2013年11月06日

みく「みくは今、とても幸せです、にゃ」

注意点

地の文あり
みくの一人称
だけど地の文のみくは猫語じゃない


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新人「やったー!」

 新人アイドルがライブバトルに勝利した。

 すごく嬉しそう。

 きっと、いっぱい頑張って、いっぱい練習したんだろうなぁ。

新P「おめでとう! よくやったな!」

 あの子のプロデューサーっぽい人も、喜んでる。

 傍から見ても、二人三脚で挑んだんだとわかった。
 何度も見た光景。

 何度も望んだ関係。

 けど、みくには無縁の姿。

 挑まれて負けたのはみくなのに、悔しさはない。

 ただただ、羨ましいと思っただけ。

 それ以外は他人事。
みく「あ〜あ、負けちゃったにゃ。けど、次は負けないにゃ」

 一応、悔しそうな言葉を口にする。

 ライブバトルが終わった後の恒例。

 みくにやる気がなかったんだとバレてしまったら、きっとあの子は悲しむと思うから。

 このまま負け続けてたら、いつか気付かれちゃうと思うけど、その時はその時。
 衣装を着替え、控室を出て、帰路に就こうとしていた時、ケータイが鳴った。

 確認してみると、みくの担当プロデューサーからのメールだった。

 一度顔を合わせただけの人。

 交わした言葉は、よろしくの一言のみ。

 それからはずっとメールでのやり取り。

 どこどこに何時に集合。

 みくはそれに従って、言われた場所で、言われた時間にライブバトルをする。
 アイドルになってから、ずっとそう。

 ううん、本当にみくはアイドルなのか、自分でもよくわかんない。

 だって、アイドルのいろはなんて、なにも知らないんだから。

 ライブバトル自体はそれなりの数をこなしたから、バトルの時に必要な事はもう覚えちゃったけど。

 なんでみくは続けてるのかなぁ?

 最近じゃ、バトルで勝つ気なんてないから、手を抜いて疲れないようにしてるのに。

 なんでみくは、こんなアイドルもどきに縋ってるのかなぁ。

 わかんないよ……。
 ギュッと、明日のライブバトルの予定が映っているケータイを握り締めた。

P「初めまして」

 不意に、そう声をかけられた。

 知らない人。

 舞台裏にいるから、スタッフか、アイドル関係者の一人だと思う。

みく「えっと、どちら様にゃ? もしかして、みくのファンかにゃ? にゃはは、照れるにゃ」

 明るく振る舞った。

 仮にもアイドルと言う肩書きがあるから、個人的な感情で、情けない姿は見せられない。

 ……そう思って、空しくなった。

 まるで、アイドルって言う場所にしか、みくの居場所がないようで。
P「あっ、ごめん。ファンってわけじゃないんだ。遅れたけど、こういう者です」

 差し出された名刺を受取って、読んでみる。

 聞いた事がない事務所のプロデューサーみたい。

 これでもみくは、芸能事務所には結構詳しい。

 大きな所は当然として、弱小と呼ばれる所も。

 なにしろ、色んな事務所のアイドルと、ほとんど毎日ライブバトルをしてるんだから。

 流石に学校のある平日は、一回か二回程度だけど、休日になると十を超える時だって稀じゃない。

 覚えるつもりなんかなくても、自然と記憶に残る。
 で、目の前にいる人の事務所だけど、何度見直してもやっぱりわからなかった。

 出来立ての所なのかな?

 なんでもいいか。

 みくには関係ないもんね。

みく「これはこれはご丁寧にどうもにゃ。それで、みくにどんな用にゃ?」

P「実はね、さっきのライブバトルを見させて貰ったんだ」

みく「にゃんと! 恥ずかしい所を見られちゃったにゃ。でも、どうしてみくのバトルを? まさか、敵情視察かにゃ!?」

 近い内にライブバトルをする相手のプロデューサーが、みくを調べに来る事は、よくあった。

 みくがバトルをする相手は、新人の子ばかり。

 担当プロデューサーは、最初のバトルで負けさせないため、みくがどんなパフォーマンスをするのかを事前に把握しようとしていた。

 その度に、みくに負けるわけがないのに、と思って、徒労に同情してる。
 この人もそういう人なんだろう、って思った。

 けど、違った。

P「ちょっと聞きたい事があってね」

みく「聞きたい事にゃ?」

P「あのさ、俺の気のせいだったらいいんだけど、その……すごくつまらなさそうだったから」

 一瞬、息が止まったかと思った。

 上手く演技は出来ていたはず。

 実際、疑われた事なんて、一度もなかった。

 見抜かれた、と内心焦ったけど、慌てて表面は取り繕う。

 この人の口ぶり、まだ確信は持てていないようだから、挽回は可能。
みく「つまらなそう? みくがにゃ? いつにゃ?」

P「ライブバトル中、なんとなくそんな気がして」

みく「それは気のせいにゃ。みく、楽しくやってるにゃ。今回は負けちゃって残念だけど、次は勝つにゃ!」

 ふふん、と鼻を鳴らして胸を張った。

 上っ面だけの自信。

 こんなのでも、みくの内面を知らない人には効果はあるはずだから。

P「そっか。ごめん、変な事を聞いちゃって」

みく「気にしなくていいにゃ。それより、どうしてこんな所にいるにゃ? 担当のアイドルっぽい子は見当たらないにゃ」

 早々に話を逸らす。

 みくの演技に勘付いた人だから、深入りさせると隠し通せるかわからない。

 ベストは、すぐにこの場を離れる事だけど、いきなりだと余計に疑われかねない。

 多少お話して、キリよく別れるのがベター。
P「あぁ、まだ俺は――と言うより俺の所にアイドルはいないんだ」

 俺の所、と言うのは、この人の会社って意味だよね?

 アイドルがいない?

 本当に出来たばかりの事務所みたい。

 となれば、みくの事を調べに来た、って線はなくなる。

 担当アイドルがいないのに、バトル相手を調べた所で、無駄足以外のなにものでもないんだから。
P「ここに来たのは、アイドルについて勉強しようと思ってさ。色んな子を見る事が出来て、すごく為になったよ」

 改めて、どうして? とみくが訊く前に、この人は来た目的を教えてくれた。

 勉強熱心な人なんだなぁ、と言うのがみくの本心。

 こんなに小さな会場にも来たって事は、色々な場所を回っているはず。

 見れば、元は艶のあったと思う革靴も、紙やすりで擦ったような色になっている。

 それ自体は褒められた事じゃないけど、どれだけこの人が歩いたのかを証明していた。

 きっと、この人がプロデュースするアイドルは、幸せになるんだろうなぁ。
みく「アイドルが決まったら、先輩であるみくが胸を貸してやるにゃ。遠慮はしなくていいにゃ」

P「その時はよろしく。これ以上長話させても申し訳ないし、俺はこれで。ごめんね、呼び止めちゃって」

みく「なんて事ないにゃ。それじゃ、またにゃ〜」

P「あぁ。また今度」

 みくは大袈裟に手を振って、この人と別れた。

 なんて事はない。

 ただの一期一会。

 そう思いながら。
 次の日からも変わらないアイドルもどきの生活。

 バトルをして、負けて、またバトルをして、負けて。

 影で、かませ犬だとか、アイドルとしての最初の踏み台、なんて呼ばれている。

 アイドルの子たちからは、あれだけ負けてよくアイドルを続けられてるよね、なんて笑われ始めた。

 知っている人からすると、ようやく笑われ始めたか、なんて思われるかもしれない。

 本当、なんでアイドルっぽい何かを続けてるんだろう。

 ここまで惨めな思いをして、なんでみくは小さな舞台の上で歌って、踊って、笑っていられるんだろう。

 自分がよくわからない。
みく「……つまらない」

 そう呟いてしまい、慌てて周りを見回した。

 幸い、近くに人はいなくて、誰にも聞かれていないようだった。

 ホッと、胸を撫で下ろす。

 けど、もう潮時かな。

 とうとう口に出してしまうほど、みくはアイドル生活と言うモノに幻滅してしまっていたみたい。

 控室に戻って、衣装を脱いで、荷物を纏める。

 そして、控室のドアノブを握りながら、決めた。

 二度とこの部屋に入る事はない、って。

 と、ほぼ同時にノックされて、思わずドアノブから手を離した。
P「すみません、ここに前川みくさんがいらっしゃると聞いたのですが、入ってもよろしいですか?」

 聞き覚えのある声。

 忘れていない。

 みくがつまらなさそうにライブバトルをしていると気付いた人。

 あの人が、どうしてここにいるのかはわからないけど、みくに用があるようだった。

 いつもは十数人で使う控室だけど、幸か不幸か、今はみく一人。

 だから気が緩んだのかな?

 それとも、アイドルを辞めると決めたからかな?

 みくは普通に対応してしまった。
みく「誰も着替えていにゃいから、入ってもいいにゃ」

 しまった、と思った。

 居留守を使えば、特に面倒もなく家に帰れたのに。

 アイドルなんてものとは無縁の生活に戻れたのに。

 でも、もう遅い。

 ドアが開いて、記憶通りの人が姿を見せた。
P「よかった。まだいたんだ。少し前にライブバトルが終わったと聞いて、もう帰っちゃったかと思ってた」

 控室に戻る前、ぼんやりとしていた時間のせいで、こうして再会する事となった。

 その事を教えてあげる必要はないから、お久しぶりにゃ、と挨拶をする。

P「久しぶり、と言っても数日ぶりだけどね」

みく「みくに用事があったっぽいけど、どうしたのかにゃ?」

 手遅れになったものは仕方ない。

 開き直ってみくは腰を落ち着かせた。
 この人も、近くのパイプ椅子を引き寄せて座る。

 その表情は、単なる世間話をしに来たと言うには、険し過ぎるというか、難し過ぎるというか、ちょっと怖い感じだった。

P「真面目な話があるんだ。前とは違って、少し時間がかかるかもしれないけど、いいかな?」

 正直、さっさと帰りたい。

 あまりこの場には居たくなかった。

 けれど、あまりに目の前の人が真剣な様子だったから、思わず頷いちゃった。
 ありがとう、と目の前の人は言って、一度口を閉じた。

 言い難い事らしく、少しの間、沈黙の空気が漂う。

 非常に居た堪れない。

 なんて言うか、大声で叫びたくなるような時間だった。

 どれくらい経ったかな?

 五分も経っていないと思うけど、目の前の人はようやく口を開いた。

P「最初に謝っておくよ。ごめん」

みく「どうしたんにゃ? みくは謝られるような事をされたつもりはないにゃ」

 軽い口調で言った。

 アイドルとしてではなく、重苦しい空気に耐えた反動のせいだけど。

 もっとも、それでも空気はあまり変わらかった。
P「君について、色々な噂を耳にした。だから、勝手だけど色々調べさせて貰ったんだ」

みく「……」

 みくは今、どんな表情も浮かべていないと思う。

 その場を乗り切る笑顔も、勝手に調べられた事に対する怒りも、ほとんどの事を知られた悲しみも、みくにはなかった。

 きっと、すごい冷めた顔なんだろうなぁ。

 その顔を、真っ直ぐ目の前の人に向ける。

 視線を逸らす理由が、みくにはなかったから。

 もう、関係ないと思ったから。

 アイドルじゃないみくには。
P「前に会った時、気付いておけばよかった。何日も遅れて、ごめん」

みく「それで……それで、どうするつもりにゃ?」

P「君さえよければ、ウチの事務所に――」

 それ以上、みくは言わせない。

 鼻で笑って遮った。

 なにを言いたいか、これほどまでわかった事はない。

みく「お断りにゃ。もうアイドルなんてこりごりにゃ」

 なにかを言いかけようとして、目の前の人は一度口を開け、なにも言わないまま閉じた。

 少し間を開け、目の前の人は伏せ目がちに、そっか、とだけ呟いて、立ちあがる。
P「君が酷い思いをして来た事は、理解しているつもりだ。だから、無理強いはしない」

 そう言いながら、控室のドアへこの人は向かった。

 ドアを開け、一歩出た所で立ち止まり、みくの方を見ないまま、最後の言葉を残す。

P「もし……もし、まだアイドルに未練があったら、連絡をして欲しい。いつ、どんな時でも君を歓迎する」

 ドアの閉まる音が、控室に、みくの胸に響いた。

 ぽっかりと空いてしまった穴の中で、その音は何度も反響を繰り返す。
 アイドルを辞める、とだけ書いたメールを担当プロデューサーに送って早数日、みくは平々凡々な生活に戻った。

 学校の友達と街を歩いたり、カラオケとかに行ったりと、無駄な事に浪費していた時間を取り戻す勢いで遊んだ。

 うん、無駄。

 はっきりとそう思える。

 誰かのためのアイドル。

 その誰かは、ファンではなく、他のアイドルだったんだから、笑えない。
 担当プロデューサーからの連絡もない。

 ライブバトルをするためのメールすら途切れた。

 わかり切っていた事だったから、落ち込んではいない。

 清々しい気持ちにさえあるよ。

 やっぱりみくはその程度だったんだ、って。

 みくはアイドルに向いていなかったんだ、って。
 そうとわかったから、一生懸命楽しい事を探してる。

 でもね、どうしてかな?

 どんな事をしても、楽しくないんだ。

 友達と遊んでいても、楽しくないからいつも作り笑顔。

 アイドルもどき時代に培ったスキルが、こんなに早く活用されるなんて、思ってもいなかった。

 と言うより、その頃となんにも変ってないって言った方が正しいかもね。

 猫カフェに行って、猫チャンと戯れてても、芯の方は癒されない。

 無気力って、こんな感じなんだと思った。
 ポケットに手を入れる。

 触れるのは、一枚の名刺。

 アイドルのいない事務所のプロデューサーが渡してくれた物。

 まだ捨てられずにいた。

 お守りとしての価値もないのに、なんとなく、いつも持ち歩いてる。

 女々しい。

 自分でもそう思うよ?

 もう一度、アイドルとして頑張りたいとは思えない。

 でも、アイドルになりたかったと思う自分もいる。

 新人アイドルの踏み台になるだけの存在じゃなくて、正真正銘、自分が楽しんで、ファンの人たちを喜ばせられるアイドルに。

 前の事務所に戻りたいとは、これっぽっちも思っていないけど。
友「みく〜、また明日ね!」

みく「また明日にゃ〜」

 今日も友達と遊ぶために、街を歩いていた。

 穴場の雑貨屋を見つけたと聞いて。

 そこに、可愛らしい猫チャンの置き物があった。

 ガラス製の物で、ペットボトルのキャップほどのサイズ。

 値段も手頃で、友達に薦められた。

 少し前のみくだったら、言われるより早く、レジに持って行ったと思う。

 けど、購入意欲は全く湧かなかった。

 むしろ無駄使いのようにしか感じなかった。

 だから、その場は適当に受け流して、ずっと友達に付き合い、今に至る。
 はぁ、と溜息が洩れる。

 友達が嫌いなわけじゃない。

 みんな良い人ばかり。

 アイドルは辞めたと言っても、今まで通り接してくれている、良い友達。

 でも、一緒にいて楽しいとは思えない。

 無理にテンションをあげるから、疲れが日々積もる。

 そんな自分が申し訳なくて、二つの意味で溜息が出る。

 と、近くある建物から見知った顔の者が出て来た。

 二回会話した、出来たばかりの事務所のプロデューサーだった。

 顔を合わせたくないから、電柱に隠れて様子を窺う。
幸子「プロデューサーさん、いつになったらボクをデビューさせてくれるんですか? もう完璧じゃないですか。最初から完璧でしたけど」

 彼の近くに小さな女の子がいた。

 会話から察するに、あの子があのプロデューサーの事務所に入ったアイドルみたい。

幸子「かわいいボクを飼い殺しにしていると、いつか出て行っちゃいますからね」

P「人聞き悪い事言うな。少なくとも一ヶ月はレッスンで基礎を積ませるって言っただろうに」

幸子「はぁ、仕方ありませんね。今回は寛大なボクが折れてあげますよ。感謝して下さい。ボクの足を舐める事も厭わないほどに」

P「……ほう、なら足を出せ。靴下も脱げ。ぬるんぬるんになるまで、べろんべろん舐めてやる」

幸子「……本気ですか? 冗談ですよ?」

P「男の誇りは、時に恥をも捨てさせるんだ。ほれ、さっさとしろ。それとも、俺が脱がせてやろうか?」

幸子「ま、まぁ? ボ、ボクにも至らぬ点があった事は認めますよ? えぇえぇ。……だから、止めません?」

P「わかればいいんだよ」

幸子「よかった……」
 あの人は変態さんだった。

 そう思わずにはいられない。

 でも……

みく「楽しそうにゃ」

 耐え切れず、言葉として口にしてしまった。

 何度も何度も見た事がある光景。

 その度に羨ましいと思っていた。

 なにかがほんの少し違えば、みくもあの子のようになってたのかな?

 プロデューサーと冗談を言って笑い合える。

 そんな関係に。
 無意識の内に、ポケットに手を入れていた。

 指先に伝わる、硬い紙の感触。

 どうする?

 自分に問いかけた。

 アイドルなんてこりごり。

 数日前、あの人に行った言葉。

 それは紛れもない本音。
 正直、今でも怖い。

 また同じ事を繰り返すんじゃないか、って。

 でも、でもやっぱり、みくはアイドルになりたい。

 色々あり過ぎて――ううん、なんにもなさ過ぎて、きっかけは思い出せないけど、あんなに中途半端に終わらせたくはない。

 そう、思った。

 みくには後一度、チャンスが残ってるんだから。

 考え込んでいる内に、あの人とアイドルの子はいなくなっていた。

 急いで名刺とケータイを手に、書かれている番号へ電話をかける。
 教えて貰った事務所に、早速来た。

 電話に出た女の人は、みくの事を知っていたみたいで、すんなり話が通った。

 それこそ、拍子抜けするくらい。

 ノックを三回、失礼しますにゃ、と言って恐る恐る入る。

 中にいた三つ編みの女の人が、笑顔で迎えてくれた。

ちひろ「いらっしゃい、前川みくちゃん。電話でも名乗ったけど、私は事務員の千川ちひろです。よろしくお願いします」

みく「よ、よろしくお願いしますにゃ」

ちひろ「プロデューサーさんは、幸子ちゃん――あぁ、この事務所に所属している唯一のアイドルなんだけど、その子を送ってるの」

 だから、戻るまでソファーに座って待っていて下さい、とちひろさんは促した。

 あの子、幸子ちゃんって名前なんだ、と思いながら遠慮せず座る。
 少し固く、お世辞にも良いソファーとはいえない。

 事務所も、予想以上に小さくて、事務用の机が二つしかなかった。

 隣に部屋が続いているみたいだけど、物置とかそんな類かな。

 けれど、居心地の良い空間。

 前の所は、広くて人も沢山いたけど、寒気がするような冷たさしかなかった。

 芸能事務所ってそういう場所なんだと思ってたよ。
ちひろ「お茶は温かいのと冷たいの、どちらがいいですか?」

みく「猫舌だから、冷たい方がいいにゃ」

ちひろ「わかりました。じゃあちょっと待ってて下さいね」

 狭い路地裏みたいな隙間に、ちひろさんは入って行った。

 あそこが給湯室に当たる所なのかな?

 飲み物を聞かれて向かったんだから、間違いないと思う。
 すぐにちひろさんは戻って来た。

 手にはお盆があり、涼しげな丸いコップが乗っている。

 どうぞ、と目の前に置かれたコップは、氷がぶつかり合い、甲高い音を立てた。

ちひろ「それにしても、本当に嬉しいですよ。プロデューサーさんもこれで安心します」

みく「安心? みくの事、心配してたのにゃ?」

ちひろ「そりゃもう」

 ちひろは口元を手で隠しながら、クスクスと笑う。

 そして、知らなかった出来事を教えてくれた。
 遡る事、みくがプロデューサーと再会した前日。

 みくが事務所でどういう扱いを受けて、なにをしていたかを知った日、プロデューサーは電話を握り締めた。

 無論、みくの事務所に電話をかけるため。

 そこで、みくの元プロデューサーと会話する事になったのだが、ここで問題が起こった。

 いや、問題が起こらなかった事が問題と言うべきか。

 みくを移籍させて欲しいとプロデューサーが頼んだ所、いとも簡単に承諾されたのであった。

 移籍金もなにもいらない。

 必要な書類を送って貰えれば、それでいい、と。

 それにプロデューサーが激怒した。

 自分のアイドルをなんだと思ってるんだ! と言って電話越しに怒鳴るほど。
ちひろ「私、プロデューサーさんとの付き合いはそれなりに長いのですが、あんなに怒った所は初めて見ましたよ」

 そう語るちひろさんに、怖かった、というような様子はない。

 逆に、嬉しそうですらあった。

 アイドルのために怒れるプロデューサーだと知って。

ちひろ「その後、縋りつかれたんですがね」

P『ちひろさん、どうしましょう! 勢いのまま電話を叩き切っちゃったんですけど、移籍の話がなくなっちゃったらどうしましょう!?』

ちひろ「って」

 クスクスと笑うちひろさん。

 小さな声で、「まっ、私が本気出せばどうにでも出来ますが」と呟いたような気がするけど、気のせい気のせい。

 笑顔の種類も、白から黒に変わったような気がしたけど、見間違い見間違い。

 ……うん、きっとそう、うん。
ちひろ「みくちゃんをこの事務所に誘いに行った後、もったいないなぁ、って何度も呟いていましたしね」

みく「もったいにゃい?」

ちひろ「みくちゃんならすごいアイドルになれる、って確信がプロデューサーさんにはあったようですよ」

 どうしてそう思ったのか、わからない。

 あの人が見たライブバトルは、手を抜いて、その上負けた。

 頑張っているように見せる努力はしていたけど、それだけ。

 しかもあの人は、つまらなさそうにしていると、見抜いていた。

 ただのやる気がないアイドル、って思われてもおかしくはない。

 事情を知った今なら尚更。

 なのに、なんで?

 どうして、怒鳴るほどみくを気にかけてくれるのかな?

 いくら考えても、可能性を絞るだけで精一杯。

 みくはあの人じゃないのだから、わかるわけもなく、ちひろさんが淹れてくれたお茶を口にする。
P「ただいま戻りました」

 お茶をお代わりして、それも半分ほど飲んだ頃、この事務所のプロデューサーが戻って来た。

 おかえりなさい、とちひろさんは迎え、視線でみくがいる事を伝えていた。

 目を見開いて驚き、すぐに笑顔を浮かべる。

P「来てくれたんだ、ありがとう! ちひろさん、この子が来てくれたのなら、連絡下さいよ。飛んで帰って来たのに」

ちひろ「サプライズですよ。すぐに戻って来る事は、知っていましたし」

P「そりゃ、驚きますよ」

 他にもなにか言いたそうだったけど、全て飲み込んだ様子で、こちらに笑顔を向ける。

 数秒前とは少し違い、喜んでいるというより、見守るような柔らかさがあった。
P「アイドルとして、復帰してくれるんだね?」

みく「本音を言うと、まだ迷ってるにゃ」

P「うん、仕方ないよ。少し前まで、大変だったんだから。前も言ったけど、俺らに無理強いをさせるつもりはない」

 でも、とこの人は続けた。

P「ここに来たって事は、やり残したなにかがあるって事だよね? 最低でも、それを叶えるように俺は尽くすよ」

 最高はトップアイドルだけど、ってこの人は付け足す。

 それを聞いて、少し意地悪な質問をしてみた。

みく「やり残した事が、トップアイドルになる事、だって言ったらどうするにゃ?」

P「最低ラインが、最高ラインになるだけの話だ」

 単純明快な答えだった。

 だからこそ、胸に響く。

 自然と頬が緩むほどに。
みく「でもにゃ〜、Pチャンはアイドルの足を舐め回そうようとする変態さんだからにゃ〜」

P「おまっ! なんでその事を!」

ちひろ「……プロデューサーさん、正直ドン引きです」

P「ち、違うんです! これには浅いように見えて深い訳が! ……ゴホン。落ち着いて、弁解の余地を」

 咳を入れて、気分を入れ替えたのかな?

 なんか、やけにキリッとした顔つきになった。

 余計に悪戯をしたくなっちゃった。

ちひろ「聞きましょう。一応」

P「実は――」

みく「幸子ちゃんって子が、足を舐めるほど感謝しなさい、って事を冗談で言ってたのに、真に受ける変態さんにゃ」

ちひろ「……」

P「視線が痛い! ちひろさんの視線が、雪の中でバイクを走らせてる時の風より痛い!」
 久しぶりに――本当に久しぶりに、みくは笑ったよ。

 心の底から、素直に。

 決して自分を偽る事なく、みくは笑えた。

 そして思う。

 この事務所で、もうちょっと頑張ってみよう、ってね。
 所属事務所が変わって、一ヶ月。

 新鮮な事ばかりだった。

 初めて受けたレッスン。

 すごく疲れちゃった。

 筋肉痛が酷かったり、肉刺が何個も潰れたり。

 でも、楽しかった。

 腕の振り方や、足の運び方、体重移動諸々のダンスレッスン。

 高音低音の出し方やコツ、正確な音程を身に付けるボイスレッスン。

 それらの基礎となる、筋力トレーニング。

 全部我流でやってたから、ダメだった部分が明確になって、すぐに矯正する事が出来た。
 張り合える仲間がいるのも嬉しかった。

 隣でレッスンに励むさっちゃんは、努力なんてしませんよ、なんて口では言うタイプだけど、いつもみくより真剣に取り組んでた。

 だから、負けたくないと思って、みくも高いモチベーションを維持出来る。

 途中、CDデビューも果たした。

 みくのための、みくだけの曲。

 歌詞もみくに打ってつけの物だった。

 嬉し過ぎて、Pチャンに飛びついちゃった。

 さっちゃんがその時不貞腐れてたのは、どっちの意味でかな?

 にゃはは、きっと両方だよね。

 でも、みくはこれでもアイドルとして先輩だから、ほんのちょっと我慢だよ、さっちゃん。

 代わりに、ってわけじゃないけど、Pチャンが慰めるために色々してたのは、目を瞑ってあげるから。
 CD販売と言う事で、サイン兼握手会のお仕事もしたよ。

 アイドルとして、初のお仕事。

 ……うん、まぁ、そんなに人は集まらなったけど、みくはくじけないよ!

 この程度、事務所を移る前の事を考えると、どうって事ない。

 そう考えると、無駄としか思えなかったあの頃も、それなりにみくのためになったのかも。

 許そうとは思わないし、あの頃に戻りたいなんて気持ちはクオークほどもないけどね。

 そして今、みくは控室にいる。

 二度と入る事はない、って一時は思ってたこの部屋に、戻って来た。

 でもあの頃との違いは一目瞭然。

P「改めて言うけど、相手はバトルで負けなしのアイドルだ。弱いわけはないぞ。でも、みくなら大丈夫。戦歴にみくが土を付けてやろう」

 隣にPチャンが、みくのプロデューサーがいる。

 みくはもう、一人じゃない。

 例え、ステージ上では一人でも、あの頃のような孤独なんて感じるわけない。
みく「何度目かの質問になるけど、みくの相手は、本当に前のみくみたいな人じゃにゃいんだよね?」

P「もちろんだ」

みく「うん、なら本気でやるにゃ」

 もし、みくと同じように噛ませ犬のアイドルが相手なら、わざと負けようと思ってたけど、心配はないみたい。

 あの立場の辛さは、身を以って知っているからね。

 Pチャンがそんな相手とバトルを組む人とは思えないし、仮にそうだったら、Pチャンを恨んでたよ。

 とりあえず、一安心。

 深く息を吸って、ゆっくりと吐く。

 それでも、心臓の音がうるさい。

 初めてのライブバトルの時よりも、ずっと。

 みくの対戦相手は、みんなこんな気分だったのかな?

 だとしたら、嬉しいな。

 やっと辿り着けたんだって、実感が湧いて来たよ。
 絶対に負けない。

 負けるわけにはいかない。

 一度は折れたみくを拾って、ここまで連れて来てくれたPチャンのためにも。

 レッスンで張り合ってくれたさっちゃんのためにも。

 いつも笑顔で出迎えてくれたちひろさんのためにも。

 今回は、今回だけは、勝ってみせる。

 それがみくに出来る、恩返しの一歩目なんだから。
スタッフ「前川さん、そろそろお時間です。準備の方、よろしくお願いします」

P「よし、行くか。舞台袖で応援しててやるからな」

みく「お願いにゃ!」

 移動して、ステージの中央に立つ。

 武道館とか、ドームとかと比べるのは、失礼なくらい小さな舞台。

 それでもお客さんはいる。

 少ないし、その中でもみくのファンは数えられるほどしかいないと思う。

 けれど、人数が違うだけで、お客さんである事に変わりはない。
 思えば、みくはとても失礼な事をしていた。

 このお客さんたちを、単なる採点の道具のようにしか思っていなかった。

 だから、何も考えず、手を抜いていられた。

 あの頃のみくは、アイドルとして最低だった。

 でもね、今日は違うよ。

 全力を尽くす。

 だから、みくを見ててね。
 数分後、歌を、踊りを無事に終えた。

 ミスはなかった……はず。

 自分の採点じゃ、百点満点に花丸を付けられる。

 ステージの上でここまで息が乱れたのは初めて。

 すごく疲れちゃった。

 疲れちゃったけど、今までで最高の気分。

 笑顔のまま舞台裏に走って、Pチャンとタッチを交わした。

 その時にPチャンも、最高の出来だ、って言って頭を撫でてくれた。

 あとは、相手のライブを見て、お客さんが良いと思った方のボタンを押して、結果が決まる。

 どうなるかは、神のみぞ知る。

 ただ、少なくともみくは、みくに出来る最大限の事をした。

 それは確かだと、胸を張れた。
 相手のライブも終わり、投票。

 結果が出るまでの時間は、それほど長くない。

 ないのだけど、酷く時間の流れが遅い。

 以前のみくなら、ぼーっとしている内に結果が出て、お決まりの言葉を相手に伝えるだけだった。

 でも、勝ちたいと願う今は、そんな余裕なんてない。

 顔の前で手を組み、祈る。

 そして、ステージの後ろ側にあるスクリーンに映し出されたのは――
 ……相手の名前だった。

 呆然とする。

 膝が崩れ落ちそうだった。

 目に涙も浮かぶ。

 悔しい。

 それだけが頭を占める。

 けど、我慢した。

 悔しいけど、相手の方がお客さんの心を掴んだ。

 なら、伝えるのは涙じゃないよね。

 無粋な物は、華やかな舞台の上には似つかわしくない。

 硬く握った拳を、食い縛った歯を、静かに緩めて、相手の子へ顔を向ける。
みく「あ〜あ、負けちゃったにゃ。けど、次は負けないにゃ。あと……おめでとうにゃ!」

 上っ面だけじゃない。

 心の底からこの言葉が言えた。

 みく個人としては、ある意味満足した。

 悔いは……あるけど、それでも、みくは成長したんだって思えたから。
 でも、舞台袖を見たくはない。

 Pチャン、失望した?

 幻滅した?

 不安が胸を締め付ける。

 アイドルとして出来た居場所を失うんじゃないかって。

 ……ごめんなさい。

 ごめんなさい、Pチャン。

 そう思いながら、舞台袖に向かった。

 アイドルであるみくの帰る場所は、Pチャンのいる所だけだから。

 そこで、見たのは――
P「ごめん……ごめんな、みく……」

 袖で涙を拭いながら謝るPチャンの姿だった。

 何度も何度も、ごめんって言いながら。

 なんでPチャンが謝るの?

 Pチャン、なにも悪い事してないよ?

 みくが悪いんだよ?

 Pチャンの期待に応えられなかったみくが。

 そう、言おうとした。

 でも、言葉にならなかった。
 我慢してた涙がね、溢れちゃったの。

 自分じゃどうしようも出来ないくらい、沢山。

 負けちゃった悔しさと、みくの居場所がなくならなかった安心感がごっちゃになって、わけわかんない。

 子供みたいに、みくは泣いちゃったんだ。

 Pチャンと一緒に。

 それでね、この時に改めて思ったの。

 みくのために、こんなに涙を流してくれるPチャンの力になろう、って。

 周りから、すごいプロデューサーだ、ってPチャンが思われるほど強くなろう、って。

 もう誰にも負けず、Pチャンと一緒に、一番高い所に立ってみせる、って。
 帰りの車の中、みくは尋ねてみた。

 ずっと心にしまってた疑問。

みく「……ねぇ、Pチャン。Pチャンは、どうしてみくの事を大切にしてくれるのかにゃ?」

P「自分のアイドルなんだから、大切にするのが当たり前だろ?」

 運転するPチャンは、みくの質問に首を傾げた。

 泣き過ぎちゃって、目が真っ赤。

 みくも人の事言えないと思うけどね。

みく「みくが事務所を移籍する前から、みくを心配しててくれたにゃ。もしかして、同情にゃ?」

P「まぁ、それがなかったと言ったら、嘘になるな。でも、それ以外の理由もあるんだぞ」

みく「どんにゃ?」

 Pチャンは子供っぽく笑って、教えてくれた。

 とても簡単で、プロデューサーのPチャンらしい答え。

P「このつまらなさそうにしてるアイドルが、心から楽しそうに歌って踊ったら、どれだけの笑顔で溢れるんだろう、って」
十一ヶ月後


みく「それがみくとPチャンとの思い出なのでしたにゃ。はい、拍手にゃ!」

莉嘉「そんな事があったんだね」

美嘉「大変だったね、みくちゃん。ところで……」

みく「にゃ?」

美嘉「途中にあった、プロデューサーの変態話は実話?」

みく「実話にゃ。おっ、丁度良い所にさっちゃん」

幸子「なんですか?」

みく「大体一年くらい前、Pチャンに足を舐められそうになった事、覚えているかにゃ?」

幸子「あぁ、ありましたね。ボクの常識外れなかわいさのせいでしょうが、あれは引きました。人通りが少ないとはいえ、普通に外でしたし」

みく「ほらにゃ」

美嘉「うわぁ……」

莉嘉「Pくん……」
P「おっ、全員ここに揃ってたか。みんなに話が……ん? なんか、みんなの俺を見る目、冷たくない?」

幸子「なんの用ですか? 変態プロデューサーさん」

美嘉「せめて、外は控えた方がいいと思うよ、変態プロデューサー」

莉嘉「その……アタシも今回の変態具合はフォロー出来ないよぉ……」

P「なんで変態扱いされてんの!?」
みく「にゃははっ。Pチャン、過去は語り継がれていく物にゃ」

P「お前か! なに話した!? 怒るから言ってみろ!」

みく「怒られるのは嫌にゃ。だから、黙秘権を行使するにゃ」

P「……ほう。なら、今回の件は丸々白紙にしてやろうか?」

幸子「なにかあったのですか?」

P「方々を駆け巡って得た、東京ドームと武道館のライブ。残念だけど、キャンセルしようかなぁ」

幸子「やっと来ましたね、ボクに相応しい舞台の一つが。そういうわけで、みくさん、さっさと謝って下さい。主にボクのために」

みく「早速さっちゃんが裏切ったにゃ!?」
美嘉「アタシと莉嘉も出られるの?」

P「ゲストって形で悪いけどな。幸子とみくが、ウチの事務所のアイドルになった一周年記念ライブだから。でも、最後は四人で締める予定だ」

莉嘉「みくちゃん、観念した方がいいよ?」

美嘉「早く謝らないと、みくちゃん」

幸子「ほら、遠慮せずに」

P「さて、どうする?」

みく「四面楚歌にゃ!? でも、みくは自分を曲げないよ!」


 まぁ、なんだかんだあったけど、みくは今、とても幸せです、にゃ。
終わり

なんか猫じゃなくて犬っぽくなったけど仕方ないね
読んでくれてありがとう

18:37│前川みく 
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