2013年11月22日
千早「今昔物語」
私とあの人、いやプロデューサーが人目を忍んで付き合い始めて早いもので今日ちょうど1ヶ月になる。
人目を忍んでとは言っても、事務所のみんなは知っている。
それが礼儀だと思ったから。
人目を忍んでとは言っても、事務所のみんなは知っている。
それが礼儀だと思ったから。
みんな祝福してくれた。
どうかと思うのだけど社長まで。
何時までこの関係を続けられるのか分からないけれども
できることなら一生、続けたいと思う。
あの人が食べてみたいと言ったから今日、初めて私の手料理を振る舞う。
これまで自炊の経験なんてほとんどない私が、こうして数品の料理を作り
あの人が来るのを今か今かと待てるのは、春香のおかげだ。
嫌な顔1つしないで私に、料理を教えてくれた。
そういえば、付き合う前にも何かと相談にのってもらっていた。
今度何かお礼しないと。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1345988655
ドアが開き我が家へとあの人が入ってくる。
「この格好かなり恥ずかしいんだけど」
長い髪をした女性のように見えるあの人が、部屋に入るなりこう言った。
「でもその格好ならあずささんか、私の……その、家族に見えますよ」
家族という言葉の前に詰まったのを変に思われなかったかしらね。
私の家に来るとき、プロデューサーには事務所から変装して来てもらっている。
女性物のウィッグに、女性物の服。
事務所での評判は上々。
私より女性らしい、という人までいる始末。
実際、私の隣りにいると姉妹に見えたりもする。
悔しいとは、思うけれど
それ以上にうれしい。
あの時以降、幸せというものに久しぶりに触れている気がする。
「うまいな、これ」
私の料理を食べうまい、うまいと言ってくれる。
こんなに幸せでいいのだろうか。
私は幸せになっていいのだろうか。
何度も何度も同じ疑問が頭の中をぐるぐる。
付き合い始めてからよくこの疑問が頭に浮かぶ。
「千早は食べないのか?」
ぼぅ、と皿に盛りつけられた料理が減っていくのを眺めていたら急に声をかけられた。
「ええ、味見をしながらつまんでいたので」
嘘ではない。
「なんか俺一人で食べるのもな……」
「一緒に食べたほうが上手いよ」
そう微笑みかける。
私の歌が好きだと言ってくれたあの日から、この人にはドキドキさせられっぱなしだ。
「で、では少しだけ」
一つの皿から料理をつつきあうなんて一体、何年ぶりだろう。
嬉しいはずなのに、心のどこかで喜びきれない自分が確かにいた。
私は忘れていた。
浮かれていたのだ。
家にあの人が来るとき、気まずくなるのが嫌で弟の、優の写真をしまっておくことを。
「今日はいつ頃、帰られますか?」
食事を終え、くつろいでいるあの人に聞いてみる。
「ん、そうだなー」
「じゃあ、今日は泊っていこうかな?」
「な、何を言ってるんですか?」
「冗談はやめてください」
この人はこうやって、私をからかう。
いつもは、冷静に振る舞っている私があたふたする様が、面白いらしい。
でも今日は違った。
あの人は、一枚の写真を見ている。
優の写った写真だ。
「あの、その写真は……」
「弟、かな」
「……ええ」
無言。
長くは続かない。
「ごめん、聞かない方が良かったな」
「いえ、そんなことは……」
私の頭の中は真っ白で。
「私のせいだったんです」
自分でも何を言っているのかわかっていない。
「私のせいで、優は……優は……」
もう言葉にすることがつらくて。
「ゆう君って、言うのか……」
「…はい」
どうにか問答できている状態。
なぜかプロデューサーの顔色が悪くなったように見える。
「き ぎ、ゆ ……」
ぶつぶつと何か呟いている。
「どう て」
「う だろ」
「なんで」
この人がこんなに狼狽する姿は初めて見た。
そんな姿を見ていたら私の方が正気に戻っていた。
対して、プロデューサーの顔色は真っ青だった。
「プロデューサー?」
「どうしたんです?」
私の質問には答えず
「ごめん用事思い出した」
これだけを言い残し、プロデューサーは逃げるように帰ってしまった。
しっかりとウィッグを付けて帰ったあたり、本当に私のことを想ってくれているらしい。
部屋にひとり残る私は、ただただ茫然とすることしかできなかった。
いつもなら、好きな曲を聞けばいやな事から逃げることができる。
頭の中を空っぽにできる。
なのに
今は何も耳に入ってこない。
いつもなら心地よく感じるはずのドラムのビートでさえ不快なものに感じた。
無音の室内。
音楽を止めた途端、不安に襲われる。
「プロデューサー」
一体どうしてしまったのだろうか。
「プロデューサー」
声が聞きたい。
私に微笑みかけてほしい。
私の、隣りにいてほしい。
「プロデューサー」
私は幸せになってはいけないのでしょうか。
そんなことはないと、誰も否定してくれることはなかった。
個人的には鬱ではないと思いますが、人によっては鬱と感じるかもしれません。
プロデューサーが去ってから、2時間が過ぎた。
私は、まだ事態がよく飲み込めていない。
「プロデューサー」
口にすると少し安心できる。
ブーブーと携帯のバイブレーションが鳴る。
あの人からのメールだった。
『今日は悪かった』
『明日はオフだったよな?』
『明日話すから今は何も聞かないでくれ』
わかりました、とだけ書いて返信する。
普段の口調からは、想像できない素っ気のないメール。
「メールは苦手なんだって」
そんなことを言っていたことを思い出す。
再びバイブレーションがなった。
『俺の仕事が終わる頃だから8時くらいに事務所に来てくれるか?』
『無理そうなら俺がそっちに行く』
私が事務所に行きますと返信。
すぐに携帯が鳴る。
『わかった』
『じゃあ明日』
返信しなかった。
じゃあ明日は、これでメール連絡終了の合図なのだ。
時間はまだ早いけど寝ることにした。
起きていても私の思考は袋小路に迷いこむだけ。
だったらもう寝てしまおうと、私はベッドに横になった。
いつもなら部屋を暗くしてしばらくすれば眠りに就けるのに、今日に限っては目が冴えるばかりでとてもじゃないけど眠れる気がしない。
目が暗やみに慣れた。
ぼんやりだけど、どこに何があるのか認識できる。
いや、それは自分の部屋なのだから当たり前か。
さっきまであそこにあの人が寝転んでいたのに。
今日はちょっとした記念日だったのに。
目から涙が流れてきた。
涙は、止まりそうになかった。
ぼんやりと天井を眺めている。
横になってからどれくらいの時間が経ったのだろうか?
異常だった。
さっきのあの人は。
でも、あの感じはいつだったか、見たことがある気がする。
いつだろうか?
思い出せ。
「昔、いじめにあった事があってな」
悲しそうな顔。
ニュースを一緒に見ていた時だ。
思い出した。
「そのときの事、思い出すとちょっとな」
口元は笑っているのに、目は笑っていない。
理由なんて付き合い始めて間もない私が、聞けるわけがなかった。
ああ、そうだ。
あの時のプロデューサーもどこか顔色が悪かった。
ただ、その事と今日の事は繋がっていない気がする。
結局ふりだしに戻るのだ。
キイイイィィィと耳障りな甲高いブレーキ音。
バンッとその音が鳴り止む前に聞こえる衝突音。
ドサッと「何か」が落下した。
タイヤのゴムがアスファルトとの摩擦熱で溶けて辺りには、独特の匂いが立ち込めていた。
私はそれを眺めている。
私の近くには、小さな女の子が立っていた。
その「何か」は、物ではなく人だった。
交通事故、だ。
急停止した乗用車から男が、慌てて降りてきた。
私は、その男の顔を
「っっっ」
目が覚めた。
突然吐き気に襲われた。
私はトイレに駆け込み、戻す。
「はあはあ」
ベッドに腰掛け部屋を見渡す。
まだ暗い。
天井をぼぅっと見ていたら、眠っていたらしい。
冷や汗が、不快だ。
「……ゆ、め?」
あの時の出来事だ。
忘れるはずがない。
私が、私を、見ていた。
こんな夢初めてだ。
どこかおかしい。
それともう一つ。
何故、あの場面で目が覚めたのだろうか?
私は、あの男を知っているの?
いや、私はあの男は知らない。
知りたくもない。
いまだに治まらない動悸。
ドクッドクッと心臓が身体中に血を送っている。
「……ゆう」
呟く。
私はまだ生きている。
あれからまともに眠ることもなく朝を迎えた。
完全な寝不足だ。
頭が重い。
約束の時間まで12時間もある。
先ほど見た夢が脳裏に焼き付いている。
そのせいで、眠れそうにない。
寝ようとしたところで、無駄になってしまうだろう。
買い物にでも行こうか?
でも今は、欲しい物なんてない。
見たい物も。
独りでいると駄目になってしまいそうだ。
頼り過ぎだと思うけど私は、春香に電話をかけていた。
すごく久しぶりに人の声を聞いた気がする。
なんだか安心した。
どうやら春香の今日の予定は、新曲を出す為のレッスンしかないらしい。
私は、もっともらしい理由を作りそのレッスンに同行することにした。
最低限の身だしなみには、気を使わないといけない。
仮にも私は、アイドルだから。
鏡を見る。
覇気のない顔が私を見つめる。
「酷い顔」
思わず呟いてしまった。
目は赤く、その目の下にはうっすらと隈がある。
まあ、メイクをして誤魔化せるレベルだ。
食欲がなかったので、何も口にしないで家を出た。
春香と待ち合わせをしていた場所に着く。
春香はすでにいた。
「ごめんなさい、待たせちゃって」
「待ってないよ、私も今来たところだから」
「ってなんか今のまるでデートの待ち合わせの時みたいだね」
春香がクスクスと笑う。
したことないんだけどね、と付け足した。
昨日のことを聞かれるかと思ったけれど、春香は何も聞いてこなかった。
待ち合わせ場所からレッスンスタジオは、そう遠くない。
春香の新曲について話しながら歩いたら、あっという間に着いた。
少し心が休まった気がする。
春香がいてくれて本当に良かったと改めて思う。
だから、弟のことを隠していることに心が痛んだ。
春香のレッスンが始まった。
今日はトレーナーと一対一のようだ。
私はしばらく見学させて欲しいと頼み、部屋の隅に座り春香の歌声に耳をすませた。
よどみなくレッスンは進んでいく。
上手くなったな、と思う。
初めて一緒のレッスンだった日は、
「真面目に歌っているの?」
って聞いてしまったくらいだ。
こんなに失礼な事を言っても春香は怒らなかった。
人が良すぎるのも考えものだと思う。
あっ今、音がずれた。
気にしないようにしよう。
少し眠くなってきた。
目を閉じる。
浮かび上がるのは、あの人の顔、今日見た夢。
でも春香の歌のおかげなのか、睡魔が強かっただけなのか、私の意識は徐々に薄れていき眠りに落ちた。
「 やちゃん、千早ちゃん」
ゆさゆさと揺られて、目を覚ます。
「……はるか?」
春香のレッスンに同行して、そこで眠ったことを思い出した。
「もうレッスン終わったよ」
時計を見る。
3時を過ぎていた。
「ごめんなさい、私が一緒に受けたいって言ったのに」
立ち上がろうとしたら、関節が痛んだ。
けっこう無理な姿勢で眠っていたのだろう。
体は痛むけど、頭はすっきりとした。
「とりあえず、帰ろ?」
「そうね」
私達は、スタジオを後にした。
「ねぇ、千早ちゃん」
「この後は、どうする?」
春香が聞いてきた。
「事務所に、少し用があるの」
一体何を聞かされるのだろうか、と不安になる。
「じゃあ、もう少ししたらお別れだね?」
「そうね」
何が言いたいのだろう。
でも、この後春香が何かを言うことはなく駅に着くまでの間、私達は無言だった。
「千早ちゃん」
「何かあったら相談してね」
別れ際の一言。
春香はただ、タイミングを図っていただけだったのだ。
きっと昨日に何かあったことを察していたのだろう。
本当にいい友人を持ったものだと、改札口の向こうに消えていく春香の後姿を見つめながら思う。
事務所に着いた。
着いてしまった。
出来るだけ遠回りしてきたつもりだ。
読みたくもないのにコンビニに立ち寄って、雑誌の立ち読みもした。
時間はまだけっこうある。
事務所には人があまり居なかった。
いや、事務所に行くと皆が居たのはずいぶんと前のことだった。
あの頃は、私が誰かを好きになるなんて思いもしなかったけれども。
さて、さっき立ち寄ったコンビニで買った雑誌でも読むことにしよう。
あの人の気配を感じながら雑誌を読み始めた。
内容なんて頭に入ってこない。
読んでる風を装えればそれでよかった。
不思議だ、さっきも眠ったはずなのになんかウトウトしてきた。
睡魔への抗い方を知らない私は再び眠りに就いた。
「ちはや、起きろ」
私のことを呼ぶ声がする。
目を開けたらそこにはプロデューサーがいた。
「ごめんな」
「わざわざ来てもらって」
「いえ、別に暇だったので」
昨日のように狼狽しているようには見えない。
でも、距離を感じる。
私達が出会ったばかりの頃のような距離だ。
その頃は私が一方的に線を引いていただけの気もするけど。
無言だ。
プロデューサーもタイミングを図っているのかもしれない。
「……昨日は急に帰ってごめん」
「ちょっといろいろ思い出して、さ」
プロデューサーが話し出す。
「思い出して……ですか?」
どういうことだろう?
プロデューサーは優のことを知っていたのだろうか?
わからない。
「昔、俺がいじめられた事があるって言うのは聞いたよな?」
「はい」
「その原因ってのが、父親にあって……」
話すのがすごく辛そうに見える。
話が繋がりそうで繋がらない。
「事故を、起こしたんだ、父親」
「人を……轢いたんだよ」
「……あ、あぁ」
繋がった。
何も考えることなんてできない。
分かりたくない。
理解できない。
したくない。
「男の子だった」
「名前は……」
「もう、いいです」
堪らず私は、話を遮った。
「もう……いいですから」
私の中で何かが壊れた。
高校卒業を境に私は、アイドルではなく歌手としての道を歩みだした。
私の隣にプロデューサーはもういない。
ただ、私が歌手になるために尽力した人が、あの人だと聞かされて複雑な気持ちになった。
私は今日も優のために歌う。
それだけでいい。
歌手になってからもう1年になる。
満たされることはない。
あんなに歌うことだけを求めていたというのに。
今は世界を目指している。
ただただ、満たされることを願って。
皆とは、別の道を歩み出してから2年が経とうとしていた。
先日、春香から電話があった。
久しぶりだった。
あの人が亡くなったらしい。
自殺だったと聞いた。
春香は泣いていた。
聞きにくい箇所がたくさんあった。
悲しくなかった。
何も感じなかった。
また1年が経った。
ようやく私の実力が認められて海外進出が決まった。
私は喜べなかった。
喜び方を忘れてしまったようだ。
喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも
何も思い出せない。
空っぽの私。
優のため、ただそれだけを胸に秘め歌うのだ。
後1ヶ月でアメリカへ発つという時、私は歌うことができなくなってしまった。
会話はできるのに歌おうとすると何かが詰まったような感じがして声を出せない。
すぐに病院へ行くも、原因は不明。
海外進出の話は延期になってしまった。
それでも悲しくない。
悔しくない。
歌えない私には、価値があるのだろうか?
そんな疑問さえ、すぐに頭から消えてなくなってしまった。
1月経っても私の喉は歌うことを放棄している。
これは呪いなのだ。
ようやく理解できた。
どこも悪くないプロデューサーを苦しめ続けたから。
あの人はきっと私のことを恨んでいたに違いない。
歌えない私に価値はない。
この世に未練もない。
私はもう疲れてしまった。
テーブルの上の大量の風邪薬。
これを一気に飲み干せれば、私は解放されるはず。
手からこぼれんばかりの錠剤を口に含み、飲みこむ。
それを何回か繰り返す。
意識が薄れだしてきた。
「……ゆ、う」
今から行くからね、言葉にはならなかった。
気持ちが悪い。
めまいがする。
吐き気がする。
ここで戻しては駄目だ。
耐えろ。
「ごめん、なさい」
「ごめんなさい」
意識が完全になくなるまでの間、壊れたようにずっと誰かに謝っていた。
end
これで一つのルートが終わりです。
とりあえず後、2つくらいのルートを考えています。
どうかと思うのだけど社長まで。
何時までこの関係を続けられるのか分からないけれども
できることなら一生、続けたいと思う。
あの人が食べてみたいと言ったから今日、初めて私の手料理を振る舞う。
これまで自炊の経験なんてほとんどない私が、こうして数品の料理を作り
あの人が来るのを今か今かと待てるのは、春香のおかげだ。
嫌な顔1つしないで私に、料理を教えてくれた。
そういえば、付き合う前にも何かと相談にのってもらっていた。
今度何かお礼しないと。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1345988655
ドアが開き我が家へとあの人が入ってくる。
「この格好かなり恥ずかしいんだけど」
長い髪をした女性のように見えるあの人が、部屋に入るなりこう言った。
「でもその格好ならあずささんか、私の……その、家族に見えますよ」
家族という言葉の前に詰まったのを変に思われなかったかしらね。
私の家に来るとき、プロデューサーには事務所から変装して来てもらっている。
女性物のウィッグに、女性物の服。
事務所での評判は上々。
私より女性らしい、という人までいる始末。
実際、私の隣りにいると姉妹に見えたりもする。
悔しいとは、思うけれど
それ以上にうれしい。
あの時以降、幸せというものに久しぶりに触れている気がする。
「うまいな、これ」
私の料理を食べうまい、うまいと言ってくれる。
こんなに幸せでいいのだろうか。
私は幸せになっていいのだろうか。
何度も何度も同じ疑問が頭の中をぐるぐる。
付き合い始めてからよくこの疑問が頭に浮かぶ。
「千早は食べないのか?」
ぼぅ、と皿に盛りつけられた料理が減っていくのを眺めていたら急に声をかけられた。
「ええ、味見をしながらつまんでいたので」
嘘ではない。
「なんか俺一人で食べるのもな……」
「一緒に食べたほうが上手いよ」
そう微笑みかける。
私の歌が好きだと言ってくれたあの日から、この人にはドキドキさせられっぱなしだ。
「で、では少しだけ」
一つの皿から料理をつつきあうなんて一体、何年ぶりだろう。
嬉しいはずなのに、心のどこかで喜びきれない自分が確かにいた。
私は忘れていた。
浮かれていたのだ。
家にあの人が来るとき、気まずくなるのが嫌で弟の、優の写真をしまっておくことを。
「今日はいつ頃、帰られますか?」
食事を終え、くつろいでいるあの人に聞いてみる。
「ん、そうだなー」
「じゃあ、今日は泊っていこうかな?」
「な、何を言ってるんですか?」
「冗談はやめてください」
この人はこうやって、私をからかう。
いつもは、冷静に振る舞っている私があたふたする様が、面白いらしい。
でも今日は違った。
あの人は、一枚の写真を見ている。
優の写った写真だ。
「あの、その写真は……」
「弟、かな」
「……ええ」
無言。
長くは続かない。
「ごめん、聞かない方が良かったな」
「いえ、そんなことは……」
私の頭の中は真っ白で。
「私のせいだったんです」
自分でも何を言っているのかわかっていない。
「私のせいで、優は……優は……」
もう言葉にすることがつらくて。
「ゆう君って、言うのか……」
「…はい」
どうにか問答できている状態。
なぜかプロデューサーの顔色が悪くなったように見える。
「き ぎ、ゆ ……」
ぶつぶつと何か呟いている。
「どう て」
「う だろ」
「なんで」
この人がこんなに狼狽する姿は初めて見た。
そんな姿を見ていたら私の方が正気に戻っていた。
対して、プロデューサーの顔色は真っ青だった。
「プロデューサー?」
「どうしたんです?」
私の質問には答えず
「ごめん用事思い出した」
これだけを言い残し、プロデューサーは逃げるように帰ってしまった。
しっかりとウィッグを付けて帰ったあたり、本当に私のことを想ってくれているらしい。
部屋にひとり残る私は、ただただ茫然とすることしかできなかった。
いつもなら、好きな曲を聞けばいやな事から逃げることができる。
頭の中を空っぽにできる。
なのに
今は何も耳に入ってこない。
いつもなら心地よく感じるはずのドラムのビートでさえ不快なものに感じた。
無音の室内。
音楽を止めた途端、不安に襲われる。
「プロデューサー」
一体どうしてしまったのだろうか。
「プロデューサー」
声が聞きたい。
私に微笑みかけてほしい。
私の、隣りにいてほしい。
「プロデューサー」
私は幸せになってはいけないのでしょうか。
そんなことはないと、誰も否定してくれることはなかった。
個人的には鬱ではないと思いますが、人によっては鬱と感じるかもしれません。
プロデューサーが去ってから、2時間が過ぎた。
私は、まだ事態がよく飲み込めていない。
「プロデューサー」
口にすると少し安心できる。
ブーブーと携帯のバイブレーションが鳴る。
あの人からのメールだった。
『今日は悪かった』
『明日はオフだったよな?』
『明日話すから今は何も聞かないでくれ』
わかりました、とだけ書いて返信する。
普段の口調からは、想像できない素っ気のないメール。
「メールは苦手なんだって」
そんなことを言っていたことを思い出す。
再びバイブレーションがなった。
『俺の仕事が終わる頃だから8時くらいに事務所に来てくれるか?』
『無理そうなら俺がそっちに行く』
私が事務所に行きますと返信。
すぐに携帯が鳴る。
『わかった』
『じゃあ明日』
返信しなかった。
じゃあ明日は、これでメール連絡終了の合図なのだ。
時間はまだ早いけど寝ることにした。
起きていても私の思考は袋小路に迷いこむだけ。
だったらもう寝てしまおうと、私はベッドに横になった。
いつもなら部屋を暗くしてしばらくすれば眠りに就けるのに、今日に限っては目が冴えるばかりでとてもじゃないけど眠れる気がしない。
目が暗やみに慣れた。
ぼんやりだけど、どこに何があるのか認識できる。
いや、それは自分の部屋なのだから当たり前か。
さっきまであそこにあの人が寝転んでいたのに。
今日はちょっとした記念日だったのに。
目から涙が流れてきた。
涙は、止まりそうになかった。
ぼんやりと天井を眺めている。
横になってからどれくらいの時間が経ったのだろうか?
異常だった。
さっきのあの人は。
でも、あの感じはいつだったか、見たことがある気がする。
いつだろうか?
思い出せ。
「昔、いじめにあった事があってな」
悲しそうな顔。
ニュースを一緒に見ていた時だ。
思い出した。
「そのときの事、思い出すとちょっとな」
口元は笑っているのに、目は笑っていない。
理由なんて付き合い始めて間もない私が、聞けるわけがなかった。
ああ、そうだ。
あの時のプロデューサーもどこか顔色が悪かった。
ただ、その事と今日の事は繋がっていない気がする。
結局ふりだしに戻るのだ。
キイイイィィィと耳障りな甲高いブレーキ音。
バンッとその音が鳴り止む前に聞こえる衝突音。
ドサッと「何か」が落下した。
タイヤのゴムがアスファルトとの摩擦熱で溶けて辺りには、独特の匂いが立ち込めていた。
私はそれを眺めている。
私の近くには、小さな女の子が立っていた。
その「何か」は、物ではなく人だった。
交通事故、だ。
急停止した乗用車から男が、慌てて降りてきた。
私は、その男の顔を
「っっっ」
目が覚めた。
突然吐き気に襲われた。
私はトイレに駆け込み、戻す。
「はあはあ」
ベッドに腰掛け部屋を見渡す。
まだ暗い。
天井をぼぅっと見ていたら、眠っていたらしい。
冷や汗が、不快だ。
「……ゆ、め?」
あの時の出来事だ。
忘れるはずがない。
私が、私を、見ていた。
こんな夢初めてだ。
どこかおかしい。
それともう一つ。
何故、あの場面で目が覚めたのだろうか?
私は、あの男を知っているの?
いや、私はあの男は知らない。
知りたくもない。
いまだに治まらない動悸。
ドクッドクッと心臓が身体中に血を送っている。
「……ゆう」
呟く。
私はまだ生きている。
あれからまともに眠ることもなく朝を迎えた。
完全な寝不足だ。
頭が重い。
約束の時間まで12時間もある。
先ほど見た夢が脳裏に焼き付いている。
そのせいで、眠れそうにない。
寝ようとしたところで、無駄になってしまうだろう。
買い物にでも行こうか?
でも今は、欲しい物なんてない。
見たい物も。
独りでいると駄目になってしまいそうだ。
頼り過ぎだと思うけど私は、春香に電話をかけていた。
すごく久しぶりに人の声を聞いた気がする。
なんだか安心した。
どうやら春香の今日の予定は、新曲を出す為のレッスンしかないらしい。
私は、もっともらしい理由を作りそのレッスンに同行することにした。
最低限の身だしなみには、気を使わないといけない。
仮にも私は、アイドルだから。
鏡を見る。
覇気のない顔が私を見つめる。
「酷い顔」
思わず呟いてしまった。
目は赤く、その目の下にはうっすらと隈がある。
まあ、メイクをして誤魔化せるレベルだ。
食欲がなかったので、何も口にしないで家を出た。
春香と待ち合わせをしていた場所に着く。
春香はすでにいた。
「ごめんなさい、待たせちゃって」
「待ってないよ、私も今来たところだから」
「ってなんか今のまるでデートの待ち合わせの時みたいだね」
春香がクスクスと笑う。
したことないんだけどね、と付け足した。
昨日のことを聞かれるかと思ったけれど、春香は何も聞いてこなかった。
待ち合わせ場所からレッスンスタジオは、そう遠くない。
春香の新曲について話しながら歩いたら、あっという間に着いた。
少し心が休まった気がする。
春香がいてくれて本当に良かったと改めて思う。
だから、弟のことを隠していることに心が痛んだ。
春香のレッスンが始まった。
今日はトレーナーと一対一のようだ。
私はしばらく見学させて欲しいと頼み、部屋の隅に座り春香の歌声に耳をすませた。
よどみなくレッスンは進んでいく。
上手くなったな、と思う。
初めて一緒のレッスンだった日は、
「真面目に歌っているの?」
って聞いてしまったくらいだ。
こんなに失礼な事を言っても春香は怒らなかった。
人が良すぎるのも考えものだと思う。
あっ今、音がずれた。
気にしないようにしよう。
少し眠くなってきた。
目を閉じる。
浮かび上がるのは、あの人の顔、今日見た夢。
でも春香の歌のおかげなのか、睡魔が強かっただけなのか、私の意識は徐々に薄れていき眠りに落ちた。
「 やちゃん、千早ちゃん」
ゆさゆさと揺られて、目を覚ます。
「……はるか?」
春香のレッスンに同行して、そこで眠ったことを思い出した。
「もうレッスン終わったよ」
時計を見る。
3時を過ぎていた。
「ごめんなさい、私が一緒に受けたいって言ったのに」
立ち上がろうとしたら、関節が痛んだ。
けっこう無理な姿勢で眠っていたのだろう。
体は痛むけど、頭はすっきりとした。
「とりあえず、帰ろ?」
「そうね」
私達は、スタジオを後にした。
「ねぇ、千早ちゃん」
「この後は、どうする?」
春香が聞いてきた。
「事務所に、少し用があるの」
一体何を聞かされるのだろうか、と不安になる。
「じゃあ、もう少ししたらお別れだね?」
「そうね」
何が言いたいのだろう。
でも、この後春香が何かを言うことはなく駅に着くまでの間、私達は無言だった。
「千早ちゃん」
「何かあったら相談してね」
別れ際の一言。
春香はただ、タイミングを図っていただけだったのだ。
きっと昨日に何かあったことを察していたのだろう。
本当にいい友人を持ったものだと、改札口の向こうに消えていく春香の後姿を見つめながら思う。
事務所に着いた。
着いてしまった。
出来るだけ遠回りしてきたつもりだ。
読みたくもないのにコンビニに立ち寄って、雑誌の立ち読みもした。
時間はまだけっこうある。
事務所には人があまり居なかった。
いや、事務所に行くと皆が居たのはずいぶんと前のことだった。
あの頃は、私が誰かを好きになるなんて思いもしなかったけれども。
さて、さっき立ち寄ったコンビニで買った雑誌でも読むことにしよう。
あの人の気配を感じながら雑誌を読み始めた。
内容なんて頭に入ってこない。
読んでる風を装えればそれでよかった。
不思議だ、さっきも眠ったはずなのになんかウトウトしてきた。
睡魔への抗い方を知らない私は再び眠りに就いた。
「ちはや、起きろ」
私のことを呼ぶ声がする。
目を開けたらそこにはプロデューサーがいた。
「ごめんな」
「わざわざ来てもらって」
「いえ、別に暇だったので」
昨日のように狼狽しているようには見えない。
でも、距離を感じる。
私達が出会ったばかりの頃のような距離だ。
その頃は私が一方的に線を引いていただけの気もするけど。
無言だ。
プロデューサーもタイミングを図っているのかもしれない。
「……昨日は急に帰ってごめん」
「ちょっといろいろ思い出して、さ」
プロデューサーが話し出す。
「思い出して……ですか?」
どういうことだろう?
プロデューサーは優のことを知っていたのだろうか?
わからない。
「昔、俺がいじめられた事があるって言うのは聞いたよな?」
「はい」
「その原因ってのが、父親にあって……」
話すのがすごく辛そうに見える。
話が繋がりそうで繋がらない。
「事故を、起こしたんだ、父親」
「人を……轢いたんだよ」
「……あ、あぁ」
繋がった。
何も考えることなんてできない。
分かりたくない。
理解できない。
したくない。
「男の子だった」
「名前は……」
「もう、いいです」
堪らず私は、話を遮った。
「もう……いいですから」
私の中で何かが壊れた。
高校卒業を境に私は、アイドルではなく歌手としての道を歩みだした。
私の隣にプロデューサーはもういない。
ただ、私が歌手になるために尽力した人が、あの人だと聞かされて複雑な気持ちになった。
私は今日も優のために歌う。
それだけでいい。
歌手になってからもう1年になる。
満たされることはない。
あんなに歌うことだけを求めていたというのに。
今は世界を目指している。
ただただ、満たされることを願って。
皆とは、別の道を歩み出してから2年が経とうとしていた。
先日、春香から電話があった。
久しぶりだった。
あの人が亡くなったらしい。
自殺だったと聞いた。
春香は泣いていた。
聞きにくい箇所がたくさんあった。
悲しくなかった。
何も感じなかった。
また1年が経った。
ようやく私の実力が認められて海外進出が決まった。
私は喜べなかった。
喜び方を忘れてしまったようだ。
喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも
何も思い出せない。
空っぽの私。
優のため、ただそれだけを胸に秘め歌うのだ。
後1ヶ月でアメリカへ発つという時、私は歌うことができなくなってしまった。
会話はできるのに歌おうとすると何かが詰まったような感じがして声を出せない。
すぐに病院へ行くも、原因は不明。
海外進出の話は延期になってしまった。
それでも悲しくない。
悔しくない。
歌えない私には、価値があるのだろうか?
そんな疑問さえ、すぐに頭から消えてなくなってしまった。
1月経っても私の喉は歌うことを放棄している。
これは呪いなのだ。
ようやく理解できた。
どこも悪くないプロデューサーを苦しめ続けたから。
あの人はきっと私のことを恨んでいたに違いない。
歌えない私に価値はない。
この世に未練もない。
私はもう疲れてしまった。
テーブルの上の大量の風邪薬。
これを一気に飲み干せれば、私は解放されるはず。
手からこぼれんばかりの錠剤を口に含み、飲みこむ。
それを何回か繰り返す。
意識が薄れだしてきた。
「……ゆ、う」
今から行くからね、言葉にはならなかった。
気持ちが悪い。
めまいがする。
吐き気がする。
ここで戻しては駄目だ。
耐えろ。
「ごめん、なさい」
「ごめんなさい」
意識が完全になくなるまでの間、壊れたようにずっと誰かに謝っていた。
end
これで一つのルートが終わりです。
とりあえず後、2つくらいのルートを考えています。
08:06│如月千早