2016年08月24日
モバP「一ノ瀬志希のギフト」
キミはさ、あたしと死んでみる気、ある?
一ノ瀬は不敵に口角を上げた。差し出してきた右手には、透明な液体のゆらゆら揺れる試験管。
応えを求めるように、彼女は首を傾げた。見透かされている気がする。
一ノ瀬は不敵に口角を上げた。差し出してきた右手には、透明な液体のゆらゆら揺れる試験管。
応えを求めるように、彼女は首を傾げた。見透かされている気がする。
ならば言葉は不要だ。
きっと、どんな言葉も空虚になるから。
無言で試験管を受け取り、一息に呷る。無味無臭。
なんともない。いつもの冗談か。そう断定しようとして、次第に意識が重くなる実感を持つ。
落ちていく瞼。思考がもたつく。硬い床に腰を下ろす。座っていられない。横たわる。
意識が途絶える間近、捉えたのは俺を見下ろす一ノ瀬の顔。
彼女の穏やかな表情に安堵する。ああ、こんな俺でも期待に応えられたのならいいや。
不思議と、とても幸せな気分だった。
◇
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寒さに目を覚ました。
頭が重い。身体も重い。
視界に広がるのは退廃的な部屋。薄暗い。ゴミがそこらに転がっていて、その大半はピザの空き箱。一ノ瀬の部屋だ。
記憶があやふやだった。どうして俺はこの部屋で寝ているのだろうか。
昨日(たぶん)はプロデューサーとしての最後の仕事だった。一ノ瀬を送り届けて、すべての業務を終えたはず。
そのあと、一ノ瀬に部屋へ上がるよう促されて……。
……ああ、思い出した。得体の知れない液体を飲み干して。そうか、俺は死ななかったのか。寒さに生への実感を覚える。
落胆と安堵。そして疑問。昨日、どうして一ノ瀬はあんなことをした?
見透かされていたのかもしれない。あり得る話だ。面倒になりそうだったので辞めることは伝えていなかった。
気づいてる素振りなんて見せなかったが、俺が思う以上にあいつは演技派らしい。
元プロデューサーとしては喜ばしい限り。
今となっては厄介極まるが。
と、違和感。
胸元まで掛けられた毛布。どう見ても、ひとり分膨らんでいる。それに、よく見ると俺は上半身裸。
気づくと敏感になる。胸にかかる微かな吐息。背中に回された手。
嫌な想像が過る。俺はなにを盛られた?
「すやぁ」
「おい、お前起きてるだろ」
毛布をめくる。一ノ瀬は胸のなかでにやっと悪意的な笑みを浮かべた。幸いに、彼女は緑のタンクトップを着ていた。
「にゃははー、バレたかー。んん、いい香り。おやすみー」
「まてまて寝るな、説明しろ」
「説明するのは、キミだと思うけどな」
真っ直ぐ向けられた瞳。吸い込まれる錯覚。彼女の寝癖で波打った髪が素肌にくすぐったい。女性特有の柔らかい香りに脳が痺れる。
抵抗する気力は起きなかった。疲れているのかもしれない。
「……プロダクションを辞めた。もういいだろ、退いてくれ」
「それは無理な相談なのだー。むーりー。勝手にいなくなるな、キミは言ったよね。だからあたしも、キミがいなくなるのを赦さなーい」
「馬鹿を言うなよ。俺とお前はもう他人なんだ。束縛される理由もする理由もない」
悪意的な言葉。自分でも嫌になる。一ノ瀬は意に介さず、楽しそうに頬を俺の胸に擦り付けていた。
矮小さを浮き彫りにされている気がして自己嫌悪。
「どうやらキミという存在は、あたしにとっての触媒みたい!」
「知らねえよ。……なあ、帰してくれよ。もう疲れたんだよ」
才能を見せつけられることも。自分の無力さを実感することも。醜い感情と向き合うことも。
俺の気なんて知らない一ノ瀬は、あっけらかんと言う。
「あたしはまだアイドル辞める気ないんだよねー。だから、触媒のキミにいなくなられると困るってゆー」
「あのな、俺はもう一般人なんだよ。辞めたの……後の祭りだ。悪いけどどうしようもない」
「先のこと決まってるの?」
「……いや、まだだけど」
「じゃあ、あたしが養ってあげよー! 雇ってあげよー!」
馬乗りになられる俺。見上げる光景はとても卑猥。一ノ瀬はぺちぺちと俺の胸を叩いた。
「キミは飲んだよね。あたしと一緒に死ぬ気あるんでしょ? だったらキミを貰ってもよくない?」
暴論だ。脈絡がない。それなのに思考は、それでもいいかな、なんて結論を出そうとしやがる。
どうにも浮ついて、頭はうまく回らない。
「キミはここで暮らしながらあたしをプロデュースする。あたしはキミのお世話をする。ギブアンドテイク。完璧だね!」
俺は仕事が嫌になったわけではない。一ノ瀬から離れたくなったのだ。つまり、前提からして間違えている。
もちろん、この才女はその可能性にも行き当たっているようで。
「ちなみにー、拒否すると、コレ」
床に転がっていたスマートフォンをちょろっと操作し、こちらに画面を向けてくる。半裸の男女が同じ毛布に包まれていた。
耄碌していなければ、それは俺と一ノ瀬だった。
「キミの住所と共に各所へ飛びます」
完璧だ。完璧な脅しだ。ここに「パワハラで……」なんてスパイスを加えれば、死んだほうがマシな展開を迎えるだろう。
「…………」
選択肢も拒否権もなかった。
沈黙はときに肯定を示す。
一ノ瀬はにゃははー! と満足そうに笑った。
「キミはなーんにも心配しなくていいよ? あたしといればノープロブレム。怠惰と退廃の日々は甘美な響きを持つー。まあ、泥舟だけどね」
ふたりで沈むのも悪くないよねー。そう言って再び俺の胸に顔を埋める一ノ瀬。俺は抵抗せず、されるがまま。
こいつは俺の扱いを心得ている。無理をしてまで抵抗しないことを知っている。
すぐに諦めてしまうことも。
そして、そんな日々を楽しんできたことを、一ノ瀬は知っているのだ。
問題はすべて俺の裡にある。罪悪感とか劣等感とか、無力感や悪感情。全部、全部。一方的な心の反応。
いつしか楽しめなくなった日々を、一ノ瀬は取り戻そうとしているのかもしれない。
誰のために?
俺のために。
一ノ瀬のために。
凡人の俺に、彼女の思考は掴めない。初めから造りが違うから。
だから考えるだけ無駄なのだ。そう思い込むことにした。
こうして、奇妙な共同生活は始まった。
◇
「あたしにもデキると思うな!」
夢を見た。あるいは走馬灯。
いずれにしても、追憶に居座る一ノ瀬志希の記録。
一ノ瀬との出会いは一年前、ロケ先での出来事だった。話題のスイーツを紹介していく番組の収録中、彼女はふらっとカメラへ映り込もうとした。
あまりに自然な足取りだったから、誰も一ノ瀬がなにをしているのか気づかない様子で。当時、研修最終日だった俺は慌てて彼女の肩を掴んだ。
「キミ、面白い匂いだねー! いい人の香りがするー」
すると彼女ははすはすと鼻を鳴らし、俺の匂いを嗅ぐ。それから質問責め。この収録はなにをしているのか、俺は何者なのか。とか。
そんな様子を眺めていた先輩は、悪戯な笑みをたたえて一ノ瀬をスカウトした。なにぶん容姿は良かったから、冗談と本心半々といったところだったのだろう。
こうして一ノ瀬はアイドルとなった。そして、同時に俺は研修を終えて、プロデューサーに。
どうやら一ノ瀬が俺を指名したらしい。普通、こんな意見は通るわけないのだが、タイミングの合致により認められた。
悪夢の始まりだった。
「あたしはギフテッドなんだってー。ギフテッド、つまりはジーニアス。アイドルの才能もあるのかもねー」
初めは一笑に付した。しかし、レッスンを受けさせて、彼女の言葉は現実味を帯びた。
一ノ瀬はあらゆるレッスンをこなしていった。問題は体力と集中力だけ。
手を替え品を替え。飽きさせないようレッスンのプログラムを分解し、小分けにして組み合わせを変えた。
規則性を失ったプログラムは支離滅裂だ。
それなのに三ヶ月も経てば、ばらばらだったパーツは組み上がり、ダンスも歌も本来のレッスン以上の効果をもたらした。
この頃はまだ、とんでもない逸材だ、なんてレッスン内容を嬉々として考えたものだ。こいつは天才だ、と。
でも、順風満帆には進まない。
華々しいデビューを迎えて数ヶ月後のある日。先輩の担当アイドルが持つ、レギュラー番組に出演したときのことだった。
リハーサルの隙間、ちょっとした休憩時間に、一ノ瀬は失踪した。
失踪自体は珍しくなかった。ただ、三十分経っても戻ってこない状況は初めてだった。
結局、一時間の捜索の末、屋上の貯水タンクの裏に隠れた一ノ瀬を発見。息を切らして梯子を登ると、彼女はなんでもなく笑って見せた。
「にゃはは、見つかったかー。さすがプロデューサー!」
「お、お前……なにしてんだよ。……どんだけ捜したと思ってる」
「いなくなっても心配いらなーい。ただの失踪だから」
「ふざけんなよ」
「仕事ー? ごめんごめん、謝るからさー。大丈夫だよ、演技のレッスンも受けたからねー」
「仕事なんてどうでもいい! いや、よくないけど……今はいい。勝手にいなくなるんじゃねえよ! お前がなんて言っても心配なものは心配なんだよ」
目をぱちくりさせてから、急に腹を抱えて笑いだす一ノ瀬。こいつがなにを考えているのか、俺には皆目見当がつかない。
「なにがおかしい」
「キミ、怒るとこおかしいって自覚してる?」
「あのな、お前の担当になった時点で多少のことは覚悟してんだよ。いいよ、いくらでも頭は下げてやるよ。でも、お前になにかあったら頭を下げても意味ないんだよ」
きょとんとしたのもつかの間、
「……参っちゃうなー。あたしの調子を狂わすなんてキミ、ただ者じゃないね」
照れくさそうに頬を掻く一ノ瀬。
口裏合わせをしてスタオジに戻り、ふたりして土下座した。みんな怒るよりも心配していて、和やかに許してくれた。
それ以来、一ノ瀬は急に失踪することも、仕事場でふざけることもしなくなった。元々才能に恵まれた彼女はとんとん拍子で人気を得ていく。
同時に、俺は無力感に打ち拉がれた。俺がなにをするよりも、一ノ瀬に任せたほうが上手くいくから。
俺がいなくても、彼女は上手くやれるから。
一ノ瀬と過ごす時間が長くなるに連れ、暗い感情が湧いていく。遅効性の毒は次第に身体を蝕む。
辛かった。疲れていた。思考の片隅になんども浮かぶ悪意。
振り払って振り払って、振り払えない気持ちにどうしようもなくなった。
一ノ瀬を知れば知るほど、毒は進行していった。
初めはちょっと変わっているだけと考えていたが、どうやらそうではないと気づき俺はすべてを諦めた。
一ノ瀬は天才だ。それも本物の。
クオリアの問題は誰にだって起こり得る。ただ、人の感覚は類似性を示している。一般生活においては感覚器官によほどの異常がない限り、さほど問題にはならない。
だけど、一ノ瀬は根本から違うのだ。脳の造りからして違う。散々振り回された彼女の行動も、本人してみれば至って普通のことなのだ。
だから、俺は諦めた。理解が及ばない存在として、彼女を昇華した。
そうしないと一ノ瀬を嫌いになりそうだったから。
わかっている。彼女にだってどうしようもないことを。
「ギフトって残酷だよねー。受け取ったつもりはないのに、いつの間にか枕元にあって捨てられもしないんだから」
一秒で解ける問題を、いつまでも目の前に提示され続けている状況なのだ。しかも周囲の人間はそれを必死になって解いている。
逃げ出したくもなるだろう。
でも、逆だってそうだ。俺は絶対に解けない問題を提示され続けている状況なのだ。
だから逃げ出した。辞表を提出したのは一ヶ月前。一ノ瀬が仕事で大成功を収めた日だった。
◇
「だから、火が強いって」
「えー、一気にやっちゃおうよ。こう、ぼって!」
「お前はこの炭化した食材の数々が見えないのか?」
「タバスコかければいけるってー」
?を膨らませる一ノ瀬。それでも不承不承といったふうにフライパンを眺めていた。先を思いやられる。
数日一緒に過ごして、改めて痛感した。想像以上に一ノ瀬は生活能力が皆無だ。どうやって一人暮らしをしてきたのか疑問になるほどに。
唯一、洗濯だけはできるようだが、それだって高機能な洗濯機のおかげであって、一ノ瀬の能力ではない。
台所は実験台になっていた。部屋にはピザの空き箱とファストフードの包装紙、コンビニ弁当の空き容器ばかり。
そもそも食器はほとんどない。家具家電も少ない。生活感の少ない部屋は、生活している感覚がないからか。
単純に興味がないからか。
彼女にとってこの部屋は実験室のひとつ、あるいは眠るためにあるのかもしれない。
「とうっ! どうだ! できたー!」
一ノ瀬は大仰な掛け声とともに、オムレツを皿に移す。ふっくらしていて美味しそうだ。
「おっ、いい感じ」
「食べよ食べよー」
彼女は新しい事柄に対して興味を持った。化学分野に才能を開花させた彼女らしいと言える。
逆に言えば、結果の見えた事柄は飽きるらしく、集中力は三分間持続すればマシなほう。厄介なことにその範囲はべらぼうに広い。
でき過ぎた脳髄は、一ノ瀬から未知を奪っていく。
新鮮さの失われた日常は、一体どれだけ退屈なのだろう。
オムレツにタバスコをぶち撒け、にこにこと咀嚼する一ノ瀬を眺めながら考える。
俺は彼女を楽しませられたのか。
その思考性を理解できない以上、提供できる娯楽に限度があるのだ。一に十を知る一ノ瀬に、凡人である俺の想像力と知識、経験を総動員してもあっという間に消費されてしまう。
つまるところ、期待に応えるのに疲れたのかもしれない。あるいは限界に際して、逃げ出したくなったのかも。
ならば。
どうして俺は彼女と生活をしている?
一ノ瀬はどうして俺と生活をしている?
自問しても答は返ってこなかった。
ある日の夜、一ノ瀬は珍しくつまらなそうに言った。
「キミは面白いねー。こうしてくっついて寝てても、手も出してこない。美少女としては微妙な気分ー。もしかして志希ちゃん、美少女じゃない?」
「お前が美少女じゃなかったら世の中の大半は醜女になるだろうな。……悪いけど、子供に手をだすほど腐ってない」
「にゃはー、それは残念だね。でもあと一年もすれば大人の仲間入り。これは飛び級できなーい」
「そうだな。それまでには出て行くよ」
「じゃあ、あたしも引退だ。まあ、あと一年あったら大体やり尽くしてそーだよね」
一ノ瀬は笑った。俺は笑わなかった。
「お前は辞めるなよ。アイドルとしてもギフテッドなんだ。まだまだ新しいことだってあるよ」
「言ったよ、キミは触媒なんだって。たしかにあたしは才能あるよね。でも、その才能も触媒があって反応するんだよ」
「……やめてくれ、買い被りだ。お前が思うほどの人間じゃないんだよ俺は」
往々にして平凡で、陳腐で普遍的。代替品はいくらでもある。
「それはあたしを過小評価してるのかな? 志希ちゃんと一年も一緒にいて、普通はないよねー」
「……無理してた。一ノ瀬が悪いなんて言わない。でも、俺とお前は違いすぎる」
「違うからここまでやってこれたんじゃないかなー? あたしはキミ自身に興味があるんだよ。キミは誤解してるよね」
一ノ瀬は俺の右腕を枕にしだした。いくら美少女とは言え、重いものは重い。
でも、幸せそうな彼女の表情を見ていると、不思議と悪い気はしなかった。いい香りがする。
「あたしはキミの気持ちなんて知らないよ。キミもあたしの気持ちは知れない。それでいいんじゃないかなー。お互い好きにやって。化学は偶然の産物だからね」
「もし、それで上手くいかなかったらどうする。取り返しのつかない失敗をしてしまったら。……俺はいいよ、もう辞めたから。だけど、一ノ瀬は失うものが大きすぎる」
顔を売る職業だ。一度の失敗はこの先いつまでもつきまとう。俺と一ノ瀬ではリスクが違う。
しかし、俺の心配なんて無視するように、一ノ瀬は大きく欠伸を漏らした。
「優しいねーキミは。失敗したらそのとき考えればいいと思うけど……、そうだねー、じゃあ、本当に首が回らなくなってどうしようもなくなったらさ」
俺には彼女がなにを考えているのか、なにを思っているのか想像もつかない。
だから、言葉の続きを聞いて、沈黙する。本心なのか、冗談なのか。判断できなかったからのもひとつ。
一ノ瀬は新しいことに興味を持った。換言すれば、見えている結果には興味がない。その範囲はべらぼうに広い。
退屈な日常は彼女にとって、興味のない事柄に分類されるのかもしれない。
おそらく、悲観や諦観、厭世観から出た言葉ではない。選択肢のひとつとして考えただけで、その結末を望んでいるわけではないはずだ。
そうだと信じたい。
だって、やっぱりこんな質問は一ノ瀬には似合わない。
わかりきっているくせに。質問だなんて、らしくない。
「そのときは、一緒に死んでくれる?」
俺は答えなかった。なにより、答えるまでもないから。
◇
「天才の定義を答えよ。あるいは条件でも可」
「天才って言っても色々あるだろ」
「うーん、じゃあ、キミの考えるものでいいよ。ギフテッドと接してきた見解で」
一ノ瀬は時々、意味のない問いを口にした。今回もその類いなのかもしれないが、問いは核心を突く内容に思えた。
俺は彼女をぼんやり眺めながら答える。
「他人に理解されない能力。性質。才覚。孤独であること」
「その心はー?」
「理解なんてできるのなら、たぶん再現できる。つまり、誰にでもできるってことだ。それは天才とは言わないだろうよ」
天から授かるギフト。受け取れた人間と受け取れない人間。そこには明確な線引きがあるはずだ。
一ノ瀬は嬉しそうに微笑む。
「キミ、よく見てるねー! ちょっとだけ嬉しいかも。でもひとつだけ違うかなー。あたしは孤独じゃないよ?」
「それは人によるだろうな。孤独を孤独と感じない性格なんだろう。ただ、端から見れば孤独に見えるだけで」
「こらこらー、わかってて言ってるよね、キミ。にしても、キミは孤独に見えても同情しないんだねー。感心感心」
「理解できないからな。ちなみにお前の答はなんだ?」
んー、と考える仕草をする一ノ瀬。その頭のなかでは、どう思考が回転しているのか覗いてみたいものだ。
「そうだねー、天才であること、かな」
「いや、まあ、そうだろうけど……。堂々巡りするぞ、それじゃあ」
「そう言われてもねー、天才は生まれつきの天才なんだよね。だから、条件も定義もないんだと思うな」
彼女たちにとってギフトは特別ではない。喩えば指を動かすのと同じように、疑問にもならない当然の構造。
だから俺たちがギフテッドを理解できないのと同じく、一ノ瀬たちギフテッドも俺たちを理解できない。
しかし、人は幻想を抱く。
そうは言っても人間だ。きっと少しぐらい理解しあえるはずだ、と。
儚く残酷な幻想。
結果、多数の凡人は、少数の天才たちを排除しようとする。未知は恐怖をもたらすから。
意識的にせよ。
無意識にせよ。
俺たちは囚われた常識に縛られて、彼女たちを攻撃する。
きっと、本当は関わるべきではない。お互いに。傷つくだけだ。
嫌だと思う。一ノ瀬を傷つけることも、嫌悪することも。だから、離れたいのに。
結局、俺は彼女を離したくないのだろう。魅せられてしまったのだ。本物の天才に期待してしまっている。
八方ふさがりだった。
首が回らなくなった。
自分でもどうしていいのかわからない。疲れているのかもしれない。
遅効性の毒はゆっくりと、だけど確実に進行する。
異常は二週間が経った頃に現れた。
ちょっとした違和感だった。一ノ瀬が仕事に行っている間、俺は彼女の出演する番組やドラマ、雑誌を確認する。
些細な変化。たぶん、ずっと傍にいたから見抜ける変化。動きにキレがなく、笑顔に張りがない。
収録や撮影はリアルタイムを映すことは少ない。だから、シグナルの受信に遅れてしまった。
俺は一ノ瀬の演技力と覚悟を侮っていたのだ。
しばらくして帰ってきた一ノ瀬は、出迎えた俺に抱きついた。胸に顔を埋めて弱々しく笑った。
「キミ成分補給ー。にゃはー、生き返るー」
痛々しくて、苦しくて、申し訳なくて。
俺は一ノ瀬を抱きしめた。強く強く。
「甘えたい年頃なのかにゃー?」
わざとらしいくらいおどける一ノ瀬は、もう限界なのだろう。ボロがでてきていた。
「ごめん。……ごめん、気づくのが遅くなった」
彼女は察したらしく、身体を預けてくる。とても軽く感じた。
「んーん、キミはなにも悪くないよ。でも、ちょっとだけ疲れちゃったかなー」
「お前は、どうしてここまでしてくれるんだ」
「キミがいなくなったらつまらないからねー。まさか、あの日、本当に飲むとは思わなかったよ」
一ノ瀬はころころと可愛らしく笑い声を漏らした。思い出し笑いかもしれない。
「ねぇ、キミはあたしのこと嫌い?」
「……嫌いだったらここにいない」
「なら、また、一緒にやろうよ。やっぱりキミじゃないと色々大変なんだよねー。あたしのために頭下げてよ」
「……でも、もう退職したんだ。どうしようもないんだ」
取り返しのつかない失敗。後悔と罪悪感が目頭に込み上げる。
「そっか、ちょっと放してー」
素直に解放する。一ノ瀬は台所へ向かったようだった。俺は立っていることができず座り込む。
すぐに一ノ瀬は戻ってきて、俺の前に屈んだ。両手にはそれぞれ試験管。
中には得体の知れない透明な液体。
「じゃあさ、一緒に死の? 楽になろうよ」
差し出された試験管を受け取る。乾杯と、一ノ瀬は試験管を鳴らした。
俺は一息に煽る。
なんともない。それを認めた一ノ瀬は微笑んだ。
「にゃははー! 引っかかったなー! それはただの水なのだー!」
「お、おい、なんだよ」
混乱する。一ノ瀬にゆっくりと抱きしめられた。
「生は死への第一歩。なら、死は生への第一歩でもいいよね。キミは二度死にました。なかなかない体験だよ? もう怖いものなくない?」
「……時間は戻らないよ」
「あたしからひとつだけギフトをあげる。時間は戻らないよ。でも、ギフテッドは時間を止めることができるとゆーね」
意味不明の言葉は、だけど、俺に確信をもたせた。
こいつは一体、どこまでわかっているのだろう。
その日、一ノ瀬は熱を出した。
◇
「おう、やっとかけてきたか。一ノ瀬から話は聞いたのか?」
先輩に電話をかけると、さも当然と言わんばかりの返答。俺は戸惑う。
「いえ、むしろ話を聞かせて欲しいんですけど」
「あー、もしかして俺まずった? ……まあいいか。そうだな、お前が辞表を提出する一週間前、一ノ瀬が俺のとこ来たんだよ。話があるってな」
「話?」
「ああ、お前から嫌な匂いがするって言ってた。もしかしたらなにかあるかもって。初めは冗談だと思ったよ。でも言われてみればお前は死にそうな顔をして見えてな。そうしたら辞表だ、驚いたよ」
はははと先輩は笑う。本当に冗談みたいな話だ、笑いたくなる気持ちもわかる。
「そのあと一ノ瀬と相談してな。お前の辞表、実は受理されてないんだ。有給扱いになってる。まあ、お前、ほとんど休めてなかったから、上も納得してくれたよ」
止められた時間。ギフテッドはたしかに時間を止めていた。
「一ノ瀬に感謝しろよ? あいつ相当頑張ってたからな。上を説得できたのもあいつの仕事ぶりがあっての話なんだよ」
感謝してもしきれない。一ノ瀬から受け取ったギフトはとても返しきれる気がしなかった。
「きっとふたつのシナリオを用意したんだろうな。たぶん、お前が前向きに辞めるつもりなら引き留めなかったと思うよ。心当たり、あるんじゃないのか?」
俺が最終日だと思っていたあの日、一ノ瀬は言った。
キミさ、あたしと死んでみる気、ある?
あのとき、笑い飛ばしていたら、彼女は黙って見送るつもりだったのだろう。
すべてを知った上で、俺を送り出してくれたのだろう。
でも、そうはならなかった。死んでもいいと俺は試験管を受け取った。
だから、一ノ瀬は。
俺は守られていたのかもしれない。
「それで、お前はどうするんだ? ……いや、訊くまでもないか。じゃあ具体的に決めていこうぜ。復職の日程をさ」
話は本当にすらすらと進んだ。何事もなかったかのように。明後日、俺はプロデューサーへと戻る。
一ノ瀬のプロデューサーへと。
電話を切って一ノ瀬の部屋に入った。彼女はだるそうにベッドに横になっていた。
俺はベッドの傍に腰を下ろした。
「どうだったー?」
「ギフト、受け取った。ありがとう」
「残念ながら返却不可だからねー。これでキミもギフテッドだ!」
「馬鹿、騒ぐなよ。大人しくしてろって」
「あたしを馬鹿扱いなんてキミぐらいのものだよ? やっぱりキミはただ者じゃないねー」
にゃははー! 一ノ瀬は懲りずに高笑い。当然のように咳き込んだ。
「この前の話あるだろ。どうしようもなくなったときの話」
「どーかした?」
「やっぱり死ぬのはよそう。次は俺が死ぬ気でどうにかするから」
「おー、格好いいねー! じゃあ任せたよ。どーにかしてね」
上手くいくかなんてわからない。先行きが見えれば苦労はないし、不安なんてない。
でも、それは退屈な日々に違いない。
「とりあえず、はすはすさせてー」
「それ、続けないと駄目か?」
「元気の源だからねー。さあさあ」
だから、もう少し楽にやろう。
一ノ瀬の熱は次の日に下がった。
本人曰く俺成分のおかげらしい。抽出して売れば儲けられる気がしたが、一ノ瀬にしか効果がないそうだ。残念である。
準備のために一度帰宅。そして出勤日、俺は自宅から一ノ瀬の部屋に向かう。
久しぶりのスーツに袖を通すと、不思議なほど着心地がよかった。ただ、一ノ瀬の部屋に近づくほど緊張で胃が痛いんだ。
待ち合わせ時刻になっても一ノ瀬は出てこない。念のため十分待とう。
来ない。仕方なく合鍵を使って部屋に入る。ガチ寝していた。完全に寝坊だった。
嘆息して、起こす。
「おい、起きろ」
「んー、あれーもうそんな時間?」
「過ぎてるよ」
「準備しないとねー。寝起きのハスハスー」
辞める以前と同じ光景。見慣れたはずなのに、とても新鮮に思えた。
一ノ瀬が準備している間に、軽食を作る。外向きに仕上げた彼女とテーブルを挟んだ。
「いきなり寝坊する奴がいるかよ」
「これぐらいがあたしたちらしいでしょ」
「まあそうなんだけどさ」
食事を終えて準備完了。二週間ぶりの出勤だ。靴を履いていると、一ノ瀬は首を傾げた。
「今日はなにしよっか」
「まずは土下座だな」
「にゃははー! そーだね、しょうがないからつきあってあげよー」
「ああ、頼むよ」
二週間過ごした部屋を一緒に出る。一ノ瀬から受け取ったギフトを胸に閉まって。
俺は一ノ瀬の手を取った。
終わりです。
17:30│一ノ瀬志希