2013年11月11日

千早「隣のお兄さん」

アイマスの二次創作SS

アイドルになる前の千早の話です

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1368349208


俺の家の隣には、如月千早という名前の少女が住んでいる。


家といっても集合住宅、つまりアパートで、2階の一番右端に俺の部屋があり、その隣が如月さんの部屋に当たる。

だから、彼女は俺の唯一の”お隣さん”なのだが――俺は、彼女のことをほとんど知らない。

年齢、趣味、家族構成、交友関係……何もかもが謎なのである。

たまに挨拶程度の言葉は交わすものの、そんな話になったことは一度もない。
と言うか、話になったことすらない。

もしかしたら、如月さんは極端に大人しい性格なのかもしれない。

彼女の名前すら、アパートの管理人さんが「千早ちゃん」と呼んでいるのを聞いて初めて知ったのだ。

そもそも、しがない就活生である俺と容姿端麗な彼女がどんな理由で会話をするのかと問われれば、俺は閉口せざるを得ない。

どうせ俺も就職が決まればこのアパートを出て行くのだから、今さら知り合ったところでどうなるわけでもない。

だから、別に無理に関わる必要なんてないだろう。
相手だって、俺のことなど知ったことではないのだから。
そう考えていた俺が彼女と初めて挨拶以外の会話をしたのは、4月下旬のことだった。

ある休日の午前10時頃、学校もバイトもないので正午まで布団にへばりつこうと考えていた俺の安眠を1つのインターフォンが妨げた。

宅配便だった。親かららしい。

「おっ、イチゴか」

業者から受け取ったダンボールを開けると、中からパックに詰められたイチゴが顔を出した。
収穫からそこまで経っていないようで、赤々とした果実が食欲をそそる。

……それにしても随分と量が多い。

ダンボールから出してみると、全部で24パック入っていた。
どう考えても俺一人では食べきれない量だ。

……あ、そうだ。

ご近所さんにお裾分けしよう。

アパートに住んでいるのは俺を除いて7世帯。
3パックくらいずつ配れば丁度良い量になるだろう。

俺は冷凍食品と送られてきたばかりのイチゴで軽く朝食を済ますと、最低限の身だしなみを整えて部屋を出た。
「わざわざすまんねぇ」

「いえいえ」

にこやかに礼を言う中年男性に一礼すると、俺は6軒目のお宅を後にした。

幸いにも留守のお宅はなく、18パックのイチゴを滞りなく配ることができた。

そういうわけで、次が最後のお宅なのだが――

「……如月さんか」

俺は一番遠い管理人さんの部屋から自分の部屋まで戻る順番に回っていたため、最後は自分の部屋の手前、つまり如月さんの部屋だった。

正直な話、気まずい。
ここまでは皆、何度かちょっとした世間話をしたことがある人だったので、お裾分けも自然にできたのだが。

挨拶以外の会話をしたことがない如月さんに突然お裾分けというのは、なぜかは分からないが何だか気が引けた。
彼女のご両親だって、見たことさえないのだ。
「……ま、別になんともないだろ。お隣さんなんだからお裾分けくらい」

言い聞かせるようにそう言うと、俺は窮屈そうにパックいっぱいに詰まったイチゴを見た。
その3つを持って、俺は扉の右側にある”如月”の表札を確認した後、扉の左側にあるインターフォンを押した。

ピンポーン、と聞きなれた音が扉越しに小さく聞こえた。

「はい」

ガチャ、と扉を開きながら少女が顔を出す。

端正な顔立ちに、綺麗な声。
如月千早。

彼女と俺が、初めて挨拶以外の会話を――


「おはよう」

「おはようございます」


――しなかった。
しかしさすがに本当に挨拶だけというわけには勿論いかないので、俺は今度こそ会話を試みた。

「これ、実家から貰ったイチゴなんだけど……たくさん貰ったから、良かったらどうぞ」

「ご丁寧に、どうも」

無機質な声。

初めて成立した会話は、まるでロボットとの意思疎通に成功したかのような――よく分からない気持ちになった。

俺が輪ゴムで留めてある3パックのイチゴを差し出すと、彼女は一瞬受け取ろうと手を伸ばしたが、イチゴを見るとその手を止めた。

「ごめんなさい、私、こんなに食べられないです」

彼女はまたも無機質な声でそう言った。
予想外の言葉に俺は困惑する。

「そ、そんなに多いかな?ご家族で召し上がれば……」

「私、一人暮らしなので」

えっ、と声に出してしまった。
一人暮らし?
「如月さん、年いくつ?」

「15歳ですけど」

15歳。

今は4月だから、恐らく高校1年生。

そんな子が――なぜ。

などと思っていると、

「すみませんが、1つで結構です」

「そ、そっか」

思考を遮るように如月さんが言う。
俺がどうフォローしようか戸惑っていると、彼女は器用にイチゴを1パックだけ輪ゴムから引き抜いて礼をした。

「わざわざありがとうございました。それでは」

「あ、ああ。それじゃ」

バタン、と。
俺が言い終えるより前に、如月さんはドアを閉めた。
――踏み込むな、ということだろうか。

高校生で下宿や寮ならまだしも、一人暮らしなんて。
もしかしたら家庭事情が複雑なのかもしれない。

だとしたら俺はそこに踏み込むべきではないし、これまでもそうだった。

もう既に嫌われているのかもしれない。

しかし――”家族”という単語を聞いた瞬間の彼女の顔が、未だに俺の脳裏に焼きついている。

あの悲しそうな顔。
俺が高校生の時、あんな顔をしたことがあっただろうか。

他人の事情をどうこうしようというつもりはない――――はずなのだが。

それでも俺は、今日初めて会話をしたあの少女のことが気になってしょうがなかった。
ちょっと急用
早ければ19時頃に再開します

ちなみにこのアパートはアニメ版で千早が住んでるマンションとは違うところです
レスありがとうございます
再開します
俺は近所のCDショップでアルバイトをしている。

アパートから徒歩10分程度で、通勤には便利だ。

駅からも近いので、人の入りはそれなりに良い。
特に夕方は学生の暇つぶしスポットとなっている。

5月のある日。

シフトが入っていた俺は商品棚の整理などをしていた。

時計も午後の5時を回ろうかという頃であり、店内は学校帰りの学生で賑わっている。

「それにしても、今時CDが売れる店も珍しいよな……」

iPod世代はCDなんてレンタルで済ますものだと思っていたが。
ちなみに俺はCD買う派である。
時折自分の好きなアーティストのCDジャケットなどを眺めつつ棚の整理をしていると、背後から声がした。

「あの……」

「はい!」

接客モードに切り替えて振り向くと、

「あ……」

そこにいたのは、俺のお隣さんだった。

「えっと……こんにちは」

俺はとりあえず挨拶をする。
しかし、どうにも気まずそうにしてるのがバレバレの声になってしまった。

「こんにちは」

如月さんも挨拶を返す。
このやりとりは毎回やらなければいけないのだろうか。

というか、この前の態度からしてこの子は俺のことを嫌っているかもしれないのだ。
こうやって偶然出会ってしまった時に感じるのは気まずさだけのはずである。

しかし、それでも――――会話をしてみたい、という気になるのは何故なのだろう。
「如月さんは学校帰り?」

「はい。今日発売のCDを買いに」

……あれ?
心なしか、前に話した時よりも声が明るい気がする。
気のせいかもしれないが。

「それで、何か用かな?」

「はい。このCDを探しているんですが……」

そう言って、彼女は自分のバッグから雑誌を取り出して広告のページを開いた。

「ああ、これ?」

俺はジャケットにオーケストラの指揮者の写真が写ったCDをカートから取り、彼女に渡した。
彼女はそれを手に取ると、

「これです。ありがとうございます」

と言って頭を下げた。
「如月さん、クラシック好きなの?」

「はい。ロックなんかも少しは聞きますけど」

「へぇ。俺はクラシックなんてベートーベンくらいしかまともに聞いたことないな」

「私も嫌いじゃないです、ベートーベン。ただ、個人的には――」

前回とは比較にならないほど会話が弾む。
どうやらかなりの音楽通らしい。

クラシックについて語っている如月さんの声は、この前の無機質なそれとは全く違っていた。

しばらく雑談をしていると、如月さんが腕時計を見て言った。

「私、用事があるのでそろそろ失礼します」

「そっか。引き止めちゃって悪かったね」

「いえ、助かりましたから」
「あと、この前はイチゴありがとうございました。おいしかったです」

付け加えるように如月さんが言う。

「それでは」

「うん、じゃあまた」

俺は如月さんに軽く手を振る。
彼女は会釈だけしてレジの方へと歩いて行った。

「……あの子、あんな顔もできるのか」

正直な話――初めて話した時、如月さんには完全に嫌われたと思っていた。

しかし、今日の彼女はかなり明るかったように思える。
まるでこの前とは別人のようだった。

上手く言えないが――きっと、ただ暗いだけの子ではないのだと思う。

複雑ではあるけれど。
先ほど如月さんが買っていったクラシックのCDを眺めながら、俺は彼女との会話を思い返す。

……今思うと、如月さんと話すときの俺は気を遣いすぎて変な喋り方になってる気がする。
何というか、幼稚園の先生みたいというか、オカマっぽいというか。

かと言って、いきなり友人と話すような口調になるのもなあ。
馴れ馴れしすぎやしないか。

しかし、今の 『うん』 とか 『〜かな?』 なんて口調もどうかと思う。
心は乙女だとか思われたら困る。

どういう口調で接するのが良いのだろうか。

そんなことを考えながら、俺は日が沈むまで仕事に勤しんだのであった。
今日はこの辺まで

一応作品自体は7割くらいは書き終えていますが、
いかんせん遅筆なので投下しながら完成できればと思っています

次は明日の夕方頃に投下します
レスくださった方はありがとうございました
たくさんのレスありがとうございます
続きを投下します
あれから、よくCDショップで如月さんを見かけるようになり、話もよくするようになった。

と言っても話題は音楽の話だけで、まさしく店員と客の会話に相違ないのだが。

普段は相変わらず挨拶オンリーな彼女も音楽の話ではなかなか饒舌になるので、
俺としては彼女とお喋りをするのがちょっとした楽しみになりつつあった。

以前、どうしてうちの店に来てくれるのか聞いてみたところ、

「あの店はBGMの音量が大きくなくて雰囲気が良いからです」

との回答を頂いた。

どうやら如月さんは騒がしいのが好きではないらしい。
そして6月の梅雨の頃。
その日は昼頃から雨が降っていた。

俺は部屋にキノコでも生えてきやしないかと心配になるほどの湿気の中、
PCのモニタ上に映る文字の羅列とにらめっこしていた。

要するに大学に提出する論文を書いていた。

しかしそんな陰鬱な雰囲気の中こんな憂鬱なことをして良い成果が得られるはずもなく、
朝にはフルだった俺のやる気はエンプティに達していた。

気付けば時計は午後3時を示そうとする頃だった。
昼飯を食べるのも忘れて論文を書いていたようだ。

しかし思い出したからか、俺の腹は急に空腹を訴え始めた。

雨のせいで暗い部屋に電気をつけると、その光が先ほどまでモニタを凝視していた目を強く刺激した。
「飯あったかな……」

俺は目を細めて蛍光灯の光から保護しつつ、惣菜パンなどが置いてある籠を覗いた。

一応籠にはいくつか買い溜めておいたパンが入っていたのだが、

「……げっ、カビ生えてやがる」

パンはしっかり湿気を吸っており、1つ残らず全滅という有様だった。

この湿気はどこまで俺のやる気を吸う気なのだろうか。

一応冷蔵庫に食材はあったのだが、料理するという選択肢は最初からなかった。
こんな嫌な汗をかいている時に、火気を使う気にはとてもなれなかった。

しょうがない。
外は雨だが買いに行こう。

こんなジメジメした部屋にいるよりは、外の空気を吸ったほうが健康的だろう。

俺は6月に入ってから何度も使っている青い傘を持って、
申し訳程度に換気扇のスイッチを入れてから部屋を出た。
近所のスーパーは雨のせいか人が少なく、買い物もすぐに済むかと思われたが、
そこで偶然管理人さんに遭遇し、10分ほど世間話をした。

世間話というか、一方的に近況を聞かされただけだったが。
なんでもこの雨の中、今からカルチャーセンターへ行って3時間ほど手芸をするらしい。

なんともエネルギッシュな60歳である。

管理人さんのマシンガントークから解放されると、俺はレジ袋を片手にスーパーを出た。

ちなみに買ったものはインスタントラーメンと冷凍パスタとアイスである。

長らく食事をコンビニ弁当に頼っていたので、逆に新鮮な気分だった。

帰宅する最中も、雨は一向に止む気配を見せなかった。

傘を差していようと全身を守りきれるはずはなく、
俺は濡れた布が足にまとわりつく感覚に不快感を覚えつつアパートへと帰った。

そういえば飲み物を買うのを忘れていたな、などと思いながら階段を上がって廊下に出ると、
奥の方によく見知った人影があった。

ずぶ濡れの制服に身を包んでため息をついているその人影は――――紛れもなく、如月さんその人だった。
一体どういう状況だ。

疑問を明らかにすべく、俺は彼女に声をかける。

「えっと、如月さん?」

「……こんにちは」

「こんにちは……ってそれよりもだ。どうしたの?なんか大変そうだけど」

「……あの、実は――」


――鍵をなくした、らしい。


如月さんは簡潔に状況を説明してくれた。

「学校から帰ろうとしたら、雨が降っていて。
傘は家に忘れて来ていたから近くのコンビニで買おうかと思ったんですけど、売り切れで……。
しょうがないから歩いて帰って来たんですが、どこかで家の鍵をなくしてしまったみたいで、家に入れなくて。
探しても見つからないし、合鍵も家の中なので管理人さんに開けてもらおうかと思ったんですが、お留守みたいなんです」

だから管理人さんが帰ってくるまで待っていた――ということらしい。

なんと不幸な少女だろうか。

「そ、それは……なんというか、災難だったね」

「いえ…………へくちっ!」

くしゃみをする如月さん。
なんだか可愛らしいくしゃみである。
と、そんなことはどうでもよくて。

「如月さん、そのままじゃ風邪引くよ。とりあえずうちのシャワー使っていいから上がってくれ」

俺は家の鍵を開けて如月さんに手招きした。

「そんな、悪いです」

「如月さんが風邪引くほうが大変だよ。1人暮らしの風邪は舐めない方がいい」

「大丈夫です。管理人さんが帰ってくるまでですから」

「いや、それがさ。管理人さん、今日は遅くなるらしいんだ」

「え?」

俺は今日スーパーで管理人さんから聞いた旨を話した。

「……そうですか」

「ああ、だから外で待ってちゃダメだ。最悪風邪じゃ済まなくなる」

俺がそう言うと、如月さんは下を向いて何か思案を始め、やがて顔を上げてこう答えた。

「じゃあ、お言葉に甘えて。シャワー貸してもらえますか」

「もちろん」

部屋は換気扇のおかげで多少はマシな湿度になっている。

俺は部屋に如月さんを招き入れた。
「風呂場の場所、わかるよな」

「はい、左右逆なだけで間取りはうちと一緒ですから」

如月さんが洗面所兼脱衣所に入るのを見届けると、俺はタンスからバスタオルを取り出した。
こういうときのための新品である。

扉越しにシャワー音が聞こえたので、洗面所に入って(出来るだけ衣類を見ないようにしつつ)バスタオルを置くと、
刷りガラスの向こうに(出来るだけ目線を移さないようにしつつ)声をかけた。

「如月さん。タオル、ここに置いておくから」

『ありがとうございます』

ガラス越しに如月さんのくぐもった声が返ってくる。

シャワー音と畳まれている衣類のせいでなんだか悪いことをしているような気分になった俺は、そそくさと洗面所を出たのであった。
それから何となく気分が落ち着かないので、TVを見て過ごすことにした。
TVをつけるとバラエティ番組が映り、出演しているアイドルの女の子がカメラに向かって微笑んでいた。

最近TVでよく見るようになったアイドルだ。
まぁ、名前は覚えていないが。

整った顔で愛嬌を振りまくそのアイドルを見ていると、ふと、今自分の家でシャワーを浴びている少女の顔が思い出された。

「……如月さんも、アイドル並みに綺麗なんだよなぁ」

歌やダンスが上手ければそのままアイドルになれるんじゃないかとすら思える。
アイドル衣装なんかも結構似合いそうだ。

……そういえば、如月さんが学校の制服以外を着ているところを見たことがないような気がする。
イチゴを渡したときは扉に隠れてほとんど服なんて見えなかったし。

そう思うと、彼女の私服に俄然興味が湧いた。

如月さんの私服ってどんなのだろう。
ものすごく乙女チックなやつだったりして。
……あれ。

服というと、如月さんはシャワーを浴びた後何を着るのだろうか。

着ていた制服は濡れているはずだ。
俺の家に乾燥機はない。

と、いうことは――――

「やっべ、着替えのこと忘れてた!」

TVなんて見てる場合じゃなかった。

気付けばシャワー音も止んでいる。
遠慮深い如月さんのことだ、濡れている服をそのまま着てしまいかねない。

俺は慌てて洗面所の方へと向かい、その扉をノックしようとした。

しかし、タイミングが良いのか悪いのか――

ガチャ、と。

中から一糸纏わぬ如月さんが、ひょっこりと顔を覗かせた。


……全身は見てないぞ。ちらりと肩が見えただけだ。念の為。
「えっ……」

「あっ……」

どっちがどっちの声かは分からないが、お互いによく分からない声を発して時間が凍りついた。
実際はものの1、2秒だろうが、1分ほど固まっていたような気すらする。

まぁ、そんなのは気のせいで。

バタンッ!

目が合った瞬間、ものすごいスピードでドアを閉められた。

壊れてないだろうな。

直後、ドアの向こうから如月さんの上擦った声が聞こえる。

『なっ、なな、なんでそこにいるんですかっ!』

「な、なんでって……如月さんこそなんで開けたんだよ!」

『わ、私はただ乾燥機がないか聞こうと思って!声が届くようにちょっと開けただけです!』

「お、俺だって着替えどうするか聞きに来ただけで……!」

『それならもっと早く聞いてください!』

怒られた。
確かに俺に非があるのは間違いないのだが。
「あ、あの……さっきは感情的になりすぎました。すみません……」

着替えを終えてリビングに来た如月さんがまず口にしたのは、謝罪だった。

「いや、俺が気付かなかったのが悪いんだ。こっちこそすまん」

「それは私も同じです。お世話になっている身で、あんな……」

「じゃあ誰も悪くなかったってことで。あれは事故だよ。な?」

「でも……」

「よし、この話はもうやめにしよう!はいはい、やめやめ!」

俺は会話を強引に中断させる。
こうでもしなければ、彼女は延々と謝り続けそうな気がしたからだ。
ところで、如月さんが今何を着ているかについてだが――

「服まで貸してもらって……本当に、何とお礼をしたら良いか」

「ん、如月さんが嫌じゃないならいいんだ」

――というわけで、現在彼女は俺のTシャツとジーンズを着ている。

下着は止むを得ず濡れたものを着けてもらった。
裸Yシャツとか想像した奴は腹筋を100回やれ。

「男性の服はやはり大きいですね。丈がかなり余ってます」

「でも、如月さんは結構身長高いよな。160あるんじゃないか?」

「一応162�あります」

「だよなー、最初高校生に見えなかったし。よく大人っぽく見られないか?」

「ええ、まぁ。……ところで、なんでさっきから腹筋をしてるんですか?」

「自分への戒めです」
60回あたりでさすがに疲れてきたので腹筋をやめると、

「まだ60回じゃないですか」

と如月さんが言う。
っていうか数えてたのか。

「最近ほとんど運動してないからな……如月さんも体育会系って感じじゃないだろ?」

「腹筋なら毎日200回やってますよ」

まさかだった。

「そりゃすごいな……何か運動部にでも入ってるのか?」

俺がそう聞くと、如月さんの表情が強張った。
何かまずいことを聞いただろうか。

「……いえ、部活には所属してません。腹筋も、運動不足にならないように」

そう言って、如月さんは俯いてしまった。
会話がぎこちなくなる。
俺はその空気を変えようと、唯一知っている彼女の趣味――音楽の話題を持ち出すことにした。

「そういえば、如月さんがお勧めしてたCD、聴いてみたよ」

そう言いながらCDコンポの再生ボタンを押すと、優雅なピアノの音が流れ始めた。
その音楽を聞くと、如月さんはゆっくりと顔を上げた。

「カール・ツェルニー……覚えていてくれたんですね」

如月さんがCDショップにいるときと同じ顔になり、俺はほっと胸を撫で下ろした。

「俺にはクラシックなんてよくわからないけど、この曲は集中したいときによく流してるよ」

「そうなんですか?てっきり『眠くなる』と言うものかと……」

「一体俺を何だと思ってるんだ」
如月さんは、微笑を浮かべながら答える。

「そうですね……でも確かに、印象は最初に話した時と違います」

「え?俺が?」

「はい。雰囲気と言うか……口調、変わりました?」

「え、マジで?」

いつの間に変わったんだ。

「最初は、その……ちょっと変わった趣味の方なのかと」

「……理解できてしまう自分が嫌になるよ」

要するにオカマっぽかったらしい。
それは如月さんに気を遣ってのことだったのだけれど。

「印象が違うと言ったら、如月さんもだな」

「そうですか?」

「ああ。最初に話したとき、あまりに淡白だったから嫌われてるのかと思った」

「……そんなに冷たかったですか?私」

俺が揶揄い気味に言うと、如月さんは不思議そうな顔で聞き返してきた。

「私、人付き合いが苦手なので。他人との距離感があまりわからないんです」

付け加えるように如月さんは言う。
しかし、彼女自身にそれを気にしている様子はない。
「今の俺の印象ってどんな感じなんだ?」

「そうですね……近所のお兄さん、って感じでしょうか」

「感じも何もそうだからな」

俺がそう言うと、如月さんが薄く笑う。
やはり美人である。

「お兄さんといえば、如月さんは兄弟とか――」

と。
そこまで言って気が付いた。

きっと触れるべきでない――如月さんの”家族”。

沈黙が訪れ、優雅なクラシックが耳障りなほどに大きい。

しまった――

そう思った時にはもう、笑顔は彼女の顔から消えていた。
「……兄弟は、います。一応」

如月さんは言葉を絞り出すように喋った。
しかしその様子は、とても見ていられないほど苦しそうで――

「なぁ、如月さん。腹減ってないか?」

――俺は、無理矢理会話を断ち切った。

「え……?」

「そろそろ5時半になるし、ちょっと早いけど晩飯にしようぜ。俺の手作りで良ければ」

呆気にとられる如月さんを余所に、話を続ける。

「それにしても、料理なんて長らくやってないな。1人暮らし始めたころはしょっちゅうやってたんだけどな」

俺はキッチンに向かって独り言のように言った。
「夕食、食べてってくれよ。1人で食べる食事にも飽き飽きしてたんだ」

俺は如月さんに向き直ってそう言った。

如月さんは最初驚いたような表情をしていたが、

「……本当、お人好しですね」

そう言って、困ったように微笑んだ。


その後、俺は手料理を如月さんに振る舞い、「思ったよりは美味しいです」との微妙な評価を頂いた。

管理人さんが帰ってくる頃には、雨はすっかり止んでいた。
ちょっと休憩
1時間後くらいに続き投下します

というかハイペースで投下しすぎかもしれない……
頑張って早く書き終えたいと思います


>>24
みかんなら2箱貰ったことがあります
連日尿が黄色くなりました
如月さんが帰ってから約3時間後。

論文の続きを書いていると、無線マウスの電池がなくなってしまった。
マウスがなくても論文は書けるのだが、さすがに操作が不便なので俺はコンビニまで電池を買いに行くことにした。

外に出ると、雨上がりだからか意外に肌寒かったので、俺は一度部屋に戻って上着を着てから外に出た。

コンビニまではそこそこ距離があるが、歩いて行くことにした。

別に特別な意味はない。

昼間に如月さんに運動不足を指摘されたからだろうか。

そこそこ距離があるとは行っても、徒歩で10分かからない程度である。

コンビニに着いた俺は、乾電池ってこんなに高かったっけ、なんて思いつつ4本入りの単4電池をレジへと持っていった。
そしていかにもダルそうに対応するレジの店員に心の中で苦笑しながら、俺はコンビニを後にした。

外を歩くと、濡れたコンクリートの匂いが鼻腔をくすぐる。

俺はこの匂いは嫌いじゃない。

これも特に理由はないが。

そんな感じで梅雨の季節を感じながら歩いていると、

『…〜…〜♪』

「ん?」

どこからか、音楽――いや、歌声が聞こえる。
俺はなんとなく気になって、その声の元へ歩を進めた。

セイレーンの歌声に魅入られた人間は、こんな気分だったのだろうか。

少しだけ歩くと、大きめの公園に辿り着いた。
歌声はその公園の真ん中から聞こえる。

『 Start この My Life Song 私の歌声でどこまでも響け 』

ここまで近づくと、歌詞もはっきりと聞こえる。

それにしてもかなり上手だ。

聞いている人に訴えかけるものがある気がする。

『 Feel 感じるまま 好きなメロディーでいい それを心と呼ぼう 』

俺はその声を、その歌を、もっと近くで聴きたいと思った。

足は自然と公園の中へ向いていた。
『 Stay この My Love Song エールくれる人よ 愛を込め贈ろう 』

歌声に近づくと、段々と歌っている人の姿が見えてくる。

公園の中心――――噴水の前。
声の主は、そこにいた。

『 Shine 輝いて ねぇ幸せあれ 今明日が生まれる 』

その綺麗な歌声は、雨上がりの空へと吸い込まれていく。

『 終わらない My Song... 』

そして歌が終わったのか、声の主はすーっと肩から力を抜いた。

パチパチパチパチ――――

気がつけば俺は拍手をしていた。
それほどに素晴らしい歌だった。

「とても良い歌だったよ――――如月さん」
俺は賞賛の拍手をしながら、声の主――如月千早に声を掛けた。

「え?」

当の彼女は歌に夢中だったのか、今まで俺に気付いていなかったようだ。

「よう、こんばんは」

俺は軽く挨拶をする。

「あ――」

すると、彼女はこちらに気付いたようで、

「こんばんは」

と、挨拶した。

いつものやりとり――だが、『こんばんは』はこれが初めてだった。
「どうして、ここに?」

ラフな格好の如月さんが俺に聞く。

「コンビニに行って帰る途中で歌声が聞こえたから、気になってね」

俺がそう答えると、如月さんは俺が持っているレジ袋を見て納得したようだった。

「如月さんは、どうしてここで歌を?」

今度は俺が聞く。
すると如月さんは、俺から自分の背後にある噴水へと視線を移した。

「特に理由はないです――――ただ、歌いたくなったから」

初めて話した時のような、無機質な声。

「へえ……」

俺は曖昧に相槌を打った。
きっと、これも深く聞かない方がいいのだろう。

「……やっぱり、優しいんですね」

「へ?」

如月さんが振り返って急にそんなことを言うものだから、俺は間抜けな声を出してしまった。

「答えになってない返事でも、それ以上追求しないから」

如月さんはそう言うと、今度は夜空へと視線を移した。

ついさっき夜空に吸い込まれた自分の歌声を、懐かしむように、または慈しむように――――微笑を浮かべながら、彼女は語り始める。

「……私、歌が好きなんです。クラシックも趣味としては好きですけど、それよりもずっと歌が好き」

CDショップで見るのとは、全く違う如月さんの顔。
その表情は、どこか懐かしそうで、でも少し悲しそうで。
「だから――将来は歌手になりたいと思っています。夢や理想ではなく、本気で」

そう言う如月さんの瞳は、強い意志を宿していた。
”本気”という言葉に呼応するように。

だから、俺は言った。

「なれるさ」

無責任な言葉かもしれないけれど。

「如月さんなら、きっと凄い歌手になれると思う」

根拠はちゃんとあるから。


「俺は、君の歌がもっと聞きたい」


「っ……!」

如月さんが目を見開いて俺を見る。

「……ゅ、ぅ……」

彼女がポツリと呟いたその言葉の意味を、俺は理解できなかった。

「如月さん?」

俺が声を掛けると、彼女はハッとして、

「ご、ごめんなさい……少し、ボーっとしてしまって」

「大丈夫か?もしかして今日の雨で風邪を引いたんじゃ……」

暗くてわかりにくいが、よく見ると顔色も悪い。
「い、いえ。大丈夫ですから」

「大丈夫には見えないぞ。気温も低くなってるし早く帰ったほうがいい」

俺は上着を脱いで如月さんに差し出した。

「これ着てくれ。そんで一緒に帰ろう」

「そんな、悪いです。本当に大丈夫ですから」

「いいから。さっさと帰るぞ」

俺は半ば無理矢理上着を如月さんの肩にかけて、彼女を促した。

「……わかりました、私の負けです。大人しく帰ります。ですからそんなに怖い顔をしないでください」
怖い顔?
そう言われて意識すると、顔面にかなり力が入っていたことに気が付いた。

なぜ?

どうして俺は、あんなに必死になったんだろう?

如月さんの体調が悪そうだったから?

それだけで、あんなに?

一体どうしたんだ、俺?


そんな疑問が、帰る途中もずっと俺の頭の中を巡っていたのであった。
今回はこの辺まで
次回の投下は明後日の夕方頃になります

それにしてもこの千早は警戒心ゼロですね
将来が心配になります
たくさんのレスありがとうございます
続きを投下します
翌日。

俺は相変わらずPCのモニタを睨みつけていた。

ただ、空が晴れて昨日より少しは湿度が低いためか、進行はそこそこ良かった。

この調子なら論文も今週中に上がるかもしれない。

ッターン、と小気味よくエンターキーを叩く音が響くと、俺は椅子に座ったまま伸びをした。

「休憩にするか……」

時計に目をやると、時刻は午後4時だった。
一段落するには丁度良いタイミングだろう。
コーヒーを飲みながらテレビをボーっと見ていると、

ピンポーン

と、俺の部屋のインターフォンが鳴った。

誰だろう。

一瞬思案すると、1人だけ思い当たる人物がいた。

「ああ、如月さんが昨日貸した服を返しに来たのかな?」

そう自分の中で見当をつけると、俺は「はーい」と声を出しながら戸を開けた。

しかし、俺の予想は全くもってはずれていた。

「あ、えっと、すみません」

戸の前に立っていたのは、見覚えのある制服に身を包んだ、全く見知らぬ女子高生だった。
俺が聞く前に、目の前にいる見知らぬ女の子は自らの素性を語った。

「あの、私、如月千早さんのクラスメイトなんですけど、学校からの連絡のプリントを……」

そう言って、彼女は俺にプリントの入ったクリアファイルを差し出したが、

「えっと、如月さんの部屋はそっちだけど」

俺は隣の部屋を指差して言った。

「え?あれ?」

彼女は戸の脇にある表札を見た。
その表札には”如月”と書かれている。

「あー、このアパートね、表札とインターフォンの場所が左右別なんだ」

俺は、自分が開けている戸に隠れている自分の表札を指で示した。
「ご、ごめんなさい!私、部屋番号を確認してなくて!」

そう言って、彼女は慌てて頭を下げた。
その必死な様子に、何だかこちらまで申し訳ない気持ちになってくる。

「い、いや、それはいいんだけど。如月さん、今日学校行ってないの?」

「は、はい。風邪でお休み、って伺ってますけど」

風邪。

よく考えたら当然だ。
昨日あんなに雨に当たった上に、薄着で夜出歩いたりしていたのだから。

それに、昨夜は顔色も悪かった。

「そっか……」

俺は隣の部屋に目をやった。

自然に、心配だ――と、思った。

「あの……如月さんとお知り合い、なんですか?」

余所見をしていた俺に、目の前の彼女が言った。

知り合い。

まぁ、知らない仲ではないだろう。
昨日は家に上げたわけだし。

……よく考えると、俺は結構とんでもないことをしていたんだな、と今更ながら冷や汗が出た。
「ああ、そうだよ」

俺がそう答えると、彼女は再び申し訳なさそうな顔をして言った。

「あの、図々しいのを承知でお願いしたいんですけど……このプリント、私の代わりに如月さんに渡してくださいませんか?」

「……どうして?」

俺は率直な疑問を返した。
すると、彼女は俯きながら口を開いた。

「……私、如月さんのこと、苦手で」

「苦手?」

「はい……話しかけても素っ気無いし、他人とも積極的に関わろうとしないし……クラスでも浮いてる、っていうか……」

昨日、如月さんが言っていた事を思い出す。

『私、人付き合いが苦手なので。他人との距離感があまりわからないんです』
「ご、ごめんなさい……やっぱり、図々しいですよね」

目の前の彼女は俺の無言を拒否と受け取ったのか、頭を下げて謝っていた。
俺は慌てて表情を取り繕うと、

「い、いや、そういうわけじゃないんだ。そういうことなら、俺が渡しておくよ」

そう言って、彼女からクリアファイルを受け取った。

「ありがとうございます……ごめんなさい、こんなこと頼んじゃって」

「ああ、それはいいんだ。ただ――」

如月さんについて、俺が唯一知っていること。

「――如月さんのことはあまり責めないでやってくれ。悪い子ではないんだ」

それを、真剣に目の前の彼女に伝える。

「歌についても、誰よりも真剣なんだ。ちょっと不器用なだけで」
ミスです
>>77と>>78の間には以下が入ります



「合唱部の友達にも聞いたんですけど……如月さん、合唱部でも孤立しちゃってるみたいで」

「え?如月さん、部活入ってるの?」

「はい、合唱部に。……今は、行ってないみたいですけど」

確か昨日、如月さんはこう言っていた。

『……いえ、部活には所属してません。腹筋も、運動不足にならないように』

「…………」

初めて知った事実に、俺は動揺を隠せずにいた。

15歳の少女が、一人暮らしで友達もいないなんて。

前々から感じていたことではあるが――――やはり、普通じゃない。

そう思うと、知らない仲ではないと思っていた如月さんが急に遠く感じられた。
「わ、わかりました」

俺の真剣な表情に気圧されたのか、彼女は恐る恐る頷いた。

……最近、顔に力が入りやすいみたいだ。参ったな。

「これは俺が責任を持って渡しておくよ。わざわざありがとう」

俺は表情を上手く切り替えて、話を本筋に戻した。

「は、はい。ありがとうございます。それでは、失礼します」

「ああ、気をつけてな」

彼女は一礼すると、小走りで階段を下りていった。
その姿が見えなくなると同時に、俺は隣の部屋へと視線を移した。
ちょっと休憩
少ししたら再開します
再開します
ピンポーン

聞き慣れた音。
でも実際にこの部屋のこの音を鳴らしたのは2回目だ。
しばらくして、ゆっくりと目の前の戸が開いた。

「はい……」

弱々しく、擦れるような声と共に顔を出したのは、額に冷却シートを貼った如月さんだった。
昨日の夜よりも確実に顔色が悪い。

「こんにちは、如月さん」

「あ――こ、こんにちは……」

如月さんは俺の顔を見るなりばつの悪そうな顔をする。

「風邪、大丈夫?」

「……はい」

「本当に?」

俺は如月さんに念を押す。
昨日もこう言って――結局大丈夫じゃなかったから、こうして風邪を引いている。

きっと、如月さんはそういう無理をしがちな子なんだろう。
「…………」

如月さんは無言で俯いている。
自分の状態を正直に言おうかどうか、迷っているのだろう。

正直、大丈夫かどうかは顔を見れば一目瞭然だ。
どう見ても辛そうである。

しかし、俺は彼女の口から話してもらいたかった。
自分だけで抱え込まないことを――――人に頼ることを、知ってほしかった。

「…………」

「如月さん」

「…………本当に」

如月さんは、俺の目を見ずにポツリと言った。

「本当に、大丈夫ですから」
「……そうか」

俺は平静を装って返事をした。

今のやりとりがどういう意味を持つのか――――多分、如月さんも解っている。

だから、これは明確な拒絶。
俺に頼ることはないという意思表示。

それが、ただ悔しかった。

「……どうして、私が風邪だと?」

無言の俺に、如月さんが言った。

そうだ。
当初の目的を忘れてはいけない。

「ああ、実は――」

俺は先程あったことを如月さんに話した。
もちろん、頼まれた理由は伏せたが。

「……そうですか、わざわざありがとうございます」

そう言って、如月さんは俺からクリアファイルを受け取った。
「如月さん、ちゃんと飯食ったか?」

「はい、まぁ」

「薬は?」

「大丈夫です」

「そうか」

短い会話。
それでも、俺は今から何をすべきか分かった。

「じゃ、俺は戻るよ。ベッドで横になってゆっくり休むといい」

「はい。わざわざありがとうございました」

「それじゃ」

「ええ」

白い顔をした如月さんを背に、俺は部屋に戻った。
数十分後。
俺は再び如月さんの部屋の前にいた。

……端から見たら、完全にストーカーじゃないか、俺。

でも、あんな状態の如月さんを放っておくわけにはいかない。
無理したがりな人間ほど一人にして危ないものはないのだから。

ピンポーン

何度も立たせて申し訳ないと思いつつ、俺はインターフォンを押す。
数秒して、戸が少しだけ開いた。

「はい……」

そこから顔を出す如月さんの顔色は、やはり良いとは言えない状態だった。

「何度も悪いな。お粥と風邪薬、持ってきたから受け取ってくれ」

「え?」

如月さんは呆気に取られている。
「あの……ご飯とお薬は大丈夫だと……」

「本当に?」

「…………どうして」

「如月さんの『大丈夫』は信用できないからな」

「そうじゃないです。どうしてそんなに私に構うんですか」

咎めるような声。
そう言う如月さんの目には明らかな非難の色が表れていた。

「さっき私は『大丈夫』と言ったはずです」

「昨日そう言って大丈夫じゃなかっただろ」

「そういう話じゃないでしょう。意味が解ってないのなら教えてあげますけど、あれは『大きなお世話だ』と言ったんです」

「でも放っておけない」

「だから――――一体あなたは何がしたいんですか!?」

如月さんの声が怒声へと変わる。
「…………」

そんなこと――俺だってわかっている。
何がしたいかなんて、俺にだってわからない。

でも、俺は――――

「君にそんな顔をして欲しくない」

「だったら……!」

「君は、もっと良い顔ができるだろう?」

音楽について語っているとき。
歌っているとき。

この子は本当に良い顔をする。

俺は――――ただ、そんな顔を見たいだけなんだ。


「だから、早く元気になって店に来てくれ。公園で歌ってくれ。頼むから――」

――一人でそんな寂しそうな顔をしないでくれ。
「…………」

如月さんは黙っている。
俺は、如月さんの目を見つめていた。

熱っぽい、ぼーっとした目。
その目から彼女の考えは読み取れない。

「……わたし、は……」

如月さんがそう言ったように聞こえた。

しかし直後、如月さんの身体は支えを失ったように音もなく前に倒れた。

俺は一瞬何が起こったのかわからなかったが、事態を把握すると戸に挟まっている如月さんの上半身を起こした。

「おい、如月さん!しっかりしろ!」

そう呼びかけながら頬に手を当てると、かなりの熱だった。
俺が思っていた以上に無理をしていたようだ。

「なんでこんなになるまで……!」

怒りが募る。
人を頼らない如月さんにではなく、如月さんから頼られない自分に。

俺は如月さんを抱え上げると、強く歯を軋ませた。
何度もすみません急用入りました
22時頃再開します
たくさんのレスありがとうございます

なぜか明後日から月曜まで県外に行くことになってしまいました

再開します
再開する前に>>89訂正



「確かに私は薬もご飯も摂っていませんでしたし、以前シャワーと服を貸してくださったことも感謝はしています。
でも、あなたはただ私の隣に住んでいるだけの人。個人的な事情に踏み込まれる筋合いはありません」

「…………」

そんなこと――俺だってわかっている。
何がしたいかなんて、俺にだってわからない。

でも、俺は――――

「君にそんな顔をして欲しくない」

「だったら……!」

「君は、もっと良い顔ができるだろう?」

音楽について語っているとき。
歌っているとき。

この子は本当に良い顔をする。

俺は――――ただ、そんな顔を見たいだけなんだ。


「だから、早く元気になって店に来てくれ。公園で歌ってくれ。頼むから――」

――一人でそんな寂しそうな顔をしないでくれ。
「……ひとまずはこれでいいか」

息切れのような寝息を立てている如月さんの額に新しい冷却シートを貼ると、俺は嘆息して部屋を見回した。

俺が今いるここは、如月さんの部屋。

熱で倒れた如月さんを寝かせるために、止むを得ず勝手に上がらせてもらったのだ。
さすがに女性の部屋を家捜しするのはどうかと思ったので、冷却シートは自宅から持ってきた。

如月さんを抱えてこの家に入ったとき、まず驚いたのは物のなさだった。

あまりに生活感のないその部屋は、”殺風景”なんて生易しいものではない。

廊下には引っ越し以来放置されているのであろうダンボールが4,5個積み重ねられており、
リビングには小さいテーブルとベッドと、これまたダンボールが置いてあるだけである。

まさしく『食べて寝るだけの場所』だった。

数少ない雑貨はといえばCDプレイヤーとその横に詰みあがったCDの山、そしてダンボールの上に置いてある写真立てくらいの物だ。

部屋の間取りは俺の部屋と左右逆なだけで、広さは全く変わらない。
しかし、俺には如月さんの部屋がひどく広く感じられた。
「……ん、ぅ……」

頭の中で他人の部屋の批評をしていると、後ろから窮屈そうな声が聞こえる。
冷却シートが冷たかったのか、如月さんが目を覚ましてしまったようだ。

「よう、気分はどうだ?」

「……頭が、すごく痛いです……」

「そうか、シート替えといたからもうちょっと寝ときな」

「はい…………って」

如月さんは大きく目を見開いて俺の顔を見た。

「ええええッ!?ど、どうしてあなたが私の部屋に……まさか私の部屋じゃない!?」

「落ち着け。ここは普通に如月さんの部屋だよ」

「じゃあどうして……」

「覚えてないか?如月さん、玄関で倒れたんだよ」

俺がそう言うと、如月さんは口を閉じて下を向いた。
どうやら思い出したらしい。
「もしかして……ここまで運んでくださったんですか?」

「部屋に勝手に入って悪かった。俺の部屋に運ぶわけにもいかなくてな」

「い、いえ!それはいいんです。むしろ助かりましたから……」

そう言って如月さんは優しく微笑んだ。
自分の顔が上気するのを感じた俺は、適当に話題を逸らすことにした。

「ま、まぁ頭痛がするならもう少し寝てたほうがいいんじゃないか?」

「もう眠れませんよ。驚いて眠気が吹き飛んでしまいましたから」

今度は悪戯っぽく笑う如月さん。

どういうわけか倒れる前とは完全に逆のテンションになっている。

「それにしても……そうですか、熱で倒れて……」

今度は打って変わって深刻な顔になる。
なんだか今の如月さんは表情の変化が忙しい。
「あの……さっきは感情的になってすみませんでした」

如月さんが俯き気味に言った。
それに対して、俺は落ち着いた声で言う。

「謝ることじゃないさ」

そう、全く謝ることじゃない。

全ては俺の身勝手なんだから、如月さんが怒るのは正当でありもっともなのだ。
それに如月さんは、年不相応に感情を殺したがる節がある。

まだ15歳なのだから、もっと思いを言葉にするべきだ。

そう思っていたときだった。

「私……怖かったんです」

如月さんが口を開く。
それは、初めての感情の吐露だった。
「怖かった?」

俺はその意味を聞き返した。

「……少し、昔の話になります」

如月さんは顔を上げる。
その表情は、昨日の公園で彼女が歌に懸ける想いを語ったときを思い起こさせた。

「私には弟がいました。名前は優といいます」

「……もしかして、その写真の子か?」

俺はダンボールの上の写真を指差した。
その写真には小学生くらいの如月さんと、もう一人、小さな男の子が写っている。

如月さんは玩具のマイクを、男の子はスケッチブックとクレヨンを手に持っており、どちらも満面の笑みだった。

「はい。弟は、当時の私の下手な歌をいつも喜んで聞いてくれました」

如月さんは写真に視線を移す。

「1人の客の前でも、歌で喜んでもらえるのはとても幸せだった。だから、私は歌が好きでした」
「でも、その写真を撮った1ヵ月後くらいでしょうか」

如月さんは写真から視線を外し、前に向き直った。

「……弟は、交通事故で亡くなってしまいました」

「えっ……」

予想だにしない言葉に、俺は固まってしまった。

「弟の死から、私の家庭はおかしくなっていきました。父と母は上手くいかなくなり、そのうち私と両親の間にも亀裂が生じ始めました」

次々に明らかになる事実。
正直、頭がついていかなかった。

「……多分、離婚も時間の問題かと。私もこうして一人暮らしをすることで両親と距離を置いています」

「そんな……」

想像を絶していた。
こんなに重い事情を15歳の少女が背負っているということが、俺には信じられなかった。

「……弟は、優しい子なんです。きっとこの現状を、あの子は自分のせいだと思ってしまう」

だから――と、如月さんは続ける。


「私は歌い続けなければいけないんです。弟を――――優を、笑顔にできるのなら」
「…………」

言葉が出なかった。
これは、俺が聞いても良い話だったのだろうか。

「……ごめんなさい。いきなりこんな話をされても困りますよね」

「い、いや、確かに驚きはしたけど。そもそもどうして俺にこの話を?」

俺は会話を取り繕う。
気を遣いきれていない自分が情けなかった。

「……これからそのお話をします。もう少し、聞いてもらえますか?」

その言葉に、俺は無言で頷いた。


「私が歌手を目指す理由は、弟に届くような歌を歌いたいからです。歌手になって、いつか大きなステージで歌を歌いたいんです」

それならきっと届きますから、と如月さんは言う。
その顔は、まさに夢見る少女のそれだった。

「高校に入って、私は自分の歌を高めようと合唱部に入部しました」
「でも、私の歌に対する想いは誰も理解してくれませんでした。私の歌は、誰にも受け入れられなかった」

如月さんは俯きながら言った。

俺は、如月さんのクラスメイトの言葉を思い出した。

『如月さん、合唱部でも孤立しちゃってるみたいで』

高校の部活と如月さんとでは、歌に対する姿勢が違いすぎるのだろう。
そのギャップと如月さんの真面目さ・不器用さも相まって、不和が生じた。

「弟のために歌うと決めたはずなのに、誰かに受け入れられなければこんなにも悔しく、悲しい」

それはそうだろう。
誰だって、自分の主張が受け入れられなかったらそう思うはずだ。

「私はわからなくなりました。自分は一体何のために歌っているのか。自分の歌の何がいけないのか」
「でも、昨日のことでした。私の歌を受け入れてくれる人がいた」

「……俺のことか?」

「どうでしょうね」

如月さんが俺の方を見て悪戯っぽく微笑んだ。
ドキッするからやめて欲しい。

「その人は、私の歌を『もっと聞きたい』と言ってくれました。私はその言葉が素直に嬉しかったと同時に、嫌な衝撃を受けました」

「嫌な……衝撃?」

「はい。そう言ってくれたその人の姿が――弟に重なって見えて」

だから、と如月さんは続ける。

「急に不安になりました。その人も、弟と同じようにいなくなってしまうんじゃないかと」

「…………」

「そんなわけないと頭でわかっていても、どうしようもなく怖かった。もうあんな思いはしたくない、と」
「如月さん……」

「私はこんな性格ですから、日常生活でも人と上手く接することができなくて。その人は私にとって数少ない友人でした」

友人。
改めてそう言われると、妙にくすぐったい。

「だから、今日から距離を置こうとしました。親しくしなければ、少しは楽になるかと思って」

今日最初に拒絶されたのはそういうわけだったらしい。
本当、不器用というか何というか。

「でも、その人は離れようとしませんでした。下手したらストーカーですね」

「うっ……」

そう言われると反論のしようがない。
何だか急に恥ずかしくなってきた。

「だから、どうしてそんなに私に構うのか聞いたんです。そうしたら、その人は何と答えたと思います?」

「……如月さん、ちょっと楽しんでない?」

「いえ、全く」

ニヤニヤしながら言われても説得力皆無である。
完全に主導権を握られてしまっていた。
「『君にそんな顔をして欲しくない』って、そう言われたんです。全く、気障というかなんというか」

「勘弁してくれ……」

「でも、そう言われて思ったんです。『ああ、この人も私と同じなんだな』って」

「え?」

俺が間抜けな声を上げると、如月さんはくすっと笑った。

「誰かを笑顔にしようとして、でも上手くいかなくて」

それは俺のことを言ってるのか彼女自身のことを言ってるのか。
多分どちらもなんだろう。

「自分も落ち込んでしまって、さらにその人を誰かが笑顔にしようとして――ってずっと続くと思うと、何だか馬鹿らしくなってしまって」

如月さんが朗らかに笑う。
そうだ、これが――

「一人がたくさんの人を笑顔にできれば、こんなことはしなくてもいいんじゃないかって、そう思ったんです」

――これが、俺が見たかった如月さんの顔。

きっと多くの人を笑顔にできる、この笑顔だ。
「弟も、あなたも――皆を笑顔にできれば……そのために歌うことができれば、きっと私は何も失わない」

真っ直ぐな瞳。
さっきまでの熱っぽさが嘘のようだった。

「そう思ったら、身体の力が抜けちゃって……それで、倒れたんだと思います」

照れたように笑う如月さん。

「……うん、いい顔だ」

「えっ?」

「やっぱり如月さんは笑顔が似合ってるよ」

嘘偽りのない俺の気持ち。
俺がずっと見たかったもの。

「……ほんと、ずるいですよね」

如月さんがボソッと言う。

「え、何が?」

意味を図りかねて聞き返すと、

「何でもないです」

そう言って如月さんはそっぽを向いてしまった。
「でも、その無理したがる癖は何とかした方がいいな」

俺は指摘する。

如月さんは何でもかんでも自分だけで背負い込もうとする。
しかもまだ15歳、もっと人を頼ることを知るべきだ。

「私、無理なんてしてませんけど」

「自覚がないから厄介だもんなぁ……」

俺が呆れていると、

「……大丈夫ですよ。頼りにしてなかったらこんな話してませんから」

如月さんは俺から視線を逸らしながらそう言った。


その後、俺は如月さんに温め直したお粥と風邪薬を与えて自分の部屋へと戻った。
如月さんも次の日には復帰し、お粥の容器と貸した服とお礼のドーナツを俺の家に届けてくれた。

……この場面を管理人さんに見られて、あらぬ噂がアパートに流れたのはまた別の話である。
今日はこの辺まで
次回の投下は明日の昼から夕方にしたいと思います

あと上にも書いたとおり、なぜか突然出張になったので少し間が開くかもしれません
色々手際悪くて申し訳ない
大変お待たせいたしました
最後の投下を開始したいと思います
薄暗いが雰囲気のある照明。

テーブルの上に並ぶお洒落な洋風料理。


対面して座っているのは、俺と隣人の少女。


今は2月の末――まだ外には雪が残っている時期だ。


「料理も来ましたし、乾杯しましょうか」


そう言って、目の前の少女はグラスを持った。

俺もそれに習ってグラスを持つ。


「それでは、お兄さんの就職と引越しを祝って――――」


掛け声と共に、グラスの小気味良い音が響いた。
どうしてこんな状況になったのか簡単に説明すると、話は一週間前に遡る。

去年に就職が決まった俺は、大学を卒業したら就職先の近くに引っ越すことにしていた。
そして先週、そのための準備を色々としているところで偶然如月さんと遭遇したのである。

就職先の近くに引っ越す旨を如月さんに話したところ、「どうしてもっと早く言ってくれないんですか!」と激怒され、


「お祝いしますから!えっと、空いてる日は……来週!来週の日曜日に私の家に来てください!」


なんて一方的に決められた。

そして当日如月さんの家に行ってみると、そこから10分ほど歩いてお洒落な雰囲気のレストランに連れて行かれた。
何を言ってるのかわからないと思うが、俺も何をされたのかわからなかった。

話を聞くと、どうやら俺の就職祝兼引越し祝パーティをやってくれるらしい。

こういう企画に不慣れなのが丸出しだが、そこがまた微笑ましかった。
そういうわけで、乾杯して今に至る。

お洒落な雰囲気のお店だったので連れて来られた時は正直ヒヤっとしたが、
中は普通に若い人が多く、値段もその辺のファミレスと大差なかったので俺は胸を撫で下ろした。

しかし味の方はどうなのだろうか。
俺はとりあえず目の前にあるドリアを一口食べてみる。

「おお、美味い……」

味の方はファミレスよりも圧倒的に上だった。
ファミレスの料理だって不味いわけではないのだが、こちらの味は何というか、上品さが滲み出ていた。

「気に入ってもらえましたか?」

俺が味を噛み締めていると、如月さんが満足げに聞いてきた。

「ああ、すごく美味しいよ。近所にこんなところがあったなんて盲点だった」

「気に入ってもらえたみたいで何よりです。実はここ、同じ事務所の子に教えてもらったんですよ」

そういう如月さんは、まるで自分の料理が褒められたかのように笑顔だった。

友達が少ないと言っていた如月さんも、事務所の方では上手くやれているようだ。
「芸能活動の方はどうだ?」

「相変わらずレッスンばかりですよ」

如月さんは嘆息して言った。

「でも4月になったら新しいプロデューサーが入ってくれるみたいなので、私も本格的に活動できると思います」

「そうか。それは楽しみだな」

「はい。そのためにもっと精進したいと思います」

拳を握ってガッツポーズをとる如月さん。
気合十分である。

この分なら、如月さんをテレビなんかで見る日もそう遠くなさそうな気がする。
「それにしても――お引越し、ですか」

如月さんが視線を彷徨わせながら言う。

「それがどうかしたか?」

「いえ、出来ればもっと早く教えて欲しかったなと」

そう言って如月さんはパスタをくるくるとフォークに巻き始めた。

「これからはお兄さんと会う機会もほとんどないでしょうから……沢山お世話になったのに、何も返せなかったのが悔しくて」

「寂しいか?」

「な――――さ、寂しくなんてないです!」

俺が揶揄うと、如月さんは顔を真っ赤にして反論した。
その様子が可愛らしくて、どうにも頬が緩んでしまう。

「冗談だよ。きっとそのうち会えるって」

「……別に、会いたいなんて思ってませんし」

ありゃ。
すっかり拗ねてしまったようだ。
「それに、俺はいつも如月さんから沢山のものを貰ってるよ」

「え……?」

そう。
俺はずっと如月さんに励まされてきた。

如月さんが笑うだけで楽しかった。

如月さんが歌うだけで心が震えた。

如月さんといるだけで幸せだった。

「俺は、君の歌声や笑顔にいつも元気をもらってた。だから何も返せてないなんてことはない」

真っ直ぐ、如月さんの方を見て言い切る。
俺の素直な気持ちだった。

「……ずるい、ですよ」

如月さんはポツリと呟く。

「そんなこと言われたら……寂しくなってしまうじゃないですか……」
「……如月さん」

「お兄さんとも1年前までは完全に他人だったのに、本当に不思議な気分です」

確かに、この1年で色々なことがあって、色々なことが変化した。

俺と如月さんの関係。
俺の道、如月さんの道。

「今思えば――――お兄さんがイチゴのお裾分けに来てくれたときが、全部の始まりだったのかもしれませんね」

「……そうだな。そのとき初めて会話したっけ」

去年の4月。
俺は初めて隣人の少女と会話した。

「あの時は如月さんがあまりに冷たいから嫌われたのかと思ったなぁ……」

「ほとんど初対面だったんですから仕方ないじゃないですか」

「違いない」

そう言って、俺たちの思い出話が始まった。
「次に話したのは5月だったか」

「多分そのくらいですね。CDショップで偶然、でしたっけ」

5月、バイト先で如月さんと遭遇したときは驚いた。
彼女の音楽好きは、その時初めて知ったことである。

「ずっと気になってたんだけどさ、なんであの時上機嫌だったんだ?」

「え、そうでしたか?」

CDショップで会う如月さんは上機嫌で、初めて話したときとのギャップで驚いたものである。
発言量が前回比3倍くらいになっていたはずだ。

「まぁ……新しい物を買うときは誰だって上機嫌になるものじゃないですか?」

「なるほどね」

理由は実に単純明快。
如月さんとの距離を縮めるきっかけにもなった。

「それから、何度か店に来てくれたっけか」

「ええ。趣味の話が思い切りできる人ってなかなかいませんでしたし」

「こっちとしてはCDを買って欲しかったんだけどね」

「ご、ごめんなさい。仕事の邪魔しちゃってたんですね」

「あ、いや、冗談だから!俺も如月さんと話すの楽しかったし」

俺は慌てて取り繕う。
如月さんはいつまで経っても真面目でいいことだ……。
「そして、6月……か」

「……今思うと、あれが一番の大事件だった気がします」

「まぁ……家に上げたもんなぁ」

6月、俺はアパートの廊下でずぶ濡れになっている如月さんを発見した。
その後、シャワーを貸したり料理をご馳走したりすることで、俺と如月さんの距離は急激に縮まったように思う。

「初めてあの公園で会ったのもこの日でしたね」

「あの時に聞いた如月さんの歌、今も覚えてるよ」

その日の晩、そしてその後の練習でも何度か歌った、『 my song 』。
俺は、これを歌う如月さんに魅了されたのだ。

「……あの歌は、弟が亡くなってから知った歌なんです。私は今まで何度もこの歌に勇気をもらってきました」

「そうか……」

「もしかしたら、あの時お兄さんが来てくれたのもこの歌の力なのかもしれませんね」

そう言って如月さんは微笑んだ。
「で、次の日……如月さんは風邪を引いたと」

「くっ……それに関しては確かに私が自己管理をできていなかったせいですが……」

「全然頼ってもらえなかった俺はショックだったと」

「す、ストーカー予備軍に言われたくありません!」

「ぐはっ!そ、そこまで言うか……」

次の日、風邪を引いて学校を休んだ如月さんを尋ねて一人の少女が俺の部屋のインターフォンを押した。
そこで、俺は俺の知らない如月さんを知ることになったのだ。

「私が志を改めることが出来たのは……この日、お兄さんが来てくれたからです」

「大げさだな。俺は学校からのプリントを渡しに行っただけだ」

「……ふふ、気障なところは変わりませんね」

「うっせ」

「それからでしたっけ、公園での練習が始まったのは」

「ああ。なぜか毎回都合良く人がいなかったな」

「あ、それは私も思いました。なぜなんでしょう」

ちょっとした七不思議である。
一つしかないけど。
「それから3ヵ月くらい続いたな」

「そうですね。私がスカウトを受けるまでですから……」

9月、如月さんはついに目標を達成するチャンスを掴んだ。
目標まではまだまだ途中だが、やはり俺の目に狂いはなかったんだと思う。

「……あの時私の背中を押してくれたのも、お兄さんでしたね」

「大したことはしてないさ」

「そんなことないです。私が今こうして自分を高められているのは、お兄さんがチャンスを逃さないことを教えてくれたからです」

「俺が正しかったかなんて、まだ分からないだろ?」

「いえ、私はこれで正解だったんです。今はそう断言できます」

「どうして」

「……これから、証明していきますよ。だから、お兄さん」

私のこと、ずっと見ていてくださいね――――と。

そう言う如月さんの言葉に、俺は真剣に頷いた。
「クリスマスもついこの間の話なのに、なんだかすごく前のことみたいです」

「……そうだな」

「……ほんと、あの時は夢みたいで――――」

と、そこまで言って。

ポタリ、と。

如月さんの目から雫が流れ落ちた。

「……ご、ごめんなさい。どうしたんでしょう、私……」

涙。
初めて見る如月さんの顔。

泣いている。

笑顔が素敵なはずの如月さんが――――今、泣いている。

「ご、ごめんなさい。なんだか、この1年間を、思い返したら……」

嗚咽を噛み締めながら如月さんは言う。

「いつも、私の隣には、お兄さんがいて……でも、それも、あと少しでいなくなって」

涙は彼女の膝に落ち、衣服に染みを作っていく。

「私、どうしたら良いのか……お兄さんがいないと、私……」

「如月さん、落ち着いて」

俺は如月さんの言葉を遮った。
「大丈夫、如月さんは俺なんかいなくてもきっと上手くやれるさ」

「そんな……私、自信ありません。今まで、ずっとお兄さんに助けてもらって……」

「そんなことない!」

少し大きめの声を上げる。
何人かの客が何事かとこちらを向いているが、気にしない。

「俺は確かに少し手助けをしたかもしれない。でも、如月さんは確かに自分自身の力で”今”を掴み取って来たじゃないか」

歌手を志したのも。
多くの人を笑顔にしようと思ったのも。
芸能事務所にスカウトされたのも。

如月さんが、自分自身の力で成し遂げたことだ。

「俺は信じてるよ。如月さんならきっと頂点に立てる。多くの人を笑顔に出来る」

そう信じて疑うことはない。

「だって、俺は――――ずっと隣で君を見ていたんだから」
「………………もう」

如月さんが口を開く。

「ずるすぎですよ、お兄さん」

「悪かったな。でも、如月さんには笑っていて欲しいから」

「まだ言いますか。いい加減にしないとそのドリア全部食べますよ」

「それは勘弁してくれ」

話しながら食べていたせいでほとんど減っていない。
それは如月さんのパスタも同様だった。

「まぁ、そんなに思い詰めないでくれよ。俺がこの世からいなくなるわけでもないんだから」

「……あ」

俺死ぬことになってたのか。
どんだけ周りが見えてなかったんだ。

「ご、ごめんなさい……感情的になりすぎました……」

「うん、まぁ今のはなりすぎだな」

「くっ……」

そんな感じで、如月さんはいつも通りのテンションに戻ったのだった。
その後、普通に雑談をしていたときである。

「そういえば、お兄さんの就職先ってどんなところなんですか?」

如月さんは冷めたパスタをフォークで巻きながら唐突に言った。
俺は少し言葉に詰まる。

「えっと……言わなきゃ駄目か?」

「……言えないような職業なんですか?」

そう言う如月さんの目は、不信感と心配が入り交ざった様子だった。

別に言えないわけではない。
ただ、この職業を選択したのは如月さんの影響によるところが大きいのだ。

だから何となく照れくさいというか、あまり如月さんには言いたくないのだが――

「…………」

そんなジトっとした目で見つめられてはそうもいかなくなる。

「わかった、わかったよ。ちゃんと言うから」

「最初からそうしてください」

俺は苦笑しつつ彼女の要求を飲むことにした。
「実は――――芸能関係なんだ」

「えっ?」

如月さんは心底驚いた様子で、フォークからするりとパスタを落としていた。

「だから今後どこかで会うことがあるかもしれないな」

「えええええっ!?ちょ、ちょっと待ってください!」

狼狽える如月さん。
人様にはお見せできない顔になっている。

「ちょ、ちょっ、私、もう完全に会えないと思って……!」

「ははは、そんなはずないだろ。俺が引っ越すの都内だし」

「じゃあ私がさっき泣いた時とかどういうつもりで見てたんですか!?」

「いやー、オーバーだなぁ、と」

「なっ、な、なな……!」

真っ赤になってわなわなと震える如月さん。
その姿はさながら噴火前の火山のようだった。
「いててて……」

「もう、お兄さんなんて知りません」

平手打ちを一発もらった俺と完全にへそを曲げた如月さん。
お洒落なお店にはなんとも似つかわしくないシュールな光景が広がっていた。

「す、すまん……わざとじゃないんだ」

「…………」

「もっと早く言っておけば良かったな、ごめんな」

「…………」

「わ、わかった。ここは俺の奢りで」

「……もう、いいですよ」

そう言って振り向いた如月さんの顔は、拗ねてはいるが怒っている様子ではなかった。

「元はといえば私が勝手に勘違いしていただけのことですから」

「え、えっと……」

「叩いちゃってごめんなさい。恥ずかしくってつい……」

そう言って如月さんは下を向いてしまった。
「……如月さん」

「……何ですか?」

空気が死んでいた。
しかしそれでも、俺には今日やらなければいけないことがあった。

「これ、貰ってくれないか」

そう言って、俺は小さな箱を差し出した。

「これは……?」

「開けてみてくれ」

如月さんが箱を開ける。
箱の中には、細かいチェーンの先に音符の形をした金属の輪が付いているものが入っていた。

「これは……ネックレス、ですか?」

「ああ。如月さん、誕生日おめでとう」

そう。
今日の日付は2月25日。

如月さんの――――誕生日だ。
「え――――じゃあ、これは」

「誕生日プレゼントだ」

俺がそう告げると、如月さんは大きく目を見開いた。

「こんな空気で渡しちゃってごめんな。本当はもっと良い雰囲気で渡したかったんだけど」

「……お兄、さん」

如月さんの目から再び雫が落ちる。

「……嬉しいです。本当に嬉しい……」

さっき流した涙とは、明らかに違う涙。

「……私、子供でごめんなさい。でも、ありがとうございます。ずっと、ずっと大事にしますから」

涙を流してはいるが――――如月さんは、素敵な笑顔だった。
その後、いつの間にか注目を浴びていた俺たちは店中から盛大な拍手を受け、会計をなんと半額にしてもらった。
俺と如月さんは小っ恥ずかしい目に遭いながらも幸せな気持ちでいた。

そして1時間ほどした頃。

カランコロン、とドアの閉じる音と共に俺と如月さんは店を出た。

「……良いお店だったな」

「はい。私、今日のことは絶対に忘れないと思います」

如月さんと並んで、夜の街を歩く。
やはり、俺たちは隣同士でいるのが正しいポジションなんだと思う。

「『お幸せに』なんて言われたもんな」

「恋人同士に見えたのかもしれませんね」

如月さんがくすくすと笑う。

「でも……私は、今日から結婚できる年齢なんですよ?」

「へっ?」

俺は間抜けな声を上げる。

「ふふ、冗談です」

そう言って、如月さんは悪戯っぽく微笑んだ。
しかし、10分ほど歩けば家に到着する。

俺と如月さんは、それぞれの部屋の前にいた。

「……お別れ、ですね」

「……ああ」

冷たい風が俺たちの間を吹き抜ける。

「そういえばさ、連絡先交換してなかったよな」

「……あ」

気付いていなかったらしい。
本当にどれだけ周りが見えてないんだろう、と苦笑した。

「逆によくもまぁ今までこれでやってきたよな」

「まぁ、お隣さんですし」

そう言って笑い合いながら、俺たちは連絡先を交換した。
「いつでもメールくれよ。電話でもいい」

「はい。これで会えなくてもお話できますね」

如月さんは携帯を握り締めて言った。

「大丈夫。お互い頑張っていれば――――きっと、またどこかで会えるさ」

「……そうですね。それではまた会いましょう、お兄さん」

「ああ。じゃあ、如月さん」

――――”またね”。

挨拶に始まり、挨拶に終わる――――いつものやりとりを最後に、俺たちは隣同士の部屋へと戻っていった。



こうして――――隣人・如月千早と俺の長いようで短かった1年間は終わりを告げた。

しかし「終わりとはまた始まりでもある」とはよく言ったもので、俺と如月さんは期せずしてすぐにまた再会することになる。


芸能事務所・765プロダクション。

今日から俺はそこのプロデューサーだ。


プロデュースするのはもちろん――


――真面目で、不器用で、けれども歌がとても上手で、それでいて笑顔が素敵な――


――愛すべき、俺の隣人だ。


Fin
以上です
読んでくださった方、レスくださった方、ありがとうございました

このSSは元々千早の誕生日に投下しようと思っていたのですが、モタモタしているうちにこんな時期になってしまいました
テンポが悪くて申し訳ない限りです

物語はもう少しだけ続きます
休憩後に投下しますので、どうかお付き合いください
お待たせしました
後日談を投下したいと思います


>>169
そのシリーズは読んだことありますが違いますねー
―Epilogue―


『 この坂道を のぼる度に

 あなたがすぐそばにいるように 感じてしまう

 私の隣にいて 触れて欲しい

 遠いかなたへ 旅立った

 私を一人置き去りにして

 側にいると約束をした あなたは嘘つきだね 』


喉を震わせ、お腹から声を出す。

詩の情景を思い浮かべ、歌に込められた想いを声に乗せる。

防音設備のスタジオでは、その声はあまり反響しない。

ただ、声が響かずとも想いは響くもので、

パチパチパチパチ――――

と、ボイストレーナーの先生から賞賛の拍手を受ける。
ボイストレーナーの先生から講評を頂いた後、私は礼を述べてその日のレッスンを終了させた。
自分の荷物をまとめていると、レッスンスタジオの戸が開く音がする。

「よう、千早。今日も良い調子だったな」

「あ――プロデューサー」

入ってきた人物は、私のプロデューサーだった。

「どうだった、久し振りのレッスンは」

「先生にすごく褒められました。完璧に調整してある、と」

「んー、そうか。調整のためのレッスンだったんだけどな……」

最近は、仕事ばかりがスケジュールを埋め尽くしていてレッスンに当てる時間が少なくなっていた。
だから今日は本当はオフだったのだけれど、プロデューサーの勧めで2時間ほどレッスンの時間を入れたのである。

当のプロデューサーは、まぁいいか、と言って続ける。

「下に車回しとくから、準備できたら降りてきてくれよ」

「送ってくださるんですか?」

「当たり前だろ。トップアイドルを夕方に1人で出歩かせるわけにいくか」

それだけ言って、プロデューサーはレッスンスタジオから出て行った。

……何と言うか、相変わらず過保護な人だ。
支度をして入り口まで降りると、目の前にプロデューサーの車があった。
私はその助手席に座り、シートベルトを着けた。

車内ではラジオが流れており、同じ事務所のアイドルがゲスト出演していた。

「春香はやっぱりトークが上手ですね」

「ああ。芸人張りのトーク力だな。真美あたりとラジオをやらせてみても面白いかもしれない」

なるほど、面白そうだ、と思った。
やっぱりプロデューサーには、人の才能を見抜く能力があると思う。

「そういえば、さっき練習してた歌さ……あずささんの曲だよな?」

プロデューサーが唐突に言う。

「はい。あの曲は高音やヴィヴラートの練習には最適なので」

「へぇ、なるほどね。じゃあこれは知ってるか?」

プロデューサーはそう言って得意げな顔をした。
別に聞かなくても良いけれど、話の流れ上聞いておくべきだろう。

「何がですか?」

「あれな、作詞したの俺」

「えっ!?」
予想外だった。
驚きの次には、色々と疑問が浮かんだ。

「どうしてですか?」

「何の理由を聞いてるんだ。っていうか、元々あの歌の詩は俺に一任されてたんだよ」

テーマが”ドラマチック”だったから困り果てたけどな、と続けるプロデューサー。
しかし疑問はまだ山積みである。

「どうしてあんな詩が書けたんですか?」

「おいおい、まるで俺がまともな歌詞を書けないみたいじゃないか。千早の曲だっていくつか作詞してるのに」

それは――知っているけれど。
私の知っているプロデューサーは”ドラマチック”とは程遠い人だから、意外だった。

「あの詩は――――前に、千早と喧嘩したときに書いたんだ」

「……そうなんですか」

そう。
今でこそ私はトップアイドルと呼ばれる立ち位置にいるけれど、その道は決して平らではなかった。

ずっと支えてくれていたプロデューサーとぶつかることもあったし、すれ違うこともあった。

それでもプロデューサーは、最終的には私の味方でいてくれた。
「あの詩で、千早に俺の気持ちをわかって欲しかったんだ。素直に謝ればいいのに、俺って奴はいつまでも子供でさ」

そう言って、プロデューサーは自嘲気味に笑う。

「……そんなことはありません。元はといえば私が悪かったんですし、プロデューサーは――――」

「わかった、この話はやめよう。はいはい、やめやめ」

プロデューサーは私の言葉を遮った。
私が謝り始めるといつもこうだ。

「まぁあの詩はあずささんも気に入ってくれたみたいで良かったよ。個人的な事情を丸出しにしてたけどな」

「……私のことですか」

「俺の”隣に”いる人なんて千早しかいないだろ」

「…………」

こういうことをさらりと言ってしまうからこの人はずるい。
裏で何人もの女性が泣いているのではないだろうか。
「……プロデューサーは、”嘘つき”にはなりませんよね?」

「当然。千早が約束を守ったんだから、俺も嘘をつくわけにはいかないな」

「……約束?」

何のことだろう。
そう思っていると、プロデューサーは呆れ顔で言った。

「おいおい、忘れたのか?俺の助言が正しかったことを証明するって言っただろう」

「……ああ、そんなこともありましたね」

去年の誕生日に、そんなことを言った。
正直、泣いていたから半分くらい何を言ったのか覚えていないのだけれど。

「ほら、あのときの店が丁度そこに見えるぞ」

そう言って、プロデューサーは窓の外を指差した。
お洒落な外観は相変わらずだ。

「アイドルランクが上がるたびにあそこでお祝いをしましたっけ」

「そりゃあ、こちらもご贔屓にしてもらってるからな」

あそこの店主は私のことを気に入ってくれたらしく、行くたびに何かしらサービスしてくれた。
こういう身近なところにファンがいると思うと、なんだかくすぐったく感じる。
「あ――あのCDショップ……」

「ん?ああ、千早のCDの販促にはすごく熱心だな」

窓の外に見えるのは、以前プロデューサーがアルバイトをしていたCDショップだ。
店頭には ” IA大賞・如月千早のニューシングル発売中!! ” という看板広告が置いてある。

「なんでも、店長が千早の大ファンらしくてさ。無理を言ってあのでかいコーナーを作ったんだと」

「それは――嬉しいですね」

少し申し訳ない気もするけれど。
熱心に応援してくれる人がいるのは、素直に嬉しいことだった。

「今回のシングルもずっとランキング1位キープだそうだ」

「嬉しいです。そんなに多くの人が私の歌を聴いてくれているなんて」

ファンに笑顔を届ける。
笑顔で応援してもらえば、こちらからも笑顔を返す。

私は、この”アイドル”という仕事に誇りを持っている。

そんなにも多くの人が笑顔になってくれるなら――――こんなに嬉しいことはない。

「きっと、千早の弟も喜んでるよ」

「……はい。私もそう思います」

「……今度、一緒に墓参りに行くか。トップアイドルになった千早の姿を見せてやらないとな」

「そうですね」

そう言ったところで、車は青信号に従って走り出した。
しばらく車が走ると、視界の隅に見慣れた公園が入った。

「プロデューサー。ちょっと止めてもらえませんか?」

私は運転席のプロデューサーに言った。

「え?ああ――――わかった」

プロデューサーも私の意図に気付いたようで、すぐに丁度良い場所に車を停めてくれた。
車から出て少し歩くと、お馴染みの公園の門が出迎えてくれる。

「二人でここに来るのも久しぶりですね」

「ああ。前はここでしょっちゅう歌の練習してたっけ」

そう言いながら、私とプロデューサーは自然と噴水の縁に座った。

冬だからか噴水の運転は止まっているが、ここの様子も昔と変わらない。
「相変わらず人がいないな」

公園を見回して、プロデューサーが言った。

「そういえば、音無さんに聞いたんですが……ここは以前”ハッテン場”というところだったらしいですよ」

「ぶっ!?」

私が情報を提供すると、なぜだかプロデューサーは吹き出していた。
何かおかしいことを言っただろうか。

「……なるほど、どうりで人が寄り付かないわけだ……」

プロデューサーは何故か納得している。

「あの、プロデューサー。”ハッテン場”というのは何なんですか?」

「千早にはまだ早い!」

怒られた。
よく分からないけれど仕方がない、今度音無さんに聞いてみることにしよう。
「それにしても……懐かしいですね」

私もプロデューサーに習って、公園を見回した。

「ああ。あれから1年しか経ってないなんて嘘みたいだ」

プロデューサーは空を見上げながら言った。

「……本当に、夢みたいだよ。初めてプロデュースしたアイドルが、たった1年でトップアイドルまで登り詰めちまうんだから」

ホント千早はすごいよ、とプロデューサーは続ける。
でも、私は少し反論したくなった。

「私がここまで来られたのはプロデューサーのおかげですよ。あなたがいなかったら、私はアイドルにすらなっていなかったんですから」

「千早……」

「それに……1年、じゃないですよ」

そう。
全ては、ここから始まっていたのだから。


「私が”お兄さん”と一緒に活動したのは――――2年間、ですから」
そう言って、私はプロデューサーの手を握った。
正直かなり恥ずかしい。

プロデューサーも何事かと目を丸くしている。

でも――――トップアイドルになった今なら、言える気がするから。

「私たち、もう”お隣さん”じゃないですけど……2年間、あなたの隣にいられてずっと幸せでした」

これが、私の素直な気持ち。

「私は、これからもずっと、その幸せを抱きしめていたい。だから――」

私は、プロデューサーのことが、お兄さんのことが。


「――これからもずっと、あなたの隣にいさせてください。仕事のパートナーとしてではなく、それ以上に近いところで」


あなたのことが――――好きだから。
「……ちっくしょ」

私が言い終えると、プロデューサーはポツリと呟いて私の手を強く握った。

「プロデューサー……?」

「ああ、ごめんな千早。なんていうか、自分が情けなくて」

「情けない……?」

「ああ。こういうことは――――男である俺が言うべきだったのにな」

そう言って、プロデューサーは私の身体を抱き寄せた。

「あっ……」


こんなにも近くに、大切な人がいる。

隣にいてくれるだけで、こんなにも幸せな気持ちになれる。

ずっとずっと、隣にいたい。


「……好きだよ、千早」


だって、プロデューサーはいつまでも――


「これからも――――ずっと、俺の隣にいてくれるか」


「……はいっ……!」


――私の隣のお兄さん、なのだから。



THE END
終わりです
詠んでくださった方、レスをくださった方、本当にありがとうございました

また機会があれば、その時も付き合ってくだされば幸いです

HTML化依頼は明日にでも出そうと思います

ここまでありがとうございました

08:48│如月千早 
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