2015年09月14日

鷹富士茄子「私を見つけてくれたから」

比率多めの地の文、全年齢



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「あのー……茄子さん?」



「あ、はい。何でしょう?」





隣で両手を合わせて何やら一生懸命念じている自分の担当アイドルに声をかける。





「さっきから、その、何か念じているみたいだけれど……何をしているのかな?」



「あ、これですか? これはですね〜、Pさんのお仕事が早く終わるようにと思って念じてるんですよ〜」





屈託の無い笑みを浮かべて彼女は楽しそうに言う。

ああ、この笑顔。この笑顔を見る度に、温かく、朗らかな気持ちが溢れかえる。

が、視線を前に戻せば溢れそうになった気持ちも途端に蒸発してしまう。





「そ、そうか。いや、でも、ちょっと茄子さんの強運を持ってしてもこの物理的な量はどうにもならないんじゃないかなぁ」





バインダーから溢れかえり、波打ち押し寄せて来る書類、領収書の山。

俺はそれを指差して苦笑する。





「信じる者は救われます。だから大丈夫ですよ〜」





彼女はそう言って目を閉じ、眉間に可愛らしい皺を作ってまた念じる所作をした。

愛らしいと言えばすこぶる愛らしいのだけれど、もうさすがに遅い時刻だ。

見ていたいとは思うけれど帰って貰わないといけない。





「俺と千川さんは家が近いから別にこうして残ってても不便は無いけれど、茄子さんは終電という物があるよね?

 他の人達も帰っちゃったし、茄子さんも帰らないと」



「でも……」



「そうですよ茄子さん」





横で俺と同じように書類に追われていた千川が助け舟を出すように口を挟んできた。





「電車が一番安いんですから、電車を使わないと。タクシーなんて深夜はぼったくりですし、ビジホだって高いんですし。

 無駄遣いをしないうちに帰らないと駄目ですよ? それにアイドルがこんな夜遅くに外にいるというのも、あまり良いイメージはありませんし」



「でも、Pさんがまだ残ってるのに……それにちひろさんも」





倹約家千川氏からの有難い御言葉にも彼女は中々首を縦に振ろうとしない。





「良いんだよ茄子さん。こういう作業は俺達の仕事だ。茄子さんのお仕事はもう終わってるよね?

 だったら、ちゃんと家に帰って疲れを取らないと駄目だ。今日の営業だってハードだったんだから。ね?

 疲れを取って、次の仕事にも全力で取り組めるようにするのも大人の仕事だから」





あやすように、ちゃんと理屈を通して帰らないといけない理由を話す。

俺がそういう風に説明すると、茄子さんは視線を上に泳がせ、唇をちょっと突き出して何かむーっとした表情を作った。

怒ったのかな? と思ったが、すぐに彼女はしょうがないと言わんばかりの大きな溜息をついた。







「そうですね……あまりここに長くいるのも、かえってPさんの迷惑になるかも知れませんね。

 わかりました。今は、大人のPさんの言う事を聞きましょう」





今は、という所を強調しながら眉を八の時にしながら笑って、彼女は脇に置いてあった荷物を肩にかけて立ち上がった。





「それでは……ちょっと申し訳無いですけど、私は先にあがらせて頂きます。お疲れ様でした〜」





ようやく帰る決心をしてくれたようだ。

千川さんと俺、二人に申し訳なさそうに頭を軽く下げて事務所の出口へ向かい、扉を開けてまたこちらを向いて会釈をして帰って行った。





「ふぅ……やっと帰ってくれた」



「あら、あんな美人がせっかく待っててくれたのにそんな言い草アリですか?」





千川さんが書類を見つめたまま何か嫌味っぽく軽口を叩いてくる。







「いや、千川さんの事も待っててくれたでしょうに」



「私はプロデューサーさんのオマケですよ、オ、マ、ケ」



「そんな事無いよ」



「本当はわかってる癖に御謙遜を……あ、それちょっと貸して下さい」



「あぁ、はいはい。どうぞ」



「どうも……それにしても、事務員の数増やして欲しいですよね、いい加減。

 こんなに仕事増やされても私だけで終わる訳ないじゃないですか」



「そうだなぁ……」





うちはつい最近まで売れない芸能事務所だったのに、今は急激に仕事が舞い込んで来ていた。

原因、と言っては人聞きが悪いが、こんなに仕事が増えたのはあの茄子さんのおかげかも知れない。

確証は無い。ただ、彼女を街でスカウトしてから我が社は軌道へと乗りに乗りまくっている。



茄子さん本人も俺のプロデュースの元でアイドルして順調にキャリアを積んでいる。

貞淑たる大和撫子をそのまま写実したかのような麗しい容姿。

そしてそんな容姿とは裏腹の可愛らしく茶目っ気のあるキャラクター。

モデルも出来、バラエティでも品良く温かな笑いを誘える。

当たり前のように需要は大きかった。特に正月は引っ張りだこである。

自分は粛々と自分の仕事をこなしていっただけのつもりだったが、彼女はいつの間にか推しに推されるアイドルとなっていた。





そして、彼女がうちの事務所に来た時分から他のユニットも売れていった。

努力が実ったのだろう、俺はそう思う。

だがこういう業界だ、機会に恵まれなければ売れるのは難しい。

そう、機会だ。茄子さんが来てから他のアイドル達がネットで人気の作家に注目されたり、

特技を披露する番組コーナーでMCに気に入られて他の番組でも使おうと言って貰えたり。

うちのアイドル達が機会に恵まれるようになっていた。



茄子さん自身、自分は運が良いと言っていたがもしかしたらその通りなのかも……。

俺は最近そう思わずにはいられなくなっていた。





「お金があるんですからケチらないで欲しいですよね」



「それを貴女が言うのか?」



「使うべきものにはお金を惜しんじゃいけないんですよ。回すべきお金は回す、そうすると、入るお金は増える。

 そういうものです」



「貴女がよく持ってる栄養ドリンクもそれに含まれるんですか?」



「そうですよ。あ、プロデューサーさんも飲みますか?」





千川さんは自らの机の下に常備している栄養ドリンクを俺の机に置いた。





「金取るんでしょう、いらないですよ」



「良いじゃないですか、1本百円ですよ。あ、今なら千円で15本で売っちゃいますよ。超得ですよ」





彼女は商売の事となると瞳に爛々とした生気が漲る。

生活とある程度の貯蓄が出来れば良いと思っている自分からしたら異常な程のバイタリティだ。

アイドルを高みに登らせたい、自分もそれに負けないように己を磨きたいとは思うが、金への執着がどうしても湧かない。

単に情熱の向く方向が違うだけなのだろうが。私は仕事自体に、彼女は仕事で得られるお金に情熱を注ぐ。

そんなにお金を貯め込んで何をするのだろうと思って色々と聞いてみたが、ただ単にお金が好きという趣向の下に貯めているだけらしかった。

何か大きな夢でもあるのかと思って執着について聞いたというのに、その時は何だか聞いて損をした気分になってしまった。





「遠慮しておきますよ。そういうのに頼り始めたら、いつもそれを飲まないといけないっていう強迫観念が芽生えそうですからね」





俺がそう言うと、これだから草食系はと悪態をつきながら彼女はイソイソとドリンクを机の下に仕舞った。





「はぁ……ちょっと休憩いれますかプロデューサーさん」





仕事が一段落ついていたのか、ドリンクを仕舞こんだ後にそんな提案をしてきた。

眼底と折り曲げた腰に静かに響く疲れを感じ始めた俺にはまたとない良い提案だった。





「そうですね。そろそろ休憩を入れましょうか」



「四時間くらい書類と睨めっこしてたみたいですよ私達」





時計を見てどれくらい自分達が書類と格闘していたのかを計算する。

今が24時を少し過ぎた頃。始めたのが20時手前。普段の仕事をこなした後にじっと座って整理をしていたのだから疲れる訳だ。

外を歩いて回る方が好きな自分にとってこういう書類仕事は苦手だったが、集中してしまえばあっという間だった。



俺は立ち上がり大きく息をしながら腰を回す運動をする。

ストレッチをすると窮屈そうにしていた骨がポコッと鳴り、体中に酸素が巡っていくのを感じた。





「お茶でも淹れようかな……千川さんも飲みますか?」



「あ、お願いします」



「パックはまだ……」



「ありますよ。私が今日買って来たんですから」



「そうですか。じゃあとりあえず淹れてきます」



「はーい、お願いします」





伸びをする千川さんをあとに、給湯室に入ってお茶を淹れる。





「はい、どうぞ」



「あー、どうも」





お茶を受け取った彼女は三回程息を吹いてお茶を冷ましてから啜った。

そして気持ちの良い嘆息を漏らした。





「疲れてる時の温かいお茶って何でこうも効くんですかねぇ。もう夏ですけど」



「そうですねぇ。何だかよくわからないけど、こう、ホッとする感じ? ってヤツですかね」





千川さんはうんうんと頷いて、またお茶を啜った。





「しかし本当に、うちも忙しくなりましたね」





彼女は先程の愚痴とは違って、少し嬉しそうに忙しさを嘆いた。

書類を眺める目の力は緩んでいるが、疲れによるものではないだろう。

きっと、この事務所の昔を思い出しているに違いなかった。





「そうですねぇ」





俺も事務所内を見回す。今日の予定がビッシリと書かれたホワイトボード、

アイドル達のポスター、CD、ファンレターがギッシリ詰まった段ボール達。

事務所は物言わぬ活気で満ち溢れている。





「あ、本当、ありがとうございます。今日も私の仕事手伝って貰っちゃって」





感慨に浸っていた俺に、律義に千川さんが私にお辞儀をする。

書類処理を手伝っているのはここ最近だといつもの事だが、彼女はいつもこうやって申し訳無さそうにお礼を言う。





「いや、別に良いんですよ。このくらい」



「このくらいって、プロデューサーさんも自分のお仕事纏めないといけないじゃないですか」





苦笑いを浮かべて彼女は言う。





「家帰って纏めてますよ」



「え、いつも何時間くらい寝てるんですか」



「三時間くらいじゃないかな」



「うわぁ……ちょっとしたナポレオンですね」



「そうですね。でも、毎日が充実してますし、別にそこまで辛いとは思いませんけどね」



「そこまでって事は少々辛いんですね」



「まぁ、ですね」





そう言ってから一拍置いて、二人して小さく噴き出すように笑ってしまった。

体に疲労は確かにある。でも、不快な疲労では無い。充実しているが為の疲労だから。







「はぁ……しかしうちはいつからこんなブラックになったんでしょうね……。

 そこまで売れてない芸能事務所って聞いて、とりあえず始めにここを踏み台にしてもっとホワイトで良い所に行くつもりが……」





自らの野望を悪びれもせずにごちる。

ここまで開け広げに言われるともう嫌味な感じはしない。





「したたかな野望ですね」



「もうその野望も人手を増やしてくれないと露と消えそうです……こんな状況じゃ辞めるに辞めれませんし」



「ですねぇ」



「家に帰ったらもう深夜、ご飯も食べずにお風呂に入って寝て起きて、仕事に追われる……。

 華の二十代をこんな形で終えていくと思うと……」





中々に切実な愚痴に、俺は同情めいた乾いた笑いを漏らすしか無かった。

ただ個人的には今の生活も悪くないと思っている。

三十路を過ぎ、中々過酷な生活リズムで日々を送っているが二十代の頃よりも遥かに充実している。

だがそのうち体にガタが来そうなのでいい加減人を増やして欲しいと思う事もあるが。







「はぁ……温かいお茶飲んだらちょっと暑くなってきちゃいましたね。

 エアコンももっと温度下げれたら良いんですけどね」



「あんまり使うとうるさいですからね。エアコンのリモコンは社長に隠されちゃってるし」



「社員のやる気とコンディションを保つ為に少しくらい無駄遣いしたっていいじゃないですかね。

 今は私達が残るからって、タイマー制限付きでつけたままにしていってはくれましたけど」



「そうですねぇ」



「はぁ……あ、そうだ」





何を思いついたのか、千川さんが手をパチンと鳴らす。

そして楽しげに、かつ不気味な微笑みを俺に向けて弾んだ声で話しかける。





「プロデューサーさん、もうそろそろ夏じゃないですか」



「え? はぁ……まぁそうですね。梅雨は長いですけど」



「そう、そうなんです。じめじめした蒸し暑い季節である今! 怖い話でもして涼みましょうよ」



「え、怖い話?」





脈絡も何も無い提案に素っ頓狂に声を上ずらせてしまった。





「そうです。もう真夜中ですし、時間帯的にもちょうどいいじゃないですか」



「いや、だからと言って何故に……」



「私、こう見えてそういう話好きなんですよ。何だか楽しいじゃないですか」



「いや……楽しい、のかな……自分はあまりそういうの好きじゃないですけど」



「あら、どうしてですか?」



「まぁ、それは……」





昔の事を思い出して口籠ってしまう。

子供の頃の思い出とも言えるし消したい過去とも言えるような記憶が脳裏にちらつく。





「あ、わかりましたよ!」





千川さんがまた両手をパチンと合わせて鳴らした。





「な、何ですか?」



「プロデューサーさん、もしかして昔幽霊に怖い思いをさせられたりしたんですね?」





思わず「えっ、どうしてわかったんですか」と聞き返してしまった。





「ふふっ、何か思い出しているような顔をしていましたから。昔何かあったのかなぁって」





ちょっとした表情の変化でここまで読めるのか、と俺は感嘆して息を漏らす。





「まぁ……そうですね、当たりです」



「あ、やっぱり。じゃあその時の事を話して下さい」





無邪気に千川さんが言う。そして俺の話はいつ始まるのだろうと目を爛々と輝かせてじっと俺を見つめた。

期待されるのは悪くは無いが、何となくあの話をするというのは気分が悪い。





「本当に話さないといけないんですか」



「えぇ、それは勿論」



「えっと……あ、千川さんは何か無いんですか。言いだしっぺなんですし、お先にどうぞ?」



「うーん、私からでもいいですけど、私の場合ネットとかテレビで見たような話しかありませんよ?

 私全然霊感無くて、あなたはもう一生そういう世界のものとは交わる事は無いから安心しなさいって、

 結構有名な霊能力者の人に言われちゃってるんですから」





それはそれで羨ましい話だ。悪いものとも関わらなくて済むだろうに。









「でも、プロデューサーさんは直にそういう体験をしたんですよね?

 だったら聞きたいじゃないですか。身近な人がそういう非日常の体験をしたっていうのなら」



「そういうもんですかね」



「そういうものですよ。あ、そういう経験をしたという事はプロデューサーさんは霊感とか持ってるんですか?」



「いえ今は……でも、昔は見えていたらしいです」



「え、見えるんですか?」





千川さんが身を乗り出す。





「昔の話です。そう親からは聞きました。まぁでもよくわからないですけどね。

 何を見たのかっていうのは一つを除いて全然覚えてないですから、そういうのがあったのかすら曖昧で……」



「ほうほう。じゃあその一つっていうのがアレですね?」



「まぁ……千川さんが期待してるような、世間で言う怖い話……ですかね」





俺がそう言うと千川さんは心底楽しそうに「ほほーう」と嘆息にも似た声を漏らした。





「じゃあ、そのプロデューサーさんが経験した怖い話を一つ、お願いします」





そして飲み物を売って利益を得た時に浮かべる笑顔と同じくらいの眩い笑顔でお願いをしてきた。

仕方あるまい。俺は小さく咳払いをして、あの夏の出来事を思い出す。

覚えている。細部すら忘れようとしても忘れる事が出来ないでいる記憶。

手繰り寄せるまでもなく、すらすらと浮かんでくるあの時の景色達。

何もかもが煌びやかで、輪郭が溢れて、そして何よりもどす黒い思い出。





「……あれは、俺がまだ小学生の時の話です」









――







「行ってきまーす!」





本州から船で数十分の外界から隔絶された島。

山と海。沢山の自然と、その中に少しの人々が混在する海にぷかりと浮く田舎。

遠くあぜ道を霞ませる陽炎。水路上をキビキビと飛ぶ黒羽の蜻蛉。泥濁りの水に生える青草。

緑に囲まれた高台に登ると遥か遠くに見えるのは、錨の如く巨大な影を大海に落とす、蒼穹を進む大艦の入道雲。

昔はよくあった、日本の田舎の景色。それが遍いている場所。

そんな場所に俺は母親の帰省と夏休みの思い出作りを兼ねて一カ月程、家族と一緒にやって来ました。



都会で生まれ育ちはしましたが、当時の俺は外で遊ぶのが好きで、着いたその日のうちにこの自然に囲まれた島の生活に打ち解けました。

緑の虫籠を腰に提げて、虫とり網を時代劇で出て来るような刀か何かに見立てて得意げに振り回して。

ぬかるみをふんづけては白いシャツを汚して、山に入るというのに短パンを履いて……まぁ、典型的な小僧というやつでした。







「あんまり山の奥に行くんじゃないよー!」





母や祖父母の忠告も聞かずに俺はその日も山へと向かいました。

その島の山はそこまで勾配がきつくない、殆ど丘と言えるような場所で子供一人だけでも難無く走り回れました。



山には木がもう所狭しと生えて、さながら緑のトンネルを作っているようで。

そんな中を汗に濡れた体で風を切りながら、酸素を求めて喘ぐ肺に青葉の活き活きとした匂いと共に空気を詰め込み走るのは、もう堪らなく気持ちが良くて。

その時は何だか自分がジャングルの中に降り立ったターザンにでもなった気分がしました。

島にいた時、もう毎日が冒険と言っても過言では無かったんです。



そんな島に来てから五日くらい経った頃だかに、今まで走り回っていた場所よりももっと奥の方に行ってみようと思い立ちました。

山自体はそこまで危なくは無いけれどあまり奥の方までは行くな、とは言われていましたが、

何故行ってはいけないのか、という事を特に聞かされていなかったので俺は深く考えず、

まぁ熊が出るとかそういう事は聞いていないし大丈夫だろう、なんて事を思って山の奥の方へ、新天地へと冒険をする為に足を運んだんです。



山奥に行くと今まである程度整備されていた道が無くなり、足場の悪い中を木々の張り出した根を足場にして進まないといけないようになりました。

ですが、さほど傾斜も無いので俺でも何とか山を登れました。







「あれ?」





そして山を登るうちに、不意に俺は整備された道に出てしまいました。

しかし、何だか様子が今までとは異なっていました。

今まで舗装されていた山の道は木や草を綺麗に除いて、段差なんかに木の板をくっつけたりしてある程度通り易くしていただけの

簡素な道だったんですが、ここは全て石によって舗装されていたんです。



不思議に思って辺りを見回してみると、道の奥の方に朱塗りの鳥居が目に入りました。

どうやら神社に出て来てしまったようで、成程道理でこの辺りだけ道が綺麗にされているのだなと合点が行きました。



森の中でバッタリ見つけた神社に俺は何だかワクワクして、少し中まで探検してみようと思い、鳥居の方へと走っていきました。

鳥居をくぐるとすぐに橋があって、その先は今まで登ってきた勾配とは全く違う切り立った崖のような傾斜が聳えていました。

あれ、もう道は無くなってしまったのかと思ってじっとその急勾配を見つめていると、緑の中に隠れるとても長い階段を発見しました。

どうやら本堂に続く道のようで、急勾配の一番上まで続いていました。



その時は「映画に出てくるみたいな道だ」なんて思ったりしたような気がします。

だって本当に荒れ果てて、未開の地なんて言葉が合いそうな道でしたから。





鳥居より前の参道はある程度綺麗で段差も登り易いようにされていたんですけど、そこの階段は傾斜もさることながら

伸びきった草木で殆ど覆い隠されていて、道を見つけたは良いもののまじまじと見つめると本当にここは道なのかと

疑ってしまう程で。



親にインディジョーンズやら何やら、そういう冒険映画をよくせがんで見せて貰ったような子供でしたから、

そんな道を見て、先に行って何があるのか突き止めたいなんて思うのも無理はありません。

俺は持っていた虫取り網をカットラスにでも見立てて、群がる草を分けながらその急な階段を登って行きました。

上の段に手をついたり、滑り落ちそうになりながらも俺はその階段を登り切り、また開けた場所に出ました。



そこには鳥居がまたあって、参道が少し続いた先に本殿らしき社がありました。

とても時代があるように見えるのに、湿り気を含む黒ずんだ木材で成っているそれはこの開けた地の奥に重苦しく佇んでいて。

その建物の成り立ち。神聖であるはずなのに、妙に禍々しい――それを見た瞬間に、私の視線は社に釘付けになりました。



社を支える二本の柱が顎を、太い注連縄が生々しい歯をそれぞれ連想させて、そして青錆びに色褪せた葺が爬虫類の肌のように見えて。

本尊を納めているであろう社の扉の向こうはただ黒いばかりではなく、光すら寄せ付けぬ淀んだ闇が広がっているばかり。

その光景を見て私は、口を開けて牙を剥く大蛇の前に立ってしまった、と思いました。

そんな事を思う私は、さながら呑みこまれる前の蛙か何かか。



生きた心地すら忘れる重圧。静けさは度を越して、世界の音は脈のざわめきと甲高い耳鳴りだけ。

目を開けている事すら難しい程の真夏の陽は、いつの間にか雲に隠れて薄闇が落ちるばかり。

俺の息は無意識にか細くなって、足もその場に縫われたように動かなくなってしまいました。

何分も、いや実際には数秒しか経っていなかったのかも知れないけれど、俺はじっと長い間その社を見つめて、いや見つめさせられていました。

体ごと引きこまれるみたいに、ただじっと。







「行っちゃ駄目!」





ふと、重苦しい静寂が女性の叫びに打ち消されました。とても悲痛な響きを持つ叫びでした。

俺はその声にハッと正気に戻り、自分がいつの間にか社に後数歩で届くという距離にまで近づいていたのに気付きました。

引きこまれるみたいに、だけじゃなく本当に引きこまれていたんです。



慌てて飛び退くようにして社から離れたものの、勢い余って転んで尻餅をついて今度は痛さで動けなくなってしまいました。

辛いものを食べた時に出て来るような、脳天を刺すあのつーんとした痛みに涙を押し殺しつつお尻をさすっていると、また女性の声がしました。





「何でこんな所に……あぁでも、止まってくれて良かった」





深刻そうな呟きと、安堵の息。

お尻の痛みが引いてきて、ようやく色々と考えられるようになって初めて、今の声は一体誰のものなのかと思い周囲を見回しました。

すると一人の女性が、先程のとは別の、丹塗の社の前に立っていました。



俺の目はまた、釘付けになっていました。

煌びやかな金の文様が散り散りになって浮かぶ、燃えるような紅の着物に身を包んだ綺麗な女性。

顔は、今でも思い出せません。でも、とても優しくて、表情が豊かで、綺麗な人だったという事だけは覚えています。





俺はしばらくぼうっと、その女性を見つめていました。

女性も俺を見つめていましたが、こちらはとても心配そうに、固唾を飲んで見守っているという風でした。



じっと視線を動かさず、視線が合うとも合わないとも言えない微妙な塩梅で互いをじっと見続けました。

そしてようやく考える力が戻って来た頃合いで、ふと、この綺麗な人は誰なのだろう、と思いました。

この神社の人なのか。お正月の神社で見る巫女さんという人なのだろうか。それとももっと別の。

一人考えたところで女性の正体なんてわかるはずもなく。

ならばとりあえず本人に聞いてみるのが一番だろうと思い、俺は軽い気持ちでその人に口を聞きました。





「あの……お姉ちゃん、誰?」





幼心に美人への恥じらいが混じって、少し不躾な聞き方をしてしまいました。

すると、数拍の間女性の表情が鳩が豆鉄砲でも喰らったような顔になった後、怯えにも似た動揺の色を見開いた瞳に浮かべました。

自分の口調で怒らせてしまったのか? と思いましたが、動揺のし方が何か尋常では無く、視線を俺から逸らして、うわ言のように

「嘘、どうして」というような言葉を呟いていました。





「えっと……大丈夫、ですか?」





俺は立ち上がって、動揺する女性に抜き足で近づきながら話しかけました。

すると女性は「きゃっ」と小さく叫んで、先程の俺のように飛びのいて尻餅をついてしまいました。









「あ、お姉ちゃん、大丈夫?」





俺は駆け寄って女性を助け起こそうとしました。





「あっ……大丈夫! 大丈夫ですよ〜」





しかし、女性は手が届く範囲に近づく前に急いで立ち上がりました。

女性はポンポンと着物に着いた土を払うと、目の前まで来ていた俺を不思議な物でも覗き込むように、頭を少し下げてまたじっと見つめてきました。

俺は……まぁ、小さかったですから。恥ずかしがってその目は直視できませんでした。

ただ言葉にならない声で呻いて、ただじっと見られるがままに、そこに突っ立っていました。



それからじっと見つめられた後、女性は鼻で小さく溜息をついて、「良かった、もう来年で……」と、間近でも聞きとりづらい程の声で呟いていました。

その呟きが何の意味か、その時はわかりませんでした。

その時はただ未成熟な自分の間近に迫る、成熟した女性の視線にただただ恥じらうばかりでした。

それから不意に、女性が中腰になって自分と目線を合わせて来ました。









「だめですよ〜、こんな所に来たら」





女性は優しい笑顔を浮かべてそう言いました。柔和で、包み込まれるような笑顔。

俺はその笑顔にドキッとして、また目を逸らすばかりでした。





「どこから来たんですか〜?」





朗らかな笑みにどぎまぎしながらも、とりあえず俺は出身地を述べました。





「えっと……東京から」



「とう、きょう?」





女性は口元に微笑みは浮かべたまま、目だけをぱちくりとさせて首を傾げました。

女性はしばらくうんうん唸りながら考えた後、合点が言ったのかぽんと手を叩きました。





「お江戸から来たんですね〜」



「えど?」





江戸とは何か。すぐには思い出せませんでしたが、それが昔の東京の名前だという事を思い出し、

俺は「そうだよ」と首肯しました。

女性も頷いて、「遠い所から来たんですね〜」とのんびりとした口調で、感心したように言ってくれました。









「うん。飛行機と船に乗ってここまで来たんだ」





女性はまた小首を傾げて、何だかよくわかっていないような、悪く言えば少し呆けたような表情で

「それは大変でしたね〜」と言いました。





「母さんと一緒に来たんだ。父さんは仕事でまだこれなくて、一週間後に来るんだって」





それからの俺は女性の柔らかな喋りと雰囲気にあてられたのか、緊張など忘れて色々な事を喋り始めました。

とりあえず名前を言った後にこんな自然ばかりの場所にはあまり来た事が無かっただとか、自分は一人っ子だとか、昨日はトンボを三匹捕まえただとか。

そんな実の無い子供の話をずっと続けましたが、女性はとても興味ありげに相槌を挟みながら俺の話を聞いてくれました。



大よそ身の回りの事を話し終えた所で、そういえばこの女性が一体何者なのか、何処に住んでいるのか、

そういった事をまだ聞いていなかった事に気付き、聞いてみる事にしました。

名前は教えてくれませんでした。何度か教えてくれと言いましたが、困った顔をして、

「うーん」と唸って渋るばかりだったので、今度は何処に住んでるのかを尋ねました。



今度はあっさりと「ここですよ〜」と教えてくれました。神社の人なのか、と俺は思いました。

年齢も聞こうかと思いましたが、踏みとどまりました。

無暗に大人の女性に年齢を尋ねるな、と母親に昔こっぴどく怒られた記憶が脳裏に浮かんだので。

とりあえず次に、何してたの、と尋ねました。









「何……う〜……日向、ぼっこ?」





語尾が自信無さげに上がったのを聞いて、何で自分のしていた事に対して自信が無いのかと思いましたが、

あぁそうか何もしていなかったんだなと、妙な得心をして俺はそこからは詳しく追及せずに流しました。





「お姉ちゃん、この神社って他に誰かいないの?」



「誰か?」



「うん、お姉ちゃんの父さんとか母さんとか」





そう聞くと、女性は口に微笑みを残したまま何だかとても悲しそうな目をしました。

そして、一瞬だけあの朽ちそうな社を見て、ふぅと息を吐いてからすぐに優しい目に戻って、力無く首を横に振りました。





「いないの?」



「いません。とっても、昔に……」





その後の言葉を、女性は続ける事はありませんでしたが、子供の俺でもそこからどう続くのかは想像に難くありませんでした。





「あっ、ごめん、なさい」





俺はまずい事を聞いてしまったなと思って咄嗟に謝りました。









「あ、大丈夫ですよ〜。もう、長い間一人でしたから」



「ずっと、一人なの? さびしくないの? 友達とかは?」





また、女性の顔が曇りました。でも、またすぐに明るい表情に戻って、友達ももういないけど慣れているからと、

何処か強がりを孕んだ声で言いました。



そんな女性の様子を見て、俺は何だか不意に彼女が可愛そうだと思いました。

だって、一人に慣れてるなんて事、その当時の自分には全く想像出来ないような事でしたから。

母親がいて、父親がいて、学校や放課後には友達と遊んで。

それが当たり前だと思っていましたから。だから俺は言ったんです。





「じゃあ、俺と一緒に遊ぼうよ」





そんな単純で、子供だけが気安くかけられるような言葉を。





「え?」





女性は本当にキョトン、とした表情をしてしばらく俺を見つめていました。





「お姉ちゃん一人なんでしょ? 俺もこっち来て一緒に遊べるのがいなくて、ちょっと困ってたんだ。

 子供は今皆この島から出て都会の方に旅行行っちゃったんだってさ」





何とも軟派な誘い方で、ずけずけと子供の俺は女性を遊びに誘いました。

女性は困惑した顔つきで、しかし何か痛々しげな色を浮かべて、俺の言葉を反芻していました。

腰を上げて、あの社の方をじっと見ながら胸の前に手を当てて、必死に何かを考えているようでした。

遠くから、蝉の声が聞こえるだけ。じっと、俺は女性の答えを待ちました。

それから長い沈黙を破って、女性は声を落として言いました。







「それは、だめ」





俺はすぐにどうしてと聞き返しました。





「私は、ここから離れられませんから」





また、どうしてと。





「そういう……お仕事、ですから」



「じゃあ、ここで遊ぼうよ」



「ここで……」





女性はまた、社の方を見つめました。先程から何度か社の方を見ては何か思案しているようです。

俺はあの社が何だか怖くてその視線の先までを追う事は出来ませんでしたが、子供心に何となく、

神様が眠っている場所で遊ぼうと提案したから女性は渋っているのではないかと解釈して違う提案をしました。





「あ、ここは駄目か。神様がいるんだもんね。じゃあ階段降りた下の……橋がある所とかで遊ぼうよ」



「え?」



「下だったら別に神様だって怒らないと思うよ」





女性はまた社を見つめました。じっと、睨むかのように。

それから目を閉じて息をついたかと思うと、今度は目に力強い決意の色を宿して俺に向き直って言いました。









「駄目です」





先程までとは違う、柔和さなどの微塵も無い声色。

俺は食い下がろうと「でも」とまで言いましたが、女性は首を横に振って言葉を遮ってしまいました。

そして腰を屈めて、俺の目を真正面で見ながら、今度は優しい声色で言いました。





「本当は、ここに来ちゃいけないんですよ。ここは、とっても危ない場所だから……」



「でも……」



「だから、早く帰らないと。お母さんも……きっと、心配してるはずだから。ね?」



「でも、お姉ちゃん……」





愚図る俺に、女性は手を伸ばし触れようとしました。

でも、その手は宙で止まって、すぐにひっこめられてしまいました。

唇を真一文字に結んで女性は俯き、そして何かを否定するように首をぶんぶんと横に振って顔を上げました。





「お姉ちゃん、これからまだお仕事があるから。今は遊んであげられないの」





どうしても否定をする女性の目は、俺に対する優しさと相反するように悲しみに満ちていて。

俺がもしこのまま帰ってしまったら、彼女はきっと泣いてしまうんじゃないかと思って。

だから俺は言いました。





「嫌だ、帰らない」





もうそう言った時は、女性と何か遊びをするという事なんてどうでも良くて、ただ一緒にいないといけないんだと思って、

俺は首をぶんぶんと横に振ったりして此処にいたいという気持ちを女性に伝えました。

女性はまた困った顔をして、もう一度俺を優しく諭しました。

それでも俺はまた首を横に振りました。女性が何を言おうと、俺は本気なんだと、彼女の眼をじっと見つめて根気良く伝えました。





何度も駄々をこね、何度も説得をする女性。

しかし、女性の説得はどんどん弱いものになっていき、最後の方は何も言わずに、ただ俺と社とで視線を行ったり来たりさせるだけになりました。

それからぽつりと、「大丈夫――あそこなら――」と何かしら呟くのが聞こえました。

「どうしたの?」と俺は尋ねました。女性はほぅと、呆れたような、でも何処にも嫌気の無い溜息を吐いて、俺に向き直りました。





「じゃあ……私の住んでいる場所で遊びましょう。そこならきっと、大丈夫ですから」





困ったような笑顔で女性は言いました。

俺は了承を引き出せたのが嬉しくて、「本当に?」と大声で聞き返しました。





「本当ですよ〜」





と、明るくほんわかとした返事。

俺は嬉しくなって後何度か本当にと聞き返しましたが、その都度困った笑顔で女性は本当ですと返してくれました。





じゃあすぐに行って遊ぼうと言うと、女性が「ちゃんと私を見て、ついて来て下さいね〜。あっちは見ちゃ駄目ですからね」と、

後半は何だか少し本気の声色で言って、俺を伴って歩き始めました。

向かう先は怖い社で無い方の、剥げた丹塗の社の方。

ここも神様の家じゃないのか、大丈夫なのかと一瞬思いましたが、女性は正しく勝手知ったる我が家と言わんばかりに、

その建物の入り口を開けて俺を招き入れました。中に入ると、俺はその様子に驚きました。



正面奥にある立派な祭壇や、高い天井に華美に施された朱や金の細工などにも後々感心をさせられましたが、

この時、俺の目に入ったのは床に無造作に散らばる遊具や楽器の数々。

小鼓やら琴やら、毬にお手玉、本の類までずらりと、というかばらりと。

明かりは入り込む陽光だけという、若干薄暗い部屋の中心以外の床を覆う程に。





「遊べる物はいっぱいありますよ〜」





と、呆気にとられる俺を見て自慢気に女性は言う。

俺はおずおずと部屋の中央まで抜き足で行き、周りの物をぐるぐると首を回して見渡しました。

当時、俺が遊びでやっていたのと言えば野球やら鬼ごっこやらが主流でしたから、

周りに溢れている玩具や何かを見て、何だか酷くタイムスリップさせられた気持ちになりました。

けん玉とか独楽とか毬だとか、そういう物は親の世代の物だと思っていましたから。親の話で聞いたり、少し触らせて貰ったりとその程度。

単に走る事が好きだったから、鬼ごっことかそういうのばかりをやっていたのもあるのでしょうが、俺には縁遠い物ばかり。



女性はと言うと、物珍しい物を見つめる俺の横をすすすと通り抜けて俺の前に座って両手を広げ、

「さぁ〜、何で遊びましょうか〜」なんて眩しい笑顔で言う始末。

こういう手遊びは性に合わなさそうだなぁと思いつつも、一緒に遊ぼうと言った手前もう退けず。

俺も彼女の前に座り込み、さてどうしたものかとまた周りを見渡しました。





とりあえず、目についたお手玉を三つ手にとって適当に投げて遊んでみました。

が、初めてやる為上手くも行かず。飛ぶ玉達は一様な孤を描かず、落ちて来る玉を拾うのに集中すれば飛ばす玉が疎かになり、

玉は手からこぼれ弾かれの散々な有様。野球で球を取るのはいつもやってるじゃないか、と躍起になって何度もチャレンジすれども、

失敗失敗の嵐。



悪戦苦闘する俺の様子を見かねたのか女性もお手玉を手に取りましたが、こちらは何と八つ程。

「男の子はあまりお手玉はしないですかね〜」と、そんな事を何故か嬉しそうに言いながら女性もお手玉をし始めました。



ほんわかおっとりとした女性の雰囲気と似もせずに、手玉はリズミカルに、女性の手を滑って行くかの如く綺麗な楕円を描いて宙を舞う。

俺はまた呆気にとられて、口を開けて女性の玉捌きを見つめていました。

女性はノッてきたのか、途中からは「ほっ」だととか「はいっ」だとか掛け声なんかを入れて、さながら大道芸人の如く。

最後に落ちてくる玉を全て片手で受け切って、「できました〜」と可愛らしい笑顔を浮かべて両手を広げて見せてくれました。

俺は素直に感心して、自然と拍手を送っていました。





「凄いね、お姉ちゃん。どうやったの」



「ずっと練習してましたから〜。見せる人がいませんでしたけれど」





と、いたずらっぽく言って、それからは俺にお手玉のコツなんかを教えてくれました。

俺も出来ないままでは悔しいので、女性の教えをしっかりと聞いて何度も実際に投げてコツを掴んで行きました。

少しして、三つくらいなら何とか回せるようになりました。







「出来るようになった!」





「頑張りましたね〜」と、今度は女性が俺に拍手をくれました。何だか少し照れくさかったです。

それくらい出来るようになったのならと、今度は女性の唄に合わせてやる事にしました。

ちゃんと出来るのかなと思いつつ、女性の唄に合わせて投げてみると、何だかリズムに乗れてすんなりと投げる事が出来ました。

そんな風に結局お手玉にハマって、じゃあ次は綾取りだ、なんて感じにどんどん遊具を拾い上げて最初の懸念は何処へやら。

この島に来てずっと一人で遊んでいたのもあったのか、俺は彼女との遊びに夢中になっていました。



そうやって遊んでいるうちに、いつの間にか部屋が暗くなり始めました。どうやら夕方になったようです。

女性は俺の手にあった遊具を取りあげて「今日はここまでにしましょうか」と優しく言いました。

俺はまだまだ帰りたくありませんでしたが、晩飯までには帰って来いという親との約束を思い出し、渋々首肯しました。





「それじゃあ、下まで一緒に行きましょうか」





女性も何だか名残惜しそうにしながらもそう言って、最後にまたあの社の方は見ないようにと注意をしてから扉を開けました。

俺も女性に続いて外に出て、女性の方だけを見てついて行き、あの急な階段を慎重に降りて橋を渡って、

入口の所までやって来ました。







「今日はありがとねお姉ちゃん」





俺は一緒に遊んでくれた女性にお礼を言いました。





「いえ〜。私も……凄く楽しかったですから」



「また明日も来るよ。今度はあの双六やろうね」



「それは……」



「駄目なの?」





女性は逡巡してから、「駄目です」と言いました。





「えー、どうして?」



「どうして……ここは、危ないからです。今日は大丈夫でしたけど……もう来ちゃ駄目ですよ」



「危なくないよ。お姉ちゃんが一緒だったら大丈夫だよ」



「それでも……駄目です」





俺は黙り込みました。駄々が通用しなから拗ねたんじゃありません。

駄目だ駄目だと言うけれど、何でこの人はこんなに辛そうにそう言うのだろうと必死に考えていたからです。

最初の方も、遊んでいる時も、こうして帰ろうとしている時も女性はずっと笑っていて。

でもその笑顔に時折、とてつもない寂しさが覗く。何でこんなに寂しそうにしているんだろう。



やっぱり、ずっと一人でいるから寂しいんだ。

一人でこんな場所にいて、きっとあの玩具も一人で使っているから、こんな寂しそうな表情をするんだ。

そうに決まってる。だからさっきも俺は意地になって遊んで欲しいって言い続けてたんだ。

また来てあげないと。来ちゃいけないと言うけれど、本当はきっと凄く寂しいのだろうから。



俺はそんな事を思いながら、女性の顔をじっと見つめました。

中々帰ろうとしない俺を急かす為に、女性は屈んで「もう帰らないとお母さんが心配しますよ〜」と優しく諭しました。







「帰る……うん、今日は帰るよ」





まだ俺が駄々を捏ねるとでも思っていたのか、女性は意外そうに目を見開いていました。

まぁ、女性の予想は正しいものでしたが。





「だけど、俺は明日も来るからね! 絶対!」





とびっきりの駄々を捏ねてやりました。

女性はまた困った表情になって、首を傾げました。





「だ、だから……その〜……ここは神様がいて、あまり来ると……」



「でもお姉ちゃんがいれば大丈夫なんでしょ? さっきだって、そうだったし」





あの薄暗い社には妙な力がある。それは小さな時分の俺にもわかりました。

でも女性といると、不思議とあの嫌な感じや引力やらは全く感じませんでした。





「そ、それは……そう言われるとそうですけど〜……」





意外な事に女性は否定しませんでした。









「だから大丈夫だよ。すぐにお姉ちゃんの……お家? にいけば、何とかなるよ。

 それに……」



「それに?」



「お姉ちゃん……何だか、帰れとかここにいちゃ駄目って言う時、すごく寂しそうだから……だから、その……」





大事な事を言っている最中だというのに、途中で何か妙に女性を異性だと意識してしまって言葉が霧散してしまいました。

えっと、あの、と言葉を何とか繋いでいるうちに、女性の目が、また寂しそうにくぐもりました。

胸の前にあてられた両手が、胸から漏れそうになるものを押しとどめようとするみたいに力が入ってるのが見てとれました。



どうしても悲痛に見えます。こんな人を放っておけるはずが無かったんです。

わかり易いくらいに苦しんでいるのに、俺は何だってかけてあげたい言葉の一つもかけてやれていないのかと思い、

男なんだろぐずぐずするなよ、というテレビか何で聞いたようなキメ台詞を思い出し、俺は首をぶんぶん横に振って恥じらいを捨てて言いました。





「だから……だから、俺はお姉ちゃんと、一緒に、遊びたいんだ」





それが俺の精一杯の言葉でした。

彼女の事を救いたいというか、どうにかしてあげたいという気持ちを一生懸命に伝えたつもりでした。



女性は俺の言葉を反芻するみたいに、目を閉じて何かを必死に考え始めました。

しばらく沈黙が俺達を包み込みました。

が、次第にその静けさと後に残った何とも言えぬ恥ずかしさに耐えられなくなって、俺は口を開きました。





「……駄目?」





俺が遠慮がちに聞くと、女性はうんうんと唸り始めました。ついでに眉間には可愛らしく皺も寄せたりなんかして。

それから数秒して答えが出たのか、いや実際は唸り始めた辺りで答えはとうに出ていたのか。

彼女はふぅと溜息をついて困ったような笑顔で俺に言いました。









「そうですね〜……じゃあこうしましょう。お昼から夕方……いえ、もうちょっと早い時間までだったら、大丈夫です」



「本当に!?」



「はい〜。あ、夕方になったら絶対に帰って下さいね? それが守れるなら……大丈夫ですよ〜」



「うん! 守るよ! 約束する!」





女性が了承してくれたのがもう嬉しくて。俺はもう鞭打ちになるんじゃないかという勢いで頷きました。

そんな俺を見て、女性も満足げに笑いました。





「それで、その〜……来る時も必ず参道の始めから来て下さい」



「どうして?」



「そこを通って貰えると、私がすぐに入口まで迎えに行けますから〜」





俺は「へー」と間抜けな声で感心しました。

何かセンサーの類でもついているのか、凄い進んだ神社なんだなぁと一人で勝手に納得していたからです。







「わかったよ。じゃあ……参道の最初の所から入れば良いの?」



「はい〜」



「じゃあ……えっと、明日は……お昼食べてから来るね。早く食べて来るから!」



「無理はしないで下さいね〜。ここの山はなだらかで危ない動物もいないですけど、つまづいたりしたら怪我をしちゃいますから〜」



「うん! じゃあまた明日ね!」



「はい〜」





俺は手を振りながら駆け出して、参道を駆けて行きました。

あの女性とまた遊べるという喜びで、別に競う相手もいないというのに全力疾走で走りました。

躍る歩調に躍る胸。初めてこの島に来た時以上のワクワク感。

もう何だか嬉しくて堪らない、訳も何だかわからない。今の俺は無敵なんだという事まで何故か考えている始末。



すると、後方から女性の声。





「あの〜、帰り道はわかりますか〜?」



「あっ」





……





適当に山を登り、適当に辿り着いた場所であったという事を失念していましたが、

女性にどっちに行けば良いのかを教えて貰ってその日は何とか家に帰る事が出来ました。



その日、夕餉の折に今日は何をして遊んでいたのかという事を母親に尋ねられましたが、

「近所の人と遊んでた。明日も行くんだ」と返しました。

若干ぼかして伝えましたが、これは神社の人と遊んでいた等と言うと他人の仕事の邪魔をして、等と怒られると思ったからです。

俺が言うと母は「そうあまり何度も行くと迷惑になるから程々に」と適当に窘めてきました。



が、そんな事を聞くはずも無く。俺はそれから毎日あの人の所へ行きました。

そんな日々の途中で、都会に行っていた島民の子達なんかも帰って来たり、八月中旬に行われる祭りの準備に母親達が狩りだされたりと、

色々と島の中で動きが出てきましたが、そんな事は知らぬ存ぜぬと言わんばかり。

俺は相も変わらずあの女性の元へ足しげく通い、女性は俺が来る度に最初の鳥居の前で笑顔で迎えてくれました。



女性とした遊びは、それはもう多岐に渡りました。

双六を一緒にやったり、かるたをやったり、板で出来たパズルのような物をやったり。

そして時折、遊びだけではなく舞や芸なんかを見せてくれる事もありました。

神楽と思われる舞や、傘を使っての曲芸、小鼓の演奏を聴かせてくれたり等々。

見せてくれる芸も実に多芸に渡っていましたが、「特にやる事が無かったので」という理由で本人は色々な事をやっていたそう。

それでも全部様になっていたから、俺はこんなに色々出来るなんて凄い人だなぁと子供ながらに思いました。





「お姉ちゃん、本当に何でも出来るんだねぇ」



「何でもじゃありませんよ〜」





はにかみながら女性は言いました。





「嘘だ。最初に見せてくれたお手玉とか、さっきの踊り? とか、凄く上手だったもん」



「そうですか? そう言われると、何だか照れちゃいますね〜。うーん、何でも出来る訳じゃ無いと思うんですけど、

 大概の事は練習をあまりしないで出来る……ような気がしますね〜」



「へー、凄いねそれ」



「昔からそうなんです。昔から……私の家の事も……」





そう言って、女性は黙り込んでしまいました。

悲しそうな顔。こうして一緒に遊んでいる時も時折見せる、何か闇を抱えたような表情。

それは俺を見つめながらでも、何処か遠くを見つめながらでも、どんな時にでもふと見せる表情。



最初に会った時もずっとこんな表情をしていた。

でも、結局こうして一緒に遊ぶようになってからも、女性はこの表情をやめない。

この人のこういう表情見たくないと思ったからこうしているのに。

何だか自分が無力な人間に思えました。







「と、とにかく、お姉ちゃんは凄いよ」





俺はすぐに悲しそうな顔をやめて貰いたくて、取り繕うように言いました。

女性もそれを汲みとってくれたのか、すぐに笑顔を作ってくれました。





「そうですかね〜」



「うん」





俺は大仰に首を縦に振りました。





「ふふっ、何だかそう言われると悪い気はしませんね〜」



「お姉ちゃん、他には何が出来るの? もっと見せてよ」



「もっとですか〜? そう言われると困りますけど、しょうがありませんね〜」





そんな事を言いつつ、女性は嬉しそうに床に置かれている道具達を見回して次は何をやろうか等という算段。

何と言うか、女性はそういうのを見せたくてしょうがないという感じで。

一緒に遊び始めて数日でそれに気付き、何か困ったらとりあえず俺は女性にそういうおねだりをして明るくしようとしていました。





「それじゃあ〜……そうですね〜……次はこれをお見せしましょ〜」





なんという具合に俺と女性はのんびりと時を共に過ごしました。

そうして日が経つに連れて女性の悲しそうな表情も和らいでいき、二週間も経つと女性も俺も、

何が面白かったのやら、ずっと何だか笑いっぱなしで。でも、それがとても嬉しくて。



そうして、社に行くのも慣れて最初に妙な体験をした事すら忘れた八月中旬の頃合い。

その日も遊び終わり、さて帰ろうかと女性に下まで送って貰った時。







「明日は……来ない方が良いと思います」





と、女性が久しぶりに真面目な顔つきで言い出しました。

一瞬何でそんな事を言うのだろう、と思いましたが俺はすぐに検討づきました。





「明日お祭りだから忙しいの?」





そう、次の日は島のお祭りでした。

一体どういう内容のものなのか、という事はサッパリ知りませんでしたがお祭りと言う以上、

この神社に住んでいる女性も無関係というはずは無いだろうと思ったのです。





「それは〜……そうですね。明日のお祭りで忙しくなるんです。だから……一緒には遊んであげられません」





やはりそうでした。遊べなくなるというのは非常に残念でしたが、そういう仕事なのだから仕方がありません。





「じゃあ……しょうがないよね。明日は遊べないね」



「はい。ごめんなさい」



「いや、謝らなくたって……」





俺がそう言うと女性はまた「ごめんなさい」なんて謝って、本当に遊べなくなる事を申し訳無さそうにしていました。





「明日は、そうですね〜……一日中忙しいと思うので、ここに来ちゃ駄目ですよ〜」



「わかったよ」



「それじゃあ、今日も気をつけて帰って下さいね〜」



「うん」





少し寂しい気もしましたが、その日はそこで別れて俺は家に帰りました。

家に帰ると祖母と母が何やら大きな提灯を三つも床に並べて話しあっていました。







「ただいまー」



「あ、お帰り。というか、ちょっと、今日は早く帰って来なさいって言ったのに何処言ってたの」





帰ってくるなり叱られましたが、横にいた祖母がまぁまぁと母を制しました。





「ほら見てみぃ、これが明日お祭りで使われる提燈だよ」





と言って、祖母は俺の背丈の約三分の二程はあろうかという巨大な提燈を広げて見せてくれました。





「すげー! デカイ!」



「これをね、玄関だとか縁側だとかに吊るしておくんだよ」



「へー、何でそんな事するの?」



「家の周りを明るくして、くらーい所を無くす為だよ」



「そんな事してどうするの?」



「そうしないと、こわーいお化けが――の事を連れてっちゃうからだよ〜」





母が横からおどろおどろしい声でお化けの真似をして見せてきました。

が、さして怖くもないので俺は「ふーん」と素っ気のない態度で返します。





「もっと怖がんなさいよ」



「母さんがやると怖くないんだもん。あ、それで、明日の祭りって結局何するの?」



「明日は大人達が集まって、山の奥まで行ってお祓いをするんだよ。――はお留守番」



「えー、何それ」



「子供にゃあ見せられない、秘密のお祭りじゃて。お祭り、違う字を書くんじゃが……儀式みたいなもんかねぇ」



「儀式?」





思わず声が上擦りました。







「どんなの? なんかこう、神殿の奥とかでやるやつ? 水晶とか使うの?」



「馬鹿、そんなんじゃないよ」





呆れた顔で母が言いました。





「本当にアンタはそういうのが好きだねぇ。ああいう映画ばかり見るからそうなるんだよ」



「まぁまぁ。とにかく、大人だけでそういう事をするから、――は明日一日外に出ちゃ駄目だよ」



「えー、どうして。屋台とか出るんでしょ?」



「屋台は出ないよ」



「え?」





俺の思考が一瞬停止しました。





「そういうのは出ないの。ここのお祭りはそういうのじゃないからね。神輿も盆踊りもなーし」





呆気にとられました。祭りなのに出店も神輿も無い? 一体どういう料簡なのか。

それは果たして祭りと呼ぶのだろうか。にわかに俺の胸中に何か怒りめいたものが湧きあがってきました。





「明日は外に悪いものが出歩くからのう。正直、それがもういるのかどうかもわからないけれども、

 そういう決まりじゃから、明日は御留守番しとくんじゃよ」





悪いもの、とは一体何なのか。

それはサッパリわかりませんが、そんな事よりも出店も何も無い祭りのせいで明日一日中外に出れない事の方が俺にとっては一大事でした。





「え、どうしても外出ちゃ駄目なの?」



「駄目。あー、いや、夕方までは山に入らなければ別に平気かのう。昼時に見たという話はここ二十年くらい無いから」





見た、とは何か。一体何の話なのか。





「何を見たの?」



「だから、こわーい幽霊だって」





母はまた先程のようにお化けの真似をしましたが、俺はこれを無視して祖母に、

「お化けの話なの?」と聞きました。





「そうじゃよ。そりゃもう、真っ黒のお化けじゃ」



「真っ黒?」



「そう、真っ黒。おばあちゃんは見た事ないけどねぇ。それを見た人は皆真っ黒で、酷い臭いだったって言ってるんだよ」



「臭い? どういう臭いなの?」





俺は尋ねましたが、祖母は一瞬しまったという顔をしてあーだとかうーだとか何か逡巡して、

中々返してくれません。





「それは……何と言うかのう。言葉に出来ない程の臭いだそうだ」



「ふーん」





何となく納得のいかない回答でしたが、まぁそういうものなのかと思い俺は追及しませんでした。

そして俺はそれから真っ黒な幽霊の姿を想像し始めました。

が、中々真っ黒の幽霊という物をその時は想像できませんでした。



その時分、俺には所謂霊感というものがありました。それもそれなりに強めのやつを。

ですがまぁ、それが生涯において役に立っていたのかと言われると正直微妙です。

色々と、厄介なものでしたから。



この人は幽霊なのかな、という人達は、やはり基本的にちゃんと人の姿を成していて。

いやむしろ、この人は人間でしょうと思っていると、実は幽霊だったという事の方が多かったような気がします。



生きている人に見える程鮮明に姿を残している人、仕草をする人ばかりな訳で

正直余程のもので無い限り人と同じようなものだと思っていました。幽霊なのだと気付くのに時間がかかったりもします。

そのせいで、友人だとかに気味の悪い目で見られたりもしましたから。



まぁそんな風に、色々と見てきましたからどういうものなのか、というのは心得ているつもりでした。

時折、色々と足りないかなと思うような人がいたり、ガン見してきたり、ついてきたりするのもいましたが、

そういう奇異なものは遭遇しませんでした。故に、真っ黒なのと言われても想像が出来ませんでした。





「まぁとにかく、明日は家にいなさい。いいね?」



「はーい」





不承不承の生返事をし、俺は自分の寝室に戻って胡坐をかいて、夢も希望も無い祭りのせいで潰された明日をどう生きるかを考えました。

明日は外に出てはいけない。出た所であの人と遊ぶ事は出来ない。

かと言って家に居てやる事など無し。夏休みの宿題をやるにしても一日中やるなんてのは現実的じゃない。

それじゃあ今まで山ばかり行っていた事だし、昼間は海にでも繰り出すか。

そんな風に明日の算段をたてていると母からさっさと風呂に入れという催促。

それじゃあ入るかと風呂に入り、その後は疲れもあったのかすぐに寝てしまう。

明くる朝、目を覚まして食卓につくと、既に母と祖母は朝から外出の準備をしていました。





「あれ、もう行くの」



「えぇ。この島のは朝早いのよ」



「ふーん」



「昼過ぎ頃には帰るから」



「はーい」



「外に出るんじゃないよ、良いね?」



「お昼は良いんじゃないの?」



「昼も極力出ないの」



「えー、でもおばあちゃんがお昼は出ても良いって」



「今日は外に出ないで宿題やってなさい。他所のとこもそうするって言ってたから」



「えー。別に幽霊なんてその辺にいるじゃん。それにそんな悪い奴なんて見た事ないよ」



「とにかく、今日は宿題をやんなさい。わかった?」



「はーい……」





母はそれから何か思いつめるようにして俺をじっと見つめて、溜息をつきました。









「アンタは……もっと小さい頃から何も無い所をじっと見て笑ったり、話しかけたりしてたっけねぇ」





もう一度、溜息。





「今でもたまに変な所をじっと見たりしてるけど……大丈夫なの?」



「大丈夫だよ」



「ねぇ。この島でも、やっぱり見た?」



「この島? うーん……どうだろ」





こっちに来てからの事を色々と思い出しましたが、見たような記憶はありませんでした。

気付かなかったという可能性も無きにしもあらずでしたが、どうもそういう気配を感じた事がありませんでした。

不自然な程に、何も。



しかし、一つだけ心当たり。あの淀んだ社。

明らかに何かがいる感じはしましたが、今まで俺が見てきたようなのとは一線を画す気配で。

神様の気配、というのが相応しいのでしょうか。でも、あの気配を感じたのはあの時一度だけ。

それ以来あの神社に何度も行っていましたが、女性について行き目を逸らせば別にどうという事は無く。



本当にあれが神様なのかはたまた幽霊の類なのかはもう判別も出来ず。

一応、あれが神様という事になるなら、俺はこの島に来てから霊は見てないのか。





「こっちに来てからは見てない、と思う」



「ふーん。アンタが見えないっていうなら、おばあちゃんが言う悪いのももういないんじゃないかねぇ」



「さぁ、わかんないよ」



「ここの島の祭りは疲れるからねぇ。ずーっと座って、お祈りするんだよ?

 もういないんだったらしなくても良いと思うのに」





母はじっとしているのが苦手な人でした。

若くして島から飛び出して行ったのも無理は無いと思わせる程に。







「ふーん」



「アンタも来るかい?」



「ヤダよ」



「あーそう。とりあえず、お昼御飯は冷蔵庫に入れてあるから。お昼になったら食べなさい」



「はーい」



「宿題もちゃんとやるんだよ」



「はーい……」



「アンタはいっつも日記帳書かないで最後の日になってあの時の天気はなんだったっけーって聞くんだから、

 ちゃんと昨日の分も書いたの?」



「あ、書いてない」



「ほら見なさい。さっさとご飯食べて、書くんだよ」



「はーい……」





一通り母から小言を貰い、祖母と母を見送ってから朝食を摂り、俺はやりたくもない宿題に向きあう事となりました。

エアコンも無い場所で窓から抜ける風と扇風機のみを涼の頼みとしながら、ドリルやら昨日の日記やらを相手にうんうん唸りながら

俺は宿題と格闘しました。



が、集中力がそこまでもつはずもなく、一時間程もすると俺は畳の上に大の字になって寝転がっていました。

寝転がりながら今頃母達は一体何をしているのだろう、父は明後日頃に着くと言っているが早く来てくれないだろうか、

等という事を考え、次第にまどろんでいってしまいました。





起きたのはもう陽が傾き空は朱に染まるという頃合い。

そんなに寝てしまったのかと起き上がったものの、不思議と深く寝入り過ぎた時の鈍い頭痛は感じられません。

昼頃に帰ると言っていた母達の気配も無く、吊られていたはずの風鈴の音も聞こえず、

蝉も、風の音すらも聞こえない圧し掛かるような静けさ。

電気もいつの間にか消えていて、部屋の中はタールでも流したのかと思う程、輪郭が濃く粘つくような影達が蔓延っていました。





「かあさーん! ばあちゃーん!」





俺は何だか気味が悪くなって、母や祖母を呼びました。

しかし返事は無く、俺の声は静けさに潰されて影達が睨み返してくるばかり。



俺はどんどん心細くなって部屋の中でどうしたものかどうしたものかと、おどおど辺りを見渡しながら思案に暮れました。

そしてふと目につく空の色。空は赤く焼けているというのに斜陽の突き刺すような光は無く。

かと言って夜の濡れるような深い闇も無く。

凪いだ水面が何処か余所余所しく空を映しているだけのような。曖昧な、ただひたすらに曖昧な空の色。



和室の中にあって、この妙な雰囲気。

何もかもが不気味で俺はもう居ても立ってもいられなくなり、家を飛び出してしまいました。

しかし外に出ても街灯一つ灯らないずに薄暗く、人の気配すら感じられません。

道にも、民家にも、田畑にも、落ちるのは不気味な空の色一色ばかり。







「かあさんっ……」





もう一度大声で母達を呼ぼうとしましたが、声は出ませんでした。

声を出そうとした時、感じたんです。気配と臭い。そして視線を。いつか感じた、あのどす黒いものを。

見られている、何かに。あの時見たものが、今度はこちらを見返している。

ヘドロのような妙に鼻を刺す臭いもする。何処から。後ろからだ。



体中の毛が逆立ち、汗腺が冷たい汗を噴き出す。ただ立っているだけなのに息は切れ切れになり、体が震え歯がカタカタと。

脚は泡となって爆ぜたのか。腕は砂になって砕けたのか。

夢を見ている時のように四肢は甘く弛緩し、だらりと垂れ下がって言う事を聞かない。

逃げなきゃ、逃げなきゃ。歯を食いしばってそう思っても体はそのまま棒切れの如く。

臭いと気配はどんどん濃くなり、恐怖心は胸を突き破らんと心臓に早鐘を打たせ、息は詰まり胃液が昇り吐きそうな程に。



もう駄目だ。諦めが過りましたが、その時ふと頭に浮かんだのは、母でもなく父でもなく、あの女性の姿でした。

助けて。助けて。俺は背後に迫るものの恐怖に慄きながら必死に念じました。

多分、あの人ならきっと助けてくれると思ったから。



すると本当に不思議な事に、急に体の自由が利くようになり、俺は背中を蹴り出されるかのように走り出していました。

もう意味がわかりませんでしたが、とりあえず俺は必死で駆け出しました。





「お姉ちゃん……お姉ちゃん……」





あの女性をうわ言のように呼びつつ、とにかく走りながら周囲を見渡し、誰かいないか、隠れられる場所は無いかと狂乱の中で闇雲に探しました。

すると、道の奥に防波堤が見えました。港の方なら、もしかしたら渡しの人がいるかも知れない。

そう思って、俺はもう無我夢中でそちらに駆け出しました。



が、海岸に出ても誰一人おらず。漁師の人達が住んでいるであろう海沿いの家も明かりの一つも見えずただひっそりと。

遠くに見える渡しの場所には人の気配も感じられないどころか、舫ってあるはずの船すら見えない。

そして海は鏡かと疑う程に凪ぎ、空と完全に溶け合い海岸線すらおぼつかず、ぼうっと空を映しているだけ。



何処にも人がいない。早くしないと、またあいつが追って来る。発狂寸前の俺は叫び出すのを何とか圧し留め、また駆け出しました。

駆ける足と恐怖のせいで心臓がはちきれんばかりに打ち、頭の中がこの意味不明な事象のせいでもう滅茶苦茶になって何が何だかわからない。

とにかく人がいる所へと回らぬ頭で必死に考え、今度は一番民家のある場所へと駆けました。



何とか目的地に辿りついたものの、やはりどの家にも気配は無く。

誰かいないかと声を荒げるも返る言葉は跳ね返る自分の声ばかり。

周囲の民家は死に絶えたように無言を貫き、俺をただただ無言の圧力で以って拒絶してくる。

目を泳がせ、人の気配を必死に探るもそんなものは全く感じられず。



中に入って確かめるかと思いましたが、窓から明かりは一つも見えず、結局は私の家と同じように影だけが蔓延っているはず。

それに合わせて人の家に勝手に入ってはいけないという教えが律義に頭の中にちらつき、

俺はどの家の戸にも手をかけずにまた走り出しました。





何処に行けば良い。こんな所は嫌だ。母さんばあちゃんは何処に行ってしまったんだ。

怖い。助けて。

頭の中でただこればかりの考えがぐるぐる、ぐるぐると。



そうだ。お姉ちゃんの所に行こう。あそこならきっと、きっと大丈夫だ。

そんな事を思いつき、俺の足は走り慣れた山の中へ。



そうして入って行ったものの、山の中はより一層と静まりかえり、葉の揺れる音すら微塵に聞こえず。

木々は不気味な赤い空を覆い尽くし、陰鬱たる闇を深く、深く落とし込めて。

暗いせいで足元がおぼつかず、根やらに足を引っかける事幾度となく。

喘ぎ喘ぎ、躓きながらも木々の間を抜ける。走り過ぎたせいで喉が焼けるようにひりつき、呼吸をするのも煩わしい。



嫌だ。ここはもっと怖い。どうしてこんな所に入ってきてしまったんだ。

後悔は既に遅く。俺はもう引き返せない程に森の深みへと入ってしまいました。



そうして、息を切らして走っているととうとう強く躓いて、俺は土の上にしたたかに倒れ込みました。

どんと倒れて膝をすりむき、頬やら腕やらを土塗れにしながらも、俺は必死に立ち上がろうとしました。

もがいて、這って、また躓きそうになりながらも何とか立ち上がり、また走り出す。

次第に間隔の狭くなる木の間をぶつかり、躓き。体中に打ち身と擦り傷を作りながらも走り続けました。

そうしてようやく開けた場所が見えました。あの参道です。





熱を帯びて上がらなくなってきた腕と脚を必死で動かして参道に出て、鳥居の見える方向へよたよたとまた走り出しました。

もう少しで、きっと、助かる。燃えるような疲労感が体中を襲う中、そんな一筋の光明が見えてきました。

が、俺の脚はまたそこで磔に。



鳥居の前に、黒く凝り固まったものが。それは全く、見ただけで何なのか理解の出来るものではありませんでした。

それは絶対に生きていない。しかし霊と見ようにも、あまりにも気配が異質過ぎる。

明確な敵意というか、俺を標的として定めているかのような、ハッキリとした意志が感じられる。

恐ろしい程の不安と恐怖と臭気を振りまくそれは、人間でもなく幽霊でも無い。強いて何かに例えるなら邪悪の塊。

この邪悪がこの島を誰もいない場所に変えてしまったに違いない。俺はそう確信しました。



しかし、そんな事がわかった所で時は既に遅し。

目はそれに釘付けになったまま、体を動かす事も出来ずに俺はそこに立ちすくむ。

頭はあれが何か理解出来ているのに、体は全く動かない。最初にあの社を見た時と同じような、吸いこまれる感覚。



そうして動けなくなった俺に向かってそれはゆっくりと歩み寄って来る。

妙な方向に曲がった脚を引き摺り、伸ばした腕を俺に向けて――その伸ばした指先もぐにゃぐにゃにあり得ない方向に折れて――

必死の気迫を伴ってそれは着実に、じりじりと距離を縮める。



近づくにつれて濃くなる鼻をつんざく刺激臭に胃を鷲掴みにされて、胃液が昇り口から吐き出る。

鼻にまで酸っぱいものが詰まり、呼吸が苦しくなっているというのに体は相も変わらずに操縦が利かず。



後六歩、五歩。それは気の遠くなるような遅さで、いたぶるかのように歩み寄る。

俺はもう目から鼻からぐちゃぐちゃになった液を垂らし、終いには尿やらも漏らしながらその光景をただただ見つめるばかり。

思考もそのうち固まって、目の前にある事象をただ流れる景色のように捉えるようになって。



あぁ、もう駄目なのだな。よくわからないけれどもう俺は死ぬのかも知れない。

子供ながらに、ふとそんな諦めを抱いて。



後一歩。その程度の距離でそれの手が俺に届くという所で。

俺の視界に闇が広がり、意識もそれに引き摺られるように落ちていきました。



意識が無くなる直前。その最後に俺が見たもの。

紅い色の何かが、黒いものから俺を護るように踊り出てくるのがぼんやりと見えました。





……



温かな感触。柔らかで優しく、包み込まれているような感触。

自分の存在が許されている、自分があるべき場所にある、至福の中にあるという錯覚。

母の胎内にでも戻ったか、はたまた天国にでも召されたか。



その安寧の中で目をゆっくりと開ける。俺は愕然とする。

凍えるような暗闇。俺を囲み、凍てつく氷を突き立てるかの如く蔓延るは一寸先すら見通せぬ暗闇。

生まれる前に感じるのであろう、無間のような暗闇。

そしてその暗闇に、あの気配を感じる。あのどす黒い気配がこの闇に遍いている。



俺がその光景に恐怖を感じると、最初に感じたあの温かい感触がより強く、俺を包み込んだ。

首を捻って前を見る。この闇の中でもくっきりと浮かぶ、金紋様の紅い着物。





「怖がらないで」





そして囁かれる優しい声。あの女性の声。

俺は声を出そうとしましたが何故か声は出ず、ただじっと女性の目を見つめる形で固まってしまいました。





「大丈夫。大丈夫ですよ」





そっと、俺の頭を撫でてくれる。すると俺の中にあった闇に対する恐怖は露のように消えて。

俺は緊張感のほぐれからか少しまどろみ、無意識に女性の胸中に頭を埋めていました。







「ごめんなさい」





そう言って、女性は呟くように語りかけてきました。

ずっと一人で、誰とも話せず、あの場所にいた。あの子を何とか圧し留める為に自分はあの場所にいた。

あの子の力も弱まってもう来年頃には清める事が出来るはずだった。



そんな時に俺が来て、あの子に呑み込まれそうになっていた。

そして何とか助けてあげられたけれど、まさかその後自分を認識してくれるとは思わなかった。

嬉しかった。あんな風に人と話して、遊んで、楽しい時間を過ごせるなんて二度と無い事だと思っていた。

もう後は消えていくだけだとそう思っていたから。

はしゃいで、自分の役割も忘れてしまっていた。それがいけなかった。



あの子もずっと、俺の事を見ていた。

自分がいれば大丈夫だと思っていたけれど、あの子が最後の力を振り絞って俺を取り込もうとした。

でも、何とか間に合って俺はここにいる。







「ごめんなさい……」





最後に女性はそう言って、俺を力強く抱きしめてきました。

何か強い決心の籠った抱擁でした。意識が希薄になっていた俺でしたが、その抱擁に反応してほぼ無意識に抱きしめ返していました。

しかしそうして抱きしめ返したものの、その感触は絹のようにするりと抜けて。

俺を包む温かさは消え、女性は闇の中にぼうっと浮かんでいる。

消えかけていた意識はその不測の事態に完全に覚醒しまいました。

そして闇の中へ遠ざかっていく女性に必死で手を伸ばしました。





「大丈夫。絶対に、大丈夫ですよ」





女性はいつものあの眩しい笑顔を浮かべて、闇の中へと消えていく。

いくら手を伸ばしても、進もうとしても距離は縮まらず。

闇の中に女性の輪郭が溶けていく。存在が希薄になっていくのを感じる。

行かないで。必死にそう願っても女性の体は溶け行くのをやめず。

そうして女性の体が完全に消えてしまう瞬間に、俺の意識はぷつりと、無くなってしまいました。





……



人の気配。薄い布団の感触。湿気の籠った畳の臭い。

それらが覚醒し切らない俺に順々に押し寄せ、意識の覚醒を促す。

そして目を開けると、蛍光灯の明かりが見えました。次いで格子状の天井。

次いで俺を心配そうに囲む母と祖母と祖父、そして父。それから数人の大人。





「あっ、目を覚ました! 目を覚ましたよ!」





誰かが大声を出してドタドタと足音を立てながら部屋から出て行ってしまいました。

俺は鈍痛のする重たい頭を何とか起き上がらせました。すると間髪入れずに衝撃。

見ると母と父が俺を痛いくらいの強さで抱きしめているのでした。





「良かった、良かった……」





母は涙声で誰に言うでもなくそう呟いていました。父も同じように呟いていました。

が、俺はこの状況が全く飲み込めず。

先程まで、何かあの女性の夢を見ていたようなはずだったのに。

というか何時の間に父はやって来てきたのか。今は昼なのか夜なのかはたまた朝なのか。

一体何で母と父はこんな風に泣いているのか。一体全体何が起きているのか。

俺は抱きしめられて声が出しづらい状況になりながらも何とか声を出し、一体どうしたのと父と母に尋ねました。





「馬鹿! どうしたのじゃないでしょう!」





母は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらも俺を叱り飛ばしてきました。

そんな母を父はまぁまぁと宥め、俺にゆっくりと何があったのかを話してくれました。





あの祭りの日。母と祖母が家に帰ると俺がいなかった。慌てて家の近くを探すも何処にもいない。

他の家の人に俺がいなくなったと言って無理に探すのを手伝って貰い、海やら田圃の方やらを探すも全く見つからず。

陽も落ちかけてきた頃、祖母がもしかしたら俺は山の奥にある社の所に行ってしまったのではないかと言い出した。

捜索隊の人達は全員騒然となるも、その日は絶対にその社へは行ってはいけないという決まりになっているから

行くのは止そうという事になった。



が、そう言った類のものに信心の少ない母はそれが何だと言うのだ、そこに俺がいるなら行ってやると一蹴し、社に一人で行こうとした。

慌てて周りの人達が止めるも、もうとち狂ったかのように暴れる母を引きとめるのは至難の業で。

結局母は制止を振り切り、一人山の中へ。それを追おうにもこの状況と島の決まりとの相乗作用に皆慄いて、誰も山に入り込む事も出来ず。



母は一人山へ分け入り、昔の記憶を頼りに走り、何とかあの神社へ到着した。

参道を駆け、あの急な階段を登り、あの社と女性の住処がある場所に出た。

その場所を駆け回るも外にはいない。そうして目に着いたのが女性の住処の建物。

そこの扉を開けてみると、俺が玩具やらに囲まれながら寝息を立てていた。

あぁようやく見つけたと思ったが触ってみると酷く熱がある。それによく見れば足には何か黒い痣も。

これは大変だと、火事場の馬鹿力のような力で以って俺を一人で何とか担いで山を降りてきた。





「それから母さんはずっとお前の看病をしてくれていたんだ。寝る間も惜しんでな」





父がそう言うと、母は俺に対してまた馬鹿と言いました。

しかしすぐに表情を崩して「でも、本当に……無事で良かった」と泣きじゃくりながらまた俺を強く抱きしめました。





が、その時、俺は茫然としていました。だってその話は俺からしたらおかしいんです。

だって突然消えたのは皆の方なのに、俺がいなくなったという事になっているのはおかしいじゃないですか。



そんな風に不思議に思っていると、どすどすと大勢の足音が近づいてきました。

そして襖が開き、島の人達が部屋に流れこんできました。

医者らしき人がその群衆の中から分け入って俺の横に座り、熱やら足やらを観察していきました。





「うん、もう大丈夫だろうね。痣も無くなっているし、熱も無い。完全にとれたんだ」





医者がそう言うと島の人々は良かったねだとか、思い思いに喜びの言葉を口にしていました。





「ほら! 一緒に探して下さった皆に、お礼するんだよ!」





母が俺の背中を叩いて頭を下げるように言いました。





「あ、ありがとう、ございます……」





何が何やらわからない状態でしたが、とりあえず母に言われるがままにお礼を言いました。

島の人達は無事なら良いんだよと言って許してくれました。

それから色々と島の人達と会話をしましたが、病床から起きたばかりだから休ませた方が良いという理由ですぐに集まりはお開きになり、

島の人達は各々の家に帰って行きました。







「ねぇ、父さん。明後日来るんじゃなかったの?」





人がいなくなり、空気がようやく落ち着いた所で俺は父に尋ねました。





「何言ってるんだ。お前はずっと……あぁ、そうか。わからないよな。お前はこの三日間ずっと寝っぱなしだったんだ」



「三日?」



「あぁ。酷い熱を出して、ずっとさ。あ、それとな。父さんは母さんからお前が大変な事になってるから至急来てくれって連絡を貰って、

 それで、一日早くだけどこっちに来たんだ」





というと、もう二日前にはここに来ていたのか。いやそれよりも、三日も眠っていたというのは一体。

熱を出していたというが、頭の鈍痛はそのせいなのか。

全てがよくわからない。わからないと言えば、あの女性は何処に行ってしまったのか。

確か俺の意識が切れる前に見た最後の人はあの人だったはず。

あの人があの黒いものから護ってくれたはず。





「あ、ねぇ。お姉ちゃん見なかった?」



「お姉ちゃん?」



「ほら、えっと……」





父達に女性の特徴を説明しようとした時、気付きました。

あの女性の顔立ち。それが思い出せない。名前も何かで聞いたような気がするのに、全く思い出せない。

名前を言おうとする。でも口に出す事が出来ない。

喉の奥まで出かかっているのに、あと一歩のところで圧し留められる。

納得のいかないまどろっこしさ。一体どうしてしまったのか。

あれだけ一緒に遊んだのに。あんなに優しい人だったのに。





「どんな人だい?」





丘に上がった魚のように声を出さずに口を開けては締めを繰り返す俺を見かねたのか、横に座って見ていた祖母がずいっと近くに来て尋ねてきました。

しかし、説明しようにも顔も名前も思い出せない。

覚えているのは、燃えるような紅い着物を着て、綺麗で優しくて面白くて、温かい人だったという事だけ。

とにかく、紅い着物を着ている綺麗な人だったが見なかったかと言いましたが、父も、まだ泣いていた母も、祖母もそんな人は知らないと。

何度も何度も聞きましたが、結局誰もわからず。挙句には母がもしかしてその人がお前を誘拐したのか等と言い始めたました。





「そんなんじゃないよ!」



「じゃあ誰なんだいその人は! そんな着物着てる人、この島にはいないよ! 祭りの時も!」



「それは、その……あの神社の人だから……人のいる所には来ないって……」





俺がそう言うと、いつも目があまり開いていない祖母の目がカッと開かれ、

またずいとこちらに詰め寄ってきました。





「お前、あの神社に行っていたのかい?」



「え? あっ……そ、そうだけど……」





祖母はもう目玉が飛び出んばかりに目を見開いた後に、風船のしぼむが如くに長い息を吐き、うなだれてしまいました。





「そうか、だからか……だからお前はあれに目をつけられたんだね……。

 やはりあれはまだいたのか……」





祖母はぼそぼそと聞き取りづらい声量で呟くと、俺に向き直りました。





「そうだねぇ……もうお前のお母さんが産まれた頃から、とんとそんな話も聞かなくなり始めて、

 もういなくなったと思いこんでいたんだが……」



「ねぇちょっと母さん。あれって何よ」





何だかよくわからない話をし始めた祖母に母が詰め寄りました。

父も父で一体何の話をしているんですかと祖母に尋ねました。





「ほら。お前にはよく聞かせてたじゃないか。あの神社には近寄っちゃいけないっていう話さ」



「あそこには悪い神様がいるっていう話でしょ? 肝試しに小さい頃行ったけど、別に気味悪いなってだけで

 何も無かったわよ。まぁ、それで凄く怒られたからもう行かなかったけど」



「いたんじゃよ、まだあれは。だからこうして攫われた」



「悪い神様が攫ったって言うの? じゃあ私の時だってそういう事があってもおかしくないじゃない」



「この子は死んでいる人が見えるじゃないか。恐らく、この子があれを見て、あっちも気付いて興味を持ったか……」





初めて社を見た時の事を思い出す。社の内側は、確かに尋常の影という黒さでは無かった。

恐らくあの時、目が合っていたのかも知れない。







「馬鹿馬鹿しい……」



「馬鹿馬鹿しくあるものか。現にこんな事になったんじゃから」





祖母がそう言うと母は何も言えなくなってしまいました。





「それで、その人は……紅い着物の人は、何処で遭ったんだい?」



「えっと……その神社で」



「ふむ……」





祖母はしばらく黙り込んで、何か考え込んでいました。





「それは……お前の遭った人は、巫女さんの方かも知れんね」



「あ、うん!」



「そうかい……」





また黙考。そして、大きく溜息。





「そうだね。もう言われていた期限はとうに終わっていたし、もう大丈夫だと思ってはいたが……。

 ちゃんと話しておけば良かったかも知れないねぇ」



「何を?」



「この島の昔話さ」





祖母はまた深く息を吐き、念仏でも唱えるかのような口調でこの島の昔話をし始めました。





……



昔、この島は大層栄えていた。この島にある神社を代々管理する家系のおかげじゃ。

他の島民達には霊感等という力は全く無かったが、その方達はとても強い霊力を持っていてな。

その人達の神様へのお祈りのおかげで、これまで本州で飢饉や疫病が流行った時でも、

島民達は平穏無事に暮らす事が出来た。島民達はそれはそれは神主さん達の事を敬った。



そんで、江戸時代の後期に。今から大体百五十年程は前かの。

その頃に、その神主さん達の代々続く家系の中で一番力を持つであろうとされた女性がいた。

幸運をもたらす現人神様なんて言われたくらいだったそうじゃ。

それに、何をやらせても何でも出来て、綺麗で、人当たりの良い、それはもう聖人様だったそうな。

その人のおかげで島は益々豊かになっていった。



しかし、ある年。一人の子供が産まれた。

母親が死にながらも産んだその子は、最初は至って普通の子に見えた。

しかし、その子が産まれてから一年おきに、その子の兄弟が一人ずつ死んでいった。

誤って岩場から頭から落ちたとか、突然倒れてきた木の下敷きになっただとか、随分不運な死に方をしていったそうな。



そして、一生懸命に最後に残った子供を大事に育てようと生きていた父親まで死んだ年。

その子供は親戚の漁師の家に預けられたが、その日から妙な事が起こり始めた。

その家の者達が突然疫病にかかり、ころりころりと死んで行ってしまった。

預けられた家の家族も、少し離れた場所に住んでいるはずの漁師達もころりころりと。



いよいよもってその子供は何処かおかしいのではないかと囁かれるようになった。

あれは災厄をもたらす子供なのではないかと島中で噂が立った。

まだその子には親戚がいたが、その親戚は引き取ろうとはしなかった。



しかし、そんな折。あの巫女様がその子供を預かろうとおっしゃった。

島民達は反対した。この子供は絶対に危険だ。忌むべき子供だと訴えた。



巫女様はそれでも引き受けるとおっしゃった。

実は、巫女様はこの子が産まれた時から、何か嫌な事が起こると感づいていらっしゃったが、

まだ産まれて間もない子供をどうにかするような事はしたくないから放っておいた。

しかし、これ程までになった以上は責任をとらねばならない。

自分がこの子を引き受けて、何も無いようにしっかりと育てるから安心して下さい、と島民に訴えた。

島民達は尊敬する巫女様がそう言うのであればと、一旦は引き下がったらしい。





しかし、それから数カ月経った夏。朝目覚めて、百姓連中が外に出て田圃の様子を見ると目を疑った。

つい昨日まで順調に育っていた作物が一斉に枯れていたんじゃ。

どの家も、どの田圃も全滅という有様じゃ。

そして蓄えていた食糧もいつの間にか腐ってもはや食べられなくなり、貯めてあった水も井戸も腐り、河も不自然に干上がった。



漁師達は死に、作物も無くなった。元々動物なんかも少なかった島じゃ、狩りも出来ない。

流通をしていた者達も島の噂を聞いてこのところ全く来ていない。

島民達は飢えた。飢饉という恐ろしいものがその島を襲った。

夏の熱の中で、水も飲めず食べ物も口に出来ない状態で三日と経たずに死人が出た。



島民達は巫女様の所へ行き、どうしてこんな事が起きているのかと尋ねた。

巫女様は黙っておった。あの子供のせいじゃないのかと誰かが尋ねた。

それでも巫女様は黙っておった。



業を煮やした島民達は巫女様の制止も振り切って、あの子供を奪って、殺してしまった。

腕や脚、指の一本に至るまで折り、火をつけて殺すという随分惨たらしい殺し方をしたそうじゃ。

巫女様は大層お悲しみになったそうじゃが、それからあっという間に、それまで起きていた

不幸な事が無くなって、飢饉も何とか凌げるようになったそうじゃ。



数年の間、これまで通りの日々が続いた。

今まで通りに、島民達は幸せに暮らしておった。





じゃが、ある日。山の中で全身が焼けただれたように真っ黒になった死体が見つかったんじゃ。

その死んだ人間は、巫女様から子供を奪った人間じゃった。

それからすぐに山の中で同じような死体が次々に見つかった。

あの子供の骨を折り、火をつけた人間達じゃった。



島民達は恐れ慄いた。巫女様にこれはあの子供の祟りなのかと尋ねた。

巫女様は頷いた。あの子はもう悪霊か、性質の悪い神様のようなものになってしまっているとおっしゃった。

災厄を振りまかないようにこの数年はおし留めていたが、もう自分の力でも恐らく止める事は出来ないだろう。

そしてこれからもあの子はこの島に怨念を振らせ続けるだろう、ともおっしゃった。



島民達は絶望した。またあのような飢饉や、それを超えるような事が起きるのかと。

しかし、巫女様は一つだけ方法があるとおっしゃった。

まずあの子を祀る社を建てろと、御霊として祀るのだとおっしゃった。

島民達はすぐに総出で社の建築にかかった。その間にも、何人かの島民が不自然な死を遂げた。



死人が出る中、社が完成した。島民達は歓喜したが、巫女様はどうにも暗い顔をしていらした。

島民達はこれで祟りは治まるのかと尋ねた。巫女様は横に首を振った。

それでもまだ足りない。霊力の強いものを人柱、要は生贄として共に納め、留めなくてはならないとおっしゃった。

島民達は顔を見合わせた。そんな霊力の強い者はこの島に巫女様をおいて誰もいない。

島民達はそれから、何も言えず、ただじっと巫女様を見つめていた。



明るかったはずの巫女様は暗い顔をしておった。つまり、そういう事じゃった。

自分が柱にならなければ、どうやってもあの子を止める事は出来ない。





巫女様はこうもおっしゃった。自分はとても幸運に産まれた。そこに、とても不運な子供が産まれた。

あの子は調和を取る為にと神様が遣わせたに違いない。自分にしか止められないのだろうと。

そうして、巫女様が眠る為の社も早急に建てられた。



巫女様が柱となる直前にこうおっしゃった。

向こう百年程はこの場所に近づいてはならない。

近づけば自分の力をもってしても、近づいた者の命は保証出来かねると。

そしてあの子の力が強まるであろうあの子の命日には、あの子が近づけぬように家の周囲を明かりで満たし、

夜は出歩かないようにし、明るいうちに島の大人全員であの子を祀る神棚に祈りを捧げるようにと。



島民達は頷いた。そして、巫女様は柱となった。

島民達は嘆き悲しんだ。そして向こう百年、あの怨霊に立ち向かわねばならない巫女様の為に、

せめてもの手慰みになればと、沢山の玩具などを供えたそうじゃ。



島民達は決まりを守り、社には近づかなかった。

夏の指定された日にはしっかりとお祈りを捧げ、夜は明かりを灯して出歩かなかった。





……





「それから、もう百五十年。今でも、一応祭りの伝統は残っておったが、もう言われた年数から五十年も過ぎておった。

 ワシが若い時分までは見たという話があったが、その程度じゃった。お前のお母さんが肝試しに行っても別に祟られなかった。

 そしてもう最近は見たという話もとんと聞かない。ワシらももう気にする事はないだろうと、油断しておったが……」





祖母は長い話を話し終わり、長い長い溜息をつきました。





「どうやら、巫女様の算段は外れておったようじゃのう。あれはまだ残っておった。

 そして最後の力を振り絞って、霊感の強いお前に憑りつこうとでもしたか……」



「じゃあ、あの黒いのが……」



「やっぱり見たんだね」



「うん……あの神社に初めて行った時に多分、見た」





そして、目をつけられた。





「何でそんなものを見たのに、ずっとあの神社に行ってたのよ!」





母が叫ぶ。





「いや、だって……お姉ちゃんがいれば、全然平気だったし……お姉ちゃんと、遊びたかったから」



「だから、そのお姉ちゃんってのは……」



「そのお姉ちゃんは、巫女様の事じゃろうて」





祖母の話を聞いている間に、薄々気付いてはいましたがやはりそうだったのかと。

あの人は祖母の言う巫女様だったんでしょう。

死んでいるのに死んでいるとも感じさせない程、活き活きとした人だったのもそういう力があったからなのかなと、

その時はぼんやりと思いを巡らせていました。





「うん。きっとそうだと思う。お姉ちゃんの住んでる所、いっぱい玩具あったし」



「それで、一緒に遊んで気にいって貰えて、あの悪いものからも守ってくれたんじゃろう」



「うん……」





俺が頷くと、祖母は俺の肩にそっと手を置いてくれました。





「良かったのう。じゃが、どうして巫女様はお前の事を気に入ったんじゃろうなぁ」



「それは……」





ふと、夢の内容を思い出す。普通ならすぐ忘れる夢の内容だったけれど、何故か忘れる事は出来なかった。

多分、お姉ちゃんの最後の言葉だから、頭の中に刻み込まなきゃと思ったのかも知れない。



お姉ちゃんはきっとと言うかやっぱり、寂しかったのだと思う。

祖母の話とお姉ちゃんの遺した言葉を考えれば、あの陰鬱な黒いものを圧し留めなければならなかったから、

あの人は百年以上も一人だった訳で。

その為に誰も近づけず、近付いたとしても死んでいる人だから誰にも気付いて貰えず。

だからずっと一人で、お手玉も、舞も、双六もやっていたんだ。

だから――。





「多分、寂しかったからだと、思う」







……





「それからお医者さんらしき人に診て貰って大丈夫のお墨付きを貰って、俺は何とか一命を取り留めた……という具合です」





長い長い話が終わった。俺は大きく息を吐いて、冷め切ったお茶を飲み干す。





「ほぉ……凄い、ですねぇ」





千川さんは嘆息の息を漏らし、何かうっとりとしていた。





「まぁ、そんな感じです。よくある話なのかも知れませんけど」



「よくある話じゃないでしょう。そんな経験よくしてたら世の中大変ですよ」



「まぁ……そうですかね」



「はぁ……しかし、凄いですねぇ。生きている時は現人神と呼ばれた程の力を持った守護霊に守られ、悪霊の魔の手から逃げ切った……。

 凄いじゃないですか。伝説ですよ伝説」



「いや守護霊とは誰も言ってないんですが……」



「で、その後は?」





千川さんがまだまだ興味津津と目を輝かせながら身を乗り出してきた。









「いや、その後は……まぁ、ちょっと家から抜けだして、あの神社に行ったりもしましたよ」



「おぉ! それで、どうでしたか?」



「何も感じませんでした。嫌な気配も、あの人の温かい気配も、神聖さも何も」



「あら……うーん、どちらも消えてしまった、という事ですかね?」



「多分、そうだとは思いますけど……きっとあの頃から既に霊感とか無くなってたから、感じなくなっただけかも知れません」



「じゃあ、もしかしたらあの人はまだいて、もう自分を感じる事も出来なくなってしまったプロデューサーさんの姿を、

 ただ草葉の陰から見る事しか出来なかった……あぁ二人の想いはもう交わる事の無い……」





何か勝手に一人で浪じ始めた。





「千川さん」



「……あ、はい? 何でしょうか」



「浪じてるところ悪いんですがね、一応話はこれで終わりなんですよ。どうでしたか?」



「え、あ、はい。そうですねぇ……とっても、良かったと思います」





満面の笑みで千川さんは言う。



「そうですか」



「怖い話……というか、確かに怖い所もありましたけど、私は……とっても良い話だったと思います」



「良い話?」



「えぇ。だってそうじゃないですか。その女性は、百年以上も一人ぼっちでいたんでしょう?

 もし私がそんな長く一人でいたら発狂しちゃいますよ。というか、皆きっとそうですよ」



「それは、確かに」



「だからプロデューサーさんはその女性に助けられはしましたけど、それと同時に、救ってもいたと思うんです。

 その人を見つけて、一緒に遊んで……とっても、救われたと思いますよ」



「そう、ですか?」



「はい。私はそう思いますよ」





笑顔を浮かべて千川さんは言う。

あの人は救われていると言ってくれる。そう言われると、俺も何だか嬉しくなる。

俺は何だか感極まって少し泣きそうになってしまった。







「でも、その女性と悪霊はどうなったんでしょうねぇ」



「え?」



「いやだって、気になるじゃないですか。あの悪霊の身代わりになって、女性だけが消えたのか。

 両方とも消えてしまったのか。はたまた女性だけが残っているのか」



「あぁ……それは多分、どっちも消えちゃったんだと思います」



「あら、どうしてですか?」



「いや、何か根拠とかそういうのがある訳じゃないんですけど……ただ、そうなんじゃないかなって思うんです。

 だって、この時の記憶、今になってもどの部分も忘れられないんですよ。祖母が話してくれた昔話も、

 あの人と何で遊んだかも、細かい事すら覚えているんです」



「ほう……」



「だから、その……もういなくなるから、思い出忘れないで欲しいと思って、あの人が遺したんじゃないかなって……、

 俺は、そう思ってます。自惚れた考えかも知れないですけど」



「あぁ……そうかも知れませんね」





千川さんは頷く。





「だから、あの人は消えちゃったんだと思います。そして、悪霊と呼ばれた霊も。

 きっとあの人が一緒に連れていっちゃったんじゃないですかね。その、天国って言われる場所に」



「ふふ……そうですね。それが一番ロマンチックですね」





千川さんが嬉しそうに笑う。





「もしくは、生まれ変わって何処ぞで楽しく暮らしてるかも知れませんね。

 あの悪霊って呼ばれた子と姉妹にでもなってたりして」



「あー、それも良いですねぇ。二人で仲良く暮らして、きっと二人とも幸せで……良いですね」





そうして、二人でしばらくあの人がこうなっていたら良いな、なんていう話を続けていた。

それからふと今まで自分達は何をしていたのかを思い出し、時計を見るともう二時になろうかという頃合い。

二人して驚愕と絶望を目に浮かべて見合わせて、その後書類の濁流に飲み込まれ、朝日と共に業務終了となったのは言うまでも無かった。





……





「さぁー、次のお仕事に行きましょー」



「はい」





そして、また相も変わらぬ仕事の日々。

茄子さんと共に収録や宣伝活動に赴く。忙しくもあり充実もしている時間だ。



しかし、こうして彼女と共に仕事をしている時。ふと、激しいデジャヴに襲われる時がある。

茄子さんが笑う時、喋る時、隠し芸を見せてくれる時、そして紅い着物を着て仕事に臨んでいた時。

その折々の光景に、郷愁が胸にわだかまる。

正月にお手玉を軽く見せてくれた時なんかは動悸を覚えるくらいのデジャヴが襲った。



そしてこの間千川さんにあの時の話をしている時に、俺を救ってくれたお姉ちゃん、あの女性の顔が、

何やら茄子さんの顔、表情で頭の中で再生されたのだ。



正直、茄子さんにあの人の面影を感じる事はあったは何度かあった。

ただこの間千川さんにあの時の話をしてからそれが強くなって来ていた。

もう錯覚等では誤魔化しきれない程に激しい懐かしさに襲われるようになってしまった。



一体どういう事なのだろう。もしかして、茄子さんがあの人の生まれ変わりだとでも言うのだろうか?

いや、そんな事があり得るのか。でも茄子さんもかなり幸運な体質だし、もしかしたら。

そんな考えがぐるぐると。





「あの〜……」





物思いに耽っていると、突然茄子さんが俺の顔を覗き込んできた。





「あ、はい。何ですか?」



「先程からずっと何か考え事をしているようでしたから……」



「あぁ。いえ、何でもありませんよ。考え事と言ってもちょっとした事です」



「それにしては、とても思いつめたような顔でしたけど……本当に大丈夫ですか?」



「大丈夫です。ちょっと昔の事を思い出してただけですから」



「昔の事?」





茄子さんが目を丸くして、首を傾げる。一々挙動が愛らしいのは相変わらずだ。





「えぇ。まぁ、子供の頃の事です」



「子供の頃、ですか」



「はい」



「ふふっ、そうですか〜」





茄子さんは何が嬉しいのやら満面の笑みを浮かべる。そしてその笑顔にまた胸に懐かしさが蘇る。

狂おしい程の感覚。彼女を見ているだけで、胸が詰まってしまう。





「茄子さん……」





そして喉の奥から勝手に飛び出るかのように思わず、彼女の名前を呼んでしまった。





「はい〜、何でしょう〜?」



「あ、いえ……その……」





また愛くるしい笑顔で彼女は見つめている。

あどけなくもあり、それでいて女性の包容力も兼ね備えた瞳で彼女は俺を見つめる。

こういう無垢な瞳で見つめられると、隠し事という程のものではないが、彼女に何か伝えられないでいる自分が恥ずかしく思えてくる。







「えっと、まぁ何と言うか……変な事をこれから聞きますけど、その、怒らないで下さいね」





先程よりちょっとだけ深刻そうな表情になって、少し間を置いてから彼女は「はい」と頷いた。





「その……俺と茄子さんって、だいぶ前に会った事ってありますか?」





少しぼかしながら恐る恐る尋ねる。

彼女はきょとんとした表情で固まってしまった。





「あ、いやその、初めて遭った時、貴女をスカウトした時以前にっていう話なんですけど……。

 心当たりとか、無いですかね?」





俺は取り繕うように早口でそう付け加えた。だが茄子さんの表情はまだ変わらず。

沈黙が流れる。何かマズイ事でも聞いてしまったか。

俺はあーだとかそのーだとか、間抜けな声を発して彼女の返事を待っていた。

そうして突然、茄子さんはぷっ、と吹き出し笑いをした。





「え、ど、どうしたんですか茄子さん」



「あ、ごめんなさい。凄く深刻そうな顔で、何を聞かれるのかなーと思っていたら、

 そういう事だったのかと」



「あぁ……すいません。いや、前に何処かで見たような気がするなと思って、つい……」



「ふふっ、そうですか〜」





茄子さんは微笑みを浮かべてしげしげと俺を見つめてくる。







「な、何ですか?」



「Pさんは私と初めて会った時の事、覚えてますか?」



「え?」





唐突に何を聞くのだろう。





「いや、覚えてますよそりゃ。三年前に街で貴女を見かけて……」





そうして声をかけて、アイドルになってみませんかと単刀直入に切り出した。

俺は街で見かけた子をスカウトする、なんて事はしない玉だった。

しかし、俺は彼女と街ですれ違っただけで、彼女をふと見ただけでどうにかしなければという強迫的な意志に狩られた。

そして声をかけ、スカウトした。彼女は断らないだろうとも思っていた。そこに何か一種の確信めいたものがあったからだ。





「それからPさんが私にアイドルになりませんかーって。それが、Pさんとの出会いでしたね」



「はい。それで、茄子さんはすぐにOKくれましたよね。でもあの時、胡散臭そうとか思わなかったんですか?」



「そうですねー。Pさん以外にも何度か声をかけて貰いましたけど、その時はそう思って御断りをしていました」



「じゃあ、何で俺だけ?」



「それはですねー……Pさんは何だか、信頼できそうだなって思ったからです」



「一目見ただけでそう思ったんですか?」



「はい〜。私、人を見る目はありますから〜」



「そ、そうですか」





何と言うか、彼女が言うと確かにそうなのだろうなと納得してしまう。





「それに……」





すっと、真正面に俺を見定めて彼女は神妙に、それでいて朗らかに言う。





「あの時Pさんを見た時、不思議ととっても懐かしいなって、思ったんです」



「えっ……」





胸が跳ねた。一瞬、時が止まったとさえ感じるような言葉の衝撃。

そしてその一瞬、あの人の、お姉ちゃんと呼んだあの人の輪郭と茄子さんの輪郭とが、完全に繋がったように見えた。





「だから、Pさんと一緒なら、そういう事をしても良いかなって思ったんです」





おかしいですか、と茄子さんは八の字眉で問う。

だが俺はまだ衝撃から立ち直れないで気の抜けた声で「いえ」と返すばかりだった。





「そのおかげで運だとかそういうものだけじゃない世界を体験出来て、

 充実して、Pさんが一緒にいてくれる生活が出来て……。

 Pさんにまた見つけて貰って、私、今もとても幸せです」





はにかみながら彼女は言い、最後に照れ臭そうに彼女は自分の髪を撫でた。

俺は呆けたままだったが何だか照れ臭くて、まともに彼女の方を見れなかった。





「ふふっ、何だか変な事言っちゃいましたね」



「いや別に変だなんて……」



「あら、そろそろレッスンの時間ですね。それでは行ってきます」



「え? あ、もうそんな時間だったんですか。すみません足止めしちゃって」



「ふふっ、大丈夫ですよ〜」





今の言葉に何故か胸を突かれた。が、顔には出さないように踏ん張る。







「それでは、行ってきますね」



「はい。行ってらっしゃい」



「あ、そういえばPさん。今日は一緒に帰れそうですか?」



「今日ですか? 今日は……多分、大丈夫だと思います」



「そうですか〜。それじゃあ、一緒に帰りましょうね」



「えぇ」





そうして茄子さんは手を振って、レッスン場へと向かう為にエレベーターに乗って階下へと降りて行った。



結局、核心まで聞く事は出来なかった。でもそれで良いかなと思った。

彼女はあの人の生まれ変わりなのかも知れない。

優しい包容力のある女性だけれど、何故だか目を離したくないと思ってしまうような不思議な女性。

あの人と同じだ。だから、きっとそうだと思う。でももしかしたら俺の思い違いかも知れない。

ただどの道、彼女にそれを問うのは何だか野暮な気がした。

俺は彼女が去って行った方をぼうっと見つめながら、大きく息を吐いた。





「ん?」





今頃になって、何かが引っ掛かった。

彼女との会話の中で、何かおかしな点があったような気がする。

何か彼女らしからぬ言葉を言っていたような気がする。

呆けていた頭を回転させ、今の会話を思い返す。そうして、見つけた。





「……また、見つけて?」





その一節。また? いつ彼女を、何処で、見つけたのか。見つけるというには最初に会った一度目だけで、または無いのではないか。

色々と考えたが行き付く結論は一つだった。その瞬間、毛が逆立ち、瞳孔や血管が広がって行くのを感じた。





「……やっぱり」





俺は駆け出していた。あの人を追う為に。

あの遠い夏の出来事を追う為に。





17:30│鷹富士茄子 
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