2014年01月15日
鷹富士茄子「幸運にめぐまれて」
ゆっくりやってきます
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1377691664
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私は生まれながら人より少しだけ運の良い子でした。
それを自覚したのはいつのことだったでしょうか。残念ながら今となっては思い出せませんが、私は確かに運の良い子だったのです。
例えば双六。私は決まって誰よりも早くあがりを迎えます。例えばトランプ。ババ抜きで負けたことは一度もありませんでした。
古今東西あらゆる勝負事においては、勝ちを得るということが至上の目的でありましょう。
それが例えカードゲームであれボードゲームであれ、子供にとっては間違いなく真剣勝負の場であったのです。
ですから、常に勝ち続けた私は、毎日をとっても面白可笑しく過ごせていたような気もします。
とはいえ運の善し悪しとは時と場合によって大きく変化するものでもありました。
例に挙げた二つでいえば、あがった私はやることが無くなってしまい、賽の目に引いた札に、一喜一憂する彼らを見てぼんやりとするだけしかないのです。
そういった遊びで常に勝つ私は、彼らにとっては間違いなく運が良いと見えたでのしょうが、一足先に暇になってしまった私にしてみれば運が悪いとも言えるのです。
皆が楽しそうにしている中、一人暇を弄ぶというのは子供心にとって非常につまらないことでした。
そして、何時であっても何であっても私に負け続ける結果しかない彼らも面白くはなかったのでしょう。
気づけば、私たちは体を動かす遊びをすることが多くなっておりました。
そんな風にして外での遊びを覚えたのですが、今となっては、そのお蔭で体を動かすことが嫌いではないということも、私の運が絡んだ結果なのかもと思ってしまいます。
そうして考えてみると、やっぱり私は運の良い子なのでしょう。それも生まれながらにして。私は、私の出生からして出来過ぎていたのでありました。
年明けと同時に私は、いえ、私と両親、そして親戚一同の皆様方は記念すべき日を迎えました。
さすがに親戚一同の皆々様まで含めますと、少し見栄を張り過ぎたかもしれません。しかしながら、お目出度い日であったことには変わりないはずでしょう。
積雪に覆われた八雲山が、赤々と燃える太陽の熱を反射してきらきらと一面に眩い光を放ち始める頃に、私は産声を上げたのでした。
朝靄にぼやけた空は朱と藍が入り混じっており、それが日の昇りにつれて霞がかった遠くの山々の輪郭をゆるやかに顕としていく様は、非常に幻想的であったと聞きます。
惜しむらくは私がその光景を直接目にしていないことですが、それもきっといつか叶うことでありましょう。
そんな穏やかさを見せる景色とは裏腹に、病院内は大童でありました。その時分には、既に母の陣痛が始まっていたそうなのです。
商売とはいえ、年末年始も休むことの出来ないお医者様には大変頭が下がる思いで一杯です。特にお正月に生まれた私は足を向けて寝る訳にはいかないでしょう。
俄に慌ただしくなった院内でしたが、そんな中で父が目を覚ましたのは、お産も済み後は産湯に入れるだけとなった頃合いだったそうです。
我が父ながら、初産の母をおいて一人眠りこけていたというのですから、さすがに閉口せざるを得ませんでした。
ですが、その父がみた夢というのが私の名の由来でもあるのですから、世の中とは本当に分からないものです。
私を抱いた父は、酷く興奮して何度も何度も夢をみたと医師に看護師に、そして母に繰り返しました。
産後の疲れもあり、要領の得ない父の言葉に母は苛立ちを隠せなかったらしく、院内に響き渡るほどの声量で彼を一喝した話は、いまだに我が家の笑い話として残っています。
そのお陰で漸く落ち着いた父が口にしたのは次のようなことでした。
曰く
夢をみた。それも大変ありがたい夢であった。
初夢に出ると良いとされる富士と鷹と、そして茄子が出てきた。
目が覚めたら娘は既に産まれており、昔の人の話も馬鹿にできないと思った。
富士と鷹はもうある。だから娘は茄子にしよう。
そうしてこの世に生を受けたのがこの私であるのです。
鷹富士というありがたい家に生まれ、茄子と書いてカコ。一月一日に両親の腕へと迎えられ、院内の窓からは八雲山を望む景色が広がっておりました。
出生から出来過ぎていた私でしたが、まさか自分の運命までも大きく変えてしまうような出来事にまでも遭遇するとは露ほどにも思ってはいませんでした。
なにせ運が良いとはいっても、当たり付きの自販機がガコンガコンとコインの数に合わない音を立てたりだとか、行く先々の信号機が青色を灯し続けるなどの小さな事ばかりであったのです。
ですから、あの夢の様な一時を送れたのは私にとって、いえ私だからこそ、非常に幸運に恵まれた日であったのだと思えるのです。
私が面白可笑しい数日を過ごし、その終ぞにとある男性と巡り合ったのは、茂る木々が新緑鮮やかな葉を陽光にきらきらとさせ、どこか爽やかな風の吹く五月もそろそろ終わり差し掛かった日のことでした。
その日の私は、島根の実家を出て一人岡山駅へと向かっておりました。
いま話題のアイドルグループである、トライアドプリムスの三人が岡山で小さいながらもライブを行うとの話を耳にしたのです。
私はアイドルに熱烈な興味を抱いていた訳ではありませんでしたが、運の良さで世の中を二十年とちょっとを渡り歩いてきた自負があります。
ブラウン管の向こうに住まう方々が、こんなにも近くまで来るというのはきっと何かの巡り合わせ。
そこへ行けば、とっても面白可笑しい日を過ごせるに違いないとの確信がありましたので、直ぐさまチケットの注文にと取り掛かったのでした。
トライアドプリムスの一人、渋谷凛さんは既にソロデビューを果たし、ヒットチャートにも名前が挙がり始めた頃合いでしたので、ユニット結成の報は人々の興味を充分に惹いたことでありましょう。
ですから、チケットを入手するのも困難かと思われましたが、そこは運の良さに定評のある私です。大して労せずにそれなりの席を確保することが出来ました。
そして迎えた当日であり始まりの日。
今日は一体どんな面白いことが待ち構えているのだろう。
そう、逸る気持ちを抑えながら、私は一人電車に揺られておりました。
岡山駅に着いたのは、時計の針が十二を指して綺麗に重なっていた時のことです。
入場が十六時半からですので、少し時間が空くことになります。
すっかり空っぽになってしまったお腹が今にも悲鳴を上げそうでしたが、私はまず宿の確保へと向かいました。
折角遠出をして来たのですから、明日一日は街中を面白いことを探して練り歩き、明後日の電車で島根へと帰るつもりでいたのです。
とはいえ二泊もするとなると、さすがにお財布の中身とも相談しなければなりませんので、比較的安価だといわれているビジネスホテルに泊まることに決めました。
親切な駅員さんに話を聞けば、十分と歩かない内に何件もあるそうなのです。私はその中からおすすめだと言われたホテルへと足を進めることとしました。
土曜の昼間ということもあり、往来は人々で賑わっておりました。
大変に天気の良い日ですから、家族連れの姿も多々目につきます。
両親に挟まれた女の子が仲睦まじく両の手を繋いでいる様子などを見れば、自身の幼かった頃が思い出されて非常に温かな気持ちとなりました。
「次の休日は、両親と一緒に何処かへ行こうかしら。」
そんなことを考えながら歩いていますと、何やら賑やかな三人組を見かけたのです。
スーツ姿の男性と、双子なのでしょうか顔つきの似通った女の子が二人。甘い香りが漂う洋菓子屋さんの前で話し込んでいました。
私が立ち止まって見ていると、男性は彼女たちを残して一人店内へと入っていきます。
すると彼女のたちは、弾かれるようにしてその隣にあるコンビニへとぱたぱた駆けて行くのです。
とりたて珍しい光景ではないのかもしれませんが、なぜだがその時の私は彼女たちのことが無性に気になってしまい、後を追うようにしてコンビニの自動ドアを抜けました。
店内をきょろきょろと見渡すと、先程の二人が化粧室へと駆け込む姿が見られます。
不思議なことに一人づつ入るのではなく、二人同時にスライド式のドア奥へと消えていくのでした。
そんなに急いでいるのなら、洋菓子店とコンビニとで別れればいいのでは?
彼女たちの行動に頭を悩ませていること数分。入った時と同じように二人揃って扉から姿を現すと、またもやぱたぱたと駆けて行きます。
私も直ぐに追いかけようと思ったのですが、何も買わずに店を出ることに気が引けてしまい、レジ前に陳列されたガム一つの会計を済ませてからその場を後にしました。
コンビニを出ますと、先程の二人は洋菓子屋さんの前できゃあきゃあと何やら楽しげな様子であります。
男性の姿はありません。まだ店内から戻ってはいないようです。それも無理のないことでしょう。
少し離れたこの場所でさえ、甘く幸せな匂いが鼻腔へと届くのです。店の外ですらそうなのですから、中の様子は言わずもがな。
それに加えて視覚にまで訴えかけてくるのですから、時間がかかるのも当然でしょう。
私のような人間ですと目移りばかりしてしまうものですから、蛍の如くあっちへふらふらこっちへふらふら、と気づけば烏の鳴くまでに迷ってしまいそうです。
まったく、熊野の烏がなんとやら。もっとお菓子を見ていたい、といった所でしょうか。……主と一緒に、ならばもう少し色っぽい話にもなるのですけれど。
甘い恋よりお菓子がお相手な辺り、まだまだ私はお子様なのでしょう。
待つこと暫くした後、漸く男性が戻って参りました。
右手には白い紙袋が提げられており、心なしか甘い香りがより一層と広がったような気もいたします。
男性は待ち受けていた二人を見ると、何やら溜息をひとつ。そして、とんとんと彼女たちの頭を軽く小突くのでした。
「やっぱり直ぐバレちゃったか。」と少女の一人は言います。
「当たり前だろう。いくらお前たちが似ているからって、入れ替わって気付かれない訳が無い。」
男性の声は、多分に疲れを含んでいるように聞こえます。
彼の話からすれば、どうやら二人はコンビニの中で互いの衣服を入れ替えていたのでしょう。双子ならでは遊びです。
どうせならもっと近くで見ておけば良かったと少し後悔。もしかすれば私にも二人を見分けられたのかも知れないのに。
「でもでもー、あずさお姉ちゃんには気付かれなかったよー?」
「あずささんは……。あずささんは良いんだよ。」
それより差し入れも買ったから行くぞ。
そう、無理矢理に話を切り上げると男性は背筋を伸ばして真っ直ぐと歩いてゆきます。
待ってよと追い駆ける双子の姿はまるで仔鴨のよう。前を歩く親鴨は、歩幅を小さく出しました。
三人を見送ると、私は当初の目的を果たすために彼らとは反対方向へと向かいました。
文明の利器とは非常に素晴らしいものでして、携帯電話が示す通りに歩を進めますと、程なくして一件の建物が見えてまいります。
ビジネスホテルなどといいますから、私はビルのように素っ気無い建造物を想像していたのですが、それは偏った考えであったようです。
下から上まで白磁に染め上げられた建物は、青々と広がる空に浮かび上がるようにして聳えております。
その空には雲一つなく、燦々とお日様が御座しますのですから、ホテルの一面が白い煌めきを放っており、その輝きたるや目が潰れてしまいそうでした。
それでも凝らして見れば建物の随所には飾り彫りが施されていまして何だか、お子様の私が泊まるには場違いではないのでしょうか、といった気持ちになってしまいます。
門構えも堂々たるものでして、どこぞの宮殿を思わせる風情です。左右の柱にはランプを模したと思われる白熱灯が拵えられており、その両柱を繋ぐようにして緩やかなアーチ状に屋根が渡し架けられていました。
その居住まいたるや余りにも見事。思わず私はお財布とにらめっこをするのでした。
まるでお伽噺に迷い込んだかのような心持ちとなりましたが、この国はどうにも土地が狭い。ホテルの景観を損ねてしまう、などとまでは言うつもりはありませんし、致し方のないことでしょう。
両隣には古びた金物屋や、あらゆる国々から取り寄せたであろう、使い道も分からぬ雑多なモノが積み重なる、雑貨屋と呼んでも良いものかと迷うような胡乱な店まで軒を並べているのですから、本当に日本という国は可笑しなトコロであります。
私はその怪しげな雰囲気の雑貨屋に心惹かれる思いでしたが、まずは荷物を減らそうと白塗りのアーチをくぐって進みました。
自動ドアを抜けると、当たり一面には真白の空間が広がります。
石畳の床を歩けばこつこつと甲高い音を鳴らします。ロビーに置かれた革張りのソファにはスーツ姿の男性が一人。響く足音にこちらへと目を向けますが、直ぐにその視線は新聞へと戻りました。
受付には若い女性が一人詰めておりました。
「ご予約の方ですか。」女性は言います。
「いえ、違います。部屋に空きはありますか?」
「シングルでよろしいでしょうか。」
「はい。……なるべくお金のかからない部屋をお願いします。」
恥を承知で私が申しますと、お姉さんは少し微笑んだように思えました。
受付の方はパンフレットを開き、三つのプランをこちらに示しました。
一つは食事なし。一つは朝食のみ。そして最後の一つは朝食と夕食の二食付きです。
「学生さんですか?」
「はい。」と答えますと、続けて彼女は「観光ですか。」と尋ねます。
「ええ。後は――。」
受付台には段々となった小さなケースがあります。目の前に広がったパンフレットも、細長く折りたたまれてそこに収められております。
そのケースの一段目には、私の本日の目的であるライブイベントの案内も立て掛けられており、ステージ衣装を身に纏った三人の写真がプリントされていました。
私の視線がその一点に留まったものですから、彼女は当たりをつけたのでしょう。
「……ひょっとして、トライアドプリムスですか?」
「はい。」
私がそう答えると、彼女は大きな瞳をきらきらとさせるのです。
「いいですねぇ。私も好きなんです。特に奈緒ちゃんがお気に入りなんですよ。」
そう口火を切った彼女は、次から次へと耳の休まる間もない程に神谷奈緒さんの魅力について語ります。
恥じらった表情が可愛いですとか、ぶっきらぼうな口調から垣間見える思いやりのある性格が良いですとかと、その勢いは最早留まる所も知りません。
どうやら彼女は熱狂的なファンであったようでした。
それだけに「有給が残っていれば……。」と呟く姿は大変に涙を誘うものであります。
ですから女性の側にやってきた従業員らしき男性が小さく咳払いをしても、私は彼女を攻め立てる気にはなりませんでした。
「当ホテルの従業員が大変失礼を致しました。」
深々と頭を下げた男性に私は大いに恐縮してしまいます。
多少、面食らってしまったことは否定できませんが、とても楽しいお喋りでしたのです。
いかに神谷奈緒さんが好きかということも十二分に理解できましたし、アイドルとしてスタートしたばかりの彼女への興味も湧き出てきました。
観光案内業務に含まれても良い内容でしょう。
私はその旨を伝えるのですが、男性の方はお詫びにと宿泊費を割り引くと申し出まして一向に譲る気配もありません。
割引を。
いえいえお気になさらず。
ここはどうかこちらの顔を立てると思って。
本当に大丈夫ですから。
そのような互いに引かぬ押し問答を繰り返して不毛な時間を過ごすこと暫く。
いつまでも続くかと思われた水掛け論は、なんとも間抜けで気の抜けた「くぅ」という音を最後に途絶えます。
穴があったら入りたい。いえ、無いのならば掘ってでも埋まりたい。
この時ほどスコップを持っていないことを後悔することはこの先もきっとないでしょう。
先に昼食をとるのだったと、今になってはどうしようもないことを私は思うのでした。
三人の間に気まずい沈黙が流れます。
私は一目散に逃げ出したい思いで一杯でしたので、割引を固辞することなど最早どうでも良いことでありました。
女性から手渡されたカードキーには二食付きと記載されており、館内にあるレストランに入る際には係員の方に提示するようにとの説明を受けます。
お礼もそこそこに私は足早にエレベーターを目指します。エレベーターはフロントからよく見える位置にありますので、内心穏やかではありません。
あれだけの失態を演じてしまったのですから、早いうち狭い箱の中に入ってしまって一人になりたかったのです。これ以上、情けのない姿を衆目に晒すのは乙女の沽券に関わりましょう。
「中に誰もいませんように。」
そう念じながら、上を向いた矢印のボタンを押すと間髪を入れずに「チン」と甲高いを音を立ててエレベーターが到着いたします。
扉にぶつかりそうになりながらも乗り込むと中に人影はなし。常日頃からお世話になっている運の良さに、私はより一層と感謝するのでした。
とりあえずここまで
なるべく10月前には終わらせたいと思います
読み易さは色々考えた挙句放棄した
埃っぽい店内から出ますと、初夏の日差しが降り注ぐものですから、その眩さに私の目は少しちかちかとしてしまいます。
知らず汗をかいていたようで、緑薫る風が大変に心地良く感じられました。
うきうき気分で先ほど物々交換で手に入れましたヘアピンをさし、「さぁ、姿を見せて黒猫さん。」と意気込んでみたはいいものの、そう上手く事が運ぶ訳ではないようです。
しかし私は気を落としたりはしないのです。世の中というものは何事も巡り合わせでありますから、きっとご縁がありましたらそのうちに良い運びとなりましょう。
ライブの開演までは、まだまだ時間はあります。このまま街中を練り歩いてみても良いのでしょうが、私は部屋に戻ることを決めました。
少しとはいえ、うら若き乙女が汗のしたたるままに、というのは宜しくありません。それに楽しみは後に回せば回すほど期待が膨らむものなのです。
シャワーで汗を流しゆっくりしましょうと、私は体を九十度右へと向けました。
人々の行き交う往来には後ろ髪を引かれる思いでしたが、街中を歩かずとも実家では映らないチャンネルを眺めるというものも旅先の楽しみでありましょう。
バスルームから出ると濡れた髪もそのままに私はベッドへと腰掛けます。
我ながら少しお行儀が悪いかも知れません。こんな姿を母に見られでもすれば、たちまちに有難いお小言を頂くに違いないでしょう。
肩に掛けたタオルで髪の湿り気を取りながら、リモコンの電源ボタンを押します。
もはや普及しきった液晶テレビが音もなく画面を映しだしました。ぶおん、と鈍い音を発するブラウン管も今では目にする機会は殆どありません。
幼心には、あの音ひとつでわくわくと胸を弾ませたものでした。今から面白いものをお見せしますよと、テレビが一声かけてくれていたように思えたのです。
映像は綺麗になり、場所も取らなくなった液晶テレビは確実にブラウン管よりも進化したと言えるでしょう。
それでも。
慣れ親しんだ音が聞こえないというものは、何だか無性に寂しくなるのものでありました。
順繰りにチャンネルを送って見つけた地方局に合わせ、私は白いタオルをアルミ製のラックへとかけました。
髪先はまだ僅かに湿ってはいますが、この陽気ですから直ぐに乾くことでしょう。
モニターからは若い女性の声が聞こえてまいります。
そちらへと目を向ければ、マイクを持ったレポーターらしき女性と画面中央に立つ年老いた男性が一人。
その後ろには、何やら立派な蔵のようなものが聳えておりました。
画面の女性は一言二言と問いかけ、件のご老人は威厳に満ち溢れた重々しい口調で答えます。
左上のテロップには、『焼き物の里を巡る』と記されておりました。
代々陶芸を営んできたという男性は、取材陣を蔵の中へと案内しました。
そこには急須や湯飲み、花瓶や茶碗などが数えきれない程に収められております。
「最近はこういったものもつくっている。」そうお爺さんが持ちだしたのは取手とソーサーのついたコーヒーカップでした。
備前焼で作られたそれは、白い洋食器と比べて暖かな印象を受けます。土の色合いや質感がそう感じさせているようでした。
画面は移り、次に映しだされたのは少し罅の入った湯飲み茶碗です。
「失敗なさることもあるのですか?」と、女性はそれを見て意外とばかりに問いかけました。
「勿論ある。土と向き合うは、自分と向き合うと同じ。心が乱れれば、土も、また乱れる。」
男性は続けます。
「それは孫が作ったものだ。この所どうも上の空に見える。難しい年頃だけに、俺じゃあ如何ともし難く歯がゆいばかりだ。」
「お孫さんはお幾つなのですか?」
「じきに十六だ。最近の女の子は何を送っていいのか分からんから困ってしまう。」
「ああ。プレゼントですか? 昔は何を?」
「あの子の食器は全部俺が作った。 今までは喜んで受け取ってくれたんだがねぇ……。」
少し、しんみりとした様子のお爺さん。心なしか、一回りほど小さくなったように思えます。
十六といいますともう高校生でしょうから、焼き物よりも服やアクセサリーといったものに心惹かれる年頃なのかも知れません。
自分の焼き物が喜ばれなくなったお爺さんの心中は察するに余りあることでしょう。
寂しそうに伏せた目が、一層と哀愁を誘います。
そんなことを私は思います。画面の向こうのお姉さんも同じことを思ったようでして、慰めるようにして問いかけます。
「高校生くらいになってしまうと、焼き物よりも洋服などの方が、お孫さんは喜ばれるんでしょうかねぇ。やっぱり、少し寂しいですか?」
彼女の言葉に、男性はおずおずと口を開きます。
「いや、焼き物でも喜んでくれはするんだが……。なにぶん焼き過ぎた。もう置く所がないと、済まなそうに言われたよ。」
その答えが少しばかり予想と違っていたものですから、私と、レポーターの女性はきょとんとしてしまいます。
彼女の表情を見て、今度はお爺さんがきょとんとするのでした。
……なんだかどっと疲れてしまったように思います。
別にお爺さんが悪いわけではないと分かってはいても、このやり場のない思いをどうすればいいのか、非常に悩ましいところであります。
その後、画面上には威厳の欠片もない好々爺と化した男性が、延々とお孫さんについて語り続ける姿が映しだされておりました。
もはや惚気けるといってしまってもよい語りっぷりであります。レポーターのお姉さんも、どこかぐったりとして見えたのはきっと気のせいではないでしょう。
素晴らしき哉、孫への愛。
一昔前、『孫』と題された歌が一世を風靡したことが思い出されます。
間違いなく、このお爺さんも買っていることでしょう。
画面上には、依然として微笑ましい光景が広がっております。
久しぶりにと、私は携帯電話を取り、未だに黒電話を使い続ける懐かしい匂いのする日本家屋へと繋げます。
お祖父さんの声は、八十をとうに越えたとは思えない程に元気なものでした。
他愛のお喋りをして、テレビを眺めたりホテル内を探検したりとしているうちに、いよいよその時が近づいてまいりました。
部屋に戻った私は、忘れ物がないようにと手荷物の確認を始めます。
お財布。携帯。ハンドタオル。チケットにヘアピン。
万事抜かりなしでございます。
意気揚々と扉を抜け、バスを待つために岡山駅へと向かいました。
バスに揺られること二十分ほど。遠き山に日は落ちて、辺りは橙色の柔らかな光に包まれております。
ライブの行われるホール近くではぞろぞろと人々が降車していきます。勿論、その人々には私も含まれておりました。
ホールまでは更に十分ほど歩くため、車内では迷わないかと不安でありましたが、同乗していた気合の入った方々のお陰でどうやら杞憂と終わりそうです。
楽しげに会話を交わす彼らの後ろを、私はのんびりと歩いて行きました。
通る先々の店には今回のポスターが店頭に貼られており、その数が次第に増えていくと、どんどんと会場が近づいてくるのを感じます。
彼らもまた、そうであるように、その語り口は少しづつ熱のこもったものとなってゆきます。
渋滞の続く車道を横目に歩を進めると、白い楕円形の建物がだんだんと左上に見えてまいります。
角を折れた先、緩やかな坂道の上に、その建物はありました。
会場の敷地内には、老若男女を問わずと数多くの人々が集っております。
建物の入り口までの道のりには、色取り取りの出店が並んでおり、縁日のような眺めでございます。
そして、敷地内の一番目立つ所には、運動会で見かけるようなテントが幾つか並んでおり、こぞって人々はそこを目指しているようでありました。
焼きトウモロコシや、りんご飴、たこ焼きにお好み焼きなど、お祭りの匂いに誘われそうになるものの、どうにか踏み留まった私は、人波に乗って白いテントを目指すのでした。
テントの内いくつかは実行委員会の本部といったところでしょうか。
お揃いの上着と帽子を身につけた方々が、無線で連絡を取り合ったり集ったファンたちを誘導したりと、まさに八面六臂の大奮闘であります。
そういったテントを二つほど挟んだ先には、やはり同じように人々が犇めき合うテントがあります。
係員の数に見合わないほどの人々が詰め寄っているあたり、どうやらグッズ販売を主としたもののようでした。
ちょうど私が居る本部前で人波は左右に別れております。左に流れれば建物入口へ、右へと流れればグッズ販売所へ。
私は右へと流れていきました。
漸くと品物が見える位置へとつけた私は、「この経験だけでちょっとした本が書けそうだ。」と、仕様もないことを思います。
それ程までに、人の波を掻き分けて進むというのはなかなか過酷な旅路でありました。
眼前に置かれた幾つもの長机には、彼女たちゆかりの商品が所狭しと並べられております。
団扇やTシャツにブロマイド、マフラータオルにスポーツキャップ、渋谷凛さんのシングルCD、それとこうしたイベントには必需品だと聞く光る棒、サイリウムなど。
その中から私が選んだものはCDとサイリウム、それとマフラータオルでした。
人混みから離れて、少し開けた木陰で早速とサイリウムを取り出します。
こうして手にするのは、果たして何年ぶりでしょうか?
幼かった時分に、お祭りの度によく母が買い与えてくれたことを思い出します。
どうやら私は子供の頃から変わらずに好奇心というものが並外れて強いタイプであったらしく、人混みに紛れるようなことあれば一息の間に迷子になるという、なんとも役に立たぬ特技を持っておりました。
お祭りの度に行方不明となるのですから、残された両親は常に気が気でなかったことでしょう。
当然、二人としては迷子になる前に防ぎたかったろうでしょうが、余りにも私が逸れてしまうのが早いのです。
そうしたありさまでしたから、悩んだ末に導き出した苦肉の策として、輪っか状にしたサイリウムを首飾りの如く常にかけておくこととなったのです。
最も、私の所在はスピーカー越しに知ることの方が多かったようですが。
「たかふじかこちゃん、たかふじかこちゃん。」とアナウンスされたのは、スポーツ選手に次いで多いのではないかと思います。
サイリウムのパッケージは懐かしいような、そうでないような、と曖昧な印象を覚えました。
子供の頃から変わっていないようにも、全く見たことがないような気にも思えるのです。
要はパッケージなど気にしているようなお子様ではなかったということなのでしょう。
あれだけお世話になっていながら、私の興味は常に袋の中にしかなかったようです。
パッケージデザインを担当した方には、少しだけ申し訳のないような気になりました。
そんな感傷に浸ったものですから、今回はその仕事ぶりをしっかりと目に焼き付けておこうと隅々まで眺め回します。
するとなんとも珍しいことに気が付きました。購入したサイリウムは三本入りなのですが、その表記が少し変わっているのです。
一つは赤。一つはオレンジ。そして残りの一つが蒼。青ではなくて蒼なのです。
「青では駄目なのかしら?」
一人、ぼんやりと呟いた言葉。当然ながら返事などあるはずがないと思っていたのですが、近くにその答えを知る男性がいたようでした。
「アイドルにとってイメージカラーというものは大切なのだよ。青と蒼。
一見、変わりの無いように思えても、文字から受ける印象とは大きく違うものだろう?」
声の主へと、私は視線を向けます。
そこに立っていたのは、四十になろうかという中年の男性でありました。
きっちりとスーツを着こなし、白髪も目立ち始めるだろう年頃にも関わらず、その髪は黒々としております。
顔には深い皺があります。男性が笑うと、より一層と深く刻まれるのでした。
私が受けた印象は、清潔で温厚そうな方だというものでした。
人間というものは、どうにも初対面の方を値踏みとまではいかずとも、それなりに見極めようとしてしまうものなのです。
そうしたことは勿論、私も例外ではなく、彼もまたそうでした。
ゆっくりと上から下まで往復すること二回。
流石に居心地が悪くなってしまい、おずおずと口を開きかけた所で、男性は急に声を上げたのです。
「ピーンときた!」
「え? え?」
「いいねぇ、君。間違いないよ、間違いない。」
余りの出来事に理解が追いつかず、クエスチョンマークを浮かべるばかりの私。間違いないって、何が間違いないのでしょう?
しかしながら彼はそんなこともお構いなしに次々と言葉を発します。さながらマシンガンの如くです。
呆気に取られていた私でしたが、助け舟は意外と早く到着致しました。
「社長! 一体何やっているんです? 早くしないと時間がなくなってしまいますよ!」
若い女性の声でございます。
タッタッタと、子気味の良い音を立てながら、彼女はこちらへと駆け寄って参りました。
声の通り、二十代も未だ半ばに差し掛かっていないような若い方でした。
茶色い髪はアップに、顔には眼鏡、黒いパンツスタイルのスーツをしゃんと着こなし、如何にも仕事の出来る女性といった風情であります。
「律子君。」と男性は言いました。
「律子君、じゃありませんよ。もうプロデューサー殿は着いてるんですから。
敵情視察も兼ねて挨拶に行くと言ったのは社長じゃないですか。ホラ、さっさと行きますよ?」
「し、しかしだね律子君……。ピーンと、そう! ピーンときたのだよ!」
「ピーンときたじゃないですよ。これ以上、人を増やして私たちを過労死させる気ですか……。
現状の数で一杯一杯です。今日だって、全員で来たら事務所が回らないからって音無さんを置いてきたんでしょう?
……まぁ、彼女の場合は稀にサボってたりするので何とも言い難いですが。」
「ぐぅ……。だがね、間違いなく彼女は売れる! 私のカンがそう言っているのだよ! これ程の逸材を逃してしまうのは勿体無いと思わないのか!」
「思いません。私の仕事は事務所の子たちをサポートすることです。どうしてもというのなら、先に裏方を増やしてからにして下さい。」
「そうしたいのは山々だがね……。中々そっちはピーンとくる人材がいないのだよ。
私としても君たちには苦労をかけてばかりで申し訳ないと思っている。しかし、しかしだね、どうか彼女だけは――。」
「駄目です。さぁ、もう行きますよ。彼女を招き入れたいのなら、せめて後一人か二人増やしてからです。
人間なんて、縁があればまた会えるものですよ。」
そう、無理矢理に話を切り上げた彼女は、ずるずると男性を引き摺って行きました。
まるで嵐のような方々でございます。
「一体、何事だったのでしょう。」
一人呟いた言葉に、答える方は今度こそおりませんでした。
本日分終わり
それを自覚したのはいつのことだったでしょうか。残念ながら今となっては思い出せませんが、私は確かに運の良い子だったのです。
例えば双六。私は決まって誰よりも早くあがりを迎えます。例えばトランプ。ババ抜きで負けたことは一度もありませんでした。
古今東西あらゆる勝負事においては、勝ちを得るということが至上の目的でありましょう。
それが例えカードゲームであれボードゲームであれ、子供にとっては間違いなく真剣勝負の場であったのです。
ですから、常に勝ち続けた私は、毎日をとっても面白可笑しく過ごせていたような気もします。
とはいえ運の善し悪しとは時と場合によって大きく変化するものでもありました。
例に挙げた二つでいえば、あがった私はやることが無くなってしまい、賽の目に引いた札に、一喜一憂する彼らを見てぼんやりとするだけしかないのです。
そういった遊びで常に勝つ私は、彼らにとっては間違いなく運が良いと見えたでのしょうが、一足先に暇になってしまった私にしてみれば運が悪いとも言えるのです。
皆が楽しそうにしている中、一人暇を弄ぶというのは子供心にとって非常につまらないことでした。
そして、何時であっても何であっても私に負け続ける結果しかない彼らも面白くはなかったのでしょう。
気づけば、私たちは体を動かす遊びをすることが多くなっておりました。
そんな風にして外での遊びを覚えたのですが、今となっては、そのお蔭で体を動かすことが嫌いではないということも、私の運が絡んだ結果なのかもと思ってしまいます。
そうして考えてみると、やっぱり私は運の良い子なのでしょう。それも生まれながらにして。私は、私の出生からして出来過ぎていたのでありました。
年明けと同時に私は、いえ、私と両親、そして親戚一同の皆様方は記念すべき日を迎えました。
さすがに親戚一同の皆々様まで含めますと、少し見栄を張り過ぎたかもしれません。しかしながら、お目出度い日であったことには変わりないはずでしょう。
積雪に覆われた八雲山が、赤々と燃える太陽の熱を反射してきらきらと一面に眩い光を放ち始める頃に、私は産声を上げたのでした。
朝靄にぼやけた空は朱と藍が入り混じっており、それが日の昇りにつれて霞がかった遠くの山々の輪郭をゆるやかに顕としていく様は、非常に幻想的であったと聞きます。
惜しむらくは私がその光景を直接目にしていないことですが、それもきっといつか叶うことでありましょう。
そんな穏やかさを見せる景色とは裏腹に、病院内は大童でありました。その時分には、既に母の陣痛が始まっていたそうなのです。
商売とはいえ、年末年始も休むことの出来ないお医者様には大変頭が下がる思いで一杯です。特にお正月に生まれた私は足を向けて寝る訳にはいかないでしょう。
俄に慌ただしくなった院内でしたが、そんな中で父が目を覚ましたのは、お産も済み後は産湯に入れるだけとなった頃合いだったそうです。
我が父ながら、初産の母をおいて一人眠りこけていたというのですから、さすがに閉口せざるを得ませんでした。
ですが、その父がみた夢というのが私の名の由来でもあるのですから、世の中とは本当に分からないものです。
私を抱いた父は、酷く興奮して何度も何度も夢をみたと医師に看護師に、そして母に繰り返しました。
産後の疲れもあり、要領の得ない父の言葉に母は苛立ちを隠せなかったらしく、院内に響き渡るほどの声量で彼を一喝した話は、いまだに我が家の笑い話として残っています。
そのお陰で漸く落ち着いた父が口にしたのは次のようなことでした。
曰く
夢をみた。それも大変ありがたい夢であった。
初夢に出ると良いとされる富士と鷹と、そして茄子が出てきた。
目が覚めたら娘は既に産まれており、昔の人の話も馬鹿にできないと思った。
富士と鷹はもうある。だから娘は茄子にしよう。
そうしてこの世に生を受けたのがこの私であるのです。
鷹富士というありがたい家に生まれ、茄子と書いてカコ。一月一日に両親の腕へと迎えられ、院内の窓からは八雲山を望む景色が広がっておりました。
出生から出来過ぎていた私でしたが、まさか自分の運命までも大きく変えてしまうような出来事にまでも遭遇するとは露ほどにも思ってはいませんでした。
なにせ運が良いとはいっても、当たり付きの自販機がガコンガコンとコインの数に合わない音を立てたりだとか、行く先々の信号機が青色を灯し続けるなどの小さな事ばかりであったのです。
ですから、あの夢の様な一時を送れたのは私にとって、いえ私だからこそ、非常に幸運に恵まれた日であったのだと思えるのです。
私が面白可笑しい数日を過ごし、その終ぞにとある男性と巡り合ったのは、茂る木々が新緑鮮やかな葉を陽光にきらきらとさせ、どこか爽やかな風の吹く五月もそろそろ終わり差し掛かった日のことでした。
その日の私は、島根の実家を出て一人岡山駅へと向かっておりました。
いま話題のアイドルグループである、トライアドプリムスの三人が岡山で小さいながらもライブを行うとの話を耳にしたのです。
私はアイドルに熱烈な興味を抱いていた訳ではありませんでしたが、運の良さで世の中を二十年とちょっとを渡り歩いてきた自負があります。
ブラウン管の向こうに住まう方々が、こんなにも近くまで来るというのはきっと何かの巡り合わせ。
そこへ行けば、とっても面白可笑しい日を過ごせるに違いないとの確信がありましたので、直ぐさまチケットの注文にと取り掛かったのでした。
トライアドプリムスの一人、渋谷凛さんは既にソロデビューを果たし、ヒットチャートにも名前が挙がり始めた頃合いでしたので、ユニット結成の報は人々の興味を充分に惹いたことでありましょう。
ですから、チケットを入手するのも困難かと思われましたが、そこは運の良さに定評のある私です。大して労せずにそれなりの席を確保することが出来ました。
そして迎えた当日であり始まりの日。
今日は一体どんな面白いことが待ち構えているのだろう。
そう、逸る気持ちを抑えながら、私は一人電車に揺られておりました。
岡山駅に着いたのは、時計の針が十二を指して綺麗に重なっていた時のことです。
入場が十六時半からですので、少し時間が空くことになります。
すっかり空っぽになってしまったお腹が今にも悲鳴を上げそうでしたが、私はまず宿の確保へと向かいました。
折角遠出をして来たのですから、明日一日は街中を面白いことを探して練り歩き、明後日の電車で島根へと帰るつもりでいたのです。
とはいえ二泊もするとなると、さすがにお財布の中身とも相談しなければなりませんので、比較的安価だといわれているビジネスホテルに泊まることに決めました。
親切な駅員さんに話を聞けば、十分と歩かない内に何件もあるそうなのです。私はその中からおすすめだと言われたホテルへと足を進めることとしました。
土曜の昼間ということもあり、往来は人々で賑わっておりました。
大変に天気の良い日ですから、家族連れの姿も多々目につきます。
両親に挟まれた女の子が仲睦まじく両の手を繋いでいる様子などを見れば、自身の幼かった頃が思い出されて非常に温かな気持ちとなりました。
「次の休日は、両親と一緒に何処かへ行こうかしら。」
そんなことを考えながら歩いていますと、何やら賑やかな三人組を見かけたのです。
スーツ姿の男性と、双子なのでしょうか顔つきの似通った女の子が二人。甘い香りが漂う洋菓子屋さんの前で話し込んでいました。
私が立ち止まって見ていると、男性は彼女たちを残して一人店内へと入っていきます。
すると彼女のたちは、弾かれるようにしてその隣にあるコンビニへとぱたぱた駆けて行くのです。
とりたて珍しい光景ではないのかもしれませんが、なぜだがその時の私は彼女たちのことが無性に気になってしまい、後を追うようにしてコンビニの自動ドアを抜けました。
店内をきょろきょろと見渡すと、先程の二人が化粧室へと駆け込む姿が見られます。
不思議なことに一人づつ入るのではなく、二人同時にスライド式のドア奥へと消えていくのでした。
そんなに急いでいるのなら、洋菓子店とコンビニとで別れればいいのでは?
彼女たちの行動に頭を悩ませていること数分。入った時と同じように二人揃って扉から姿を現すと、またもやぱたぱたと駆けて行きます。
私も直ぐに追いかけようと思ったのですが、何も買わずに店を出ることに気が引けてしまい、レジ前に陳列されたガム一つの会計を済ませてからその場を後にしました。
コンビニを出ますと、先程の二人は洋菓子屋さんの前できゃあきゃあと何やら楽しげな様子であります。
男性の姿はありません。まだ店内から戻ってはいないようです。それも無理のないことでしょう。
少し離れたこの場所でさえ、甘く幸せな匂いが鼻腔へと届くのです。店の外ですらそうなのですから、中の様子は言わずもがな。
それに加えて視覚にまで訴えかけてくるのですから、時間がかかるのも当然でしょう。
私のような人間ですと目移りばかりしてしまうものですから、蛍の如くあっちへふらふらこっちへふらふら、と気づけば烏の鳴くまでに迷ってしまいそうです。
まったく、熊野の烏がなんとやら。もっとお菓子を見ていたい、といった所でしょうか。……主と一緒に、ならばもう少し色っぽい話にもなるのですけれど。
甘い恋よりお菓子がお相手な辺り、まだまだ私はお子様なのでしょう。
待つこと暫くした後、漸く男性が戻って参りました。
右手には白い紙袋が提げられており、心なしか甘い香りがより一層と広がったような気もいたします。
男性は待ち受けていた二人を見ると、何やら溜息をひとつ。そして、とんとんと彼女たちの頭を軽く小突くのでした。
「やっぱり直ぐバレちゃったか。」と少女の一人は言います。
「当たり前だろう。いくらお前たちが似ているからって、入れ替わって気付かれない訳が無い。」
男性の声は、多分に疲れを含んでいるように聞こえます。
彼の話からすれば、どうやら二人はコンビニの中で互いの衣服を入れ替えていたのでしょう。双子ならでは遊びです。
どうせならもっと近くで見ておけば良かったと少し後悔。もしかすれば私にも二人を見分けられたのかも知れないのに。
「でもでもー、あずさお姉ちゃんには気付かれなかったよー?」
「あずささんは……。あずささんは良いんだよ。」
それより差し入れも買ったから行くぞ。
そう、無理矢理に話を切り上げると男性は背筋を伸ばして真っ直ぐと歩いてゆきます。
待ってよと追い駆ける双子の姿はまるで仔鴨のよう。前を歩く親鴨は、歩幅を小さく出しました。
三人を見送ると、私は当初の目的を果たすために彼らとは反対方向へと向かいました。
文明の利器とは非常に素晴らしいものでして、携帯電話が示す通りに歩を進めますと、程なくして一件の建物が見えてまいります。
ビジネスホテルなどといいますから、私はビルのように素っ気無い建造物を想像していたのですが、それは偏った考えであったようです。
下から上まで白磁に染め上げられた建物は、青々と広がる空に浮かび上がるようにして聳えております。
その空には雲一つなく、燦々とお日様が御座しますのですから、ホテルの一面が白い煌めきを放っており、その輝きたるや目が潰れてしまいそうでした。
それでも凝らして見れば建物の随所には飾り彫りが施されていまして何だか、お子様の私が泊まるには場違いではないのでしょうか、といった気持ちになってしまいます。
門構えも堂々たるものでして、どこぞの宮殿を思わせる風情です。左右の柱にはランプを模したと思われる白熱灯が拵えられており、その両柱を繋ぐようにして緩やかなアーチ状に屋根が渡し架けられていました。
その居住まいたるや余りにも見事。思わず私はお財布とにらめっこをするのでした。
まるでお伽噺に迷い込んだかのような心持ちとなりましたが、この国はどうにも土地が狭い。ホテルの景観を損ねてしまう、などとまでは言うつもりはありませんし、致し方のないことでしょう。
両隣には古びた金物屋や、あらゆる国々から取り寄せたであろう、使い道も分からぬ雑多なモノが積み重なる、雑貨屋と呼んでも良いものかと迷うような胡乱な店まで軒を並べているのですから、本当に日本という国は可笑しなトコロであります。
私はその怪しげな雰囲気の雑貨屋に心惹かれる思いでしたが、まずは荷物を減らそうと白塗りのアーチをくぐって進みました。
自動ドアを抜けると、当たり一面には真白の空間が広がります。
石畳の床を歩けばこつこつと甲高い音を鳴らします。ロビーに置かれた革張りのソファにはスーツ姿の男性が一人。響く足音にこちらへと目を向けますが、直ぐにその視線は新聞へと戻りました。
受付には若い女性が一人詰めておりました。
「ご予約の方ですか。」女性は言います。
「いえ、違います。部屋に空きはありますか?」
「シングルでよろしいでしょうか。」
「はい。……なるべくお金のかからない部屋をお願いします。」
恥を承知で私が申しますと、お姉さんは少し微笑んだように思えました。
受付の方はパンフレットを開き、三つのプランをこちらに示しました。
一つは食事なし。一つは朝食のみ。そして最後の一つは朝食と夕食の二食付きです。
「学生さんですか?」
「はい。」と答えますと、続けて彼女は「観光ですか。」と尋ねます。
「ええ。後は――。」
受付台には段々となった小さなケースがあります。目の前に広がったパンフレットも、細長く折りたたまれてそこに収められております。
そのケースの一段目には、私の本日の目的であるライブイベントの案内も立て掛けられており、ステージ衣装を身に纏った三人の写真がプリントされていました。
私の視線がその一点に留まったものですから、彼女は当たりをつけたのでしょう。
「……ひょっとして、トライアドプリムスですか?」
「はい。」
私がそう答えると、彼女は大きな瞳をきらきらとさせるのです。
「いいですねぇ。私も好きなんです。特に奈緒ちゃんがお気に入りなんですよ。」
そう口火を切った彼女は、次から次へと耳の休まる間もない程に神谷奈緒さんの魅力について語ります。
恥じらった表情が可愛いですとか、ぶっきらぼうな口調から垣間見える思いやりのある性格が良いですとかと、その勢いは最早留まる所も知りません。
どうやら彼女は熱狂的なファンであったようでした。
それだけに「有給が残っていれば……。」と呟く姿は大変に涙を誘うものであります。
ですから女性の側にやってきた従業員らしき男性が小さく咳払いをしても、私は彼女を攻め立てる気にはなりませんでした。
「当ホテルの従業員が大変失礼を致しました。」
深々と頭を下げた男性に私は大いに恐縮してしまいます。
多少、面食らってしまったことは否定できませんが、とても楽しいお喋りでしたのです。
いかに神谷奈緒さんが好きかということも十二分に理解できましたし、アイドルとしてスタートしたばかりの彼女への興味も湧き出てきました。
観光案内業務に含まれても良い内容でしょう。
私はその旨を伝えるのですが、男性の方はお詫びにと宿泊費を割り引くと申し出まして一向に譲る気配もありません。
割引を。
いえいえお気になさらず。
ここはどうかこちらの顔を立てると思って。
本当に大丈夫ですから。
そのような互いに引かぬ押し問答を繰り返して不毛な時間を過ごすこと暫く。
いつまでも続くかと思われた水掛け論は、なんとも間抜けで気の抜けた「くぅ」という音を最後に途絶えます。
穴があったら入りたい。いえ、無いのならば掘ってでも埋まりたい。
この時ほどスコップを持っていないことを後悔することはこの先もきっとないでしょう。
先に昼食をとるのだったと、今になってはどうしようもないことを私は思うのでした。
三人の間に気まずい沈黙が流れます。
私は一目散に逃げ出したい思いで一杯でしたので、割引を固辞することなど最早どうでも良いことでありました。
女性から手渡されたカードキーには二食付きと記載されており、館内にあるレストランに入る際には係員の方に提示するようにとの説明を受けます。
お礼もそこそこに私は足早にエレベーターを目指します。エレベーターはフロントからよく見える位置にありますので、内心穏やかではありません。
あれだけの失態を演じてしまったのですから、早いうち狭い箱の中に入ってしまって一人になりたかったのです。これ以上、情けのない姿を衆目に晒すのは乙女の沽券に関わりましょう。
「中に誰もいませんように。」
そう念じながら、上を向いた矢印のボタンを押すと間髪を入れずに「チン」と甲高いを音を立ててエレベーターが到着いたします。
扉にぶつかりそうになりながらも乗り込むと中に人影はなし。常日頃からお世話になっている運の良さに、私はより一層と感謝するのでした。
とりあえずここまで
なるべく10月前には終わらせたいと思います
読み易さは色々考えた挙句放棄した
埃っぽい店内から出ますと、初夏の日差しが降り注ぐものですから、その眩さに私の目は少しちかちかとしてしまいます。
知らず汗をかいていたようで、緑薫る風が大変に心地良く感じられました。
うきうき気分で先ほど物々交換で手に入れましたヘアピンをさし、「さぁ、姿を見せて黒猫さん。」と意気込んでみたはいいものの、そう上手く事が運ぶ訳ではないようです。
しかし私は気を落としたりはしないのです。世の中というものは何事も巡り合わせでありますから、きっとご縁がありましたらそのうちに良い運びとなりましょう。
ライブの開演までは、まだまだ時間はあります。このまま街中を練り歩いてみても良いのでしょうが、私は部屋に戻ることを決めました。
少しとはいえ、うら若き乙女が汗のしたたるままに、というのは宜しくありません。それに楽しみは後に回せば回すほど期待が膨らむものなのです。
シャワーで汗を流しゆっくりしましょうと、私は体を九十度右へと向けました。
人々の行き交う往来には後ろ髪を引かれる思いでしたが、街中を歩かずとも実家では映らないチャンネルを眺めるというものも旅先の楽しみでありましょう。
バスルームから出ると濡れた髪もそのままに私はベッドへと腰掛けます。
我ながら少しお行儀が悪いかも知れません。こんな姿を母に見られでもすれば、たちまちに有難いお小言を頂くに違いないでしょう。
肩に掛けたタオルで髪の湿り気を取りながら、リモコンの電源ボタンを押します。
もはや普及しきった液晶テレビが音もなく画面を映しだしました。ぶおん、と鈍い音を発するブラウン管も今では目にする機会は殆どありません。
幼心には、あの音ひとつでわくわくと胸を弾ませたものでした。今から面白いものをお見せしますよと、テレビが一声かけてくれていたように思えたのです。
映像は綺麗になり、場所も取らなくなった液晶テレビは確実にブラウン管よりも進化したと言えるでしょう。
それでも。
慣れ親しんだ音が聞こえないというものは、何だか無性に寂しくなるのものでありました。
順繰りにチャンネルを送って見つけた地方局に合わせ、私は白いタオルをアルミ製のラックへとかけました。
髪先はまだ僅かに湿ってはいますが、この陽気ですから直ぐに乾くことでしょう。
モニターからは若い女性の声が聞こえてまいります。
そちらへと目を向ければ、マイクを持ったレポーターらしき女性と画面中央に立つ年老いた男性が一人。
その後ろには、何やら立派な蔵のようなものが聳えておりました。
画面の女性は一言二言と問いかけ、件のご老人は威厳に満ち溢れた重々しい口調で答えます。
左上のテロップには、『焼き物の里を巡る』と記されておりました。
代々陶芸を営んできたという男性は、取材陣を蔵の中へと案内しました。
そこには急須や湯飲み、花瓶や茶碗などが数えきれない程に収められております。
「最近はこういったものもつくっている。」そうお爺さんが持ちだしたのは取手とソーサーのついたコーヒーカップでした。
備前焼で作られたそれは、白い洋食器と比べて暖かな印象を受けます。土の色合いや質感がそう感じさせているようでした。
画面は移り、次に映しだされたのは少し罅の入った湯飲み茶碗です。
「失敗なさることもあるのですか?」と、女性はそれを見て意外とばかりに問いかけました。
「勿論ある。土と向き合うは、自分と向き合うと同じ。心が乱れれば、土も、また乱れる。」
男性は続けます。
「それは孫が作ったものだ。この所どうも上の空に見える。難しい年頃だけに、俺じゃあ如何ともし難く歯がゆいばかりだ。」
「お孫さんはお幾つなのですか?」
「じきに十六だ。最近の女の子は何を送っていいのか分からんから困ってしまう。」
「ああ。プレゼントですか? 昔は何を?」
「あの子の食器は全部俺が作った。 今までは喜んで受け取ってくれたんだがねぇ……。」
少し、しんみりとした様子のお爺さん。心なしか、一回りほど小さくなったように思えます。
十六といいますともう高校生でしょうから、焼き物よりも服やアクセサリーといったものに心惹かれる年頃なのかも知れません。
自分の焼き物が喜ばれなくなったお爺さんの心中は察するに余りあることでしょう。
寂しそうに伏せた目が、一層と哀愁を誘います。
そんなことを私は思います。画面の向こうのお姉さんも同じことを思ったようでして、慰めるようにして問いかけます。
「高校生くらいになってしまうと、焼き物よりも洋服などの方が、お孫さんは喜ばれるんでしょうかねぇ。やっぱり、少し寂しいですか?」
彼女の言葉に、男性はおずおずと口を開きます。
「いや、焼き物でも喜んでくれはするんだが……。なにぶん焼き過ぎた。もう置く所がないと、済まなそうに言われたよ。」
その答えが少しばかり予想と違っていたものですから、私と、レポーターの女性はきょとんとしてしまいます。
彼女の表情を見て、今度はお爺さんがきょとんとするのでした。
……なんだかどっと疲れてしまったように思います。
別にお爺さんが悪いわけではないと分かってはいても、このやり場のない思いをどうすればいいのか、非常に悩ましいところであります。
その後、画面上には威厳の欠片もない好々爺と化した男性が、延々とお孫さんについて語り続ける姿が映しだされておりました。
もはや惚気けるといってしまってもよい語りっぷりであります。レポーターのお姉さんも、どこかぐったりとして見えたのはきっと気のせいではないでしょう。
素晴らしき哉、孫への愛。
一昔前、『孫』と題された歌が一世を風靡したことが思い出されます。
間違いなく、このお爺さんも買っていることでしょう。
画面上には、依然として微笑ましい光景が広がっております。
久しぶりにと、私は携帯電話を取り、未だに黒電話を使い続ける懐かしい匂いのする日本家屋へと繋げます。
お祖父さんの声は、八十をとうに越えたとは思えない程に元気なものでした。
他愛のお喋りをして、テレビを眺めたりホテル内を探検したりとしているうちに、いよいよその時が近づいてまいりました。
部屋に戻った私は、忘れ物がないようにと手荷物の確認を始めます。
お財布。携帯。ハンドタオル。チケットにヘアピン。
万事抜かりなしでございます。
意気揚々と扉を抜け、バスを待つために岡山駅へと向かいました。
バスに揺られること二十分ほど。遠き山に日は落ちて、辺りは橙色の柔らかな光に包まれております。
ライブの行われるホール近くではぞろぞろと人々が降車していきます。勿論、その人々には私も含まれておりました。
ホールまでは更に十分ほど歩くため、車内では迷わないかと不安でありましたが、同乗していた気合の入った方々のお陰でどうやら杞憂と終わりそうです。
楽しげに会話を交わす彼らの後ろを、私はのんびりと歩いて行きました。
通る先々の店には今回のポスターが店頭に貼られており、その数が次第に増えていくと、どんどんと会場が近づいてくるのを感じます。
彼らもまた、そうであるように、その語り口は少しづつ熱のこもったものとなってゆきます。
渋滞の続く車道を横目に歩を進めると、白い楕円形の建物がだんだんと左上に見えてまいります。
角を折れた先、緩やかな坂道の上に、その建物はありました。
会場の敷地内には、老若男女を問わずと数多くの人々が集っております。
建物の入り口までの道のりには、色取り取りの出店が並んでおり、縁日のような眺めでございます。
そして、敷地内の一番目立つ所には、運動会で見かけるようなテントが幾つか並んでおり、こぞって人々はそこを目指しているようでありました。
焼きトウモロコシや、りんご飴、たこ焼きにお好み焼きなど、お祭りの匂いに誘われそうになるものの、どうにか踏み留まった私は、人波に乗って白いテントを目指すのでした。
テントの内いくつかは実行委員会の本部といったところでしょうか。
お揃いの上着と帽子を身につけた方々が、無線で連絡を取り合ったり集ったファンたちを誘導したりと、まさに八面六臂の大奮闘であります。
そういったテントを二つほど挟んだ先には、やはり同じように人々が犇めき合うテントがあります。
係員の数に見合わないほどの人々が詰め寄っているあたり、どうやらグッズ販売を主としたもののようでした。
ちょうど私が居る本部前で人波は左右に別れております。左に流れれば建物入口へ、右へと流れればグッズ販売所へ。
私は右へと流れていきました。
漸くと品物が見える位置へとつけた私は、「この経験だけでちょっとした本が書けそうだ。」と、仕様もないことを思います。
それ程までに、人の波を掻き分けて進むというのはなかなか過酷な旅路でありました。
眼前に置かれた幾つもの長机には、彼女たちゆかりの商品が所狭しと並べられております。
団扇やTシャツにブロマイド、マフラータオルにスポーツキャップ、渋谷凛さんのシングルCD、それとこうしたイベントには必需品だと聞く光る棒、サイリウムなど。
その中から私が選んだものはCDとサイリウム、それとマフラータオルでした。
人混みから離れて、少し開けた木陰で早速とサイリウムを取り出します。
こうして手にするのは、果たして何年ぶりでしょうか?
幼かった時分に、お祭りの度によく母が買い与えてくれたことを思い出します。
どうやら私は子供の頃から変わらずに好奇心というものが並外れて強いタイプであったらしく、人混みに紛れるようなことあれば一息の間に迷子になるという、なんとも役に立たぬ特技を持っておりました。
お祭りの度に行方不明となるのですから、残された両親は常に気が気でなかったことでしょう。
当然、二人としては迷子になる前に防ぎたかったろうでしょうが、余りにも私が逸れてしまうのが早いのです。
そうしたありさまでしたから、悩んだ末に導き出した苦肉の策として、輪っか状にしたサイリウムを首飾りの如く常にかけておくこととなったのです。
最も、私の所在はスピーカー越しに知ることの方が多かったようですが。
「たかふじかこちゃん、たかふじかこちゃん。」とアナウンスされたのは、スポーツ選手に次いで多いのではないかと思います。
サイリウムのパッケージは懐かしいような、そうでないような、と曖昧な印象を覚えました。
子供の頃から変わっていないようにも、全く見たことがないような気にも思えるのです。
要はパッケージなど気にしているようなお子様ではなかったということなのでしょう。
あれだけお世話になっていながら、私の興味は常に袋の中にしかなかったようです。
パッケージデザインを担当した方には、少しだけ申し訳のないような気になりました。
そんな感傷に浸ったものですから、今回はその仕事ぶりをしっかりと目に焼き付けておこうと隅々まで眺め回します。
するとなんとも珍しいことに気が付きました。購入したサイリウムは三本入りなのですが、その表記が少し変わっているのです。
一つは赤。一つはオレンジ。そして残りの一つが蒼。青ではなくて蒼なのです。
「青では駄目なのかしら?」
一人、ぼんやりと呟いた言葉。当然ながら返事などあるはずがないと思っていたのですが、近くにその答えを知る男性がいたようでした。
「アイドルにとってイメージカラーというものは大切なのだよ。青と蒼。
一見、変わりの無いように思えても、文字から受ける印象とは大きく違うものだろう?」
声の主へと、私は視線を向けます。
そこに立っていたのは、四十になろうかという中年の男性でありました。
きっちりとスーツを着こなし、白髪も目立ち始めるだろう年頃にも関わらず、その髪は黒々としております。
顔には深い皺があります。男性が笑うと、より一層と深く刻まれるのでした。
私が受けた印象は、清潔で温厚そうな方だというものでした。
人間というものは、どうにも初対面の方を値踏みとまではいかずとも、それなりに見極めようとしてしまうものなのです。
そうしたことは勿論、私も例外ではなく、彼もまたそうでした。
ゆっくりと上から下まで往復すること二回。
流石に居心地が悪くなってしまい、おずおずと口を開きかけた所で、男性は急に声を上げたのです。
「ピーンときた!」
「え? え?」
「いいねぇ、君。間違いないよ、間違いない。」
余りの出来事に理解が追いつかず、クエスチョンマークを浮かべるばかりの私。間違いないって、何が間違いないのでしょう?
しかしながら彼はそんなこともお構いなしに次々と言葉を発します。さながらマシンガンの如くです。
呆気に取られていた私でしたが、助け舟は意外と早く到着致しました。
「社長! 一体何やっているんです? 早くしないと時間がなくなってしまいますよ!」
若い女性の声でございます。
タッタッタと、子気味の良い音を立てながら、彼女はこちらへと駆け寄って参りました。
声の通り、二十代も未だ半ばに差し掛かっていないような若い方でした。
茶色い髪はアップに、顔には眼鏡、黒いパンツスタイルのスーツをしゃんと着こなし、如何にも仕事の出来る女性といった風情であります。
「律子君。」と男性は言いました。
「律子君、じゃありませんよ。もうプロデューサー殿は着いてるんですから。
敵情視察も兼ねて挨拶に行くと言ったのは社長じゃないですか。ホラ、さっさと行きますよ?」
「し、しかしだね律子君……。ピーンと、そう! ピーンときたのだよ!」
「ピーンときたじゃないですよ。これ以上、人を増やして私たちを過労死させる気ですか……。
現状の数で一杯一杯です。今日だって、全員で来たら事務所が回らないからって音無さんを置いてきたんでしょう?
……まぁ、彼女の場合は稀にサボってたりするので何とも言い難いですが。」
「ぐぅ……。だがね、間違いなく彼女は売れる! 私のカンがそう言っているのだよ! これ程の逸材を逃してしまうのは勿体無いと思わないのか!」
「思いません。私の仕事は事務所の子たちをサポートすることです。どうしてもというのなら、先に裏方を増やしてからにして下さい。」
「そうしたいのは山々だがね……。中々そっちはピーンとくる人材がいないのだよ。
私としても君たちには苦労をかけてばかりで申し訳ないと思っている。しかし、しかしだね、どうか彼女だけは――。」
「駄目です。さぁ、もう行きますよ。彼女を招き入れたいのなら、せめて後一人か二人増やしてからです。
人間なんて、縁があればまた会えるものですよ。」
そう、無理矢理に話を切り上げた彼女は、ずるずると男性を引き摺って行きました。
まるで嵐のような方々でございます。
「一体、何事だったのでしょう。」
一人呟いた言葉に、答える方は今度こそおりませんでした。
本日分終わり
20:30│鷹富士茄子