2013年12月12日

千早「事務所の場所が変わりました」

携帯電話に謎のメールが届いた。

それが謎になったのは、
おそらく、私が誤ってアドレス帳の中身を吹っ飛ばしてしまったせいなのだけれど。


SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1350315485


最初に思いついたのは、プロデューサーや春香あたり。

だって、この二人からは、放っておいてもメールが来るのだもの。

春香なら雑談のようなメールが多いから、
すぐに返信する必要がなくて楽なのだけど、どうかしら。

タイトルには、何も入っていない。

私の望みとは裏腹に、
差出人の名前の欄には、見覚えのない英数字が並んでいた。

>突然ごめんなさい。
>お願いがあって、メールしました。
>そろそろレッスンが終わるころですよね?
>今日の五時に、前の事務所まで来てもらえますか?
>OKなら、お返事ください。

少し怪しいけど、いたずらじゃなさそう。きっと関係者ね。

敬語で書かれた文面を見るに、年下の子かしら。それとも事務連絡?

でも、おかしいわね。

つい最近、そこからの引っ越しを済ませたばかりなのに。

『引っ越しするなら春だろう』

突然の社長の思い付きに、
プロデューサー初めとした社員が奔走していたことは記憶に新しい。

でも、あの建物も大概古かったし、
ちょうどいい機会だったんじゃないかしら。

もっとも、しばらくは肉体労働と縁のない生活と送りたいものだけど。

あんなビッグイベントが年に何回もあったら、たまったものじゃない。

おかげで引っ越しの次の日は、身体が思うように動かなかった。

うららかな春風が、コートの裾を揺らす。

一見、何ともないメール。
だけど、どこか引っかかるわね。

とりあえず、近くまで行ってみることにしましょう。

それなら、万が一いたずらだったとしても、大丈夫なはず。

私は手櫛で乱れた髪をかき上げると、
分かりました、とシンプルな返事を打った。
両手を使ってフラップを閉じると、
すぐに着信を知らせる振動があった。

思わずどきっとしてしまう。

だって、着信を受け取る瞬間に、
携帯を握っていることなんて滅多になかったのだもの。

それに、メールもあまりする方ではないしね。

差出人の欄には、さっきと同じ英数字。

>こ助かりました。
>千早ちゃんにメールしてよかったです。
>それでは、前の事務所でお待ちしています。

そのメールは、私の頭の中を、より一層かき乱した。

――いったい誰なの?

だけど、今更それについてメールするのも、気が引けるわね。

とりあえず行ってみることにしましょう。

今度こそ携帯をジーンズのポケットにしまいこむと、
私はもやもやした気分のまま、人ごみのすき間を縫って行った。

>これで助かりました。
>千早ちゃんにメールしてよかったです。
>それでは、前の事務所でお待ちしています。

そのメールは、私の頭の中を、より一層かき乱した。

――いったい誰なの?

だけど、今更それについてメールするのも、気が引けるわね。

とりあえず行ってみることにしましょう。

今度こそ携帯をジーンズのポケットにしまいこむと、
私はもやもやした気分のまま、人ごみのすき間を縫って行った。

公園を抜けると、近道になる。
だから私も、それを利用することにした。

だけど、一つおかしなことがあった。
普段は静かな公園が、少し騒がしいのだ。

足を止めて声のする方を横目でちらりと見ると、大きな桜の木々。

木々の間から、金曜夕方の赤みを帯びた空と、うっすらとした月が覗いている。

お花見なんて騒々しいだけと思っていたけど、
今日だけは騒ぎたくなる気持ちも、分からなくはないわ。

本当に、ほんの少し、だけど。

それにしても、ここの桜はこんなふうに咲いたのね。
去年は確か……どうだったかしら。
まあ、気にするほどのことでもないわ。

それより、メールの送り主の正体を突き止めることの方が、
今の私にとっては重要事項なのだから。

私は、花びらで敷き詰められた道を踏みしめながら、再度、歩みを進めた。

歩くこと数分。
抜け道のおかげか、私が思っていたよりも、早く目的地に着いてしまった。

旧事務所は、大きな道路に面している。
視界もだいぶ開けていて、人も車もたくさん通る所。

これならメールの送り主が顔を出せば、容易く確認できそうね。
もっとも、それらしき人は、まだ見当たらなかったのだけど。

まぁ、どちらでもいい。

時間は五時の十分前。
私は居酒屋の脇に陣取って、
誰とも分からない、来る保証もない待ち人を待つことにした。

わざわざ先についたという報告は、しなくてもいいわよね。

来なければ、ただのいたずらということにして、帰ればいいだけだもの。

建物に寄りかかりながら、それとなしに空を見上げる。

雲一つない空に、さっきの月が浮かんでいた。

月の反対側に乱立しているビル群は、
太陽の光を受けて茜色に染まりかけている。

なんだか眠そうな春の日差し。

ここからは、こんな景色が見えていたのね。

今日という日がなければ、ずっと気が付かないままだったかも、なんて。

「こっちにいたんだ。
 ごめんね、急に呼び出しちゃって」

突然、女性の声がした。
どこかくぐもったような、細い声。


萩原さんだ。

予想外の人物に、思わず固まってしまう。
そんな私の様子を見て、その表情が曇った。

「もしかして……迷惑だった?」

しまった。

ここでしくじってしまっては、今後に影響が出るかもしれない。
それだけは、なんとしてでも避けなければ。

慌てて軽い調子の声を作って、言う。

「――いいえ。突然現れたから、少し驚いただけよ」

「そっか。ごめんね? でも、よかったぁ」

「それで、お願いって何?」

「えーっとね……。
 外で説明するのもなんだし、とりあえず、中に入ろう?」

少し釈然としない部分もあったのだけど、ひとまずうなずいて見せる。

約束を破るわけにもいかないしね。
それに、ここまで来て、その頼みを断れるような勇気は、生憎、持ち合わせてなかったの。


二人で縦になって、事務所への暗い階段を上る。

軽やかに上っていく萩原さんとは対照的に、私の足取りは重い。

そのせいで、徐々にステップ数段分の距離がついていった。

――なんで私なの?

聞けるはずもない。

口を開こうとすると、言葉にならないのはなぜかしら。

確かに、アドレスは知っていたはずだけど、それが私を呼ぶ理由にはならない。


いや、せっかく頼られているのだ。

だから、ここは喜んでおくべきよね。

それにしても、
どうしてこんなに遠慮がちになってしまっているのかしら。

ふと見上げると、
私の到着を待つ萩原さんの顔があった。

待たせてしまってはいけないわよね。
私は慌てて、階段を一段飛ばしで駆け上った。

扉の前まで来ると、萩原さんはどこか誇らしげに鍵を掲げた。

「プロデューサーから、鍵もらってきたんだ」

「まだ、返してなかったのね」

「うん、ちょっと用があるって言ったら、すぐ貸してくれたの。さぁ、どうぞ」

言われるがまま中に入ると、
デスクもソファも何もない、空白の部屋が私たちを待ち受けていた。

何もない分、その広さがしっかりとわかる。

「本当に何もないわね」

「……うん。そうだね」

そう返事をするなり、萩原さんは窓の方へと歩み寄った。

結局、お願いってなんなのかしら。

はやく教えてほしかったのだけど、
外の道の様子をを眺める萩原さんの背を見ると、やはり私は何も言えなくなってしまった。


仕方なく、もう一度周囲を見回す。

すると、日焼けした壁に、一際目立つ白い跡。

サイズから見るに、写真の跡ね。
あそこには、どんな写真があったのだっけ。

そっと、その場所を指でなぞる。

そうだ、ここには小さなボードがあったのだ。
その証拠に周りの色合いが少し違う。

ということは、この下には、
昔の写真が貼り付けてあったりしたのかしら。

それこそ、私の知らないようなものが。


「写真の跡、だね」

外に夢中になっていたはずのおかっぱ頭が、唐突に視界の端で揺れる。

そちらへと振り向いたら、強い西日が目に入った。

道理で、ここの壁も日焼けするわけね。
思わず顔をしかめてしまう。

「色々、あったね」

「……そうね」

その"色々"とやらが、
ここでの出来事だという事を理解するのに、
少しの間を置いてしまった。

あれだけ特徴的な人々が一堂に会していれば、何もなかったわけがないわよね。

でも、ここでは、"色々"の一言で済まされないような出来事が、数多くあったのだ。


思いつくがまま、と言ったふうに、萩原さんが言葉を並べる。

「ねえ千早ちゃん。冷静に考えると、ここって結構怪しい事務所だと思わない?」

「怪しいって?」

「だって、こんな小さな事務所……」

萩原さんは、
それっきり言いよどんでしまったけど、言いたいことはよくわかった。

確かに、怪しいどころの話じゃないわね、こんな場所。


「そんな所に突っ込んでいくって、私、結構向こう見ずだったんだなぁって」

私たちは、顔を見合わせて笑った。

「ええ。考えれば考えるほど、怪しいと思う」

萩原さんは、満足げにうなずくと、
眩しそうに手で庇を作りながら一歩後ろに下がった。

「ごめんね、なんだか感傷に浸っちゃって。
 そうそう、お願いのことなんだけどね?
 給湯室の戸棚にお菓子が残ってたはずなんだけど、
 けっこう高い所だから、私じゃ確認できそうにないんだ。
 引っ越しするときに、忘れちゃってて。
 もうなかったら、骨折り損になっちゃうんだけど……」

「いいわよ。そう言うことだったのね」

次第に伏し目がちになっていた萩原さんの表情が、ぱあ、とほころんだ。

だけど、そういうことなら私以外に適任がいるんじゃないかしら。


少しの沈黙を置いて、萩原さんが申し訳なさそうに経緯を説明し始める。

「プロデューサーも四条さんも、
 まだお仕事あるみたいで、頼めなかったんだ」

「……ちなみに、あずささんは?」

あの人も、背が高いはずだけど。

「連絡したんだけど……圏外」

なるほど。
お互い肩をすくめながら、今度は苦笑いを浮かべる。

まったく、今日はどこまで行ったのでしょうね。


戸棚は、思っていた以上に高い位置にあった。
こんな所に手を入れたこと、多分なかったわね。

指先を使って探すと、確かに手応えを感じる。
丸くて小さな缶の形を指先で確認することが出来た。

「……あったわ」

「ホント? 見に来てよかったぁ」

背後からは弾むような声。

「ええ。でも、こんな所にあったのね」

「うん。少しでも隠しておかないと、
 すぐに誰かが食べちゃうんだもん」

知らない所で、お菓子を巡ったいざこざがあったりしたのかしら。

私は必死で腕を伸ばしながら、そう、と気のない返答をした。

私の背でギリギリ届くくらいなのだから、
こんなお願いをされるのも、無理のないことよね。

「あ、でもね、小鳥さんはここを知ってたみたいで、
 無くなってたら、新しいの補給してくれてたんだよね」

「そうなの。はい、どうぞ」

ようやく腕を下ろして、
少し高級そうなクッキー入りの缶を差し出すと、
優しさのこもった声で感謝を告げられる。

「ありがと。助かったよぉ」

まっすぐな優しい目だった。
思わず視線を外して、平静を装った声を出す。

「それにしても、妙な所で律儀よね、音無さん」

「うん、そうだね。だって、私たちの世話までしてくれてるくらいだもん」

「そうね。よっぽどの物好きに違いないわ」

萩原さんは、気まずそうに、どこか頬を引きつらせたような笑顔を見せた。


再び腕を伸ばして、戸棚を閉じると、
あっ、と悲鳴も似た声が耳に届いた。

「ねえこれ、今週までみたい……」

振り向くと、萩原さんが缶の底を覗き込んでいた。

そして、うーん、と少し考え込むような唸り声を上げると、何か閃いたように手を合わせた。

あまりいい予感がしないのは、なぜかしら。

「ねえ」

萩原さんがこらえきれないように言う。
その眼の輝きは、まるでいたずら好きな誰かさんみたいだった。

「ここで食べちゃおっか」

その提案を断る理由もないので、私は黙って首を縦に振った。

「せっかくだし、社長室だった場所にしようよ」

私のコートの裾を引っ張って、萩原さんが楽しげに提案する。

こんな大胆な発言をする人だったなんて。
でも、その気持ち、なんとなく分からなくはないわ。

普段入れない場所に入るって、なぜか浮きたってしまうものがあるわよね。


「そもそも社長室って必要だったのかしら」

何か話題を、と考えた結果がこれだ。

がらんどうの部屋の隅で、
小洒落たデザインの缶の蓋を開けた萩原さんが、困り顔をする。

「偉い人には、色々あるんじゃない……かな?」

「……そうね」

軽く自己嫌悪に陥りそうになった。
まったく、なんで私は気の利いたことが言えないの。

「はい、どうぞ」

笑顔とともに差し出されたクッキーを受け取って、
感謝を告げるとともに、再度、話題の提供を試みる。

「ありがとう。……ねえ、なんで私たち、こんな角にいるの?」

椅子もない部屋では、もたれられるものに頼るしかない。
だけど、扉から一番遠くて、しかも片隅である必要はないと思うのだけど。

「……その方が落ち着くから?」

分からなくはないけど、なんで疑問符がそこについてしまうの。

「それに後ろ盾があると安心出来る、よね?」

「……そうね」

一応、賛同しておけばいいのかしら。
こうしてひっそりしていること自体、アイドルなんて職業とはかけ離れている。
でも、この方が私らしかったりしてね。


「今日のレッスンどうだった?」

普段、誰かにしているように、
萩原さんが自然な調子で訊ねてきた。

プロデューサーに同じようなことを聞かれた時は、なんて答えてたっけ。

「いつも通りだったわ」

「そっかぁ」

萩原さんは目を細めながら、
手に取ったクッキーを口に運んだ。

こんな素っ気ない答えで大丈夫なのかしら。

「ねえねえ、そのストラップって……」

とりとめのない話って、こういうことを言うのかしら。

萩原さんが、私のジーンズのポケットからはみ出た携帯をとらえたようだ。

それは、書店でもらった犬のストラップだった。
正直、犬ともわからないような悪趣味なデザインだったのだけど。

「ええ。本を買ったらついてきたの」

「それって――」

そこまで言うと、萩原さんは口をつぐんでしまった。

その続きにはどんな言葉が入るのかしら。
これが犬だから? いや、どうも違いそう。

と、なると――。

「これ、センスないわよね。
 正直言って、犬の顔があまりにも不細工」

「……やっぱり、そうだよね」

良かった。
私の予想は的中したみたい。

「じゃあ、なんでつけてるの?」

「……皆から素っ気ないって言われていたし、
 他にしまうところがなかった、から?」

もらいものをなんとなく使うだなんて、貧乏性みたいに思われてしまうだろうか。


私の心配をよそに、
萩原さんは嬉しそうな、
それでいてどこか弱ったような顔をした。

「実はね、それ、私も持ってるの」

言うや否や、萩原さんはバッグの中から、私と同じストラップを引っ張り出した。
もちろん、フィギュアの部分ではなく、紐の端を持って。

「これね、あんまり犬に見えないから怖くないんだけど……」

「全くもって可愛くないわよね」

ストラップとしては致命的じゃないかしら。
お互いのストラップを交互に見て、二人で苦笑する。


「ねえ、それがもう少し犬に似てたら、どうしたの?」

少し考えるようなポーズをとって、萩原さんが言う。

「……穴掘って埋めちゃう、とか?」

私たちはその一言で、同じタイミングで笑い出した。

そんなこと、できないけどね、
と明るい声で弁解する萩原さんは楽しげだった。

これなら、あの素っ気ない返事でも問題なかったみたいね。

でも、残念なことに、一つ問題が無くなると、
また別の問題がすぐに頭の中に浮かび上がる。

せっかく消えかけていたのに、厄介なものね。

――なぜ、あんな他人行儀なメールを?

口に出来ないまま、その疑問を頭の中でぐるぐるさせる。
それだけ距離を置かれている、ということなのかしら。
まあ、だからと言って、どうという事ではないのだけど。


「好きでもないものって、
 ついしまいっぱなしにしちゃうんだよね」

萩原さんが空になった缶を、そのままバッグに突っ込んだ。

ゴミ箱もないし、仕方ないことよね。

そんなことを考えていると、萩原さんが何の前触れもなく、私の右腕に抱きついてきた。

思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。

「な、何?」

「静かに。誰か来てる」

声を低くして、萩原さんが耳元でそう囁いた。


なんだ、そんなこと。
私も同じように声を低くして、開き直るような調子で囁く。

「見つかってもいいじゃない。 
 どうせ関係者か業者の人でしょ?」

「で、でもぉ……」

「別に隠れる必要なんてないわ。行きましょう」

だって、悪いことをしてるわけじゃないもの。

そう言い残して、
私が扉の方へ歩いて行こうとすると、腕をつかむ力が増した。

萩原さんは根を張ったように、そこから動き出そうとしなかった。

これじゃ埒が明かないわ。
力ずくで引きずっていくしか方法はないみたい。

無理やり萩原さんを引きずって、どうにか扉の前まで来る。

言われた通り、扉の外に誰かがいる気配がした。

「待って」
「隠れておこうよ」と、後ろからはこの繰り返し。

私が出ていく前に、その声で気付かれてしまうのではないかしら。

「誰かいるの?」

ほら案の定、外からの声。

私の腕をつかむ手は、
一瞬だけ硬直したかと思うと、すぐ力なくほどける。

その隙に私は、ドアノブを容赦なく回した。

でも、怖がる要素なんて一ミリたりともないわ。
だって、聞き覚えのある声だったもの。


「こんばんは。音無さん」

「あら、千早ちゃんだったの。……それに、雪歩ちゃん?」

その瞬間、音無さんの口元がだらしなく緩んだのを、私は見逃さなかった。

斜め後ろからの安堵の声が、私の髪を揺らす。

「小鳥さん、ですか?」

「ええ。……泥棒とでも思った?」

「ち、違いますよぉ!」

慌てふためく萩原さんに、音無さんはどこか生暖かい視線を送っていた。

「どうしてこんな所にいるの?」

と、音無さんがこの空気を一掃するかのように質問する。

「忘れ物があったんですって。ねえ、萩原さん?」

「は、はい! 千早ちゃんの言うとおりですぅ!」

「じゃあ、私と一緒ね。
 もっとも私の忘れ物は、もうなかったんだけど。
 引越し屋さんに、持って行かれでもしたのかしら」

まぁ大したものじゃなかったんだけどね、と音無さんは笑うと、
つい最近までカレンダーがかけられていた場所に身を預けた。

その証拠に、音無さんの肩の上の部分には、画鋲の跡がくっきり残っている。

「ここはカレンダーがあったのよね」

私の考えを見透かしたかのように、音無さんがその個所を指で擦った。

「――そっちには温度計。
 あっちにはコードがあったわ。
 引っ掛かりそうで危なかったから、壁伝いに通してたけど」

「そういえば……そうだったかも」と、萩原さんが言う。

「すごいですね。私は、ほとんど覚えてないです」

私が歓声めいた声を上げると、
音無さんが誇らしげに鼻を鳴らした。

「まぁ、みんなよりは、ちょっと長くここにいたからね」

"ちょっと"に強いアクセントが入っていたのは、私の勘違いではないはず。

更に得意顔になった音無さんは、嬉々としてこの場所当てゲームを続けた。


「そこは古雑誌置場。
 ……捨てられずに溜まっていく一方だったから、
 あっちの棚から移したのよね。
 結局捨てられずに、新しい場所まで持って行っちゃったけど」

その雑誌類の量のせいで、
プロデューサーが酷く苦労していたのも、つい最近の出来事。

「そこは古雑誌置場。
 ……捨てられずに溜まっていく一方だったから、
 あっちの棚から移したのよね。
 引っ越しの時も結局捨てられずに、今の事務所まで持って行っちゃったけど」

その雑誌類の量のせいで、
プロデューサーが酷く苦労していたのも、つい最近の出来事。
あーあ、と天を仰いで、音無さんが嘆く。

「それにしても、社長も突然すぎるわよね。
 いきなり引っ越しって言われても、いろいろ面倒なんだから」

ぐるりと白い部屋を見回して、音無さんが電気のスイッチを入れた。

暗くなりかけていた室内が、また明るさを取り戻す。

「よかった。まだ生きてるみたい」

「ちょっと暗くなってきましたね」と、萩原さんが眩しそうに明かりを見つめた。

そろそろ日も沈んでしまうし、お開きにした方がいいんじゃないかしら。

私の不安をよそに、萩原さんがさっきの写真の跡を指さした。

「ねえ小鳥さん。ここにはどんな写真があったんですか?」

少し考え込むような素振りを見せてから、音無さんが答える。

「確かそこには、ミニボードがあったはずよ。
 それで、その横が棚――」

「そうじゃなくて、これ、見てください」

どれどれ、とそれを確認しに行く音無さんの背を見る。
意外と身長低いのよね、この人。

「確かに、写真の跡みたいなのがあるわね。
 えーっと……。
 そう言えばあったような……無かったような……。
 ごめんなさい、ちょっと分からないわ」

「そうですか」と萩原さんがその壁を撫で回す。

「そこの上には、時計ですよね」

続けざまに、音無さんのいる位置の遥か上を指さした。

それはさすがの私でも覚えてるわ。

「ええ。雪歩ちゃんもよく覚えてるじゃない」

「えへへ」

萩原さんは満足げにうなずくと、両手を壁にぴたりとつけた。


「棚の後ろ側ってこんなふうになってたんですねぇ」

やたらと感慨深そうな声だった。

そこには、ファイルや歌の教本など、
私に必要なものがたくさん詰め込んであったのだ。

「そこにあった教本とか雑誌って、たいてい取り合いになったわよね」

「うん。
 みんな譲りたがらないんだもん。
 だから、ここでじゃんけんしたり、あみだくじ作ったり……。
 それでも、結局並んで読んだけど」

萩原さんが思い出すようにして、天井を見上げながら話した。

そういえば、半ば強制的な形で、
それらの戦いに参加させられたのだっけ。

自分がその戦いに勝った時のことを思い出す。
資料を読むのに集中していて、気が付くと勝手に輪ができていたことが何度もあったわね。

それを見た律子が人払いをしてくれたり――。

「……まぁ、嫌ではなかったけど」

意図せずして出た声に、萩原さんが目を丸くする。
どうやら聞かれてしまったみたい。

でも私、何かおかしなこと言ったかしら。

「音無さんは、いつからここにいたんですか?」

萩原さんを気にせず、何気なく訊ねる。

音無さんは、ぼそぼそと、
そこにあったはずのものの名前を呟きながら、
部屋の中をせわしなく歩きまわっていた。

「そんなの、内緒に決まってるじゃない」

「そうですよねぇ」と、萩原さんが落胆した声を出すと、音無さんは少しむっとした表情で言った。

「それに、昔話ができるほど年は取ってないわよ、私」

「じゃあ、……おいくつなんですか?」

間髪入れずに萩原さんからの質問が叩き込まれる。

音無さんの顔に動揺が走った。
私でもわかるくらい、明らかに。

その姿があからさますぎたので、私は少し吹き出してしまった。


「今、笑ったわね」

音無さんが口をとがらせる。

「すみません。おかしくて、つい」

「……千早ちゃんが意地悪する」

珍しく、少し拗ねたような声を出したかと思うと、
音無さんが萩原さんの背中にさっと隠れた。

「ええっ!?」

突然巻き添えを喰らった萩原さんは、聞きなれた悲鳴をあげる。

ああ、これが私の知っていた場所だ。

どこか見慣れた光景の中で、私たちは目くばせすると、声を合わせて笑った。


笑い声がすべて天井に吸い込まれると、萩原さんが、少しかすれた声を出す。

「楽しかった、ですね」

「……そうね」

と、音無さんが部屋の明かりを見上げて、眩しそうに顔をしかめた。

「やっぱり、何もないと広いですね」

萩原さんがぐるりと回転しながら、しみじみと言った。

「私たちしか、いないからじゃない?」と、私も極めて明るい声で言う。

「だから、なのかなぁ」

多分、それだけではないのだろうけどね。

「だから、よ」

強調するように音無さんが言うと、
欠伸をするような息を漏らしながら大きく伸びをした。

「さて、行きましょうか」

だから、その睫毛が濡れていたのは、欠伸のせいに違いないの。

「じゃあ」と言って、萩原さんがスイッチに手をかけると、
こつん、こつんと階段を上ってくる音がどんどん近づいてきた。

まったく、今度は誰が来るっていうのかしら。

「もしかして……今度こそ泥棒?」

「わわわ、私、穴掘って埋まって――」

「待って!」

二人とも、そんなにあわてなくても、
盗るようなものは、ここにはもう何もないのよ。

でも、面白いからこのまま黙っておきましょう。

階段の音が消えた。

曇りガラスに映った影を三人で凝視する。

ゆっくりと開かれていく扉に、私もつい身を固くしてしまう。

「なんだ、君たちか」

でも、やっぱり私の思っていた通り。
面喰らった様子の二人より一歩前に出て、扉を開いた人物に声をかける。

「ええ、忘れ物がちょっとあったので。
 社長はどうしてここへ?」

「近くまで来たら、明かりがついているんだ。
 気にならないはずが――」

「もう、社長!
 驚かさないでください!」

音無さんが社長の言葉を遮って叫ぶと、
社長は肩をすくめて申し訳なさそうに笑った。

「いやぁ、すまんすまん。
 それにしても、何もないとやっぱり広いねぇ」

みんな思うことは同じみたい。
そのセリフは今日、何回も聞いた記憶があるわ。

「でも、昨日来た時よりは幾分か明るいみたいだ」

「昨日も来たんですか?」と萩原さんがおずおずと手を上げて質問した。

「ああ、確認のためにちょっとね」

社長は、頭を掻きながらそれに答えた。

それを聞くなり、音無さんが「あ」と手を叩いて、
「社長、給湯室の戸棚のの中とか、確認しませんでしたか?」と、勢いよく訊ねた。

「いいや。そんな所までは……。何か、あったのかね?」

「……いえ、なにも」

社長の答えを聞いて、音無さんが深いため息をついた。


これは……黙っておくのが吉ね。

萩原さんが、明らかに焦った顔をしているけど、
今の音無さんからは見えてないから、大丈夫なはず。

音無さんは、

「せっかく孫の手まで持ってきたのに」

と残念そうに天を仰いでいた。

それは高い場所にあるものを取るためのものではないと思うのだけど……。

「――にしても、ここからやっと抜け出せたねぇ。
 新しい事務所の過ごし心地はどうだい?」

社長が場を取り仕切るように言い放つ。

だけど、逆効果だったようで

「それどころじゃなかったんですよ! もう!」

と、音無さんが怒ったように声を上げた。

私怨が混じっているような気がするのは、多分、気のせいね。

「私に何の相談もなく決めないでください。
 引っ越しの手続きとか、結構面倒なんですよ?」

「いやあ……。
 でも、最初にここから出たいと言ったのは、君だろう?
 確か、狭いからいちいち不便だと――」

「ち、違います!
 もっと設備を整えたいと言ったのは、社長じゃないですか」

どちらが本当なのかしら。
まぁ、どちらも本当なのでしょうね。

なんとなく、そう思えるから不思議。


「ねえ、どうしよう」

萩原さんが私のコートの裾をつかんでささやく。

「放っておけばいいんじゃない?」

「……そうだね」

目の前で、口論を広げる二人を見つめる。

だって、止めてしまったら、
ここをすぐに出ていく理由が出来てしまうもの。

だから、放っておくのが一番いいに決まってるわ。

「ねえ萩原さん」

「なに?」

騒々しい環境に乗じて、意を決して訊ねる。

「……なんであんなに堅苦しいの?」

「え? ……なにが?」

「メールよ、メール」

あんな素っ気ないメールをした私が言えたことではないかもしれないけど。

萩原さんは、微妙な間を置いた後、すべてわかったような顔をして口を開いた。

私も、その一言一句を聞き漏らさないように耳をそばだてた。

「メール打つ時って、なんか敬語になっちゃわない?
 みんなから指摘されちゃうんだけど……変かなぁ」

「…………そう」

なんだ、と今度こそ誰にも聞こえないような声で、独り言を漏らした。

結局、私の早とちりだったってわけね。

「何か言った?」

「いいえ。別に変じゃないと思うわ」

「そっか。でも、よかったぁ。
 千早ちゃん、来ないと思ったもん。
 あんなに突然頼みごとしたから、無理かなぁって」

目を細めながら、萩原さんは窓の外をのぞいた。

「予定もなかったし、構わないわ。
 でも、誰からのメールかわからなかったんだけどね」

驚いた顔で振り向いた萩原さんに、悪びれることなく告げる。

「アドレス帳、飛ばしちゃったの」

「なんだ」

と、安心したように萩原さんが笑った。


「じゃあ、あとで送ってあげる。
 とりあえず事務所の人の分だけあればいいよね?」

「……そんなこと、できるの?」

「できるよ?
 そうなら、早く言ってくれればよかったのに」

「ごめんなさい、私よくわからなくて」

そう言って携帯を取り出すと、あの犬が揺れた。
この悪趣味なストラップ、もう外した方がよさそうね。

「やっぱり今送っちゃおっか。
 ……しばらく終わりそうにないし、ね?」

少しばかり離れたところで、一方的な口論を続ける二人をちらりと見る。

あれはいつになったら終わるのかしら。


「ええ、そうしましょう」

そう言って私は、両手を使ってそっとフラップを開く。

「じゃあデータ送るね。赤外線、ある?」

「……セキガイセン?」

聞いたことがあるような、ないような。

「じゃ、じゃあメールで送るね。――はい、送ったよ」

「なんだかごめんなさい。……ねえ、これをどうするの?」

「簡単だよ?
 まずはね――」

懇切丁寧に教えてくれようとしていたのだろうけど、
それを飲み込める気がしなかったので、
私は大人しく萩原さんに携帯を差し出した。

萩原さんはとまどいながらも、それを受け取ってくれた。
そして、私にはできないようなスピードでその細い指を素早く動かした。

ほとんど真っ白だったアドレス帳が、見る見るうちに黒く染まっていく。

「ありがとう。
 すごいのね、萩原さんって」

「えへへ、どういたしまして」

画面を覗き込もうとすると、肩がぶつかる。

「ごめんなさい。私、邪魔かしら」

「ううん? 千早ちゃんだって、そんなことないんでしょ?」

「――そうね」

萩原さんは満面の笑みを浮かべたかと思うと、
いきなりびくっと肩を震わせた。


「どうしたの?」

「いや……ストラップが犬っていうこと、ちょっと忘れちゃってて」

そう言うと、私の携帯の端を持つようにして、丁寧にそれを差し出した。
もちろんストラップは宙ぶらりんのまま。

よくよく見ると、結構怖い顔してるわね、これ。

「ありがとう。これ、後で外すことにするわね」

「うん、そうした方が」

――いいと思うな。

多分こう続くはずだったのでしょうね。
だけど、その言葉は続けられないまま。



「どうしたの?」

「ねえ、私いいこと――」

「――千早ちゃんもそう思うわよね!?」

萩原さんが再び、びくっと肩を震わせる。
唐突に私たちの間に、大声がはさまれたのだ。

これは飛び火ね。
だって、気が付いたら音無さんが必死の形相で私を見つめていたのだもの。

今更聞いてなかった、なんて言えないわよね。

ひとまず適当に、

「ええ、そうですね」と、相槌を打つ。

「ですって、社長」

「……なら、申し訳なかったね」

その言葉にあまり重みが感じられないのは、たぶん気のせいじゃない。

にしても、これで終わりなのかしら。
さすがに手持ち無沙汰なのだけど。

「それでですね――」

ああ、また始まるの。

「あの、社長」

見計らったかのようなタイミングで声がかかる。
いつの間にか、萩原さんは棚のあったはずの場所まで、移動していたようだ。

「なんだね」

社長は待っていたといわんばかりに、音無さんの前から逃げ出した。

「この写真の跡なんですけど……」

「どれどれ……」

社長がその近くによると、萩原さんが一歩遠くにずれた。

やっぱり、まだダメなのかしら、男の人。


「――写真があったみたいだが、私は忘れてしまったよ」

「そうですかぁ……」

その社長の姿を見て、私は、ふと資料として渡されたファッション誌の特集記事を思い出した。

ちなみにその記事のタイトルは<<男の嘘の見抜き方>>。

酷いセンスよね。
嫌々読んだからか、それだけは頭にこびりついてしまったの。

でも、その中身なんかこれっぽっちも覚えてないのに、
どうして私は社長の嘘がわかったのだろう。

とりあえず、"女の勘"とかいう都合のいいワードを理由にしておきましょう。

もっとも、それに気づいたのは私だけのようで、
萩原さんと音無さんは、残念そうな顔をしていた。

「さて、時間も遅いし、そろそろ行こうか。
 どうせ、夕食はまだなんだろう?
 ご馳走しようじゃないか」

「はい! 私、いい店知ってます!」

待ち構えていたかのように、音無さんが勢いよく手をあげる。

こうなることも想定済みだったりしてね。


「それは……手間が省けたね」

皮肉交じりの社長の言葉も、
音無さんには通じていないようだった。

「じゃあ、出ましょうか」

しかし、二人が事務所を出ようとしても、
萩原さんは名残惜しそうに、その場に立ち尽くしていた。

「名残惜しいかね」

「……はい」

「じゃあ、私は先に出ているよ。
 音無君はどうする?」

「私も出ます。
 これ以上ここにいたら、本格的に情が移りそうで」

音無さんが寂しげに笑う。

「それじゃ、なるべく早く出てくるんだよ。
 年寄りにはこのくらいの気温でも、結構堪えるんだ」

ばたんと扉の閉まる音がむなしく響く。
今日ここに来た時のように、萩原さんと二人きり。


「ねえ、さっき何か言いかけてたけど――」

夕方の頃が嘘のように、言葉が自然に出てくる。
萩原さんは何も言わずに、にっこりと笑って給湯室の方へと入って行った。
慌てる必要もないのに、ついそのすぐ後を追いかけてしまう。

「ねえ千早ちゃん」

くるりと向き直って、萩原さんがその顔を崩さないまま問いかけてくる。

「千早ちゃんは好きじゃないものってどうする?」

何を言っているのかしら。
私はまだ、萩原さんがこれから何をしようとしているのか、見当もつかなかった。

「そうね……。
 とりあえず使ってみて、要らなかったら片付けるわ」

「じゃあ――――」

言い切るなり、ついさっきまで楽しげだった表情が一気に曇って行く。

「あ、でも、だめかな。こんなことしちゃ。やっぱり――」

どうやら、怖気づいてしまったみたい。
だから私は、その不安を取り払うように、精いっぱいの力を込めて言った。

「とてもいい考えだと思うわ。私もするから、やりましょう?」


「公園の近くに店があるんです。
 だから、そこを抜けていきましょう!」

音無さんの提案に従って、
私は元来た道を辿って行くことになった。

私の背後から、風が囁くようにさやさやと流れていく。

とりあえず、家に帰ったらこのコートをしまわないと。

そうしたら、この風に歌を乗せましょう。

それなら私がどこにいても、もっと遠く、どこまでも届くはずよね。

遠くなった事務所は、
すっかり夜色の中に溶け込んでしまっていた。

太陽が出ていた時には、
まだはっきり見えていたのに、
その存在は、どこかおぼろげなものになっている。

なんだか今日の出来事もあの場所も、
全部、ふわふわした夢の中だったみたい。

「さよなら」

私は誰にも聞こえないようにつぶやいて、腕を下げたまま小さく手を振った。

多分、私はもうあの場所に足を踏み入れることはないのでしょうね。

だって、これ以上パンドラの箱を引っ掻き回すような真似、しない方がいいに決まってるもの。


「綺麗ですねぇ……」

あのくぐもった声のする方を振り返ると、さっきの桜がライトアップされていた。

「ああ。実にいい眺めだ」

満開の桜を見上げて、社長がかみしめるように言う。

「今度、ここで花見でもしようか。
 あの桜の下だと、なかなかいい写真が撮れるんだ」

「じゃあ、場所取りはお願いしますね」

音無さんが悪戯っぽく笑う。
私はというと、喉元まで来ていた言葉を飲み込むことに必死だった。

――社長はよくご存知なんですね。

わざわざ指摘してしまうなんて、あまり良いことではないわよね。

「ああ!」

いきなり萩原さんが叫び声を上げる。

三人同時に萩原さんを見つめると、
少しばかりまごついたけど、すぐに前を見据えて、桜の木の下を指さした。

「あれ、見てください!」

「……おじさんたちがお酒を飲んでいるけど」

「その真ん中に立ってる人ですぅ!」

「とても美しい人だねぇ」

社長がのんびりとした声を出す。
それとは反対に、音無さんは顔色を変えて叫んだ。


「何言ってるんですか社長!
 遠目で分かり辛いけど、あれ、あずささんですよ!!」

「まぁ、とりあえず電話をかければわかることでは?」

とっさに携帯を開いて、
先ほど萩原さんから受け取ったアドレス帳から、
あずささんの電話番号を引っ張り出す。

『おかけになった電話番号は――』

ああ、そういえば。

「みんな、のんびりしてないで早く!
 サラリーマンの輪の中にアイドルがいるだなんて……問題じゃないけど大問題です!
 ああもう、仕方ないわね。社長!」

「ちょっと待ってくれ。それでは五人分に――」

「そんなこと言ってる場合じゃありません! 行きますよ!」

社長は、音無さんに引っ張られるがままに桜の木の下へと向かって行った。


「事務所の場所が変わったことなんて、
 あずささんにとっては些細なことなのかもね」

萩原さんがぽつりと呟く。
私も呆れたような調子で、同じように呟いた。

「あの人にとって、場所なんかこれっぽっちも関係ないんだわ」

おじさんたちの中へ、社長を放り込む音無さんの背中を見やる。
自分では入らないのかしら。
でも、私もあの中には入りたくないわね。

「そうだね。あんまり関係ないんだよね」

喧騒の中で、吐息交じりの声だけが耳に響いた。

「ええ、そうね」

「私ね、環境が変わるのってあんまり好きじゃないんだ。
 だから引っ越しも、実はちょっぴり嫌だったんだよね」

おじさんたちの中に紛れ込んだ社長が困り顔をしているのは、遠目にも見て分かる。

「でもね、今日、からっぽになったあの場所に二人で行ってみて分かったんだけど」

桜の下では、
輪の中からあずささんを引っ張り出す社長の姿と、
勇ましく、ぶんぶんと手を振る音無さんの姿があった。

「千早ちゃんたちがいれば、大丈夫な気がしてきたんだ」

向こうに手を小さく振り返しながら、
私の隣で萩原さんがしっかりと微笑みかけてくれた。

もっとも私は、まっすぐ前を向いたままの状態で

「そうね」

としか、言えなかったのだけど。

「あらあら、みなさんお揃いで〜。
 今日は、なにかあったんですか?」

音無さんと社長の間に立ったあずささんは、
いつも通り悠長な声で言った。

「なんでまた、あんなところにいたんですか?」

「お散歩してたの。
 ここって、前の事務所の近くでしょう?
 だから、ちょっと寄ってみようかと思ったんだけど、
 気が付いたら、あの中に引きずり込まれてて」

大して困っていないような調子で、あずささんが微笑む。

「ちなみに携帯はどうしたんですか?」

「携帯?
 ……ああ、家を出てすぐに電池切れしちゃったの」

それは、携帯を持ってる意味がないのでは。

矢継ぎ早に投げかけられた私の問いかけを、さして気にせず、
あずささんは桜の木と、その周りの人々を横目で見やった。

「でも、おじさんたちが酔っててよかったわ〜。
 そうじゃなければ、気づかれてたかも」

なんてね、とあずささんは小さく舌を出した。

「本当ですよ」

と、音無さんが安堵したような声を漏らすと、
すっとあずささんの肩に手を置いた。

「まあ、何事もなくて良かったです。
 それよりあずささん。晩御飯、ご一緒しませんか?
 社長のおごりですよ?」

「それは素敵ですね〜。
 でも、よろしいんですか?」

それにノーと言える人が、この世の中に存在するのかしら。

「ああ、私に任せたまえ!」

社長がやけっぱちに言い放つと、
今来た方に背を向けて、足取り重そうに歩き始める。

だから私たちも、そのしょぼくれた背中をゆっくりと追いかけて行った。


>今日はありがとうございました。
>それで……、
>今度、新しいの買いに行きませんか?
>空いてる時間があったら、教えてください。
>じゃあ、また明日。
>新しい事務所でお会いしましょう。

やはり、堅苦しすぎるわね。
萩原さんには悪いけど、今度顔を合わせたときに指摘しないと。

だから、明日は新しい事務所に寄ってみましょう。

そうすれば、萩原さんが少し戸惑ったような顔で、私の予定を訊ねてくるに違いないわ。

でも、あの場所は、設備が過剰でどうも落ち着かないのよね。

直に馴染める、なんてプロデューサーには言われたけど、どうなのかしら。

まあ、なんでも、いいですけれど。

だって、場所が変わっても、変わらないものがあそこにはあるのだから。


分かりました、ではまた明日、というだけのメールを送る。

私はぎこちない手つきで、
充電器と携帯を接続させると、部屋の中をさっと見回した。

……ちょっと、殺風景すぎるかも。

あの新しい場所ほど大仰でなくてもいいけど、
少しくらい彩ってみても罰は当たらないわよね。

春なんだもの。
慣れないことをしてみたって、いいでしょう?

どうしたって、あの空になった事務所よりかは見栄えするはずよ。


だって、あの事務所にあるのは、
空になった空き缶と、不細工な二匹の犬だけなのだから。

要らないものだらけの場所。
だから、それ以下になるはずないのは、もう決まってることなの。

私は充電器をコンセントを刺すと、
その前で来るかも分からない"おやすみなさい"の返事を待った。

そして、その間中、
どうやって部屋の模様替えの相談を、萩原さんに持ちかけようか、
いまいち飾り気のない部屋の中でずっと考えていた。
おわり



08:30│アイマス 
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