2015年01月09日

佐々木千枝「モバPさん、ひめはじめってなんですか?」


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  コロコロ、と彼が持っていたボールペンが机を転がる。



  それが床に落ちる前に、少女が慌てて手に収めた。

  

  少女が向き直ると、彼は驚いたような表情を見せた後、

  少し考えこむような仕草をした。



  此処は事務所のオフィス。

  窓の外に日は差しているが、昨晩降った雪が街を白く彩っている。

  彼と少女の他誰もいないそこには

  暖房の風と加湿器のシュウシュウという音だけが鳴っていた。







  両手の指で数えられる程度の時間が過ぎる。

  答えが帰ってこないので、少女は二の句を告げた。





SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1420631905







 「プロデューサーさん、大人の女の人はお正月に〈ひめはじめ〉をするって聞いて」



  少女が手を合わせ、期待を露わにする。

  初めて知った単語がどんな意味を持つのかと。



  どこからそういう言葉を覚えてくるのかと彼は少し危なさを感じつつ、

  意味を理解していないことに安堵を同時に抱いた。



 「あの、もしかして大人の人が喜んでくれることなんですか?

  それなら千枝もやってみたいですっ!」



  彼が少女の小さな手からボールペンを受け取る。

  暖房でぬくぬくとしていた彼に、柔らかくも冷たい手がいい刺激になった。







  ボールペンをくるっと回転させてポケットへ収める。

  すると彼は気づかれない程度の小さなため息を吐いた。



 「仕方ない、俺が教えてやろう。〈ひめはじめ〉というのはな――」









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  片付けられていない書類を脇に退けるとホワイトボードが顔を見せる。

  ネコやらサカナやら落書きを消すと、彼はペンを手に取った。



  向かいの椅子には千枝がお行儀よく座している。

  彼は将来娘の授業参観にいったらこんな風であって欲しい、と思った。







   〈女伎始め〉





  普段目にしない漢字が書かれる。

  千枝はそれが今後も習うことがない字なのではないかとなんとなく察した。

  〈女伎〉という字に〈ひめ〉とルビを振られる。



 「千枝のお父さんとお母さんは正月は休みか?」



 「はいっ♪ 3人ではつもうでに行ったり、

  おばあちゃんの家へ行ったり、おぞうに食べたり……」



 「そう、元旦から働くなんてもっての他。世間一般ではな」



  世間一般、と付け足したのは正月の生放送に出演中の他のアイドルを考えてだ。



 「それは大昔も同じ。服を作る人達も正月は働かなかったんだ」



 「昔の人もお正月はお休みしたかったんですね」



 「もちろん働かなければ生きていけない。

  彼女達は元旦休んだあと、1月2日からまた服を作り始めた。これを女伎始めと言う」



 「そっか! 女伎っていうのはお裁縫のことなんですね!」

  彼はその言葉に笑みを浮かべると、ホワイトボードに二重丸を書き込む。

  千枝は頬を少し赤く染め、得意気にして見せた。

  すると彼が再び文字を書く。







   〈火水始め〉





 「それも〈ひめはじめ〉って読むんですか?」



  今度は見慣れた字だが、不思議そうに千枝が首を傾げた。

  火はともかく、水を[め]と読むなど習わない。



 「昔の読みは俺たちからするとわけわからんのが多い」



 「火と水……火に水をかけたら消えちゃうし。

  蘭子さんは関係ないし――」



  千枝の向かいの席で彼が両腕を組み顎を乗せる。

  そういえば袖のボタンが1個取れていたな、とどうでもいい事を彼は思い出した。



  ニヤニヤしたその顔に、答えられないとバカにされちゃうと思い千枝が悩む。

  ちなみに当然傷ついた悪姫は関係ない。



 「――あっ! お湯!」



 「そう。裁縫と同じく、昔の人は元旦は料理をしなかったんだ」



  ホワイトボードに竈や料理と思わしき絵が描かれる。

  あまりにも雑なそれに千枝が思わず笑ってしまい、口を隠した。

  幸い彼はそれに気付かなかった。



 「でも、料理しなきゃ食べるものがないですよね」



 「元旦は今で言うとこの冷や飯みたいなのを食べたらしい。

  おこわって聞いたことあるか?

  こわいっていうのは硬いって意味なんだが、それと関係あるとか。詳しくは忘れた」



 「じゃあ柔らかいご飯が食べられるのは2日から?」



 「そうだな。火と水を使いはじめるから火水始め。

  あと、柔らかいご飯を〈姫飯(ひめいい)〉といってそれにちなんで、という説もある」



  ふぇー……と感心する千枝をよそにPは次々と文字を足していく。





 「〈飛馬始め〉 別に馬が空飛ぶわけじゃないが、1月2日は初めて乗馬をする日、という説」



 「〈姫糊始め〉 これはノリ……昔は洗濯にノリを使ったんだ。

          料理と同じで2日から洗濯をするから、という説。

          ひめって言う通り女性絡みがやっぱり多いな」













  そこまで語ると彼が千枝の方を見遣る。

  途中まで懸命に聞いていた千枝が、何か怪訝な表情を浮かべていた。



 「……大人の女の人がすることって聞いたんですけど…………」



 「あまり間違ってはない。ただ、古い習慣だからな。

  言葉だけが残って今じゃ意味のないことも多い」



  千枝が何か言いたそうにむくれる。

  少しわかりにくかったか、と彼は反省した。





 「ああ。あと

  〈秘め始め〉 どんな睦まじい夫婦でもお互い隠し事をするようになる、という説もある

  まあ大人なら隠し事の1つや100はするもんだ」



  そこまで書くと彼はホワイトボードの蓋を締め、椅子に座る。

  彼が教える事はこれ以上ない。

  何か質問は? と口にしたわけではないが、千枝がピシと手を上げた。



 「はい、佐々木」



 「あのっ、プロデューサーさんは千枝に隠してることとかあるんですか……?」



 「当然ある」



  業界柄、まだ幼い子には伝えられない事など山ほど抱えている。

  アイドル業界は見た目ほどお花畑ではない。

  だから彼も今話している話題をお花畑で終わらせたいのだが。



 「じゃあ……千枝も、プロデューサーさんに何か隠し事した方がいいですか……?」



  なぜそうなるのか。

 「前に礼子さんが言ってました……

  『ヒミツは女をキレイにする』って。

  だから千枝もプロデューサーさんに……」



  そこまで言って千枝が俯く。

  ああ、〈秘め始め〉をして大人になりたいと。



  確かに謎の多い女性はそれはそれで魅力的だ。

  彼の脳裏に何名かのアイドルが浮かぶ。いやいや多すぎも困る、と猛抗議。



 「――でも、プロデューサーさんには千枝のこと

  全部知ってて欲しいし、全部見て欲しいし……ううん」









  千枝が立ち、彼の元へやってきたかと思うと、ちょこんと膝へと座った。

  彼に背を向けている為その表情は伺えない。



 

 「千枝ね――」



 「千枝ね、大人になりたいんです」



  ふと彼の頭に出会って間もない頃の千枝が浮かぶ。



 『レッスン上手にできなくてすみません……

  千枝、次はもっとがんばるから……怒らないで……』



  あの頃の千枝は大人の人を怖がっていた。



  だからといって彼は千枝の前で大人で在り続けることをやめなかった。

  叱るべき時には叱り、褒める時には目一杯に褒めた。

  彼の背中で怯えていた少女は、いつしか離れて手を振りこちらを呼ぶまでになった。



  千枝は大人への憧れが特に強くなった。理由はあまりわからない。

  しかし今回の〈ひめはじめ〉の件も、何かのヒントになればと思ってのことだろう。





  大人になろうとしている。



  子供を見守る者としてこれほど嬉しいものはない。

  つい、彼の手が千枝の頭に触れる。





 「ん……」



  髪を優しく撫でるその手に、思わず目を細める。

  気が抜けたのか、身体にかかる重さが少し増した。

  

  少し色の落ちたヘアピンが手に当たる。

  そういえば最後に千枝にヘアピンをあげたのはいつだっただろう。

  物持ちのいい子だ。今度他のを買ってやろうと彼は思った。





 「大人ってなんだと思う?」



 「……大人?」



  そういうと千枝が指を折って数え始める。

  頭がいい。きれい。料理ができる。お洋服が素敵。おこづかいがいっぱい。etc...



 「あと、プロデューサーさんみたいな人……です」



  千枝が少しだけ誇らしげな顔をした。彼にそれは見えなかったが。





 「俺は『子供に戻りたくなったら大人』だと思ってる」



 「え?」



  上を向いた千枝の頭が胸にトンと当たる。

  髪がめくれ、小さなおデコが顔を覗かせた。



 「逆に『大人になりたい』と思ってるうちは子供だな」



 「むぅ……じゃあ千枝、子供になりたいですっ」



 「今のを真に受けたやつは全員子供」



 「……〜〜〜〜っ」





  プロデューサーさんのいじわる、というつぶやきをさらっと流す。

  ぷぅっと膨らんだ頬が餅のようだと彼は思ったが、

  餅よりももっと柔らかいだろうなという確信があった。





 「大人ってなんだと思う?」



 「……大人?」



  そういうと千枝が指を折って数え始める。

  頭がいい。きれい。料理ができる。お洋服が素敵。おこづかいがいっぱい。etc...



 「あと、プロデューサーさんみたいな人……です」



  千枝が少しだけ誇らしげな顔をした。彼にそれは見えなかったが。





 「俺は『子供に戻りたくなったら大人』だと思ってる」



 「え?」



  上を向いた千枝の頭が胸にトンと当たる。

  髪がめくれ、小さなおデコが顔を覗かせた。



 「逆に『大人になりたい』と思ってるうちは子供だな」



 「むぅ……じゃあ千枝、子供になりたいですっ」



 「今のを真に受けたやつは全員子供」



 「……〜〜〜〜っ」



  プロデューサーさんのいじわる、というつぶやきをさらっと流す。

  ぷぅっと膨らんだ頬が餅のようだと彼は思ったが、

  餅よりももっと柔らかいだろうなという確信があった。

 

 「大人って大変だからな。働かなきゃいけない。飯も作る。服は自分で縫って洗う。

  馬には乗らないけど今じゃ正月も休めない。嘘だっていっぱい吐く。

  そんな時に思うんだ。子供の頃はよかったって。それが大人かな」



  幼いころ、大人になれば何も大変なことなんて無いと思っていた。

  だが、現実は甘くなかったし、当時の大人もそう言っていた。

  今度は彼がそれを言う番だが。





 「まあ、あれだ。大人になりたいってのも正月くらいは休め」



 「でも……」



 「千枝はマジメすぎるんだ。大人はちゃんとサボるときはサボる」



 「杏さんみたいにですか?」



 「あれはサボってるの見かけ次第知らせろ。

  あいつの有給消化率は既に200%を超えてる」



  あはは、と千枝が少し困ったように笑った。





  千枝が膝の上に乗ったまま向きを変える。

  落ちないよう、手が彼の裾を掴んだ。



 「千枝、ちょっと勘違いしてました」



 「勘違い?」



 「プロデューサーさんはいつも千枝に色んなことを教えてくれるから、

  千枝のことすぐに大人にしてくれるんだって」



 「できたとしてする気はない。

  一歩一歩、ゆっくりでいい。いつまでだって見守ってやる。

  ……ああ、そうだ」



  彼が人差し指を口に当てる。



 「……これ、今度やるLIVEの衣装案。他の皆に内緒な」

 

 「わあっ……」

 

  衣装のデザイン案が書かれた紙を彼が掲げる。

  千枝が彼の肩に手をかけ、それを取った。

  

 「すごくかわいい……」

 

 「これからも少しずつ俺と千枝だけの秘密作ろうか」



  千枝がこくりと頷く。

  〈秘め始め〉。本来の意味と違うが、現代的解釈と彼は割り切った。









  衣装案の紙に夢中になっていた千枝だったが、

  ふと彼が気付くと何か別のことを考えいるようだった。

  

  果たしてこれはやっていいことなのか悪いことなのか。

  そんな迷いが込み入った表情。

  

  やがて千枝は意を決するように口をキュッと結ぶと

 

 

 「じゃあ……プロデューサーさん」

  

  千枝が紙を机に置く。

  すると突然、千枝が彼のスーツに手をかけ、ボタンを外そうとした。



  「千枝にも〈ひめはじめ〉、させてください」

 

  慣れてないためか、中々思うようにいかない。

  心なしか千枝の顔は少し紅く染まっている。



  彼は少し驚いたが、抵抗はしない。

  千枝が何をしようとしているのか、思考を巡らせる。

  別に暑いから脱いでいいですかと言うこともないし、だったら自分で脱ぐ。





  

  答えはすぐに出た。よく考えればなんてことはない。

  

 「……ああ、そういうことか。自分でやるのも面倒だったし、頼めるか」



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  冬の街を行き交う人々は身体を縮こませ、正月だというのにどこか重苦しい。

  千枝はレッスンスタジオに向かう。

  足取りは軽く、ともすればスキップでもしそうな勢いだ。

  

  外は寒かったが、火照った頬にはそれが心地よい。

  それ以上に千枝の胸は今とてもポカポカしていた。

  

  

  

  

  

  

  〈女伎始め〉

 

 

  今年最初の裁縫はスーツのボタン付けから始まった。

  得意だと前から言っていたが、実際に見せたのは初めて。

  

  出来上がりを彼に見せると、彼はまた千枝を撫でてくれた。

  また取れてしまったら頼む、と彼の言葉。

  

  (今度はマフラーでも編んでみよっか。

   でも編み終わるまでに春になっちゃわないかな?)



  新しいLIVE衣装もそうだったが、今年の始めに彼の優しさに触れることができた。

  千枝にはそれがどうしてもたまらなく、嬉しさを隠せないまま、

  レッスンスタジオに飛び込んだ。

  

  「あら、千枝ちゃんこんにちは〜♪」

  

  既にスタジオで練習をしていた若葉と会う。

  最近活動しているL.M.B.Gに新しく加わったお姉さんだ。

  お姉さん。ここ重要。

  

  「ふふっ、何かイイことあったの〜?」

  

  「あっ……わかっちゃいます?」

  

  ようやく自分の顔に気付いたのか、千枝が慌てて表情を取り繕う。

  まだ口元がニヤけていた。

  

  「いいんですよ、若葉お姉さんに教えてくれても♪」

  

  「あのねっ、プロデューサーさんが……」

  

  ハッと気付く。新しいLIVE衣装は彼との約束だ。

  屈みこむように若葉が千枝の顔を覗き込む。身長差はあまりない。

  

  隠し通そうかと千枝は考えたが、子供のようにわくわくしたその目に押されてしまう。

  お年玉でもくれたのかな? と思う若葉をよそに千枝が口を開いた。

  







  

  「プロデューサーさんと〈ひめはじめ〉したんですっ!

   いろいろ秘密にしたり、プロデューサーさんの服を脱がせたり、千枝、ちょっと大人になりました!」

  

  

  



                                        おわり











20:30│佐々木千枝 
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