、温かいものを貰ってきましょう」
「……はい」

 下を向いた時計の針の音ばかりが、耳朶を打ちます。その気になればそっと覗き見ることもできたけれど。私はそれから目を外して、四条さんを待つことにしました。枕元の携帯電話が、着信アリと点滅します。
「ほっとちょこれぇと、でよろしいですか?」

 どろりとした茶褐色の。甘い。眉間に蟠るような薫り。
 それはあまりにも、静脈血を思わせる色合いで。
 くらくらする。
 私は立ち上がって、ドレッサーからカミソリを取り出すと、四条さんに見せつけるように面前に膝をつき、間に刃を挟み顔を間近に寄せました。
 息が触れるほど。指で呼べば……触れるほどの距離に。

「甘い……」
「……雪歩、危ないですよ」
「平気ですよ。なんのかんのと言っても、ただの貧血です」
「雪歩、危ないですから……」
「こっちを見てください、四条さん」
「あまり、私を惑わさないでください……お願いです」
「見せてください。そうしたらこれ、降ろします」
 何を、と言うまでもなく。四条さんは髪をばさりと流して表情を隠し、俯いて袖を捲りあげます。
 包帯にかけるその細い指が、ブラウン運動のように細かく震えているのがわかりました。

「あの……」

 私は答えません。唇を噛み、眉を下げ、瞳を潤わせ、喉がひくつくと、押し殺した嗚咽が漏れました。かぶりつきたいほど艶麗な首筋が震えます。一点の曇りもないかに思える白亜の膚。そこに、白亜は自ら瑕を成す。
 私はそれを、暴きたてるのです。盗掘者のように迷いなく、考古学者のように残虐に、原住民のように敬虔に。

 四条さんは一度きり啜り泣く声を上げると、意を決した風にして左腕の包帯を解きます。綿の伸縮性に富む筒状のそれをするりと抜き取り、テープを剥いで、黄色みがかった油紙とアクリノールの染みたガーゼをまとめて――ぴりり、と肌がひきつれて、薄紅色の傷口が破れ、ほんの、ほんの一滴、血が流れました。
 息をのむほどの。
 切り傷は原型を留めません。少し残るきれいに直線を描く傷口は、色薄く、古いものであることが一目で知れます。新しい……いえ、いつからのものなのかなど私に知る由はないのですが、今なお滲出液でてらてらと光るそれは、カミソリの走った痕を、執拗に、その爪で、掘り返し、抉り返し、剥ぎ取ったものでした。
 目立たないようにとの理由からだったはずの、手首の内側に刻まれたそれは、度重なる開拓を経て、四条さんの細い腕を一周するほどに育っています。瘡蓋になったでこぼこの濃褐色。盛り上がる薄紅色。鮮やかな暗赤色。そして、無垢の白。

 息をのむほどの、美しさでした。
「雪歩! お願い、早く、それを隠して……!」

 私は、降ろす、と、言ったのですけれど。
 四条さんのがたがたと震える手に、そっと指を絡めて、それを持たせます。危なくないように把手を、優しく、握りこませて。
 今度こそ四条さんの瞳からは、大粒の涙が真珠のようにこぼれ落ちました。

「な、んで……っ」

 私は、微笑むことができました。それが一番、自然な表情だと思ったのです。
 多分今、この胸中にあふれんばかりに満ちるこの感情は、言いようもなく美しくて。私は、そのまま手を取り導いて、冷たささえ感じない、鋭すぎる切っ先を私の腕へとあてがいます。
「いや、いや」と、駄々を言う貴女は、瞼を見開いて、震える瞳孔は縫い付けられでもしたかのように、見えない糸で曳かれるように、ぴくぴくと、刃先から外れない。
 息が荒いですよ?
 頬が、赤いですよ。
 涎が、こぼれていますよ。
 桜の花でも散らしたように。
 紅花で朱を入れたように。
 私で昂ってくれているんですか?
 私に劣情を燃やしてくれるんですか。
 ぶつけてください。
 ほとばしらせてください。
 あふれさせてください。
 こぼしきってください。
 ころしきってください。

 私は予期する甘い傷みにきつく瞼を閉じ、四条さんの手を勢いよく引きました。

「ひっ――!」
これまで。ですが次章がインタラであることもあり、少しだけ、チュートリアルを兼ねて投下します
10
 ステージの上がゆるやかに茫とした明かりを増す中、穏やかな声が響きます。

『私が列車に乗ってその地を訪れるのは何年ぶりのことだったか。
 その者は、一周期前の還弦が失敗してから眠り通しなのだと言う――』

 そして、スクリーンに命令形。プロジェクトの名を象ったという不可思議なロゴを背景に。

『呼び覚ませ!』


――CALL KISARAGI――



キサラギー!!
\ヒラs……キサラギ!!/
『もっと大きく!!』
非常に楽しいです。どこまでも私だけが。
私だけが楽しいところで今日はこれまで。気が向いたら還弦奏者、大いなる庭園に眠る彼女の名を呼んでください。
ライブの採決方法の参考にします。
キサラギぃぃ!
はい、大変結構。私だけが楽しんでいますね。

コンマ値によるインタラ判定で投下します。
 機械仕掛けの手袋のような不思議な楽器とHMDを身につけた千早ちゃんが、歓声に応え、ステージの上に置かれた椅子の上で目を覚まします。同時に始まるイントロ。

「嗄れた声――いらない言葉で洗い流す
 『ちょっと待ってね』今そこまで行くから……」

 優しい歌い出し。段々と歌声は力強く。そして弾けるサビ。

「おぉぉぉぉぉ……Day! Another-Day!」

:このレスのコンマ00〜33で一日目 34〜66は二日目 66〜が最終日
『彼女は記憶がないらしい。私は列車を止めさせ、還弦を進める方法を探ることにした』

 花道のようなもので分かたれた右側のステージの幕が上がり、汽笛の音がぐるぐると回ります。プロデューサーたちが何度もトライ&エラーを繰り返したこだわりの演出でした。
 前に回り込んだ汽笛が近付き、ステージ奥から煙を上げ、機関車が現れます。勿論電気仕掛けの偽物ですけれど。美希ちゃんが軽やかに飛び降り、歌い始めるのに構わず機関車はそのまま舞台裏へ、汽笛の音はサンプリング音源に切り替わり、そのまま曲の中へと溶け込みます。

「行く列車の塵は砂丘に文字を描く……『百年彼方の空より見守る』と
 アイリスが咲く 長い雨の夜、祈るようにキミを探して街を駆けた――」
 千早ちゃんはあたりを見回し、一点を見つめてしゃがみ込みました。スクリーンに赤い花のつぼみが映し出されます。

『彼女は己を廃墟に見出だした。私は背景を描くもの。ボックスに詰め込んだ我がコレクションを見よ!』

「いつか越えたモノクロの丘で……聴いた凍える声
 遥か空でカラフルに走る 雷鳴に変わる」

 千早ちゃんの歌声によって高台から見はらす展望は晴れ、街の影とそこへ伸びる二本の道が現れました。

『L:影の町へ
  R:影絵の町へ』

 スクリーンに選択肢が表示されます。入場時に配られたLEDライトで決を採る仕組みでした。文字の色に合わせたライトを振ることで票になるのです。集計が進むにつれて得票の多い文字の色が濃くなってゆき、三十秒ほどで決定します。

:このレスのコンマ〜49で影の町。50〜で影絵の町
1b
『影絵の町』

 美希ちゃんが読み上げ、背景は左へ流れ、コンピュータ・グラフィクスの中を奇妙な形の自転車を思わせる足漕ぎ飛行機で千早ちゃんが影絵の町へ向かいます。どことなく平面的な風景でした。

「近づく景色はバイ・デジタル 喧騒には隠れた古の
 怒れるマザーの泣き声に まだ眠らぬ擬装の都市バンコク!」

 美希ちゃんは歌い終わり、千早ちゃんが街に降りるとすぐに朗読を始めました。千早ちゃんは奇妙な装備でお芝居と歌、美希ちゃんは黒いテーラード・スーツで背の高い椅子に手をかけて、スクリーンに映るストーリーの朗読と歌を担当します。

『影絵は擬態だ、キミたちの眼は逆の色を見ている……あったぞ、赤のシナプスだ』

 千早ちゃんが街を出るとき、手にした『赤のシナプス』は補色の緑色に光を放ちました。

[1b]:アーティファクト『緑のシナプス』を入手

 街を出てしばらく行くと、道端に打ち捨てられたような金属の塊が転がっています。

『“船”だ。以前の還弦奏者のものらしい。
 彼女のマシンはここで航路を選ぶことができる』

『U:空路
  D:海路』

:このレスのコンマ〜49で空路。50〜は海路
2b
『海路』

 千早ちゃんの飛行機は翼が変形してフロートへ、機体の真ん中に空力抵抗なんて微塵も考慮せずまっすぐたてつけられた千早ちゃんの顔を映すディスプレイも少し形を変えました。機体の後ろに一対あるブースタらしき円形の機関が青く光り、波を立てて凪いだ夜の海へ滑り出します。千早ちゃんが苦々しく表情を変えます。何者かにエンゲージされたのです。

『ああ、灯台守に気付かれた』

千早ちゃんが――スクリーンの外の千早ちゃんが――歌います。

「Re-Doで! 何千回でも試みるミサイルで 何万の! 通路を閉じて威嚇する影を撃て!」

『いい船だ。すぐに灯台は背景になる……いたぞ、黄のニューロンだ』

[2b]:アーティファクト『黄のニューロン』を入手
『神経網は網としてこそ意識たる。人は人としてこそ人たる――良かれ悪しかれ』

「でぃーや! でぃーや! でぃーやいやいやい!
  でぃーや! でぃーや! でぃーやいやいやい!」

 度肝を抜く前奏でした。

「物質の朝は……コロナ状に輪を描く 飛沫高きアドレナリン
  群衆は波のごとく――Oh DUSToid,DUSToid,歩行は今快適か?」

 (群衆には見えない宇宙のユーティリティよ
   まだ見ぬキングダムをランチタイムに支え

  聞こえない歌歌い ダストのごときキミよ
   群衆には見えない宇宙のユーティリティを)

「――はい」

 片手を挙げて、なげやりにさえ聞こえるHMD越しのその返答に、会場から黄色い歓声が上がります。


 ニューロンが伸び、シナプスが接続します。科学信号が行き交いますが、色が違うためか、情報が網状に成長しきれません。

『違う……還弦奏者は緑の神経網を持つ意識なんだ。いけない、綿毛が飛びはじめている!』

「月には刹那にパトスの光 急いで登れよ無心の丘へ
  渦のように寄り添う哀楽 やがて飛ぶ空を 夢見る」

「そびえよ 丘のトーチカ 舞い飛ぶ 序章を射抜き
  狂えよ キミのトーチカ くびきを 無効と断じ」
 無数、空を埋め尽くす綿毛に果敢に放火を吹きますが、やがて千早ちゃんのマシンは落ちて、壊れてしまいました。
 静かに、地平の彼方まで白い種子に覆われて行きます。
 千早ちゃんは諦めたように寝転ぶと、そのまま埋まってしまいました。

『還弦は失敗した。彼女はまた、長い眠りにつく……。
 善意に覆われた地に、花は咲かない……私は、何もできなかった』

「胸にエナジー ケミカルは泡立ち
 バイヤーや 古タイヤや 血や肉の通りを行き
 あれがリバティ ユートピアのパロディ
 バイヤーやギガ・ムービーの絢爛の並木は晴れ

 マイナーな鬱は戯れ言 バラ色は廉価
 曰く幸せと知れ 持ちきれぬほど」

「さぁ――異臭を放ち来る キミの影を喰い
  恐怖のパレードがくる キミの名のもとに
 さぁ 地を埋め尽くすほど キミの影が産む
  狂気のパレードがくる キミの名のもとに」


(Bad End)
11
「え、このあいだのライブDVD、紀伊国屋に置かせてもらえないの?」
「如月千早の楽曲は、天使と契約を交わしていませんから。どうせ会員限定販売ですので」
「ふーん。変なの」
「変ですね。まったく」

 プロデューサーはそう言って、しょうが紅茶のインストールを終えました。千早ちゃんが以前、『歌だけで勝負したい』と言ったところ、ならばとプロデューサーが、楽曲の完全セルフプロモーションを提案したのでした。JASRACと契約しないということは、ほとんどの音楽チャートから無視され、大手CD販売店ではインディーズ枠となるため置かれる絶対数が桁違いに下がり、テレビ等の媒体を使った大規模な広告展開もほぼできないということです。その手法が軌道に乗り出してからは、一時期千早ちゃんの楽曲についてまで使用料の督促が届いたりしたけれど、今ではそんなこともありません。

「ふーん、千早さんはそういう方法を選んだんだね」
「間違っていたとは、思わないわ。でもそうね、少し、頑なだったの。あの頃の私は……」
「ねえ、雪歩」
「…………なあに、真ちゃん」
「……その、さ」

 口ごもる真ちゃん。おかしいんだ……いつも私のこと、引っ張っていってくれるのに。

「ふふ……へんな真ちゃん」
「その、包帯のことなんだけど」
「ああ、これ……ううん、何でもないよ……うん、何でもない」

 頬を擦り寄せて、眼を伏せます。一度切り裂いただけのそれはもうほとんどふさがって、少しかゆみを残すばかりでしたから、本当になんでもないのでした。
 けれど、真ちゃんは思いもかけないことを言い出します。
「貴音がやったの?」
「え? ……やだ、違うよ」

 多分私は、薄く笑ってさえいました。

「じゃあ、やらされたんだ」
「待って、どうしてそうなるの? 真ちゃん落ち着いて」
「ボクは冷静だよ! おかしいのは雪歩の方じゃないか! だって、雪歩がそんなことするわけないだろう、だったら貴音が……」
「四条さんを、悪く言わないでっ!」

 ぱぁん、と、水を打ったようになった事務所に、乾いた音。音。一瞬遅れて、じん、と手のひらに熱い痺れ。
 逆上して平手打ちをくらわせたのだとわかると、私の膝は身勝手にもがくがくと震えだします。

「あ、ぁっ……違……」
「…………ごめん、雪歩」
「なんで……」
 真ちゃんはもう、私を睨んでいなくて、初めから泣いてもいなして、今はただ、悲しそうな眼で。
 私は、どうして真ちゃんが謝っているのか、わからなくて。

「ボクのせいだ……ボクが、雪歩を守らなきゃいけなかったのに……ごめんね……」
「真ちゃんに、私の、何が……」
「……ごめん」

 小さく言い返したそれは、余りにも負け惜しみじみていて、心の底からそう思っていたのだけれど、誰か自分以外を守ろうだなんて、誰か自分以外をわかろうだなんて、思い上がりにも程がある、そのはずなのだけれど、

 胸が、痛くて。

「ほら雪歩、立って。ボクなら大丈夫だから……うん、うん、ちゃんと冷やすよ。大丈夫、腫れも残らない……。ね、今日は帰ろう。……ボクも言い過ぎたよ、うん、ボクが言うのもなんだけれど、その話はまた、今度にしよう……ね? 平気だって、大丈夫。だからさ、雪歩。泣き止んでよ……」
 翌日の午前の間に、プロデューサーからメールが届いていました。学校が終わったら事務所に顔を出すように、制服は着替えて来なさい、と。
 言われたとおりに、私はきっと、よほどひどい顔をしていたのでしょう、事務所に入ってすぐに、小鳥さんが気遣わしげにこちらを見ているのがわかりました。

「四条さん」
「雪歩」

 呼び返してきた四条さんは、けれど私に焦点があっていなくて、膝に座って首に腕を回すと、きゅ、と弱々しく抱き返してきます。ふわふわの髪に頬を擦り寄せながら肩に顎を乗せて、もう一度「四条さん」、と呼びかけました。
「雪歩……傷はもう?」
「はい、すっかり」
「そう……それは、良いことです……あれから夜毎、夢を見るのです。夢を見るのです、雪歩。私のつけたあの傷が、赤く頤を開くあの傷が、膿み、腐り爛れ落ちるように流れ落ち、ずるりと剥けた腕に映える白い撓骨が見目も鮮やかに、腐り、貴女が、ああ、腐って落ちるのです雪歩、その白く墨のようにつややかな肌が爛れて落ちるのです雪歩、私はそれを夜毎忌目に見るのです雪歩、ああ……」
「大丈夫……大丈夫ですよ、四条さん……もう傷は癒えました、四条さんが心配するようなことは何もありませんから……」
「雪歩、それは私がつけた傷なのです……あれは私がつけた……なんてこと……」
「四条さん、ほら、もう何ともないですから……本当に……ね、少し横になりましょう……良く眠れて無いんだと思います……」
おやすみ

17:43│萩原雪歩 
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