2016年12月16日
鷺沢文香「スイッチ・オフ」
機械音と共に紙を吐き出していくコピー機、たくさんの人がキーボードを叩く音、電話の着信音、業務連絡の声。お世辞にも静かとは言い難いこの環境こそが私の読書スペースです。
幸いなことにも、私は何かに集中してしまうと外界の情報を著しくシャットアウトしてしまう傾向があるようで、どのような環境であれど書を開けばそこは私の、私だけの世界となってしまうのでした。
私はお仕事の後でも、レッスンの後でも、決まって私は少しの間、読書のために事務所にやって来ます。
初めは他のアイドルの皆さんや、プロダクションの社員の方々に「そのまま家に帰って、ゆっくりと読んではどうか」だとか「こんな場では頭に入らないのではないか」だとか「何もこんな騒がしいところで読まなくても」などと言われることも多かったのですが、最近では“そういうもの”と思ってくださっているのか、はたまた呆れられているのかは分かり兼ねますが、声をかけられることも少なくなりました。
では、何故このようなところで私は本を読むのか。
それは、ある種の儀式のようなものなのです。アイドル鷺沢文香から、普通の女の子鷺沢文香へと戻るための。
趣味である読書は私のスイッチでもあるのです。
いえ、あったのでした。
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◆ ◇ ◆ ◇ ◆
撮影のお仕事を終え、スタジオの外に出ると夜の帳は降りていて、空にはオリオン座が昇っていました。
運よくタクシーがスタジオの前を通ることを祈るよりも歩いて駅まで向かい、そこでタクシーに乗った方が早いので、しぶしぶ歩き始めます。
こつこつこつこつ。
昔はこんなものを履いて歩けるものか、と幾度となく不満をまき散らしたパンプスも、今ではすっかり慣れてしまいました。
こつこつこつこつ。
踏み出すたびにアスファルトと打ち合い、一定のリズムを刻みながら私を目的地まで運んでくれるこの靴に愛おしさすら感じる私なのでした。
そんなことを考えながら歩いていると、木枯らしが落ち葉を巻き上げながら、ひゅーっと私の隣を通り過ぎ、たまらず私はポケットへ手を避難させます。
こつこつこつこつ。
木枯らしの通り魔に負けてたまるものか、リズムを狂わせてなるものか、と足を踏み出します。
まだ、11月だというのにこんなに寒いなんて、冬になったら私は凍死してしまうに違いありません。
秋は、今の木枯らしのようにすぐいなくなってしまうのでしょう。
そして、長い冬がやってくるのでしょう。
私は冬はあまり好みません。
指がかじかむため、読書に支障がでるからです。
それ以外は、別段どうということはないのですが、私の中ではそれが大きな減点対象となってしまうのです。
しかし、まだ来てもいない冬に文句を言っても仕方がありませんから、ずんずん歩きます。
こつこつこつこつ。
寒いのは駅までの辛抱です。
こつこつ……ぷーっ。
不意のクラクションによってパンプスとアスファルトの調べは止められてしまいました。
振り返るとそこには見慣れた、自動車が。
ゆっくりと車の窓が下り、私のプロデューサーさんが顔を出しました。
「お疲れ。事務所行くでしょ?」
「はい。お疲れ様です」
「乗ってくといいよ。寒いし」
「ありがとうございます」
プロデューサーさんのご厚意に甘えて、私は車に乗り込みます。
なんでも、先方との打ち合わせの帰りであるようで、プロデューサーさんは「奇遇だな」なんて笑っています。
打ち合わせ、というのは嘘ではありません。次のお仕事のお話らしく、私も何度か参加しているものであるからです。
最も、私の今日のお仕事で利用したスタジオと、打ち合わせの場はほぼ反対方向であるのですが。それを聞いては野暮、というものですね。
なにより、せっかくのご厚意です。甘えなくてはもったいないではないですか。
「どうしたんだ? なんかニコニコしてるけど。いいことでもあった?」
「……ふふ。はい、とても」
窓の外で流れる景色に目をやると、色づいた木々が街灯に照らされています。
時折吹く木枯らしがその葉を巻き上げていく様に、過ぎ行く秋を感じる私なのでした。
外を歩いている際は、寒さばかりに目がいってしまい、終ぞその美しさに気付くこともありませんでしたが、暖かな車内から眺めるそれらは格別のものと言えます。
「画になるね」
「……はい?」
「いや、秋の景色と文香。いいなぁ、って」
「……であれば、それはきっとプロデューサーさんのおかげかと」
「ん? どういう意味?」
「きっと、この暖かな車内でなければ景色を眺める余裕などなかったので」
「あー、寒いもんね」
くすくす笑ってプロデューサーさんはそう言います。
「そういうことです」
釣られて私の頬まで緩んでしまいました。
軽快に走る車。色鮮やかな木々。弾む会話。……自然と綻ぶ貴方と私の顔。
なんでもない秋の一頁も、こうして誰かと語り合えば掛け替えのないものに変わるのでしょう。
* * *
事務所に着くと、私はそそくさと所定の位置へ。
応接室のソファを買い替える際に、事務所へとやってきたソファが最近の私の読書スペースです。
この時間帯の事務所は定時に近いこともあって、騒がしさも和らいでおり、読書するには絶好のタイミングと言えます。
そうそう。秋と言えば、読書の秋という言葉をよく耳にします。
年中通して読書の季節である私には、あまり関係のない話かもしれませんが、多くの人にとって秋とは読書に適した季節であるようなのです。
では、なぜ読書の秋というのかというと、秋は夜が長く、それでいて涼しいからなんだそうで、中国は唐の韓愈という方が子である符に贈った詩に由来します。
それは『符読書城南詩』といって、学問の大切さを説いたものであり、その詩の中の一節に『燈火稍く親しむべく簡編卷舒すべし』とあります。意味は、「涼しい秋の夜長は灯火の下での読書に適しているので、本を読むべきである」といったところでしょうか。
夏目漱石の『三四郎』にも使われた表現でありますから、漢語に由来しているということは知っている方も多いかもしれません。
ああ、また、思考があらぬ方向にいってしまっていたようです。
そろそろこの果てのない連想ゲームにきりをつけなければ、と頬を軽くぺちっと叩いて鞄から本を取り出して、開きました。
* * *
「ふぅ」
あとがきまでしっかりと読み終えると、息が漏れました。
本をぱたんと閉じて、「んー」と唸りながら凝り固まった体をほぐします。
余韻に浸りつつ、内容を反芻しているとプロデューサーさんから声をかけられました。
「終わった?」
あ。
またやってしまいました。
「声をかけてくださればよかったのに……」
「随分と熱中してたみたいだったから。それより、ご飯。今日も行くだろ?」
気にしてないよ、とでも言うかのようにプロデューサーさんは話題を切り替えました。
このようにレッスンやお仕事の帰りは、プロデューサーさんとご飯に行くことが通例でありました。
ですからプロデューサーさんは私が本を読み終わるのを見計らって、先ほどのように声をかけてくださるのです。
したがって、最近はプロデューサーさんのお仕事が終わり次第、本を閉じるようにしていたのですが、秋の景色に当てられたのか、時間を忘れ読み耽ってしまいました。
プロデューサーさんが待っていることを知りながら、読み耽ってしまったのでした。
申し訳ない気持ちで胸がいっぱいです。
「それで、何が食べたい?」
「お任せします。私には、決められません」
「またかー」
「……プロデューサーさんが連れて行ってくださるお店に間違いはありませんから」
「じゃあ、任された」
「ふふ。はい、お任せしました」
そういえば、以前プロデューサーさんにも「どうしてわざわざ事務所で本を読むのか」と聞かれたことがあります。
その問いに対して、私は包み隠さず「アイドルから戻るためのスイッチです」と答えると、にっこり笑って「そっか。文香らしいな」と返してくれたことを今でも覚えています。
だから、きっとプロデューサーさんは私が読み終わるのを待ってくれるのでしょう。
でも、実は私はもっと簡単な方法で自分を切り替えることができるようになっています。
しかし、こればっかりは言えません。
ええ、言いたくありません。
言いたくないのです。
貴方の「終わった?」のひとことで、私は普通の女の子に戻されてしまう。
なんて。
おわり
23:30│鷺沢文香